九十

 私はつづけた。
「そこまではトントン拍子でいった場合です。ぼくがどれほど意志を強く打ち出しても入団がうまくいくかどうか。そこから先は、ぼんやり僥倖を待つしかありません。うまくいくことを信じています。プロへいくなら、中日ドラゴンズしか頭にないんです。母の失礼のせいで、ドラゴンズとの関係を根から断たれることがないように願っています」
「そういうことは断じてございません」
「この希望のことは、飛島の社員のかたがたも知っています。もしきょう彼らがその場にいたら、内心喜びながらも、母を刺激するのを恐れて、曖昧な態度をとったかもしれません。ある種の勧進帳で、村迫さんが義経になっていたかもしれない」
「わが球団は、何ごとにもめげるものではありません」
 村迫はまたコーヒーをすすり、正座の肩をすぼめて、
「そのことなんですが、まず、神無月さんは、今年ドラフトにかからないとしても、獲得をあきらめていないほとんどの球団から、将来最もほしい選手の筆頭とみなされるでしょう。したがって、東大に合格したとすれば、大学卒業の年に、ほとんどのチームはドラフト一位に指名するはずです」
「はあ……。四年間も待って、ドラフトで中日が指名権を引き当てられなかった場合はどうなるんですか」
 村迫は膝を崩して、あぐらをかいた。そして、すぐに正座し直した。
「そこです。ドラフト拒否となると、プロ球団全体の心証が悪くなります。おそらく中日ドラゴンズの上層部も」
「それはまずいですね。そんなふうにドラフトにはいろいろな約束事があります。したがってドラフトは考えていません。ぼくは、四年間大学にいる気はないんです。一年生か二年生で中退するつもりでいます。」
「どの球団も喉から手が出るほど神無月さんがほしい。で、その場合どうなるかというと、スワと押し寄せて、自由契約をなんとか結ぼうとします。さまざまなレベルの契約金が提示されます。契約金五千万円、六千万、七千万というチームもあるかもしれません」
 私はわけがわからずただ笑って、
「それが安いか高いかはわかりませんが、幼いころから、プロにいくならドラゴンズしかないと思ってきたので、どんな場合も、喜んでドラゴンズへいきます。契約金がゼロでもかまいません」
「ありがとうございます! 契約金がゼロなどという荒唐無稽なことは、プロ野球界に存在しません」
 村迫はあとじさって畳に頭をすりつけた。
「ぼくは東大で野球をやりますが、リーグ戦以外に出場するつもりもありませんし、その期間以外、練習するつもりもありません。ふまじめな学生として退部を勧告され、一介の学生になってしまうかもしれませんよ。その場合もぼくはすぐに大学を中退します。練習や出場試合を制限するのは、わがままからではなく、東大を最終的なプレイの場と考えていない、つまり、プロのグランドでプレイする野球人としての寿命を延ばしたいからです」
 村迫は膝を畳み直し、
「そのときもまったく同じです。ドラゴンズは自由交渉で神無月さんを獲得します。それはドラゴンズにとってもありがたいことです。ただ厄介なのは、中退が二十歳未満の場合は、各チームのスカウト攻勢はもちろん、ドラゴンズの勧誘もお母さんの妨害を受けるということです。お母さんに対する大勢の人びとの説得が必要になります」
「そこまでは望んでいません。中退後、成人過ぎての自由交渉がうまくいきさえすれば、ぼくの念願は達成されます」
「それはおまかせください。最高額の契約金を提示して他球団を黙らせ、お母さんの説得にさまざまの人の協力を仰ぎます」
「信頼しています。かならず東大に合格します。そして一年生の秋季リーグが終わった時点で中退し、翌年の五月五日過ぎの自由交渉に期待をかけます。よろしくお願いいたします。くれぐれも母の説得をお願いします。マスコミを総動員してでもお願いします」
「わかりました! 不運にも中退が叶わず、東大を卒業せざるを得ない場合には、獲得の条件は横並びになります。プロ球団は四年生としか交渉してはならないことになっています。そのときはもちろん、ドラフト一位指名をさせていただきます。そのときは、神無月さんとドラゴンズの天運を信じます。とにかくさっそく、一年時中退の意志ありと上に伝えます。これは球団内でも上層部以外緘口令を敷きます。ご安心ください」
 村迫は手を差し出して握手を求めた。私はしっかりと握り返した。村迫は言った。
「このことはどなたにも内密に願います。マスコミに知れたら、ドラフト外入団示唆の連盟規約違反で、ドラゴンズはまったく交渉権を失います」
「わかりました。牡蠣殻になります。村迫さんも名刺を置いていかないでください」
 村迫はもう一度彼は畳に両手をつけて叩頭した。
「村迫さん、ほとんどのスカウトは、ここを知りませんよね」
「はい。飛島建設の名古屋支社に連絡して、大沼さまとおっしゃる方に内密に教えていただきました。神無月さんの先ほどの気持ちをご存知だったのでしょう。ドラゴンズ以外の球団には、ここの住所を教えていないそうです。いずれ何らかの形で大沼さまにはお礼をしたいと思っております。ちなみに、神無月さんが東大に合格なさったら、ときどき、スカウト連にくっついて、私も練習グランドや試合グランドに顔を出しますが、無視なさってください。ああ、お訪ねしてよかった。小学校以来の名古屋の英雄をドラゴンズに迎えることができるのは、この上ない光栄です。ほんとうにありがとうございました。それでは、失礼いたします」
「ごくろうさまでした」
「おいしいコーヒーでした」
 私は、アンモニアくさい下の玄関まで送って出た。彼は何度も辞儀をしながら、玄関前に待たせていた車に乗りこんだ。車は細道を出て環状線のほうへ曲がっていった。
 あさってから三日間の中間試験だ。目標、百番。
         †
 九月二十七日水曜日。三日間の中間試験を終えて、四時に学校から戻り、環状線の電話ボックスから日赤の節子に電話をかける。
「椿町のお母さんを訪ねたいんだけど」
「そうしてあげてください。椿町じゃなく、則武一丁目です。おかあさん、まじめに通院してます。先週の検査で、完治の見こみが立ちました。おかあさん、まだセックスできないからさびしいでしょうけど。クリトリスのオーガズムで二カ月ぐらい試運転して慣れれば、膣の準備が整うと専門医が言ってます」
「膣そのものに変化はないの?」
「……最初のうちは、浅く感じるんじゃないかしら、入り切ってないような。でも少しずつ伸縮するようになりますから、キョウちゃんも辛抱して付き合ってあげて。オーガズムはしばらく弱いと思うけど、そのうちもとの強さに戻るはずだし、それ以上になることもあるんです。来年になればきっと……。見捨てないであげてね」
「もちろん」
 心が解放された会話は直接的になる。会話をする本人同士は直接的だと思っていないけれども、他人に聞かせてはならない会話だということはきちんと自覚している。
「おかあさんには電話で伝えておきますね。予定より一週間早く先週の土曜から書道塾を始めたんですけど、生徒さんがもう十五人ですって。午後一時から八時まで。好きな仕事だから、ぜんぜん疲れないみたい」
 書道塾の位置をもう一度口頭で確認する。
「私四時半で上がりですから、母の塾を尋ねる前に、アパートに寄ってコーヒーを飲んでってください」
 歯を磨いて自転車で出る。鳥居通りの並木が赤や黄に色づいて美しい。ペダルが軽い。
 五時ピッタリに、節子と日赤の玄関で会い、コーポ八木まで歩いていく。
 節子の美しいふくらはぎを見つめながら、アパートの階段を上った。六畳と四畳半の部屋は先回訪ねたときと同じように整頓されていた。奥の四畳半の机の上に勉強の跡がある。いつでも寝られるようにだろう、足もとに蒲団が畳んである。窓辺の書棚が充実していた。
「本が増えたね!」
「正看は勉強する科目と量が多いから。でも、やり甲斐があります」
 節子はカーテンを引き、窓を開けて夕方の風を入れた。彼女がコーヒーをいれるあいだ、机に座って書棚を見つめる。人体の構造と機能、基礎看護学、老年看護学、精神看護学……。
「十科目もあるんです。たいへん」
 コーヒーを机に持ってきて、うれしそうに笑う。
「二月の試験だったね。ぼくの受験より少し早い」
「下旬です。三百点満点で、合格点は、必須科目八割以上、一般問題と状況設定問題は六割五、六分で、総合点七割五分取れれば確実」
「それのほうがたいへんだ! 東大なんか五割弱から五割五分でオーケーだよ」
 節子はあごを上向けてあきれたふうに笑いながら、
「月とスッポンは比べちゃだめです。へんな人ね」
「コーヒーうまいね」
「北村席のコーヒーがおいしかったから、目覚めちゃいました。……山口さんて、男の中の男ですね。和子さんは最高の人間だし、キョウちゃんはアラヒトガミ。そんな中にいると自分が恥ずかしくなっちゃって。……おまけに、あの美しい声! 大声上げて泣きたくなりました」
「子供はほしくない?」
「三十過ぎたら、ほしくなるかも……。でも、やっぱりいりません。キョウちゃんだけを思って生きていたいから。キョウちゃんが東京にいったら、私、武蔵野赤十字病院で働くことにしました。もちろん試験に合格して、正看として。中央線の武蔵境という駅なんです。東大からは遠いけれど、そのほうがかえって逢うたびに新鮮で、いつもキョウちゃんのことを思っていられます」
「東大に受からなかったら、宙ぶらりんの状態になるよ」
「そのときはこのまま名古屋にいます。だいじょうぶ。キョウちゃんの様子を見て異動願いを出すつもりですから」
 私は節子の髪をなぜた。
「そんなに愛してくれてたんだね」
「素直になれば、怖いものなんかなかったのに。……もう後悔するような人生は送りません。おかあさんといっしょに、キョウちゃんを愛しつづけます」
「さ、お母さんのところにいってくる」
「はい。おかあさんのわがままに負けないでね」
「危険?」
「傷がよくなるまで雑菌を入れたくないの」
「わかった」
         †
 太閤通口から入って、一つ目の交差点を右折する。ちょうど河合塾名駅校の裏手に民家が三、四軒固まった区画があって、その端の一軒が文江さんの二階家だった。玄関先の路上に何台か自転車が停めてある。玄関戸の脇壁に《滝澤書道塾》という新しい木看板が掲げられている。小庭に面した縁つきの十畳間に煌々と灯りが点っていた。道端から、ガラス戸越しに、着物姿の文江さんに見守られて高校生ぐらいの年かさの生徒たちが習字道具を片づけている様子が見えた。自転車に跨ったままじっと見ていると、いち早く文江さんが気づき、生徒の目もかまわず私に手を振った。彼女は部屋から出ていく生徒たちに頭を下げて挨拶を返しながら、いっしょになって出てきた。
「いらっしゃい! この中高生組で、きょうは終わり。はい、さようなら、はいはい、さようなら」
 右に左に、自転車が遠ざかり、徒歩組も遠ざかっていく。
「痩せてなくて安心した。繁盛してるね」
「子供組は、お嬢さんと菅野さんのおかげです。大人組は女将さんが八人も連れてきてくれて。私はなんもしとらんのよ。さ、上がりゃあ」
 自転車のスタンドを立てて玄関の中へ入る。三帖ほどの三和土の土間に水を打った跡がある。大きな傘立てに蝙蝠が二本。下駄箱の台の上に載せた電話器に並べて、落ち着いた色合の花瓶が置いてあり、赤い彼岸花と黄色いショウキズイセンが活けてある。上がって左手の十畳間に、長机が五列も並んでいる。文江さんはその部屋の灯りを落とした。
「見て、お風呂が広いよって」
 キラと八重歯が光る。廊下を挟んで、向かいは六畳の茶の間、その隣が六帖の板の間の台所、廊下の突き当りが引き戸になっていて、二人でゆったりからだを伸ばして浸かれる四帖の風呂場。窓が大きく、床も浴槽も木造りだった。風呂前の廊下の突き当たりは水洗の便所になっていた。
「明るい贅沢な家だ」
「ごはんは?」
「節ちゃんがトーストを焼いてくれた」
「あとで、天丼食べよ。ガード下においしい店があるで。飲み屋なんだけど、キス天丼がおいしいんよ」
 二階に上がる。小廊下の左の六畳は寝室に当てられ、上掛をきちんと畳んだ蒲団が敷いてある。廊下を隔てた向かいのもう一つの六畳は自分の独習部屋になっている。
「具合はどう?」
「きちんとお薬飲んで養生しとるから、病気になる前より調子がええよ」
「よかった。大手術だったからね」
「泊まってってくれるん?」
「学校の授業があるから、夜のうちに帰る。文江さんの朝めしを食って帰るのは今度」
「ほうやね、大事なときやった」
 抱きついてキスをする。清潔な口だ。
「お風呂に入ろまい」
「うん。頭を洗うよ」
 下へ降り、ガス風呂を入れながら、台所で茶を飲む。
「今月で、薬も要らなくなるんよ。化膿止めを少し入れたビデいうんで洗うのも今月で終わり。洗いすぎると、大事な膣内菌いうのが死んでまうんやと。あとは自浄作用いうもんに自然とまかせるらしいわ。お医者が言うには、もうふつうにできるらしいんやけど、も少しがまんせい言われた。この齢でそんなこと言われるんの、少し恥ずかしいわ。うれしい気もするけど」
「文江さんはきれいで若々しいから、ふつうの感覚で言われたんだね」
「……生きとるのって、ありがたいね」


         九十一

 ぬるめの風呂が入った。むかしよりもツヤツヤと太った色白の文江さんが湯殿に立つ。私は床几に坐って見つめる。臍の上に生々しいピンクの傷跡がある。ただ、上手に縫合してあるので醜くはない。自分の肘の傷をなぞったときのように、手を差し出してなぞる。腹は太っていて健康そうだ。一文字の陰毛。押し分けて覗く。茶色い非対称な小陰唇、慎ましい包皮、淡いピンクの前庭、すべて変わらない。
「前と同じだ」
「ああ、あかん、ジンジンしてきた。どうしよ」
「オマメちゃんならイッてもだいじょうぶって、節ちゃん言ってたよ」
「なら、イカしてくれる?」
「いいよ。指で? 口で?」
「お口で……」
 広い湯殿に横たえ、股間に屈みこむ。手際よく、舌で愛撫していく。怖がっているのか、しばらく感覚を確認するように横を向いていた顔が、目を閉じ、口を開けた。
「イキそ、ああ、この感じやわ、キョウちゃん、イクよ……」
「イッて」
「あああ、イク、イク、イク!」
 跳ねる尻に両手を入れて支えてやる。数回跳ね、腹をすぼめた。
「なつかしい、ええ気持ち、天国」
 抱き起こし、いっしょに浴槽に浸かる。唇を合わせながら握ってくる。
「ああ、勃ってくれよる。キョウちゃんのオチンチン握るの二カ月ぶりやわ。うれしい。キョウちゃんがこの世にいる思ったら、なんやうれして、うれして、毎晩蒲団の中で泣いとった」
 ポロポロと泣く。涙を含んだ唇を絡ませてくる。悲しくて、愛しい。文江さんを湯船に残して頭を洗う。文江さんが湯殿に出てきて、シャワーで石鹸を洗い流す。
「菅野さんの家族も習いにきてるの?」
「きとる。奥さんはええ手して、見どころある。子供は光るものはあるんやけど、むらっ気でな。子供は仕方ないわ。そのうち一所懸命になるやろ」
「生徒をよく観察してる。愛情の深さは教師にいちばん大切な要素だよ。長つづきしそうだね」
 風呂から上がって、白いからだを拭ってやり、全裸の腰を支えながら二階の蒲団へいく。横たわると、文江さんは掌を合わせて懇願した。
「キョウちゃん、入れるだけでええで……」
 私はやさしくうなずいた。
「いいよ、浅く入れるだけだよ。お風呂でよく洗ったから黴菌はついてないだろう」
「ありがと」
 指で探るとじゅうぶん潤っている。亀頭だけ埋まるように入口に納めた。べったりした壁の感触だ。包みこむようではない。それでも文江さんは、
「ああ、キョウちゃん、愛しとる! 好きやよ」
 と感激した。唇を合わせながら一分ほどそのままにしていた。尻をつかんで引き寄せようとしたので、私はとっさに引き抜いた。
「気持ちええ! イク!」
 文江さんはこれまでになく情欲を露わにして飾るところがなかった。私は寄り添いながら、脂汗をかいている額をなぜた。
「よかったね、文江さん、ぜんぶもとのままだ」
「うれしい、キョウちゃん、うれしいわ」
 慟哭を始めた。私を愛する一念で文江さんはアクメを引き寄せたのだ。私はもらい泣きした。悲しくて、いつまでも涙が流れた。
「起きれる?」
「うん、起きれるよ。天丼食べにいこ。その前に、お風呂でからだ流して、あそこ消毒してくるわ」
         † 
 ガード下の天丼屋は、文江さんが新居に移ってからのいきつけのようだった。
「お、先生、いらっしゃい」
 先生という名士扱いがうれしい。地位が定まることは、彼女のこれからの長い生活の基盤になる。
「シロギスの天丼二つ」
「あいよ」
 店主がチロチロ私のことを見る。カウンターの三人ほどの客も私の横顔を覗う。一人が訊いた。
「CBCのニュースに出とりませんでした? 名西の……」
「よく言われますけど、人ちがいです」
 瞬間的に文江さんは悟ったようで、
「そうですよ、だれとまちがっとるかわかりませんけど、この子は私の甥っ子で、きょう見舞いがてら知多から遊びにきたんよ」
 客はニヤニヤ頭を下げた。店主が、
「先生、もうおからだはいいんですか」
「健康そのもの。忙しくしとるのがええみたいやわ」
 チラッとこちらを流し見て、
「先生、嘘ついて、人が悪いよ。どう見てもこちら、北の怪物の神無月さんでしょう。こんな顔二人といないよ。新聞に何度も載ったもの」
 文江さんはケラケラ笑って、
「神無月さん、ばれちゃったみたいやよ。しょうがないわね」
「はい。北村席さんがタニマチになってくださってる関係で、ときどき顔を出しにきてます。滝澤先生は北村席さんと親しくお付き合いのあるかたなので、こうしてたまにおごられたりします」
「区長さんには、このあたりの商売人はいろいろお世話になってます」
 客の一人が、
「北村席は駅裏の顔役やからな。椿商店会の会長さんもやっとるやろ。面倒見のええ人やで。今度賑町と名楽町のほうにトルコを建てるゆう話やないか」
「へえ、野球タニマチだけあって守備範囲が広いねえ」
「女も、十代から五十代まで揃えるようや」
「そりゃ広すぎだ」
 客とマスターで爆笑となる。店主が、
「名西のそばでアパート暮らししとるんでしょ」
「はい。ぼくは有志のかたたちに飼われている籠の鳥で、門限が十時ですから、これを食べたら泣く泣く帰らなくちゃいけません。プロの関係者がボチボチ勧誘にやってきてるんで、そこに避難してるんです」
「そう言えば、雲隠れって新聞に書いてあったなあ。へい、キス丼、お待ち。しかし、そんなんで、受験勉強できるんですか」
「毎日、学校帰りに図書館に寄って、八時まで勉強します。きょうも図書館から自転車に乗って、北村席さんに勉強の進み具合を報告にきました。たびたびはこれませんから、こんどくるのは、上京してからですかね。これはうまい!」
「ほんと、相変わらずおいしい」
「ありがとうございます」
「どこどこ、きてるんですか、スカウトは」
 客の一人が訊く。
「さあ、逃げ回ってるのでわかりませんが、いくならドラゴンズしか考えてません。それも何年後かの話です」
「東大落ちたら?」
「どんな形でも野球浪人しながら、ドラゴンズです」
 オーと歓声が上がる。いい雰囲気の中で天丼を食い終わった。
「すぐに入団というのは無理ですけどね。未成年なので母の反対にやられますから。東大にさえ受かれば母は機嫌をよくします。未成年で中退しても押し切れるかもしれません」
 ほかの客が、
「それも書いてあったわ。しかし、一年二年うろつくのはもったいないなあ。来年からすぐ活躍できるのに」
「とにかく一日でも早くドラゴンズに入って、優勝させてやってくださいよ」
「ホームラン新記録もよろしく」
 そんな言葉に送り出されて、夜の道へ出た。
「ごめんね、キョウちゃん、余計な気使わして。……これからは、気をつけるね」
「二人のためだからね。外出は控えよう」
「ほうやね、さびしいけど……」
 私たちの心配をよそに、その後文江さんはめきめき快復した。私は安心して、彼女の家を訪ねる間隔を空けた。
         †
 十月二日から中間試験の答案が次々に帰ってきた。四日に総合結果が出た。ようやくという感じで、全校の七位にまで押し上げた。加藤武士に次いでクラス二位。数学Ⅲで四割取れたのが大きかった。
 用務員からもらったバットが軽すぎるとわかったので、花の木のバットに替えた。毎朝自転車の荷台に縛って天神山公園に出かけ、百八十本振り、ついでに三種の神器、三回周回する。
 十月八日日曜日。秋晴れ。気温十八度。河原の練習をランニングと軽いキャッチボールと素振り百本で切り上げ、学生服姿で花の木へいった。きのう連絡しておいたので、おめかしをしたカズちゃんと素子が待っていた。二人ともローヒールの似合う黒のスラックスを穿いていた。
「キョウちゃんの歌は午後からね」
「二時ぐらいかな。ジャズ部と合唱部が終わってから」
「文化祭なんて初めてやわ」
「去年もあったんでしょう?」
「気づかなかった。体育祭もあったみたいだね」
 三人縦列で颯爽とペダルを漕ぐ。正門から縁日のような賑わいの中へ入っていく。各クラブが校舎内や校庭で日ごろの活動の成果を披露していた。見てもわけのわからないまま、教室に展示されている制作物や壁に貼られた図表を眺める。二人の女の美しさに男子生徒たちが目を瞠っている。素子が、
「制服ってええなあ、穢れがないって感じやわ」
「素ちゃんも穢れてないわよ」
「キョウちゃんは有名人なのに、だれも見てこんね」
「カメレオンだから」
 廊下に模擬店が並んでいる。カズちゃんが、
「模擬店は二年生が出すのよ。演劇は三年生」
「一年生は?」
「文化部や理科部の研究発表」
 お好み焼き、焼きそば、たこ焼き、すべてに手を出し、一口、二口食ってみては、ゴミ箱に捨てていく。恐ろしくまずい。ウインナーや綿飴にも手を出した。まずい。思わず三人、眉を下げて笑う。
「よく火が通ってるのだけは褒めてつかわす。食中毒にはかからなそうね」
 音楽室で三味線部が浴衣を着て演奏していたので、しばし鑑賞。
「西高にむかしからある部よ。めずらしいでしょ」
 校庭に舞台を作って男女二人がパントマイムダンスをしていたので、しばし鑑賞。股間に何度も手をやって身をくねらす。
「性欲たっぷりだね」
「抑圧されて、ほんとうのセックスよりいやらしいわ」
「アホやん」
 三段の雛壇に乗って、吹奏楽部が演奏しはじめた。へたくそ。目に爽やかなのは学生服だけだ。
「お昼を食べときましょ」
 正門を出て、小さな蕎麦屋に入る。三人とも天麩羅そば。
「お姉さん、浮きうきしとる」
「母校というのは、大学より高校のほうが、しみじみ愛着があるわね」
「私、どっちも知らんわ。中学もしみじみせん」
「学校なんかどうでもいいわよ。頭のよさと関係ないから。学校でない場所でキョウちゃんに会えたんだし、それで万々歳」
「うん」


         九十二 

 午後の部の目玉として、体育館内でパフォーマンスを打ったのは合唱部とジャズ部とフォークソングクラブだけだった。新聞で話題の私が出演するということと、その歌声の口コミ宣伝が激しかったこともあって、合唱部やジャズ部の演目が終わるころには、校外生や一般客を含めて千人を超える満員盛況になった。土橋校長以下教職員もほぼ全員が折畳み椅子に座った。
 舞台にスポットライトが当たり、会場が薄暗くなる。田島がいかに私の声が人間離れしているかをあらためてくどくどしゃべりすぎ、聴衆の失笑を買った。からかいの指笛が鳴った。しかし、
「ヘイ、ヘイ、ポラ、アイワナマリユー」
「ヘイ、ポール、アイワナマリユー、トゥー」
 私と金原がデュエットで唄いはじめるやいなや、たちまち会場にため息が立ち昇り、感嘆の声がざわざわと伝染していき、唄い終えて辞儀をしたとたんに、ドッと歓声が上がった。田島が得意げに、
「いかがでしたか。看板に偽りなしだったでしょう。リードギター、私田島治、リズムギター、原義彦、竹内順三、ボーカル、神無月郷、金原小夜子でした。次はブラザーズ・フォー、七つの水仙!」
 私のリードボーカルを追いかけるように、ギターとコーラスの荘重なハーモニーが会場に響きわたる。人びとの顔がスポットライトに照らされる私たちを一心に見つめる。コーラスの音量が増していくにつれ、うっとりと感動に酔い痴れる表情に変わっていく。唄い終わると、会場の拍手と喚声が一つにまとまり、秩序立ってドーム天井に昇った。鳴り止まない拍手を田島が手でさえぎり、
「盛大な拍手ありがとうございます。それではお待ちかね、神無月のソロをご堪能ください。北原謙二の、さよならさよならさようなら!」
 私が唄いだしたとたん、一瞬のうちに静寂が崩れ、オオー、とか、キャーという声が上がった。息継ぎの節々で叫びが追いかけ、唄い終えると、嵐のような拍手のせいでパニック状態になった。
「静かにお願いします!」
「もう一曲あります!」
「神無月のアイデアで、西高校歌いきます! 一番のみ、スローバラードで。最後の曲です」
 西高校歌を一番だけスローテンポで唄い上げたとき、一転して会場は神妙な静けさに満たされた。

  あこがれの美よ 永遠よ
  虹かかる 木曽の流れに
  伊吹の峰 青春の意気を呼ぶ
  ああ 名古屋西 われらの学園  

 拍手と歓声がおもむろに湧き上がり、いつまでもつづいた。五人で辞儀をして舞台から降りようとすると、不満に満ちた喚声の中で、アンコール! のかけ声が乱れ飛び、割れんばかりの催促の拍手になった。
 田島たちがにんまりした。こういうこともあろうかと予想して、私はレコード店で買ってきたザ・パリス・シスターズの『I Love How You Love Me』の楽譜を上演の何時間か前に彼らに渡していた。彼らは一時間近く血眼になって練習していたのだった。
「神無月の喉がもう限界を超えています。彼は全力を振り絞って唄うので、二、三曲が限界なんです。このアンコール曲でラストにします。それでは、パリス・シスターズの、アイ・ラブ・ハウ・ユー・ラブ・ミー、邦題、忘れたいのに」
 田島がそう言うと、私は布がこすれるくらいの小さな声で導入部の歌唱に入った。つづいて美しいギター合奏のリリカルなメロディが流れ出した。

  I love how your eyes close
  Wherever you kiss me
  And when I’m away from you
  I love how you miss me
  I love the way you always treat me tenderly
  But, darling, most of all, I love how you love me
  Love how you love me (田島たちのコーラス)

 一人ひとりの聴衆の顔がはっきり見えた。カズちゃんが、素子が、加藤信也が、吉永先生が、校長一党がいた。間奏のあいだ私はモノローグの科白を勝手な日本語訳で入れた。

  愛してるわ あなたが目をつむる仕草
  いつもキスされるたびに そう思うの
  それから ちょっと離れているすきに見せる
  さびしそうな様子が好きよ
  いつもやさしくしてくれるのも大好き
  でも ダーリン
  あなたの愛で満たされるのが
  いちばん好き

  I love how your heart beats
  Whenever I hold you
  I love how you think of me
  Without being told to
  I love the way your touch is always heavenly
  But, darling, most of all, I love how you love me
  Love how you love me
   
  愛してるわ あなたの胸の高鳴りを聴くのが
  いつもあなたを抱き締めるたびに そう思うの
  愛してるわ 
  どれほど私のことを思ってくれてるか
  言われなくてもわかってる
  愛してるわ
  触れられると夢見る気持ちになるの
  でも ダーリン
  何よりも 心からあなたの愛で満たされるのが
  いちばん好き

  I love the way your touch is always heavenly
  But, darling, most of all, I love how you love me
  Love how you love me
  I love how you hug me
  Love how you hug me
  I love how you squeeze me, tease me, please me
  Love how you love me
  Love how you love me

 十秒ほどの沈黙が、やがてどよめきに変わり、喝采の嵐に変わり、会場じゅうに拍手の轟音が鳴り響いた。だれも手や腕やハンカチで目を拭っていた。カズちゃんも、吉永先生も、素子も、信也も、見知らぬ生徒たちも目もとを濡らしていた。土橋校長や教師連の一角はスタンディングオベーションをしていた。歌詞の意味は彼らにほとんど伝わっていないはずだった。私は人が歌詞ではなく、メロディに乗せた歌声に泣くのだとはっきり知った。振り返ると、ギターを抱えた全員が泣いていた。彼らは縄のように私に抱きついてきた。金原が言った。
「すてきやよ、神無月くん、すてき。一生忘れん。どこにいても、神無月くんのこと憶えとる。神無月くんは手の届かん人や。好きよ。大好き」
 竹内が言った。
「絶世の美男子! 俺は生まれて初めてこんなに泣いた。生まれ変わったみたいだ。音楽の本質は涙だ。ありがとう神無月、俺も一生おまえを忘れない」
 抱き合う私たちの姿を見て、だめ押しのような拍手が巻き上がった。カズちゃんと素子が壇上に上ってきて、彼らの背中から私を抱き締めた。吉永先生と信也が立ち上がって茫然としていた。
「みんなでコーヒー飲もう!」
 私は会場に深く礼をしてから、カズちゃんと素子の手を取って舞台の階段を掛け降りた。田島と竹内と原がドタドタとつづき、金原が原の肩に手を置いて降りた。割れんばかりの拍手が七人を追った。
 会場を出ると私は花屋へ急いだ。並びかけてきた女が、
「神無月くん!」
 と呼びかけた。山本法子だった!
「きてたの!」
「最初から。こちらが女神さん?」
「そう、北村和子さん。カズちゃん、この人は神宮前の山本法子だ」
「あなたが法子さん。加藤雅江さんのお友だちでしょ」
「はい。和子さんのことは神無月くんに聞きました。そちらは?」
「兵藤素子。あたしのことは聞いとらんと思うよ」
 素子が恥らいながら言った。カズちゃんが、
「私と暮らしてるの。キョウちゃんがとっても気に入った子。駅裏の素ちゃん。水晶みたいに純粋よ。いっしょに東京に連れてくの。そう言えば思い出した。ね、素ちゃん、私が高校一年生ぐらいのときだったかな、小さいあなたをあのバラックのあたりで見かけたことがあるのよ。短いスカート穿いて、さびしそうに縄跳びなんかして遊んでたわ。いま二十七よね」
「うん」
「私が十六くらいのころだから、あなたは十歳。うん、たしかにそのくらいだった。駅裏の子だよってキョウちゃんから聞いて、ピンときたの」
「それからもお姉さんを何度も見かけたんよ。むちゃくちゃきれいやったけど、ヤンキーって聞いとったから、ちょっとおそがい感じで見とった。お姉さん、三月三日生まれやったろ」
「そうよ、どうして?」
「ぞろ目。私、元旦生まれ。来年すぐ二十八になる」
 カズちゃんが笑ってうなずいた。法子に、
「こういう子なの。水晶でしょ? ほんとにきれいになった。キョウちゃんに愛されてよかった」
 素子は口に手を当てて泣き出さんばかりだった。竹内が、
「全員、絶世の美女!」
「ありがとう、ノッポさん」
 花屋のドアを開ける。女将がレジから振り向く。
「あら! 神無月さん、きょうはどうしたの、こんなに大勢で」
「文化祭。八人です」
 厨房から主人の顔が覗く。
「よう、神無月さん! おーい、奥へ上げてやって」
 婆さんに導かれて厨房脇の通路から広い裏庭へ出、飛び石伝いに玄関に入った。大テーブルを置いた十二畳の座敷に通される。お婆さんがみんなに座布団を配った。
「ナポリタン、八人前。飲み物はみんなに聞いてください。ぼくはコーヒー」
「私も!」
 金原が手を上げた。カズちゃんに向き直り、
「女神さん、私、金原です。金原小夜子」
 山本法子が、
「あら、私のお姉さんと同じ名前。小さな夜?」 
「うん。セレナーデ。顔に似合わんけど」
「そんなことないわよ、ヘップバーンに似てる」
「見え透いた社交辞令はやめてや。ぺちゃ顔やが」
 カズちゃんが田島たちに笑いかけ、
「あなたたちは?」
「田島です」
「竹内です」
「原です」
 婆さんが飲み物のメモをとり終わって去ると、田島が、
「つかぬことを伺いますが、みなさん、神無月とはどういうご関係で」
 カズちゃんが、
「あなたたちと同じ。いまここにこうしてる関係」
 金原がパチパチと手を叩いた。田島の肩を突き、
「田島、みんなにギター弾いてやってや」
「よし」
 田島がトライ・トゥ・リメンバーを弾きはじめた。竹内と原が和音を合わせる。



(次へ)