十七

 高橋弓子の住む南一番町の外れに、小さな新聞店がある。同じクラスの桑原はそこで新聞配達をしている。二学期の初日の校外ランニングで通りかかったとき、店先でうろちょろしている坊主頭を見かけた。その日は桑原のほうから私に気づき、手を上げた。
 きょう、桑子が社会科の時間に、
「アンポ反対デモで死んだ女子東大生を、知っとる人」
 と言った。アンポという言葉の意味がわからなかった。校内一の秀才の守随くんが手を上げて、
「カンバ、ミチコです」
 と言うと、三日月顔の桑原が小声で、
「俺も知っとるわ。新聞に載っとったがや」
 私はいやな感じがした。その事件のドキュメンタリー番組は、偶然社員たちといっしょにテレビで観たばかりだった。学生服姿の男たちが腕を組んで街頭をいく光景に、なんだか軽薄なものを感じた。あんなやつらのだれが生きようと死のうと、どうでもいいような気がした。
「チラシを挟んどるうちに、アンポなんか自然と覚えてまったわ」
「ふうん。それなら、手を上げればよかったのに」
 桑原は小声になって、
「手柄上げたいやつに悪いやないか。それよりよ、最近、配達する家が増えてまって困っとる。二、三日、朝刊だけ手伝ってくれへんか。チラシの折りこみは、やらんでええで」
 桑原は康男のむかしの子分の一人で、康男のお気に入りの私を仲介にして、相変わらず親分につかず離れず忠犬の気分でいる。あの喧嘩の日、飯場に送ってきたときも彼が混じっていた。
「二、三日でいいのか」
「おう。一日、五百円払うわ」
 十円も小遣いのない私には、五百円は大きかった。
 翌日、野球部の練習が退けたあと、私はユニフォームを着たまま新聞店へ出かけていった。店の表に何台かごつい自転車が立ち並んでいる。まだベーランの余韻がからだに残っていて、野球帽の中が汗っぽかった。蚊柱が立っている電柱のそばの硝子戸を引いて、スパイクのままの足で踏みこんだ。土間にスリッパやサンダルが履き散らしてある。新聞やチラシがうず高く積まれた板敷きが、奥の畳の間につづいている。何人かの年かさの少年に混じって、小さな桑原が板の上に胡坐をかき、せっせと新聞にチラシを挟みこんでいた。声をかけると、おう、と応えただけで、私のほうを見もしない。
「手伝いにきたよ」
「わかっとる!」
 邪険に応えた。なんだこいつ、と思った。
「おい、桑原、ふざけるなよ」
「そうあわてるなて」
 畳の間の障子が開いた。角テーブルで、暗い顔をした爺さんが茶をすすっていた。彼の頭上に神棚が据えられ、テーブルの上に吊るしたハエトリ紙に、びっしり黒く蠅がこびりついていた。
「おやじさん、俺、新規が二十軒ほど増えたで、ちょっと助っ人を呼んでよ。俺一人でもやれると思うけど、配りきれんかったら申し訳ないで、しばらく手伝ってもらうことにしたわ」
 五年生の口ぶりではなかった。ひねこびていて、聞き苦しかった。爺さんはしばらく私のユニフォーム姿を珍しそうに見ていたが、やがて板敷きに出てきた。ひどく痩せこけ、目も鼻も尖っている。
「あんた、よく、このあたりを走っとらへん?」
 大して興味のなさそうな声で尋いた。
「クラブのランニングで、ときどき通ります」
「親ゴゼさんは承知したの?」
 薄い白髪を掻きながら尋いた。 
「二、三日やるだけのことだから、何も言ってません」
 桑原の首が縮んだような気がした。
「少なくとも三カ月、週に四日はやってや。日当三百円出すわ」
 桑原はさらに首を縮め、ずるそうな目で私の顔を見つめた。この野郎、と一瞬血が昇ったけれど、三カ月くらいならからだを鍛えるのに利用してやれと考え直した。
「五百円じゃないんですか」
「新入りにそんなにぎょうさん出したら、店がつぶれてまうが。じゃ、あしたの朝、四時にきてや」
「四時! 七時ぐらいじゃダメですか」 
「わやくちゃ言ったらいかんが。新聞は五時にはポストに入っとるもんや。家が遠いんか」
「平畑です」
「近いやないか。四時にきて。配達に出るまでのあいだに、折りこみを入れるとか、いろいろ雑用があるで」
「チラシはやらなくていいって、桑原くんが言いましたよ。配るのを手伝うだけでいいって」
「なんやそれ。遊びにくるつもりかや」
 でたらめだ。やっていられない。桑原を見ると、彼は手を止めないまま居直ったふうに私を睨んだ。そこだけ明るく照明をきかせた板敷きに散り散りにあぐらをかいて、ひどく差し迫ったふうに何人かの少年たちが働いていた。
「わかりました。とにかくあしたきます」
 やっぱり最初の約束どおり、三日間だけにしようと思った。約束は約束だ。ただ、野球でくたくたになったからだで、四時前に目を覚ます自信はなかった。
 ―桑原のやつ、いいかげんなこと言いやがって。三日経ったら、ヤキを入れてやる。
         †
 母に悟られないよう目覚ましをかけなかったのに、なぜか反射的に三時半に目が開いた。驚いたことに眠くはなかった。隣の蒲団から母の大きないびきが聞こえる。
 食堂の流しの水で顔を洗い、三時四十五分に飯場を出た。足もとが薄暗い。家や木の薄い影が道の上に映っている。顔を上げ、夜明けの空気のにおいを嗅いだ。きれいな新月が細く浮かんでいる。
 店に着くと、四時の柱時計が鳴った。すでに何人か立ち働いていた。桑原もいる。さっそく爺さんにチラシの折りこみを命じられた。教えられた手順どおり、新聞をめくってはチラシを挟む作業を繰り返した。そのうち要領がわかってきて、その単純さが愉快になった。中学生らしい少年が、あれこれコツを教えたけれども、たいして仕事のスピードはちがわなかった。
 四時半を過ぎて、爺さんから鉛筆書きの略図をわたされた。配達区域と六、七十の名前が書いてあった。みんなの格好をまねて新聞の束を自転車の荷台に積みこみ、平たいゴム紐で押さえる。
「ケッパイ出すと、月給あれせんで」
 桑原が言う。
「月給? ただの二、三日の手伝いだろ」
「……」
「ケッパイって何だよ」
「配り落としだがや」
 朝もやに煙った道を、重たい自転車に跨り、地図を片手に走っていった。一軒一軒、折り畳んだ新聞を郵便受けに差しこんでいく。
 途中の広い通りに、高橋弓子の家があった。大きな表札をつけた門がひっそり閉まっている。ふん、という気持ちで、門扉の郵便受けに新聞を押しこんだ。木立の上に垣間見える白い切妻壁を見上げた。飯場を出たときまだ水銀色に輝いていた細い月は、もうくすんだ灰色になっていた。
 配達は一時間ほどで終わった。店へ戻るとすぐ、
「ワヤだぎゃ、あんた、電話で苦情が入ったが!」
 爺さんが怒鳴った。
「二軒、ケッパイだがや」
 氷川神社のそばの二軒の家に新聞が届かなかったと言う。そういえば、鳥居の前から坂道を登りきったとき、坂のふもとに固まっている家々の屋根にオレンジ色の朝日が美しく反射しているのに見惚れたことを思い出した。自転車を停めてしばらくぼんやり見つめていた。きっとあのときに、そのあたりの二軒に配り忘れたのだ。
 桑原の尖った目と視線が合った。とっくに配達を終えた少年たちが、聞こえないふりで後片づけをしている。
「すみませんでした。いまから届けてきます」
「ええわ、桑原にいってもらうで。あしたからもうこんでええよ。悪いけど、きょうの日当はなしや」
「わかりました」
 桑原はもう外へ出かかっている。彼は新聞を二部持って殊勝らしく自転車に跳び乗った。私はなんだかさばさばした気持ちになった。そして、明け方の淡い陽射しの中を飯場へ帰っていった。
「朝っぱらから、何してたの」
 割烹着をつけた母が部屋の敷居に腰を下ろし、煙草をふかしながら待っていた。起きたばかりの口から、饐(す)えたにおいがした。火鉢のそばに置いた煙草の箱がいままでのしんせいではなく、ハイライトになっている。
「新聞配達を手伝ってきた」
「新聞配達?」
「同じクラスの子に、手伝ってほしいって頼まれたから」
 引き寄せた火鉢の縁に吸いさしの煙草を置き、しばらく手の指を曲げたり伸ばしたりしながら、気持ちに整理がつかないような顔をしていた。
「手間賃は?」
「もらえるわけないよ、手伝いだもん」
 母はなぜか機嫌よさそうに笑った。
「お人よしだね、おまえは。とにかく、お金ほしさに、世間に顔向けできないようなことをするんじゃないよ」
 そう言って腰を上げた。
「世間て、なに?」
「また面倒くさいことを」
 正体の見えない世間というのは、きっと私を除いた一人ひとりの人間のことで、しかも康男やクマさんのように顔を見知った人間のことではなく、まだ会ったこともない大勢の人びとのことなのだろうと思った。だから私にとって、名前も顔も知らない世間など、この世に存在しないという理屈になるのだった。


            十八

 もとの飯場の築山の裏手には、まだ舗装されていない路が幾筋かあり、そのうちの一筋の行き止まりに、こんもりとした楢(なら)の小森があった。森の中に古びた門構えの家が一軒建っていた。在の地主だと母から聞いた。庭に大きなモクレンの樹が植わっていて、夏になると白い花が咲きそろった。
 その家の門から、黄昏どき、ランニングシャツにパンツ一枚穿いたきりの双子の兄弟が手をつなぎ、平畑の町並へさまよい出てくる。白髪の老夫婦が、玄関から二人の背中を見送っている。双子の兄弟は四十を越えているように見えた。二人とも大きい鉢の開いた頭をしていた。まめにあたってもらうのだろう、こぎれいに剃った髭の跡が遠目に青々と見え、髪にはきちんと櫛を入れていた。どんな天気の日にもかならず下駄を履き、首に黒い蝶ネクタイを締めていた。
 彼らの色白のからだには、のっぺりした丸顔が載っていた。でも、眼差しは花の蕾のように清潔な感じだった。近所の悪ガキたちは、二人が水入らずに楽しげな顔つきで歩いている様子を見かけるたびに、
「馬鹿ソーセージ、馬鹿ソーセージ」
 と囃し立てながら駆け寄って、丸い柔らかそうな腹を突いたり、向こう脛を蹴ったりした。子供たちにしてみれば、悪さをしている気持ちなどちっともなく、やいのやいのと騒ぎ立てることがお祭り気分で愉快なだけなのだ。年とった双子は、逃げ出すこともしないで、疫病神どもにいじり回されながら、まじめな顔で、ゆったりと平畑の通りを進んでいく。私には、二人がとてつもない人格者に見えた。何の不安も望みもなく、頭の中にきちんと整理した自分の考えを持っていて、周りのみんなよりずっと几帳面に、しかものびのびと行動しているように感じた。
 悪童どもは双子をいろいろな呼び名で叫んだ。白ブタ、ノータリン、火星人。そういえば、横浜の浅間下でも、ときどき白い寝巻を着た義足の傷痍軍人が、挙手の礼をしながら通りや空地をぴょこぴょこ走り回っていた。みんな彼のことを三等兵と呼んでいた。私は彼が目の前を走り抜けるとき、真剣な視線の先に何かはっきりと敬礼の相手が映っているような感じがして、悪童たちのするようにつむじの上で指をクルクル回す気持ちにはなれなかった。
 新しい飯場に移ってから半年ほど経ったある午後、クマさんの部屋からジョニー・ソマーズのワン・ボーイが流れてきて、私はグローブの手入れをしながら、その大好きな曲にしばらく耳を傾けていた。
 表でがやがやと子供たちの声がしたので、いつもの双子だなと思いながら、駄菓子屋の前まで見物に出てみた。じめじめした霧雨が降っていた。そのこまかい雨の中を双子の兄弟が散歩している。ときおり二人が仰ぎ見る軒や看板が、雨にしっとり濡れている。双子の一人がパンツの端から、からだの色とはぜんぜんちがう黒々としたものを覗かせているのを目ざとく見つけた腕白連中が、
「キンタマ、キンタマ」
 と囃し立てた。そうしていい気になって、いつものように背中や腹を小突き回しながら、キンタマ、キンタマと声を合わせた。
「山口オトヤだ!」
 と叫んで体当たりするやつもいる。
 その恐ろしい事件を、私はつい先月、たまたまテレビで観たばかりだった。太縁の眼鏡をかけたチョビ髭の政治家が演説をしていたとき、壇上に飛び上がった男が背中を丸めて突進していった。政治家は片手を上げて身を守ろうとしたけれど、男は脇腹にぶつかった。大騒ぎになった。私は興味がなかったので、バットを振りに表に出た。翌日、朝めしのとき、浅沼稲次郎という政治家が刺されて、出血多量ですぐに死んだと小山田さんから聞いた。あのとき青年が刃物を持っていたようには見えなかった。
 子供たちの囃しかたがふだんより激しいので、私は落ち着かない気持ちで輪の中心へ近づいていった。双子の片割れがキンタマを出したまま、生白い上半身を縮め、子供たちを不思議そうな目で見つめている。全身が霧雨のせいでぬらぬらしていた。大きい目に不思議な輝きがあった。なんとなく微笑んでいるようにも見える。その微笑から、何か受難者めいた、人間的に気高いものが反射していた。
 もう一人の双子は虚ろな顔をしながら、輪の中でキンタマの手をしっかり握っていた。子供たちは囃し立てながら、貯水場のほうへ双子を押し戻していった。私もついていった。眺めているだけの自分に情けないものを感じたけれど、子供たちを止めるほどの義侠心はなかった。そして、何度も頭の中でつぶやいた。
 ―ぼくとは関係ない。
「バットより太いがや」
「ションベンしてみろよ」
「母ちゃんにウンコ拭いてもらうんか」
 子供たちは妙に興奮して、いつもより意地の悪い野次を浴びせている。
 ―ああ、なんてひどいことを言うんだ! ぼくはこのまま黙っているのか! この双子はおまえらの仲間じゃない。彼らはおまえらの組織に属する人間じゃない。組織の人間なら、おまえらがいじめようと、いたぶろうとぼくの知ったこっちゃない。おまえらの陰険な黙約でやってることだ。ぼくの正義感でどうにかなるものじゃないだろう。しかし何の組織にも属さないで、しかも無害な人間がいるんだ。そんなこともわからないのか。
 空しい心の叫びだった。私はただついていった。酒井さんの飯場を越え、貯水場の脇まできた。もう、二人の家が森の隙間に見えている。キンタマは、とつぜん無理に押し出したような笑いを浮かべると、
「アー、アー」
と唸り声を上げ、下駄のままかたわらの電柱にしがみつき、よじ登りはじめた。下を見ないでどんどん登っていく。下駄が一足ずつ落ちてきた。腕白たちが呆然と見上げている。電柱にかじりついている白いからだ全体に絶望がみなぎり、ひどく孤独な姿に見えた。
 と、彼はぐいと手を伸ばし、電線をつかんだ。その瞬間、片足がピンと真横に伸びた。それから片手でぶら下がった格好でゆっくり気をつけの姿勢になり、からだが一直線の棒になった。声は聞こえなかったけれど、白い顔の真中にOの字の形をした口が開き、それが閉じたり開いたりした。真っすぐの棒がスッと落ちてきた。ものすごい音を立てて地面に打ち当たり、小さく弾んだ。子供たちがワッと取り囲んだ。私も彼らの肩口から覗きこんだ。もう棒ではなく、いつもの柔らかそうなからだに戻っていた。口からだらりと紫色の舌を出し、白目を剥いていた。縁の焼け焦げた大きな丸い穴が横腹に開き、奥のほうに鮮やかな赤い肉が見えた。蒲団屋の小僧の淡いだいだい色の脳味噌を思い出した。彼もやっぱり電柱から落ちてきたけれど、一本の棒になって静かに落下した白いからだのほうがたまらなく悲しく感じられた。
「死んどるが!」
 だれかが叫び、みんないっせいに逃げ出した。双子の片割れがしょんぼりうなだれて、灰色の水たまりに浸かった動かない分身を見下ろしていた。私は惨めな気持ちでのろのろ飯場に帰っていった。
 このできごとは私を打ちのめした。何千もの人びとを呑みこんだ津波の話、一つの村を埋め尽くした溶岩の話、何万もの人が溺れた大河の氾濫の話、何千万人もの人びとが死んだ戦争の話、そんなものよりも烈しく打ちのめした。それはすべて思い出すことのできない又聞きの情報にすぎなかった。その何千何万もの人たちのために悲しむことはできなかった。私の眼が記憶している哀れな双子たちは、そんな人びとの死よりも、鮮やかな途絶の印象を私に刻みつけた。
 夜になって、吉冨さんが、
「貯水場のそばで、感電死したやつがいたって?」
「おお、あのクルクルパーだろ。電気が手から腹へ抜けて、即死だったらしいな」
 小山田さんが眉に八の字を寄せた。
「なんでまた、電柱に登ったんだ」
「さあな、バカが考えることだから―」
「キョウちゃんも見てたの?」
 カズちゃんが尋いた。
「うん。みんなにはやされて、急に電柱に登りだしたんだ。早く止めればよかったんだけど……」
「―かわいそうにな」
 クマさんの嘆息に母も小声で応じた。
「大きなモクレンの立ってる家ですよね。モクレンは喪の花っていうから。……品のいい兄弟だったのに」 
「ガキどもが! 薄バカいじめて、どうしようってんだ。双子も双子だ。なぜきょうにかぎって、そんな危ないまねをしたのかな」
 吉冨さんが首をひねった。チンボのことは言い出せなかった。
「自殺だね―」
 荒田さんが言った。唐突に出てきたその煮つまった感じの言葉に胸を衝かれた。
「バカが自殺するか?」
 小山田さんが八の字をもっと深くした。
「するさ。いじめられるのが、いいかげんイヤになっちゃったんだろ。バカというのは心映えのいい人間なんだよ。言ってみりゃ魂の人間だな。魂なんてのは、宗教と心中する聖人か、何も考えないバカの持ちものだ。バカはやみくもに他人を信じるし、信じた相手に裏切られると、ヤケになっちまうんだ」
 事情をぜんぶ知っているかのような口ぶりだ。みんな黙りこんだ。私も眼を伏せて深くうつむいた。飯場に戻るときに水溜りを踏んだズボンの裾が、足首にひやりと触った。
 もし私が自分の心に正直だったら、そのとき胸にわだかまっていた後悔をはっきり口にしたはずだ。でも、だれだって、これはまずいと思ったときでさえ、もう渦中に取りこまれてしまっていたら、気持ちを包み隠してしまうだろう。私の場合もそうだった。危うく嗚咽が漏れそうになった。私は喉もとに力をこめてこらえた。そうしてこの事件を、けっして忘れることのできない、どんなに悔やんでも償うことのできない手抜かりの記憶として胸の底にしまいこんだ。
 夜、雨の音が虫の声に変わった。寝返りを打つと、枕にぴったりつけている片方の耳から動悸が伝わってきた。仲のよかった双子の兄弟が、いつもどんなふうに手をつないでいたかは思い出せないけれど、きょうの二人の握り合った手は思い出すことができる。目の裏に、彼らが貯水場の廃材に並んで腰をかけ、夢中になって何かを指差し合っていた背中が、静かな光を帯びて甦ってきた。


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