八十七 

 部屋に戻って、地学。地層の断面図。地学の中では不得意分野。しかし楽しい。小田切の異能を思い出す。文英堂の問題集は活字と図が大きく鮮明で、難問も易問に感じられて解き心地がいい。コーヒーをいれる。吉永先生がドアを叩いて呼びかけた。
「夕食の用意ができました。いつでもどうぞ」
 二問目をしっかり解き切って、机を離れる。ピンクの菱形を見ながらドアを叩く。ほかに所帯はいくつかあるはずなのに、廊下でだれとも出会わないのはなぜだろう。野辺地の新道のようだ。ドアを叩く。
「どうぞ!」
 半帖の板の間に入る。目の前に半間の流しがある。私の部屋と同じだ。レンジに味噌汁の鍋が載り、壁に打ちつけたいくつかの金具にフライパンや布巾が掛かっている。菅野と同じ工夫だ。
 また別の女との時間が刻まれるようになった。カズちゃんが広げた地図に、私がピンを一本一本刺していく。そしてまだ一本も抜いていない。
 小さな丸い卓袱台にすでに準備されていた料理に目を牽かれて、部屋を見回すこともなくあぐらをかいてすぐさま箸をとった。ブリの照り焼き、辛子ナスの漬物。品目の少なさが食欲をそそる。ワカメと豆腐の味噌汁が出てきた。めしを頬張り、味噌汁をすする。いい味噌加減だ。ブリの身をほぐして口に入れる。名人芸だった。甘くなく、辛くなく、めしが進む。先生も遠慮がちに箸を動かす。
「おいしい?」
「うん!」
 辛子ナスと味噌汁で二杯目を食い切り、三杯目のめしをお替りする。ふたたびブリに取りかかる。
「さすが、魚屋の娘だね。食いつづけても飽きない」
「お姉さん譲りの少し濃い味つけなの。お店で出すものって、醤油は沁みてないし、とろみもないし、薄っぺらい味でしょう?」
「外でブリ照りを食べたことは一度もないし、ブリ照り自体生まれて初めてだ。とにかくうまい」
 先生は私の箸の動きを見つめている。
「―信じられない。ものを食べる姿もきれいなのね。箸もゆっくり動かすし、お魚も上品にほぐして、少ししか食べない」
「三杯めし食ったのを見てなかった? 考えてごらん、横浜で三帖板間暮らし四年、名古屋で飯場暮らし六年、上品なはずがない」
「上品さって、環境じゃなく、生き方が反映するものなんです」
「生き方? 勉強して、セックスして、野球するのが?」
「何をしても関係ありません。ものを考える習慣が上品さになります」
「ふうん、何も考えてないんだけどね」
 腹がくちて、見回すと、つくづく狭い部屋だった。ドアを入ってすぐ左手の壁にちんまりとした箪笥が二棹並んで貼りつき、その脇に背の高い食器棚がくっつけてある。少ないながら色とりどりの器が納まっていた。箪笥の上に小ぶりな本立てが載せてあり、かなりの冊数の単行本や文庫本が並んでいる。本立ての脇にあふれて積んである一冊の背文字が『さぶ』と読み取れた。山本周五郎。知らない作家だった。
 箪笥の向かいの一間窓にくっつけてベッドが置かれていた。ベッドと箪笥のあいだに嵌めこむように卓袱台が据わっている。私の背中はじかに押入の戸に凭れかかっていた。そんな狭い空間に自分が座っていたことに気づいてあらためて驚いた。壁の色も、ピンクのカーテンも、本立ての隣のガラスケースに収められた日本人形も、長押に吊られた紺色の女物のスーツも、すべてが妙に物悲しかった。その原因は、箪笥の下からベッドの端まで敷かれた三畳ほどの薄手の赤い絨毯にあった。
「ベッドか……」
 私は、ベッドではなく蒲団に安らぎと温もりを感じるタチなので、部屋全体がみすぼらしく見える。
「ベッドを見ると、いつも寝台車をイメージしちゃう。ここ何畳?」
「六畳」
「ぼくの部屋は十畳だよね?」
「そう。ここは台所を入れて七畳。月六千五百円。私、箪笥二つもあるし、ベッドまで置いてるから、四畳ぐらいにしか見えないでしょ」
 私の部屋は九千五百円だった。
「六畳よりもっと狭く見える。ものを片寄せすぎだ。模様替えしなくちゃ。ベッドは窓ぎわでいいとして、箪笥二つは、あっちの壁につけてしまおう。窓のない壁がむだになってる。いますぐやろう。これじゃだめだ。わびしすぎる。箪笥のあった場所には本立てを置こう。本が増える。先生はもっと明るくて陽気な人なんだよ。それらしくしないと。絨毯は取ってしまって、畳の地肌を出す。畳はきれいなの?」
「はい。畳替えして入居したから」
「じゃ、いますぐやろう。箪笥を動かしたら、書棚を買いにいこう」
「だいじょうぶ、あした自分でやっておきます」
「いますぐやらなくちゃだめだ。何でも、いますぐだ。女の〈あした〉は永遠にやってこない」
「はい―」
 食器を流しに片づけ、箪笥を動かしはじめる。絨毯を引っ張り出す。
「この絨毯はダニだらけのはずだから、ゴミに出して。畳が汚れるのが心配なら、畳ゴザを敷けばいいけど、すぐ古くなる。何も敷かないほうがいい。箪笥の後ろの埃を掃き出して、すぐ雑巾がけして」
「はい」
 青々とした畳の上を滑らせながら、あっという間に二つの箪笥を移動し終えた。広々とした部屋になった。
「広い!」
「だろ。あとはいつも掃除機をこまめにかけとけば、清潔だ。いま持ってくる」
 自分の部屋にいって、掃除機を手にすると急いで先生の部屋に戻った。ベッドの下まで丁寧に掃除機をかける。
「女はだらしない生きものだから、よほど神経を尖らせていないと身の周りがすぐ不潔になる。おふくろから学んだ」
「すみません。つい面倒くさがって。すっかり見ちがえるようになったわ」
「掃除機と炬燵も買ってこよう。ぼくはカバンの底にたくさん金を持ち歩いてるけど、後ろめたいものじゃないからね。気にかけないで。親切な人たちがくれた義捐金だ。不定期だけどかなりの金額で入ってくるから、使わないとなくならない」
 あらためて卓袱台に向かった。吉永先生が真っ赤な顔で感激している。
「常識じゃ推し量れない人ですね! 大勢の女の人と付き合ってるみたいですけど、勉強する時間はだいじょうぶですか」
「たっぷりある。もともとそのためにアパート借りたんだ」
 せっせと流しと卓袱台の片づけを急ぐ吉永先生の横顔に期待の色がある。心なしか腰のあたりの固さがきのうよりほぐれているようだ。
「……私、勉強のじゃまになりませんか」
「勉強とセックスはまったく関係ない。セックスの合間に勉強してもいいくらいだ。心配いらないよ」
「はい……」
 曲がりなりにも彼女は高校の教師なのだ。こんなことが発覚すれば、まちがいなく職を追われる。背徳の不安は大きいにちがいない。それなのに、自分の行為の影響を質そうとする気持ちがいじらしい。私は、洗い終えた食器を布巾で拭っている先生の背中を抱きしめた。
「さあ、商店街を歩こう」
「はい」
 夕暮の商店街に灯りが連なっている。浅間下……。まず電器屋へいって炬燵を注文し、家具屋へ回って背高の書棚を買った。すべて現金払い。住所を告げ、あした届けてくれるように言った。
 部屋に戻って、流しの前で洗い物をつづけようとする先生を後ろから抱き締め、胸を揉みながら股間に指を入れる。濡れそぼっている。ぬめりを利用してクリトリスをいじる。
「あ、だめ、だめ……ああ……」
 手をシンクの縁に突いて、うつむいた。
「ああ、気持ちいい、もうイ……」
「イッて」
「ああ、イッちゃう、イッちゃう」
 アクメの体勢をとろうとする。あごを引き、少し脚を広げて尻を突き出すと、両足を強く突っ張った。
「イク!」
 ストンとしゃがみこんだ。横抱えにしてベッドへ連れていく。うつ伏せになってスカートの尻をふるわせている。
「きっと、もう痛まないよ」
 耳に囁くと、夢中でうなずく。仰向けにし、スカートを引き下ろして股を割ると、パンティが愛液を吸ってぐっしょり染みている。脱がせる。小陰唇が硬くふくらんで私を迎え入れようとしている。
「すぐ入れるよ」
「はい」
 ズボンとパンツを脱いで、根もとまで一気に入れて静止する。
「痛くない?」
「はい、痛くありません」
 わざと入口のあたりをゆっくり往復させてみる。
「痛くない?」
「チクッとするだけで、痛くありません」
「よかった、ちゃんと貫通してる。いろいろしてみるから、こわがらないでね」
「はい」
 真っすぐ私の顔を見ている。ゆっくり動きはじめる。
「どう?」
 スピードを速め、奥を突く。
「わからない、ああ……ああ、なんだか気持ちいい……」
 壁は迫ってこない。上壁もツルツルしている。これではまだまだ歓びには結びつきそうもない。このへんで自分がフィニッシュしたほうがいい。焦らずに、ゆっくり開発していこう。
「ぼくイキそうだ。イッちゃうね」
「はい」
 奥を連続的に突く。
「ああ、ああ、気持ちいい、気持ちいい……」
「イクよ!」
「ああ、神無月くん、気持ちいいー」
 私を抱きしめる。自分も私といっしょにイッたと誤解している。すぐに抜き取り、流れ出てくる精液をティシューで拭いてやる。
「ほんとに、きのうとぜんぜんちがいます」
「もっと、よくなるよ」
「もっと?」
「うん、五倍も、十倍も。一週間もしたら、そうなる」
「嘘みたいです、もっと気持ちよくなるなんて」
「きょうは、もう一回しておこうね。ふつうのオマンコにしないと」
「わ、エッチ! ……これでふつうじゃないんですか」
「三十パーセント」
「……どうなってしまうんでしょう」
「とにかく、十分ぐらい経ったら、もう一度しよう」
「はい……」
 十分を待たずに私は寝入ってしまった。


          八十八

 目を覚ますと、肩まで蒲団をかけられ、乳房が背中に押しつけられていた。私は寝返りを打った。吉永先生が目を開いていた。泣きつづけたように、うっすらと一重まぶたが腫れている。
「よく寝てたわ。一時間ぐらい」
「ごめん」
「ううん。うれしくて泣いてたの。こんな女を……」
「その言葉は二度と言わないでね。こんな女も、あんな女もないさ。みんな同じだ」
 吉永先生がふるえたようだった。
「神無月くんなしでは、私、もう生きていけません。ほかの女の人たちみたいに、私にも好きなときに声をかけてください。抱いてくれなくてもいいんです。ときどき、五分でも十分でもお話したり、コーヒーを飲んだりしていっしょに時間をすごせれば、それでいいんです」
「ごめんね、寝てしまって」
「いいえ、やさしくしてくれて、ありがとう。……神無月くんは私のことを先生って呼ぶけど、私は神無月くんのことをキョウちゃんと呼んでいいですか?」
「いいよ、二人でいるときだけね」 
「はい。疲れたでしょう。……きょう信也先生にキョウちゃんの事情を詳しく聞きました。…このあいだの私の態度、どうか許してくださいね。信じられない状況でキョウちゃんが精いっぱい生きてることを知りました。楽しい受験話―キョウちゃんが腹を立てた理由がよくわかりました。ほんとに申しわけありませんでした」
 枕もとの時計を見ると、そろそろ十時に近い時間だった。
「じゃ、ぼくは部屋に戻るよ」
「はい」
 吉永先生は、ブラジャーをはめ、箪笥から新しいパンティを取り出して穿くと、ベッドの下に投げ出してあったパンティを流しの下の納戸にしまいこんだ。
「洗濯はどうしてるの?」
「裏庭が共同洗濯場になってて、水道も盥も物干しも揃ってますから、日曜日にいっぺんにやるんです」
「洗濯機を置くスペースがないものね」
「ええ、でも、手洗いでじゅうぶんです。キョウちゃんのも洗いましょうか」
「いや、いい。女神が悲しむ」
「女神さん……て言うんですね。会いたい」
「そのうち会えるさ。もう〈声〉は知ってるんだから。長い友だちになれるといいね」
「はい、ぜったい」
         †
 半袖と半パンのトレパンをカズちゃんに買ってきてもらった。それを着て、朝のランニングと三種の神器。三種の神器はシャトー西の丸の裏の駐車場でやった。ランニングは往復一時間をメドにした。
 センバツの予選が進むにつれて、河原の見物客も減っていった。私はただ淡々と走ったり投げたりしているだけだし、めったに紅白戦もなければ、シートバッティングやフリーバッティングもなかったからだ。飛島寮の社員たちも見物にこなくなり、カメラマンの数も激減した。私の日常は完全に安定した。
 ある平日の夜、母が遅くにやってきた。息子に素っ気なく応対されながらも、抜け目なく部屋の中を見回し、社員の消息などを話し、煙草を一本吸いつける。
「人からもらった金を使って、贅沢に揃えたもんだね。洗濯物はどうしてるの」
「下に共同洗濯場と物干し場があるから、日曜日にいっぺんにやってる」
 吉永先生の口まねをした。ひさしぶりに長話に付き合ってやった。それは、私が生まれてからもの心つくまでの、私自身回顧しようのない闇の数年間で、百ぺんも聞かされた苦労話だった。その日も態度にこそ出さなかったが、私は、そういう話はすべて空しかった現実を糊塗するでっち上げだと切り捨てる思いで聞いた。
「おまえはきっと、大した人物になるよ」
 と母は言った。彼女は、息子が学校という公的な集団で地歩を築いたことを見直し、その彼が自分の前であまり勉強にこだわっている様子を見せず、母親の話にまことしやかに相槌を打つのを喜んでいる気味さえあった。彼女の喜びは、息子が野球選手や読書家であることではなく、彼の学業成績がよいことだった。私は母の、平凡なくせに入り組んだ心向きを考えるのが面倒なので、ニヤニヤ笑いながら彼女の長話に興じるふりをした。
 私にとって母は、世間によくある、人格的に越えられないハードルのように立ちはだかって気持ちを滅入らせる人間ではなかった。ただ厭わしいのは彼女の風貌、とりわけその鷹のような目だった。それは周囲の人間を肩書と勤勉さで判断しようとする、そしてそのどちらが欠けていても心から肯定の微笑を向けることのない、人間として革命を起こし得ない目だった。母はもう一本煙草を吸いつけて帰った。もう今年はこないだろうと感じた。
 いまの私は父のことがよく理解できた。母を選び、そして彼女を捨てた父に、淡い同情を禁じ得なかった。父はたしかに肩書があり、会社勤めをいとわないほどの勤勉な人間だったが、同時に、気弱で、逃走癖のある人間だった。母とは正反対の、無学で素朴な女に魅かれ、生まれて初めて身も心も男として愛される幸福に目覚め、おそらくは肩書も勤勉も、そして、母ばかりでなく乳飲み子の私までも振り捨てたのだった。私は父の心を慈しんだ。
 いのちの記録に一篇の詩を書きつけた。

  ことばが悲しみをもだし
  皮膚からのぼって消えるとき
  あるいは
  化石とも 進化の極限ともいえぬ存在理由を
  生理的につきつけられるとき 
  私は眼の底に 生活を刻みこむ
  おお 恋人の腹は
  こまかく波を打ち あたたかい
  腹に手を置いたまま
  目を閉じると
  衣を染めたような 青い海が見える


 そんなある日、吉永先生が自転車を買ってきた。
「どうして? ぼくのがあるのに」
「二人で乗り回してたら、タイヤのムシはやられるし、いつパンクするかもわからないでしょ。飛島寮に急用ができることだってあるかもしれないもの。それに、ふらっと散歩することもあるでしょ」
「ありがとう。先生も朝あわてて出ていくことが多いから、自分用のものを持ってたほうがいいね」
「大学の文芸クラブの先輩が今度天神中の保健室に勤めることになって、先週、公園の向こうに越してきたんです。一度遊びにいくけど、会ってみる?」
「いや、いかない。人間関係が増えるのはごめんだから。先輩ということは、二十五、六だよね。ふうん、文芸クラブか。それで先生は、けっこう本を持ってたんだね」
「山本周五郎研究会。すばらしい作家よ」
「あの『さぶ』ってのも?」
「そう」
「ぜんぶ貸して。読んでみたい」
「わかった。来週までに代表的な作品を、新本で七、八冊買っておきます」
 吉永先生は週に一度は私の部屋にやってきて、カレーを作ったり、魚を焼いたりした。そしていつも私の誘いを待って、肉体を開いた。快楽を求めるのに貪欲ではなかったけれども、からだの反応は日増しに激しくなっていった。そして、あまりにも激しく反応して疲れたときは、一晩泊まっていくこともあった。
         †
 九月十七日日曜日。七時起床。二十・二度。ユニフォームを着、グローブを脇籠に入れて出る。カラリとした快晴。
 庄内川グランドまでの自転車の走路は、まず環状線に出て左折し、上更の次の信号を右折、直進し、名鉄線の土手に出る。細道を右折して名鉄線の高架をくぐり、つづけて新幹線の高架をくぐって、すぐ右折。あとはひたすら真っすぐ。名城大学付属高校に突き当たる。構内に駐輪し、河原に向かう。ここまで二キロ弱、時間にして九分。岩塚から通うより近い。芝草に切られた石階段を昇り、県道一○六号を歩き、付属高校グランドへ。ここまで十五分。これでもまだ岩塚より近い。すばらしいアパートを借りた。
 河原にほとんど人けがなくなった。練習に熱がこもる。練習を始めて以来、突き指も捻挫も肉離れも、肩や肘や腰の故障もない。いや、中学一年の手術以来五年余り、いっさい故障がない。偶然とは言え、天の恵みだ。
 帰り道、ふと、あれから一度も節子を抱いてやっていないと思い当たった。自転車を降り、電話ボックスから日赤に電話する。やはり日曜出勤していた。呼び出された節子は息せき切って電話口に出た様子だった。
「キョウちゃん、うれしい! きょう、和子さんが病院にきて、おかあさんの退院までの個室の費用と、保健の差額を払ってくれたんです。お母さん、先月できちんとテレビ塔を辞めて、いま書道教室を開く準備をしてます。十月一日から始めるんですって。住宅つきの小さな店舗です。最初の生徒として北村席の女の子を何人か回してくれるそうです」
「よかったね! もう、あの暗い家には住まなくていいんだ」
「ええ。和子さんて、ほんとに、神さまみたいな人」
「きょう何時まで?」
「四時で交代です。日赤はふだん土日は特別診療しかやってないんですけど、若手のお医者さんと准看は駆り出されることが多いんです」
「おいでよ」
「いっていいんですか?」
「ひさしぶりに、ネ」
「……はい」
「上更の交差点で、四時半に待ってる」
「タクシーでいきます」
 節子を待つあいだ、生物の遺伝を仕上げた。吉永先生が三時ごろ顔を出し、例の先輩と市内を休日散策して、夕食もすましてくるので、外食しておいてくださいね、と言いにきた。天真な先生に節子のことを知らせずにすんだ。
         †
 環状線に出て、パチンコ屋の前でタクシーを待つ。節子はタクシーを降りると、白いミニのフレアスカートを揺らして走ってきた。カズちゃんと同じように飛びつく。私はしっかりと抱き締める。
「これからは、ちょっと勉強が忙しくなる」
「はい。もうおじゃましません」
 節子はあたりの景色を見ずに、私だけを見上げて歩く。八坂荘の玄関も階段もその格好のまま歩き、ドアを開けたときだけは室内に目を瞠った。
「きれいなお部屋!」
 机を見、机の足もとのテープレコーダーを見、カーテンを見、炬燵を見、それから蒲団を見る。頬が赤らむ。口づけをする。唇を貪りながらすすり泣いた。
「キョウちゃん……」
 蒲団へいざなった。横たえ、夏物の白いシャツを脱がせ、白いミニスカートのジッパーを下ろす。薄物のパンティから陰毛が透けて見える。フリルのついたブラジャーを外す。心なしか、乳房のかさが増している。握り締める。豊満な手触りだ。パンティを脱がし、臍の周りと内股に舌を当てた。
「ああ、また抱いてもらえるなんて。私、キョウちゃんにつらい思いをさせてきたわ」
 心から吐いた言葉だとわかる。私はかえってつらくなる。


         八十九

 脚を開き、膣に中指を入れながらクリトリスを舐める。節子はめくら探しに掛蒲団の端をつかんで口へ持っていこうとする。
「あ、もうだめ、いい? イッていい?」
「いいよ」
「イク、ああ、イク、イク!」
 腰を宙に浮かせ、からだをよじって果てた。
「ああ、キョウちゃん、愛してる!」
 硬く佇立したものをすぐに挿入する。
「あああ、好き!」
 往復するたびに膣の壁が寄せてくる。激しく達する気配だ。
「ああ、イキそう、強くイキそう、キョウちゃん、私もうだめ! イクウウ!」
 アクメに合わせて素早く二深、三浅を繰り返す。
「だ、だめだめ、またイク、イク、イクイク、イックウ!」
 腹が跳ねた。かまわず抽送を速める。
「だめ、イク、またイッちゃう、イクイクイク、イック!」
 子宮が降りてきて亀頭に当たる。
「ごめんなさい、もうだめ、キョウちゃん、イッて、お願い、イッて、あ、またイク、だめ、イク!」
「節ちゃん、ぼくもイク!」
 亀頭を子宮に打ち当て、一気に放出する。
「あああ、イクイクイク、イク! イク! あ、またイク! あん、あん、またイク! いやあ、イク、イイイッグー!」
 尻が後じさりして性器が引き抜かれ、精液のしぶきが散った。節子はアーチ型に反り返り、尻を何度も蒲団に打ちつけた。腹をさする。収縮する筋肉が指先に硬く当たる。
「ああ、キョウちゃん、愛してる、捨てないで、あああ、イクウ!」
 もう一度反り返り、固く唇を結んで気をやる。
 痙攣が間遠になるまで腹をさすっている。
「ありがとう……落ち着いてきました。こんなに幸せにしてもらって、私、キョウちゃんに何もしてあげられない」
「愛してくれるだけでじゅうぶんだ」
 節子はにっこり笑って起き上がると、私のものを呑みこんで清潔にした。枕もとのティシューを取って、睾丸を拭う。
「こんなところまで私のでビッショリ。……恥ずかしい。……私も、東京へいきます。迷惑はかけません。お母さんは、ずっと名古屋にいるって言ってます。キョウちゃんに抱いてもらえるなら命はいらない、どうせなら健康な命をあげたい、もっともっと健康になって、一度でもたくさん抱いてもらいたいって。そんなこと実の娘に言うのよ。でも、生きようって気持ちをしっかり持つのが、病気の回復にはいちばんいいんです。何もかもキョウちゃんのおかげ」
 節子の目に涙があふれた。
「節ちゃんは、こういう人だったんだね」
「私は生意気で、いいかげんな女だった。葵荘にキョウちゃんが訪ねてくれたときの自分のことを思い出すと、恥ずかしくてたまらない。よくあんなことを……」
 私は節子の暖かい腹に手を置いて言った。
「偶然のことから再会できて、そしてもう一度しっかりと捨てられた。その日から僕はきちんと生きはじめたんだ。もう一度捨ててくれて、ありがとう」 
「そんなこと言わないで。つらくて死にたくなります」
 節子は私の手をとって唇に当てた。
         †
 十八日月曜日の下校時に、七三分けのまじめそうな眼鏡面が机に寄ってきて言う。
「文化祭の練習したいんやけどな、週三回。頼むわ」
 フォーククラブの田島だった。原、竹内、金原の三人も寄ってくる。
「練習はしない。きょう学校帰りにぼくのアパートへ寄ってくれ。練習しなくてもいいということがわかるから。きみたちの数十倍はいろいろな歌を知ってるし、歌詞も覚えてるから、指定してくれればきちんと唄う」
 金原が、
「すごい声やよ、びっくりするで」
「きょう以降文化祭まで、ぼくにはお構いなしにしてくれ。それからぼくは全力で唄うので、二曲か三曲しか唄えない」
「デュエットが混じれば、五、六曲いけるんやないか」
「いや、それでも三曲までだ」
「じゃ、奮発して五曲、頼む。五人で七つの水仙、金原とデュエットでヘイ・ポーラと、いつでも夢を、あとの二曲はお前のソロでいこうや」
「わかった。じゃ、一つは北原謙二の、さよならさよならさようなら、もう一つは西高校歌。きっちり和音を練習してくれよ。ぼくは楽器ができない」
「オッケー、それで頼む」
 原と竹内が、
「西高校歌やて、だいじょうぶか」
「なんとかなるやろ」
「練習不用の確認をしたあとで、中日ビルのビアガーデンにいこう。回転レストランの下にある。おごるよ」
 四人、ギターを抱えて八坂荘までついてきた。金原は部屋の整頓ぶりに驚き、竹内は相変わらず、
「絶世の美男子やな」
 を連発した。
「金原さん、ぼくがヘイヘイ・ポラと言ったら、ヘイ・ポールと応えてみて。ヘイ、ヘイ、ポラ、アイ、ワナ、マリユー」
「ヘイ、ポール、アイ、ワナ、マリユー、トゥー」
 私は驚き、
「すばらしい声だ! いいデュエットになる」
 私は伴奏なしで北原謙二だけを聴かせた。

  赤いパラソル くるりと回し
  あの娘しょんぼり こちらを向いた
  町の外れの つんころ小橋
  さよなら さよなら さようなら
  すずめチュンと鳴いて 日が暮れる

「なんだなんだ、その声は。こりゃ事件だぞ」
「信じられん!」
「絶世の美男子やな」
 金原は唇をゆがめて涙を浮かべている。

  後ろ向かずに 歩いていたが
  こらえきれずに あと振り向いた
  きっとあの娘も おんなじ気持ち
  さよなら さよなら さようなら
  胸のブローチが 光ってた

「わかった、わかった、もういい。神がかりだ。ジンときたがや。まいった」
「聞いたことのない発声だな。どっから声出しとるんだ」
「ファルセットでないよな」
「地声やろ」
 竹内も原も口をモゴモゴさせ、とつぜん降って湧いた新しい〈事件〉を検証しようとしていた。ようやく原が正方形の顔をほころばせ、
「とんでもない文化祭になるで。金原とのデュエットを一曲聞かせてくれ。いつでも夢を」
 金原がハンカチで涙を拭くと立ち上がった。私も並んで立った。男三人がギターの和音を奏ではじめる。ギターの合奏というものを初めて聴いたが、冷たい風に耳の穴を貫かれるように快適だった。
「星よりひそかに、雨よりやさしく、あの娘はいつも歌ってる、声が聞こえる、さびしい胸に、涙に濡れたこの胸に」
「二人で!」
 田島がかけ声を入れる。
「言っているいる、お持ちなさいな、いつでも夢を、いつでも夢を、星よりひそかに、雨よりやさしく、あの娘はいつも歌ってる」
「はい、金原だけ!」
「歩いて歩いて、悲しい夜更けも、あの娘の声は、流れくる、すすり泣いてる、この顔上げて、聞いてる歌の、なつかしさ」
「二人で!」
「言っているいる、お持ちなさいな、いつでも夢を、いつでも夢を、歩いて歩いて、悲しい夜更けも、あの娘の声は流れくる」
「二人で、フォルテ!」
「言っているいる、お持ちなさいな、いつでも夢を、いつでも夢を、はかない涙を、うれしい涙に、あの娘は変える、歌声で」
「五人全員! メゾフォルテ!」
「あの娘は変える、歌声で―」
 オー! 拍手。拍手。ギターを叩く。
「完璧だ。プロデビューできるぞ! 神無月、サンキュー。よくわかった。練習はいらん。七つの水仙はいいんだな」
「ああ。アイ、メイナット、ハバ、マンション、アイ、ハブン、テニラン」
「よしよし、わかった。西高校歌はなんとか編曲する」
「スローテンポにしてくれ。美しい曲だから」
「了解」
「じゃ、ビアガーデンにいこうか」
「おー!」
 金原だけが自転車通学だったので、八坂荘に置いたまま、市電通りで大型タクシーを拾って中日ビルに向かう。ギター三つを後ろのトランクに詰めた。とつぜん田島が、
「おい、十月が近いのに、ビアガーデンはやっとらんやろ」
「まだ寒くない。やってる」
 私が言うと、原が、
「やっとっても、やっとらんでも、ぼくは酒は飲まん。生まれてから飲んだことがないし、飲もうとも思わん」
「なんやの、ロボット三等兵。飲めそうな顔して。胃も肝臓もブリキなんやから関係ないでしょ」
 金原がおもしろそうにたしなめる。たしかに四角いロボット顔だ。目も口もブリキに穴が開いているようで、ふさふさ髪が生えているのがおかしい。金原がロボット三等兵という漫画を知っていることがうれしかった。私はその漫画を横浜の貸本屋で、全十一巻借りて読み切った。優しい白髪のお婆さんの顔が思い出された。
 ビアガーデンは開いていて、動いているのかいないのかわからない円盤の下で、全員中ジョッキで乾杯した。原は渋々、泡に唇を浸しただけだった。田島が眼鏡を押し上げ、
「まあ、神無月がたぐいまれな声の持ち主だということはわかった。いつも思っとったんやけどな、神無月は野球に全人生捧げて、不安でないんか。十年、十五年も働けばザッツ・エンドの仕事やろ。学者も歌手もほとんど死ぬまで仕事できるで」
「やりたいと思うのは野球だけだ。勉強はここまでラッキーで乗り切ってきただけだからやりたくない。歌は趣味。やってもやらなくてもいい」
 五分もしないうちに、原が、
「気持ち悪い」
 と言って、テーブルの足もとに寝そべった。全員驚いて立ち上がった。竹内が、
「飲んどったか、原?」
「いや、泡舐めただけや」
 と田島。寝そべっている原がからだを丸くして、ゲーゲーやりはじめた。
「どうなっとるの、原さん。冗談でしょ。二人で連れて帰ってや。私はいっしょにいけんよ。神無月くんとこへ戻って、自転車をとって帰らんとあかんから」
「わかった。じゃ、神無月、文化祭でな」
「バイバイ、絶世の美男子」
 二人の男は原の両腕を肩に抱え、頭上に参差するテーブルのあいだを縫ってエレベーター口へ去っていった。



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