十九

 四月一日月曜日。曇。阿佐ヶ谷の蒲団で二度目の目覚め。朝七時。トレパンを穿き、部屋の中で腕立て伏せをしてから、ガードをくぐって青梅街道の天沼陸橋までバットを手にジョギングに出る。マンションとオフィスビルばかりで民家も商店もほとんどないアスファルト道だとわかっている。銀杏並木だけが目の薬だが、排気ガスで胸が悪くなりそうだ。素振りができるような公園もない。陸橋のてっぺんから引き返す。戻ってすぐ、玄関前の道に出てバットを振る。五十本くらい軽く振り、あと百本と決めて強く振る。手首の返しの感触が戻ってくる。
「精が出ますね」
 二人の婆さんが鉄門に出てきて声をかける。
「はい、そろそろ練習開始ですから」
「がんばってくださいね」
「ありがとうございます」
 汗をかいたので、下着を替えた。机から庭を眺めながらぼんやりしていると、眼鏡の婆さんが小包ですよと言って、段ボール箱を持ってきた。カズちゃんからだった。原稿用紙と、電動鉛筆削り器と、鉛筆、消しゴムなど文房具一揃い。便箋が一枚入っていた。トルコの新店が若宮町に二軒開店し、百人収容の寮も完成した、両親の家は牧野公園の目の前に新築され、トモヨさんとおトキさんはそちらに居を移した、二軒の店は新居の裏から一本道を八百メートルほどいったところだ、と書いてあった。
 北村席の新住所が書き添えられていた。手帳に書き写した。すぐにカズちゃんから呼び出し電話が入った。
「届いた?」
「うん、ありがとう」
「呼び出しは不便ね。キョウちゃんの部屋にも電話入れたほうがいいわ。三日以内に取り付けるように頼んどいてあげる。取り付けのときキョウちゃんが留守でも、私が立ち会うからだいじょうぶよ。それから、吉永さんがね、自宅から歩いて十五分くらいの個人病院に勤めたらしいわ」
「決まったか。よかった」
「私たちも、節子さんも、きょうから出勤。おたがいがんばりましょう」
「うん」
 ワイシャツに綿パンを穿いて買物に出る。腹具合が悪い。ポエムに入って下痢をする。狭い和式だったので苦労した。水洗だったことがせめてもの救い。ロールペーパーに手洗いの水を浸してあらためて尻を拭く。この役目の代わりをするすシャワーを浴びられないのがつらい。ジャーマンを飲んで出る。
 駅前ロータリーに出て、レコード店と電器屋を兼ねた店で、島津ゆたかの『あなたのすべてを』と、店頭に展示してあったナショナルのステレオを買う。テクニクスSC1400。展示品ということで、十二万円のものを二万円引いてもらい、現金で買った。早速届けてもらった。庭に向いた窓を外して入れた。婆さんたちが険しい眼で見ていた。
 奥の壁の書架に並べて設置する。買ってきたEP盤をかけてみた。信じがたいほど澄んだ音が出てきた。高円寺のステレオには敵わないけれども、野辺地に置いてきたクマさんのゼネラルステレオはもちろんのこと、飛島さんの高級ステレオよりもキレのいい音だった。万年布団をステレオに正対するように敷く。これでようやく部屋の格好がついた。
 もっとマシなランニングコースを見つけるために、下駄をつっかけ、もう一度阿佐ヶ谷駅に向かって退屈な道を歩きだす。最後の細かい確認のつもりだ。アパートの目の前は鮨屋、隣が自転車屋。いつもここから始める。〈貸しリヤカーあり〉と自転車屋の引戸のガラスに貼ってある。めずらしい。左へ曲がり、T字路から右手の通りを見通すと、遠く青梅街道が見える。視線を戻すと、目の前の道の角に歯医者がある。その細道に入る。
 民家やアパートにまぎれて、イナリ寿司と大福を売っているありん堂がある。このあいだカズちゃんに忘れられた念願のイナリを二個買い、食いながら歩く。甘じょっぱくてうまい。
 風林火山のあたりから店が建てこんでくる。大衆酒場が三軒ほど並び、スナック、一間戸の不動産、ガラス戸にカウンターが迫っているカレー屋(客の背中がガラス越しに丸見えだ)、小料理店、大将、と賑やかになる。ガード沿いの飲み屋街の角地にポエムと木莬が向かい合っている。ガード沿いを駅に向かう。ラビエン、ガラス戸四枚きりのパチンコ屋、ラーメン屋、さっきステレオを買った電器店、不動産屋。ここまでランニングコースはない。確認終わり。駅前の公衆電話ボックスから山口に電話を入れ、十二時に駒場で会うことを約す。ガイダンスは時計塔の下の一号館で行なわれるとのこと。
 駅の東側と反対口の探索は次回ということにして、ラビエンから裏路地へ曲がって引き返す。穴倉のようなスナック、焼肉屋、古ぼけた喫茶店、大衆食堂などが乱雑に並んでいる。突き当たって、阿佐ヶ谷オデオン座。たたずまいが神宮前日活とよく似ている。猿の惑星がかかっていた。
 民家だけの道に出る。閑雅な空気が流れる。高級住宅地というところか。生垣、レンガ塀、また生垣。永島慎二の表札。風呂屋(役に立ちそうだ)。塀に工夫を凝らした民家がつづく。煤けた蕎麦屋がある。ウィンドーに黒ずんだサンプルを並べたラーメン屋もある。きのうここで食った。いま腹はへっていない。道をいき切って、橋本家を見通す十字路に出る。角地で相対するように『ひろ』と『北風』という名の二軒のスナックがある。往復二筋の道を歩いた。駅前を除けば緑が多い印象だったけれども、やはり公園が一つもなかった。バットを振る場所がない。
 蒲団に寝転んでラジオを点けると、東大医学部紛争のせいで、三月二十八日の卒業式が中止されたと言っている。この春の受験の数日間、大学構内があまりにも静かだったのを思い出し、いったいどこで紛争が起こっていたのだろうと訝しんだ。医学部が発火点だと聞こえてきただけで、どういう内容の紛争なのかもわからなかった。よしのりの説明では大雑把でわかりにくかった。このぶんなら入学式も中止になるだろうと踏み、もともとそんなイベントに参加するつもりもなかったので、授業開始までの暇を見こんで、書店をめぐることにした。
 十時。革靴を履き、自転車に乗って南阿佐ヶ谷に出る。丸ノ内線で新宿に出る。ジロジロ見られている感じがするが、鈴下監督に預けてあるのでかける眼鏡がない。
 新宿駅の東口に出て、背高ノッポの都会を恣意的に歩く。私が言うのもおこがましいが、猥雑で堕落した町の印象だ。紀伊國屋や、デパートの書籍コーナーをめぐって、これまでほとんど手を出さなかった新刊本を買い漁った。数軒の映画館の位置も確認した。マイアミという馬鹿でかい地下の喫茶店でソーダ水を飲んだ。横浜の野毛山以来? いや、名古屋でも何度か飲んでいる。
 山手線で池袋に出、井之頭線で駒場東大前へ。白ワイシャツにセーターを着たダンディな山口が、正門の石柱に凭れて立っていた。門は開放されている。
「よ!」
「よろしく」
 門を入って右手の常緑樹の中に桜が一本混じっている。満開。
「何だ、その紙袋は」
「新宿で何冊か買ってきた。新刊書ばかりだ。暇なときに読む」
 一号館のボロい廊下を通って一○六教室に入る。机も椅子もオンボロ。待機しているのはすべて学部生のようだ。自分の学部と名前を申告して封筒を受け取る。ご苦労さまでした、の一声。これで終わり。何のガイダンスだ? こんなものなら郵送ですむはずだが、住所が確定していない新入生を考えてのことかもしれない。新入生個別相談という一画もあって、大学生活、生協の商品やサービス、入学式等についての相談と銘打ち、かなり〈繁盛〉していた。私と山口は展示コーナーという一画に回り、辞書、必須教科書を手に取って見た。住まい探し相談というのやら、食堂利用体験というのもあった。
「わけがわからん。めし食って帰るか」
「うん。教科書は授業で教えるんだろうね。きょうもらえるかと思ったよ」
「高校とはすっかりちがうんだろうな」
 駒場寮のほうへ回って、梅林門という丸木を二本立てただけの門から線路沿いへ出る。ガードをくぐって住宅街へ出、渋谷駅の方向を目指して歩く。カズちゃんと駒場の下見に歩いたときとはちがう道だ。幹線道路を渡り、細道に入る。ここまで食い物屋は一軒もない。とつぜん神泉駅に出た。
「迷路だ。東大のほうから歩いたことがなかったからな。この近辺は歩いちゃいかんな」
「いかんね」
 駅の坂道を繁華なほうへ登る。山口がパッと顔を明るくし、
「おお、このあいだフグを食いにきた円山町だ」
「ほんとだ!」
「このあたりを裏渋谷通りと言うんだ。ほら、フグ屋があった。もう少しで道玄坂だ」
 たどり着いた道玄坂をくだり降りて、ぶじハチ公前に出た。
「めし、食えなかったね」
「いや食える。福田屋へいこう」
 古そうな名前に期待が湧く。道玄坂を戻る。クネクネ歩いて、そば処福田屋に到着。昼下がりにかかっていたので、満員ではない。まずビールと枝豆で乾杯。
「うまい!」
「うまい!」
「牡蠣南蛮そば、二つ!」
「ほーい!」
「ここの名物は、牡蠣南蛮とトロロそば。戸山のやつらに連れてこられた」
 やがてドンと大きなどんぶりで出てくる。すごい量だ。大ぶりの長ネギで蕎麦と牡蠣が覆われている。一口掬って食い、
「うま!」
「だろ」
 蕎麦のあいだに牡蠣がたっぷり入っている。
「真冬のお勧めだが、この季節もうまい」
 都会人の行動範囲と知識の底知れなさを感じた。二人ビールを飲み干して出る。山口は私に金を払わせなかった。
 阿佐ヶ谷まで戻る車中、山口は履修の手引きを開き、あれこれ取るべき科目を教えた。まったく頭に留めている節が私にないと見て、山口は手帳にメモして私のブレザーのポケットに押しこんだ。
「封筒に履修届用紙が入ってるから、そのメモのとおりに書きこめばいい。どうせボックスに投げこむだけだから、期日中に俺が出しといてもいい」
「ありがたい。そうしてくれれば助かる」
「届出用紙をくれ」
 山口は私の学生証番号をメモした。新宿で別れる。山口は中央線へ私は丸ノ内線へ。
 南阿佐ヶ谷で降りて、自転車に乗る。ステレオを買った電器店で全自動のコーヒーメーカーを買い、フィルターやメーカーでいれるのが面倒な場合を考えて、スーパーに立ち寄ってインスタントコーヒーも買った。雑貨店で寒暖計も買う。
 橋本家に戻り、机に向かう。コーヒーメーカーの試運転。うまくいれられた。トモヨさんに短い手紙を書いた。

 トモヨさん、直人、お元気ですか。引越し、ご苦労さま。新居の新鮮な庭木の香に包まれ、そしてみんなの愛情に包まれて、母子ともにつつがなく、健康に暮らしていることと思います。ご両親、おトキさん、菅野さんもお元気ですか。一家のみなさんのことはときどきカズちゃんから聞いて、なつかしんでいます。
 新聞をよく読むお父さんから聞いていると思いますが、ぼくのその後はきわめて順調です。東大野球部には大歓迎されました。これからのぼくの奮闘ぶりは、折々の新聞で確かめることができるでしょう。
 いま東大は、医学部闘争などというぼくにはよくわからない問題が起きて、こじれにこじれているらしく、大学に出ていくのがうっとうしい感じなので、野球の練習の合間に部屋で本を読むことにしました。
 山口も元気です。おトキさんに安心するように言ってください。
 いつもトモヨさんの健康と、直人の成長のことを思っています。トモヨさんのことを思うときは目が熱くなるし、直人の成長のことを思うときは、えもいわれぬ責任感に満たされます。何もできない父親ですが堪忍してください。写真が貯まったら送ってください。何かの折に松葉会の人に会うことがあったら、よろしくお伝えください。
 ぼくの住所は表記のとおりです。学費ありがたく拝領したことをご両親さまにお伝えください。
 愛するトモヨさんへ       郷
 追記
 ご両親さま、新店、新居、完成おめでとうございます。早く北村席で庭を眺めながら寝転がりたいです。今後とも、トモヨさん親子をよろしくお願いいたします。



         二十

 四月三日、水曜日。快晴。寒暖計の気温十一・一度。七時半、グローブとタオルを入れたダッフル一つ担いで天沼の下宿を出る。運動のために、丸眼鏡の婆さんの教えられたとおりの道筋を南阿佐ヶ谷駅まで歩く。ガードをくぐって青梅街道に出て、左折してひたすら真っすぐ歩く。十五分で着いた。
 電車は満員だったが、押しくら饅頭というほどではない。ブレザー一丁の格好なので、ダッフルを足もとに置き、吊り皮を持ってラクに立てる。ほとんどの人が、律儀に畳んだ新聞を目の前にかざして読んでいる。〈闘争の波全国へ〉という見出しが目に入った。東大学内が混乱している事情については、いまもって何の関心も湧かないし、去年の十一月に辞任した際、新聞で見て記憶に留めたはずの学長の名前さえ、やはり思い出せない。
 農正門から東大球場の出入り口まで新聞記者とカメラマンであふれ返っていた。フラッシュの中を早足で過ぎる。八時五十分。レギュラーたちはすでにグランドで柔軟体操やランニングをしている。私は一塁側の金網の外にある部室小屋(ロッカールーム)に飛びこみ、ブレザーの上下を練習用の無番のユニフォームに着替えた。
 バットとグローブを持って、金網の門を押し開いて大急ぎでグランドへ出る。ファールグランドで何本か素振りをした。バットの風切り音を確かめ、二年近い不規則な鍛練がそれほど深刻なものではないと知る。いまもなお野球を征服しているとはっきり感じた。
「神無月さん、こっちだ!」
 マウンド付近に鈴下監督を中心に選手たちが集まっている。
「すみません、遅くなりました!」
 帽子を取って辞儀をすると、全員が辞儀で答える。ばらばらとカメラに取り巻かれる。選手たちが私に向かって声を上げる。
「お願いします!」
 あらためてスタッフとレギュラーが自己紹介をしていく。監督鈴下(背番号30黒縁眼鏡)、助監督西樹(背番号40眼鏡)、部長仁(無番眼鏡)、副部長岡島(無番)、マネージャー白川(四年男)、黒屋(二年女)、上野(一年女縁無し眼鏡)、鈴木(一年女)。鈴下監督が、
「上野と鈴木は新人だ。こき使ってやってくれ」
「よろしくお願いしまーす!」
 鈴木睦子は私を見て礼儀正しく辞儀をし、こぼれるように笑った。上野も遠慮がちに微笑んだ。コーチあるいは助手と呼ばれるトレーナー姿の連中も四人いて、彼らは全員東大教育学部スポーツ学科の講師だということだった。
 ローテーションの軸となる投手は三人。四年有宮(背番号17)、四年台坂(31)、三年村入(むらいり)(21)。
 捕手・四年克己(2)、控え四年棚下(48)、三年熊田(27)。
 一塁・四年臼山(22)、控え三年川星(10)。
 二塁・四年磐崎(44)、控え三年田宮(39)。
 三塁・四年水壁(24)、三年宇佐(4)。
 遊撃・四年大桐(6)、控え三年壮畑(27)。
 右翼・四年横平(49)、控え三年藤山(25)。
 中堅・四年中介(47)、控え三年杉友(23)。
 左翼・一年神無月(8)、控え四年吉井(7)、三年風馬(42)。
 一、二年生の補欠は全員無番の練習用ユニフォームを着ていた。
「神無月さん、補欠にまちがわれますよ。背番号8を着たらどうですか」
 マネージャーの白川が言う。
「もったいない。リーグ戦の初戦から着ます」
 スタンドやグランドからシャッターの音が飛び交う中、鈴下監督の声が上がる。
「グランド五周!」
 私はまっしぐらにグランドに飛び出した。主将の克己と並んで走る。私より十センチ近く低い。走りながら語りかけた。
「去年までの打順を教えてくれませんか」
「驚くなかれ、俺が四番だったんですよ。春から俺は五番に移り、七番の吉井がベンチに回ります。一番、センター中介、二番セカンド磐崎、三番サード水壁、四番レフト神無月さん」
「呼び捨てにしてください。言葉遣いも、デスマス体をやめてください」
「わかった。畏れ多いなあ。四番レフト神無月。五番キャッチャー克己、六番ファースト臼山、七番ショート大桐、八番ライト横平。サードの水壁は、三年間で二本のホームランを打ってる。オレと横平が一本ずつ。完投したことのあるピッチャーは有宮だけだ」
「ピッチング練習場じゃなく、右中間と左中間の塀へ、二十メートルぐらい離れたところから、肩を作るつもりでフェンスにぶつける練習をしたらどうでしょうか。フリーバッティングが始まったら、外野守備に加わりながらいけます」
「それ、いいね! 早速きょうからやろう」
「キャッチボール! 十球軟投、二十球強く!」
 鈴下監督が叫ぶ。克己は監督のところへ走っていき、私のアイデアを告げた。すぐにピッチャー候補数名を招集し、外野フェンスに走らせた。残りの者はキャッチボール。やはり私は克己と組んだ。軟投のときも、克己は翼を広げるようなフォームから、するどい真っすぐのボールを投げてよこす。私は肩の負担を減らすために、山なりのボールを二十球返した。それから十球ふつうに返す。
「ひゃー! すご!」
 克己のミットが重くするどい音を立てる。
「みんなに肩を見せてください」
「わかりました。ライトポールへ遠投五球、やります!」
「注目!」
 克己の大声に全員が動きを止める。ノーステップでライトポール目がけて、手首を利かせた五球を投げる。二本ポールに当たった。三本はネットに。フラッシュの嵐。
「じゃ、もう五球、ステップして、左中間のネットへ投げます!」
 九十二、三メートルと思われる左中間フェンスに向かって、ツーステップで遠投する。五球すべて、網に当たって下に落ちた。ヒェー! という仲間たちの悲鳴。フラッシュの光が洪水のように注ぐ。テレビ記者たちが走ってきて、マイクを突き出す。
「いまの遠投は入部のためのお披露目ですか?」
「克己主将に促されたパフォーマンスですから、二度とやりません。一年半、集中的に肩を使ってこなかったので、確認の意味もありました。いける手応えを得ました。課題はスタミナです。肺活量は五千から六千あるんですが、スタミナがないんです。幼いころからの頻脈のせいだと思います。心臓が悪いわけではないので、とにかく鍛えます。前腕は強いけれども、二の腕の筋力が人並であるのは、これもやはり欠点ですね。ホームランはタイミングで打ってきましたが、二の腕も鍛えてスイングスピードを上げるように鍛えていきます」
 メモ、メモ、フラッシュ、ストロボ、フラッシュ。監督が全員に召集をかけた。
「パフォーマンスついでに、今度はバッティングを見せてもらおう」
 鈴木睦子が美しい歯を見せながら拍手する。フィールドとスタンドの拍手が追いかけてきた。いかにスピードがないとは言え、六大学野球を経験しているピッチャーが投げるボールを、庄内川の河原のように打ち返せるだろうか。
レギュラーが守備位置についた。鈴下監督は、控え選手を含めた五人のピッチャーを指名して、一人五球ずつ投げるように言う。まず、森磯という三年無番の下手投げがマウンドに立った。タイガーバットを手に、素振り、連続で十回。
「神無月くんの顔見世だ。投球練習は一球!」
 スローボールのような精いっぱいの直球がくる。百二十キロ。名城大付属高校を相手にやったように、方向を指定して打とうと決める。
「ぜんぶセンター方向へライナーを打ちます」
 センターライナー三本、右中間を抜くライナーを一本、もう一本はセンターオーバーの塀を直撃するライナーだった。場内が静まり返る。
「次、三井!」
 これまた無番の三年生、オーバースロー、百二十五、六キロ。
「ぜんぶレフトへ打ちます」
 レフトフライ二本、レフトオーバーのホームラン三本。投げ終わったピッチャーは走ってベンチに戻っていく。スタンドがざわつきはじめる。
「村入!」
 ここからレギュラーだ。チームの一人ひとりを発奮させるためには、かすかに残っている自信を打ち砕かなければならない。サイドスロー、百二十七、八キロ。四本をライトネットの中段へ、一本を上段へ。怒涛のような拍手がきた。しきりにフラッシュとストロボが焚かれる。フィールドの数箇所でテレビカメラが回っている。いつのまにかスタンドの見物がふくれ上がっている。
「台坂!」
「はい!」
 百八十センチぐらいだろうか。野球部の中で、最も長身だ。百三十二、三キロ、シュート球。レフトへ二本、センターへ一本、ライト上段へ二本。
「ドヒャー!」
「なんだ、こりゃ!」
「王の再来か!」
「いや、飛距離はもっとだろ」
 喚声に驚愕の叫び声が混じる。球場スタンドの拍手と歓声が止まない。
「よし、最後! 有宮、直球だけでいけ!」
 ひっきりなしのフラッシュ。百四十キロ弱。一球目真ん中腰のあたり、ライト上段、二球目外角低目、左中間フェンス、三球目内角高め右中間フェンス、四球目内角低目、ライト上段、五球目真ん中低目のボール球、低いライナーで真っすぐセンターのネットへ。ひたすらフラッシュが焚かれる。監督が叫ぶ。
「二十五球中、十六本。しかも打ち損じが一本もなしか! 噂にたがわぬ怪物だ!」 
 新聞記者が叫ぶ。
「田淵どころじゃないぞ!」
「一年間で記録の塗り替えだ!」
「あんな広角打法、初めて見たぞ!」
 叫ぶ。叫ぶ。部員たちが駆け寄ってくる。
「神無月さん、すごいよ!」
「ライナーの打球が、シューってうなってました」
 私は新しい仲間に向かって、
「ぼくは新入生です。呼び捨てにしてください。できれば金太郎というあだ名で呼んでほしいんです。寺田ヒロオのスポーツマン金太郎です」
 私は全員に笑いかけた。
「何だ、それ」
「知ってる、知ってる」
「背番号100だよ」
 監督が私の肩を叩き、
「わかった、神無月金太郎。レフトの守備位置についてくれ。レギュラーバッティング、五巡いけ。準レギュラー、守備につけ!」
 ネット裏に中日の総監督の村迫を発見した! ニコニコ笑いながら、供の者としゃべり合っている。私は自分を支持する者に見つめられながら快適にバッティングができた喜びに胸がいっぱいになり、青高時代のように全速力でレフトの守備位置へ走っていった。
         †
 記者たちが去った帰りぎわ、鈴下監督が部室に部員がいるときを選んで、
「あしたもくるかね」
 と尋いた。
「はい、きます」
「適当に休暇をとってもいいんだよ。金太郎さんは、基本的に、都合のいいときに士気鼓舞のために練習してくれればいい」
「ありがとうございます。でもからだを鍛えなおす大切な時期なので、できるだけ参加します」
 オオとどよめく。
「そうしてもらえればわれわれも励みになる。頼まれていた眼鏡は、リーグ戦開始前にでき上がる予定だ」
「ありがとうございます。ゲームが日没に近づくことがあったら、かけてみようと思います。あの……あしたからは、昼から出ます。継続的に鍛練を長つづきさせたいので」
「そうしたほうがいい。主力選手はほとんど一誠寮に入っているので、かよってくる苦がない。朝早くからかようのはたいへんだ」
「はい、睡眠を減らすと長つづきしません。ただし、昼に出て、夕方までみっしりやります。一誠寮はこの近くなんですか」
「農正門から十分ぐらいのところだ。レギュラー、控え、その候補、男子マネージャー合わせて、三十五人ぐらい入ってる。野球部の事務室もそこにある」
「全員じゃないんですね」
「まだ力足りないと見なされる選手は入れない。ほかの選手は通学になる。アパートを借りるにしても、キャンパス周辺が多いね。ところで、寮内に一誠寮と書かれた額が飾られてるんだが、誠の字の最後のノが書かれてない。優勝したときに書き入れることになってるんだ」
「ぜひ二年以内に書き入れましょう」
 ふたたびオオとざわめく。鈴下監督はニッコリ笑って、
「―実現させたいね」
「実現します」
「よろしく頼む」
「はい! 全力を尽くします。オェース!」
 思わず声が出た。部室の全員がオェースと呼応した。照れくさかった。


         二十一

 高円寺で降りて、いまからいく、とカズちゃんに電話した。五時を回っている。玄関にダッフルを投げ出すなり、
「すぐシャワー浴びたい。遠投して、何十本もフリーバッティングをした。汗かいた。このユニフォームはきょうでお蔵入り。あしたからは東大のユニフォームでやる。背番号8。好きな番号だ。シャツからストッキングからスパイクまで、ぜんぶ新品なんだよ」
 一気にまくし立てた。カズちゃんはうれしそうに微笑んでいる。
「素子は?」
「夕飯の買物。ホームラン、打てた?」
「たくさん打った。みんな喜んだ」
「……キョウちゃん」
「なに?」
「どうしてキョウちゃんは、やさしいの?」
「やさしいかな」
「とても。怖いぐらい」
「……生き別れとか死に別れとか、たいへんなことが起きたときに、それまでの自分の態度を責めるエネルギーを残しておきたくないからだろうね。その分、冷酷にするべき人間にはきちんと冷酷にしてるから、釣合いはとれてるよ」
「―おいしい夕食を作るね」
 シャワーを浴びて、浴衣姿で玄関に出ると、通りの向こうから、買い物籠提げた素子がやってきた。手を振る。
「あ、きとったの!」
「うん、さっき帰って、シャワー浴びた」
 素子に手を取られて玄関に入る。
「ただいまあ!」
「お帰りなさい。お風呂入れる?」
「あとでええわ。キョウちゃん、あたし、毎晩本を読んどるんよ。意味わからんところはお姉さんに尋くの」
「何読んでるの」
「トルストイのアンナ・カレーニナ。最初に傑作を読んどけば、本を読む基準ができるんやって」
「ぼくもそう思う。難しい?」
「ううん、ようわかる」
 カズちゃんが私のもう一方の手を取り、
「頭いいのよ、素ちゃんは。トルストイは性欲を深刻に考え過ぎだって。人が真剣に考えなくちゃいけないのは、生理現象じゃなくて、愛だって」
「すごい!」
 エヘッと素子は笑って、私の手を揺すった。
「めしの支度はあとにして、三十分ほど散歩しよう」
「はーい」
 二人とも浴衣に着替え、黄昏の商店街を歩く。少し寒い。
「キョウちゃーん!」
 見上げると、倶知安の二階の窓からシンちゃんが見下ろしている。
「テレビのニュース観たよ。東大野球部入部パフォーマンス。すごかったぜ」
 声を投げ上げる。
「ありがとう! 繁盛してる?」
「キョウちゃんのおかげでね。このあいだ、望月優子って女優が弟子をたくさん連れてきて、肉野菜炒めを食べてった。キョウちゃんに刺激されて、サインを書いてくれたよ。キョウちゃんの隣に貼っといた。三冠王目指してがんばってね」
「はい!」
 隣のドアから恰幅のいいフジのマスターが出てきて、
「北村さん、きょうはごくろうさん。そのかたですか、新聞を賑わしてる東大生は」
 素子が、
「そうよ、天才キョウちゃん」
「この子、私と同居してる兵藤素子さん。名古屋の友人です。北口のポートに勤めてます。将来いっしょに喫茶店をやろうと思ってるんです」
「美人二人。流行るぞォ。しかし、東京は店舗が高いからなあ」
「名古屋で地道にやります」
「フジでうんと勉強しときな。ところで、十四日の桜花賞、買う?」
「競馬って、やったことありませんけど、やってみます。小さいころ、父に競馬場に連れてってもらったことがありますから。千円で八枠流しってのをお願いします。父の買い方です」
「うん、買っとく」
 カズちゃんは買い物籠から財布を取り出し、
「はい、これ、一万円」
 マスターはこれまた胸ポケットから分厚い革財布を取り出して、
「じゃ、おつり、二千円」
 マスターはうれしそうに店内へ戻っていった。
「あの人、富沢さんていって、このへん一帯の地主さんなんですって。あの財布にいつも三十万円くらい入れて持ち歩いてるらしいわ」
「ふーん、ホワーンとして、気持ちのよさそうな人やがね」
「いい人よ。いつもぶらぶら出歩いてくれてるから、仕事のジャマにならないし」
 アハハハと女二人で笑う。都丸古書店に寄る。カズちゃんは実用本のコーナーにしばらくたたずみ、コーヒー関係の本を二冊抜き出してレジに持っていった。素子は小説の文庫本を四、五冊買った。
「さ、夕食の支度」
 アーケードの商店街に戻り、八百屋、肉屋、総菜屋と通り過ぎていく。素子は、ここで何を買った、あそこで何を買ったと、いちいち説明していく。
「お姉さんが大きな冷蔵庫と洗濯機を買ったんよ。すごく便利」
「キョウちゃんのジャージや下着も洗わなくちゃいけないから。とくに、ユニフォームが洗えるくらい大きくないと」
 素子がふと立ち止まって、イナゴの佃煮も買っとこうか、と言うのを、私は拝んで断った。円頓寺商店街でカズちゃんにやったのと同じ格好だった。女二人で大笑いする。玄関に帰り着くと、
「今夜はビーフシチュー。時間かかるわよ。素ちゃん、私、夕食の支度をゆっくりしてるから……ネ」
「うれしい! オシッコしてく。冷えてまった」
 素子が便所を出るのを待っていっしょに離れへいく。よく干した万年蒲団の敷いてある明るく整った部屋。文机と書棚が置いてあるのが微笑ましい。素子は文机の上に、大事そうに五冊の文庫本を積んだ。国木田独歩『忘れ得ぬ人々』、北条民雄『いのちの初夜』、福永武彦『草の花』、モリエール『人間嫌い』、モーパッサン『脂肪の塊』。彼女なりの直観から手にとったのだろうが、名著ばかりだ。勘がいい。
「アパートなんか借りる必要ないよ」
「お姉さんもそう言っとった。私、言ったんよ。キョウちゃんとお姉さんが安心して抱き合えんでしょ、いっときだけでもキョウちゃんを独占できんと、お姉さんの精神衛生に悪い、あんな商売しとったた私だってそうやもの、ましてやお姉さんはって。そしたら、キョウちゃんを独占するなんて気持ちに一度もなったことがない、キョウちゃんに私たちが独占されなくちゃいけない、そういう気持ちになれば、自分を鍛えて、美しくなって、キョウちゃんの宝物でいようって気になる、私たちはキョウちゃんに集められた宝物よ、仲良く宝の小箱に収まっていなくちゃって」
「すごい考え方だね」
「うん。嫉妬とか、自己主張とか、そういうことがいちばんキョウちゃんに迷惑をかけるって。そばにいる覚悟というのはそういうことだって。私、いっぺんに目が覚めた」
 言いながらすでに全裸になっている。火山のように性欲が噴き上がってきた。私はカーテンを閉め、蛍光灯を点けた。素子が私の服を脱がせにかかる。
「あ、いたいた、おひさしぶり」
 すっぽりと口に含む。私が横たわると、含みながら顔に跨って尻を向けた。
「忘れとらん? 私の」
「しっかりとね。最初のときは、小便くさかった」
「いや」
 左右対称の長い小陰唇、慎ましいクリトリス、膣口のピンクの凹凸が少し平坦になっている。この一年、客を取らなかったせいだ。舌先を触れる。ああ、と尻が遠ざかる。すぐに降りてくる。小陰唇を含む。尻を引き寄せ、クリトリスを吸い出す。両手を伸ばして乳房を強く揉む。
「ああ、イクッ!」
 腹をつかんで筋肉の硬い収縮を感じ取る。素子が四つん這いのままなので、からだを抜いて後ろに回り、挿入する。たちまち尻を前後させて気をやる。さらに往復すると、いつものように腹の筋肉を波打たせ、尻を前後させる。
「ああ、熱い、焼ける、うーん!」
 抜いて表に返す。素子とのいつのもの手順だ。すぐに次の高潮がやってくる。顔が赤らんでくる。これ以上気をやると、素子は逃げ去って横向きになり、苦しげにのたうつ。急ぐ。私の気配を感じ、小刻みにうなずく。射精の突き入れをしたとたん、がばと私を抱き締め、陰阜を離さないようにして、何度も打ちつける。
「愛しとるよ、愛しとるよ」
 猛烈に唇を吸ってくる。吸い返す。ふと確かめたくなり、唇を離して顔を見る。目をつぶったけいこちゃんの顔だ。節子の、法子の、そして、トモヨさんとカズちゃんの顔だ。吉永先生とは毛色がちがっている。いや、文江さんもユリさんも毛色がちがう。しかし愉悦の瞬間はみな同じ顔に見えるのはなぜだろう。
 私は一瞬のうちに女たちの〈心〉を理解した。この世に異質な個があるとすれば、それは肉体の感覚ではなく、心だ。一人ひとりの心―それだけは確実にちがう。異なった心があるからこそ、自分とちがった心を求めて生きていける。生きていて出会わなければならないのは、典型ではない心だけだ。私はこれまで、女のからだという典型物に、男のからだという典型物を浸しながら、心という異質物を抱き締めてきたのだ。
「何考えとるん?」
「なんて素子のことを好きなんだろうって」
「私も! キョウちゃんは、何人女を好きになっても薄まらん。好きになることが仕事の神さまやから。私みたいな凡人は、ほかの男を好きになったら薄まってまう。だからほかの男を好きにならんようにって、キョウちゃんが私に会ってくれたんやわ。お姉さんも同じことを言っとった。遇ったとたんに、心もからだも、一生解けん金縛りにあってまったって。でも、そういうふうに感じられる女は、この世界に何人もおらんやろうから、その何人かで仲良うして、神さまに好きになってもらわんとあかん、神さまは好きになってくれた人たちをいつも好きになってくれるからって」
 私はさびしく笑いながら、
「まるで宗教だね」
「宗教でええがね」
「ごはんにしよう」
「うん。お腹すいたァ」
 素子はシャワーを浴びにいった。私はキッチンにいって食卓に着いた。
「あ、もう十五分くらいかかるわよ。コーヒー飲んでて。私も飲む」
 カズちゃんもテーブルについた。
「……カズちゃんの気持ちがよくわかった。いままでは、ぼくがよくわかってもらってただけだけど、きょうはカズちゃんの気持ちがわかった。カズちゃんはぼくの心を抱いてたし、自分の心をぼくに抱かれてたんだね。からだは―」
「うん、からだは握手よ。社交辞令でない握手。心があることを確かめ合う挨拶。愛し合う男同士は、握手なんかしなくても言葉だけで確かめ合えるけど、愛し合う男と女は、からだと心で確かめ合うの」
「でも、カズちゃんは、いや、どの女もぼく一人としか握手しない……」
「女は心が浮気しないと、からだも浮気しない動物なのよ」
「男は、いや、ぼくは……」
「飛び抜けてすぐれた男は、心もからだも浮気できるの。心もからだも分けてあげられるのね。その証拠はからだで見せてあげるしかないでしょ。女にとって、それが心のある証拠だから。……キョウちゃんは素ちゃんの心を抱いたって、そう感じたんでしょ?」
「お見通しだね!」
「キョウちゃんは人格異常よ。十歳のときにすぐわかった。憶えてる? 私がいくつに見えるって聞いたら、二十歳くらいって答えたの。二十五のときよ。私が女なんてすぐ薹が立つのよって言ったら、ぼくはカズちゃんの顔が好きだよって返した。齢なんか気にならないって意味ね。キョウちゃんは異常よ。その瞬間、私は、この男を一生かけて愛そうって決めたの。二十五の女がね。私も人格異常。異常な女は、異常な男をすぐ見抜くの。キョウちゃんを愛せる女は、生涯に何人もいないわ。みんな貴重な一人ひとりよ。大事にしてあげてね」
 廊下の玉簾(すだれ)が揺れて、胸にバスタオルを巻いた素子が入ってきた。背中からカズちゃんを抱き締めた。その手を握ってカズちゃんが言った。
「キョウちゃんをあきらめちゃだめよ。あなたのような異常な人は、キョウちゃんにしか愛してもらえないのよ。キョウちゃんも同じ。素ちゃんのような人にしか愛してもらえないの。あなたがあきらめたら、キョウちゃんを護る数少ない女が一人減るのよ。あら、十五分経った。ビーフシチューできたわよ。素ちゃん、服着てらっしゃい。風邪引くわ。読書も十二時くらいまでにしなさいね。朝が早いんだから」
「はーい」
 素子はあでやかな黒のワンピースを着て戻ってきた。とろけるようにうまいビーフシチューを食いながら、二人の美しい〈人格異常者〉の顔を見つめる。
「走ったり、投げたり、打ったりしてるとき、とてつもない高揚がやってくるんだ。でも練習が終わったとたんに、ぶっ通しで本が読みたくなった」
「そういう気持ちになったのなら、とにかく読むべきよ、ぶっ通しで」



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