十

 ライオンのドアの外に霧雨が降っている。階段の框でよしのりが、
「ちょくちょくこいよ」
 と握手した。眼鏡の部長が深々とお辞儀をし、
「大したサービスはできませんが、ご来店の際は、かならず無料にさせていただきます」
「無料どころか、部長、そのうち謝礼を出さなきゃいけなくなるんじゃないの」
「たしかにそうですね。考えます。きょうはほんとうにありがとうございました」
 駅までの短い道をほろ酔いで歩く。素子が訊いた。
「毎日こんなふうに暮らしていけるん? 夢みたいやが」
 カズちゃんが答える。
「キョウちゃんが生きていさえすれば、いつも夢のつづき。キョウちゃんに出会ったときに、夢が始まったのよ。そうでしょ、キクエさん」
「はい、二年前の九月に、学校の廊下で」
「今夜は泊まってもらう家がなくて、ごめんなさいね」
「いいえ、とんでもない。私がみなさんにお会いしたくて出てきただけですから」
「馬場から池袋までいっしょにいきましょ。私たちはその先の渋谷」
「はい」
 切符を買い、ホームに上る。
「俺が神無月に遇ったのは、三年前の十月だ。こんなふうになると思わなかったなあ。しっかり狂わされたよ。この俺が東大の法学部だぜ。考えもしなかった。まあ、そんなのはどうでもいい。俺のギターに感動してくれた最初の人間が神無月だった。そっちのほうが大きい。神無月のおかげで、俺は自分のいちばん好きなものに気づいて、それをやりつづける気になった。しかし、じつはそれもどうでもいい。いちばん大きいのは、心中してもいいと思わせるやつのそばで暮らせる幸福を与えられたということだな。これはたしかに夢だ」
 素子が、
「……山口さん。私の言いたいことをぜんぶ言わんといて。もう一生しゃべることがなくなってまうがね」
「いや、いつまでもしゃべるべきだ。意識してしゃべりつづけないとだめだ。神無月は忘れっぽいからな。神無月、じゃ、しばしの別れだ。駒場と言えども広いから、まず構内では遇わないと思うけど、遇ったときには声をかけてくれ」
「うん、会いたくなったら電話する。ときどき阿佐ヶ谷にも顔を出してね」
「ああ、じゃな。和子さん、素子さん、吉永さん、またね」
「さよなら」
 四人で、山口を三鷹方面の電車のドアに見送った。それから同じホームに入ってきた東西線で高田馬場まで出、山手線に乗り換えた。十時を回っているせいか満員ではなく、ほかの客と肩を触れ合わずにゆったり立てた。首をめぐらせてぼんやり吊り広告を眺める。甘味飲料と、薬と、ベストセラーと、遠隔地のマイホームと、ゴシップ記事。先生がカズちゃんに、
「……幸せすぎて怖いです」
「くどいようだけど、その幸せも、このアッケラカンとしてるキョウちゃんが生きてるあいだだけよ。うんと幸せになりましょ」
「はい」
 池袋のホームに吉永先生を見送った。泣きそうな顔をしていた。カズちゃんが車内からその顔に何度もうなずきかけた。
「ほんのいっときの別れでも、さびしいわね」
 カズちゃんが目もとを指で拭った。
 ホテルの部屋に戻ると、三人ともドッと酔いが出て、風呂にも入らずそれぞれのベッドにもぐりこんだ。目が回った。
 明け方に起き出して、トイレで戻した。カズちゃんがこっそりやってきて、背中をさすった。
「ビー、ナチュラル。何も負担を感じることはないのよ。お受けするだけ」
         †
 翌二十四日日曜日の昼、高円寺の不動産屋から荷物が届いたと電話があったので、ホテルをチェックアウトした。
 きょうも細かい雨が降っている。傘を差すほどではない。ビルの谷間の道が霧雨に濡れて光る。千年小学校への登下校の土の道に重なった。あの道も濡れてこんなふうに輝いていた。
「飯場から千年小学校への道みたいだ」
「野球だけの道ね。これからはどの道もそう見えるわよ。よかったわね」
「見ているのは新しいものなのに、なつかしいものが輝いて見える。簡単で無能な人間に生まれてよかった」
「聞かざる、聞かざる」
 カズちゃんが耳を指で塞ぐ格好をしたのをおもしろがって、素子がケラケラ笑う。
「ぼくの荷物もあしたぐらいかな。佐伯さんという人は律義な人だから、すぐ送ってくれただろう」
「キョウちゃん、きょうは高円寺に泊まりなさい。まだごはん作れないけど、どこかでおいしいごはん食べましょ」
「ああ、そう言う提案、ほっとする。高円寺で寝転がって阿佐ヶ谷の荷物を待とう」
 素子が顔をほころばせ、
「やっと、ふかふかの蒲団で寝れるがね」
「寝れる、寝れる。私もゴロゴロするわ。コーヒーの本を買っていこうっと」
「お姉さん、調理師の参考書買うの手伝ってや」
「オッケー。高円寺はあまり本屋がないから、新宿でも回っていこうか」
 カズちゃんは新宿東口の紀伊國屋で、『調理士読本』と『調理士・試験問題と解答』という本を素子に買い与えた。
         †
 その日の午後と翌二十五日の午前を費やして、三人でせっせと荷物の整理をした。キッチンが整い、裏庭に面している六畳の居間と、八畳のカズちゃんの部屋、十帖の音楽部屋も整った。ガレージには自転車二台が置かれた。
「何でもかんでも揃っとる家やねえ」
 素子の声に満足が色濃く滲んでいる。カズちゃんは腰に手を当て、三月下旬の穏やかな陽が射しこんでいる三つの部屋を眺め渡しながら、
「素ちゃんは身一つで出てきたから、小箪笥と、鏡台と、文机、それから本箱が必要ね。あとで買いにいきましょ。蒲団は好きなだけ持ってって。あとは……」
「あとはおいおい自分で揃えるわ。……お姉さん、キョウちゃんに抱かれたいときは、どうすればいいかなあ。阿佐ヶ谷の家はまずいやろ」
「まずいまずい。ぜったいだめ。キョウちゃんの無理のない日に、この家でしましょ。危険日のときは、いさぎよくあきらめること。二人とも安全な日は、時間差でね」
「ありがとう、お姉さん。キョウちゃん、それでええ?」
「もちろん。機会がたくさんあるといいね。きのう風呂に入ってないから、まず風呂だ」
「はーい!」
「下着あるよね」
「たっぷり」
「風呂掃除は手伝わせないよ。ぼくの趣味だから」
 一人で風呂掃除をした。楽しかった。女たちは廊下や畳を拭いた。ピカピカになった風呂に湯を埋める。二人が裸体で入ってきて、三人たがいにシャボンで流し合いながら、湯が貯まるのを待った。屹立してきた。
「わ、困った。どうしよう」
「お姉さん、あたしはあとにするから。離れにいっとる」
「ごめんね。少し辛抱して待っててね」
 素子が湯をかぶり、戸を引いて出ていくと、私はあぐらをかいて陰部のシャボンを洗い落とした。カズちゃんは跨って硬く抱き締めた。すでに熱く脈打っている。やがて痙攣が三度、四度つづき、カズちゃんは注意深くゆっくり離れると湯殿に横坐りになった。
 脱衣場で二人からだを拭き合って、下着を替える。
「出さなかったけど、カズちゃん、つらくない?」
「たっぷり満足したわ。それよりキョウちゃんがつらいでしょう。素ちゃんのところにいってあげて。ちゃんと出してきてね。あとで食事に出ましょう」
 離れにいくと、素子は清潔に敷いた蒲団に横たわっていた。私が下着を脱いで仰向くと、素子は口づけをしながら、カズちゃんと同じように跨った。カズちゃんよりも性急に動いて激しいアクメを引き寄せる。カズちゃんに遠慮してかアクメの発声をしない。うなりながら何度も気をやる。
「も、あかん、も、イケん、キョウちゃん大きなってきた、ちょうだい!」
 私が射精しないうちに飛び離れると、ゴロリと蒲団の外に転がった。苦しそうにからだを波打たせている。私はかまわず裏に返し、尻を引き寄せて挿入した。
「キ、キョウちゃん、あかんあかん、あー、イクイクイク、イクッ!」
 たちまち射精がやってきた。尻に打ちつけるように吐き出す。
「ああ、あかん、これ以上あかん! あああ、キョウちゃん、死ぬゥ!」
 引き抜くと、素子は伸縮を繰り返しながら余力を搾った。うつ伏せになってふるえている素子の傍らに仰向けになり、手を尻に置いて、天をつく自分の性器を眺めた。素子の顔がこちらを向いたので、キスをした。
「ありがと、キョウちゃん」
 快楽の波が去ったのを見定め、
「ちゃんと風呂に浸かろう」
 素子は下着をつけて離れを出ていき、キッチンにいたカズちゃんに、
「お姉さん、もう一回ちゃんとお風呂に入ろ」
「オッケー」
 三人で湯船に浸かると、女同士の話が始まった。
「お皿の数が少なない?」
「あの二倍は必要ね」
「洗濯機、ないでしょ。脱衣場に大きな穴があったわ」
「脱水口ね。大型のを買わなくちゃ」
「庭の物干し竿もね」
「そろそろ花見の季節やね」
「トリアノンの通りをずっと南へいくと、和田堀公園というのがあるらしいわ。歩いて三十分、車で五分。四月に入ったら、そこへいってみましょう」
 男と女が、これほど心もからだも自由に暮らすことが可能だということが信じられない。でも、信じなければいけない。
         †
 大粒の雨が落ちてきた。三人傘を差して、食べ物屋を求めながらガード沿いを散策した。右も左も居酒屋と食い物屋がほとんどで、入ってみたくなるような甘味処もなく、もう一筋離れたガード沿いの通りを歩き戻った。歩く気のしなかったガード下の通りの端に、都丸書店という古書店を見つけたのが収穫だった。私はお好み焼屋の看板を眺め、
「お好み焼じゃ、いまいちだしなあ」
 横にたたずむ素子が私をまぶしそうに見上げた。
「大門を自転車牽いて歩いとったかわいらしい高校生が、おそがい〈人生〉背負って生きとったんやなあ。……キョウちゃん、ようここまできたね。あたしなら、キョウちゃんみたいに振り回されたら、ぜったいもとどおりになれんわ」
 カズちゃんが、
「どうして? 素ちゃんも、もとどおりどころじゃない回復をしたじゃない」
「あたしは自力やない。キョウちゃんに会えんかったら、あのままやった」
「キョウちゃんだって同じよ。キョウちゃんが回復したのは、周りの人たちのおかげなのよ。人工呼吸って言ってたでしょ? 何かのアクシデントで呼吸困難になったら、回復させてくれる人に出会えないと、生き返るのはちょっとやそっとじゃ無理。キョウちゃんも素ちゃんも、トモヨさんも節子さんも、文江さんも吉永さんも、そして私も、みんなみんな、回復させてくれる人に巡り会ったのよ」
 小路から入りこんだ少し寂れた一画に、目立たない構えの教会があった。ダッコちゃんが伝言も残さずに去った日、労災病院の帰り道で立ち寄った教会に似ていた。
「ちょっと覗いてみよう」
 重いドアには鍵はかかっておらず、中にはだれもいなかった。傘を畳んで天井を見上げると、ステンドグラスから陽が透いていた。私たちは、戸口にいちばん近い長椅子に腰を下ろした。
「静かで、まじめな場所だ。でも……」
 なぜか、ここは、瞑想というクラブ活動のための、まじめな会合場所だと感じた。日々気遣いながら家庭を中心に動き回ることに倦じた、それとも、外で何か重大な責任のある務めに疲れ切ったあと、気遣わしい家に帰りたくない人が、家の者に公言して立ち寄ることのできる格好の慰安所だ。彼らにとって、沈思黙考は日常生活の反省を強いるものではなく、非日常的な神秘性によって、心を慰め、洗う経験だ。カズちゃんが訊いた。
「でも、何?」
「思索というのは、一致団結してするものじゃない」
 表に出ると雨が止んでいた。教会のそばのこぎれいな蕎麦屋に入った。三人とも親子丼ともりそばを食べた。その足で、電器屋に寄り、展示されている中でいちばん大型の洗濯機を買い、雑貨店でコンクリートの土台と、いちばん太いステンレスの物干し竿を買った。


         十一

 三月二十五日月曜日。朝から雨。三人で阿佐ヶ谷に出向く。雨が少し大粒なので傘を差して歩いた。高円寺駅まで十二分。素子がカズちゃんに、
「やっぱり青空の下の商店街がええわ。うちからやと、荻窪線の新高円寺駅のほうが近いやろ」
「ええ、丸ノ内線とつながってるから、池袋に出るのが便利ね。五年前まで新宿から荻窪まで杉並線という都電が走ってたらしいけど、丸ノ内線ができたので早いうちに廃止されたみたい」
「高円寺を通ってたの?」
「ここじゃなく、新高円寺と南阿佐ヶ谷」
 カズちゃんは、土地に根づいたとたんに研究を始める。橋本の大家さんにお土産買わなくちゃ、と言って、トリアノンに寄った。ケーキを三種類買った。
「高円寺の大家さんて、どこに住んでるの」
 私が訊くと、
「高円寺商店街の大黒屋さんよ」
 素子が、
「あ、うちを出た角の、きもの工芸大黒屋」
「そう。呉服屋さん。そのうち挨拶しておく。ラッキーだったわ。呉服屋さんと馴染みになっておくと、買うにも直すにもとても心強いし、着物を新しく仕立てるうえでもいろいろメリットがあるのよ。夏には浴衣を作りましょう」
 阿佐ヶ谷駅北口のバスロータリーをぐるりと見渡してから、ガード沿いに左へ歩き出す。ガード下は平べったくくっつき合った遮蔽塀。ごくまれに事務所や倉庫が挟まり、焼鳥屋が一軒営業している。右側はラビエンをはじめとする商店が並ぶ。不動産屋、ひどく小さいパチンコ屋、中華そば屋。オデオン座に出る小路の両側には飲み屋が並んでいる。洋食屋、会計事務所。先日気に留めなかった看板を舐めるように見ていく。小路のT字路の右角地に指のマークのポエム、突き当たりにお茶の徳山園、左角地に木莬。右へ進み十メートルほどで左折すると大将。食い物屋や飲み屋の並ぶ隘路を進む。古い店が多い。出歩くのが好きな人間はかなり楽しめそうだ。突き当たり、デンと派手な看板と幟、居酒屋風林火山。道なりに右折、すぐ左折。アパート混じりの住宅街になる。ポツンと和菓子屋ありん堂。出店のケースのオイナリと海苔巻に目がいく。カズちゃんが、
「帰りにね」
「うん」
 T字路に突き当たり、左折、ガードが見える。右折。住宅密集地を五分ほど歩く。突き当たる。歯医者を左折。正面にガードを見ながら自転車屋の角を右折。寿司屋の向かいに橋本家。
「ピッタシ十五分。いい運動になるわ」
 鉄格子の門扉を開けて、玄関から声をかける。丸眼鏡の婆さんが出てくる。カズちゃんと素子が気安く挨拶する。
「まだお荷物届いてないですよ」
「そうですか、あしたもきてみますから、お気遣いなく」
 トリアノンのケーキ折を差し出すと、愛想よく受け取り、
「お二人は、お従姉さんでしたね?」
 私に尋く。
「はい、保証人として顔を出したのはぼくの母の弟です。こちらは母の兄の長女と次女で、高円寺に住んでます。埼玉にも母の妹がいます」
「お母さんはどちらに?」
「名古屋です。忙しくしてる人で、東京には出てこれません」
 丸眼鏡の婆さんはカズちゃんに、
「東大に受かるなんて、鼻が高いでしょう」
 善夫に言ったのと同じことを言う。
「この子は一家の出世頭です。いたらぬことも多いかと思いますが、どうかよろしくお願いいたします」
「新聞見ました。とても有名な野球選手なんですね」
「そうなんです。野球しか知らない子です」
「そんな。東大に受かったんですから」
「この子の母親が、東大以外の大学にいったら野球をやらせないと脅したものですから、必死に勉強したんですよ。本人にしてみれば、人生最大のマグレでしょう」
 新聞記事に辻褄を合わせた。私たちが部屋に落ち着くと、着物の婆さんがお茶を持ってきた。私に、
「姉は神経質でして、人の出入りが多くなると……」
「それはありません。部屋と大学の往復だけです」
「門限は十時ということでいいでしょうか」
「けっこうです。遅くなるときは、高円寺に泊まります」
「十時を過ぎたら、お部屋の窓も錠をかけさせていただきます」
「どうぞ。キャンプや遠征などで、部屋を開けることも多くなると思いますが、ご心配なさらないでください」
「はい」
 婆さんが去って、素子が、
「堅そうな婆さんや。キョウちゃん、身動き取れんわ。届く荷物は何々や?」
「蒲団、机、炬燵、書棚、テープレコーダー、ラジオ、掃除機、水屋。たぶん台所用品もくると思うけど、自炊しないからいらないな」
「台所がないものね。コーヒーカップ以外、私が高円寺に持ってく。あら、洗面所もないんじゃない?」
「ないね。便所も玄関框の正面だ。庭の水道で顔を洗って、ポットの水もそこから汲むしかない」
「電気ポットとコーヒードリッパー一式とフィルター、それから挽き豆があれば、インスタントコーヒーは買う必要なさそうね。お風呂は?」
「婆さん二人の内風呂。そこに洗面所もあるんだろうけど、利用不可だね。永島慎二の家のそばに銭湯があったよ」
「練習したあとは、うちでお風呂入っていきなさい」
「そうする。頭がくさくなるから」
「電気ポットと、カーテンと、ドリッパーと、挽き粉を買いにいきましょ」
「それから、自転車一台」
「すぐ角に自転車屋さんがあるわね。私たちは持ってきたからいいわ」
 大将でニラレバ定食を食った。マスターが色紙を差し出す。
「書いてもらっていい?」
「はい。お店の繁盛につながるなら」
 いつもの金釘で書いた。
「ありがとう。店で初めての色紙になったよ」
 カズちゃんが、
「先物買いね。どうなるかわからないわよ」
 マスターは数日前のスポーツ新聞をカウンターに置いた。
「旬のものだよ」

  
北の怪物サクラサク
  
東大万全の受け入れ態勢・いよいよ四月から始動

 という見出しが目に飛びこんできた。受験会場から出てくる私の写真が大きく載っていた。撮られたと思っていた場所ではなかった。あすにも鈴下監督が下宿先を訪ねる予定と書いてある。下宿の住所は書いてなかった。
「持ってっていいよ。俺はもう一部買ったから」
 ガード下の電気屋で湯沸しポット、洋品店で既成のカーテン、ポエムでメリタのコーヒドリッパーとグラスポットとフィルター、ジャーマンの深煎り挽き粉、自転車屋で新古車を一台買って戻った。女二人で白藍(しらあい)のカーテンを取りつけ、庭の水道でドリッパーとグラスポットを洗った。自転車は屋敷と塀のあいだに置いた。
「またあしたきましょう」
「そうだね。朝早くからこよう」
 婆さん二人にその旨を告げて、高円寺に帰った。初めて商店街で食材を仕入れ、女二人が浮きうきと夕食の支度をした。何品も食卓に載った。
「あしたあたりから忙しくなるわよ。がんばってね」
「うん。ユニフォーム三着、ベルト一本、アンダーシャツとストッキング三組、バット三本、スパイク二足、グローブ。それだけ用意して」
「それからジャージね。ユニフォームは番号なしの一着しか役に立たないでしょ。背番号は入部後に決まるんだから。それにユニフォームは東大側が用意するはずよ」
「そうだね。じゃ、無番を一式」
「さ、あしたは朝早くから阿佐ヶ谷にいくわよ。きちんとお部屋を掃除しなくちゃ。東大関係者がくるのは夕方近くだと思う。素ちゃん、キョウちゃんを早く寝せて、私たちはいまから勉強しましょ」
「アイアイサー」
 菅野の口まねをした。
         †
 三月二十六日火曜日。雨。上京以来一週間も断続的に降っている。
 朝八時に三人で阿佐ヶ谷に出かける。私は学生カバン、二人は持ち帰る台所用品のために風呂敷と大きな紙袋を持った。途中で、コーヒーカップを五つ買った。
 フィルターコーヒーを飲みながら下宿の部屋で待機していると、予想どおり午前早くトラックが到着し、庭に面した窓を外して、雨避けのビニールに包んだ大物小物の荷物を運び入れた。トラックが幌をかけ直して引き揚げていくと、三人で荷物の整理をした。一時間ほどで、八坂荘そっくりな部屋になった。
「さっさと退散するわよ。落ち着くまでキョウちゃんは高円寺にこないこと。きょうから新聞記者がウロウロすることになるから」
「了解」
 二人が薬缶や食器類を風呂敷と紙袋に分けて入れ、重そうに提げて帰っていくと、机に向かって詩稿ノートを開いた。ラビエンで山口に口ずさんだ詩が書かれているページを開け、つづきのスタンザを書き足した。そうして『百世紀の彼方のきみへ』という題名で一篇の詩にまとめた。

  きみたちよ 憶えていてくれ
  酷寒の荒涼を わたしも見たのだ
  きみたちが生まれる数千年も前に
  夏の湿潤な夕立にも触れた
  みどりの沢に 馬はあそび
  地下鉄のは
  蒼い古代の人びとのその声を聞くのだが
  私がきみたちに言いたいのも
  これだけのことにすぎない
  野も山も 川も海も
  滅ぼうとして滅び去ったのではない
  歴史のなかへさらわれていくことで
  きみたちを捨てたのだった 
  けれどもきみたちよ 憶えていてくれ
  百世紀を明けそめてなお
  きみたちの吐息だけがたしかなもので
  そして 一つしかないのだということを



         十二

 正午、東大野球部の鈴下という人物から電話があった。
「諸々の打ち合わせがあって、合格発表の日よりだいぶ遅れましたが、ただいまから野球部招請のお願いに上がります。ご都合はよろしいでしょうか」
「だいじょうぶです」
「部長、副部長の三人で参ります」
「マスコミは?」
「隠密に動いていますので、うるさくなることはございません」
 一時を過ぎて、眼鏡の婆さんが飛んできて、
「神無月さん、東大野球部の監督さんですって! 上がってもらいます?」
 と告げた。
「はい」
 私は式台に出て三人の男たちを迎えた。辞儀をし、部屋に案内する。失礼しますと言って三人の男たちは部屋に入った。私は膝を崩すよう勧めたが、三人雁首を揃えて畳に正座し、名刺を差し出すと、丁重に頭を下げた。
「東大野球部監督、鈴下匠です」
 黒縁の眼鏡をかけ、大きな角面。三十代半ばくらいか。
「部長の仁賢一です」
 やはり眼鏡をかけた長面。
「副部長の岡島正一郎と申します」
 人のよさそうな、ヒゲの濃い丸顔。部長副部長ともにごま塩頭で、かなり齢がいっている。三人とも、教室ではなくフィールドの人のようだ。西松の岡本所長のような雰囲気がまったくない。私は心からくつろいだ。もう一度三人で私に深く礼をする。
「神無月郷です。わざわざご足労ありがとうございます。新聞を人に見せられて、きょうあたり訪問の予定があることを知りました。一両日中にいらっしゃらなければ、あしたにでもこちらから野球部事務所に出向くつもりでした」
 と言うと、副部長の岡島が、
「とんでもございません。それに最近、学内がごたついていて、いらっしゃらなくてよかったです。安田講堂が学生たち占拠されましてね、やはり卒業式は中止になりました」
 この手の話は聞きたくないし、聞いてもわからない。部長の仁が、
「福岡県糸島市での春季合宿を終えて帰京してから、この一週間、名古屋西高校の土橋校長さま、飛島建設の大沼所長さま等に、電話でコンタクトをとりまして、神無月くんの新住所を確認し、落ち着き具合などを見計らってからお訪ねしようということになっておりました。マスコミ関係者にも悟られぬよう、秘密裡にやってまいりました」
「じゃ、ここの住所はマスコミに知られていないんですね」
「そのはずです」
「コーヒーいれましょうか」
「いえ、それには」
 手を振って辞退する。私はすでに水を汲んであった電気ポットにスイッチを入れた。
「母の様子はどうでしたか」
「電話でお話させていただきましたが、卒業を保証してもらえるのか、学業成績不良で放校されることはないのか、そうなった場合どう責任をとるのか、ある種、取りつく島のない申されようでして、そういうことは本人の責任であり、東大野球部とは関係のないことだと突っぱねました。形式上、入部の報告をさせていただいたと申し上げると、結局明確な反対もなさらず―」
「好きにしてください、ですね?」
「はい、ご同意の趣旨と受け取らせていただきました」
 仁部長が、
「他大学の野球部は親ごさまの入部許可が必要ですが、東大は書式の必要のない形式的な電話確認だけでして、本人の意思さえあれば入部できることになっております。私どもに必要なのは、神無月さん本人の同意だけです」
「もちろん同意します」
 鈴下監督が膝を進め、
「わが東大チームにきていただけるということですね」
「はい、受験のときから、そのつもりでいました」
 手を差し出すと、鈴下監督は飛びつくように握手した。
「ありがとうございます!」
 三人で畳に額づいた。監督は顔を上げ、
「噂には聞いておりましたが、これほど美丈夫とは存じませんでした。そういった方面からもたいへんな話題になることでしょう。わが部にとってはめでたいかぎりです。初日の顔合わせのグランドは、マスコミ関係者でいっぱいになります。神無月さんはそういうことを嫌うと聞いておりますが、これはどうにもなりません。どうかご忍耐ください」
「マスコミというのは、こっちが冷たくすると、冷たく応対してくるものです。その日から先は、案外放っておいてくれるかもしれませんよ。初日というのはいつですか」
「今週の日曜日、三月三十一日です。四月十二日は入学式ですが、自主練習は四月の三日からになります。履修科目の登録も同時期です。授業開始日は伝統的に入学式よりも早く、八日の月曜日ということになっているので、それまでの期間中に一年から四年のほとんどのメンバーと顔を合わせることになります。入学式よりも先に授業が始まるというのは東大特有のものです。お忙しいでしょうが、一日でも二日でも練習に出てきていただければありがたいのですが」
「もちろん出ます。メンバーは何人ほどでしょうか」
「二年生から四年生まで、三十三名、ピッチャー十八名、そのうちレギュラーピッチャー五名。野手十五名、レギュラー野手八名、控え野手七名。レギュラー十三名中、主将一、副将二。三十三名に加えて、監督一、助監督一、部長一、副部長一、コーチ四名、マネージャー二名、総勢四十三名の所帯です。ここに神無月さんをはじめとする新人が何名か加わることになりますが、こうして出向いて打診するのは神無月さんのみでございます。東大野球部始まって以来、初めての招請です。中京大学のあるかたから連絡をいただきまして、神無月さんは自分からは動かない、出向いて誠意を見せなければ心を動かす人間ではない、うまくいかないときは私が仲立ちすると―きょう神無月さんに断られたら、そのかたに全面的にご協力を願う所存でした」
「東大へいくのは野球をするためと前宣伝が効いているはずですよ。断るはずがありません。……あるかたというのは、押美さんですね」
「は、やはりご存知でしたか。お知り合いとは聞いておりましたが」
「小中学校時代に、中京から何度かスカウトにきてくださった恩人です。彼にお礼を言っておいてください。ぼくを最後まで見離さないでくれていたことに感謝します、と」
「わかりました。かならずお伝えします」
 私は微笑しながら、
「一人、マネージャーが増えるはずです。青森高校の同級生の鈴木睦子です。青高でもマネージャーをしていました」
「願ったりです。いまのところ男子一名、女子一名ですが、女子マネージャーは部に花を添えます」
 私は電気ポットの湯をフィルターに注ぎながら鈴下監督に言った。
「最後にきちんと聞いておきたいことがあるんですが」
「何でしょう」
「練習への参加義務ですけど」
「はい、それは私どもも気にしておりました。神無月さんのような飛び抜けた技量の持ち主に、一般学生と同レベルの練習が必要かどうか、不参加の場合仲間内の不和に結びつかないか、マスコミに叩かれないかということでした。神無月さんには、一年生から四番を打っていただくことになっておりますが、それも含めて、練習時間のことや出場試合のことをレギュラーメンバーに諮りました。彼らは、春秋のリーグ戦に出場すること以外に拘束はしないと、快く承諾しました。ただ、この六月の新人戦にだけはぜひ参加していただきたいんです。ふだんの練習や紅白戦は、自由参加でけっこうです。ちなみに練習時間ですが、休日も含めて、朝八時以降なら、何時から参加してくれてもかまいません。全体練習、自主練習、どちらも自由です。基本的に東大は授業主体ですので、授業時間に練習が食いこむ場合、練習のほうをオミットしてください。もちろん授業のほうをオミットしてもいいですがね。ハハハ……」
 仁部長が口を挟み、
「神無月さんの入学成績は、法・経・文、三学部合わせて合格者千三百七十名中二番という飛び抜けた好成績でございまして、学費免除が決定しております。学問を志して学生生活を送られることもじゅうぶん考慮したうえ、授業主体のスケジュールで練習に参加していただくという基本ラインで、指導部の意見は一致いたしました」
 鈴下監督にバトンを戻し、
「リーグ戦期間中を除けば、先ほど申し上げたとおり、朝八時以降、何時にきて何時に帰ってもらってもかまいません。リーグ戦期間中の練習は強制参加でして、午後二時からレギュラー主体の練習になりますが、神無月さんの場合は公式試合に出ていただきさえすれば、ご自分の都合しだいの参加をしていただいてけっこうです。室内練習場がありませんので、夏期以外は午後七時以降の練習は困難でしょう。ランニング程度なら暗い球場内でもできます」
 そこまで自由を保証されると、かえってファイトめいたものが湧いてきて、
「わがまま勝手にさせてくれと要求したわけじゃありません。ぼくはかなり練習の虫ですので、試合以外にもほとんど参加すると思います。根がまじめなほうですから、サボるということはけっしてありませんが、都合がつかないときに拘束されたくはないので、失礼を覚悟でお聞きしました。―キャンプというものに参加するつもりはありません。練習はふだんの量でじゅうぶん足ります。野球と関係のないイベントにも参加しません。時間が惜しいんです」
「それはもう。素人野球の集団にプロ野球人を迎えるようなものですから。春と秋のリーグ戦さえ出ていただければ、ほんとに」
「ちなみに、ぼくは受験成績がよかっただけで、学問能力はありません。学問を志す可能性はゼロです。野球主体の生活になります」
 三人は複雑な表情で、みたび平伏した。眼鏡の婆さんが、失礼します、と茶を捧げ持ってきた。まるでそれを待ってたとばかり、三人は立ち上がると、
「それでは、三十一日にお待ちしております」
 婆さんは盆を捧げ持ったままあわてて出ていった。私は三つのカップにコーヒーを注ぎながら、
「コーヒーを飲んでいってください。おいしいですよ」
 三人は顔を見合わせながらあらためて腰を下ろし、あぐらをかいた。
「ユニフォームはどうなってますか。指定店を教えていただければ作りますが」
 仁部長がカップを手に取り、
「すでに青森高校さまへ問い合わせて、相馬先生という野球部顧問のかたから、上着、ズボン、シャツ、スパイク等のサイズを聞き、それぞれ三組用意してございます。背番号は8です。ご指示があればいまからでも変更いたしますが」
「ご厚意、ありがたくお受けします。7と8は好きな番号です。7で代表的な人は、もと中日の森徹、西鉄の豊田、阪神の並木、8は大毎の山内、大洋の桑田、中日の江藤。3は畏れ多いベーブ・ルースと、長嶋茂雄。ぼくのあこがれは、山内一広でした」
 彼らはうれしそうにコーヒーをすすった。私もいっしょにすすりながら、
「ぼくは野球しか能のない人間です。だから、ぜひともプロ野球選手になりたいと思って生きてきました」
 三人の男が大きくうなずいた。鈴下監督が、
「小学校、中学校と、名古屋市のホームラン記録を連続して打ち立てていらっしゃいますね」
「はい。―唐突ですが、少し身の上話をさせてください。母は、おそらくぼくが東大以外の大学を受けて合格しても、進学を許さずに浪人を強いたでしょう。むろん高卒で野球はさせてくれるなんてことはありえない。プロであれ、大学であれ、社会人であれ、勧誘という勧誘はすべて断ったと思います。……かつてぼくは、世間でチンピラと言われる友人と付き合い、ぼく自身も不良と見なされていました。しかし不良という存在に、難詰しなければならないほどの内面的な欠陥があるとはどうしても思えませんでした。それどころか、この砂地のような世間で、ダイヤのきらめきを発している存在だとしばしば感じました。そう感じたについては、どこか俠気(おとこぎ)といった肌合いをにおわせる飯場の人たちの中で長く暮らしてきた影響もあるかもしれません。ぼくはますますその友にのめりこみ、交友の有意義なことを母に示すためにますます勉強するようになりました。彼の悪影響などないことを証明し、彼との交友に光輝を添えたかったからです。それがよくなかった。そのせいで常識人の母につけ入る隙を与えることになってしまいました。ぼくがエリート予備軍に変身したと誤解したんです。野球小僧でいつづければ、母もあきらめてその後の苦難はなかったかもしれない。すべて自分が掘った墓穴です。その友人は、おまえはそんなふうに中途半端だからつけ入られるのだ、野球だけやっていればこんなことにはならなかったんだ、とするどい直観で叱りました。ぼくはその友に会う前は、野球に目覚めたばかりの、何ということもない並才の小学生でした。それがある時期から……わかってもらえますね、間抜けなことに、野球小僧の道ばかりでなく勉強家の道も驀進するようになりました。母は私の成績が向上するにつれ、野球に嫌悪感を露わにしながら、東大、東大と頻繁に口に出すようになりました。おまえのようなバカには到底及びのつかない大学だ、という奇妙な檄の入れ方で刺激しつづけました。くどい話で申しわけありませんが、小学校中学校にかけて中京商業の押美スカウトが三度やってきました。その勧誘をことごとく母が断り、ぼくのたった一つの夢を打ち砕きました」
 仁が、
「周知のことですので存じておりますし、押美氏からも詳しく伺っております」



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