八十七

 小さな丸い卓袱台にすでに準備されていた料理に目を牽かれて、部屋を見回すこともなくあぐらをかいてすぐさま箸をとった。ブリの照り焼き、辛子ナスの漬物。品目の少なさが食欲をそそる。ワカメと豆腐の味噌汁が出てきた。めしを頬張り、味噌汁をすする。いい味噌加減だ。ブリの身をほぐして口に入れる。名人芸だった。甘くなく、辛くなく、めしが進む。先生も遠慮がちに箸を動かす。
「おいしいですか?」
「うん!」
 辛子ナスと味噌汁で二杯目を食い切り、三杯目のめしをお替りする。ふたたびブリに取りかかる。
「さすが、魚屋の娘だね。食いつづけても飽きない」
「お姉さん譲りの少し濃い味つけなの。お店で出すものって、醤油は沁みてないし、とろみもないし、薄っぺらい味でしょう?」
「外でブリ照りを食べたことは一度もないし、ブリ照り自体生まれて初めてだ。とにかくうまい」
 先生は私の箸の動きを見つめている。
「―信じられない。ものを食べる姿もきれいなのね。箸もゆっくり動かすし、お魚も上品にほぐして、少ししか食べない」
「三杯めし食ったのを見てなかった? 考えてごらん、横浜で三帖板間暮らし四年、名古屋で飯場暮らし六年、上品なはずがない」
「上品さって、環境じゃなく、生き方が反映するものなんです」
「生き方? 勉強して、セックスして、野球するのが?」
「何をしても関係ありません。ものを考える習慣が上品さになります」
「ふうん、何も考えてないんだけどね」
 腹がくちて、見回すと、つくづく狭い部屋だった。ドアを入ってすぐ左手の壁にちんまりとした箪笥が二棹並んで貼りつき、その脇に背の高い食器棚がくっつけてある。少ないながら色とりどりの器が納まっていた。箪笥の上に小ぶりな本立てが載せてあり、かなりの冊数の単行本や文庫本が並んでいる。本立ての脇にあふれて積んである一冊の背文字が『さぶ』と読み取れた。山本周五郎。知らない作家だった。
 箪笥の向かいの一間窓にくっつけてベッドが置かれていた。ベッドと箪笥のあいだに嵌めこむように卓袱台が据わっている。私の背中はじかに押入の戸に凭れかかっていた。そんな狭い空間に自分が座っていたことに気づいてあらためて驚いた。壁の色も、ピンクのカーテンも、本立ての隣のガラスケースに収められた日本人形も、長押に吊られた紺色の女物のスーツも、すべてが妙に物悲しかった。その原因は、箪笥の下からベッドの端まで敷かれた三畳ほどの薄手の赤い絨毯にあった。
「ベッドか……」
 私は、ベッドではなく蒲団に安らぎと温もりを感じる性質なので、部屋全体がみすぼらしく見える。
「ベッドを見ると、いつも寝台車をイメージしちゃう。ここ何畳?」
「六畳」
「ぼくの部屋は十畳だよね?」
「そう。ここは台所を入れて七畳。月六千五百円。私、箪笥二つもあるし、ベッドまで置いてるから、四畳ぐらいにしか見えないでしょ」
 私の部屋は九千五百円だった。
「六畳よりもっと狭く見える。ものを片寄せすぎだ。模様替えしなくちゃ。ベッドは窓ぎわでいいとして、箪笥二つは、あっちの壁につけてしまおう。窓のない壁がむだになってる。いますぐやろう。これじゃだめだ。わびしすぎる。箪笥のあった場所には本立てを置こう。本が増える。先生はもっと明るくて陽気な人なんだよ。それらしくしないと。絨毯は取ってしまって、畳の地肌を出す。畳はきれいなの?」
「はい。畳替えして入居したから」
「じゃ、いますぐやろう。箪笥を動かしたら、書棚を買いにいこう」
「だいじょうぶ、あした自分でやっておきます」
「いますぐやらなくちゃだめだ。何でも、いますぐだ。女の〈あした〉は永遠にやってこない」
「はい―」
 食器を流しに片づけ、箪笥を動かしはじめる。絨毯を引っ張り出す。
「この絨毯はダニだらけのはずだから、ゴミに出して。畳が汚れるのが心配なら、畳ゴザを敷けばいいけど、すぐ古くなる。何も敷かないほうがいい。箪笥の後ろの埃を掃き出して、すぐ雑巾がけして」
「はい」
 青々とした畳の上を滑らせながら、あっという間に二つの箪笥を移動し終えた。広々とした部屋になった。
「広い!」
「だろ。あとはいつも掃除機をこまめにかけとけば、清潔だ。いま持ってくる」
 自分の部屋にいって、掃除機を手にすると急いで先生の部屋に戻った。ベッドの下まで丁寧に掃除機をかける。
「女はだらしない生きものだから、よほど神経を尖らせていないと身の周りがすぐ不潔になる。おふくろから学んだ」
「すみません。つい面倒くさがって。すっかり見ちがえたようになったわ」
「掃除機と炬燵も買ってこよう。ぼくはカバンの底にたくさん金を持ち歩いてるけど、後ろめたいものじゃないからね。気にかけないで。親切な人たちがくれた義捐金だ。不定期だけどかなりの金額で入ってくるから、使わないとなくならない」
 あらためて卓袱台に向かった。吉永先生が真っ赤な顔で感激している。
「常識じゃ推し量れない人ですね! 大勢の女の人と付き合ってるみたいですけど、勉強する時間はだいじょうぶですか」
「たっぷりある。もともとそのためにアパート借りたんだ」
 せっせと流しと卓袱台の片づけを急ぐ吉永先生の横顔に期待の色がある。心なしか腰のあたりの固さがきのうよりほぐれているようだ。
「……私、勉強のじゃまになりませんか」
「勉強とセックスはまったく関係ない。セックスの合間に勉強してもいいくらいだ。心配いらないよ」
「はい……」
 曲がりなりにも彼女は高校の教師なのだ。こんなことが発覚すれば、まちがいなく職を追われる。背徳の不安は大きいにちがいない。それなのに、自分の行為の影響を質そうとする気持ちがいじらしい。私は、洗い終えた食器を布巾で拭っている先生の背中を抱きしめた。
「さあ、商店街を歩こう」
「はい」
 夕暮の商店街に灯りが連なっている。浅間下……。まず電器店へいって炬燵を注文し、家具屋へ回って背高の書棚を買った。すべて現金払い。住所を告げ、あした届けてくれるように言った。
          †
 ベッドで目を覚ますと、肩まで蒲団をかけられ、乳房が背中に押しつけられていた。私は寝返りを打った。吉永先生が目を開いていた。泣きつづけたように、うっすらと一重まぶたが腫れている。
「よく寝てました。一時間ぐらい」
「ごめん」
「ううん。うれしくて泣いてたの。こんな女を……」
「その言葉は二度と言わないでね。こんな女も、あんな女もないさ。みんな同じだ」
 吉永先生がふるえたようだった。
「神無月くんなしでは、私、もう生きていけません。ほかの女の人たちみたいに、私にも好きなときに声をかけてください。抱いてくれなくてもいいんです。ときどき、五分でも十分でもお話したり、コーヒーを飲んだりしていっしょに時間をすごせれば、それでいいんです」
 彼女は二度目の交接でも悦びを知ることができなかった。私の射精を最大の喜びにして、自分も大きな快感を得た気になっているようだった。愛らしい少女ぶりだと思った。
「ごめんね、寝てしまって」
「いいえ、やさしくしてくれて、ありがとう。……神無月くんは私のことを先生って呼ぶけど、私は神無月くんのことをキョウちゃんと呼んでいいですか?」
「いいよ、二人でいるときだけね」 
「はい。疲れたでしょう。……きょう信也先生にキョウちゃんの事情を詳しく聞きました。…このあいだの私の態度、どうか許してくださいね。信じられない状況でキョウちゃんが精いっぱい生きてることを知りました。楽しい受験物語―キョウちゃんが腹を立てた理由がよくわかりました。ほんとに申しわけありませんでした」
 枕もとの時計を見ると、そろそろ十時に近い時間だった。
「じゃ、ぼくは部屋に戻るよ」
「はい」
 吉永先生は、ブラジャーをはめ、箪笥から新しいパンティを取り出して穿くと、ベッドの下に投げ出してあったパンティを流しの下の納戸にしまいこんだ。
「洗濯はどうしてるの?」
「裏庭が共同洗濯場になってて、水道も盥も物干しも揃ってますから、日曜日にいっぺんにやるんです」
「洗濯機を置くスペースがないものね」
「ええ、でも、手洗いでじゅうぶんです。キョウちゃんのも洗いましょうか」
「いや、いい。女神が悲しむ」
「女神さん……て言うんですね。会いたい」
「そのうち会えるさ。もう〈声〉は知ってるんだから。長い友だちになれるといいね」
「はい、ぜったい」
 私の放出の瞬間に彼女はその声を懸命に上げてみせた。小さな切ない声だった。
         †
 その週の土曜日に、吉永先生のことをカズちゃんに告げた。カズちゃんは吉永先生が私の時間を蚕食する厄介な女でないことと、教師特有の倫理観で私の行動に干渉を入れないことを関心の柱にして話を聞き、それに安堵すると、先生の身の上や人生歴や肉体経験など詳しいことは一切訊かなかった。
 翌日、半袖と半パンのトレパンをカズちゃんに買ってきてもらった。それを着て、朝のランニングと三種の神器をやった。三種の神器はシャトー西の丸の裏の小庭でやった。ランニングは往復一時間をメドにした。
 センバツの予選が進むにつれて、河原の見物客も減っていった。私はただ淡々と走ったり投げたりしているだけだったし、めったに紅白戦もなければ、シートバッティングやフリーバッティングもなかったからだ。飛島寮の社員たちも見物にこなくなり、カメラマンの数も激減した。私の日常は完全に安定した。
 ある平日の夜、母が遅くにやってきた。息子に素っ気なく応対されながらも、抜け目なく部屋の中を見回し、社員の消息などを話し、煙草を一本吸いつけた。
「人からもらった金を使って、贅沢に揃えたもんだね。洗濯物はどうしてるの」
「下に共同洗濯場と物干し場があるから、日曜日にいっぺんにやってる」
 吉永先生の口まねをした。ひさしぶりに長話に付き合ってやった。それは、私が生まれてからもの心つくまでの、私自身回顧しようのない闇の数年間で、百ぺんも聞かされた彼女の苦労話だった。その日も態度にこそ出さなかったが、私は、そういう話はすべて空しかった現実を糊塗するでっち上げだと切り捨てる思いで聞いた。
「おまえはきっと、大した人物になるよ」
 と母は言った。彼女は、息子が学校という公的な集団で地歩を築いたことを見直し、その彼が自分の前であまり勉強にこだわっている様子を見せず、母親の話にまことしやかに相槌を打つのを喜んでいる気味さえあった。彼女の喜びは、息子が野球選手や勉強家であることではなく、彼が自分を大切にしてくれることだった。私は彼女の、平凡なくせに入り組んだ心向きを考えるのが面倒なので、ニヤニヤ笑いながら彼女の長話に興じるふりをした。
 私にとって母は、世間によくある、人格的に越えられないハードルのように立ちはだかって気持ちを滅入らせる人間ではなかった。ただ厭わしい人間だった。とりわけその皺にまみれた細い顔の中心に据わっている鷹のような目が厭わしさの源だった。それは周囲の人間を自分への好意と肩書と勤勉さで判断しようとする、そしてそのどれが欠けていても心から肯定の微笑を向けることのない、人間として革命を起こし得ない人びとの所有物だった。母はもう一本煙草を吸いつけて帰った。もう今年はこないだろうと思った。
 いまの私は父のことがよく理解できた。母を選び、そして彼女を捨てた父に、淡い同情を禁じ得なかった。父はたしかに肩書があり、会社勤めをいとわないほどの勤勉な人間だったが、同時に、気弱で、逃走癖のある人間だった。母とは正反対の、教育のない素朴な女に魅かれ、生まれて初めて身も心も男として愛される幸福に目覚め、おそらくは肩書も勤勉も、そして、母ばかりでなく乳飲み子の私までも振り捨てたのだった。私は父の心を慈しんだ。
 いのちの記録に一篇の詩を書きつけた。

  ことばが悲しみをもだし
  皮膚からのぼって消えるとき
  あるいは
  化石とも 進化の極限ともいえぬ存在理由を
  生理的につきつけられるとき 
  私は眼の底に 生活を刻みこむ
  おお 恋人の腹は
  こまかく波を打ち あたたかい
  腹に手を置いたまま
  目を閉じると
  衣を染めたような 青い海が見える



         八十八

 そんなある日、吉永先生が自転車を買ってきた。
「どうして? ぼくのがあるのに」
「二人で乗り回してたら、タイヤのムシはやられるし、いつパンクするかもわからないでしょ。飛島寮に急用ができることだってあるかもしれないもの。それに、ふらっと散歩することもあるでしょ」
「ありがとう。先生も朝あわてて出ていくことが多いから、自分用のものを持ってたほうがいいね」
「大学の文芸クラブの先輩が今度天神中の保健室に勤めることになって、先週、公園の向こうに越してきたんです。一度遊びにいくけど、会ってみる?」
「いや、いかない。人間関係が増えるのはごめんだから。先輩ということは、二十五、六だよね。ふうん、文芸クラブか。それで先生は、けっこう本を持ってたんだね」
「山本周五郎研究会。すばらしい作家よ」
「あの『さぶ』ってのも?」
「そう」
「ぜんぶ貸して。読んでみたい」
「わかった。来週までに代表的な作品を、新本で七、八冊買っておきます」
 吉永先生は週に一度は私の部屋にやってきて、カレーを作ったり、魚を焼いたりした。そしていつも慎ましく私の誘いを待って、肉体を開いた。快楽を求めるのに貪欲ではなかったけれども、からだの反応は日増しに確かなものになっていった。そして、彼女なりにあまりにも強く反応して疲れたときは、一晩泊まっていくこともあった。
         †
 九月十七日日曜日。七時起床。二十・二度。ユニフォームを着、グローブを脇籠に入れて出る。カラリとした快晴。
 庄内川グランドまでの自転車の走路は、まず環状線に出て左折し、上更の次の信号を右折、直進し、名鉄線の土手に出る。細道を右折して名鉄線の高架をくぐり、つづけて新幹線の高架をくぐって、すぐ右折。あとはひたすら真っすぐ。名城大学付属高校に突き当たる。高校の構内に駐輪し、河原に向かう。ここまで二キロ弱、時間にして九分。岩塚から通うより近い。芝草に切られた石階段を昇り、県道一○六号を歩き、付属高校グランドへ。ここまで十五分。これでもまだ岩塚よりはるかに近い。
 河原にほとんど人けがなくなった。練習に熱がこもる。練習を始めて以来、突き指も捻挫も肉離れも、肩や肘や腰の故障もない。いや、中学一年の手術以来五年余り、いっさい故障がない。偶然とは言え、天の恵みだ。
 帰り道、ふと、出産後のトモヨさんや病み上がりの文江さんはやむをえないとしても、ここしばらく節子、素子、法子の三人をなおざりにしてひさしいことに思い当たった。自転車を降り、電話ボックスから日赤に電話する。やはり日曜出勤していた。呼び出された節子は息せき切って電話口に出たようだった。
「キョウちゃん、うれしい! きょう、和子さんが病院にきて、おかあさんの退院までの個室の費用と、保険の差額を払ってくれたんです。おかあさん、先月できちんとテレビ塔を辞めて、いま書道教室を開く準備をしてます。十月一日から始めるんですって。住宅つきの小さな店舗です。最初の生徒として北村席の女の子を何人か回してくれるそうです」
「よかったね! もう、あの暗い家には住まなくていいんだね」
「ええ。和子さんて、ほんとに、神さまみたいな人」
「きょう何時まで?」
「四時で交代です。日赤はふだん土日は特別診療しかやってないんですけど、若手のお医者さんと准看は駆り出されることが多いんです」
「おいでよ」
「いっていいんですか?」
「ひさしぶりに、ネ」
「……はい」
「上更の交差点で、四時半に待ってる」
「タクシーでいきます」
 節子を待つあいだ、生物の遺伝の勉強をした。吉永先生が三時ごろ顔を出し、例の先輩と市内を休日散策して、夕食もすましてくるので、外食しておいてくださいね、と言いにきた。先生に節子のことを知らせる機会が先延ばしになった。
         †
 環状線に出て、パチンコ屋の前でタクシーを待つ。節子はタクシーを降りると、白いミニのフレアスカートを揺らして走ってきた。カズちゃんと同じように飛びつく。私はしっかりと抱き締める。
「これからは、ちょっと勉強が忙しくなる」
「はい。もうおじゃましません」
 節子はあたりの景色を見ずに、私だけを見上げて歩く。八坂荘の玄関も階段もその格好のまま歩き、ドアを開けたときだけは室内に目を瞠った。
「きれいなお部屋!」
 机を見、机の足もとのテープレコーダーを見、カーテンを見、炬燵を見、それから蒲団を見る。頬が赤らむ。口づけをする。唇を貪りながらすすり泣いた。
「キョウちゃん……」
 蒲団へいざなった。横たえ、夏物の白いシャツを脱がせ、白いミニスカートのジッパーを下ろす。薄物のパンティから陰毛が透けて見える。フリルのついたブラジャーを外す。心なしか、乳房のかさが増している。豊満な手触りだ。パンティを脱がし、臍の周りと内股に舌を当てた。
「ああ、また抱いてもらえるなんて。私、キョウちゃんにつらい思いをさせてきたわ」
 心から吐いた言葉だとわかる。好色な思いに浸っている私はかえってつらくなる。
         †
 痙攣が間遠になるまで腹をさすっている。
「ありがとう……落ち着きました。こんなに幸せにしてもらって、私、キョウちゃんに何もしてあげられない」
「愛してくれるだけでじゅうぶんだ」
 節子はにっこり笑って起き上がると、枕もとのティシューを取って睾丸を拭う。
「こんなところまで私のでビッショリ。……恥ずかしい。……キョウちゃん、私も東京へいきます。迷惑はおかけしません。お母さんは、名古屋に暮らしていつもキョウちゃんを待ってるって言ってます。キョウちゃんに抱いてもらえるなら命はいらない、どうせなら健康な命をあげたい、もっともっと健康になって、一度でもたくさん抱いてもらいたいって。そんなこと実の娘に言うのよ。でも、生きようって気持ちをしっかり持つのが、病気の回復にはいちばんいいんです。何もかもキョウちゃんのおかげ」
 節子の目に涙があふれた。
「節ちゃんは、こういう人だったんだね」
「私は生意気で、いいかげんな女でした。葵荘にキョウちゃんが訪ねてくれたときの自分のことを思い出すと、恥ずかしくてたまらない。よくあんなことを……」
 私は節子の暖かい腹に手を置いて言った。
「偶然のことから再会できて、そしてもう一度しっかりと捨てられた。その日から僕はきちんと生きはじめたんだ。もう一度捨ててくれてほんとにありがとう」 
「そんなこと言わないで。つらくて死にたくなります」
 節子は私の手をとって唇に当てた。
         †
 十八日月曜日の下校時に、七三分けのまじめそうな眼鏡面が机に寄ってきて言う。
「文化祭の練習したいんやけどな、週三回。頼むわ」
 フォーククラブの田島だった。原、竹内、金原の三人も寄ってくる。
「練習はしない。信也先生から聞いてるはずだ。きょう学校帰りにぼくのアパートへ寄ってくれ。練習しなくてもいいということがわかるから。きみたちの数十倍はいろいろな歌を知ってるし、歌詞も覚えてるから、指定してくれればきちんと唄う」
 金原が、
「すごい声やよ、びっくりするで」
「きょう以降文化祭まで、ぼくはお構いなしにしてくれ。それから、ぼくは全力で唄うので、二曲か三曲しか唄えない」
「デュエットが混じれば、五、六曲いけるんやないか」
「いや、それでも三曲までだ」
「じゃ、奮発して五曲、頼む。五人で七つの水仙、金原とデュエットでヘイ・ポーラと、いつでも夢を、あとの二曲はお前のソロでいこうや」
「わかった。じゃ、一つは北原謙二の、さよならさよならさようなら、もう一つは西高校歌。きっちり和音を作り上げてくれよ。ぼくは楽器ができないから」
「オッケー、それで頼む」
 原と竹内が、
「西高校歌やて、だいじょうぶか」
「なんとかなるやろ」
「練習不用の確認をしたあとで、中日ビルのビアガーデンにいこう。回転レストランの下にある。おごるよ」
 四人、ギターを抱えて八坂荘までついてきた。金原は部屋の整頓ぶりに驚き、竹内は相変わらず、
「絶世の美男子やな」
 を連発した。
「金原さん、ぼくがヘイヘイ・ポラと言ったら、ヘイ・ポールと応えてみて。ヘイ、ヘイ、ポラ、アイ、ワナ、マリユー」
「ヘイ、ポール、アイ、ワナ、マリユー、トゥー」
 私は驚き、
「すばらしい声だ! いいデュエットになる」
 私は伴奏なしで北原謙二だけを聴かせた。

  赤いパラソル くるりと回し
  あの娘しょんぼり こちらを向いた
  町の外れの つんころ小橋
  さよなら さよなら さようなら
  すずめチュンと鳴いて 日が暮れる

「なんだなんだ、その声は。こりゃ事件だぞ」
「信じられん!」
「絶世の美男子やな」
 金原は唇をゆがめて涙を浮かべている。

  後ろ向かずに 歩いていたが
  こらえきれずに あと振り向いた
  きっとあの娘も おんなじ気持ち
  さよなら さよなら さようなら
  胸のブローチが 光ってた

「わかった、わかった、もういい。神がかりだ。ジンときたがや。まいった」
「聞いたことのない発声だな。どっから声出しとるんだ」
「ファルセットでないよな」
「地声やろ」
 竹内も原も口をモゴモゴさせ、とつぜん降って湧いた新しい〈事件〉を検証しようとしていた。ようやく原が正方形の顔をほころばせ、
「とんでもない文化祭になるで。金原とのデュエットを一曲聞かせてくれ。いつでも夢を」
 金原はハンカチで涙を拭くと立ち上がった。私も並んで立った。男三人がギターの和音を奏ではじめる。ギターの合奏というものを初めて聴いたが、冷たい風に耳の穴を貫かれるように快適だった。
「星よりひそかに、雨よりやさしく、あの娘はいつも歌ってる、声が聞こえる、さびしい胸に、涙に濡れたこの胸に」
「二人で!」
 田島が合いの手のように声をかける。
「言っているいる、お持ちなさいな、いつでも夢を、いつでも夢を、星よりひそかに、雨よりやさしく、あの娘はいつも歌ってる」
「はい、金原だけ!」
「歩いて歩いて、悲しい夜更けも、あの娘の声は、流れくる、すすり泣いてる、この顔上げて、聞いてる歌の、なつかしさ」
「二人で!」
「言っているいる、お持ちなさいな、いつでも夢を、いつでも夢を、歩いて歩いて、悲しい夜更けも、あの娘の声は流れくる」
「二人で、フォルテ!」
「言っているいる、お持ちなさいな、いつでも夢を、いつでも夢を、はかない涙を、うれしい涙に、あの娘は変える、歌声で」
「五人全員! メゾフォルテ!」
「あの娘は変える、歌声で―」
 オー! 拍手。拍手。ギターを叩く。
「完璧だ。プロデビューできるぞ! 神無月、サンキュー。よくわかった。練習はいらん。七つの水仙はいいんだな」
「ああ。アイ、メイナット、ハバ、マンション、アイ、ハブン、テニラン」
「よしよし、わかった。西高校歌はなんとか編曲する」
「スローテンポにしてくれ。美しい曲だから」
「了解」
「じゃ、ビアガーデンにいこうか」
「おー!」
 金原だけが自転車だったので、八坂荘に置いたまま、市電通りで大型タクシーを拾って中日ビルに向かう。ギター三つを後ろのトランクに詰めた。



         八十九

 とつぜん田島が、
「おい、十月が近いのに、ビアガーデンはやっとらんやろ」
「まだ寒くない。やってる」
 私が言うと、原が、
「やっとっても、やっとらんでも、酒は飲まん。生まれてから飲んだことがないし、飲もうとも思わん」
「なんやの、ロボット三等兵。飲めそうな顔して。胃も肝臓もブリキなんやから関係ないでしょ」
 金原がおもしろそうにたしなめる。たしかに四角いロボット顔だ。目も口もブリキに穴が開いているようで、ふさふさ髪が生えているのがおかしい。金原がロボット三等兵という漫画を知っていることがうれしかった。私はその漫画を横浜の貸本屋で、全十一巻借りて読み切った。優しい白髪のお婆さんの顔が思い出された。
 ビアガーデンは開いていて、動いているのかいないのかわからない円盤の下で、全員中ジョッキで乾杯した。原は渋々、泡に唇を浸しただけだった。田島が眼鏡を押し上げ、
「まあ、神無月がたぐいまれな声の持ち主だということはわかった。いつも思っとったんやけどな、神無月は野球に全人生捧げて、不安でないんか。十年、十五年も働けばザッツ・エンドの仕事やろ。学者も歌手もほとんど死ぬまで仕事できるで」
「やりたいと思うのは野球だけだ。勉強はここまでラッキーで乗り切ってきただけだからやりたくない。歌は趣味。それに唄う体力がない」
 五分もしないうちに、原が、
「気持ち悪い」
 と言って、テーブルの足もとに寝そべった。全員驚いて立ち上がった。竹内が、
「飲んどったか、原?」
「いや、泡舐めただけや」
 と田島。寝そべっている原がからだを丸くして、ゲーゲーやりはじめた。
「どうなっとるの、ロボット三等兵。冗談でしょ。二人で連れて帰ってや。私はいっしょにいけんよ。神無月くんとこへ戻って、自転車をとって帰らんとあかんから」
「わかった。じゃ、神無月、文化祭でな」
「バイバイ、絶世の美男子」
 二人の男は原の両腕を肩に抱え、テーブルのあいだを縫ってエレベーター口へ去っていった。
 まだ七時だった。金原が私に向かって小首を傾げた。
「してくれる?」
「しょうがないな。約束よりちょっと早いけど、してあげる。アパートはまずい。とにかく戻ろう。アパートからいっしょに自転車でいくよ。危ない日?」
「きょうはだいじょうぶ。こないだはほんとは危なかったんよ。ここから歩いて帰らん? 二十分ぐらいのもんでしょう」
「三十分はかかる。タクシー乗ってまず八坂荘に戻ろうよ」
「タクシーはあかん、どっか途中でしてほしい。そのあと自転車取って帰るで。神無月くんの顔見とったらもうおかしなってきた」
「わかった。公園か神社の暗がりでしよう。途中までタクシーでいこう」
 レジで金を払い、中日ビルの前でタクシーを拾う。繁華街なのでいくらでもタクシーが通る。
「なんやの、ロボット三等兵、生きていけるんやろか」
「奈良漬でも酔っ払うってやつじゃない? 初めて見た」
「なんとか不活性型ゆうらしいな。遺伝らしいわ」
 西警察署前でタクシーを降り、市電道から一筋、二筋入った道をひたすら天神山に向かった。探しながら歩くと、なかなかいい場所は見つからない。花の木三丁目に入り、もうすぐ西図書館という通りに空地があった。アパートとアパートに挟まれた家一軒分の空地で、棕櫚や背高の樹木が植え捨てられていて、小暗がりがたっぷりあった。敷地全体に膝丈ぐらいの草が生えている。
「ここにしよう」
「もうあかん、やばいわ。オシッコもしたなってきた。ここに入ろまい。藪があるがね」
 立木混じりの藪に入った。真っ暗闇だった。手を引き合わないと歩けない。太い木立を探り当てた。
「なんも弄(いら)わんでええで、すぐ入れて」 
「ぼくはまだだ。少し舐めて、勃たせて」
 金原は地面に膝を立てて咥えこんだ。本人も予測しなかった深さで喉に入りこんだので、彼女は一瞬むせた。たちまち屹立した。金原は立木に手をつくと、もどかしそうに尻を向けた。陰毛のない局部を指で探り、膣口を確かめて挿入する。ヌルリと奥まで入った。
「あ、やばい、すぐイッてまう。あああ、イク、あ、神無月くん、オシッコ出る、イクイクイク、オシッコ出る、イク!」
 木の根もとに小便がほとばしった、小便を出しつづけながら金原は腹の痙攣を繰り返す。中村公園の素子とまったく同じだった。私は猛烈に締まってくる膣に思う存分こねられながら、アクメの収縮と小便の音を愉しんだ。そうしていつもより強く射精し、強く律動した。そのあいだずっと金原は小便を出しつづけた。
「神無月くん、イク! はあ、どえりゃあ気持ちええ、イク! イク! やばい、止まらん、あああ、イク!」
 収縮する腹を抱き締める。神秘に触れる至福のときだ。痙攣が間歇的になり、呼吸が落ち着いてくる。
「すごかったね、金原さん」
 腹をさすりながら言う。
「ありがとう、神無月くん。めちゃくちゃスッキリしたわ」
「どうしていつも、〈やばい〉って言うの」
「自分でコントロールできんようになってまうからやが。ガクン、ガクン、て、からだが勝手に痙攣するの止められんでしょ? もう一回、家でして。オシッコ気にせんと本気でイキたいで。そのあと自転車とりにいくわ」
 明るく響く声に、私は彼女の背中で快くうなずいた。
         †
 九月二十日水曜日。一日じゅう霧雨。下校のとき、屋外便所隣の納戸小屋の奥まった壁に硬式用バットが何本か立ててあるのが目に入り、小屋の隣の用務員室を訪ねた。白髪を刈り上げたかなり年配の男が土間に出てきた。
「おう、有名な顔だね。ここにくるのは初めてですな、神無月さん。何かご用ですか」
「小屋に置いてあるバットは硬式用ですね」
「はあ、むかし硬式野球部があったころの遺物です。捨てるのが惜しくてとっといたんですよ」
「一本いただけませんか」
「どうぞどうぞ、好きなのを持ってってください。ささくれてないやつを選んでね。実際に打てるかどうかは保証しませんよ」
「素振りに使うだけですから、握りさえささくれていなければいいんです。ありがとうございました」
「事情は聞いてますよ。めげずに精いっぱいがんばって、どうかドラゴンズを盛り立てる選手になってください」
「がんばります」
「まずは受験ですね」
「はい、刻苦勉励、粒粒辛苦、成功を目指します」
 じっちゃの言い回しで応えた。
 二十一日木曜日。一日じゅう霧雨。さっそく朝からバットを持ってランニング。ビニール合羽を着ないで出た。きょうは道を変えて、天神山から浄心、浄心から西陵高校までの細道をたどって天神山公園へ戻り、素振り百八十本。握りがザラついて手に馴染まないバットだったが、じっくり振った。かなり雨に濡れたので、八坂荘に帰りついてそっくり下着を替える。
 下校してすぐ、萩の湯にいってひとっ風呂浴びる。ひと晩、机に向かっているあいだ下着だけですごす。快適。
 明日は祝日なので、夜更かしするつもりで、吉永先生の買ってきた三冊の山本周五郎をのんびり読む。人情物の浅い文章を雑読しているうちに、『青べか物語』と『季節のない街』というとんでもない傑作にぶち当たる。明け方まで読んだ。
 九月二十三日土曜日。秋分の日。晴天。十一時まで寝る。耳鳴りが激しい。いのちの記録に季節のない街の感想を書きつけてから、西の丸までランニング。バットを持って走るのはかなりの重労働だとわかったので、持たずに出て、戻ってから八坂荘の前で素振り百八十本。机に貼りつき家永の日本史精講鎌倉時代熟読。
         †
 午後三時過ぎ、
「中日ドラゴンズの球団代表、村迫(むらさこ)です」
 と名乗るガタイのいい四十格好の男と八坂荘の廊下で出会った。ちょうど紙袋に入れたユニフォームとジャージと下着を手に、花の木を訪ねるつもりで廊下へ出たところだった。私は彼を部屋に通し、座布団を勧めてコーヒーを出した。
「球団代表とおっしゃると?」
「中日ドラゴンズの総監督のようなものです。監督、コーチ、選手らの人事を掌握しております。具体的には、選手獲得や、トレードなど、チーム作りの最高責任者です」
 そう言って深く頭を下げた。私のからだじゅうに激しい緊張感が走った。
「―ついにドラゴンズがやってきてくれましたね」
 危うく落涙しかかる。
「これほど騒がれている選手に各球団が打診にこないのは、進学するという情報がまず確実だと思われているからです」
「獲得をあきらめている、ということですか」
 口の利き方がわからない。えらそうな口吻になっているのではないか。とにかく私は感激しているのだ。
「はい。この選手がほしいと思いながらも、本人が大学進学や社会人野球を志望している場合は、われわれは静観するしかないんです。直接本人に説得してはならないということになっております」
 押美スカウトを思い出しながら村迫の顔の造作を確かめたが、まったく似ていない。いわゆるスポーツ選手の面ではない。体格からすると、もともと野球か何かのスポーツをやっていたような感じはするが、この仕事が長いせいで知的な事務職系の顔に変貌したというところかもしれない。彼はいつまでも座布団の外で正座している。
「そこで、先ほど飛島建設の寮にお母さんを訪ねてみたんですが、けんもほろろの応対で、まるで鬼退治のような剣幕でして、いやあ、ほうほうの体で退散しましたよ。執拗にお母さんに当たった一、二の球団関係者もいたようですが、やはり同じような応対を受けたと聞いております。で、きょう、こうして直接訪ねてまいりましたのは、ほんとうにご本人に東大進学の意志があるのかどうか、ハタのものに強いられているのではないか、また新聞に書かれているとおり、中日ドラゴンズに深い関心を持たれているのかどうか、それを最終的に確かめようと思ってまいったわけでして」
「新聞にほのめかされているとおり、ぼくは中日ドラゴンズにしか関心はありません。ドラフトにかかりたくない。だから進学しかないんです。と言っても、ご存知のような事情で、受けるのは東大だけなので、不合格ということも考えられます。その場合がじつに厄介で、母は私と縁を切ろうと思わないかぎり、受験浪人を強いるでしょう。その場合、野球から遠ざかるむだな一年をすごすことになります。いや、二年、三年になるかもしれない。そうなるとぼくの野球人生はひどく遠回りになって、ひょっとすると一巻の終わりということもあり得ます」
「その間、もちろん自由交渉が行なわれるでしょうが、お母さんの妨害が由々しき問題になるでしょうね。少なくとも大手を振って自由交渉するには、神無月さんが成人年齢に達するのを待つしかない」
「はい、成人に達するまで野球をやりつづけないかぎり、体力も技量も急速に衰えます。机に向かって浪人しているわけにいかないんです。ですから、とにかく可及的すみやかに受かるしかない。―必死で勉強して必ず受かります。東大合格ののち、二十歳になった二年生の秋に中退するとなると、ドラフトは翌年、二十一歳のときですよね。これもむだな時間です。あくまでもドラフトではなく自由交渉を希望します。その交渉がスムーズに運べは、いくら母が入団を反対しても、ぼく自身の意思で押し通すつもりでいます」
 私はコーヒーをすすった。
「どうぞ、おいしいうちに飲んでください」
「は―」
 手を出してちびりと飲んだ。



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