十六

 勉強―
 それは野球と比べれば何ほどの関心事でもなかったので、これまでずいぶんないがしろにしてきた。しかし、五年生の秋のころから勉強がだんだん難しくなり、何か新しいネジを巻かなければ、教室のみんなに追いついていけないことがはっきりしてきた。そうなるとかえって不思議なファイトが湧いた。野球ばかりでなく、関心のない勉強までもできるというのは、悪くない勲章に思われたのだ。
 私のクラスに、おそろしく勉強のできる二人の生徒がいた。彼らはテストのたびに校内の首席を争っているというのは、教師たちの公言するところだった。もちろん二人はそろって学級委員もしていて、名実ともに千年小学校の出世頭だった。私には彼らがまったくちがう世界に住んでいるように見えた。
 守随くんは黒縁の眼鏡をかけたひょろりと背の高い少年で、人を近寄らせない雰囲気があった。仲間と口を利くことはめったになく、彼が声らしいものを発するのは、桑子に質問されたときだけだった。休み時間などによく彼は、舌先を細く丸めて窓から校舎の外に唾を飛ばしていた。でもそれは人に見せるためのひょうきんな技ではなく、ひとり楽しむためのものだった。彼が所在なさそうに雲梯にぶら下がったり、遊動円木にぼんやり腰かけたりしている姿は、だれの目にも孤独なものに映った。私には、守随くんが鈍才たちには測り知れないレベルの悩みを持っていて、それにすっかり関心を吸い取られているように見えた。
 卓球のラケットのように平べったい顔をした鬼頭倫(みち)子は、陰でオニアタマと訓読みで呼ばれていた。ヘコヘコ首を突き出しながら、偏平足のガニ股でゆっくり歩く無口な女の子だった。テストのときだけは、その物静かな趣が一変した。鉛筆を舐めなめ、一心不乱に答案に向かう。がさがさと活発にワラ半紙を前後左右に滑らせる。ゴリゴリ消しゴムを鳴らす。そういう様子には、それこそ鬼のようなただならぬ執念が感じられるのだった。私には、そういう情熱もまた、鈍才たちの到達できない高い境地からきているように思われた。
 守随くんも鬼頭倫子も、からだの周りにひんやりとした空気が流れていたけれども、彼らの青白い顔はどこか人間としての芯の強さを感じさせたし、勉強だけの優等生にありがちな、なよなよ遠慮したり、人を恐怖したりするような軟弱なところは見られなかった。
         †
 二学期も押し詰まった十二月のある土曜日、守随くんと鬼頭倫子と岩間の三人を先導役にして、私を含めた五人のボランティアたちは、脊椎カリエスという病気で長患いをして寝ている同級生の青木くんを見舞いにいった。名指しで見舞い人を決めたのは桑子だった。なぜか彼の贔屓の高橋弓子の姿はなく、もう一人、飛び入りでほかのクラスの加藤雅江が混じっていた。
 脊椎カリエスという病名を聞いたのは二度目だった。廊下をときどき、トンボ眼鏡をかけたしゃくれあごの先生が通りかかる。大鹿先生だ。もうかなりのお爺さんで、どんな科目を、何年生に教えているのかもわからない。痩せたからだの背中が大きな瘤のように膨らんでいるせいで、両足がひょろ長く見え、口を少し開け、両腕をぶらぶらさせながら反り返って歩く姿は、見るからに不気味だった。大鹿先生の背中があんなふうに突き出してしまったのは脊椎カリエスのせいだと、だれだか女の生徒が言っていた。
「青木は六年生の夏から、もう二年も寝とる。生徒会長までやった子や。おまえらの三つ年上やけど、遠慮せんと、しっかり励ましの言葉をかけてきたってくれ。雅江、これで花でも買っていけ」
 百円札を渡した。
 物慣れない私をのぞいて、ふだんは寡黙な守随くんや鬼頭倫子も、それからあとの二人も、遠足のように和気藹々と笑いさざめきながら歩いていった。加藤雅江のからだがほかの三人とちがってリズミカルに揺れるのが、青木くんよりもかわいそうな気がした。
「青木くんを見舞うの、これで三回目やわ」
 手にしたユリの花を嗅ぎながら、加藤雅江が言った。
「知り合いなの?」
 鬼頭倫子が尋いた。加藤雅江はやさしい笑い方をした。
「そういうわけやないけど、なんだか私、病気見舞いが好きみたいで、いろんな人のお見舞いにいくんよ。青木くんは千年の有名人やから、三回もいっちゃった。神無月くんは、青木くんのこと知らんかったでしょう」
 加藤雅江は傾いたからだで私を見上げた。
「うん、初めて聞いた。野球ばかりやってたから」
「知っとる。五年生なのに四番打っとるんやてね。市内のホームラン王のこと、新聞に載っとったよ」
「来年はぜったい十本以上打つよ」
「がんばりゃあ」
「前は横浜にいたの?」
 めずらしく守随くんが口を利いた。
「うん」
 次々とみんな私の顔を覗きこんだ。
「横浜って、大都会やろ? 人口百四十八万、人口図はツボ型……」
 紐で縛った週間サンデーを重そうに提げている岩間が、いつもの物知り顔で言った。
「ぼくの住んでたところは、横浜の下町だった」
 それきり話題が途切れた。私は気詰まりになった。彼らと共通の話題を思いつなかったので、仕方なく野球の話をした。守随くんや鬼頭倫子ほどでなくても、加藤雅江も千年小学校では秀才の部類だ。野球の話に乗ってくるのは、知恵者ぶっているだけで勉強のできない岩間だけだろう。
「巨人の水原監督が、来年から東映の監督をすることになったんだ。来年のパリーグは東映の優勝かもしれない」
 と、ぼそぼそ言った。岩間も含めてみんな興味なさそうな顔でうなずくので、私はたまらなく恥ずかしかった。
「岩間はどう思う?」
「さあ、監督の腕がよくても、選手がガラクタじゃな」
「ガラクタなもんか。張本や毒島がいるし、土橋や久保田がいるし、種茂だっている」
「張本と土橋以外はみんな小物やな。もっとドーンと大物が入団せんと」
 そのとおりだと思ったので、私は黙った。
 青木くんの家は、東海通りから小路へ曲がりこんだごみごみした住宅地にあった。うっかりすると見逃してしまいそうな小さい家で、柴垣の門はからだの幅しかなかった。門にかぶさるように、いじけたイチジクの木がくねっている。塀の隅のところには、忘れられた番兵みたいに傘の格好をした松の木が、さびしそうに枝を差し伸べていた。玄関脇に置かれた石に、青黒い苔がへばりついている。たぶん、ずっとむかしに飾りで置いたものだろうと思った。
 加藤雅江が声をかけて玄関の戸を引いた。重苦しいにおいが流れ出てきた。悪臭というのではない、何かくすんだにおいだ。式台にやつれた顔をした中年の女が現れ、
「あら、加藤さん、またきてくれたん。ありがとう。みなさんも、よういりゃあした」
 青木くんの母親だろう。彼女の案内で青木くんの病間に通されたとき、においの原因がわかった。それは壁や畳や蒲団と同化した青木くんが、長い年月のあいだに培った病気のにおいだった。
 痩せたあごに毛布の〈けば〉みたいなヒゲが生えている青木くんは、画用紙のように白い顔をして、部屋の真中でミイラになりかけていた。私は彼からいちばん遠い場所に腰を下ろした。残りの四人は、こだわりもなく蒲団の周囲にぴったり寄り添った。青木くんはみんなに目だけで挨拶した。私のほうまで彼の視線は届かなかった。
 さっきよりも少し元気になった母親が、見舞いのユリを活けた花瓶といっしょに、菓子盆に雷おこしを入れて持ってきた。みんな遠慮せずにポリポリ齧った。私はそのおこしがこの家の空気を吸っているような気がして、手を出さなかった。
「この子は、もう三年も寝とるんよ」
 お母さんはみんなの顔色をうかがいながら、しゃべりはじめた。
「肺の結核は全治したんやけど、菌が背骨に移ってまって。しくしく痛む病気やから、かわいそうでなも。……何年かかるかわからんけど、根気よく養生すれば治る病気やとお医者が言わはったんで、私も主人も希望を捨ててないんよ」
 私は彼女の話しぶりや顔つきを、こまかく観察した。そして、不運な青木くんに彼女がそそいでいる並はずれた愛情や希望が、かえって青木くんを苦しめているような気がして胸苦しくなった。お母さんが紅茶をいれに立った。私はこっそり隣の部屋へ退避した。
「早くようなって、学校に出てきてね」
「いっしょにソフトボールしたり、鉄棒やったりしよまい」
「来年は、修学旅行やで」
 木偶坊(でくのぼう)の青木くんを、やさしく励ますみんなの声が聞こえる。襖の陰から覗くと、聞き飽きているにちがいない激励に耳を立てている青木くんの眼の奥に、病人らしい暗い翳りが見えた。まぶたがはれぼったくむくんでいるのが、いっそう顔つきを険しくしている。
「お母さんの言うとおり、カリエスなんて、きちんと寝ていれば治る病気だがね。安岡章太郎っていう小説家も、青木くんと同じ脊椎カリエスやったんやけど、何年か寝ていたら治ってまったんだ」
 しゃべりかけているのは岩間だ。意味のない励ましだ。ふだんから彼は、
「日活というのは、日本活動写真株式会社の略語だが」
 とか、
「後醍醐天皇の孫に当たるのは、××親王」
 とか、
「出光興産と昭和シェル石油は合併するそうや」
 などと、どうでもいいことばかりしゃべる。ただ、野球のセンスは悪くなく、長崎ほどのコントロールはないけれど、地肩が強い。バッティングも阪神の吉田のようにバットを短く持った水平打法で、けっこうするどい当たりを飛ばす。
 五年生になったばかりのころ、一度だけ岩間は私にくっついて新しい飯場に遊びにきたことがあった。彼は食堂にいた母とカズちゃんに丁寧な挨拶をし、あたりをきょろきょろ見回しながら、
「飯場って、ぼくが想像していたのとはちがいますね。なんだかうちの診察室みたいです」
 と、わざわざ標準語で言って微笑んだ。なるほど台所はきれい好きな二人の女に管理されているので、隅々までピカピカだった。カズちゃんが眉をしかめた。
 私は彼に母子の部屋を見せた。
 「ぼっこいだろ」
 岩間は敷居に腰を下ろしたまま、薄暗い六畳間を眺め回し、
「いい部屋に住んでるじゃないか。ぼっこいなんて贅沢言っちゃだめだよ」
 と大人っぽい口調でたしなめた。口調は少しさぶちゃんに似ていたけれど、かもし出す温かさと爽やかさのようなものがぜんぜんちがっていた。彼は畳に放り出してあった『週間ベースボール』を手にとって見たけれど、どのページもぺらぺらやるだけで、野球そのものに関心がなさそうだった。母の出した南部煎餅にも手をつけないで、南北朝時代のダイガクジトウとか、ジミョウイントウとか、わけのわからない長話をした。私には、岩間が私の何に興味があって飯場についてきたのかわからなかった。
 彼が帰ったあと、母は、
「頭のよさそうな子だね。さすが、お医者さんの子だ」
 と褒めた。岩間の背後に、医者の息子の肩書が淡い光線のようにまとわりついていたからだろう。
 その岩間が、創刊号から十何冊も揃えた『少年サンデー』を、さも仰々しく青木くんの枕もとに置いた。
「進呈するわ。連載中の『スポーツマン金太郎』はおもしろいで。この神無月くんは金太郎さんて呼ばれとる。金太郎みたいな強打者だで」
 岩間は振り返ったが、私のいないのに気づいてびっくりしたようだった。私は半開きの襖をさらに狭く閉め、そばにあった座布団を二つに折って枕にした。狭い裏庭に植えられた橘の木が、ガラス窓から見えた。枝に藪カラシや葛が絡みつき、すっぱそうな黄色い実をつけている。そんな同情のない様子を、青木くんの母親や仲間に白い目で見られるかもしれないと思った。でも私は、母親にではなく、青木くんに深く同情していたのだった。野球をしない青木くんは、
「ありがとう―」
 と岩間に言ったけれども、興味もない漫画雑誌を押しつけられたせいで戸惑っているようだった。級友たちの話し声を聞くともなしに聞きながら、私はうとうと眠りかけた。


         十七

 額をひやりと手が撫ぜた。目を開けると、鬼頭倫子が枕もとに坐りこんで、じっと私の顔を覗きこんでいる。睫毛の長いきれいな目をしていた。大人らしい唇がぬらぬら濡れている。
 ―けいこちゃんの唇だ。
 なんだかさびしい気持ちになりながら、しばらく見つめ返していると、鬼頭倫子は顔にかかる髪の毛を耳の後ろへかけると、青木くんの蒲団に戻っていった。
 ようやく気分が落ち着いたのだろうか、蒲団の周りの連中に愛想を振舞いはじめた青木くんの横顔が、襖の端からチラッと見えた。白いかじかんだ指を蒲団の襟から出して、ひらひらと動かしている。病気の説明をしているようだ。骨が融けるとかなんとか言っている。青木くんはそんな自虐的な話をしながら、相手の顔をまともに見ないようにし、たまたま視線が合うと、すぐにその眼を逸らした。私は起き上がって、静かに仲間の中へ戻った。加藤雅江の背中に坐り、青木くんの聴き取りにくい声に耳を傾けた。彼の声はとても低く、神経質な顫(ふる)えを帯びていて、語尾があいまいに口の中へ融けてしまう。
「何もかもやる気がなくなってまって。コルセットをつけるのを面倒くさがっとるうちに、どんどんカリエスが進んで、背骨が曲がってまった。死ぬような病気やないけど、このまま寝とって、うまく治っても、もうまともに運動はできんのよ。下半身に少し麻痺がきとるもんで、もう学校にも戻れん。みんながきてくれると、学校を思い出して、ええ気持ちになるけど、なんだか口惜しいんだわ」
 両膝をスカートに隠して横坐りになっていた加藤雅江が、
「あきらめたらあかんやないの。運動なんかべつに楽しいもんやないでしょ。そんなもんできんでも、ちっとも退屈せんわ。健康な肉体に健康な魂が宿るなんて、決めつけすぎやと思う。からだなんか健康でなくても、心はいくらでも健全でおれるんよ。寝転がって本を読んだり、勉強したりしとればええがね。桑子先生が、青木くんはとっても頭のええ子やって言っとったよ」
 私は加藤雅江の言葉に心の底から感心した。青木くんの大人っぽい顔が明るくほころんだ。
「うん。寝たきりでも勉強はできるよ。いまでも少しずつやっとる。ほんとは中学二年生だで、そういう勉強をしとる。お父さんも教えてくれるし……。でも小学校を卒業しとらんから、正式に中学生になれるのはずっと先の話やけど」
 うっすらとヒゲの生えた大きい顔に、女みたいな柔らかい表情が現れた。
「やっぱり、がんばっとるやないの。口惜しいなんて言ったらあかんよ」
 微笑を浮かべた青木くんの母親の目に、うっすらと涙が浮かんでいる。私はその涙を見て、隣の部屋に引っこんでいて悪いことをしたなと思った。青木くんは屍のように身動きもせず、加藤雅江の肩越しにその聡明そうな生きいきした眼を私に投げた。私はうなずき、
「ごめんね。みんなで励まされるのがかえって辛いんじゃないかと思って、ぼく、隣の部屋へ退避しちゃったんだ。……ぼくは野球をしていないと死んじゃうけど、青木くんは勉強しないと死んじゃうよ」
 私は心のままに言った。青木くんは喉の奥から低い声を出して笑った。守随くんが振り返り、いつもよりきらきらした目で私を見つめた。
「そろそろ、失礼しよまい」
 岩間の言葉でみんな腰を上げた。玄関まで母親が送って出て、深々とお辞儀をした。
「どうお礼を言ってええやら。きょうはわざわざ見舞いにきてくれて、ほんとにありがとうございました。あの子の笑った顔を久しぶりに見ました。これからもどうかときどき会いにきてやってください」
 帰り道、しばらくみんな無言で歩いた。傾きかけた夕日が、五人の影を長く曳いている。
「安岡章太郎は治ったんやけど、ヘチマの正岡子規は死んでまった。青木くんはだいぶ病気が進行してるようやね。回復は難しいんやないの」
 岩間が秘密めかしたように言った。たちまち頭が沸騰した。
「さっき言ったこととちがうじゃないか! 青木くんは、ぜったい死なないよ」
「初期ならストレプトマイシンも効くんやけど、あそこまでくると怪しいで」
「何が怪しいんだ。死ぬなら死んだっていいさ。そんなの青木くんには大したことじゃない。好きな勉強をしながら死んでいくんだから」
 歯ぎしりする思いだった。また守随くんの眼が光った。
「ぼくもそう思う」
「へえ! 命あっての物種だが。死んだら元も子もないやろ。じゃ、ぼく、こっちだから」
 岩間は話を途中にして、手を振りながら去っていった。
「えらそうに、ぺらぺらと。青木くんの前ではいい顔してたのに。何が本気かわかりゃしない。同じ野球部員として恥ずかしいよ」
「ね、神無月くん、毎週、ぼくといっしょに勉強せん?」
 守随くんが小さい声で言った。私は思わずビクッとし、鬼頭倫子がリボンを揺らして歩く後姿を眺めながら、何の考えもなく、うん、と答えた。秀才の誉れ高い守随くんが、自分みたいな野球しかできないスポーツ少年を勉強に誘ってくれたのがうれしかった。鬼頭倫子が振り向いて笑った。
「そうしなさいよ」
「いいなあ、私が教えてもらいたいくらいやわ」
 加藤雅江が言う。
「水曜日の夜、いっしょに算数をやろまい。その曜日だけ塾がないんだ。夕方からきなよ」
「算数、苦手なんだ。できるようになるかなあ」
「なるわよ。守随くんに教えてもらえば安心やわ。神無月くんはきっと、勉強の素質があると思う。あんなに国語ができるんやもの」
 鬼頭倫子が言った。私の額を撫ぜたときとはすっかり別人みたいな、子供っぽい表情になっている。
「国語と算数はちがうよ」
「同じだってお父さんが言っとったわ。どちらも理屈なんだって」
 私は照れて鼻の脇の傷をこすった。いつもそこに手がいってしまう。加藤雅江が、傷ではなくその指をじっと見ていたので、とっさに尻の後ろに隠した。野球のせいで最近とみに節くれだってきた指は、ぜったい人に見せたくないものだった。
「桑子先生が言っとった。神無月くんは転校に時間がかかったせいで進度が狂ってまって、もとの成績に戻れんでいるって。助けてやれって」
「もとの成績って、横浜の?」
「そう」
「もともと大したことなかったよ。何かのまちがいだね」
 まじめそうな表情からすると、守随くんは気まぐれで誘っているのではなさそうだった。たしかに、彼に勉強を教えてもらえば、ぐんぐん上達するかもしれない。そうして教えられたとおりちゃんと勉強をつづけていけば、ひょっとしたら、野球しかできないウスラ馬鹿から脱することができるかもしれない。
「勉強というより、ぼくは神無月くんを気に入ったんよ。遊びにくるつもりでええよ。ただし、遊びにきたら勉強するしかないけど。ぼくの取り柄はそれしかないで」
 私はなぜか勇み立つような喜びを覚えた。
「うん、いくよ」
「鬼頭さんもいきたいんやない?」
 加藤雅江が尋いた。
「私はいい。ピアノやバレーのお稽古事をせんといかんのよ。それに、神無月くんといっしょに勉強したら、すぐに追い抜かれて、アベコベに教えてもらうことになりそうやわ。それって、シャクでしょ」
 いつも口数の少ない二人の秀才が、きょうにかぎって明るく饒舌なのを見て、私は自分まで秀才になったような、愉快な気持ちでいっぱいになった。もうだれも青木くんのことは言い出さなかった。
「学校で一番の守随くんって子が、いっしょに勉強しようって。算数を教えてくれるんだって」
 飯場に帰って母に言うと、彼女はとてもうれしそうな顔をして、
「よかったじゃないの。人間というのは、出会う人によって人生がガラッと変わるからね」
 と言った。
 母には青木くんのことを話さなかった。どうせ、キンタマのときと同じように、かわいそうに、で終わってしまうだろう。私はひとりで、青木くんの人生というものを考えてみたかった。
 寝たきりの人生。そんな人生に幸福はあるのだろうか。何かの成果を目撃できないところに、幸福はない。まずあのからだにスポーツの成果はない。もし彼の好きなことがスポーツだとしたらなんと悲惨なことだろう! それなら、食べること? 眠ること? 排泄すること? その成果は健康なからだになることだ。たぶんその成果も期待できない。彼の好きなことは勉強だけだ。その成果なら、一生寝たきりだとしても、命があるかぎり手に入れることができる。
 私が青木くんの人生を背負ってしまったら、ためらうことなく自殺するだろう。そんな人間が、青木くんにたとえひとことでも言うべきことがあったろうか。何も言うべきではなかった。たとえ、からだに不足のある加藤雅江でも、何も言うべきではなかった。岩間など問題外だ。おためごかしの建設的な意見がいちばんの罪なのだ。
「愛してる、いっしょに死のう」
 それがたった一つの正解だ。そんなことを言えるのは、青木くんの両親しかいない。きょうかぎり、彼のことは忘れよう。私は彼といっしょに死ねない。
         †
 水曜日の夕方、野球部から戻るとすぐ、表紙に《算数》とマジックペンで書いた新品のノートを一冊だけ持って飯場を出た。母が静岡の高級茶とやらを一袋持たせた。事務所に出入りしているお茶屋さんから仕入れたものだ。彼女はときどきこのお茶を野辺地の祖父母に送っている。
 歩いているうちに秋の道に夕暮れが濃くなって、灯りはじめた街燈が水で洗ったようにくっきり見えはじめた。明るい雲が電柱の上に浮かんでいる。熱田高校のグランド沿いの歩道に、約束どおり守随くんが待っていた。両手をポケットに入れ、舌を丸めて唾を飛ばしている。声をかけると、びっくりしたように振り向いた。
「ええ男やなあ、神無月くん」
「ほんと?」
「よう言われるやろ」
 記憶をたどった。気に留めたことはなかったけれど、何度か言われたことがあったような気がする。
「……言われない」
 守随くんは私に意外な謙虚さを見出したような、少し驚いた表情をした。軒並思い出した。国際ホテルの外人に言われたことがあった、西脇所長にも、さぶちゃんにも、吉冨さんにも言われた。みんな守随くんとちがって、さりげない褒め方だった。
 守随くんの家は、南一番町の市電通りを挟んだ向こう側の、積み木のように同じ大きさの家が並んだ住宅街の一画にあって、平畑の飯場からはちょうど十五分ほどの距離だった。鉄製の小さな門扉を押して入ると、ヤツデの植えこみからすぐ玄関に突き当たった。彼はカラカラ引き戸を開け、ただいま、と言った。ゴボウみたいに痩せた母親がおろおろ出迎えた。
「いらっしゃい。ようこそ」
「勉強を教えてもらいにきました。よろしくお願いします」
「こちらこそ、洋一をよろしくお願いします」
 眼鏡をかけた父親も出てきた。守随くんと瓜二つだった。
「どうぞ、どうぞ、上がってください」
 二人ともおろおろしていた。守随くんだけが威張っている感じだった。
「神無月くんは野球がうまいんやてねェ。五年生なのに四番を打っとるって? すごいなあ。いつも洋一から聞かされとります」
 極端に表情を崩しながら言う。私はただニヤニヤしていた。
「守随くんのほうがすごいです。いつも一番だから」
「勉強はできても、運動はカラッきしですよ。うらなりやね。もっとからだを鍛えるようにって、ハッパをかけとるんですがね。いやあ、歓迎、歓迎。洋一の友達がわが家に遊びにきたのは、これが初めてですよ」
 初めてという言葉を聞いて、なんだかふっとさびしくなった。あの狭苦しい浅間下の三帖間にさえ、サブちゃんやジロちゃんが遊びにきたのだ。
「これ、静岡のいいお茶だそうです」
「それはどうも、ご丁寧に」
 母親が押しいただくように受け取った。守随くんに導かれて、八畳の茶の間に入った。母親も父親ももニコニコ笑いながらついてきた。すでに菓子盆の載った大テーブルが用意されていた。参考書や問題集も何冊か積んであった。母親がさっそく茶をいれに台所へいった。


         十八

「平畑の建設会社にいるそうで」
 あぐらをかいた父親が尋く。
「はい、西松建設の飯場つき事務所です。母はそこで賄いをやってます」
「えらい人だね、お母さんは、きみをこんなに品よく育てて。よほど筋金の入った苦労人やね」
 茶をいれてきた母親が目を輝かせて、
「せいぜいお母さんの苦労に応えたらんとねェ。……神無月くん、ご兄弟は?」
「ぼくだけです」
「洋一も一人っ子やよ。一人っ子というのは、世間でとやかく言われるけど……。そういえば、神無月くん、青木さんの坊やを勇気づけてあげたんやて? 洋一から聞いて、主人も私もほろりとしてまってね」
「いえ、励ましたのは加藤雅江さんです。ぼくは最初、青木くんが気づまりみたいだったのを勘ちがいして、隣の部屋へ逃げてしまって。なんだか、わざとらしく励まさないほうがいいと思ったんです。でも、ちゃんと、心から励ましてあげれば、だれだって明るい気持ちになるんですね。加藤さんはすごい」
 心と反対のことを言った。希望のある人間しか励ましてはいけない、希望のない人間とは心中しなければならない。そんなことはぜったい言えない。
「神無月くんは繊細やねえ。頭がいいんやねえ」
 父親の言葉に守随くんがひっそり笑った。と、母親が、
「二年も三年も寝たきりやもの、なんぼがまん強い人でも、気が滅入っちゃうのが当たり前やから。とにかく励ましてあげないと」
「もういいから、向こうへいってよ」
 うるさいなという眼で、守随くんが母親を睨んだ。二人の大人はハイハイと、うれしそうに居間から退散した。
「やかましいでかんわ。ごめんな」
「ぼく、ほっとしたよ。もっと堅苦しい人たちだと思ってたから」
「どうして?」
「守随くんみたいな、すごい秀才の親だもの」
「ごメイサツ。堅苦しい人たちだよ。父さんは銀行員やし、母さんは熱田高校の先生やもん。あんなふうにニコニコしとるの、初めて見たわ。よっぽど神無月くんのことが気に入ったんやね」
 守随くんは茶菓子を前歯でゆっくり齧った。小山田さんほどではないが、少し反っ歯だと気づいた。私は茶をすすった。
「さっそく、これからいこまいか」
 テーブルの前にあぐらをかき直し、舌先を筒のように丸めながら、固い表紙の『自由自在・算数』という分厚い本を開いた。太字で書いてある公式を指で示す。
「追いつき算。意味なんかわからなくていいから、声に出して、暗誦!」
 私は活字をたどりながら大声を出した。
「追いつくまでの時間、イコール、はじめの距離、割る、速さの差」
「あと三回」
「追いつくまでの時間、イコール、はじめの距離、割る、速さの差。追いつくまでの時間、イコール、はじめの距離、割る、速さの差。追いつくまでの時間……」
 それが終わると、守随くんは私の隣に並びかけ、丁寧に鉛筆を動かしながら、追いつき算の例題を二つ解いて見せた。私がじっと見ていると、
「計算なんか、こんなもんでええんだがや。じゃ、今度は鶴亀算」
 同じような暗誦を繰り返し、さらに仕事算の公式も暗誦させられた。守随くんの勉強に対する真剣な思いが、大きな暗誦の声といっしょに、胸にずんずん滲みこんできて、私は思わず姿勢を正した。
「さ、今度はちゃんと応用問題を解いてみよまい。競争しよ」
 応用問題を解く段になると、守随くんはくるくる鉛筆を回しながら、猛烈なスピードで解答を出していった。私には思考のきっかけすらつかめない難しい問題を前にして、魚が水面の虫を器用に捕らえるようにすぐに解決の糸口を発見する。
「ぼくも守随くんみたいになれるかな」
「たいしたことあれせんよ。暗記したとおりやってるだけやが」
 彼にはふだんの印象とちがって案外陽気なところがあり、私が脇目も振らず考えこんだり、あっ、そうか、と叫んだりすると、何がおかしいのかクスクス笑ってばかりいる。馬鹿にしているというのではなく、どうしてこんな子供だましみたいな勉強に夢中になれるのか、この世の中にはもっと情熱的に打ちこまなければならないものがあるのにといった、大人っぽい悟ったような笑いだった。
 守随くんは勉強の合間に、私の野球の技量を誉めた。
「ええなあ、神無月くんは、野球がうまいで。将来ピッカピカだが。桑子先生が言っとったわ、神無月はきっとプロにいくやろって」
「うん、ぜったい、いくよ。中日ドラゴンズか、大毎オリオンズにいくんだ」
 守随くんは頬を赤らめ、緊張した面持ちでうなずいた。彼自身が願っても叶わない生活の指針と、自分の才能に対するゆるぎない信念が、私の抱負にまざまざと感じられたからだった。
「守随くんだって勉強がすごいから、ピッカピカじゃないか」
「あかすか、そんなもん。勉強なんかできたって、〈末は博士か大臣〉どまりだが。先が見えとる」
「博士か大臣なら、最高じゃないの」
「おちゃらけたこと言やすな。ほんとにそう思っとったら、神無月くんだって、もっと勉強するんやない?」
「いや、ぼくは、勉強は……」
「野球選手のほうがすごいで。月とスッポンだがや。生まれつきの才能がちがう」
 私は野球というものが、ほかのスポーツとは比べようのないくらいすばらしいものだとは感じていたけれど、博士や大臣が野球選手より劣っているとは思えなかったし、またそんなことを考えたこともなかった。
「お、七時半や。テレビでも観よまい」
 居間の隅にテレビが置いてあった。守随くんがスイッチを入れると、虹の国からという題字が写った。
「中山千夏いうおもしろい子供と、益田キートンいうおもしろいオッサンが、クズ屋の親子をやるんよ」
 すばらしい主題歌が流れ出した。私はその場でメロディと歌詞を暗記した。ドラマそのものは、クズ屋の父娘の日常をおもしろおかしく描いただけのもので、それほど印象深いストーリーではなかったけれども、親子のユーモアたっぷりな掛け合いがわざとらしくなくて、飽きなかった。
「中山千夏はみなしごなんや。キートンが育てとる。千夏は母親を探しとるんよ」
 保土ヶ谷の父を訪ねたことが、どこにでもありがちなことに思われてきた。世間にはよくある話なのかもしれない。でも、ありきたりと思われるなら、それでもいい。いまでも眼の奥に、階段を上っていく父の背中がはっきり見える。私の思慕はテレビドラマにでもなりそうな月並みなものだったのかもしれないけれど、あの背中の深い悲しみは、私の記憶の中でけっしてありきたりではないのだ。
「さ、勉強!」
「うん」
 それから三十分ばかり仕事算の問題の解き方を教わり、また母親と父親に丁寧な挨拶をされて、守随くんの家を出た。
 帰り道、歌詞をうろ覚えのまま唄ってみた。

  雨が上がった 並木の道を
  歩けばそこに 虹の橋
  あの橋渡れば 母さんが
  きょうも元気か よかったね
  手を振りながら 呼んでいる

 母さんというのは、赤ん坊のときにクズ屋に拾われた女の子が捜し求めている母親のことだと、守随くんが言った。その事情を知りながら唄うと、しみじみと胸にきた。
 テレビはそのとき一回観たきりで、守随くんが中休みにテレビを点けることは二度となかった。だから、うろ覚えの歌詞を確かめることはできなかった。
         †
 冬休みを挟んだ二カ月のあいだ、水曜日ごとに、私は夕飯も食べずに守随くんの家にかよいつづけた。勉強の中休みに母親が、
「おぶうにしやあせ」
 と、茶請けのケーキや、〈ういろう〉や、うなぎパイなどのおやつを持って現れるのがめずらしかった。一度、出前でとった握り鮨を出されたことがあった。私はナマ魚が好きでなかったので、甘いタレを塗った蒸しアナゴを一つつまんだあとは、そのまま手をつけずにおいた。片付けにきた母親が、干からびた鮨を悲しそうに見つめる横顔を見て、なんだか申し訳ないような気がした。
 守随くんとそっくりのまじめそうな父親も、
「ようけ、覚わりますか?」
 と、かならず母親といっしょに灰皿持参で様子うかがいに顔をのぞかせ、一服吸いつけるついでに、白髪の混じった髪を撫でながら、難しい教訓めいた話をしていった。
「長生きすればするほど、楽しいことがだんだん少のうなっていって、ものごとにすぐに飽きてまったり、ダラダラさぼってみたり、それがもとで苦労したり、悩んだりすることが多なるんです。人間とはそうしたもんですよ」
 とか、
「大きく盗むのは国で、小さく盗むのは人です。所得倍増計画なんて、口先だけのまやかしです。倍増したって、いままでの倍、国に盗まれます」
 などと、眼をパチパチやりながら独り言のように言う。私たちの反応が少ないせいで、父親の話は中途半端に勢いが萎えてしまうことが多かった。すると彼は気まずそうに、二人の将来の明るいことを諭してお茶を濁すのだった。
「きょうはふたたびきたらず。うんと勉強し、うんと遊んで、でっかい可能性に向かってがんばるんですよ」
 居間を出ていくときの背中が、いつも私の心に沁みた。守随くんの父親は彼なりの秘めた哲学を精力的に語っているのではなく、疲れて、単純に愚痴を言っているだけのように見えた。守随くんは机に肘をついて、父親の背中を尊敬のない目つきで見送りながら、舌先を丸めていまにも唾を飛ばしそうなオドケ顔をした。私は悲しかった。おどけたふりを見せてはいても、彼が両親の隠れた独裁の杖に操られていることがぼんやりとわかったからだった。
 勉強は楽しかった。二人で頭を突き合わせながら、いっしょに難しい問題に挑戦していると、いままで自分では気づかなかった頭の中の隅々の細胞が、どういう仕組みからか、しゃきしゃきと活発に動きだすように感じられた。頭の血管の一本一本がさわやかに脈打ち、滞っていた血のかたまりが少しずつ押し流されていくような感じなのだ。
 自分の知らなかったアタマの反応を感じるのはたまらなく愉快だった。私は調子に乗り、守随くんを促しながら、次から次へと新しい問題に挑戦し、ときどき彼より早く解けてしまうことさえあった。私はうれしさに身をよじった。そんなとき守随くんは、おおらかな笑顔で祝福してくれた。彼は、勝ち負けとか、口惜しさというものとは無縁の人間のようだった。何もかも心やさしく認めて、恬淡としているふうなのだ。
「さすがやなあ、神無月くんは。オニアタマの言ったとおりやが。野球もうまいし、頭もいいし、鬼に金棒だがや」
「そんなことないよ。いまのはまぐれさ」
 やがて私は、自分の着想と、計算の達者なことに、われながら驚くようになった。ほど経ずに見ちがえるようになった私を、守随くんは天才とまで言って誉めそやした。


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