第二部


四章 東京大学





         一

 羽田にも強い雨が降っている。タクシーで渋谷に向かった。鬱陶しいワイパーの動きをみんなで見つめる。大井、大崎と走って約四十分。初老の運転手はいっさい口を利かなかった。千二百四十円。
「海が近いのに、見えなかったわね」
 午後一時に東急インに入った。五階十一号室。荷物を預け、三人で傘を差して出る。紳士洋品店でメンパンと淡い黄色のワイシャツと水色のブレザーを、履物店で革の白鼻緒の高級下駄を買った。婦人服店で、カズちゃんは薄茶のオーバー一着と二揃いほどの洋服を素子に買い与えた。ホテルへ戻り部屋で着替える。学生服は記念にカズちゃんにあげた。彼女はそれを大事そうに風呂敷に包んだ。素子も着替えた。西洋人形が立っていた。
 山口に電話をすると、一時間もしないうちに、ブレザー姿の美丈夫が足どりも勇ましくロビーに現れた。カズちゃんはにこやかに頭を下げた。素子は緊張した顔で深くお辞儀をした。山口はきょとんと素子を見つめた。
「お! 素子さんか、見ちがえたよ。ひさしぶり」
「おひさしぶりです。出てきました」
「新しい人生だ。おたがい、楽しみだね」
「はい!」
「あと出てくるのは、節子さんか」
 カズちゃんが、
「もう二人。吉永キクエさんと、山本法子さん。キクエさんはもう出てきて、上板橋で職探ししてます。法子さんは四月ですって。紹介はそのときにいずれ。合格おめでとう。山口くん、今後ともよろしくね」
「こちらこそ。受験ドラマを神無月と共演できてよかった。ほんとうに和子さんは、クラウディア・カルデナーレにますます似てきたな。オヤジさんとおふくろさんの顔をしっかり見たけど、どう足し算してもその顔は生まれない。突然変異だね」
「照れくさいから、やめて。よしのりさんの店にいった?」
「いや、まだいってない。今度いっしょにいこう。とにかくきょうは合格祝いのメシだ」
「フグでしたね」
 道玄坂の旅館街を歩いて、円山町の隘路にある小料理屋へ連れていかれた。玄関の戸を引いて、土間から個室に入る。
「北村席のめしほどのものにはなかなか行き当たらないけど、ここはうまい。受験前にオヤジに連れてきてもらった」
 着物を着た女店員が、昆布を敷いた出汁鍋と、皿に盛った具材を運んでくる。私たちの目の前で骨付きの切り身や豆腐、白菜、椎茸、長ネギなどを沈めていく。
「野球部の練習開始はいつからだ」
「わからない。まだまだじゃないかな。グローブもバットもカズちゃんの荷物に入ってる状態で、まだ何の準備もしてない。鈴下という監督から、西高の土橋校長に入部の打診があったそうだ。それ以前にも、夏の受験合宿の申し入れもあったらしいけど、校長が断った。校長はマスコミからはぼくに野球を継続させた恩人と目されてる。野球の継続はぼくたち三人が緻密に計画したことなんだけどね。まあ、宙ぶらりんのときに野球をやれと励ましてくれる人は貴重だから、恩人に数えてる」
「当然恩人だ。人に恵まれないと、プロ入りまではなかなかきついぞ」
「うん。ラッキーがつづくことを祈ってる。入部したら、最初からサボるわけにはいかないんで、しばらくは野球漬けになりそうだ。授業にもぼちぼちかよってみて、なぜ世間がこの大学を高く評価するのかを見てみる。だってぼくみたいな鈍才が軽く受かりすぎだ」
「こら、美学に欠けたことを言うなと言っただろ。世間の評価に理由なぞあるわけがないんだよ。単純に試験が難しいからだ。どんな大学にも、試験の難しさに相応する中身はないよ。自分でもわかってるくせに、東大を褒めてどうする。そんなに軽く東大に受かってもらっちゃ困ると怒る人間はたくさんいるだろうが、それはおまえの呻吟するほどの苦労を知らないからだ。受験勉強だけして受かる脳天気なやつらこそ、軽く受かるという表現にぴったりだ。おまえは、そいつらの十倍の人生を抱えこんで受かったわけだからな。重たく受かったわけだ。ねェ、そうでしょう、和子さん」
「そのとおりだと思います」
 素子もうれしそうにうなずく。
「二人とも年齢の見当がつかない顔だ」
「三十四になったばっかり……」
「二十八です」
「びっくりだな。二人とも、せいぜい、二十代前半―」
 素子が、
「ありがと。お世辞でもうれしいわ」
「ありがとう、山口さん。ドッと老けこむときがいつかくると思うと怖くなる」
「陽に曝されてる分、神無月のほうが早く老けるよ。何年の付き合いだったっけ?」
「カズちゃんとは八年、素子とは一年」
「あたし、大門で立ちん坊してたんよ」
「くどいよ素子さん。何度も聞いた。そんなのは、惚れたはれたとは関係のないことだ。ほかの上京組もな。……くるやつは何歳と何歳? やっぱり年齢は気になる」
「ハハハ、二十四歳と十八歳。すでに出てきてる吉永先生は二十三歳。みんないつかあらためて紹介するよ。カズちゃんに情報がぜんぶ集まる」
「和子さんのマメさは、取って付けたものじゃないからな。頭が下がるよ」
 着物の女店員が、煮えましたのでいつでもお食べください、と言う。みんなしばらく無言で箸を動かす。
「おいしい!」
「フグ鍋、生まれて初めてやわ。おいしい」
「奥の深い、いい味だ」
「だろ? 雑炊がまたいいんだ」
 山口とカズちゃんと素子は大根おろしとモミジとポン酢で食い、私は大根おろしと醤油で食う。三人が不思議そうに見ている。
「酢は苦手なんだ。食えるのは、南蛮漬けと酢豚ぐらいかな」
「憶えとく。フグの骨に気をつけろよ」
 ニコニコ笑ってそばにいた店員が、
「ごゆっくりどうぞ。あとで雑炊にいたします」
 彼女が去っていくと、カズちゃんが私に尋いた。
「吉永さん、看護婦の仕事、簡単に見つかるかしら」
「どうかな。ひと月ふた月かかるんじゃないかな。落ち着いたらカズちゃんに連絡するって言ってた」
「早く会いたいわ。素ちゃんと私は同居するとして、節子さんと法子さんはどうするんでしょう」
「うん、法子はまったく未定。どういう仕事をするかも決まってない。四月過ぎたら、節子は武蔵野日赤という病院に勤めて、武蔵境に住むらしい」
「ほとんど源氏絵巻だな。よく集まったもんだ。おまえの人徳のいたすところなんだろうが、穏やかじゃないな。和子さんはそれでいいの?」
「いいどころか、最高です。キョウちゃんみたいな人は、一人でも大勢の女がついててあげないと」
「うーん、おかしくない文脈だ。〈みたいな〉の実体を知っているからな。……ただ、からだがもつかどうか」
「女のほうが自制しないといけないわね。愛してればいくらでもがまんできるもの。ね、素ちゃん」
「ほうよ、五年でも、十年でも」
「それは言いすぎ。でも、女ってそういうものよ。キョウちゃんがその気になったときだけ、ありがたくお受けするわ。だから、何人いても同じこと。世間からはこっそり身を隠してないといけないけど。そうだ、よしのりさんが阿佐ヶ谷で待機してるんでしょ。彼、私と吉永さんにしか会ってないのよね」
「法子が八坂荘に会いにきたとき、ぼくが彼のアパートに連れていった。馬鹿っぽいと言われて、傷ついてた」
「そう」
 素子が、
「よしのりさんて、なんもわかっとらん人やね」
「ごっこが好きな人。友情ごっこ、学生運動ごっこ、恋愛ごっこ、インテリごっこ。友情ごっこにはいちばん喜びを感じてるみたいね。他人の才能には無関心。キョウちゃんの詩が世に出ることには関心があるけど、キョウちゃんの詩才には関心がない。野球の才能や歌の才能には驚くけど、やっぱり関心はない。優秀そうなキョウちゃんと友人でいることが楽しくて仕方がないの。でも、いい人よ。試験で上京したとき、キョウちゃんと阿佐ヶ谷までいったんだけど、お店が閉まってて会いそびれたの」
「そのよしのりという男、何者だ」
「野辺地中学校の同級生だ。バーテンをしてる。博覧強記、カメラ眼の持ち主でね、ぼくのいままで書いた詩をぜんぶ暗記してる」
「ふうん、友情ごっこの賜物か。虎の威を借るキツネの要素をなくしてくれれば、真の友情に目覚めるかもしれないな。そうなったら親しくなれそうだ。阿佐ヶ谷なら俺の家からも近い。店の名は?」
「ラビエン」
「ラ・ヴィ・アン・ローズか。ローズを省いて、ラビエンだけ残したんだな。しゃれた名前だ」
「どういう意味だ」
「ピンクの人生。愛にあふれた至福の人生。内なる幸福を周囲に投影する人生。ローズというのは、バラの意味もあるけど、理想、素朴、完璧を象徴するピンク色とかバラ色の意味もあって、理想主義的な魔法のレンズを通して見る世界と訳されることもあるんだ。ローズの代わりに自分なりの単語をはめれば、店にくる客がそれぞれ自分なりの人生を偲べるって寸法だろう。さしずめ神無月は、女の中の人生、ラ・ヴィ・アン・ファムだな」
「いい響きだね。山口はフランス語ができるのか」
「高校の選択科目にあったらから、ちょっと齧ってみた。フランス語は難しい。単語と基本文法ぐらいしかわからん。どうだ、いまからラビエンにいってみるか」
「いくか!」
「だめよ、あしたの手続をすませてからゆっくりいきましょ。アパートも探さなくちゃいけないし」
 山口は頭頂をポンと叩いて、
「そうだ、それが先決だった。東大は三年時の進学振り分けまでは駒場だよな。駒場には渋谷がいちばん近い。三年からは本郷だろ。本郷は池袋がいちばん近い。となると、中間をとって新宿あたりが適当かな」
「新宿や池袋は、うるさすぎる。どうせ三年までいないし、その二つ以外のどこでもいい」
「じゃ、そのバーテンのいる阿佐ヶ谷にしたらどうだ。静かな街だぞ」
「そうね、キョウちゃん、阿佐ヶ谷にしましょうよ。私はどうしようかな。山口さん、そのとなりの駅は?」
「高円寺と荻窪」
「決めた。高円寺にする。名前がいいもの。ね、素ちゃん」
「うん!」
「高円寺は貸家銀座と呼ばれるくらい賃貸物件が多いんだ。商店街が五本も六本も通ってて、じつに住みやすい。で、神無月といっしょに暮らすんじゃないのか」
「キョウちゃんの部屋は、門戸開放にしておかないと。友だちとか、女の人とか、いろんな人が出入りするでしょう。それに、男は孤独に暮らしてないと、息を詰まらせる生きものだから」
「……特に神無月はな。ふつうの男は、女と暮らすとホッとするもんだ。俺もそうかもしれん。ま、神無月が息を詰まらしたら、俺たちの胸も苦しくなる」
「ところで山口、東大の野球部って、どこで練習してるんだ」
「本郷。赤門と正門は知ってるか」
「うん」
「正門の前の通りは通称本郷通りだが、正式には中山道だ。正門から少し歩くと言問通りにぶつかる。そこから先の一区画が弥生キャンパスだ。角のポリスボックスのちょっと先に農正門がある。駒場と同じ木曽ヒノキの門だ。そこから入って、いちばん北の端に東大球場がある。両翼は八十メートルもない。すぐ森だ。二十メートル近いネットが張ってあるが、おまえには関係ないだろう。一、二、三号館と進んでいって左に曲がると球場だ」
「東大を端から端まで歩く格好だな」
「いずれにしても、本郷三丁目にいくしかないわね。駒場も本郷も中央線からだと不便ね」
「自転車を買えばいい。南阿佐ヶ谷に出て、丸ノ内線で一本だ」
「やっぱり阿佐ヶ谷にしよう」
「私たちは高円寺ね」


         二

「カズちゃん、高円寺には善夫が住んでるよ。商店街の外れに」
「だれだ、そいつは」
「キョウちゃんが青森へいくとき、飯場に引き取りにきた叔父さん。お母さんの弟よ」
「ふん、悪がなされるときは親族が総動員されるもんだ」
「チラッと横顔を見たきり、顔を合わせなかったから平気よ。顔を合わせたって、私も気づかない。下宿の保証人にしてもらえってお母さんの命令が笑えるわね。手のひら返しちゃって、保証なんかできない息子だったんでしょ?」
「東大が保証書だろ。東大止まりのやつらは気楽だなあ」
 フグ雑炊がうまかった。四人で二杯ずつお替りした。私は、
「こうして、東京の洗礼を受けていくんだろうなあ。洗礼って、金がかかるね」
 私が言うと、山口が、
「そんなことをおまえが気にするな。この先もおまえは人に甘えろ。みんなおまえの見物料と思って金を出す。それぞれの生活に金はかかるが、そのときそのとき、余裕があるやつが順繰り醵出する。単独行動する際は、しばらく自分の貯金で洗礼を受けろ」
「使い切れないな。入ってくる金が多すぎる」
 カズちゃんがにっこり笑った。〆の茶が出た。素子が、
「お姉さん、あたし、喫茶店しか勤めたことないでしょ。ほかの仕事はできんわ。いっしょのお店に勤めてええ?」
「職場は身内同士助け合っちゃだめ。甘えが出ちゃうのよ。少し離れた別のお店にしなさい。たとえば北口と南口とか」
「わかった。水仙みたいにがんばってみる」
 みんな安心したように茶をすすった。
「あなたきれいだから、男に声をかけられやすいわよ。いい顔をしないようにね。ビシッといくのよ」
「はい、ビシッと」
「素子はもともと無愛想だから、だいじょうぶだよ」
「それに、キョウちゃんのことしか考えとらんし」
 私を見て愛らしく首をかしげた。カズちゃんが、
「将来、いっしょにお店やりましょ。私、バリスタっていうコーヒー専門家の資格をとるつもりよ。管理栄養士の資格はもう持ってるし、あなたが調理師の免許を取ってくれたら鬼に金棒なんだけど」
「取ります!」
 山口がグローブにこぶしを叩きこむようにパチンとやり、
「こうやって気楽に話をしてるけど、ここまでたいへんな道のりだったな。とにかく神無月が野球にたどりついてよかった。このワンクッションのつらさは、知る人ぞ知るだ。神無月は野球、二人は喫茶店か。俺はギターだ」
「節子さんと吉永さんは看護婦。キョウちゃんのそばでノンベンダラリとしてるのは許されないわ。いつも緊張して努力してないと」
「俺、在学中に、イタリアのギターコンテストに出るつもりだ。それに入賞したら、プロデビューだ。大学は当然中退だな」
「プロ野球選手とプロギタリスト」
「ああ。ギターが好きなんだ。それに気づいたのは、神無月のおかげだ」
 素子が、
「キョウちゃんて、いろんなこと気づかせてくれるんよ。私は、人にお料理を作ってあげるのが大好きだってわかった。それから本を読むことも」
「山口は最初から気づいてたよ。ぼくが人に気づかせることは、もともとその人が自分で気づいてることさ。自分で気づかないことを気づかせてくれる人こそ、貴重だ。ぼくは水みたいにヒンヤリした人間で、熱い愛情がない。でも、周りの人たちが火を焚いて沸かしてくれる」
「山口さんとお姉さんのことやね」
「キョウちゃんを愛してるみんなのことよ。キョウちゃんは自分で愛がないなんて言ってるけど、焚かなくても自分で発熱してる人なの。愛のかたまりよ。見つめられ、手で触られればだれでもわかる」
 山口が大きくうなずき、
「沸騰するほど焚きつけるやつや、弱火のやつは役に立たん。それじゃ、神無月の情熱を静かなまま高温に保てない。火元もないのに静かに高熱になってる湯だから、一見、水に見える。和子さんの言うとおり神無月は愛のかたまりなんだよ。水温の熱さは指を突っこんだやつにしかわからない。指も入れずにおまえを冷たい人間と見切るやつはアッパラパーだ」
 あしたの集合時間を決め、ハチ公前で山口と別れた。ホテルに戻り、受験票と入学金をもう一度確かめた。三人でラウンジバーへいった。ハイボールで乾杯する。
「こうしてるのが夢みたいやわ。いつか壊れそうでおそがいわ」
「いつまでも壊れないよ。自分で壊さないかぎり」
「ほうよね。みんな自分で壊したがるもんね。……二人はいつ結ばれたん?」
「昭和三十九年の八月三十日の日曜日。キョウちゃんの模擬試験が終わった日よ。午後二時半。……あれからもう三年と八カ月が経つのね」
「すごい! あたし、そこまで詳しく憶えとらん……。一年前のちょうどいまごろってぐらいしか」
「あなたはセックスのあとでキョウちゃんを愛したからよ。最初はお客の一人と思ったんだから仕方ないわ。先にせよ、あとにせよ、いまはぞっこんだから、関係ないわね」
 どちらも憶えていなかった。季節すら記憶に留めようとしなかった。深い愛がなければカズちゃんのようには記憶できない。私は女神の横顔をしみじみと眺めた。
 その夜、ホテルの机に向かって、合船場、奥山先生、ヒデさん、葛西家、青森高校気付で西沢先生と相馬先生と石崎先生、それからユリさんに、合格を知らせる簡略なハガキを書いた。その様子を、素子はスツールに坐って幸福そうにじっと見つめていた。
「さ、素ちゃん、シャワー浴びて、寝るわよ」
「はい」
 素子はカズちゃんと二人でシャワーを浴びにいった。彼女たちが寝入るのを待って、私もシャワーを使った。ゆったりとした三つのシングルベッドで、三人伸びのびと寝た。よく眠った。
         †
 三月二十二日金曜日。明けて、東京一日目。バイキングの朝食をすませると、フロントにハガキの投函を頼み、三人で本郷へ出かけていった。曇り空。ひんやり寒い。池袋から本郷三丁目へ。赤い車体に銀のひねり帯の丸ノ内線の車内には、父兄につき添われた学生服姿が多い。親子ともども誇らしげな顔をしている。
 狭い階段を昇って外へ出る。市街電車が走っている。黄色の車体に赤い帯を巻いた都電を眺めているうちに、親しまなかった本郷通りが目に馴染んできた。19の数字をつけた王子駅行や須田町行が通る。
 十一時に赤門で山口と落ち合った。門を入り、構内のイチョウ並木の下を進む。
「日本の建物やないみたい」
 素子が言った。山口が応える。
「東大構内はレッキとした大名の敷地跡なんだぜ。加賀前田家の大名屋敷の跡地に、内田祥三(よしかず)という人の設計で建てられたゴシック様式の建物がこいつらだ。〈内田ゴシック〉と呼ばれてる」
「ゴシックって?」
「ルネッサンス以前のヨーロッパの美術建築様式だ。十二、三世紀ごろかな。天井を骨材で頑丈にして、壁をアーチと柱で支える。天井が高くて、窓が大きい。ノートルダム寺院て、聞いたことがあるだろ」
「うん、ある。どこにあるか知らんけど」
「フランス、ベルギー、ルクセンブルグ、カナダにある。ノートルダムというのは聖母マリアの意味」
 新聞記者はいない。女二人は私たちから離れて寒空の下を見物に回った。山口をまねて安田講堂の向かいの建物の一室で入学手続をすませた。学生証の入った大きな書類封筒を受け取る。
「野球部の事務所はどこにありますか」
「練習グランドは、農学部キャンパスの外れにあります。事務所棟もその正面入口付近に建っています」
「ありがとう」
「きみ、もしかして、神無月……」
 係員が言いかけたので、
「失礼します」
 報道陣を恐れて、赤門へ戻った。女二人が待っていた。新緑の季節にはまだ遠い三四郎池を一周する。
「退屈だな」
 という山口のひとことで切り上げ、赤門を出て農正門に回った。言問通り。
「東大生はドーバー海峡と言ってるそうだ。この通りを真っすぐ四キロほどいくと、隅田川にかかる言問橋に出る。デッカイ橋だ。あれが弥生キャンパス」
「だれもいない球場を見ておくよ」
 胸が打ちはじめる。駒場東大そっくりの農正門を眺め、衛所門から入る。カズちゃんが、
「わあ、一つひとつ、すてきな建物」
 山口が、
「右が農学部一号館、左が二号館、正面が三号館」
 と指差していく。すでに検分ずみのようだ。なるほど玄関がすべてアーチ型の壁柱に飾られている。左折し、ライト側の林の繁みに出る。球場が見えた。だれもいない。
「狭い!」
「戦前の後楽園球場はこのくらいだったらしいな」
 繁みを出て球場正面へ歩いていく。庇つきの観戦スタンドがバックネット後方にしかない。しかも三塁方向へ二十メートルほど伸びているだけだ。バックネット裏に立派な三階建ての建物がある。
「かの有名な東大地震研究所だ」
 その真向かいに水色の平屋が平伏していた。中央に入口のようなものが開いている。
「東大野球部のスクールカラーだ。淡青と言うらしい。ライトブルー」
「青高と同じだ」
「だな」
 入口に入る。すぐ階段になっていて、くたびれた地下室に到る。グランドの光が差してくる空間だ。乱雑に散らかったガラクタの中に、土や石灰の袋が積んである。カズちゃんと素子が、
「汚い!」
「汗くさ!」
 すかさず山口が、
「男所帯だからね。築三十年だし」
 ふたたび階段を上がっていった先に、球場が展がった。見下ろす。緑色の網ネットの向こうの球場は、やはり狭い。土と芝のコントラストは美しい。十段のスタンドが通路の右手に七、八メートル、左手に十五、六メートル。右手のスタンドの向こうは土手になっていて、その先にひっそりとブルペンがあった。ブルペンの向こうに更衣室らしき古い平屋がある。三塁方向のスタンドのすぐ隣に二人用のブルペンがある。ブルペンの下がダッグアウトだ。スコアボードは、観客席の後ろに貼られた緑の薄い枠板に手動で木製の板を嵌めこんでいく方式になっている。アーチ形の傘屋根やベンチは年代もので老朽化している。なかなか味があって、いやな感じではない。
「さ、いこうか」
「うん、いこう」
 高円寺に向かった。カズちゃんと素子が電車の座席に肩寄せ合いながら、晴れやかな笑顔でしゃべり合っている。
「最近、何読んだ」
「尾崎一雄のすみっこ。山口は?」
「マックス・ウェーバー、職業としての政治。つまらなかった。要するに、政治家は政治能力さえあれば、女狂いしようと、袖の下を取ろうと、政治の効率に影響しない、てなことが書いてあった。政治に情熱と判断力を注ぐことができれば有能の証だってさ」
「徳ではなく、あくまでも有効性だね。いまさらうなずくことでもないね」
「ああ。そこに庶民の嫉妬が絡んで追い落とされないかぎり、〈立派な〉政治が行なわれるという理屈だ。性欲は生理的な欲求なので、認めるにやぶさかでないが、袖の下はどうもな。過度な物質欲を持った卑しい人間の情熱や判断力なぞ、たかが知れてると思うけど」
「そうだね、なきに等しいね。政治家も庶民だから、嫉妬し合うとか放逐し合うとかの繰り返しになるね。追い落としごっこを政治と呼んでるんじゃないの」
「ふん、内治外交の能力こそ政治そのものなのに、権謀術数を政治と呼ぶか。くだらん」
 高円寺。善夫に会いにきたときはじっくり見なかったが、改札に降りる階段が広々としたさわやかな感じの駅だ。阿佐ヶ谷の構えもこうだった。新宿や池袋と大ちがいだ。名古屋にもこういう造りの駅はない。


         三

 北口の不動産屋に入った。あれこれと学生向けの平均的な物件を示される。
「六畳一間、台所とトイレつき。家賃は一万八千円。二年ごとに更新して、そのたびに二千円ずつ上がります」
「高いのねえ!」
 カズちゃんが言うと、
「都内はなかなか一万円を切る物件というのがございません」
 山口が、
「家が古くなるにつれて部屋代が上がって、しかも長く住んでくれてる人から定期的に家賃二カ月分を余計にぶん捕るという、全国に蔓延した悪しき慣行だな。更新料がたいへんだぞ」
「存じております。じつは更新料というのは、不動産業界でもよくない慣習だと言われています。違法ではないんですが、地域の慣習まかせになっているんですよ。ほとんどの大家さんの要望なので仕方ないんです。東京に住む以上はあきらめてください。築八年、きれいなお部屋ですよ」
「いってみます」
 もう一度改札前を通り抜けて南口へ出、先日ネオン看板の大きさに驚いたトリアノンという洋菓子店を左に見ながら短い信号を渡る。一直線に高円寺駅前商店街が貫いている。あれをいき切ると善夫の床屋がある。商店街の入口を素通りし、雀荘や飲食店が建ち並ぶガード沿いの小路を歩く。寿司孝という店を過ぎてL字路に突き当たり、左折すると、下痢便のような刺激臭がただよってきた。山敬木材という建材屋から電動鋸(のこ)の音が聞こえる。新鮮な材木の切断面が発する香りだとわかった。建材屋の裏手に回ると、二階建てのアパートが建っていた。
「きれいなアパートね」
「でしょ? 大家さんの管理が行き届いていますんで」
 階段口に掲げてある雨風の染みた板看板の文字が清水荘と読み取れた。
「お向かいのこの建物、岡田マンションて書いてあるでしょう。岡田可愛の持ち物ですよ」
 だれのことかわからなかった。山口が、
「だれだ、それ」
 みんなで首をひねる。不動産屋が困った顔で笑っている。
「これが青春だ、というドラマに出てるようですがね。観たことはありません」
 鉄階段を昇って通路の突き当りの部屋だった。開けて入った。明るい六畳間だ。大きな窓を開け、二十センチ幅ほどのベランダに腰を下ろして外を眺めた。目の下が建材屋、視線を上げると、いま歩いてきた通りの向こうに五階建てのマンションがそびえ、左手には電車の高架橋が見えた。
「いいところだ。住みたくなるな」
「でも……私たち二人で六畳一間はやっぱり狭いわね。寝て起きるだけよ。最初の予定どおり一戸建てにしましょ」
「そうですか。駅から十分ほど歩きますけど、いい物件がございます。お家賃は少々高くて、三万五千円ほどになりますが……」
「そこ、見せてちょうだい」
 不動産屋は鍵を閉めて、裏道から駅のほうへ戻る。風呂屋の煙突が立っている。
「あたし、お金貯まったら、あの部屋借りようかな」
「むだよ。給料の半分以上でしょ。貯金しなさい」
「ほうよね。もっと先にしよ」
 ぽつぽつバーやスナックが並んでいる裏通りを抜け、日王山(ひのおうさん)長仙寺という寺の門前に出た。瓦葺の屋根を載せた赤い八脚門がけばけばしい。塀の外れから飲み屋の並ぶ隘路が延び、その先にさっきの商店街が覗いている。
「この駅前商店街の終点近くです」
 善夫の床屋に向かう商店街を歩く。平日の昼下がりなので、善夫に遇わないという安心感がある。パチンコ屋、食い物屋、総菜屋、喫茶店、歯医者、雑貨店、銀行。ふつうの商店街なのに彩り豊かに見えるのは、洋服屋と古着屋が異常に多いせいだ。暖簾ですっかり間口を覆った老舗らしい店がチラホラある。
「新高円寺通りと言います」
「この商店街、総菜屋さんが何軒かあるし、野菜屋さんも果物屋さんも魚屋さんも肉屋さんもあるのね。自炊にはもってこいだわ。アーケードの入口に『フジ』って喫茶店がチラッと見えたんだけど、感じのいいお店だった。私、とりあえずあそこで働こうと思う」
「気が早いなあ、和子さん」
「別にお金には困ってるわけじゃないけど、新しい生活を始める意気ごみというのかしら、働かないとそれが出てこないの」
「よくわかるけどさ。でも、焦らないほうがいいと思うぜ」
「そうね。でもあそこで働くわ。そのあとで、素ちゃんの喫茶店も探しましょう」
「はい!」
 宝橋という暗渠に架かる橋を渡ると、商店街の軒が古く鄙びたものに変わる。このまま百メートルも歩き通せば善夫の床屋だった。宝橋から二本目の脇道を右折して一分ほど歩いた。
「ここです」
 息を呑んだ。
「わあ、いいお家!」
「すてき!」
「屋根から縁側にかけての構えがいいなあ。どっしりしてる」
 その一戸建には、竹垣があった。コスモスでも絡めれば似合いそうだ。玄関脇にフードつきの駐車スペースもある。
「少し大型の車も入れられそうね」
 夕暮れの裏庭にピンク色の芙蓉の大きな花がいくつか見えた。
「芙蓉か。夏から秋の花なのになあ」
「へえ、そうなのか。陽気がいいからじゃないか?」
「けっこう寒いけどね」
 不動産屋が、
「きのうまで四日ほど日中の陽気がよかったですよ。二十度くらいまで上がりました。きょうは十度もないですね」
「文字どおり、三寒四温だな」
 玄関戸を開けると、磨きこまれた板廊下が式台から奥へ伸びている。
「あら、ちゃんと電話線がきてるわ」
 みんなで上がった。右手が広い台所、風呂場、便所、左に二部屋分の古めかしい障子が立っている。開けて見る。一部屋は障子の幅どおりの六畳、もう一つの障子を開けると、八畳間につづいて奥に十帖の洋間が広がっていた。平屋の一軒家というのはだいたいこの造りだ。
「ここに決めたわ」
「ありがとうございます」
 廊下を伝っていくと、広い台所の並びに、二、三人はゆったり浸かれそうなタイル貼りの浴槽をしつらえた五帖ほどの風呂、把手を引いて水を流す和風のトイレ、さらにそこから渡り廊下でつながった小ぎれいな六畳の離れがあった。
「三万五千円です。敷き一、礼二。築二十年ほどになりますので、更新料はいりません。これが鍵です。合鍵入れて三つ」
「あした手続しにいきます。いま、五万、手付けを打っておきますね。領収証お願い。素ちゃん、好きな部屋を一つ決めて。洋間にはキョウちゃんの机とステレオを置くわ。玄関の六畳でも、八畳でも、離れでも、好きなほうを選んで」
「離れにする。六畳と八畳は、客間とお姉さんの部屋にしたらええわ」
「そうする。これ、素ちゃん用の鍵。キョウちゃんにも一つ渡しておくわ。じゃ、今度はキョウちゃんのアパート探しよ」
 カズちゃんは領収証を受け取り、新居の住所を手帳に書き留める。
「あしたの午前中に伺います。保証人の書類は名古屋の自宅に送って、署名捺印のうえ送り返してもらいます。電話を取り付ける手続をとっておいてくれますか?」
「はい、早速」
「じゃ、きょうから入居ということでお願いします。荷物が届くまで、渋谷の東急インに宿泊してます。届いたら、東急インのほうへ連絡ください。五階十一号室です」
「わかりました。あさってあたりから、荷物が届いているかどうかちょくちょく見回りにきます。届いた荷物はまとめて家の中に運ばせておきます」
「よろしくお願いします。机やステレオなどの大物は十帖のほうに入れといてもらえれば、自分たちで整理します。箪笥と鏡台は八畳に」
「了解しました」
 不動産屋といっしょに高円寺駅まで戻る。
「散髪屋がこんな近くにあるぜ」
「ほんとだ」
 宝橋の辻にノグチという床屋があった。頭を刈りたいときは善夫の床屋まで足を伸ばさなくてもいい。あの店主の無愛想は気詰まりだ。
「阿佐ヶ谷で散発するんでしょう?」
「いや、ここでする」
「そうだな、お得意になっておいたほうがいい。マスコミを避けてくれる」
 繁華な商店の並びに女二人が浮き浮きしている。古着屋、美容室、パチンコ屋、軒並服屋、靴屋、呉服屋、蕎麦屋秀月、古物・流行・高級洋品店、雑貨店、薬局、服屋、ジーンズショップ、服屋、眼鏡屋、花屋、陶器店、流行洋品店、布団屋、時計店、靴屋、右も左も服屋まみれ、ようやく洋食レストラン、ラーメン屋、サワノ眼鏡店、パチンコ屋、鮮魚店、古着屋、質屋、八百屋、果物屋、惣菜店、喫茶フジ、定食屋倶知安。もっとあるが見逃した。
 四人で東西線に乗り、一駅先の阿佐ヶ谷に向かった。切符代三十円。
「中央線、総武線、東西線の三本が通ってる。便利だぞ。ただ、総武線は三鷹止まり、東西線は荻窪止まりだ。来年から三鷹まで延びることになってる」
 二分で阿佐ヶ谷駅。北口を出て、バスロータリーの向こうに見える不動産屋に入った。男女四人でやってきたのを見て、てっきり家族者の入居だと思ったらしく、店員は一戸建てを勧めた。カズちゃんは、学生の一人暮らしだと説明して、一部屋のアパートの紹介を求めた。
「天沼に、学生一人を募集してる下宿屋がありますよ。賄いなし。八千円。激安です」
「下宿か……。大家さんはどういうかたですか」
「還暦を過ぎたお婆さん姉妹です」
「いってみます」
 山口がニヤニヤしている。中年の店員に導かれて、左手のガード沿いに歩きはじめる。
 角のパン屋から始まって、中華ソバ屋、不動産屋、パチンコ屋、ラビエン。
「ここがラビエン」
 私が言うと、山口は階段の上を見上げた。
「けっこう大きな店だな」
 私は右手の隘路を指差し、
「オデオン座」
 ラビエンから西へ歩く。中華珍香園、バー愛、麻雀南風荘、居酒屋暖流、居酒屋天竜、ポエム、T字路に突き当たって、不動産屋花善、お茶屋徳山園。駅から遮蔽塀のつづくガード下には、ここまで焼き鳥屋が一軒穿たれていたきりだった。T字路の左の角に居酒屋木莬(みみずく)。右折してすぐ大将。
「帰りにここでめしを食うか」
「ホレタマがうまいよ」
 隘路にズラリと居酒屋と食い物屋の軒並。
「どの一軒にも一度も入らないですごしそう」
「ほんとやね、入りたい感じがせん」
 L字路に突き当たり、派手な幟の居酒屋風林火山。右折してすぐ左折。民家とアパートの入り混じった住宅街。涼しげな細道。
「ああ、落ち着く風景だ」
 一軒も商店がないと思っていたところへ、喫茶ヴィオロン、その向かいに御菓子司ありん堂、その隣に中華そば三番。ありん堂の店先のガラスケースに、おはぎ、草餅、みたらし団子、大福、赤飯、おいなり、海苔巻、などが並んでいる。季節柄、桜饅頭もある。物腰の柔らかい主人から草餅を五つ買う。二十五円が五つで百二十五円。みんなで分け合って食いながら歩く。
「ヨモギ味が強くていける」
「ほんと!」
「甘すぎなくておいしい」
 みんなで喜ぶ。不動産屋も指先で唇を拭いたりして満悦だ。


(次へ)