七十五

 二十八日月曜日。すでに三十度を超えている。朝十時ごろドアがノックされた。足音から菅野だとすぐわかった。
「開けてくださーい、荷物いっぱい」
 ドアを開けると、ガスレンジを抱えた菅野が立っている。足もとに電気釜が置いてある。
「お手数かけます」
「いったん置いときますよ。水屋と下着を取ってきます」
「手伝います」
「殿さまはじっとしててください」
 やがて、ヨイショ、ヨイショと小ぶりな食器棚と二つの段ボール箱を抱えて階段を昇ってきた。
「シンクのそばに置かないほうがいいな。畳の上がり口にしましょう」
 漆喰壁にピタリとつけて置いた。シンクの前壁にインスタント棚も設え、ダンボールの箱の一つは食器だから、洗ってから水屋に納めるようにと言って台所洗剤とスポンジを置く。炬燵テーブルの上のコーヒーカップを見て、
「ふうん、コーヒーカップ一個で生活開始だったんですか。豪快だなあ」
 鼻歌を唄いながらガスレンジを取りつけはじめる。
「このヌルヌルも取っておこう」
 磨き粉と洗剤をタワシにつけて、ガス栓の分厚い油汚れをきれいに落とす。
「なんか、神無月さんとこうしてると、温泉に浸かってたときよりもアガっちゃうな。自分が世話女房の気がしてくる。女がホレるのはあたりまえですな。山口さんが命懸けなのもわかりますよ」
 手際よくレンジが取りつけられた。マッチを摺って、ガスの勢いを確認する。ついでに煙草も点けた。うまそうに吸いながらシンクに灰を落とす。
「電気釜を置く場所がないから、ごはんは炬燵の上で炊いてください。なんだ、小箪笥もないんだ。下着なんか入れられないな。うん、押入れ箪笥のほうが場所を取らなくていいでしょ。今度持ってきます。半年も暮らすんですからね。不便のないようにしないと。机の脇にローテーブルも必要だな。ゴミ籠もなしと。しかし、きれいな部屋になった」
 水道をひねって煙草を消し、ティシュに包んでポケットにしまった。
「箪笥、ローテーブル、クズ籠」
 と呟いている。
「そのうち適当にドアの前に置いときますから。さ、いきましょ。半年振りの山口さんだ」
 用意してきた新聞紙で古いガスレンジをくるみ、段ボール箱からはみ出すように入れると胸前に抱えた。私は感心し、
「すべからく、人間はこうあるべきですね」
「どうあるべきですか? こんなことは人にやらしときゃいいんですよ。神無月さん、ドラフトが近くなって、ポツポツ新聞に出はじめましたよ。ドラフト指名拒否の最有望選手ってね。模擬試験のことも載ってました。旦那さん小躍りしてましたよ。勉強でも日本一なのかってね」
「ただの模擬試験ですよ。学問じゃありません。ぼくのは、入試に受かればいいだけの〈お勉強〉です」
「……おっと、病気が始まっちゃった」
 窪地に停めてあった車に乗りこむと、曇り空が明るくなってきた。それほど暑い陽射しではない。
「きょうあすあたりから秋らしくなるって予報でしたよ。山口さんがいるあいだは、雨もないでしょう」
 北村席の玄関に乳飲み子を抱えたトモヨさんが、主人夫婦といっしょに出迎えた。すっきりとしたスカート姿だ。
「お腹がへこんでる!」
「腹帯をしてるんですよ。早くもとに戻すためです」
 主人が、
「さ、神無月さん、上がってコーヒー飲んで。おトキ、菅ちゃんがきたぞ、すぐ出かけろ」
 少しおしゃれをしたおトキさんがちょこちょこ出てきて、菅野の車に乗った。女たちの冷やかしの笑い声が聞こえた。女将が直人をトモヨさんから抱き取って、私に示した。覗きこむと、じつにかわいい。玉と表現するのもわかる気がする。クマさんの赤ん坊にやったように、頬をつつく。キョトンとしている。もう一度指を差し出すと小さな手で握ってくる。菅野が運転席から、
「直人は特にかわいいですよ。うちのガキとは大ちがいだ」
「菅ちゃん、早くいってこい」
「ほーい、焦らなくてもじゅうぶん間に合いますよ」
 車が出ていった。トモヨさんと唇だけのキスをして、居間に上がる。
「二、三日前に山口さんから、折り畳み式の乳母車と、一歳児用のベビー服が五組送られてきました。天井で回る電池式のガラガラも。乳母車はまだ使えませんけど、ガラガラはもうマンションの部屋に取り付けました」
 こんなことを母が知ったら卒倒するだろう。もしこれまで母の意味ありげな忠告の数々をあれほど頻繁に拒絶してこなかったら、いまの私はもっと彩りのない生活を送っていたにちがいない。
 ―母にはこのことを終生の秘密にする。告げれば、どういう手段かわからないが、彼女は確実に私を悶死させる。
 カズちゃんと素子が賄いといっしょに立ち働いている。台所からカズちゃんが、
「文江さんがリハビリを兼ねて遊びにくるわよ。太っちゃって、あと五十年は生きるって感じ。節子さんも夜にくるって。コーヒー入ったわよ。トモヨさんはだめ。お乳にカフェインが入っちゃうから」
 濃くてうまい深煎りのコーヒーを飲む。クマさんとコーヒーとアップルパイ。あのころはコーヒーの味などさっぱりわからなかった。山口に教えてもらったフィルターコーヒー。生まれて初めて、うまいと感じた。ふと、この二年のあいだ、友と呼べるほどの人物は山口しかいなかったことにあらためて気づいた。彼の理路整然として情熱的な語り口が無性に恋しい。
 トモヨさんがプラムとサクランボを盛った大皿を持ってきた。カズちゃんと素子が腰を落ち着け、賄いも呼ばれた。トモヨさんは人前も憚らず直人に乳をやる。素子が直人の口もとを覗きこむ。父親が、
「いよいよ、十一月に着工ですわ。店を建て、寮を建て、ワシらの家も建てて、ぜんぶ終わるのが二月末。三月から営業開始。何か、いい名前はないですかね、神無月さん」
「何言ってるの、おとうさん。キョウちゃんに失礼よ」
「失礼なことがあるかい。ワシはアイデアを訊いとるだけや」
 私は首をひねり、
「湯の里、カーザビアンカ、青い窓……」
「何ですか、カーザなんとかってのは」
「白い家という意味です。響きがいいでしょう? それとも、関白の里、シャトー鯱、など地元性を出すか。トルコひつまぶし、メンズういろう、なんてのはふざけすぎだな。まったく荒唐無稽に、戦艦、元帥、大東亜、八紘一宇、なんて勇ましいのでいくか。まじめに、北村学校、ふるさと、潮騒、などでいくか。いや、桐壺とか、源氏、天女、羽衣といった、あたかもというのでいくか」
 女たちがワーッと拍手した。
「すごいですな、神無月さん、あっという間にそれだけ浮かんでくるというのは。最初二軒は出すつもりですから、シャトー鯱と、羽衣でいきます」
 カズちゃんがこらえ切れずアハハハと笑うと、一同大爆笑になった。
「キョウちゃん、羽衣はヒットよ。男のスケベ心をじゅうぶん刺激する名前よ。実際、お店の北のほうに羽衣という町があるしね。シャトー鯱は、二号店とか三号店というふうに手を広げられそうな名前だわ。ほんとに、何でも才能あるんだからまいっちゃう」
「ぼくは、湯の里とか北村学校が好きだけどな」
「渋いところね。詩人とか小説家なら吸い寄せられるかも知れないけど、そういう人は少ないでしょう。大好きよ、キョウちゃん。ね、トモヨさん」
「はい、気が狂っちゃうほど好きです」
 狂っちゃう、狂っちゃう、とまた爆笑になった。素子が、
「私は、トルコひつまぶし、メンズういろう、みたいな、わけのわかんない、ふざけたのが好きやけど、お店で働く子がガックリきてまうかもしれんね」
 笑いが止まない。母親まで腹を押さえて笑っている。父親は私の顔をじっと見て感激していた。
 子供を胸前で寝かしつけたトモヨさんは、指でプラムの皮を剥いた。だれに勧めるともなく小皿に載せてテーブルに差し出す。
「スモモの樹の下には―」
「桜の樹の下には、でしょ?」
 カズちゃんが訂正する。
「いや、スモモの樹の下には、ミースケの死体が埋まっている」
 目玉を刳り抜かれてスグリの垣に吊るされたミースケの話をする。父親が、
「そりゃ、食い物を盗んだからというよりも、殺したやつの精神の事情やね。針金を丁寧に撚(よ)って吊るしてるわけやから、まともやない。そんなやつは捕まえても、反省したり謝罪したりするアタマがないから、捕まえ甲斐がない」
「怒りという感情が芽生えた最初でした。精神異常なら簡単だ。あきらめればいいから。正常な人間のやったことなら許せない。見つけ出して懲らしめなくちゃいけない。目には目を」
 そんなことを言っているところへ、菅野の車が着いた。居間にいた連中みんなで玄関に出る。ギターケースを提げた学生服姿が颯爽と降りてきた。おトキさんが反対のドアから降り、そそくさと台所に入った。私は山口に駆け寄って握手した。山口は強く握り返し、
「またまた美男子になりやがって」
「山口こそ」
 カズちゃんが、
「いらっしゃい、遠路はるばる」
 主人と女将が握手し、トモヨさんと素子がお辞儀する。
「ん?」
「兵藤素子です。お姉さんと暮らしてます。きょうは楽しみにしてました」
「なるほど。和子さんと同じ目の輝きをしてる。和子さん、トモヨさん、相変わらず尋常ならざる美しさですよ。どれどれ、こいつが直人か。うーん、いい男だ。神無月の神秘性を加えたら、余人の追随を許さないスケコマシになるな。末恐ろしい。いやあ、お店の女の人たちもみんな、まぶしい。机の蛍光灯の毎日から脱出したとたんに、家の中の太陽で目をやられてしまいそうだ」
 と言いながら、しばらく直人をいじりまくる。トモヨさんが、
「いろいろ送っていただいて、ありがとうございました。使い勝手のある贈り物で、重宝させていただいてます」
「いやいや、光の君にお役に立てば、これにすぐる喜びはありません」
 カズちゃんが、
「何お武家みたいなやりとりしてるの」
 菅野が愉快でたまらないというふうに笑っている。主人が山口の肩を叩いて、
「ま、ま、中へ。こんなにお世辞がうまかったかなあ、山口さんは」
「机にばかりいて、ふつうの会話言語を忘れてしまいましたよ」
 居間に腰を落ち着けたとたんに、おトキさんがコーヒーを出した。
「ああ、自分の家にいるように落ち着く」
「ありがとうございます」
 母親が頭を下げる。私が、
「おトキさんを褒めてないぞ」
「いちばんの美人を褒める必要はない。みんな傷つく」
 おトキさんがうつむき、ケラケラと女たちが笑った。
「キュッといきますか」
「天下の十八歳。いただきます」
 ふと自分も十八歳だったのだと気づく。十本、二十本とビールが運びこまれる。女たちがつぎ合う。主人が私と山口につぎ、おトキさんが主人夫婦とカズちゃんと素子と菅野につぐ。カズちゃんがおトキさんについだ。父親が音頭をとる。
「ようこそ山口さん、乾杯!」
 みんなで飲み干す。山口が、
「ちょっと抱かせてください」
 トモヨさんに両手を差し出す。直人を胸に抱き、顔を近づける。
「ほいほい、キョウ二世。十八歳おやじの秘蔵っ子だ。すくすく育てよ」
 そう言いながら泣き上戸の山口はもう泣いている。私を見つめ、
「神無月、この子を泣かすなよ。つまり……」
「生きるよ。みっともなく、人間らしく、長生きする」
「そうだ。もうすでにおまえは全国レベルの有名人だ。親が有名だということは、たとえそれが人生の一瞬だとしても、子供孝行にはなる。あとはちゃんと生き延びてやって、一瞬でない孝行をしないとな」
「私たちのためにもよ」
 私は、カズちゃんとトモヨさんにも大きくうなずいた。


         七十六 

「神無月、認知はどうなってる。たとえ未成年者でも認知届の父母欄に名前を書くことができるんだ。それを役所に送ってやればいい。その子は嫡出になるわけじゃないけど、少なくともテテなし子でなくなるぞ」
 トモヨさんが、
「その件は心配しなくてもだいじょうぶなんです。認知届の父親の欄が空いていても、国からの援助は少しも変わらないんです。郷くんの経歴を傷つけるわけにはいきません。北村のおとうさんに養子縁組をしていただいて、直人の将来には何の心配もなくなりました。嫡出とか非嫡出よりも、そのことのほうが直人の将来のためには重要です。病院の入退院の手続もつつがなくやっていただきましたし、出産費用まで払っていただきした。これ以上の幸せはありません」
「そうですか、そうすると、子供孝行は北村さんの手に預けられるな。しかし北村さん、父親が神無月であることは、いずれしっかり教えてやってくださいね」
「もちろん。名誉の子であるのは神無月さんとトモヨの手柄ですから。父母はこの二人だと教えこみます」
「神無月も、直人が幼稚園、小学校にいくようになったら、しょっちゅう顔出さんといかん。直人がホラ吹きにされてしまう。父兄参観も、マスコミの目がないときは、きちんと出席しないとな」
 カズちゃんが、
「ちょっと待って、山口さん。おとうさんもおかあさんも、よく考えて。子供が生まれた喜びは、それはそれですばらしいことよ。みんなで祝福しなくちゃいけないでしょう。でもその喜ばしいことが、キョウちゃんの未来を妨げるものであっちゃいけないわ。直人に教えるのは、せめてプロに入ってからでも遅くはないと思う。未成年者だと、とやかく言う人も少なくないでしょうし。キョウちゃんが二十歳になったら、直人は二歳。そろそろもの心もついて、ぼくのおとうちゃんは野球選手だって自慢したくなる年ごろでしょう」
 主人が、
「直人もアタマがハッキリしてくるころやな」
 トモヨさんが、
「私は、親戚のおじさんで通そうと思ってます。それがいちばんいいと思うんです。直人や私たちの顔よりも、郷くんの顔を立てることがいちばんです。そのほうが直人もいじめられません。有名人の子はよくいじめられますから」
 山口が、
「うん、なるほどね。しかし、父親はだれかと直人が訊く年齢になったら、どうします。神無月の都合なんか気にしてられませんよ」
 女将が、
「そのときは正直に言いましょうわい。恥ずかしいことやないんやし。あっちこっちで言わんようにしときって直人に言えばすむことやろ。自分の顔と見比べて直人も信用するやろうし、名誉に思うやろうし、うれしがるやろ」
 カズちゃんが、
「おかあさん、ほんとに油断しちゃだめよ。とにかくプロにいくまでは、キョウちゃんの将来の可能性の芽を摘んじゃいけないの。私がキョウちゃんの子供を産んでもそうするわ。親の名誉を子供が背負ってどうするの。子供は独立した人間よ。産んでもらったことだけを感謝して、自力で成長していかなきゃいけないわ」
 トモヨさんが、
「そのとおりだと思います。プロにいってからでも、郷くんが親だなんて言っちゃだめです。郷くんの身動きのじゃまをするようなことはぜったいだめです。郷くんはあくまでも親戚のオジサン。ときどき遊びにきてくれるだけで、じゅうぶん幸せ。それ以上何を望みますか」
 山口はグイとコップをあおり、
「ふう! 俺もそうするかもしれないな。おまえの永遠の敵は世間だからな。おまえを愛する人間は世間じゃない。だから世間にはよくよく気をつけなくちゃいけない」
 素子が、
「キョウちゃんの子供を産むというのは、こういう重たい覚悟のいることなんやね」
 私は、
「流れのままでいいんじゃないかな。たとえぼくが世間の目に適わない人間でも、野球の才能を惜しむなら、しばらくは取って食う気にならないでしょう。その間、一本でも多くホームランを打ちますよ」
 玄関に人の気配がして、こんにちは、と文江さんの声がした。カズちゃんと主人夫婦が出て、
「いらっしゃい!」
 と歓迎した。私は山口に目で合図をして、いっしょに玄関に出た。素子もついてきた。山口は何者かという眼で文江さんを見つめた。
「滝澤文江さんだ」
「はじめまして、滝澤でございます」
「山口です」
 文江さんはトモヨさんに抱かれた直人の顔を慈愛に満ちた顔で覗きこんでいたが、女将に肩を庇われて、テーブルに着いた。
「退院は、来月やの?」
「はい、あと何日もなく」
 文江さんの手術の話を女将に聞かされていた山口が、ハッと思い当たったふうに、
「滝澤って……」
「そう、滝澤節子のお母さん」
「おいおい、どういう絵図になってる? いや、何を聞いても驚かんけどな」
 菅野が、
「山口さん、単純な図ですよ。神無月さんは吸い取り紙ですから」
 素子がフフと笑った。カズちゃんがコーヒーのお替りをみんなに置きながら、
「キョウちゃんが親子で面倒見ちゃったの。この大門で奇跡的に偶然めぐり会ったんだから仕方ないわね」
「ふーむ、おまえを青森へ送りこんだ張本人の母親か。おもしろい」
 文江さんはひっそりと笑いながら、
「節子も後悔して、やっぱりキョウちゃんしか愛しとらんとわかって、いまはキョウちゃん一筋です。別れてからも、三年間ずっと貞操(みさお)を通してたんですよ。キョウちゃんには広い心で許していただきました」
「……単純に、それでいて回りくどく納得したんだろう。神無月のことだから」
 カズちゃんが、
「文江さん、キョウちゃんの友だちはこの山口さんしかいないから、もうだれにも説明する必要がないのよ。安心してね。それより、精密検査でおかしなところは見つからなかったの?」
「はい、どこにも転移はみつかりませんでした」
 女将が、
「椿町にいいお家が見つかったんよ。玄関が広くて、すぐ上がったお部屋が十畳で、玄関先に台所、奥にお風呂、トイレ。二階が六畳二間。上で暮らして、下を教室にできるでしょ。長机を三脚注文したから、生徒は十人程度採れるわよ。来月の好きな時期から始めればええわ。新聞の折込はもう頼んどいた。書道三段やったよね」
「はい。まだまだふつつかな腕ですけど」
「たいしたもんやわ。テレビ塔で手相なんか見とって、宝の持ち腐れやったやないの」
「ほんとにありがとうございます。お礼の申しあげようもございません。使い慣れた筆は節子が持ってきてくれよりましたから、あとはいろいろと整えて開塾に備えます」
「うちの子たちも何人か通いたい言っとるもんで、よう教えてやってください。一年も経って軌道に乗ってきたら、家賃は自前でお願いね」
「それはもう。和子さんにもよくしてもらって。早くご恩返しできるよう、がんばります」
「有名な書道塾にしましょう。あんたらもよう宣伝したってや」
 ハーイと女たちが声を上げる。
「遅くなりました。そろそろ、ごはんにしますよォ」
 おトキさんが台所から声を投げた。文江さんが立っていき、
「うわあ、この台所、二十畳はありますね。賄いさんが十人もいよるわ。私もお手伝いしましょ」
「よしなさいよ文江さん、病み上がりなんだから。トモヨさんもおとなしくしててよ」
 代わりにカズちゃんが立っていく。きょうも豪華な食卓だ。サンマの塩焼き、サーモンの刺身、いわしの梅煮、味つけシイタケと小エビを載せた湯葉とスダチの煮麺(にゅうめん)、蓮根のシチュー、マツタケとチキンのソテー、カボチャ煮、サトイモとスルメイカの煮物。ポツンとトウモロコシを盛った皿がうれしい。私が手を伸べると、父親も素子も争うように手を出した。笑い合う。大座敷につづいて、賄いの食卓も用意される。
「さあ、日本一のご馳走を食うぞ」
 山口が箸を取ると、大座敷もいちどきに煮麺をすすりはじめた。おトキさんが、
「トモヨさん、お乳のためにお腹いっぱい食べて」
「はい、いただきます」
 女将が直人を預かり、帳場部屋の隅の揺り籠に寝かせる。トモヨさんが、素子や文江さんに語りかけながら食べはじめる。
「私も郷くんに拾っていただかなかったら、いまの幸せはなかったんですよ。郷くんが気に入った女は、ぜんぶ、お嬢さんが庇ってくれるんです。お嬢さんが庇えば、旦那さん夫婦が庇う。でも、郷くんはだれでもかれでも気に入るわけじゃありません。身を捨てて尽くすような女ばかりです」
 菅野が、
「殿さまだから、あたりまえですよ。殿さまが死んだら、腹切らんとね」
 主人が菅野のコップにビールをつぎ足した。山口が、
「俺も捨ててます。少なくとも、捨てたような気持ちでいる」
 その言葉を聞いて文江さんは、
「こんな婆さんがおこがましいんですが、私も……」
 主人が、
「おいおい、みんなで身を捨てとるはないやろ。身なんか捨てずに、神無月さんと楽しく暮らそうや」
 山口のコップにつぐ。山口はお替りのどんぶりを差し出した。
「そりゃそうですね。俺だってこの身を生かしたい。ギターがそれです。捨て身でものごとをやるということです。これから神無月は、受験だ、野球だで忙しくなる。捨て身でしぶとく生きてくれるでしょう。俺も同じです」
 素子が、
「ねえお姉さん、なんでいつも、みんなでキョウちゃんのことを気にかけとるん? こんな強い、捨て身の人おらんと思うけど」
 カズちゃんが、
「そうね、キョウちゃんはそういう人ね。でも風邪を引きやすい人がいるのと同じで、キョウちゃんは〈死にやすい〉人なの。風邪を引きやすい人には、からだに気をつけて、とか、風邪を引かないようにって、ときどき声をかけてあげるでしょ。それといっしょ。生きてください、ってときどき声をかけてあげるの。おトキさん、このカボチャスープ、おいしい! 節子さんの分もとっといてね」
「たっぷりあります。トモヨ奥さんが腕を揮ったんです。おかずもすぐ用意できます」
 小盛りで、と言って、山口が三杯目を差し出した。
「滝澤節子もくるんですか。いよいよ、お目にかかれるなあ。俺の中の有名人だ」
「私どもも初めてなんですよ」
 おトキさんが言う。女将が、
「トモヨのお産のときにお世話になった人やが」
 トモヨさんが、
「子猫みたいなかわいらしい人です。文江さん、節子さんはあなたに似てないけど、お父さん似ですか?」
「きっとそうやろね。亭主の顔は忘れてまったわ」
 さばさばと言う。三人ほど、着物姿になった芸妓が、
「いってきまあす」
 と言って、一膳めしを食い終えた菅野といっしょに出ていった。主人が残った店の女たちに、
「トルコになったら、ああいう面倒な〈お出かけ〉もなくなるぞ。いやな野郎の座敷に出てヨイショしなくてもよくなる」
 私は煮麺を完食し、サトイモとイカの煮つけで一膳めしを食い終え、二本目のトウモロコシに手を出した。賄いの卓はすでに片づけにかかっている。いつ箸を使っていたのかわからなかったけれども、主人夫婦も食べ終えて仲よく煙草を吸っている。私はトウモロコシを齧りながら、帳場部屋の隅の揺り籠へいった。トモヨさんもついてきた。すやすや寝ている。つい頬をつつきたくなるが、がまんする。
「かわいいなあ。この世の生きものと思えない」
「ほんとに。夜泣きする子と、しない子がいるんですって。この子はしないタイプみたいです」


         七十七 

 山口がやってきた。
「貧窮問答歌」
「山上憶良、反歌」
「しろがねも、こがねも、たまも、なにせむに」
「まされるたから、こにしかめやも」
「そのとおりじゃないか、この無垢な寝顔を見ろよ。……そっくりだな、おまえに」
「ほんと」
 トモヨさんがやさしい目で直人を見下ろした。
 台所の騒音が止み、緑茶とコーヒーのにおいが立った。トモヨさんが、お部屋で寝かしてきますと言って、直人を抱いて廊下へ出ていった。
「そろそろ、おまえの声を聴きたいな」
「一曲か二曲。一つは菅野さんが帰ってきてから。君こそわが命」
「うん、水原弘か。残りは」
「決めてない。三日間で十曲まで。それ以上はきつい」
「だな。あとは春と同じように、俺がギター演奏のリクエストを受けよう」
「節子にはぼくの声を聴かせた。聴いてないのは、文江さんだけだ。一曲は彼女のリクエストにしよう。サム・クックのア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム、唄えるか」
「唄える。十年前にユー・センド・ミーでデビューした歌のうまい男だな。歌詞が政治的に過激なんで、公民権運動の旗手と目されて暗殺された。友人のマルコム・Xもおととし殺された。そろそろキング牧師もモハメド・アリも危ないな」
「友人なの?」
「キング牧師はちがうが、アリは親友だ」
「アリはだいじょうぶだよ。国民的英雄だから」
「そう願おう。クックもキングも黒人の英雄だ。危険この上ないというわけだ」
「今夜は早めにおトキさんと床入りしろよ」
「ああ。わくわくする」
 ごめんください、と玄関戸が開いた。カズちゃんと素子が出て、
「あら節子さん! 早かったわね。お上がりなさい。みんなお待ちかねよ」
 浅葱のタイトスカートにエリの大きな白いシャツを着ている。浮いたところのない清潔なたたずまいだ。カズちゃんに頭を下げ、
「先日は知多でお世話になりました」
「よかったわね、お家の掃除ができて。日赤から歩いてきたの?」
「家に戻って着替えてから、タクシーに乗ってきました」
「菅野さんにいってもらえばよかったんだけど、ちょうど出てるところなの」
「兵藤素子です。よろしく」
「こちらこそよろしく。滝澤節子です」
 そこへ菅野が女たちを連れて帰ってきた。
「よう、節子さん、いいところへきたね。神無月さんの歌と山口さんのギターが聴けますよ。これで神無月さんの〈官女〉が一堂に会したわけだ。見ものです。おたがい顔見知りってのがすごいじゃないですか」
 節子は主人夫婦に畳に手をついて、お呼びいただきましてありがとうございます、と叩頭すると、文江さんの隣に坐った。菅野が主人にビールをつがれて、皿に箸を伸ばす。山口がやってきて、じっと節子を見つめた。節子は山口にも手をついた。
「滝澤です」
 山口は軽く会釈を返し、
「山口勲です」
「キョウちゃんや菅野さんから、お噂はかねがね」
「こちらも神無月から、二年ほど、ぶっ通しで。なるほど子猫か」
「え?」
「いや、予想のほか、悪女っぽくない。芯がありそうだ」
「悪女でした。でも、すっかり改心しました。もうだいじょうぶです」
「神無月の広大な心に免じて、彼のむかし話は忘れましょう。三年間の貞操は感動的だし、じつに愛らしい、きれいな人でもあるしね。……神無月の好みの顔だ」
 じっと節子を睨んだ。その二人の様子をカズちゃんも文江さんも不安そうに見つめている。素子は猛烈な勢いで頭を回転させて理解しようといるのか、かえってそのせいでキョトンとした顔つきになった。
「お腹すいてるでしょう」
 おトキさんがカボチャスープを持ってきて節子の前に置いた。節子は礼をして、もじもじ皿とスプーンを手に取った。
「おいしいですよ、トモヨ奥さんが腕を揮ったスープです。お嬢さんが、節子さんに飲ませたいっておっしゃって」
 節子の目が心なしか潤んでいる。スプーンを口に運んですする。
「おいしい―」
 カズちゃんが、
「きょうはゆっくりしてってね。今度のことではほんとにトモヨさんがお世話になりました。しょっちゅう病室を見舞ってくれたそうで、ありがとうございます。お母さんのことで忙しかったのにね」
 おトキさんが、
「いまごはんをお出ししますから、どうぞテーブルのものを適当につまんでおかずにしてください」
 おトキさんは節子におさんどんをした。カズちゃんが、
「外帰りの女の子たちも食べて。そろそろ歌とギターが始まるわよ」
 女たちも箸をとり、ビールをつぎ合う。おトキさんが、
「骨付きウィンナーと、野菜の煮込み、それとイカ焼そばもおいしいですよ」
 カズちゃんが、
「おとうさん、おかあさん、あらためて、こちら中村日赤の看護婦さんの滝澤節子さん」
「産科病棟の滝澤さん、ですな。何度かお会いしとりますよ」
「キョウちゃんが中学校以来の心に秘めてた人。一度別れたけど、めぐり会う運命だったのね。大門に住んでたのよ。驚かない?」
 素子がなるほどという顔でうなずいた。一座の人間関係をすべて理解し終えたようだった。父親が、
「神無月さんが起こした奇跡ですな。滝澤さんを引き寄せたんやろう。別れられない運命やったんや」
 女将が、
「よかったわいな、巡り会えて。和子は小学校五年生の神無月さんに惚れこんで、それ以来べったりやよ。二十五歳の女が、十歳の男の子にな。男と女は宿命ですよ。それを大切にしてくださいや」
「はい」
 カズちゃんが、
「おトキさんなんか、もう五十よ。そのおトキさんに、山口さんはビビッときて、ちゃんと結ばれて、いまもこうやって年に二回逢いにくるの。すてきでしょう」
「……はい。そういう人たちの集まり自体が、言葉に表せないほどすばらしいです。……キョウちゃんのおかげで、私も母も、毎日充実して暮らしています。そのうえ、和子さんには一方(ひとかた)ならぬお世話になって」
「それはいいの。みんなで手をとり合って生きていきましょ」
 トモヨさんが直人を寝かしつけて戻ってきたのを確かめて、山口が、
「文江さん、何か歌のリクエストありますか。知ってるかぎりやりますよ」
 大座敷の女たちが、といっても、きょうは帰還組も加えて五、六人しかいなかったが、ワッと歓声を上げた。賄いたちもぞろぞろ出てきた。
「山口さん、いよいよいきますか」
 主人の言葉にみんな浮きうきとステージ部屋の隣座敷に移動する。節子母子も素子もカズちゃんに連れられて移動した。素子が、
「何、何?」
 とカズちゃんに尋いている。
「歌と、ギター。びっくりするわよ」
 ステージにライトが点き、山口が椅子に座り、私は彼の譜面台のそばに寄った。譜面に歌詞は記載していない。節子が目を輝かせている。カズちゃんが文江さんの口に耳を寄せ、何かうなずき合っている。
「山口さん、文江さんが中学校のときに流行った、東海林太郎の国境の町ですって」
「おい、神無月、いけるか。俺はなんとか弾けるが」
「いや、ソリの鈴さえ悲しく響く、という出だししか知らない。カラオケにはあるんだろうけど、文字を見て唄いたくない」
「すみません、うろ覚えでできません!」
 山口が文江さんに告げる。節子が文江さんに耳打ちしている。節子はステージを向き、
「それじゃ、あの、母が私の幼いころ、よく唄ってくれた歌があるんです。長崎の鐘という曲なんですが、知ってますか」
「知ってる。古山がいつか、たしかバス旅行のときに唄ってた曲だ。山口、おまえとぼくが生まれた年の歌だけど、もちろん弾けるよな」
「もちろん。……ええと、じゃ、それ、いきます。文江さんはいま何歳ですか」
「四十九です」
「一九十八年生まれですね。この歌は昭和二十四年、文江さんが三十一歳のときの歌です。節子さんはいくつでした?」
「六歳……」
「記憶が鮮明になるころですね。いい歌ですよ。反原爆の歌です。たまたま青森高校の同級生に懐古趣味の男がいて、バス旅行のときにこの藤山一郎の曲を唄ったので、神無月がその場で覚えました。サトー・ハチロー作詞、天才古関裕而作曲。四番までの歌です。神無月、何番を唄う?」
「一番と四番」
 縁側の戸が締められ、明るいスポットライトが灯る。徐々に弱い光になる。菅野が操作していたようだ。
「じゃ、いこう。拍手は歌のあとで」
 と山口は言って、ドラマチックな前奏を弾きはじめた。私は唄い出した。

  こよなく晴れた青空を悲しと思う切なさよ
  うねりね波の人の世にはかなく生きる野の花よ
  慰め励まし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

 素子が思わず手を拍ちかけた。驚愕した顔つきだ。間奏。ザッ、ザッとかすかなスタッカートがつづく。みんな一心に聴き入っている。節子は大きく目を見開き、ステージを見つめている。賄いたちのほとんどがうつむいている。山口は顔を暗い天井に向け、一心に絃を爪弾いている。涙を落とす寸前だ。

  心の罪を打ち明けて更けゆく夜の月澄みぬ
  貧しき家の柱にも気高く白きマリアさま
  慰め励まし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

 最終楽章のリフレインの後奏が終わる。山口が天井を向いて、ウッとうめき、片手で顔を覆った。素子が立ち上がって拍手したのにつづいて満座の拍手が上がり、山口が顔をうつむけるまで鳴り止まなかった。みんな涙を流していた。菅野は腕で涙を拭っていた。
「すばらしいぞ、神無月さん!」
 主人が叫び、咽(むせ)んだ。女将が、
「……人の声やない。神さまの声や」



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