八十一 

 肉料理の登場。
「仔牛のミラノふう料理。カツレツよ。パルメザンチーズがかかってるわ」
「ぼくは、肉は二切れがやっとだから、あとをみんなに頼みたい」
「オッケー。引き受けてやる」
「私も手伝う。肉、大好きやから」
 カズちゃんが六切れに切り分け、私に一切れだけ取ってくれて、あとの五切れのうち二切れを素子に、三切れを皿ごと山口に与える。二人はみごとに口に放りこんでいく。
「いよいよ春から六大学野球か。何度でも神宮に応援にいってやる。おトキさんが東京にきてるときは、いっしょにいく」
 カズちゃんが、
「私たちもいくわよ。せっせと」
 私は山口に、
「大学の野球部って、朝から晩までかな」
「おう、それは調べてある。野球の名門大学は、十一月、十二月がオフで、あとの十カ月は練習と遠征だが、東大と早稲田は授業重視でな、好きな時間に出て、自由練習を二時間もやればいいってことになってる。もちろん、朝の八時から一日中、好きなだけやってもいい。自由練習だから、練習に関しては一軍二軍の区別はしない。リーグ戦期間中は、午後二時からのレギュラー中心の全体練習になる。青高と同じだ」
「リーグ戦期間て?」
「春は四月の十日ぐらいから、五月末日まで。秋は九月十日ぐらいから十月の末日までだ。どちらも、基本、土日月に三試合やる。先に二勝したら土日の二試合で終わり。新人戦は初年度の六月のみ。実質三年半ということになる」
「三年半? 四年じゃないの」
「各年度の春季は、新人は出してもらえない」
「なるほど。ふだんの練習は出ようと出まいと、どっちでもいいわけだ」
「おまえは練習にも、紅白戦にも、大学対抗戦にも、初年度の春季リーグ戦にも駆り出されてしまうかもしれん。鳴り物入りだから」
「興味のない試合は断る。リーグ戦で活躍すればいいだけのことだよ。そこがクラブ活動のいいところだ。プロではそうはいかない。しかし、思ったよりぬるいな」
「そうだ。リーグ戦以外に、新人戦やオープン戦もあるが、強制じゃないだろう。従えばきりがないけどな。プロになったらどうなるのか、俺にはわからん」
 チーズが出てきた。
「こりゃ、やっぱりビールだ。ギャルソン、ビール!」
 アハハハとカズちゃんが笑った。
 ビールの乾杯をする。女三人が男二人の〈計画〉の気炎をやさしく聴いている。そもそも東大に受かるかどうかもわからないのだ。痛い目に遭うかもしれないという危惧は、彼女たちの心の底に無意識に潜んでいるだろう。しかし彼女たちは微笑んでいる。
「イチゴのタルト、桜のブラマンジェ、ブラックチェリーのアイスクリームでございます」
 コースの終わりにきた。カズちゃんに訊きたくなる。タルトはなんとなくわかる。カズちゃんも私たちの視線を察して、
「タルトは焼き菓子、ブラマンジェというのはアーモンドミルクのプリン、ブラックチェリーは見てのとおり、アメリカンチェリーよ」
「高校最後の夏休みも終わったね、山口」
 山口が晴ればれとした顔で、
「今度会うときは、おたがい、東大生だな」
「まちがいなくね」
 もうだれの耳にも壮語に聞こえない。そしてたぶん壮語にならない。
「三月三日に一次試験、五日発表、六日、七日が二次試験、二十日発表」
「二日から八日まで、試験会場の近所のホテルに詰めるよ」
「俺は自宅からかよう。早稲田も受けるから、二月から日程が詰まってるんだ」
 おトキさんが、
「ほんとにがんばってくださいね。心から合格を祈ってます」
「サンキュー。半年、死にもの狂いだ。神無月は、二次を受けたらすぐこっちに帰って上京の準備にかからなくちゃいかんな。発表の日は八坂荘で待機してろ。俺が自分の番号を確認するついでに見て、すぐ電話を入れるから」
「私たちも、山口さんの報告を受けたら、すぐ出発の準備をしなくちゃ。やっぱり、学生の家にはあれやこれやで人が訪ねてくると思うから、東京では別居するしかないわね」
 素子と二人でうなずく。
「腹いっぱいになった。じゃ、おトキさん、北村席へ帰ろうか。あした、午前の飛行機だ。ギターをみんなに一時間ほど聴かせて、ご帰還だ」
「はい、あしたは半日お休みをもらってます」
「キョウちゃんは北村席に自転車置きっぱなしでしょ。みんなで北村に帰りましょう」
「席にユニフォーム置いてあるよね」
「二着。バットもグローブも、河原のお休みをとる前の最終日に持ち帰ってる」
「あした、グローブといっしょに八坂荘に届けて。ダッフルとバットはいらない。三日の日曜日からはユニフォームを着て自転車で庄内川にいく。十分ぐらいで着く。高々十分程度のことで菅野さんの時間を半日も奪えないからね」
「そうね。じゃ、使ったユニフォームは花の木に持ってきてね。クリーニングに出しておくわ」
「わかった」
 五人で栄からタクシーに乗った。
         †
 九月一日金曜日。雨。八坂荘から傘を差して初登校。一日は始業式で、一日、二日と実力試験だ。変わったスケジュールの学校だ。
 始業式一時間。すぐに学校指定教科の実力試験が行なわれた。二日土曜日も同様。指定科目は英語、現国、古文、数Ⅲ、物理、化学、日本史、世界史、政経の九科目。数Ⅲと物理と化学と政経は私の受験科目ではないので、ほとんど得点できない。定期試験と様相が変わらなくなってきた。ただ試験範囲が不定のうえに虎の巻がないので、その四科目を二割程度の得点で流し、あとの全科目に全力を注ぐことで、羊連中とまっとうに戦うことができた。
 九月三日日曜日。快晴。快便。耳鳴り極小。ユニフォームを着、グローブを自転車の脇籠に入れ、十五分ぐらいかけて庄内川の河原へいった。ランニング代わりになった。仲間たちとウォーミングアップ、周回ランニング、ストレッチ、キャッチボール、シートノック、内野手をピッチャーにバッティング練習、二塁滑りこみ練習、最後にタイムを計ってのベーラン一周と百メートル二本。ベーラン十三・八九秒、百メートル十・九秒。猛烈に速い足になった。練習仕舞いのグランド整備まで付き合い、かなり長時間の練習をした。スタミナがついてきた。めきめきというわけにはいかないが、あごが上がるまでの時間が長くなった。帰りぎわ、ベンチ前で高江監督が部員たちに向かって、
「三年生が部を退いてから八カ月、すっかり新チームの雰囲気になった。九月から十一月にかけて、春のセンバツを目指す予選が始まる。まず愛知県大会の三位以内になると、東海大会に進むことができる。愛知、岐阜、三重、静岡から選ばれた十二校の中から四校が甲子園行きの切符を手にする。毎年覚悟を新たにし、懸命に甲子園を目指してきたが、わが名城大付属は昨年までベスト十六にすら進んだことがなかった。しかし神無月さんに三月から練習に参加していただいて以来、半年にわたって選手たちの練習姿勢にカツが入り、今年の公式戦成績はベスト十六、練習試合は七勝五敗と長足の進歩を示した。感謝!」
「オース!」
 身長と体重が身体測定以来また少し増えた感じがする。コンディションもほぼ青高時代に戻った。感謝したいのは私のほうだ。
「神無月さんは受験まであと三カ月ほど、日曜日だけきてくださる。神無月さんが去る前に、彼の技術と野球精神を盗めるだけ盗んでがんばっていこう。それがせめてものご恩返しになる。以上」
「オース!」
 山口が去って、早足で夏の終わりがやってきた。母は八坂荘に一度も訪ねてこなかった。すべてが順調に滑り出した。
         †
 十月四日の月曜日から二学期の授業が始まった。
 味噌汁に玉ポン、一膳めしを食い(私の作れる料理はこれ以外にはキャベツの油炒めだけだ)、八時、さわやかな気分で八坂荘を出る。名古屋西郵便局の野球グランドを過ぎ西高の正門に到る。用務員室を左に見て、渡り廊下からK組の教室へ入る。学生服とセーラー服が朝の賑わいを見せている。加藤武士が静かに予習している。口のくさい紀尾井が手を上げて近づいてくる。私は無視して着席した。移動が許されていないので、私の席は万年廊下側から二列目の二番目か三番目だ。青高では席は自由だった。それでもかならず三列目か四列目のやや前部に座った。私の後ろの対角線上にいつも山口がいた。いまは目の前に紀尾井がいる。
 ホームルーム。予想どおり信也の口から、一学期の河合塾模試で私が全国首席になったことが告げられた。寒々しい拍手が起こる。
「実力試験を返す」
 たった二日の採点で実力試験の答案が返される。二百点満点の英語一九六、現国一八九、数Ⅲ一一二、百点満点の古文八九、物理五四、化学七、日本史六一、世界史三三、政経一○。千二百点満点で七五一点、六割二分六厘。
「神無月の化学は七点、政経は十点だ。低得点というレベルのものじゃない。立派に校内最下位だ。平均点以下が六科目もあるのに、それでも総合得点で神無月が校内トップだ。この六科目のうち、三科目が神無月の入試科目ではない。おかげで、西高開闢以来、初めて東大オープン全国一位が出たわけだ。東大には異常な高得点で受かるだろう。神無月はおまえたちのライバルじゃない。さあ、われわれは名大合格を目指そう。いよいよ、天下分け目の季節になった。三年生の二学期、あと正味四カ月。新しいことに手を出すな。知識はもうじゅうぶん足りている。これまで学んだことの復習につぐ復習。奮闘努力を期待する」
 詐欺まがいの檄を飛ばす。知識には際限がない。吸収を継続しつづけるか、放棄するかしかない。
「フントー努力の甲斐もなく、きょうも涙のぉ、きょうも涙の陽が落ちる―」
 ラグビー部の岡部がガラガラ声で唄い上げる。だれも笑わない。
 微積分の単科授業。使うのは数研出版の薄っぺらい問題集のみ。眼鏡の色白デブ教師がひたすら自分で解く。生徒たちはひたすらノートをとる。むろん何のことやらさっぱりわからない。チカン積分があるなら、ゴウカン積分やリンカン積分もあればおもしろい。
 現国。異様に字のうまい眼鏡の色黒デブ。〈静(しず)に〉という言い回しを初めて知った。美を感じる。しずしず。しずごころ。しかし、シズニという副詞を活字で見たのは初めてだった。シズナという形容詞もあるのだろうか。ポケットから手帳を出して書きこむ。
 古文。ガンジーのへたくそな教科書朗読。さもなければ、黒板に寄りかかり、瞑目しながらの雑談。最近ではインパクトがない。朗読の合間を機械的に埋める雑談のための雑談になっている。守随くんのお父さんの真摯な呟きがなつかしい。
 ―長生きすればするほど、楽しいことがだんだん少なくなっていって、ものごとにすぐに飽きてしまったり、ダラダラさぼってみたり、それがもとで苦労したり、悩んだりすることが多なるんだよ。
 楽しいことがあるうちは、人間は怠惰にならない。……すばらしい哲学だ。人間とはそうしたものだ。
 英語。全身大福餅のように柔らかそうな色白の肥満女教師。西高は肥った教師が多い。
「テクニックですよ、テチャニックじゃありません。レジデントは住民です、大統領じゃありません」
 アホ。
 化学。卒中の後遺症で指先のふるえる白衣の老人が、黒板に化学式を書くと、カッ、カカッ、カン、カンとよけいな音がする。化学式は意味不明なので、音のほうを楽しむ。
 日本史。黒板をびっしり楷書文字で埋めるのが趣味のヒゲの濃い教師。たまに先日のように小難しいことを言い出す。これも異様に字がうまい。そちらに気を取られているうちに眠気に襲われ、黒板の文字が斜めに歪んで交差し、綾模様に見えてくる。授業終了まぎわに、彼はまたひとくさりやった。
「私の授業は退屈だろう。自分だけで楽しんでるからね。歴史の研究は私のいちばん楽しい仕事なんだ。過去に遡ることで、現在を忘れることができる。自由に、束縛されずに歴史の中を歩いていると、自分が現代の囚人であることを忘れられる」
 何か胸に迫った。彼はいまを生きるのがつらいのだ。すでに確定した事実の中を逍遥するほうが不安から逃れられる。
 下校しようとしている廊下で、信也が声をかけてきた。
「おまえ、引っ越したのは八坂荘だったな」
「はい」
「二階の突き当りの部屋に、吉永という保健の先生がいるから、挨拶をしておけ」
「はい」
 八坂荘に戻ると、きのう着たユニフォームを突っこんだ紙袋をハンドルに提げて、花の木へいった。買い物に出ているのか二人とも留守だった。玄関に紙袋を置いて帰った。八坂荘への帰り道、二人は文江さんの退院祝いに北村席へいったのだろうと気づいた。公衆電話から北村席に電話をかけると、女将が出て、案の定そうだった。いまみんなで北村席にいると言う。電話口に文江さんを呼んでもらい、おめでとうと言った。
「ありがと。でも、きょうは仮退院。出歩く練習らしいわ。正式な退院はあさって。ほんとにありがとね、キョウちゃんのことだけ想って生き延びたわ」
 文江さんは咽んで言った。


         八十二

 夜十時を回って、信也に教えられた部屋を訪ねた。ちょうど自分の部屋のドアからコの字型の廊下をぜんぶ歩く格好になった。廊下の闇だまりに、薄布で覆った菱形の磨ガラスがピンクに明るんでいる。女らしい工夫。辛気くさい。ノックすると、
「ハイ」
 という明るい声が返ってきた。
「どちらさま?」
「神無月といいます」
 明るい声とは正反対な雰囲気でドアが用心深く押し開かれた。ボーイッシュな短髪を七三に分けた童顔が覗いた。背が低い。一重まぶたの、小さい鼻で、唇も小さい。小豚のような顔だ。不細工は仕方のないことだが、男好きのする色気もない。不安そうな目つきで私を見上げている。遅い時間に男が訪ねてきたせいで、思わず身を縮めている様子だ。カンに障った。
「警戒する必要ありませんよ。西高の学生です」
 私は少し目に険を含んで彼女を見た。
「知ってます。警戒してたんじゃなく……」
 目を細めて、親しい知己に会ったような、いや、長く待ちこがれていた恋人を見つめるような、うっとりした顔になった。ぎょっとした。
「神無月郷です。先月六号室に越してきました。信也先生から、挨拶しておくように言われたもので」
「聞いてます。吉永です。こちらこそ、よろしく」
 精いっぱい笑顔を作る。私は笑顔に応えず、素っ気なくお辞儀を返した。
「じゃ、失礼します」
 ギシギシ鳴る廊下を引き返した。Vネックの赤いセーターの下に豊かに息づいていた胸に不吉な印象を抱いたので、関わり合いにならぬように気を引き締めた。
 翌日の下校時、渡り廊下で白衣の吉永先生を見かけ、挨拶した。彼女は意味ありげな笑みを浮かべ、伏し目がちに通り過ぎた。振り返って、顔に似合わない形のいいふくらはぎを見送った。やはり不吉な感じがした。
 用務員室の隣にある便所小屋の陰から煙が立ち昇っているのに気づいて、何だろうと回りこんでみると、坊主頭の学生が便所の塀にもたれて煙草を吸っていた。知らない顔だった。
「うわ、びっくりするでにゃあか、吸うか?」
「いや、いい。じゃ、失礼」
「ちょっと待てや。おまえ、有名な神無月やろ。神無月ドラフト拒否、の神無月やろ」
「知らないな。失敬」
「ちょっと待てって。お近づきに一服吸ってけや」
 面倒くさいので、受け取り、じっちゃのまねをしてスッと吸いこんだ。こめかみが一瞬脈打ち、クラッときた。シャーと耳鳴りが大きくなった。
「じゃ、さよなら」
 煙草を渡して歩きだした私の背中に、
「俺は大前や、覚えといてくれ」 
 自転車を牽いて門の外へ出る。目まいと耳鳴りはしばらく去らなかった。花屋の前を通りかかるころに、ようやく消えかかった。完全に消し去るために、花屋に入って、レモンスカッシュを頼んだ。
「おひさしぶり! 学生服姿、凛々しいわねえ」
「二杯ください」
 婆さんが、
「はーい、レスカ二杯!」
 出てきた二杯のレモンスカッシュを一気に飲んだ。すっかり不快感が消えた。女将が、
「豪快な飲みっぷり! どうしたの? 青い顔して」
「暑気当たりだと思います」
「まだまだ残暑だものね。遅くまで勉強しとるんでしょう?」
「はい」
 マスターが品出し口から顔を覗かせ、
「神無月さん、東大なんかいって、だいじょうぶ? ちゃんと野球やらせてもらえる?」
「基礎体力作りのつもりでがんばります」
「あ、神無月選手だ! きょうこそお願いします」
 三、四人が群がってきた。私は先回の約束どおりサインをした。
「すっかり具合がよくなりました。おいくらですか」
 女将が壁を指差しながら、
「お代はいっさいいただきません。壁のサインのおかげで、とんでもない客寄せになってるんですから」
 婆さんが笑ってチョコンとお辞儀をした。
 アパートのアンモニアくさい玄関から階段を上る。小便をしたくなり、部屋のドアからカバンを投げ入れて、便所へいく。端の小便器の前に茶ばんだ古い貼紙がある。きょうまで気づかなかった。

 
急ぐとも心静かに手を添えて外に漏らすな松茸の露

 おそらく全国に流布しているものだろう。外に漏らすなというのは、便器の外へ逸らすなということだろう。陶器の小便器が発明されて以降の新しい歌にちがいない。おそらく半世紀も経っていない。
 まだ九月になったばかりなのに少し冷える。残暑ではない。机に向かうと、足もとが冷やひやする。炬燵に掛蒲団をかぶせて足を入れる。寒いというほどではないので、スイッチは入れない。ラジオを点ける。スパイダーズ、ゴゴゴー風が泣いているゴゴゴー。美空ひばり、真赤に燃ォえるゥ太陽だァからァ。
 眠くなってきたので、眠気覚ましに机に向かう。数ⅡBの問題集を開く。苦手な無限級数を避け、指数方程式一問、空間図形一問。東大の赤本から三角関数一問。あっという間に一時間が経ち、窓が暗くなっている。カーテンを閉め、英単語トレーニングペーパー。飽きる。八木重吉詩集を書棚から取り出す。

  ねころんでいたらば
  うまのりになっていた桃子が
  そっとせなかへ人形をのせていってしまった
  そのささやかな人形のおもみがうれしくて
  はらばいになったまま
  胸をふくらませてみたりつぼめたりしていた

  かなしみと
  わたしと
  足をからませて たどたどとゆく

  かなしみを乳房のようにまさぐり
  かなしみをはなれたら死のうとしている

  無造作な くも、
  あのくものあたりへ 死にたい


 詩が私に寄り添いはじめる。私を少年に留め置くためだ。夢想の中で、ミヨちゃんを松ノ木平に向かうバスに乗せる。

  え忘れじ
  え忘れじの春は 夕まぐれ
  十円バスが 屁を吐いて
  おめを乗せて 屁を吐いて
  松ノ木平に帰るだと
  十円バスにゃ 乗られない
  おらどこ学校の裏だすけ 乗られない
  おめこそ 手を振る
  おらは はた知らね顔する
  十円バスが 屁を吐いて
  おめを乗せて 屁を吐いて
  松ノ木平に帰るだと


 詩を読んだり書いたりしているあいだは、万事に意味がある。詩は高価だ。苦労しないでは読めないし、書けない。詩を読み、詩を書くことこそ、私にとって、自分の根源的な無能を許し、愛情という最も深い葛藤を宥める行為だ。
 とりわけ詩を書くことは犠牲を強いる。〈完成〉の名誉という幻に縛りつけられ、功利的な勉学の時間を奪う。何のための〈完成〉かわからないが、詩は確実に私の日常を縛りつける。そして、書くことを知らなかった時代の心の自由を奪う。しかし、たとえどれほど不自由でも、詩が書けないことに比べれば、勉強時間の不足や、心の拘束からもたらされる苛立ちなど大したこととは思えない。だれでもその程度の時間不足や苛立ちは常日ごろ感じながら暮らしているだろうし、ささやかな葛藤でもあるだろう。私もそういう不足感や苛立ちと折り合いながら、心の場所、心の巣穴を確保して詩を書かなければならない。
 風呂道具を持って表に出た。きょう紀尾井に、
「おまえの頭、くさいがや」
 と言われた。おまえの口のほうがくさいと言い返せなかった。頭に汗をかきやすい体質に引け目を感じる。読書や詩作に没頭したり、不得手な勉強をしたりすると、ますますくさくなる。カズちゃんの家で風呂に入るときは、かならず頭を洗ってもらう。
「腋の下も、足もにおわないのにねえ。玉に埃がついたぐらいのものよ。私にはゾクッとするいいにおいだわ」
 萩の湯にいく。横浜の柴山くんの鶴乃湯を思い出す。しっかり頭を洗う。あしたは床屋へいこう。
         †
 九月六日水曜日。曇。まだ三十度の日がつづいている。
 文江さんの退院を手伝うために、昼休みに早退して日赤に駆けつける。カズちゃんと素子と女将と菅野がきていた。白衣姿の節子がせっせとベッドの周りを片づけている。私に気づき、
「あ、キョウちゃん、わざわざすみません。ありがとうございます。おかげさまで母も無事退院できることになりました」
「お礼はカズちゃんに」
「さんざん言われたわ」
 カズちゃんが苦笑いして言うと、女将がやさしく笑った。文江さんは私に抱きついてきた。今度は菅野が苦笑いした。女将が、
「もとの家のものはぜんぶ、新しい家に運んどいたでね。家具も同じふうに置いときましたよ。ゆっくり静養して、いつでも好きなときに書道教室を始めてくださいや」
「ありがとうございます。キョウちゃん、最終検査も何ともなかったよ。五年、十年、長生きできるよ」
「よかったね! その何倍も生きなくちゃ」
「そうよ、文江さん、いま女の平均寿命は八十よ」
「ありがとうございます。みなさんのおかげで、消えかかった蝋燭にまた火が点きました。終生かけて、ご恩返しをいたします」
「七面倒くさいことはいいから、さあ、積みこみ、積みこみ」
 カズちゃんの指示で、菅野がダンボール箱を抱える。めいめい、紙袋を両手に提げた。
「キョウちゃん、これ、文江さんの家の略地図。でも、二カ月はセックス禁止だって。再発したらたいへんよ。文江さん、せいぜい禁欲を心がけてね。十日にいっぺんの通院も忘れないように」
「はい。せっかく拾った命を捨てるようなことはしません」
 節子が頼もしそうにうなずいた。
 私は自転車なので、病院の玄関で菅野の車に手を振った。来月にでも、文江さんの新居を訪ねることになるだろう。十月のすがすがしい空の下をいっしょに散歩したあと、一時間でも添い寝をしてやろう。むろん交わることなどしないで。
         †
 九月九日土曜日。曇。二十三・五度。登校時の空気をすがすがしく感じるようになってきた。
 信也が教室に入ってくると、室長の号令で腰掛が音高く鳴った。私はこの室長の名前をまだ覚えていない。
「今学期の実力試験は、二回しかない。一回は終わった。もう一回は十二月十六日だ。それから十二月二十四日に駿台提携の河合塾最終オープン。あわただしい時期なので校内受験でいいことになってる。大きな試験はその二回だ。どの結果も内申書には響かない。響くのは中間試験と期末試験だ。東大を受けるのは、神無月と浪人二人。当確は神無月だけかな。京大や一橋を受ける生徒も何人かいるが、これも当確は二人、三人だろう。とにかく名大に一人でも多く受かってくれ。私の母校でもあるしね。―二年半内緒にしてきたが、じつは、総合大学は内申書を見ない。本番の成績だけなんだ。内申書で脅してきたような二年半だったが、許してほしい。きみたちが功利的な勉強に走らないように戒めてきたつもりなんだ。ただ、内申書を見る大学もある。教育系の単科大学だ。名古屋では愛教大のみだ。この中には通知表の悪いやつもいる。そいつらを安心させておきたくて、公にしてはいけない秘密事項だったが教えておいた。入試は本番のデキだけで受かる。内申書は関係しない。とにかく二学期かぎりで、試験という試験はすべて終わる」
「やっぱ愛教大は内申書見るんやな」
 ラグビー部の岡部が言った。
「見る」
 加藤武士が悠然として言った。彼の第一志望は愛教大だ。百パーセント合格だろう。


         八十三

 後ろのほうの席で水野とだれかが話し合う声がした。
「俺、5点評価で、2・2だ。それでも早稲田に受かるということだな」
「ぼくはやばいよ。3・1だけど、愛教大やから」
 昼休みの時間に、土橋校長の放送があった。
「すでにみなさんご存知のことかと思いますが、河合塾提携駿台模擬試験で、文系全国一位が当校から出ました。前回の河合塾高二模試の全国二位につづいて、今回も神無月郷くんです。一個人のたぐいまれな手柄と横目で眺めることなく、これに勇を得、みずからを省みて勉学に磨きをかけるよう望みます。今回のことは、明らかに名古屋西高校雄飛の足がかりです。来春の受験の成果を心から期待します」
 帰りに水野と正門前の蕎麦屋に入り、カツ丼をおごられた。
「あれから、駅西に三回いった。学割で、サックをしてやった。感激がない」
「幻滅があれば、いつか感激したときの幸福感はひとしおだ」
 私が言うと、水野は握手を求め、
「そうだな、幻滅があれば、感激が引き立つ。しかしこれで、勉強に打ちこめるよ。すばらしい女を探すのは、大学にいってからにする。―しかし、いったいどういう勉強の仕方をしてるんだ」
「不得意科目は、理解できる分野の勉強しかしない。そこだけを最低限の得点源にするんだ。得意科目は四の五の細かく勉強しない。適度にやる。それでも漢字書き取りと、英単語と、古典文法と、漢文の句法はかならずやる。言葉は思考のもとだからね」
 水野は微笑を凍りつかせて、
「どうもそういうことじゃないみたいだなあ。方法論うんぬんじゃない。もともと神無月には何かがあるんだよ。どう見ても教養はないから、そうとしか考えられん。とにかく俺は早稲田の教育心理学科一本」
「志があるなら、大学なんかどこでもいいさ。ぼくには志はない。あるのは東大を珍重する母親の口を封じて野球の道に邁進したいという思いだけだ。受かれば、ぼくの生き方をとやかく言うじゃま者はいなくなる……と思う。それに、東大の野球部の拘束時間がかなりゆるいことを最近知ったからね。楽しんで野球ができそうだ」
 水野は目を光らせ、
「とやかく言うのは、たった一人か」
「うん。大勢がぼくのゆく手をじゃまするはずがない」
「じゃまされてきたんだな、その限定的な権威主義者に」
「そういうこと。友を取り上げ、野球を取り上げ、環境と時間を取り上げた」
「新聞で読んだ。気の毒だと思った。東大受験はある種の復讐だな。復讐を遂げたら、東大なんかやめてしまうんだろ」
「そう、その程度で納得する底の浅い復讐だよ。ぼくにとって東大は野球グランドの意味しかない。そこでプロが拾ってくれたら、プロのグランドでクビになるまでやる。そのとき野球生活を妨害されたら、プロを去って復讐を再開する。怒りが鎮まるまでの短いあいだだけどね」
「変人て楽しいな」
「本人は楽しがってられない」
 おごりの礼を言って別れた。帰り道、肉屋の軒先で、ひときわ小さな吉永先生が夕食のおかずを買っているのを目撃した。彼女は店頭のガラスケースの前に立ち、メンチカツとポテトサラダを指差していた。
         †
 部屋のドアが遠慮がちにノックされた。私は不機嫌な返事をして机を離れた。ドアの外に吉永先生が立っていた。きた、と思った。胸前に持った皿の上で、菊の形に型抜きした赤いゼリーがふるえている。
「ごめんなさい、おじゃまでした?」
 薄く化粧をしていた。初対面のときと変わらず器量の悪い顔だった。
「いえ、ぼんやりしてました。実力試験も終わったことだし……」
 私は彼女を中へ招き入れたものかどうか迷った。招き入れれば、彼女のふだんの勢いからして確実に面倒なことが起きる。健児荘の経験からわかっている。この女がユリさんのような掘り出し物である可能性はまずない。吉永先生は、
「先日はロクに挨拶もできず、すみませんでした。……あのう、これ食べてください。作ってみたんです」
 私はまずそうなゼリーの載った皿をしばらく見つめてから、吉永先生の顔に視線を戻した。彼女は私に向けていた眼をあわてて下に向けた。さびしさがにおった。肉付きのいい頬が、私の遠慮のない視線に射られて青ざめている。年下の男に孤独な生活を嗅ぎ当てられたくないという恥じらいのせいだ。
「けっこう作るの難しくて……」
 ゼリーのように細かくふるえている唇から、私は目を逸らした。
 ―このさびしさには揺さぶられる。しかし、この顔とからだを引き受けるのはやっかいだ。
「いただきます。ゼリーは好きなんですよ」
 皿を受け取ると、うつむいている先生の全身をまじまじと眺めた。視線に気づいて私のことをイヤな男だと思ってほしい。薄い藍色の地味なタイトスカートに包まれたベルトのあたりが、肥満のせいで食いこんでいる。なまめかしいというのではなく、憐れだ。吉永先生は私の視線にうろたえ、身悶えした。そして気を取り直したふうに顔を上げると、学校の廊下で出会ったときと同じ意味ありげな微笑を浮かべた。芯の強そうな黒い目が、なぜか無遠慮に輝いている。ふくらんだ頬には、化粧で作ったものか自然のものかわからない赤みが差した。
「それじゃ、お勉強、がんばってくださいね。信也先生が、あいつは天才だって……」
「コーヒー飲んでいきますか」
 吉永先生は怖気づいたように目を見開いた。すでに無遠慮な光が気弱なものになっている。おでこの広さと丸いあごがあどけなく映りはじめた。
「……大切なときですから。お勉強してください」
 そのくせ彼女は、廊下にぐずぐずと立ったままなのだ。
「そうですか、それじゃ」
 私は冷たく言ってドアを閉めた。ペタペタとスリッパを鳴らして廊下を去っていく足音が聞こえた。
         †
 九月十日日曜日。暑さが緩み、室内の柱に釘でつるした寒暖計は二十五・七度。高い雲を浮かべた快晴。無番のユニフォームを着て庄内川へ。
 土手がびっしり満員だ。飛島の社員たちもきている。マスコミの効果はすごい。カメラを抱えた記者連中が十人余りもいる。監督が、
「きょうは秋の紅白戦をやります。七回終了、コールドなし。それでは先攻赤組、メンバーは―」
 私は白組の四番に入れられた。土手の賑わいの理由がわかった。紅白戦の情報がたぶん意図的でなく洩れたのだ。心配いらない。まったくの野球無名校の紅白戦ごとき、新聞記事にはならない。神無月郷の練習風景の一コマとして、スポーツ新聞の片隅に写真が載るくらいのものだ。
 思う存分打って走った。四打数四安打、二本塁打。打点九。四対十四で白組の勝ち。土手の観衆は二本のホームランを見られて大喜びだった。選手たちにしても、フラッシュがひっきりなしに光るのに鼓舞されたようだった。試合後、予想どおり記者たちは近づいてこなかった。
         †
 午後二時ごろ、一階管理人室の前の廊下に置いてある呼び出し電話にカズちゃんから電話が入った。
「ちょっと様子伺いにいくわ」
「うん!」
 商店の通りに出て待ち構える。カズちゃんは道端の草や民家の庭を眺めながら、ぶらぶらやってくる。そして、私に気づくと走ってきて抱きつき、公園のオミナエシがきれいだったとか、肉屋さんの隣の空地にいろいろな色のコスモスが咲いてた、などと言う。部屋の戸口を入ってすぐキスをし合う。
「ほぼ完璧な部屋になったわね」
「菅野さんが、押入箪笥とコーヒーテーブルとチリ籠を届けてくれた。よく気のつく人だ」
「キョウちゃんにぞっこんだから。勉強進んでる?」
 机をさすり、本立ての参考書類を眺めながら言う。
「このあいだ、二学期の第一回実力試験が終わった。ふつうのでき」
「ということは、一番ということね。アパートに新聞記者が押しかけてこない? おとうさんが心配してたわ。一般紙やスポーツ新聞がポチポチ書きはじめたって。神無月ドラフト忌避、市中に忍び隠れる」
 私は机に向かい、
「いつも千年小学校の三階校舎を思い出すんだ。校舎を越えていったDSボール。ぼくはいまもあそこにいる。いろいろあったけど、あそこにいる。あそこから一歩も動いてない……逃げも隠れもしてない」
「来月あたりから、ざわざわすると思う。だれかがしゃべらないかぎり、八坂荘まではこないと思うけど、まんいち捜し当てられても適当に追い返すのよ」
「わかった。……もう、ビンビン」
 椅子に座ったままズボンを下ろして示す。
「ま、やんちゃな子」
 膝を突いて、含む。私はシャツの上から胸を揉む。
 カズちゃんは服を脱ぎ捨てて、跨った。かすかな吐息が漏れる。
「出していいんだよね」
「だいじょうぶよ」
 結び合ったまま話す。
「この隣部屋に、西高の保健の先生がいるんだ。きのう挨拶しにきた。この部屋と壁越しに接してるんだよ。接してるといっても、壁と壁のあいだがだいぶ空いてるみたいだけど。でも、カズちゃんが声を上げたら聞こえちゃうかもね」
「ま、いやだ。みっともない声」
「みっともなくないよ、かわいい」
「でも、いや。聞かれたくない。偶然遇ったとき、こいつがあんな声を出すのかって思われたくないもの。よがり声って、女のいちばん恥ずかしいものなのよ」
「でも声を出さないと、イクのがつらいよね」
「キョウちゃんがゆっくり動かしてくれれば、静かにイクわ。いくつぐらいの人? かわいい?」
 反応しはじめた膣が私のものを握ってくる。
「二十五、六かな。ブレンダ・リーみたいに小柄で、浅丘ルリ子に顔の形が似てる」
「まあ!」
「中身がぜんぜんちがうから、ただのブス」
「何か起こりそうね。教師は面倒だから気をつけてね。健児荘の羽島さんみたいな犠牲的精神の人はなかなかいないから」
「うん。処女じゃないかな」
「二十五、六で? でも教師ならあり得るわね」
「保健婦さんだ。ときどき保健の授業もしてる」
「……何かあったら、かならず教えてね」
「うん。やっぱり外に出そうか?」
「いや、中に出して」
 カズちゃんは私の射精に合わせて、切なく押し殺した声を上げて、強く何度も気をやった。
「九月の総合練習は、来週の一回かぎり。残りの日曜はセンバツ予選でぜんぶ潰れる。でも下級生が居残り練習してるから、キャッチボールだけはつづけられる。十月は二回、十一月は一回だけ総合練習できる。肩も衰えさせるわけにはいかないから、十一月いっぱいまでは、きちんとキャッチボールに参加するよ」
「十二月以降はどうするの?」
「毎日ランニングと三種の神器ですます。腕立て、腹筋、背筋。部屋の中でもできる」
「予定どおりなのね」
「うん」



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