百十一

 ホテルを夜の六時半にチェックアウトし、渋谷から浜松町に出る。七、八分待ち、モノレールで羽田へ。モノレールの変わった座席配置に戸惑う。カズちゃんが大事そうにカセットコーダーを提げている。眼鏡をかけずに眺める街の灯りが蛍のように美しい。
「一仕事終わったって顔」
「ある意味、一生の労働が終わった。野球は労働じゃないから」
 八時五分の飛行機に乗った。九時十分過ぎに小牧空港に着き、タクシー乗り場に立ったとたん、
「神無月さーん! お嬢さーん!」
 という声が飛んできた。菅野がクラウンのドア前に立ち、手を振っている。
「菅野さん……こんな遅い時間に」
「なーに、神無月さんのためには、火の中、水の中ですよ。このまま、花の木へまいります」
「ありがとう。緊張しづめの一週間だった」
「東大受験に旅行気分ではいけませんよ」
 車が滑り出す。
「山口さんが三月一日にホテルに激励しにきたのよ。彼は法学部で、キョウちゃんは文学部。きょうも出発まぎわに電話くれたんだけど、彼も当確だって」
 私は、
「二人とも急ごしらえじゃなかったから、当然の結果だと思う。さあ、いよいよ野球をやるぞ。東大の野球部と言えども、けっしてクラブ活動じゃない」
「いやしくも大学野球ですからね。クラブ活動じゃありません。わくわくしてきたぞ。東大生の野球選手とギタリストか。なんだか信じられませんよ。思い出しちゃうなあ、この一年半」
 菅野はハンドルを握り締めて、しばらく無言でいた。背中で言う。
「……神無月さん」
「はい」
「東大へいっても、その自然体で、一人でも多くの人間を救ってください。……私を救ったみたいに」
 カズちゃんが、
「菅野さん、ありがとう。心からありがとうって言わせてね。そのひとことが、どれほどキョウちゃんの行動に効果があるかわからないのよ」
「礼を言ってるのは私ですよ。やめましょう、いつもこうなっちゃう。さ、花の木へいきますよ」
 菅野は手の甲で涙を拭うと、車を出した。
         †
 菅野の車が去ったあと、しばらくキッチンテーブルでコーヒーを飲みながら、カズちゃんと素子と話した。
「自然体か。草も木も、自然体だよね」
「そうね」
「意思はないね」
「そうね、生きてるのは生命欲のせいじゃなく、生命本能のせいだものね」
「ぼくは、それだね」
「……本能さえ持っててくれれば、私はうれしい。キョウちゃんには生命欲はないけど、植物にはない才能や心があるから、本能で生き延びてさえくれればいいの」
 素子が私の手をとり、
「キョウちゃんが生きとれば、あたしたちも生きとるよ……」
「そうよ。さびしかったでしょう、素ちゃん。あしたからキョウちゃんも二十日までぶらぶらできるし。いつもベタベタしてられるわよ」
 カズちゃんの気配り、だれのちょっとした望みでもすぐに察する勘のよさ。
「もし、青森に送られんと、寄り道しとらんかったら、どれほどたくさんのことをしとったやろな。毎日そんなことを考えとった」
 私は、
「何もしてなかったと思う。抵抗などできもしなければ、しようとも思わない人間だったからね。カズちゃんが追ってきてくれなければ、ぼくは野球もしない、勉強もしない、愚痴ばかり言いながら、この世の片隅で生きていっただろうね。それは考えられるかぎりの最大の不幸だ。元気をなくしていたぼくのそばに、カズちゃんが元気をもってやってきてくれたから、運よく目ぼしい目標を持てた。カズちゃんは、ぼくが持っていたたった一つの才能をぼくに思い出させるために、ぼくの小さな不幸を利用して大きな幸福に変えようとした」
「……女神やから」
「うん、魔法が使える。紙切れみたいにペラペラになっていたぼくに魔法のマッチをすってくれた。どんな薄っぺらい紙切れだって火が点けば、信じられないほどのエネルギーを発する。青森市営球場でバッターボックスに立ったとき、いちばん初めに感じたのは、抑え切れないエネルギーの感覚だった。野球ができる喜び―爆発するエネルギーそのものだった。ぼくはバッターボックスで、空とグランドのなつかしいにおいを運んでくる空気を胸いっぱい吸いこんだ」
「キョウちゃん、それはキョウちゃん自身で切り開いた幸福よ」
 私は感謝の気持ちでいっぱいになり、
「いや、切り開いたのはカズちゃんなんだよ。ぼくは受け取っただけ」
 素子が私の背中をそっと抱いた。三人で音楽部屋へいき、カズちゃんがカセットコーダーといっしょに秋葉原で買ってきたパティ・ペイジと、スー・トンプソンのEP盤を聴いた。ホワイ・ドンチュウ・ビリーブ・ミー、ハブ・ア・グッタイム。やさしい歌声が鼓膜を濡らした。この感傷こそ、だれが何と言おうと私の人生のすべてだ。
         †
 カズちゃんと目覚める朝は、いつも、透き通った世界に包みこまれて抱き合ったことが、失ってはならない思い出のように回想される。そういう気持ちで彼女の顔を見つめると、私もよ、というふうに彼女はかならず無言でうなずく。
 きのうまで快晴だったのに、朝から冷たい雨が降っている。
「しっかり区切りがついたような雨だね。気持ちが新しくなる」
「ほんとね。あしたからまたこつこつ、一歩ずつって感じ」
 昨夜遠慮した素子が朝食を準備している。焼き鮭、おろし納豆、生卵、海苔、茗荷の酢漬け、玉ねぎと麩の味噌汁。
「ごちそうだ!」
 素子がうれしそうに胸の前でパチパチ手を叩く。めし二膳。
「うまい、うまい。ホテルもこういう朝めしを出してくれればいいのになあ」
「キョウちゃんは安上がりにできてるのよ。ホテルはこんな安いものは体裁上作れないでしょ」
「どうして安いものはうまいのかな」
 素子が満面の笑みを浮かべて、
「安いと、うんと工夫して、心をこめられるからやと思う」
 カズちゃんが、
「……手駒を増やして、見得も入れるとまずくなるということね」
「ぼく、そんな人間になってないかなあ」
「だいじょうぶよ。キョウちゃんは出世も願ってないし、ものに凝るということもない天然素材よ。今年からは出世しちゃうけど、気にもかけないでしょう?」
「うん。忙しい人生、初体験だ」
うまい朝食を食って八坂荘に戻ると、ドアの下に吉永先生から藁半紙一枚のメモが挿してあった。

 おかえりなさい、キョウちゃん。二次試験の手応えは、信也先生から聞きました。お母さんに電話して確かめたそうです。おめでとう。職員室は大騒ぎですよ。二十日にはもっと大騒ぎになるでしょう。
 土橋校長が、上京前に会いにくるようにとおっしゃってました。同じアパートの私からキョウちゃんに伝えてくれというのです。名誉のメッセンジャーです。では伝えます。早いうちに土橋校長先生に会いにいってあげてください。
 私の東京の住所も決まりました。決まった事情はあしたゆっくりお話します。いつまでも愛しています。キクエ。


 二、三日中に土橋校長に会いにいってこようと思った。
 ふと私は自分が女たちに愛される理由がわかったような気がした。奇異な人格というよりはむしろ、愚かしさをいとおしがられているのだ。なぜ母に嫌われてきたか、それもいままででいちばん明確な形で理解できた。彼女は私の愚かしさを怖れたのだ。彼女にとって、あらゆることがらの価値は彼女の知覚の定量によって決まっていて、愚かな人間が彼女の計った定量を少しでも減らすと、身も世もなく恐怖するのだ。母が私の言動を彼女の計量を脅かすものだと判断する根拠は、これまで私が思ってきたのとはちがって、世間の目ではなく、彼女の生来の感覚の秤にちがいない。母はその計算に基づいて私の言動の価値を判断し、愚かと判断して禁錮刑を課し、自由を拘束し、再起の希望を奪う。彼女は愚か者の罪の計量を担当する裁判官を兼ねた冷徹な首切り役人だ。首を切る動機は、自分が堅持している安定した価値観を傷つけられる恐怖なのだ。
 彼女の知覚や感覚に分け入ることは困難だ。これまでも、私を断罪することに対しては、たくさんの〈世間人〉が彼女に反論してきた。つまり彼女は世間人ではなかったということだ。
 ―彼女は世間人ではない。だから東大そのものにも価値を見出していない!
 ゾッとした。彼女が東大に付属的な有効性を見出しているのは、東大を踏み台にして既存の権威と目される知的な身分や地位を得た成功者……ただし、愚か者以外の、がんらい有能な成功者。彼らにこそ成功が似合うと計量する。だとすると、この先私が愚か者のまま野球選手となっていく〈成功〉の道程には、しつこい横槍を入れてくるだろう。
 私は臍を固めた。とにかく努力に努力を重ね、それによって僥倖(マグレ)をできるかぎり引き寄せてプロ野球選手となり、一年間だけでも中日球場のグランドに立つ!
         †
 三月九日。蒲団に寝転がって、受験前に二ページほどで読みさしていた尾崎一雄の『すみっこ』を熟読していると、水野が訪ねてきた。
「なになに? 尾崎一雄? 昭和初期の作家か。太宰と同時期だ。三島由紀夫が尾崎のことを何て呼んだか知ってるか」
「知らない」
「着流しの志賀直哉」
「どういう意味?」
「文体がサラリとしてる」
「これはちがう」
「うん、すみっこは傑作だ。苦しみはサラリと撫ぜるわけにはいかない。作中の男は、兎唇(みつくち)の息子に傷つけられたと思いこんでいる。しかし、傷ついたと信じる人間こそ毒矢を自分の中に持っている。それを描き切った傑作だ。傑作には芥川賞をやらん。サラリにはやる。虫のいろいろ」
 ドキリとした。
 ―そんなにとうちゃんの苗字が好きなのかい。
 ―ノーベル賞かへーベル賞か知らないけど、親孝行でないやつが何賞を獲ってもダメだね。
 父と私の毒矢で苦しんだ母。彼女の体内に秘められた毒矢で苦しんだ父と私。その毒は遅効性で、傷ついた人間を即座に飛び上がらせるようなものではなく、ときをおいて心を打ち砕き、自分の犯したむかしの罪を思い出させて責め苛む。骨に徹するような痛みをだんだん全身に循らせて、ついには死に追いやる。
 ―終局、相打ちということか!
 私は胸の肉が引き攣ったように笑った。もう二度と母のことは分析しないだろうと直観した。ひたすらあと二年間の擬態を徹底させるだけだ。相打ちは哀しすぎる。
「きょうは何の用だ」
「早稲田の教育、受かったぜ」
 水野が胸を張る。
「そうか、おめでとう!」
 フィルターでコーヒーをいれた。水野はコーヒーをすすりながら私に横目を流し、
「おまえは、東大の発表待ちだろ」
「ああ」
「なんか明るくないな。不安なのか」
「不安はまったくない。百パーセント受かってる」
 私は瞬時に展けた視界のせいで気持ちが明るく晴れ上がっていた。
「じゃ何だ、その顔は」
「別の不快だ」
 先天的なしかめ面だとは言えず、胸の内の明るさから逸れた話をした。
「……東大に好感が湧かない。その東大がぼくの野球で人気者になる」
「オブジェクティブに言って、その可能性は高いな。ま、ともかく、名古屋西高から東大合格か。壮挙だな。東大を受けた浪人二人は、一次試験で落ちたらしい」
 そんな情報などどうでもいい。あのブカブカ靴の学生はどうなっただろうか。受かっていてほしい。水野はポケットからハイライトを取り出した。口先でふかす。私は煙を眺めた。
「まあ、神無月は諸般の事情から金欠にはならないとして、貧乏私大生の俺はアルバイトの必要が出てくるな」
「必要はないだろう。パチンコ屋は大儲けだ」
「そのパチンコ屋で、夏と冬アルバイトをする。姉二人も名古屋の私大にかよってて、金がかかるからな。時給が百三十円でめっちゃくちゃ安い。奴隷給だ。搾取階級だから無慈悲なのは仕方ない。息子だからといって優遇するわけにはいかない。しかし、もらえないよりはましだ。一時間働いて、八十円のハイライトが買えれば、文句はない」
「ぼくは煙草なんてマズいもの吸わない」
「みっともないやつだ。男の風上にも置けん。じゃ、次回は東京で会おう。ま、これまで以上に忙しくなるおまえには、そんな暇はないだろうがな」


         百十二 

 水野を玄関に見送って、部屋に戻ると、学校から帰ったばかりの吉永先生がドアをノックした。
「おかえりなさい。やっとキョウちゃんに逢えた。うれしい」
 狂おしく唇を求めてくる。私が炬燵に入ると、先生は湯を沸かし直した。出がらしのフィルターを捨て、新しいフィルターにコーヒーの粉を入れる。
「あした、校長先生に会いにいってくるね」
「そうしてあげて。だいぶマスコミに対応してくれたみたい。これからの取材は東大関係に集中するだろうって」
 コーヒーが入った。タイトスカートの尻を撫でる。フフと笑って、うれしそうに身をよじる。
「まだ三時過ぎよ」
「先生だって待ちきれなかっただろ。で、東京の家はどうなったの?」
「キョウちゃんの留守中に、二日がかりで東京にいってきたんです。新幹線で東京駅に降りて、右も左もわからないまま渋谷に出たんですけど、東大は駒場と本郷にあるから、どちらで家を探していいか迷ってしまって。でも、東京は交通が便利でしょう。どこに住んでいても、おたがいにあっというまにいけるから、少し賑やかな街を避けて探してみることにしたの。東上線というのに乗って、適当に上板橋というところで降りて、駅前の道をずっと歩いて、東京にしてはちょっと田舎っぽくていい町だなあと思って、ここにしようって決めたんです」
 背中をさすり、腰を撫ぜる。尻をもぞもぞさせている。
「駅前の不動産屋さんにもどって、歩いて十五分ほどの一戸建てを見せられ、すごく気に入って、その場で借りることにしました。マッチ箱のようなかわいい家です。一戸建てと言っても、六畳一間なの。半帖の台所とトイレつき。落とし便所なんですけど、いつも清潔に保てばなんてことありません。部屋の調度や道具は、キョウちゃんからもらったお金で買い揃えます。と言っても、台所道具と、机と、本棚と、炬燵ぐらいですけど。衣類は押入箪笥とファンシーケースを買うことにしました。整理に重宝するから。置き箪笥がないと、よほど広々と部屋が使えるんですよ。職探しに出る以外は、机に向かって本を読んだり、正看の試験勉強をしたりすることにします」
 早口で報告し終える。小さなからだの大きな胸を揉む。
「ああ、キョウちゃん、もう……」
 蒲団へいく。服を剥がしながら尋く。
「仕事はそばで見つかりそう?」
 股を割り、胸を含みながら挿入する。
「……お姉さんが、私の仕送りの一部をずっと貯めていてくれて、それをソックリくれたの。それでしばらくのんびりと看護関係の仕事を見つけます。……ああ」
 まだ先生のからだは開発されていない。私は焦らない。情欲から遠い清潔な気分を与えてくれるからだ。
「……もう少し辛抱すれば、四月には会えます。そのころには仕事も決まっているはずです。ああ、いい気持ち、動いていいですか」
 うなずく。先生の美しい三角形の陰毛がなまめかしく前後しはじめる。
「あ、あ、すごく気持ちいい―」
 ウン、とうめいて腰が止まる。先生なりの清潔な高潮だ。少し内部が狭まるので、私はようやく動きだし、清潔な空間へ心置きなく射精する。私はからだを起こし、結合部分を不思議な思いで見つめながら律動する。
「じゃ、もう、部屋はがらんどう?」
 引き抜くために、二度、三度と余韻の律動をする。
「はい、八坂荘の大家さんに電話をして、ああ、どうしよう、気持ちいい、大家さんに電話して、あ、どうしよう、未払いの部屋代に充てるために箪笥や、あ、ああ、た、箪笥やベッドを古道具として処理してもらいました、あとは蒲団を、蒲団を送るだけです、ううーん、イク!」
 キクエは逆三角形の陰毛を突き出し、尻を往復させた。ついに訪れた穏やかなオーガズムだった。
「ああ、キョウちゃん!」
 自分を虐待するように腰を使いながら私を抱き締める。覚醒を確かめるために陰阜を打ちつける。
「ああ、愛してます、死ぬほど好きです、あああ、イク! イクウ!」
 先生はしっかりとした感覚をつかまえた。純愛に訣別して、豊かな愛情の海へ泳ぎ出ていく瞬間だった。先生はおもむろに目を開いた。
「……ごめんなさい、空に浮かぶみたいになって、何もわからなくなって」
 私は先生から離れ、三角形をやさしくさすった。
「上板橋の大家さんに、恋人がいますって言ったら、ここはあなたの家なんだからご自由に、と言ってくれました。だから、キョウちゃんはいつでも遊びにきてください。日曜日に東京へいきます」
「え、三月いっぱい勤めるんじゃなかったの」
「いる意味がないから、三月十一日付けで退職しました。東京で一般の病院に勤めながら正看の勉強をつづけて、試験に合格してちゃんとした看護婦さんになります」
 一瞬、節子が二人いる錯覚を起こした。
「十二日から東京で独りぼっち。早くキョウちゃんに会いたい。東大の試験結果は信也先生に電話して聞きます。会いにきてくれるときは、上板橋で降りたら、南口を出て真っすぐ商店街を進み、国道二五四号線にぶつかる一本手前の道を右へ曲がって……そうだ、あとでちゃんと地図を書いておかなくちゃ。右へ曲がると、お風呂屋さんの高い煙突が見えてきます。その一戸建てに曲がりこむ角に、清寿司というお鮨屋さんがあります。大家さんの名前は糸井といいます。四月に逢えるまで、毎晩キョウちゃんのことを想いながら眠ります」
         †
 三月九日土曜日。寒い。強めの風。午前早く、学生服のボタンをきちんとかけ、土橋校長に会いにいった。粉雪が風に舞っている。事務所の窓口で、校長に面会することを申し出る。トニー谷が電話をつないだ。
「どうぞ。いらっしゃいます」
 校長室のドアを叩いた。
「入りたまえ」
 転入試験の合格の日のように、厳しい面持ちをした校長がソファを勧めた。
「青高の小野くんには、先夜、連絡をとった。きみに関わった諸々の先生がたに十中八九合格だと伝えてくれるようにとね。先日、青森の新聞社から、私といっしょの写真を撮りたい、二十日の昼はどうかと打診してきた。浜中という人物で、去年の春にきみの記事を書いたと言っていた。その記事も送ってきたので読んだ。いいものだった。どうします?」
「ぜひ。二十日に合格がはっきりすれば、二十一日に出発しますから」
「じゃ、浜中氏に連絡を入れとこう。合格はまちがいないからね」
「でも、何で浜中さんは校長先生と」
「東大で野球をやるように勧めたのは私だと、きみは先回の取材のとき彼に言ったそうだね。どうも私はきみを、本格的に野球へ引き戻した張本人と見なされたようだ」
「そのとおりです」
「きみはじつに変わった男だね。手を染めたことは、かならず極端な形でまっとうするし、まっとうしてしまったことにはこだわらない。しかも、やり遂げた手柄を人に譲る」
「野球にせよ、勉強にせよ、ぼくの肩を押して、やり遂げる〈きっかけ〉を与えようとすることは、転校当時のぼくの袋小路の状況を見れば、とても勇気の要ることだったにちがいありません。あの母が初対面で恐れをなし、土橋校長先生にはいっさい強訴することがありませんでした。その後も校長先生は、ぼくの勉強姿勢やペースを援護してくれました。感謝するのはあたりまえです。ほぼ東大合格は果たしましたし、野球へもグンと近づきました。しかし、まだぼくはプロ野球選手になっていません。これから先は自分でやり遂げなければなりません。……やり遂げることではなく、命を充実させるために常に没頭しなければならないことがあります。人間そのものについて考えることです。ぼくは、時代とか社会とかいった書割には興味ありません。肩書や、権力や、身分も書割です。それらは受容か拒否かのいずれかですむ要素ですから、思索の必要はありません」
「うん、すべて見守らせてもらうよ。これ、私の合格祝いだ」
 土橋校長はリボンつきの小さなケースを差し出した。
「何でしょう」
「モンブランの万年筆だ。それで文章を書きたまえ。きみがこつこつ文章を書いていることは、すでに小野くんから聞き及んでいた。一年時の担任から報告を受けたそうだ。きみが熱病のオコリに罹(かか)って重篤になったとき、様子を見にいったその教師が、印刷のように美しい文字で書かれたノートを読んだ。からだが打ちふるえたそうだ。……野球選手と芸術家というのは妙な取り合わせだが、私はもう何ごとにも驚かない。だれでもきみと対面していると自分が恥ずかしくなる。しかし、恥ずかしがっていられない理由が、人それぞれにはある。そこを描かないと、芸術にはならないだろうね。芸術家は陰に潜んで彼らを観察し、活性化させるクロコだ。クロコは独自には存在できない。……人間について思索したいときみは言った。まさに芸術家の生き方だ。私はそのきみをずっと観てきた。きみは、時代も社会も書割もきちんと意識して生きていた。書割に興味がないというのはきみ独特の言い回しで、じつはそこに非常に興味があるということだ。でなければ、野球もしなければ、勉強もしないはずだ。恵まれた能力で〈そこ〉を難なくクリアできてしまう自分が〈そこ〉にこだわって生きていることを人に知られたくない―しかしね、そのこだわりはちっとも恥ずかしいことじゃないんだよ。こだわって結果を出せば、大したことなんだ。……だから、私は東大で野球をやれと言ったんだ。こだわった二つのことをまずやってほしくてね。きみは、グランドではホームラン王で、学校では首席だ。すべてこだわって出した結果だ。野球をやりたかったから、能力をフルに使い、万難を排してことに挑んだんだよ。運じゃない。努力という名のこだわりが生んだ成果だ。実質、たしかにまだ受かってはいないが、合格はまちがいないところだ。総合六十パーセントの得点をする受験生は、過去の東大の歴史でも何人もいない。……じつは、東大野球部の関係者が、去年の夏休み中にきみの合宿勉強を申し入れてきたが、断った。一日十二時間、三週間の合宿だ。そんなことをしなくても、きみは受かるからね。……きみが好むことは、たぶん、きみが言うとおり、人間について考えることだろう。そしてそれを表現することだろう。しかしきみはその過程にはこだわっても、結果にはこだわってない。こだわっていれば、そのこだわりの結果を人に見せようとして、大なり小なりの登竜門に挑んでいるはずだ。この顕彰万能の社会では、それしか確かめる方法はないからね」
「顕彰には関心がありません。人の言動に感動したり、そこから生きる力を得たり、そうやって生かしめてくれる人を愛したり、ただそうしたいからです。最大の喜びをもって野球をし、最大の関心をもって人間を考え、それぞれを自分なりの方法で表現していくつもりです。それだけで手いっぱいなので、この先も唯一の才能を恵まれた野球はやりつづけますが、関心のない学問はやりません」
「ああ、それでいい。高校時代のように、ときどき学期ごとの試験を受けながら、野球をやりつづけなさい。そしてプロ野球にいきなさい。とにかく私の言いたいことは、自分を卑下してはいけないということだ。自分を過小に見つめることは、挫折を予測して行動するきみの独特のインセンティブなのかもしれないが、見ているほうは心苦しい。なぜならきみは天才だからだよ。しかし、そういう姿勢がきみの大きなエネルギーを生み出す源だと言うなら、否定はしない。エネルギーの大きいきみを見守るのは快適だからね。じゃ、きょうはこのへんにしておこう。二十日、十二時にこの部屋で」
「はい、失礼します」
 深く礼をして校長室を出た。このオトコには、これからも常に礼を尽くさなければならない。
 粉雪がやんでいた。濡れたアスファルトのいいにおいがする。
         † 
 十一日月曜日。曇。きのうよりも寒い。ラジオのニュースで、きょうが寒さのピークだと言っている。円谷幸吉が死んでから一カ月か。あれほどの魂―。彼を思いながらランニングに出る。榎小学校から菊ノ尾通りへ出、押切から名無しの通りを菊井町まで走って左折。外堀通り。明道町の交差点まで一気にいく。細道をくねくねいき、円頓寺商店街に出る。走り抜け、ギボシの美しい五條橋に出る。ここまで三十分。一休み。小さな喫茶店に入って、野菜カレーとコーヒー。コーヒーは何のブレンドかわからないがブレンド一種類のみ。コクがあってうまい。店内もシンプルでやさしい雰囲気。女が一人で切り盛りしている。サービスは味噌汁にするかゼリーにするかと尋かれたので、どちらもいらないと答えた。それ以上の会話なし。OK。
 寄り道十五分、往復一時間のランニングから戻って吉永先生の部屋を覗くと、段ボール箱が十余りも積んであった。周りに小物が散らばっている。ベッドも箪笥もない。
「まだまだ整理するものが残ってるんです。あしたの昼までには運送屋さんがくるというのに」
「きょうはぼくの部屋に泊まる?」
「いいえ、西高の先生方が送別会を開いてくれるので、そのあとで西森さんの部屋に泊まることになってます。そこでも小さな送別会。あしたのお昼ごろ、キョウちゃんのお部屋に最後の顔を出します」
 モンブランのケースを開けて見せた。
「わあ、すてき。146ね。149は太すぎて、サイン用にしか使えないの。松本清張は149で書いてるっていうけど。ものを書くには146がちょうどいいんです。五万円ぐらいするはずよ」
「うへ! 怖くて使えないよ。先生が勉強に使って」
「それはだめよ。校長先生はキョウちゃんに使ってほしいの。さ、忙しいからお部屋に戻って」
 尾崎一雄のすみっこを精読する。水野の言ったとおり、兎口の子供を持った親のさびしくも残酷な心の動きを淡々と書いている。ぐずつく子を寝かしつけるのに、楔形に切れこんだ鼻の穴に座布団の端をねじ入れる。いつしかその端は黒く薄汚れる。それがスミッコだ。座布団のスミッコ、部屋のスミッコ、人生のスミッコ。題名の象徴の的確さに冷気を感じる。


         百十三

 ドアが叩かれ、返事をして出る。口のくさい紀尾井と、麻雀の天才横地だった。思わぬ組み合わせの二人が立っているのを見てびっくりした。
「東大に受かったんやて? 記念に顔を見とこう思ってな」
 童顔の横地が眩しそうな目で言った。
「一次試験にね。まだ二次の発表が出てない」
「一次に受かっただけでも大したもんや。旭丘や明和やでないんでェ、名西やで」
 部屋に入れてコーヒーを出した。いざ、あぐらをかいて向き合うと、二人ともひどく緊張した顔になった。
「二人は、友だちなの」
「こいつとは山田中学の同級生や。ずっと俺が一番で、紀尾井が二番やった。過去の栄光やけどな」
 横地は流しから湯呑茶碗を灰皿代わりに持ってきて、水野と同じようにハイライトを出して吸いつけた。横地の背中に隠れるようにあぐらをかいていた紀尾井が、煙を追い払う仕草をした。
「横地は、電々公社に受かったの?」
「おお、書類選考だけでな。四月から大須の電々公社の社員や」
「紀尾井は?」
 ようやく話しかけてくれたという顔で、
「名工大を受ける。試験は月末」
「きみなら名大でもラクに通ったのに」
「焼き物をやりたいんや。窯業(ようぎょう)科があるのは名工大だけだで」
 紀尾井はうれしそうにつづけて、
「人はココロザシを持たんとあかんと思う。神無月くんは、よう本を読んでたやろ。ココロザシが見えたわ。文学をやるんやろ?」
「やるのは野球だ」
「本は、どんなふうに読むの?」
「どんなふうって」
「どういうことに注意して読むの」
「一語、一語、単語や言い回しに注意して。……あたりまえだけど」
「テーマには注意せんの?」
「しない。おすましの作文じゃないんだから。偶然生まれた人間に、生きるテーマなんかないよ。感情のままに生きてるだけだ」
「ぼくも同じことを考えたことがあった」
 嘘だろう。自分もよく本を読み、よく物思いにふけると言いたいだけのことで、私のように考えたことはないはずだ。どうも、いきあたりばったりに私の機嫌を取っているとしか思えない。出っ歯を剥き出して、表面をすするようにズズッとコーヒーを飲むのも気持ちが悪い。横地が、
「おまえ、麻雀しっかり覚えといたほうがええぞ。大学いったら、毎日麻雀ばっかしやろ」
「いや、野球ばっかりだ」
「それでも、まんいちのとき、できん言ったら馬鹿にされるで。この本、やるわ。おまえがうちにきたとき見とった本や。中学校のときに買った本だでボロボロになっとるけど、ええことを簡単に書いとる。二日もあれば暗記できるわ」
 見覚えのある麻雀の実用本を胸のポケットから畳に投げ出した。紀尾井は横目で、くだらんという表情で眺めた。
「……じゃ、いくわ」
 横地が立ち上がると、紀尾井も立ち上がった。
「たまに、東京に会いにいってええか」
 紀尾井が言った。ほんとうにやってきそうな気がした。
「ああ、いいよ。ぼくの住所は飛島建設寮のおふくろに尋いてくれ。中村区の岩塚にある」
 二人は帰っていった。私を見物にきたという感じだった。
         †    
 翌十二日火曜日。午前中、運送屋と吉永先生が壁越しの部屋でゴトゴトやっていた。昼を過ぎて吉永先生がドアを叩いた。正装して、大きなボストンバッグを提げている。
「それじゃ、東京へいきます」
 天神山の市電停留所までいっしょに歩いた。小さいからだが弾むように歩く。私は立ち止まり、
「ちょっと顔を見せて」
 小さい吉永先生は恥ずかしそうに私を振り仰いだ。
「嘘のように顔が変わった」
「同じです」
「いや、変わった。自信を持って目を開くせいで、光が出て、全体が吊り上がった。唇の形のいいことは知ってた。鼻の低いのも気にならないくらいだ。イイ女になった」
「ありがとう。何もかもキョウちゃんのおかげです。四月に、上板橋で待ってます。どんな生活が始まるのかしら。楽しみ」
「先生はエネルギュッシュで、見てるだけでうれしくなる」
「和子さんもそうです。楽しくなります。……キョウちゃん、たまには子供の顔を見にいかなくちゃだめですよ。もっとうれしくなるわ」
 停留所で、チョンと唇を合わせた。先生は少し手を振り、車内へ姿を消した。
 八坂荘へ戻り、玄関前の自転車置き場を見ると、先生の自転車が消えていた。ほんとうに去っていったのだと思った。トモヨさんに電話をして、いまから訪ねると言った。
 真っ青な空の下を、自転車を漕ぐ。風が頬に冷たい。トモヨさんは上気した顔で沓脱ぎに出迎えた。紺の厚地のゆったりとしたスカートを穿いていた。
「おめでとう! お嬢さんから聞きました」
 天井でガラガラが回り、生後八カ月の直人が両手を交互に突き出している。額にキスをする。部屋じゅうに玩具が散らばっている。
「まだ決まってないよ」
「ええ、でも、顔に合格したって書いてあります。いつ東京へ出発するんですか」
「あくまでも受かってたらの話だけど、二十六日が入学金納入の期限だから、カズちゃんといっしょに二十一日に上京して、次の日に合格書類を受け取りがてら、納入手続もすましちゃう。それからアパート探しをする予定だ。しばらく都内のホテルに泊まって、山口やカズちゃんといっしょに探す」
 直人を抱いてトモヨさんと名城公園を歩く。草や木を指差してやると、ワワ、とか、マンマンマンなどと、意味不明の音を発する。
「喃(なん)語と言うんですって。一歳くらいまでつづくらしいわ」
 霊妙なかわいさだ。何度も頬や額にキスをする。
 マンションの近所の蕎麦屋まで歩いて、とろろソバを食べた。
「おいしいね。こういうものをせっせと食べないと、せっかく舌を持って生まれてきた意味がない」
「そうですよ。舌というのは、こうして楽しませてあげるものです」
 直人に乳を咥えさせながら言う。
「郷くんは、どんな食べ物が好き?」
「白菜の浅漬け、小ナスのわさび漬けや辛子漬け、キャベツの油炒め、よくタレの滲みたガンモドキ、ワカメと豆腐の味噌汁、板海苔、鯵のひらき、ホタテの醤油焼き、イナリ寿司、高野豆腐、サンマ……」
「ホタテのほかは安いものばかりですね」
「ほんとうにうまいものばかりだ」
「そうね。簡単に用意してあげられるわ。嫌いなものは?」
「サツマイモ、ジャガイモ、カボチャ、煮たニンジン、レンコン、肉の白身、黄身が半熟の目玉焼き、辛くない大根おろし、おでんの練り物、トロ、イクラ、ウニ、カラスミ、キンキ以外の煮魚……」
「憶えときます。このところ、ずっと、北村の女将さんに料理を教わってたんです。郷くんにおいしいもの食べさせたくて」
 やさしい目で見つめた。
         †
 十三日水曜日。快晴。朝方零下になることがほとんどなくなった。
 法子が真昼にやってきて、問答無用で激しいセックスをし、私の合格後の予定を尋いてメモすると、もう一度精いっぱいセックスをしてから、コーヒーをいれ、持参したランチボックスを開いた。カツサンドがびっしり入っていた。
「今月いっぱいノアを手伝って、百万円の持参金を持って東京に出ます」
「持参金? 嫁入りじゃないよ」
「あ、そっか。でもそれ、神無月くんにあげようと思ってたから、持参金みたいなものでしょ」
「受かったら、祝い金に一万円もらう。それ以外は、しばらくの生活費にすればいい」
「半分もらってくれたらそうするわ。東京では何のアテもないの。結局は水商売関係の仕事をすると思うけど。神無月くんの周りをウロウロすることはしない。へんな噂が立ったらたいへんだもの。……もう一度、ね」
「うん」
 法子は三度目のセックスに全力で没頭し、悦びの汗を全身にびっしょり汗をかいた。タオルで汗を拭き、私のものを口で浄めると、
「住所が決まったら、和子さんに連絡します」
 と言って、二時過ぎに帰っていった。
 同じ日の夜、文江さんが喪服のように黒い着物を着てやってきて、一度だけセックスをし、その二十分ほどの快楽の中で気を失った。十分近く添い寝をしても一向に目を覚まさないので、もう一度陰部を舐めて挿入すると、たちまち回復して気をやった。少しゆるい感じだったが、膣のわずかな緊縛の具合から徐々に回復してきていると感じた。
 夕方まで枕を並べて、彼女の少女時代の話を聴いた。中学三年間はずっとバレー部の補欠選手だった。魔球サーブを打つことができ、ときどきピンチサーバーで出た。フラフラと敵陣にボールがカーブして落ちて、よく相手を撹乱させたと楽しそうに話した。手首でサーブする格好までした。かわいらしかった。
「大正時代にバレーボールがあったんだね」
「盛んやったよ。帽子、スカート、白タイツの靴下穿いて、靴はギリシャサンダル。補欠は試合中、コートの外で爪先立って、手を後ろに組んで控えとらんとあかんのよ。脚が太うなって悩んだわ」
「それで節子よりも、少し筋肉質なんだね」
「からだが硬いんよ」
「―両親は生きてるの? 一度も聞いたことがないね。どうやって書道の資格をとったのかも知りたいな」
「母は十も齢のちがう父との晩婚で、結婚して三年後に二十九で私を産んで、産褥がもとで死んでまった。敗血症に罹ってな。岐阜大を出て高校の書道教師やった父はまじめな人やったけど、さびしかったんやろね、二年後に見合いで再婚して、三人も子をなして……仲良く暮らしとったんやけど、六十一のときに心臓でポックリいきました。私が二十二のとき。義母も七年ほど前に死んだわ。三人の子供たちもそれぞれ家庭を持って暮らしとるけど、交流はあれせん。私は、中学出てから父の書道塾の手伝いをしとるうちに、書道の先生になりたい思って、高校へいかんと、中部日本書道会ゆう団体に籍を置いて勉強したんよ。そこで二十歳のときに二段をいただいて師範に認定されました。二十二で父の跡を継いで、それからずっと塾で教えとった。二十四で義母の勧めで同じ書道の師範と見合い結婚して、二十六で節子を生んで……そのころの事情は話したでしょ」
「いや」
「節子が生まれて何カ月もしないうちに出てってまったんよ。塾で忙しくしとったし、子育てや家事で忙しくしとって、亭主のほうまで気が回らんかった。作品もろくろく発表せんかって、三段で止まってまった。そんな女に愛想尽かししたんやろね。まじめな人やったから。それからは義母と節子と三人の生活のための書道塾。節子も小さいころから私の塾にかよって、相当うまい字を書けるようになったんよ。ちがう道をいったけど。私が四十のときに義母は老衰で死んだわ。七十六やった。ちょうど節子が名古屋に出たころやな」
「―ほんとに、人に歴史ありだね」
「そんな歴史、ぜんぶいらんわ。それより……私の……もとに戻った?」
「戻った」
「よかった! 泣けてきます。……年に一回は帰ってきてね」
「うん、もっと帰ってくる」
 私は彼女の腹の傷跡を何度もさすった。文江さんは七時を回って、環状線からタクシーで帰っていった。



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