九十九

 トモヨさんは背中のままで訊く。
「……郷くん、苦しいことはない?」
「ない」
「気持ちが暗くなったりしてません?」
「ぜんぜん」
「ポカンとしててくださいね」
「うん」
「郷くんは、ただ、みんなのそばにいてあげるだけで満点の人だから、たとえどうなっても、何の責任もないんですよ。……ぜったい考えすぎちゃだめ」
「ありがとう。でも、どの女もトモヨさんみたいにやさしいから、ぼくはポカンとしてられるよ」
「そう、よかった」
「不届き者であることを許してくれる場所にいると、一秒でも長生きできるんだ。ぼくは生まれつきの不届き者だからね。どこにいても、微妙に許されていない。女といる場所だけはちがう。許してくれる人間といっしょにいる場所―」
「女もみんな、いろんな意味で不届き者ですよ。それを自覚できない女が男を苦しめるんです。きちんと自覚してる不届き者ばかりがいる場所なら、不届き者の郷くんの居心地はいいはずです。……抜いてください」
 するりと尻のあいだから性器を抜いた。
「あ、気持ちいい、だめ、イク!」
 ビュッと精液がシーツに飛んだ。
「あ、飛んだよ! こんなこと初めてだね」
 しばらく痙攣してから、トモヨさんは仰向けになって、シャツとスカートを脱ぎ捨てた。
「恥ずかしい。少し膣の形が変わったのかしら」
「きっとそうだよ。なんだか楽しいね」
「幸せ……。いま死んでも本望ですけど、せっかく郷くんからもらった直人に花を咲かせてあげないと」
「うん、もう二十年はがんばらないと」
 自分らしくない言葉がうれしい。私はタオルケットを二人の肩まで引き上げた。
「かわいらしいお父さん」
 トモヨさんは私の頬をなぜた。私は彼女の腹をなぜた。
「直人が小学校に上がるころには、ぼくは二十四、五か」
「若いのね! 私は四十四、五。成人式のころには還暦まぢか。それからも、まだまだ働かなくちゃ」
「働かせたくないな。もっと早くなんとかできればいいんだけど」
「心配ご無用です。いままでしてきた仕事に比べたら、どんな仕事も苦になりませんから。とにかく直人が大学を出るまでは働くつもりです」
「六十か。……おたがい長生きしようね」
「ええ。特に郷くんは長生きしないと、みんな生甲斐をなくしてしまいます」
「それにしても動きすぎだよ。台所に立ちたくてしょうがないみたいだね」
「二、三カ月ゴロゴロしてなさいって女将さんは言ってくれるんですけど、甘えちゃいけません」
「生まじめな人間だ。でもいちばん大切なことだね。……ぼくのことを心配してるようなことをしつこく尋いたけど……心配?」
「心配です。……郷くんて、女将さんも言ってましたけど、どこかから降りてきたって感じなんです。いつか、舞い上がって飛んでいってしまいそうで」
「どこにもいかないよ。……いくところがない」
         †
 十二月二十五日月曜日。晴。マイナス二・三度。朝四時半に起きて、シンクに屈んで歯を磨き、突き刺すように冷たい水で顔を洗う。下着の上下にジャージを着て、枇杷青果島市場へ出かけていった。門のない広い開放地へ入り、屋根の下の構内を進む。野球帽をかぶった男たちがうろうろし、青物を積んだいろいろな区画がすでに活況を呈している。大きな声が構内に響きわたる。寒い。広場を出はずれて細い道にいき当たる。道沿いに事務所のようなものが軒を並べている。すぐ目の前のガラス戸に真島仲買店と書いてあった。四枚戸の幅だけの店構えだ。左右にいくつも似たような二間戸の事務所が並んでいるのを見ると、仲買の会社とはこういうものなのだろうと理解した。ふと、二軒置いて隣の店に大きな大前仲買店という看板が貼りついているのに気づき、あのタバコ野郎はこの仲買店の息子だったのかと思った。
「おはようございます」
 戸を開けると、土間もどきの空間に所狭しと段ボール箱が積んであった。むかし桑原に連れていかれた新聞配達所の玄関土間の五分の一もない。箱の陰に埋れた一つきりの机に、頬のこけた六十格好の眼鏡をかけた男が座っていた。どことなく西沢先生に似ている。ダンボール箱と机のあいだの危うい場所で筒ストーブが燃えている。
「お、きたね。でかいなあ、高校球界ナンバーワンバッター。私は真島だ」
「よろしくお願いします」
 彼はさっそく一日の仕事の内訳を話しはじめた。ほとんど意味不明だったが、わかったふりをしてうなずいた。その様子が癪に触ったらしく、
「バイトだからって軽く考えてるなら、いまのうちに帰ったほうがいいぞ」
 と、苛立ちを含んだ声で言った。
「帰るわけにはいきません。あてにされて頼まれた仕事ですから」
 いつのまにか石丸が腕組みをして道の筋向いに立ち、トラックのドアに片手を突いてニヤニヤ笑っていた。辞儀をしながら寄っていくと、
「朝早く起きてきただけでも上乗ですよ」
 やさしく言って、トラックに積みこむ荷物を指示した。道の上に野菜を剥き出しに詰めこんだ箱がいくつも並んでいた。私は一人でその仕事をやり終えた。私の膂力(りょりょく)からすればどうということもない仕事だったが、ひさしぶりにせっせとからだを動かしたせいで、汗が滝のように流れた。自分のまじめさが大いなる天賦のように感じて満足した。
「じゃ、いきましょうか」
 石丸に促されて軽トラの助手席に乗りこむ。まだ朝の五時十五分だ。細道の先の大通りへ出る。運転をしているのはクマさんではない。石丸の横顔にクマさんを重ねる。
「大前という苗字はこのへんじゃ多いんですか」
「大前? 一軒きりだなあ」
「そうですか。大きい仲買店ですね」
「ああ、上更の大地主ですよ。マンションもたくさん持ってる」
「あそこの息子が西高にいます。むりやり煙草を吸わされました」
「オヤジはまじめないいやつなんですが、息子は中学のころから骨のないチンピラでしてね。いわゆる不肖の何とかというやつだな。西高は一年のときに中退したはずだから、そんなところをうろついてたのは、たぶん、いつもの家出ですね。口喧嘩でもして飛び出したんでしょう。また出てったよ、なんてオヤジがしょっちゅうぼやいてますから」
「家出? 歩いて十分もないですよ」
「そこが骨のないところなんで、チンピラといっても、愚連隊なんて威勢のいいのじゃない。単に反抗期の長いやつでしてね。いままでいちばん遠い場所で、名古屋駅前のパチンコ屋だったっていうんだから笑える」
 この世にはやるせないやつもいるものだ。そんなやつのせいで、一服でも煙草を吸わされたのが癪だ。上更の交差点から菊ノ尾通りを走り、見慣れた押切の市電道に出る。助手席から眺める朝の風景がすがすがしい。人通りが少ないせいで、アスファルトの道も、並木も、ビルもさわやかに呼吸していた。
「神無月さん、さっきみたいにあんまりまじめにやらないほうがいいですよ。仕事なんて片づきゃいいんですからね。オヤッさんに気に入られると、養子にさせられちゃいますよ」
「どういうことですか?」
「もう十五年も前になるかなあ。息子さんを交通事故で亡くしてね。トラックに自転車引っかけられちゃって。名大にいってた優秀な息子さんで、目に入れても痛くないって感じだったな。それ以来オヤッさんずっと元気なかったんだけど、この何年か明るい感じになって、養子、養子ってうるさいんですよ」
「……気の毒ですね。養子は無理ですけど、話し相手ぐらいならなれますよ」
「そんなうれしいこと言わないほうがいいな。約束というのはかならず守れるというわけじゃないし、老い先短い人間を喜ばせると、期待しすぎてロクなことにならない」
「はい」
 名鉄百貨店の地下駐車場にトラックを乗り入れ、そこから猫車に野菜を積み直し、何度かエレベーターで最上階の食堂の厨房まで往復した。無人の調理場の大きな冷蔵庫に、石丸の指図どおり、次々と、かつ整然と野菜や果物を詰めこんでいく。石丸は膝を突いて冷蔵庫の残品の点検をし、仕入れのメモをとる。私の仕事は運搬と詰めこみだけだったが、今度も滝の汗が流れた。
 助手席に乗って市場に戻り、苦虫を噛みつぶしたような顔のオヤッさんの手から、裸の千円札を二枚受け取った。生まれて初めて働いて得た金だ―とテレビドラマふうに思おうとした。思えなかった。ただでもらったような気がした。
 ―やっぱり猛勉に似ている。
 細面にかけた黒縁の眼鏡といい、への字に引き結んだ唇といい、西沢先生にそっくりだった。片肺のあの不機嫌な情熱家に、今年はヒデさんが教わっているだろう。
 青果市場から部屋に戻って、流しで頭を洗い、汗をかいた下着とジャージを替えた。吉永先生が訪ねてこないのを、ふとさびしく感じた。
 十キロの米袋から三合の米を取り出して炊飯器の釜に入れ、水道水で研ぎ、水を捨て、何度か同じことを繰り返す。手の甲まで水を浸し、炊飯器に釜を収めてスイッチを入れる。手の甲までというのは直観だけれども、どこかで聞いた知識かもしれない。横浜だ! オモチャのような一合釜。あのころの手はもっと小さかった。とにかく、生まれて初めて電気釜でめしを炊く。浅間下―野球にも活字本にも勉強にも触れなかった時代。学校は遠かったし、母は夜遅く帰ってきたし、学校帰りによくいじめられもしたけれども、毎日がまぶしいほど輝いていた。
 まだ朝の八時になっていないのに驚く。漢文句法を一時間。九時から開いている商店街に出かけていき、いつかの吉永先生のまねをして、肉屋でメンチカツとポテトサラダを買ってきた。それに醤油をどっぷりかけてめしを食った。めしの炊き上がりがよく、けっこううまかった。
 地学問題集、生物問題集、英単語トレーニングペーパー、赤摂也数Ⅰ、数ⅡB。一日勉強し、夕方になって、カズちゃんが重を届けて帰ったあと、花屋にナポリタンを食いに出かけた。重は夜食に回す。花屋のテレビを見ながら食った。女房も亭主も婆さんも気を使ってほとんど話しかけず、微笑しながら、空気のように放っておいてくれた。CBCテレビで『天才クイズ』というのをやっていた。甲高い声の久里千春という女の司会で、子供たちが愚にもつかない○×クイズに答えている。悲しいことに、私にはその問題のほとんどがわからなかった。帰りに亭主がわざわざ出てきて、
「たいへんですな、勉強。あと二カ月、辛抱してがんばってよ。なんならここで一日勉強してくれてもいいんだけど、ファンがうるさいからな。四時から五時は客があまりいない時間帯だから、サッときてサッと帰ればいい。くるたびに品を変えてあげる」
「ありがとうございます。こちらにいるのも、あと二カ月です。三月からは東京です」
 女将が、
「青い鳥さんがこなくなると、さびしくなるわねえ」
「ほんと」
 婆さんがうなずく。
「色紙の横に、新聞記事をズラッと貼っていくさ。ま、せいぜい、あと二カ月、これるときは顔を見せてくださいや」
「はい」
 深く頭を下げ、きょうもロハで店を出る。腹がくちて机に向かうと、アルバイトの疲労のせいか頭痛がした。耳鳴りが大きい。細かい勉強をする気が起きず、ぼんやり淀屋辰五郎のことを考えた。雨の日、書見に鬱屈した彼が、番傘差してふらりと土佐堀端の散歩に出かけ、屋台の飲み屋に立寄った姿を思い浮かべる。庶民の長屋のそばの屋台だ。生活の水音がする。詩が浮かび、根を詰めて書いた。

     元禄淡彩
       ―辰五郎を偲び
  雨 かきくらし降る
  くりやドブに吐き出される水の音
  親しみを強いてやまず
  外(と)に 黒犬の濡れそぼつ
  雨 かきくらし降る
  陰店に 客ひとり
  黒犬に 手は伸べられ
  空のした しじまとなり
  黒犬のからだ揺すれ
  雨 かきくらし降る
  陰店の客の からだ揺すれ
  雨 かきくらし降る



         百

 アルバイトの六日間がつつがなく過ぎ、七日目の大晦日は二人の学生バイトが増員された。私を含めた三人が、早朝と夕方の二回駆り出され、積みこみと運搬におおわらわだった。バイト料も時給が二倍にはね上がった。
 仕事がやっと片づくと、オヤッさんが慰労会と称して、名鉄百貨店の最上階にある天婦羅屋へみんなを連れていった。五、六店の食事処だけが営業時間を延長して、正月気分の客をもてなしていた。天婦羅は揚がるつど、カウンターに首を揃えた私たちの皿に盛られた。石丸が音頭をとり、みんなのグラスが打ち合わされた。
「いやあ、学生さんがた、まじめによく働いてくれました。おかげで大助かりでした。またこういう機会があったら、よろしくお願いします」
 オヤッさんが私を見ていた。私はその視線から逃れられないような気がした。
「いやあ、助かりますよ。こんないいバイト料、もらったことがなかったですから」
 大学生の一人がオヤッさんに真顔でお世辞を使った。
「そりゃそうさ、××大なんかにいってたら、なかなかいいアルバイトの口は回ってこないだろうしな」
 オヤッさんは陽気な態度で学生を揶揄した。スカウトを追い返した母の口ぶりと似ていた。こうした人間は、自分で独自に作り出したと信じている生活の方針がきちんと世間の常識で固まっていて、その方針に逆らった道をいく人びとにからかいの言葉を投げつける。彼の常識は、名門大学にいかなければ高給に値しないという、母とそっくり同じものだった。オヤッさんはまた私に顔を振り向けた。
「おい、神無月くん。源順(したごう)という歌人を知ってるか」
「はい、たしか、三十六歌仙の一人で、後撰集の選者、ええと、著書は倭名類聚鈔(わみょうるいじゅしょう)……」
「そういう受験的な知識じゃなく、どういう歌を作ったかということだ」
「歌、ですか? うーん、世の中を何にたとへむ茜さす……、茜さすは、日の枕詞で、でも、茜さす日じゃないし、それからどうつづいたかなあ」
「うん、そこまで出ればいいだろう。世の中を何にたとへむ茜さす朝日さすまの萩の上の露、というんだ。これは順が子供を亡くしたときに歌ったものだ。人の命なんて、はかないもんだという歌だよ」
 私は何となしに、母の顔を思い浮かべた。自分では何一つ考えていなかったつもりなのに、不意に彼女の疲れた顔が心に浮かび上がってきたのだった。それはまるで、忘れるともなく忘れていたものへの注意を喚起するだけでなく、私自身に関連した何かの解決を求めているかのような顔だった。
「子供がいると、家族にこまやかな絆が生まれる。子供がいるだけで、人生の隅から隅までわかる」
 私はじっと彼の顔を見た。嘘をつくな、盲目になるだけだ。子を持つだけで親が万能になるはずがない。私に見つめられてオヤッさんの目がちょっと狼狽の色を見せた。私に誇張を悟られはしないかと恐れている目だった。
「オヤッさん、湿っぽい話は抜きにして、きょうは飲みましょう」
 石丸が社長の肩に腕を回した。オヤッさんは煙草に火を点けた。チラと私に目を走らせたが何も言わなかった。
 石丸がしきりに私に酒を勧めた。私は生まれて初めて量を過ごした酒に酔う愉快さを知った。それは半ば疲れたような、何か大いにやってみたいような快い感じだった。目の前に透明なベールがかかり、ベール越しに何もかもが遠ざかっていき、ほとんどほんとうでないように見えた。ひっきりなしに笑わないでいられなかった。自分が陽気な道楽者のような気がした。ときどき話し声や笑い声がドッと高まってくると、私はみんなといっしょになって笑ったり、何かしゃべったりしたが、すぐに忘れてしまった。
「なかなかいける口ですね」
 石丸が言った。
「もう一杯いきましょう」
 私は笑いながらうなずいた。オヤッさんが重みのある声で、
「せっかく東大いくのなら、学問をしなさい。学問をして日本国に貢献すべきだよ。野球なんかやるのは東大に対して不敬この上ない」
 アルバイト生たちが驚いて彼を見、それから私を見た。
「あの、この人、神無月選手?……」
 石丸が、
「びっくりしちゃうよね。神無月さんの友人の代理でバイトしてもらったんだよ」
「うわあ、あらためて見ると、ほんとにすごい美男子だ。そしてデカい」
「そんなに大きくないですよ」
「サインしてくれませんか」
 オヤッさんが、
「サインなんかいい! 神無月くん、こんなふうにチャラチャラされたいのかね。こんなふうに生きていきたいのかね」
「東大にいかなければならない理由はしゃべり飽きました。東大にいけなくても別段腹は立ちませんが、プロ野球に進めなかったら自分に腹が立ちます。怒りの向けどころが、野球にたどり着けなかった自分にしかない。そんな状態で生きていきたくありませんからね。つまり、野球でチャラチャラされたいというよりも、ぼく自身が野球にチャラチャラしたいんですよ」
「じゃ、東大なんかいかずに野球だけやればいいじゃないか」
「どうしても事情をわかってもらえないようですね。ぼくは野球だけをやらせてもらう幸運には浴せないんですよ。生みの親が東大を頂点にするエリート階級に最大価値を置いているんです。野球をやることを許さない。じつに不思議な心理だし、価値観です。青森から名古屋に引き戻されたのもそういう理由からです。プロ球団は未成年者を扱う場合、本人の希望と親の許諾がなければ、強引に勧誘できない規約になっています。母はぼくが小学生のころから野球名門校のスカウトを追い返してきましたし、いまもプロ野球関係者を追い返しています。スポーツなどヤクザなバカ者の手慰みだと信じているんです。東大に進学した場合にかぎり、野球だろうと、女遊びだろうと、すべてに寛容になるにちがいないとぼくは予測しています。―ぼくにとって野球をすることは人生唯一の解放です。グランドでは自分を金剛石だと感じられますからね。母はぼくの解放を望まない」
 オヤッさんが私をはたと睨みつけた。
「屁理屈だな。だれに産んでもらったと思ってるんだ。いまあるのはだれのおかげだ」
 彼の気持ちは重々わかった。何が野球だ、産んでもらい、こうして生きていられるだけ幸福ではないか。そういう気持ちだろう。私は彼に賛成だった。私の言っていることは屁理屈にすぎない。しかしその屁理屈を通すしかない。酔いの中でそのことが悲しいほど自覚された。
 がんらい私は、野球を生きる糧にする人間ではなかった。ただ愛され、愛して、日々を送りたいだけの人間だった。そしていずれそういう人間になるだろうということがわかっていた。しかし、十八歳まで野球を捨てないで生きてきた人間として、それができない立場になってしまったのだった。幼いころから目指してきた野球への〈こころざし〉を示さなければ、そして、こころざしを遂げるために、世上の権威である登竜門を通過しないかぎり、自分の理想とする最終的な生活へのきざはしを昇らせてもらえないとわかっているのだった。この意義深い成功と挫折を孕んでいる人生の経験をなげうって、〈産んでもらった〉という事実だけを尊重するわけにはいかないのだった。石丸が言った。
「いや、オヤッさん、海のものとも山のものともわからないうちは、わが子愛しさで反対するというのもわからなくはないですよ。しかし、高校球界を代表する選手になったいまも反対するというのはどうですかね」
「親の目は確かだよ。幼いころから見てきて、野球など身に合わないと見抜いたんだろう。学歴は男が生きていくうえで、きわめて重要だ」
「じゃ、オヤッさん、東大じゃなくてもいいじゃないですか。ただの大学でいい」
「うん、母親はきっと東大にこだわる気はないよ。神無月くんが誤解しているんだろう。あるいは本人が東大にいきたいか……。まあ、勉強の素質が開花したとお母さんは踏んだんだな。それで東大と言いだした。信じてたのさ。息子は野球じゃないって」
「めちゃくちゃですな。もともと二つとも開花してたんじゃないですか? そのうち自分に都合の悪いほうを封じたということでしょ」
「石丸! 親というものを見くびっちゃいかんぞ」
 酔いが胃にやってきていた。私はその不快さを隠さなかったが、だれも気に留めなかった。この内臓の事情がだれにもわからないのと同じように、心という頭蓋の奥に押しこめられたものの事情もわかり合えないのかもしれない。私はぼんやりしはじめた視界の中で彼らが言葉を交わす姿を眺めた。眺めながら、小心に、これからの勉強計画のことを考えていた。学生たちは私の不快な表情に気を差し、もう話しかけようとしなかった。
「社長さん、石丸さん、みなさん、ちょっと酔っ払っちゃったみたいなので、お先に失礼します。そこらへんの道端で吐きながら帰ります」
 石丸だけが笑いながら手を挙げた。
         †
 昭和四十三年、一九六八年、一月一日。
 元日は半日寝ていた。午前のすべてを嘔吐に費やした。つくづく酒に弱い体質であることを自覚した。この機会に、人なかへ出ていくことはもうやめようと決意した。ものわかりの悪い人間はすべての計画と活動を停止させる。
 水を大量に飲んで、もう一度指で胃液を吐き戻してから、机に向かった。完全に吐き気が消えるまで、頭を使わない古文単語をやる。
 昼下がりにカズちゃんが部屋のドアを叩いた。風呂敷に包んだ重箱を提げてニコニコ笑っている。
「さあ、おせちよ。精をつけて」
「ありがとう」
「なんだか、すっぱいにおいがする」
「台所だ。半日吐いてたけど、やっと具合がよくなってきた。きのうバイトの打ち上げだったんだ」
「キョウちゃんお酒弱いから、たいへんだったでしょう」
「何ごとも拒絶は人を不快にするからね。ほとんどの盃を受けた。飲んでいるときは愉快なんだけど、あとがつらい。教習所、今年はいつから?」
「四日から。きょう、お母さんこないかしら」
「こないね。寝正月を決めこんでるだろう。一週間、花の木で勉強する」
「そうして。いちいち食事をしに外に出なくてもいいし、お洗濯もラク。洗濯物溜まったでしょう。持っていくわ。きょうは、する?」
「いますぐする」
「ま、元気なこと」
「すぐカズちゃんちへいきたいから」
 カズちゃんはスカートのまま、布団に四つん這いになった。その格好を見て私はすぐ可能になった。
「入れて。動かさなくてもすぐイクから」
 ズボンとパンツを脱ぎ捨て、スカートをまくり、ストッキングとパンティを引き下ろすとすぐに挿入した。カズちゃんはブルッとふるえ、奥へ進むか進まないかのうちに、からだを屈めて気をやった。みごとな素早さだった。
「……ああ、とろけそう。私って、スケベね」
「スケベでない女は嫌いだ」
「愛してるわ、キョウちゃん」
 背中で言う。
「毎日したい」
「いいわ。一週間は中に出してくれてもだいじょうぶよ。素ちゃんもだいじょうぶ。交代でしましょ」
 私が離れるとカズちゃんは自分の性器にティシューを当て、精液を受け止めた。振り向き、私の性器のぬめりを口できれいに拭い取った。ティシューを当てたまま下着とストッキングを引き上げる。私もパンツとズボンを穿いた。抱き合ってキスをする。
「昭和四十三年、明けましておめでとうございます」
「明けましておめでとうございます」
「さ、食べるわよ」
 二人で炬燵に向かう。重箱を三つ並べて開けた。二つの重には、ホタテ、数の子、ホッキ貝、焼魚、エビ、伊達巻、昆布、蒲鉾、ごぼう、黒豆、ゴマメ、ほかに、酢の物、栗キントン、いろいろ。目に鮮やかだ。三つ目の重には、野菜のてんぷら。
「すごいなあ、ぜんぶ手作り?」
「そうよ。素ちゃんと二人で二日もかけたんだから」
 ホタテからいく。
「うまい!」
 カズちゃんもポイと口に放りこみ、
「ほんと、おいしい!」
 私を見つめて、めずらしく八重歯をすっかり見せて笑う。
「カズちゃんはぼくのために生まれてきたの」
「もちろん。キョウちゃんが私たちのために生まれてきたのと同じように」
「私たち?」
「私もキョウちゃんを愛する女の一人よ。どの女の愛にも優劣はつけられないわ。私たちはキョウちゃんだけを愛してる。それでいいの」
「ぼくはカズちゃんだけを愛してる」
「ありがとう。でもその愛を分けてあげてね。キョウちゃんを愛する女は宝石だから、ときどき眺めてあげなきゃいけないわ」
 伊達巻とサツマイモはカズちゃんにまかせ、あとはすべてに手をつけた。
「わあ、よく食べてくれたわね」
「名人の料理だから、残すのはもったいないよ」
「ありがとう。きのうはどこで飲んだの」
「名鉄の天麩羅屋」
「じゃ、夜の食事はそこにしましょう。ちゃんと味わえなかったでしょうから」
「その前に、映画を観よう。待って、カバンに勉強道具を詰めるから」


         百一

 環状線でタクシーを拾い、いったん花の木に寄って重箱やカバンを置いてから、素子も連れて栄へ出た。何軒か映画館を物色し、題名の気に入った『みじかくも美しく燃え』というスウェーデン映画を観ることにした。パンフレットを見ると、八十年前にスウェーデンで実際に起きた事件だという。
 三人で泣いた。俳優がよかった。とりわけ男優のトミー・ベルグレン。女優のピア・デゲルマルクにはほのかな哀愁があった。妻子持ちの軍人と、サーカスの綱渡り芸人との没我の恋。あてのない逃亡の果てのピストル心中。一連の道行きに、モーツァルトのピアノ協奏曲二十一番第二楽章が流れる。カメラの映像が朝の空気のように透き通っている。カズちゃんと素子が肩を寄せ合っていた。
 名鉄百貨店の天麩羅屋で、二人の女は旺盛な食欲を発揮した。敷き紙に揚がってくる天麩羅を次々と口に放りこみ、待ちきれないように箸を握りながら職人の手もとを見つめている。タレにつけてみたり、塩につけてみたりして、そのつど、うん、うん、と味の確認をしていたが、ついにカズちゃんが、
「天丼、ちょうだい!」
 と叫んだ。素子も、
「私は小盛りで」
 と言った。職人は昨夜の私の顔を覚えていて、
「神無月選手、こちら、お姉さんたち?」
 と親しげに尋いた。
「女神二人」
 と私は答えた。カズちゃんが腕を組んできて、
「私の心臓」
 と言った。素子はしばらく考えて、
「私のぜんぶ」
 と言った。
「二人ともドのつくくらいきれいだけど、心臓さんも人間離れした美男子だねえ。きのうも、雑木林にどっかの王子が迷いこんだ感じだったけど」
「色が白いだけですよ。色の白いは―」
「七難隠す、ですか? どこに難があるの、特上じゃないですか」
 そんな話をしているあいだにも、カズちゃんと素子は天丼をきれいに平らげてしまった。私は彼女たちと同じ時間の中に生きて、同じ空気を呼吸している幸福をしみじみと感じた。
「鶴田荘のころから感じてきたことだけど、カズちゃんて、飯場にいたときとは別人のように感じる。顔はもちろん、言葉も。どういう魔法を使ったの」
「アヒルの中にいれば、アヒルのままよ。白鳥に引き上げてくれる男がいたから、だんだん白鳥になったのね。思いつく言葉も、振舞いも。……自分でも驚いてるのよ。でも変身したんじゃないの。キョウちゃんから心臓を少し移植されちゃったの。素ちゃんもね。さあ、今夜からシッカリ勉強よ」
 タクシーに乗らず、三十分の道のりを歩いて帰った。首が寒かった。カズちゃんが美しい唇からホーッと白い息を吐いた。素子がそれをまねた。
「すっかり真冬ねえ。もっと寒くなるわよ」
「素子、仕事はうまくいってるの」
「順調。水仙のママさんたちもええ人ばかり。お姉さんはしょっちゅうお客できてくれるし。あたし、いろんな料理覚えたよ。バタートースト、小倉トースト、玉子サンド、野菜サンド、ナポリタン、ミートソース、オムライス、カレーライス、ハヤシライス、ホットケーキ、チョコレートパフェ、クリームソーダ。東京出てもバッチシや」
 うれしそうに語る。
「小倉は東京では受けないわよ」
「模擬試験の終わった二十四日の夜、トモヨさんのところへいって、きちんとセックスして、受験が終わるまで逢えないと言ってきた。文江さんとは、彼女のからだを傷めないように自重しようと思ってる」
「えらいわ。そういうことなら、心おきなく勉強できるわね。溜まったら私か素ちゃんに出せばいいから」
「うん」
「トモヨさんはほとんど北村に詰めてるし、子供の面倒も見なくちゃいけないから、逢うのはなかなか不便だったでしょう。これで彼女もホッとしたんじゃないかしら」
「うん、すごく喜んでた」
「……吉永さんが帰ってきたら、セックスするのはしばらく控えたほうがいいわ。キリがなくなると思うの。ちゃんと言ってあげれば、辛抱の利く人よ」
 カズちゃんは玄関に立つと滑りのいい戸を引いて、柱のスイッチを跳ね上げ仄暗い式台の奥に明かりを点した。女二人で台所に立つ。
「コーヒーいれるわ。机に向かってて」
 私はカバンを手に二階に上がり、机を整えた。何冊も本が読み散らしてあった。コーヒー関係の本から、喫茶店経営、田中英光の全集の一部まであった。丁寧に積んで、足もとに置いた。コーヒーを入れた魔法瓶を持って上がってきた素子が言った。
「お姉さんと二人で長いマフラー編んどるんよ。白黒のチェック。六日までにはできあがる。それを巻いて歩いてね。風邪は首からくるってゆうから。八時起きの十二時就寝。しっかり守ること。お姉さんからの伝言」
「うん」
「じゃ、下にいるから。何か用があったら声をかけてや」
 その夜は素子の部屋で眠った。
         †
 翌日、新聞を見ていたカズちゃんが、
「青森特集してるわ。冬の美探訪ですって」
「奥入瀬だろ? 興味ないな」
 素子が、
「奥入瀬って?」
 カズちゃんが、
「青森県の南の県境に十和田湖という湖があるの。そこから流れ出た水が、いくつもの滝や川になったものを奥入瀬渓流と言うのよ」
「秋の紅葉とか春の深緑のころが美しいということで有名なんだけど、冬も美しいと言いたいんだろう。一年じゅうの人寄せだね。なんせ青森県はリンゴとホタテぐらいしか収入源がないから」
「なになに、八戸からバスでいくのよ。渓流には十四キロのブナ林の散策路があって、十四本の滝、多くの橋や奇岩が渓流美を作り出している。それらが冬は凍り、氷瀑としてまた氷柱として見られる、か。この十四キロも、焼山というところから湖畔の子(ね)の口というところまでバスでいくみたい。夜の滝はライトアップされるんですって」
「木の間隠れの滝のほかに何もなさそうだね。寒々と侘びしい。雪で凍ったアスファルト道は感動するけど、閉塞感のあるブナ林はだめだ」
「青森県と秋田県にまたがる白神山地もブナ林で有名ね」
「写真で見たことがある。あれは開放感のあるブナ林だ。山道は難路だけど、川沿いでないので、樹間が広々としているし、美しい沼や池も多い。ライトアップなんかする必要がない。じゃ、二階で勉強する」
 世界史の東欧現代史をやる。チンプンカンプン。民族が多すぎる、文化、言語、宗教が多様すぎる、日本史のように統一して理解するのはきわめて難しい。バルカン化、ハプスブルク帝国、民族問題、経済史、ポーランド・ロマン主義、独立東欧、国際関係、両大戦間の独裁政権、第二次大戦中の抵抗運動、非スターリン化、これまた万華鏡だ。一つも具体的なイメージが湧かない。
 下へ降りて、編物をしていたカズちゃんに、
「世界史の東欧のところが難しすぎる。よしのりを連れてきて講義を聴く。昼めし食わせたら帰す。芋煮を作っといて。喜ぶと思う」
「講義?」
「あいつは社会科の知識が尋常でないんだ。高校の先生の講義を聴くようなもんだ」
「山口さんよりすごいの?」
「山口がいれば当然山口に訊くけどね。山口のように体系立ってはいないけど、しゃべりまくるからね」
「わかった。車に気をつけてね」
 木下アパートへ自転車を飛ばす。素子が買ったばかりの女ものの自転車だ。曇り空。きのうより寒い。
 よしのりは文机にいて、何やら本を読んでいた。
「おお、神無月。きのうアパートにいったが、いなかったな」
「松の内は女神の家で勉強だ。いまから会わせる。歩いても十分かからない。東ヨーロッパのことを教えてくれたら、その礼に昼めしを食わす。芋煮だ。食ったら帰れ」
 よしのりは嬉々として廊下に出てきた。
「東欧か。古いところは知らんぞ」
「新しいところだけでいい。そこから古いところへ敷衍して考えるから」
 自転車の荷台に乗せ、市電道に出る。
「お隣さん、正月もごそごそやってるぜ。ああいう女でも抱く男がいるのかな」
「アハハハ、蓼食う虫も、だ。さっきは何を読んでたんだ」
「松下幸之助の『道をひらく』。随想集だから読みやすい」
「好奇心の幅がふつうじゃないな。たとえばどんなことが書いてあるんだ。カメラ眼で覚えたとおりに言ってみてくれ」 
「……近道を歩めば、思わぬところで足をすくわれかねない。成功に近道はない。地道になすべきことをなして、正道を歩むことが大切なのである」
「成功したい人間へのメッセージだな。成功なんかどうでもいいから快適に暮らしたいという人間と、不快に暮らしてもいいからとにかく成功したいという人間では、どちらが多いかな」
「後者だろ」
「ほかには」
「信用というものは、得ようとして得られるものではない。自分の商売、自分の務めを日々誠実に大事に果たしていく、その積み重ねの中から、はじめて信用が生まれ、高まってくる。けれども、そのようにして長年かかってようやく築きあげた信用も、崩れる時は一瞬である。だから一刻の油断も許されない」
「単なる、金融社会の倫理だね。丁稚の心得。成功って、商売の成功のことだろ」
「商売するしないに関係なく、丁稚精神ほど俺の人生で大事なものはない」
「永島慎二は、丁稚精神か」
「いや、孤高の詩人だ」
「だれを見習って生きてるんだ、おまえ」
「すぐれた人間だ」
「みんな単なる有名人のような気がするがな」
「じゃ、おまえが見習ってるのは」
「無名のカズちゃんはじめ、女たちだ」
 よしのりは私の後頭部を撫ぜながら、
「……俺もおまえをいちばん尊敬しているが、見習えない」
「やるせないね」
「神棚にあるものは見習えないだろ。拝むだけだ」
「金輪際ぼくを褒めるな」
 花の木到着。
「ここか」
「ここだ」
「すごい家だな。もと飯炊きの恋人は、ブルジョアか」
「まあ、そうだ」
 自転車のスタンドを立て、玄関の戸を引く。
「連れてきたよ!」
「いらっしゃい!」
「うお、楊貴妃! 二人もいるぜ。すげえ美人だな」
「あなたもいい男ねえ。少し短足だけど」
「口がワリ!」
 よしのりは愉快そうに笑った。
「いま、芋煮作ってるから、下の居間に寝転がってお話してなさい」
 素子が、
「コーヒーいれるね」



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