七

 阿佐ヶ谷へ出て、山口と合流する前に大将で特上オムライスを食べた。吉永先生はホレタマ。カズちゃんがお替りをしたので、素子と吉永先生が笑った。マスターが尋いた。
「みなさん、どういう関係なの?」
「みんなキョウちゃんのお姉さん、兼、お母さん」
 とカズちゃんが答えた。すぐに先生が、客たちが好奇の眼を向けているのもかまわずに言った。
「父兄同伴」
 マスターはにやりとして、
「トンカツ、サービスしちゃおう。神無月さん、いつ見ても惚れぼれしちゃうよ。東大にこんな美男子いるのかね」
「ここにおるがね」
 素子の返事に、マスターも客もいっしょになって声を上げて笑った。
 ギターケースを提げた山口がガラス窓の外で手を上げたので、みんなでご馳走さまを言い、ポエムへいった。ラビエンの開店までまだ時間がある。貼紙にジャーマンコーヒーとある。初めて聞く名前なので注文する。私は、
「駅まで迎えに出るところだったんだ」
「まだ十五分前だ。きょうは内風呂立てなかったんで、ひさしぶりに銭湯へいったよ。髪もからだも洗い放題、熱い湯船に浸かり放題で、三十二円。安いよなあ。百円で三回いける。それに比べて煙草は高い。八十円だぞ」
 周囲の喫煙客を眺めながら言う。
「何わけのわからないこと言ってんだ。煙草も吸わないくせに」
「おまえも吸うなよ。野球に悪い。もともとおまえはスタミナはないんだ。おまえの万全のプレーが見たい」
「吸わないよ。一回ワルガキに吸わされたことがあったけど、一服で頭痛がきてやめた」
「見るからにおまえは血管が細そうだ。いつだったか頻脈と言ってたろ。青高のプールでも吐いてたし、風邪にも極端に弱いしな。たぶん循環器系が強くできてないんだよ。ところで、そちらの新しい女性を紹介してくれる?」
「吉永キクエです。名古屋西高の保健婦でした」
「山口勲です、よろしく。青高以来、神無月とは腐れ縁です」
 握手をする。ジャーマンコーヒーが出てくる。
「苦くてうまい!」
「まあまあの深煎りだな。……しかし、ここまで女が増えると、名前を覚えるのがたいへんだ」
 カズちゃんは笑いながら、
「ふつうの男が自分をかわいがりながら、三十年、四十年かけて、五人、十人の女の人と付き合うのを、キョウちゃんは自分をかわいがらずに、五年に短縮したのよ」
「しかも、まんべんなくやさしくしてやってるんだからな」
「山口がおトキさんにやさしくするのと同じくらい」
 山口は頭を掻いた。
「俺は器が小さいから、やさしさを拡散する度量がない。エネルギーの集中度を小分けにできん」
 素子が言った。
「キョウちゃんは、だれかに集中するようなエネルギーは使っとらんのよ。相手の心を映す鏡のような人やから、黙ってそこにいるだけで女はすぐに自分の心がわかるんよ。やさしくない自分を見るのはつらいものやろ。だから、あたしはいつもキョウちゃんにやさしくする。そうすれば、いつもキョウちゃんに映る自分はやさしくいられる」
 吉永先生が、
「素子さんの言うとおりよ。キョウちゃんは鏡。エネルギーみたいな積極的なものは持ってないんです。でも心はあるわ。相手の心を反射させるコピー機みたいな心。やさしい人にはやさしく、やさしくない人にはやさしくなく。相手にとって、これ以上のご褒美はないですよね」
 カズちゃんが目を潤ませ、
「人の心を超越したシミのない鏡ね。人を映すためだけに生きてる人というのは、たしかにそのとおりなんだけど、キョウちゃんのエネルギーだってもちろんあるのよ。強い意志みたいなものかしら。キョウちゃんの心は、その鏡をきれいに保とうとする意志ね。きれいな鏡なので、私たちもいつもその鏡をきれいに磨いておきたくなるわけ。私たちがきれいな心で磨いてあげないと、キョウちゃんだけの意志じゃどうにもならなくて曇ってしまうわ。……きのう山口さんが、大将のマスターが唄ってるとき、歌が好きだけど人間が好きなわけじゃないって言ったら、キョウちゃんの顔色が真っ白になったの。……キョウちゃん、一瞬死にたくなったのね。でも、キョウちゃん、あなたは、人間が好きとか嫌いとかじゃなくて、相手と同じ量の愛情を反射してるだけの人なのよ。無関心ということじゃないの。反射というのはとても積極的な心よ。大げさな関心もなければ、嫌悪感もないの。ただ相手に目が向いてるだけ。だから二人が鏡と言ったのよ」
 山口は手のひらの土手で目を拭った。
「そうだぞ、神無月。俺も同じ気持ちだ。あのマスターは好きな歌を好きなまま唄っていれば歌が醇雅なものになって人を喜ばせられるのに、歌そのものの技術を高めようとして歌がツルリとなっちゃったから人を喜ばせられない、という意味で言ったんだ。おまえは自分で悦にいるために唄ってるんじゃない。歌に自分をこめようとしてない。何もこめようとしていないのに、あんなにみんなの胸を打つ。もともと、人の愛に応えようとする本能で、人を思いながら歌ってるからだよ。野心も技巧も本能には敵わない」
 私は立ち上がり、山口の大きい骨太のからだをそっと抱き締めた。吉永先生の小さなふくよかなからだが、素子の形のいい頭が、そしてカズちゃん豊かな胸が、一つの思いで引き合うように揺れた。カズちゃんの胸が揺れたのは、山口を抱き締めた私を抱き締めようとしたせいだった。私は笑いながら、
「ドラマチックだね」
「キョウちゃんのいくところには、いつもドラマがあるわ。ところで吉永さん、看護婦の試験はいつ?」
「二月の下旬です。年に一回。いまはそれよりも、病院を探すこと。大卒だし、准看の資格もあるので、もう一週間もすれば見つかると思います」
 山口が膝を叩き、
「さあ、初ラビエンへいくか」
         †
 ラビエンの階段を上った。ライオンのドアを開ける。客がたてこんでいる。ホテルのフロントのような勘定場に、黒縁の眼鏡をかけた白髪の上品そうな老人が立って、店内を注意深く見回している。楕円のドーナツ型のバカでかいカウンターが店の真ん中にデンと据わり、その中で五人、六人、白ワイシャツに紺のチョッキを着、黒い蝶ネクタイを締めたバーテンが立ち働いていた。カウンターの向こうに八人掛けのボックス席が四つある。かなり広い店だ。ジュークボックスから小川知子の『ゆうべの秘密』が流れている。
「神無月! こっち、こっち」
 私に気づいてよしのりが円卓のカウンターから手を振った。
「あの男か。神無月顔負けの美男子だな」
 カウンターに肉づきのいい女が坐っている。シナのある様子で彼のファンだとすぐわかる。よしのりは片手を敬礼のようにかざして笑いかけた。
「ついにきたか! よし! きょうは好きなだけ飲め」
 女が席を遠く移したので、五人でよしのりの正面に坐れた。彼は山口と素子のことは目に入らないふりをしている。吉永先生と初対面のときもそうだった。人見知りの激しい男なのだ。
「や、和子さん、先生、ひさしぶり」
 まず知り合いから挨拶する。吉永先生が、
「上京しました」
「先生も東京に出てきたのか」
 よしのりが身を乗り出す。そこへ素子が、
「兵藤素子です。どうぞよろしく」
 よしのりは渋々うなずき、ようやく山口に気づいたふりをして問いかける。
「こちらは?」 
「山口です。お噂はかねがね」
 よしのりを観察する目に切り替わっている。
「あんたも東大?」
「はあ」
「学部は?」
「法学部」
「東大の看板というより日本の看板だな。それ、ギターでしょ。何か弾いてくれるの」
「神無月の歌の伴奏です」
「それなんだよね。喉がいいって、こいつの婆さんから何度か聞いたことはあるんだけどさ、実際の話、一度もホンモノを聴いたことがないのよ。ドア越しにしか」
「じゃ、きょうは腰を抜かしますよ」
 カズちゃんたちがコクコクうなずく。黒縁眼鏡がレジを離れてやってきて、
「神無月さんですね。横山から常々伺っておりました。よく新聞に載っておいでのかたなので、横山が自分の友人だと自慢するのは、じつのところ冗談かと思っておりました。疑って申しわけなかったね、チーフ。いやあ、こうして拝見すると、横山が言っていた以上の美男子ですなあ。とすると、こちらの女性のかたがたも、チーフいわく神無月さんの恋人たちというわけですね」
 山口たち四人の顔色が変わった。黒縁眼鏡はつづけて、
「いやあ美しい。前触れにたがわないというのは、世の中ではめずらしいことでしてね。ほんとうにご来店ありがとうございます。どうぞゆっくりしていってください」
 深く礼をしてレジへ戻っていった。よしのりは口が軽い。このままでは危ういことになる。吉永先生が気がかりなふうにうつむいている。カズちゃんが、
「だいじょうぶよ、吉永さん。なんとかするから」
「ほうよ、安心しとき」
 と素子が顔を覗きこんだ。山口もまじめな顔でうなずいている。よしのりが、
「ラビエンの部長だよ。叩き上げ。終戦以来、この道一本だ」
 音楽がタイガースの『花の首飾り』に変わった。バーテンが客からリクエストを受けると、そのつど店持ちの百円玉を何枚か握ってジュークボックスへ飛んでいく。
「お二人、いい男ねえ。東大、卒業式が中止になったみたいですね」
 席を移していた女が横合いから山口と私に声をかけた。肥満しているので年がよくわからない。私は、
「さあ、まだ授業にも出ていないので知りません」
 女は視線を山口に集め、
「何を騒いでるのかしら、医学部がどうとかこうとか。おかしいわよね、最高の大学にいってて、何が不満なんだろう」
 山口は応えない。吉永先生が女に流し目をくれた。よしのりが、
「ねえ、××さん、いい男も、学生運動家も、単に魂を使い分けてるだけなんだよ。キンタマという魂と、知性という魂をね」
 突飛な言葉で、一見おもしろそうだが、中身がない。男女関係がキンタマに象徴されるというのはうなずけるが、学生運動が知性だというのはうなずけない。
「いやだあ、キンタマなんて。これでも女の子なんですよォ」
 わざとらしく身をよじる。
「キンタマは男の魂だ。××さんも女の子なら、男の魂に興味あるでしょ。東大闘争の話だけど、医師国家試験を受けるにはね、インターン志望書を出さなくちゃいけないわけよ。このインターンというのが権威ある医者たちのテイのいい使いっ走りでね、いい年こいた大人が、嘘みたいな低賃金で奴隷のように働かされるんだな。インターン制度のことを研修制度っていうんだけど、学生たちは国家試験をボイコットして、青年医師連合というのを作って、自分たちで自主研修システムを組織したわけ」
 週刊誌の雑学が始まった。山口が光る眼でよしのりを見つめた。よしのりは調子に乗り、
「使いっ走りがいなくなったらたいへんなんで、頑固爺さん側は黙っていない。政治家と結託して法案を作った。二年以上研修した医師を登録医とする、というやつだ。これに学生側は疑問書を提出する。答えがないので膝詰め談判を要求する。爺さんたちは逃げる。追いつめて暴力事件に発展する。退学やそれに類する追放処分を食らう、とまあ、そういう流れだ。じつは実質的な暴力をふるったのは爺さん側だった―」
 よしのりはふとわれに返ったふうに肥った女を見つめ、
「ねえ、××さん、平和な世の中に、おかしなことなんか一つもないんだよ。キンタマと知性の魂、そういう人生観て、なんかカタルシスを起こしたでしょ。何があってもこの国は平和だよ。とりわけ都会はいい。都会にいれば、自分がとっくに死んでしまっていることに気がつかない。いつも忙しくて、自分を疑う暇がないからね。死んでる度合いが強いほど生活しやすいってわけ」
 カズちゃんが、
「軽妙なしゃべり口ですけど、あなたが知っているのは言葉の連結ばかりです。それこそ魂がない。よほど適応力のいい人なんでしょう。名古屋に訪ねてきたころには、多少舌の根に残っていたはずの東北訛りがすっかり消えてましたね。適応の楽しさを知ったんでしょう。でも、キョウちゃんを利用して楽しむことは許さないわよ。私たちをキョウちゃんの恋人だと宣伝する必要がありますか。自分がキョウちゃんの友だちだと言うのはあなたの得になるでしょう。キョウちゃんも傷つかない。でも、私たちをキョウちゃんの恋人だと宣伝して何の得があるの? 大事な時期にいるキョウちゃんを、厄介な立場に追いこむだけでしょう。それでいいんですか。何年もかけて築き上げてきた友情でしょう。跡形もなく失ってしまいますよ。まだギリギリのところだから、きょうは勘弁してあげる。あと数日でキョウちゃんは時の人になるのよ。きょう以降、キョウちゃんの足を引っ張っちゃぜったいだめ」
「―悪かった、神無月」
「謝ってすむうちに、飛び散った唾を拭いておきなさい」


         八 

 肥った女がカズちゃんに、
「あなたたちは、神無月さんのイイヒトじゃないんですか」
「ちがいます。東京在住のファンクラブのメンバーです。私の父が、神無月さんが高校時代から名古屋でファンクラブの会長をしていた関係で、今度キョウちゃんが東大で野球をやるということになって、しっかり面倒を見てやってくれという号令がかかったんです。それでこうやって集まったの」
「そうなんですか。横山さん、からかっちゃいやよ。楽しいことを期待しちゃったじゃないの」
 哀れなくらいよしのりは意気消沈してしまった。山口が、
「横山さん、非は神無月にあるのかもしれん。神無月のことだ、横山さんに問われて、能天気に恋人だぐらいのことを言ったんだろう。あなたを信頼して、あなたの能天気さに合わせてね。だからあなたは作り話を言ったわけじゃない。でもね、言う必要のないことだよ。たとえ神無月が口を滑らせたことが事実だとしても、それを隠して友を庇うのが友人でしょう。神無月はようやく希望の道へ歩み出すことができたわけだからね。この種の話が広まった場合、一番怖いのは神無月の母親の反応だ。希望の道を塞ぎにくる。今後、少なくとも母親の発言権がなくなるまでの二年間は、決してこの種のことは口にしないでください。俺たちはあなたを神無月の友人と認めて会いにきたんだからね。その気持ちを汲んでください」
 カズちゃんが笑顔を取り戻し、
「よしのりさん、こういうところでは、何を飲めばいいのかな」
 彼も笑顔を返し、
「カクテル。でも、ウォッカをストレートで飲むのが通だね。スミノフがあるから、まずそれを飲んでみてよ。うまいよ」
 私は挙手し、
「じゃ、それ」
 カズちゃんが手で止め、
「強いお酒はすぐ胃に入れちゃだめ。よしのりさん、何か、おつまみください」
「キャプテン! レタスにチーズとコンビーフ載っけて。それからレーズンバターね」
 私たちの後方の壁に開いている大窓に呼びかける。中が厨房になっているのだろう。白衣に前掛けをした小さな男が窓を開けて手を上げる。よしのりはタンブラーを五つ並べ、透明な液体を注ぎこんだ。舌先に含むと、甘い香りが鼻に抜けた。会話を聞きつけ、カウンターの端の席から一人の男が立ってきて山口の背に立った。
「ぼくも東大ですよ。法学部」
 山口に手を差し出した。黄色っぽい肌をした男で、大きな眼鏡をかけている。唇のそばに、干しブドウを押しつぶしたような気味の悪いイボがある。山口は渋々、その手を握り返した。よしのりが男の横顔に言った。
「俺は中卒だけど、握手してくれる?」
 びっくりしてイボ男がよしのりの顔を見た。あわてて手を差し出すと、よしのりはその手を拒んで、
「なんであんたと握手なんかしなきゃいけないの。俺はこの神無月に恋して、北からはるばる上ってきたんだよ。俺がいつも握手したいのは、この男だけだ」
 よしのりはチラと私に目を泳がせた。こういうめくら滅法な言葉は、ひどく信憑性があるように聞こえるだろう。しかしめくら滅法は習慣になる。自分で習慣だと気づかなければ、恍惚が醒めたとき、だれよりも多く毒されることになる。山口がやさしい顔で言った。
「主張する相手をまちがえてますよ、横山さん。神無月を愛してる人間に向かって言わなくちゃ。しかし俺も同じですよ、横山さん。その意味で握手してくれますか」
 よしのりはどぎまぎしながらその手を握った。イボが口を挟んだ。
「学歴のない苦しさはわかります。ぼくもそういう時代がありました。静岡県の二流高校を出てから六年間、住みこみで新聞配達をして働いて、それで予備校の学費を稼いで勉強をつづけ、やっと東大に入りました。いまも新聞配達をして生活してます。二十四歳の苦学生ですよ。おたがい、がんばりましょう」
 よしのりに笑顔を向ける。
「俺は、別にがんばりたくないよ」
 山口がよしのりの代弁をするようにイボ男に向かって、
「そのとおりです。晴ればれと生きてれば、何もがんばる必要はない。自分の身に照らすと、たしかにあなたは大した男だと思う。俺は自宅通学のスネっかじりだから、申しわけないけど、苦学生の苦しみは知らない。幸いなことに、生活の苦しみを知らないんだ。正直、生活以外のことで苦しみたいし、そういう苦しみなら大好きだ。苦しみ多ければ喜び多し。考えてみると、思想とか友情とか恋愛に苦しむんじゃなくて、ただ生活に苦しむのなら、わざわざ学生になって別天地を求める必要がなかったってことになる」
 ××を除いた女三人が拍手した。イボ男はひるんだ顔つきになった。それでも立ち去らない。ボックス席の女ばかりの客からまとめてカクテルの注文が入った。よしのりはみごとな手つきでシェーカーを振りはじめる。イボ法学部が驚いて見つめる。
「すごいな。そこまでなれるんですね!」
「なれる? 俺は生まれつき器用なの。苦労したことないのよ。こいつの野球といっしょ。あんた、新聞屋で働いてるんでしょ。神無月という名前、聞いたことないの?」
「よしのりさん、やめて」
 カズちゃんが掌で制した。
「さあ、ないね」
 よしのりはカクテルをステンレスの平盆に並べ、カウンターをくぐってボックス席へ運んでいった。客扱いされていないイボ男は、苦々しい表情で彼の背中を見送った。よしのりはすぐにボックス席から戻ってくると、イボ男に向かって、
「これでも、大学レベルの話はできるよ。春闘にする? ダダイズムの意義にする?」
 男は渋面を作って、
「会話のための会話というのも、空しいもんでしょう」
「でも、あんたたちは、たいていそれだろ。本気の会話なんて、生涯に一秒もしない。だから俺は、それを千時間、万時間できる人間と話をしたいわけだ」
 私たちを見回して言った。私は笑って、
「ぼくは思いついたことの言いっ放しだよ」
「本気で言いっ放しなら、嘘ッ気で言葉を練られるよりいい」
 舌打ちをしてイボ男は立ち去った。コンビーフをレタスに包んで食べながら、スミノフをすする。私は目を流して、さっきから沈黙している××を見た。焼きうどんの皿に屈みこんですすっている。よしのりが退(ひ)けるのを待ちつづけるつもりだろう。カズちゃんが、
「私たちにも、焼きうどんください」
 と、上機嫌に言った。
「あいよ。焼きうどん三丁! 神無月、言いっ放しでも、本気だってことだろ。思ってもいないことを言わないわけだからさ」
「本気という態度はどうでもいいんだ。大切な言葉を思ったとおりに吐いてるかどうかだけを気にしてる。人が大切に思うものは、それぞれちがうからね。思ってることを言うことで、人が個別だってわかる」
 吉永先生が強くうなずき、
「人を十把一からげにしないことは、対人関係の基本です。いちばん厄介なことですけど」
 素子は瞳をキラキラさせて、目新しい言葉のやり取りを喜んでいる。私は、
「個別である価値はわからないけど、個別であるという事実はなんだかうれしいし、生きるうえで快感になる。人はちがって当然という事実を嫌うのは、不気味な平等意識だ。人と同じになりたいという気持ちが競争を生む。同じになりたい〈人〉が競争不可能な天才だったら、嫉妬と失意に満たされることになる。そんなふうに生きる時間がもったいない。思ったことをしゃべり、好きなことを目指して生きたい。……とにかく、ノシ上がることじゃなく、充実して生きることが重要なんだ。それは個別意識がないと叶わない」
「好きなことを目指すと言ってもなァ」
「ある人間は学問、ある人間は政治、ある人間は金、ある人間はセックス、ある人間は名誉、ぼくは、しっかりした呼吸」
「息をしてるだけってことか」
「そのとおり、好きなことが多すぎるんで、息だけはしっかりしてないと。ただ、肺が弱いので、自力の呼吸だけでは間に合わない。他人の人工呼吸が必要だ。命にカツを入れてくれる他人の口移しの呼吸がね。そういう人間を選別する本能は持っている」
「選別は何でするんだ」
「肺活量だ。肺活量の細い人間は、命を吹きこめない」
 私の言葉がツボに入ったらしく、山口はクックッと笑った。
「神無月、おまえのおもしろさは別格だ。酒がうまい。俺にも焼きソバを頼む」
「ワリイ、山ちゃん、ソバはないんだ。うどんだけ」
 山ちゃんになった。適応力抜群だ。
「じゃ、うどんでいいや。それから、ビール」
「ぼくも」
「女どもも腹へったんじゃない? こんなツマミじゃ物足りないだろ」
 女三人、同時にうなずいた。
「下の中華屋から、餃子とニラレバとってやる。強烈なコンビだから、二日ぐらいキスできないぞ」
 横山よしのりのきれいな風貌や、仕草や、気の利いた言い回しは、人を満ち足りた気分にさせる。たぶん彼の本質には、これさえあれば単純な男でも馬鹿にならないですむという詩的な要素が含まれている。それは生まれながらに備わった彼本来のもので、あとで身につけたものではない。おそらくこの両棲動物は、私を追って都会へ出ようと決意した日から、いろいろ体温調節をしすぎたせいで、そして、もともとその苦労が肌に合っていたせいで、いっそう立派な変温動物になってしまったようだ。
 ボックス席の学生たちが、とつぜん唄いだした。快活な歌声が店内に響きわたる。

  汚れちまった海
  汚れちまった空
  生きものみんないなくなって
  野も山も黙っちゃった

 薄暗いボックスからタバコの煙がモヤモヤ立ち昇っている。歌声は波のように寄せてくるけれども、一本調子で、感激と命を欠いていた。彼らの歌の意味するところは退屈だったし、象徴するものも平凡すぎた。よしのりが苦笑いしながら、
「流行ってるんだよ、バカのあいだにね」
 山口が、
「流行りの環境論か。絵に描いた餅だな」
 カズちゃんが、
「ほんとにそう。生きものが死に絶え、鳥も鳴かない。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』ね。彼女は、環境汚染をなくすのは、自然の神秘や不思議さに目を瞠る個人個人の感性だと言ってるわ。大衆の運動でどうにかなる問題じゃないのよ」
 よしのりは勢いよくカウンターをくぐり、ビール瓶を何本か抱えて一直線に学生たちに近づいていく。痩せこけた学生が髪を振り乱して息巻いている。中国文化革命、フランス五月革命、ドイツ、イタリア、全共闘などという単語が断片的に聞こえてくる。その大声は、何の共感も焦りも抱かせない遠い世界から降ってくる。私は彼らの存在を喜ぶことができない。どこへいっても集いがあり、寄り合いがあり、温かい愚かな集団の中への逃避がある。彼らに無理に共感しようとすると、憫笑が滲み出てくる。実際、私は笑いを洩らした。イボ男が端の席から尖った声で言った。
「反戦思想がおかしいか。笑うなら、戦争の定義を言ってみろよ、文学部の野球選手」
 言葉遣いと語調が変わった。溜まっていた鬱憤を私に向けたらしい。私が御しやすく見えるのだろう。しかし、私は人の悪意に対しては、見かけほどなまやさしい反応をする男ではない。
「強欲に基づいた大規模な人災、というところかな。戦争にかぎらず、ぼくたちの身の回りは、大なり小なり、そういう多勢に無勢の人災だらけだから、少数で徒党を組んで反対するんじゃなくて、一人ひとりが辛抱して、自分に折り合いをつけて耐え忍ばなきゃいけないだろうな。徒党を組めばマイノリティの無自覚な道具になっちゃうけれど、個人的な忍耐は、自分なりに納得のいく理性と誇りを保証してくれるからね。その他大勢じゃなく、個を守る精神だよ。自覚の中に死ねるのなら本望だというくらいでね。多数派に牛耳られた個々の兵隊は、反戦など夢にも思わなかっただろうし、戦争の定義なんてものも知らなかったと思うよ。ひたすら自分に折り合いをつけて人災に耐えた。反戦とか定義づけなんて話を聞いたら、やっぱりさびしく笑ったんじゃないかな」
 相手の顔を見ないで言った。苦悩を抱えた人間というのがこんなイボ男のようなものだとは、私には思えない。こういうやつらがふだんから抵抗の姿勢を崩さないのは、どんな人災にも泰然と処してみせようとする覚悟からとも思えない。若い男たちが階級的な希望を託して唄う闘争歌は、そこにこめられたイデオロギーを彼ら自身が支持するかどうかに関わりなく、唄うにはそれなりのつらい苦悩の状況を必要とする。彼らにはそれがなさそうに見える。苦悩するだけの精力がない人間に対しては、笑うしかない。
「へえ、なめらかな舌だな。とにかくよくない笑いだ。あいつらはあんたと大して年のちがわない連中だろう。おぞましいよ、そういう笑いは。ふるえがくる。時代の潮流にはそれなりの意味があって、一笑に付せないものがあるんだ」
 端の席のイボ面を見返し、この男が六つも年上であることに思い当たった。私は反射的に、ほとんど腰が低いともいえる態度で、男に乾いた敬意の視線を投げた。私はいつも生意気な態度にならないように注意する小心さがある。また実際、生意気な態度をとっていい理由など何一つないと思ってもいる。
「あなたが常に潮流に乗って抵抗の姿勢をとっているのは、いかなる突発的な人災にでも耐えてみせるというような覇気を養うためですね。兵士の心構えだ。兵士の苦悩がなければ、反戦を唱える意味がないですからね」
 山口が私を押しとどめ、渋面を作ってじろりと男を睨んだ。


         九

「おい、あんたがどれほどの苦労人か知らないが、この神無月という男の笑いの拠(よ)ってきたるところを知らないようだな。こいつが笑おうとするのは、意に染まないものを懸命に喜んでやろうとするときにかぎられる。あんなくだらないやつらのことも、努力して喜んでやりたいんだよ。ある意味、そうやって笑おうとすることは、自己中心的な努力かもしれないが、努力にはちがいないんだ。努力して自己を貫くのは一つの美徳だよ。あらゆる点から見て、人間が懸命に、ただ特定の他人を思いやって生きているときのほうが、ぼんやり世間のことをとやかく心配しているときよりも、ずっと人間全体に役に立つことをしているんだからな。あんたが言うのとはちがった意味で、世間はこの神無月をふるえあがらせる。信頼させてもらえないという苦しみでな。あんたのふるえなんてのは、いつの時代にも流行する博愛とボランティアのジェスチャーだろ。世間を全面信頼しちゃって、助けたがってるんだろ。そんなふうにふるえる男なんてのは、身近の他人に対してはまったくの役立たずだよ。人を見て批判しろ!」
 あの饒舌で雄弁な山口がひさしぶりに戻ってきて、私の横に坐っていた。カズちゃんが立ち上がって山口の肩を抱いた。吉永先生と素子の目が驚きと感激で潤んでいる。男は山口の気炎に圧倒されて一瞬静かになり、極端な緊張からくる蒼白な顔に恨みがましい笑みを浮かべた。よしのりが真剣な面持ちでイボ男の目の前に立った。
「はい、これお勘定」
「帰れというのか。おまえら、頭がどうかしてるんじゃないのか」
 男はよしのりからレシートをひったくると、フロントへ去っていった。山口は男の背中を見送り、
「何が時代の潮流だ。人より余計な人生を送った結論がそれか。博愛主義なんてのは、小学生が学ぶものだ。ああいう人間とは酒は飲めない。酒は神無月を囲んで飲んでればじゅうぶんだ。きょうは横山さんや女性陣とゆっくりしよう。みんなちゃんとクセがあって上等な人間だ。神無月に惚れるだけある。じゃ、そろそろ歌にいくか」
「うん、唄いたくなった」
 女たちがいっせいに拍手する。山口が黒革のケースからギターを取り出した。よしのりが好奇心に満ちた顔でギターを見つめた。彼は音楽に関心はない。
「橋幸夫の『雨の中の二人』。ちょっとキー高くして」
「オーケー!」
 私は立ち上がり、ジュークボックスの前に歩み出て両足を踏ん張る姿勢をとった。マイクがないので、声をじゅうぶんに張るためだ。山口が並びかけて立ち、前奏を弾きはじめた。なめらかでリズミカルなギターの音に、ざわついていた客席から拍手が上がった。山口がギターの腹をトンと叩いた。

  
雨が小粒の真珠なら
  恋はピンクのバラの花


「キャー、すてきィ!」
 素子が叫び声を上げた。ボックス席からつづけていくつもの黄色い声が上がった。カウンターの中のバーテン連中がぽかんとした顔で私たちを見つめている。学生たちのボックスが静まった。 

  
肩を寄せ合う小さな傘が
  若いこころを燃えさせる
  別れたくないふたりなら
  濡れてゆこうよ どこまでも


 レジの白髪がにこやかに笑っている。頬骨が突き出てくたびれたような彼の顔が一変してふくよかな相好になった。

  
好きとはじめて打ち明けた
  あれも小雨のこんな夜
  頬に浮かべたかわいいえくぼ
  匂ううなじもぼくのもの
  帰したくない君だから
  歩きつづけていたいのさ


 客席の歓声が驚愕の混じったどよめきに変わった。あちこちで盛んに拍手を伴った胴間声が上がる。よしのりがフライパンの底をアイスピックの柄で打ち鳴らした。

  
夜はこれからひとりだけ
  君を帰すにゃ早すぎる
  口に出さぬが思いは同じ
  そっとうなずくいじらしさ
  別れたくないふたりなら
  濡れてゆこうよ どこまでも


 割れんばかりの拍手が起こり、しばらく止まなかった。アンコール、アンコールと叫びつづける。山口が手を上げて引き受けた。
「神無月はもういい。喉をやられる。俺が唄う」
 彼の選曲はボビー・ゴールズボロの『ハニー』だった。あまりにも渋い美声で切々と唄い上げたので、ボックス席で涙を光らせている女もいた。私は立ったまま目をつぶって耳を澄ました。戦慄した。渋い美声だとはわかっていたが、これほどまでにもすばらしい声だったのか。
 唄い終わると、静かで圧力のある拍手が押し寄せてきた。ものすごい圧力だった。さすがのよしのりの頬も引きつっている。
「すごいな、山ちゃん……」
 素子が、
「二人とも何やの……信じられん」
 カズちゃんが、 
「ほんと、二人の声は神がかり」
 吉永先生が立ち上がってフェイントをかけたように夢中で拍手しはじめた。釣られてふたたび店じゅうに拍手が立ち昇った。二人で席に戻ると、部長がやってきて、
「この五名さまから代金をいただかないように。今後もね」
 とよしのりに言い、深く辞儀をして戻っていった。山口はギターをケースにしまった。
「学生になって、唄い初(ぞ)めというところか。……これから生涯、神無月と何百曲唄うかな」
 私は山口の手をしっかり握った。
「山口、おまえはぼくの誇りだよ」
「その言葉、お前に返す」
「いやあ、俺も鼻が高いわ。天は二物も三物も与える。立派なイチモツも与える」
 アハハとカズちゃんが笑った。
「よしのり、いい加減、キンタマはやめろ」
 ビール瓶を持って何人か客がやってきた。私はいちいち頭を下げ、山口はいやいやと照れ、よしのりは逆に客につぎ返した。女たちまで酌をされ、うれしそうに受けた。音楽がジュークボックスに切り替わり、学生たちの席に大声が回復してきた。カズちゃんが、
「きょう、仕事決めてきたのよ。私は高円寺南口のフジ、素ちゃんは北口のポート」
「仕事はいつから?」
「四月一日」
「条件はどうなってるの」
 と、よしのり。
「早番は八時から三時、遅番は三時から十時。一週間置き。七時間労働。ポートも同じよ。時給は早番遅番それぞれ二百三十円と二百五十円。半年ごとに十円昇給。週休一。有給は年に十日。月給は四万五千円前後ね。ボーナスは七月と十二月に五万円ぐらいずつあるみたい。年給六十六万円」
「公務員や一般サラリーマンよりはいいな」
「税金なしの、保険なしよ。そっくりもらえるけど、病気したらお手当てはゼロ」
「病気はお受けするんだね。自然の摂理だから」
 私が何気なく言うと、よしのりが、
「神無月は、お受けした経験ばかりだからな。何がきても、つけ足しだろ」
「つけ足さない。柳に風と受け流す。カズちゃんは勤勉だね。ぜったいお嬢さまに収まっていない。そんなお金、仕送りの五分の一だろう」
「お金というのは、ほしいものがある人が必要なもの。私がほしいのはキョウちゃんとキョウちゃんとの生活だけ。そのためにはおたがいが生きていくための食べ物と、生活必需品と、心とからだの娯楽費が要るわ。お金の持ち分は、お金に対する執着の度合で決まっていて、執着の強い人から弱い人へおこぼれとして流れるようになってるのよ。その理屈からいくと、私はほんの少ししか流れてこなくて当然なの。もしお父さんたちからたくさん流れてこなかったら、私は無理をして必死でお金を稼がなくちゃいけない。こうして働こうとするのは、本来の姿よ。仕送りを受けてるのは、ラッキーなだけ。ラッキーはキョウちゃんに遇えたことだけでじゅうぶん。ほかの女の人も同じ。山口さんも、よしのりさんも同じ」
「明解だ」
 山口が私の顔を見て言う。
「しかし、その理屈だと、ぼくはラッキーばかりで、本来の姿を失ってる」
「いずれ働くさ。いまは学生という蛹(さなぎ)だから仕方ない。ただ、おまえの場合、労働は才能に基づくので、流れこむ金は大きい。神性の持ち主なので、貢物も多い。すべてが特殊状況だ。和子さんの話はおまえには嵌まらない。彼女はそれがわかってしゃべってる。病気や事故といった不可抗力は、俺たちと同様受け入れなくちゃならんけどな」
 山口は大らかに笑った。
「病気も事故も何とも思わないけど、書きかけてる詩はいつも気がかりだ。完成しないで放り出すことはお受けできない」
「その書きかけの詩を聞かせてくれ」
 カズちゃんと吉永先生がこちらを見た。素子は私が詩を書くなど意中になかったので、キョトンと私を見つめた。
「ほんとに書きかけだ」
「それでもいい」
 山口が私の腕に掌を置いた。
「じゃ、できあがってる分だけ」

  きみたちよ 憶えていてくれ
  酷寒の荒涼を わたしも見たのだ
  きみたちが生まれる数千年も前に
  夏の湿潤な夕立にも触れた
  みどりの沢に 馬はあそび
  地下鉄の温気(うんき)は 人びとに生臭い命を惜しませた
  きみたちがいまながめつつある自然に
  わたしも はればれと浸り
  きみたちが困苦する人の世の沼に
  わたしも 悲しみながら横たわった

 
「ここまでだ」
 山口が天を仰いで、
「……文句なしだ」
「堤川の土手でもそう言った」
「……泣きたくなる」
「それも言った」
 山口は目を閉じて両手を後頭部に組んだ。ほんとうに泣いている。
「まるで、ネジこんでくる音楽だ。昂揚のときも、零落のときも、さびしく息吹きつづける理想、と言った詩人がいたが、だれだったかな。おまえの詩は、それだ。……おまえに酷寒の荒涼を見させたやつらに感謝するよ」
 ××が、バカみたい、という目つきで山口の横顔を見ていた。




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