二十八

 十二日金曜日。午前早く、法子のアパートが決まったという電話がカズちゃんから入った。八日からずっと高円寺の家に泊め、きのうは休みを取って、雨の中を傘差しながら半日歩き回ったのだと言う。
「素ちゃんは仕事でいけなかったの。法子さんが節子さんに会いたいって言うから、病院の休み時間にいっしょにお茶を飲んだんだけど、法子さん、節子さんのことすっかり気に入っちゃって、自分も武蔵境にするって言うのよね。結局、節子さんとは反対側の北口のアパートに決めたわ。節子さんのアパートから歩いて、二十五分から三十分。樹海荘という名前よ」
「法子にはいずれいくと伝えといて。ぼくはあしたからリーグ戦だから、きょう一日だけでも練習をする。ここんところ、雨で練習に出られなかったからね。六月の初旬まで野球浸けになる」
「わかった。法子さんは荷物が届くまで一週間ぐらいここにいるから、あしたは五人いっしょに応援にいけます。武蔵境の住所を教えとくわね」
 住所を聞いて書き取った。
「法子はいますぐ働く予定はないんだね」
「中ごろからゆっくり探すって」
 曇。入学式の日なので駒場の一年生の授業はすべて中止。出る気のない二限の英語の授業を受けなくてすんだのは幸いだった。本郷へ出かけていく。ありん堂のイナリと海苔巻を三つずつ歩きながら食う。
 きょうの練習は、レギュラーと準レギュラーとの紅白戦の形をとった。何十人もの記者団とカメラがたむろしていた。背番号8のユニフォームをしっかり着こむと身が引き締まった。
 スクラッチを終えたあと、私は守備練習を数本しただけで、フリーバッティングはオミットして試合に臨んだ。九時半開始。
 赤組の四番を打った。レギュラーも準レギュラーも大して実力差がなかったので、両チームとも出塁率が低く、ほとんど私の打点だけが得点になって、七対一で赤組の勝利となった。私は三人のピッチャーから三本のホームランを打った。ホームランを打ったのは私だけだった。後半の三回は眼鏡をかけてみた。動き回るのに何の支障もなかった。縁が透明なせいで左右もよく見えた。ただ、目がギラギラするほどボールの輪郭と変化がくっきり見えるせいで、遠近感を失うように感じた。薄暮やナイターのときだけ使うことにした。
 五打数四安打、三ホームラン、二塁打一本、二塁ゴロ一本。チームメイトの信頼感が絶大なものになった。
 紅白戦の結果で固定レギュラーが決まった。
 ピッチャー、有宮、台坂、村入、三井、森磯。
 キャッチャー、克己、棚下。
 ファースト、臼山、佐田。
 セカンド、磐崎、田宮。
 サード、水壁、矢島。
 ショート、大桐、壮畑。
 レフト、神無月、吉井。
 センター、杉友、中介。
 ライト、横平、斉本。以上二十一名。新しく聞く名前は一つもなかった。 
 ベンチの壁でストレッチをしていたとき、鈴木睦子がこっそり近づいてきて、
「火曜日、デートしてくれますか」
 と囁いた。私も囁き返した。
「もちろん。昼は山口と履修届を出してくるから、その帰りに。……三年間辛抱強く待ってくれたね。いよいよ付き合える。しかし、きれいになった。きみは有言実行の人だ。さわやかだ。電話番号は×××の××××。覚えた?」
「はい」
「覚悟してね。危険日じゃないね」
「はい!」
「社内恋愛は面倒を生む。秘密でね」
「もちろん」
 肉感的なトレパンの尻を振って、持ち場に戻った。上野詩織が丸眼鏡の目を潤ませて私を見つめていた。
 駒場へ回る。三限のロシア語は全学年合同授業なので開かれていた。途中だったが出てみた。これもやはり不親切な教授で、ロシアそのもののことも、ロシア語のイロハも、ロシアが産んだ文学も教えてはくれなかった。この授業も見切った。
 黄昏のキャンパスを歩く。どの棟にも番号のついた標示板が立っているだけで、何を学ぶための棟か、あるいは使い回しの棟なのかわからない。ぐるぐる五分ほど回って、先日いった書籍部の隣の生協食堂と、駒場寮と、敷地の外れにある貧しいグランドを見て帰る。
 新宿に寄り道して、ワシントン靴店の後ろにある新宿ローヤルという一本立て映画館に入る。去年制作されたシドニー・ポアチエ主演の『招かれざる客』という映画を観る。ピンとこない映画だった。まるでアメリカの宿痾のように描かれる差別という思想が、現実味を持って迫ってこない。ストウ夫人の『アンクル・トムの小屋』といい、住井すゑの『橋のない川』といい、この種のテーマは私の苦手なものだ。人間は社会的な差別に対して何か主義主張を持って生きなければ一人前でないという考え方が、肌に合わない。人は差別されるに決まっている。十把ひとからげの集団的な差別もあれば、個が個を嫌うな差別もある。シドニー・ポアチエは、西高に転校してすぐのころ名古屋駅前の封切館で観た『いつか見た青い空』にとどめを刺す。盲目の少女エリザベス・ハートマンに、清潔そうなポアチエがドンピシャではまっていた。あの映画も、たしか人種問題が絡んでいたけれども、純愛には不必要な不純物としてさわやかに処理されていた。『招かれざる客』は、若い娘が結婚相手と決めて連れ帰った黒人青年に娘の両親が当惑するという、ありがちな人種差別映画だった。黒人が国際的に活躍する医学博士で、しかも誠実な紳士であるという設定で身分の垣根を取り払って見せたことがかえって、差別の根深さを強調していた。今年の四月にキング牧師が暗殺されたばかりのことを考えると、公民権運動真っ盛りの時代を象徴する名作として映画史に残るだろう。しかし時代など一瞬のうちに消え去る。提起すべき問題は、白人と黒人が人種を超えて愛し合えるかという原始的な点に置くべきだ。肌の色など関係なく、結局人間は男と女であるという真実を打ち出さなければならない。
  
 七時を回って映画館を出た。中央線の高尾行各停に乗る。明るい車内から夕暮れの街を眺める。コンクリートとモルタルでできた家並が窓の外を通り過ぎる。高架を走り、地上を走る。ところどころに桜が咲いている。街が緑とピンクに均(なら)される季節だ。遠くの空が薄紫に変わりはじめた。
 高円寺に寄り、汚れたユニフォーム一式を預け、クリーニングから上がったユニフォームと、タオル類と、替えのシャツ、ストッキングに詰め替える。グローブとケースに収めた特殊眼鏡も入れた。スパイクとバットは東大球場に置いてある。試合となると、色彩の統一がとれないので東大のスパイクを履かなければならない。
「やっぱりユニフォームはプロにやってもらわないとだめね。アイロンがけがちがう」
 風呂に入る。素子がからだを流した。
「いよいよやね」
「いよいよだ」
「胸がギュってなるわ」
「ぼくも」
 風呂から上がるとカズちゃんが、
「きょうはこっちに泊まる?」
「阿佐ヶ谷。読みたい本があるから。帰ったらすぐ道具磨き」
「バックネットの予約券、山口さんと、女五人全員全員分取れたから」
「わかった。ときどき手を振る」
「気にしなくていいの」
 コーヒーを飲み、ダッフルを肩に暇乞いをする。女二人は道まで出て見送った。
 大将でラーメン・ライスを食った。たまたまよしのりがいて、ホレタマを食っていた。
「よう。おまえ、どこに住んでるのかさっぱりわからないから、遊びにいけないじゃないか」
「天沼一丁目の橋本って家に下宿してる。ここから歩いて十分ちょい。おまえこそどこに住んでるんだ」
「ラビエンの隣に窓なしの妙な建物があるだろ。あの二階が社員寮になってる。三人部屋が二つ。タコ部屋だ。もうすぐ出るよ。三鷹にアパートを借りる」
 ノノレタを口ずさんでいたマスターが、
「新聞見ましたよ。えらい騒ぎだなあ。リーグ戦、いつから?」
「あしたからです。五月の末まで」
「優勝は無理でも、ホームラン王だけは獲ってよ」
「獲ります」
 食い終わると、よしのりが財布を出した。
「なんで貧乏人はおごりたがるのかな。いまはぼくのほうが金持ちなのに」
「気分のもんだよ。しかし、どうしておまえに金があるんだ?」
「カズちゃんのオヤジさんが、毎月生活費を送ってくれてる。それをカズちゃんが預かって、必要なだけくれる。いや、必要以上にくれる。奇妙な感じだけど、遠慮なくもらってる。もらうと喜んでくれるからね。ほかにも、おふくろの会社の寮の社員たちがカンパしてくれたり、カズちゃん本人がくれたりする。いつも机の抽斗の中に何十万円も入ってる。そのうち、何百万になると思う」
「マスター、こういうの、どう思う?」
「わかってるでしょ。神無月さんには、ぜんぶあげたくなるでしょ?」
 よしのりはうなずき、
「まあな。とにかく気持ちの問題だから。俺の目の前では、神無月に金を使わせないよ」
 ごちそうさんと言って二人店を出る。休憩の時間がまだ少しあったのか、よしのりは下宿の確認についてきた。下宿までの細道を歩く。
「おふくろさん、何も言ってこないか」
「ああ、予想どおりだ。東大大明神」
 時おり、あごヒゲを生やした長髪の若者たちとすれちがう。裾の広いズボンを穿き、踵の高い靴を履いている。
「アングラ、フーテン、パンタロン、サイケデリックか。おまえには似合わないな」
「流行ね―真実で露骨であろうとすること、正直で潔白であろうとすること、弱点を包み隠さず、自分の考えにいつも懐疑的であろうとすること……そういう姿勢と正反対のものだね。風潮は生命の根源を濁すものだ。利便さというのは多少マシな風潮だけど、ミーハーの流行なんてものは、役立たずなものだ。ぼくにはいっさい影響がない」
「はいはい。ときと場所を選んでしゃべったほうがいいぞ。ちょっと頭の整理しておきたいんだが、素ちゃんと、先生と、滝澤節子。カズちゃん以外はそれだけだな」
「山本法子が武蔵境に出てきてる」
「ああ、天神山のアパートで一瞬会ったやつな」
「うん。本を読めと、おまえが言った」
「本よりは会話が重要だとわかってるが、女は質のいい男と話すチャンスはなかなかないんでな。せいぜい、会話してやれ。ときどきラビエンにも飲みにくるようにってな」
「うん。―あの一階の隅の部屋だ」
 うなずくが玄関に入ろうとしない。
「わかった。電話は?」
 手帳にメモし、切り取って渡した。よしのりは手を振って帰っていった。
部屋に戻って机に向かい、竜馬一巻を読了し、マラマッド短編集の『最初の七年間』を熟読した。途中、カズちゃんからあしたの時間の確認の電話が入った。
グローブを磨く。十一時半、一日の疲れに満足して床に就いた。

         †
 十三日土曜日。快晴。南阿佐ヶ谷ランニング往復。
 九時。十一・七度。微風。ワイシャツに空色のブレザーを着る。ふだん足は革靴で締めつけないほうがいいと思いつき、白鼻緒の下駄を履き、ダッフル担いで自転車で出る。南阿佐ヶ谷駅前で立ち食いそば。ホームの売店の新聞の見出しを眺める。たかが身内同士の練習試合なのに、

 
怪童紅白戦で三ホームラン

 といったような見出しで、ほとんどの主要紙のスポーツ欄を飾っている。ここまでの順調さに戦く。凝ったような不安がいつも胸にある。
 赤門前にバスが二台停まっていた。東大球場グランドにはすでにユニフォームに着替えた部員たちが、鈴下監督といっしょに私を待っていた。無番のスタンド応援組は、とっくに電車で出発したということだった。ブレザーに下駄姿の私をみんなでしみじみ見つめる。感想は言わない。
 報道関係者はまったくいなかった。私はロッカールームで東大のユニフォームに着替え、空色のスパイクを履き、監督に渡された新品の手提げバッグはロッカーにしまって、タオル類とグローブとスパイクの詰まったカズちゃんのダッフルを肩に担いだ。三本のうち一本のタイガーバットをバットケースに納め、予備の二本のバットは控えのレギュラーの風馬が持った。
 バックネット前で監督を中心に円陣を組む。
「いよいよきょうから春季リーグ戦の開始だ。昭和四十三年四月十三日。昭和二十二年の二位を最後に、二十年間四十季ほとんど最下位というわが東大が、奇跡の再生を果たして六大学のお荷物の地位を脱する記念となる出発の日だ。この日を覚えておこう。先発メンバーを発表する。非出場組は適宜授業に出るか、練習をするかしながらわれわれの帰りを待つ、あるいは都合が悪ければ待っていなくてもよいし、ユニフォームでスタンドへ応援にきてもよろしい。練習をする場合はコーチの指示に従うように。では白川マネージャー」
 眼鏡をかけた角刈りが進み出て、
「教育学部四年、身体教育学専攻の白川です。あらためて自己紹介になりますが、これから一年間、チーフマネージャーとしてみなさんのお世話をさせていただきます。私のほかにサブマネージャーは、黒屋、上野、鈴木の三人です。部長の仁、副部長の岡島、助監督の西樹、主務中川、副務奥野、コーチは四名のうち、細木原(ほそきばら)と兼(けん)の二名が同行します。では、先発メンバーの発表です。一番センター中介副将、二番セカンド磐崎、三番サード水壁、四番レフト神無月、五番キャッチャー克己主将、六番ファースト臼山、七番ショート大桐副将、八番ライト横平、九番ピッチャー有宮。控えはそれぞれのポジションに二名から四名。名前は交代があった場合に発表します。なお、公式戦では、ヘルメット着用は任意です。上野、鈴木、まだヘルメットを所持していないレギュラーと準レギュラーに配って」
「はい。鉢の大きさはあらかじめ聞いてあるので、ピッタリのはずです」
 上野が言う。鈴木睦子が段ボール箱からピカピカのヘルメットを取り出して渡す。ショート控えの野添、センター控えの岩田、投手控えの一年生那智の四人だった。内部にクッションが貼られ、左側頭部に背番号がプリントしてある。かぶってみると、たしかにピッタリだった。四人、顔を見合わせて笑う。白川がつづける。
「ヘルメットはバッグにしまってください」
 そのためのバッグだったのか。上野詩織が部室に私のバッグを取りに走った。
「それでは、赤門前から外堀通り経由で明治神宮球場に向かいます。三十分ほどで着きます。神宮球場初体験の新入生、新レギュラー、スタッフに申し上げます。われわれの第二の、いや、第一のふるさとになるであろう場所です。そこへ青春を捧げにいきましょう」
 気障な言葉に監督や選手たちが苦笑している。私は白川が好きになった。


         二十九 

 大型バスが赤門前から春日通りを渡り、本郷通りを右折して外堀通りへ出る。途中に後楽園球場が見えた。私は、
「後楽園の両翼は九十メートルしかないから、ホームランが出にくいようにへんな形にしてあるんですよ。レフトからライトまで二メートルのフェンスが、ポール際だけ四メートル七十センチになってるんです。クッションボールを捕るのは難しいだろうなあ」
 克己が、
「金太郎さんは奇妙なことを知ってるな」
「小っちゃいころは、そういうことを覚えるのが趣味でしたから」
 中介が、
「両翼が最長の球場と最短の球場は?」
「宮城球場、百一メートル五十センチ、後楽園球場、九十メートル」
「こりゃ、すごいや」
 神田川沿いに走る。東京理科大、法政大学、自衛隊市谷駐屯地。いちいち部員が教えてくれる。ビル、ビル、ビル。やがて民家が多くなる。四谷から東宮御所を左手に見て神宮外苑へ。国立競技場をはるか前景にして、神宮球場正門に到着。三塁側入場口にバスをつける。新聞記者がフラッシュを焚きながら波のように寄せてくる。彼らはここにいたのだ。細木原コーチが、
「先攻後攻決めはジャンケンじゃないよ。あらかじめ日程を組んだときに連盟が決めてるんだ。一回戦は先攻だ。ベンチは三塁側。二回戦、三回戦は交互になる」
 レギュラーにはわかっていることなので、彼は私に説明しているのだ。
 選手通用口からダッグアウト裏の控え室に入る。報道陣はシャットアウト。驚くほど簡素な設備だ。室内の周囲に黒い長椅子がめぐらされていて、合成板の簡易テーブルにポットと湯呑み、室の端に小さな洗面台とトイレがある。何のために使うのか、部屋の真ん中に緑の革を張った長ベンチが置いてある。デッドボールでも食らった選手を安静にして横たえるためだろうか。隣の部屋は明るいロッカールームになっていて、壁沿いにロッカーがずらりと並んでいる。ここにも部屋の真ん中に、使途不明の簡易合板テーブルが縦に二つくっつけて置いてある。食事用かもしれないが、椅子がない。
「殺風景なものですね」
 克己に言うと、笑いながら、
「東大のロッカールームよりはマシかな」
 鈴下監督が、
「有宮と台坂と村入は、室内練習場へ」
 三人が廊下を跨いだ室内投球練習場へ走った。
「バッターはフリー打撃の練習にいってよろしい。明治の練習が終わってからだよ。ケージは二つあるので自由に使うように。三井と森磯はバッティングピッチャー」
 私は、
「あの、フリーをやらなくてもいいですか」
「金太郎さんは好きにしろ。研究されたくないんだな」
「いえ、からだをほぐしたいんで。バッティングは本番で」
「わかった。試合開始直前の八分ずつが守備練習だ。東大が後だ」
「明治のピッチャーは池島か浜野ですね」
「たぶんね。どちらも四年生だ」
 副将の中介が、
「打線は、去年までは高田がいたからまとまりがあったけど、今年は怖くない。怖いのは島岡監督の顔だよ。ゴリラみたいだぞ」
 長い二列の背つきベンチの並んだ豪華なダッグアウトに入る。青高の野ざらしの石のベンチを思い出す。ヘルメット棚にヘルメットを並べて置く。部長やマネージャーやコーチたちが、後部の空間に立って控える。ベルトとスパイクの紐の締まり具合を確かめ、帽子をしっかりかぶってグランドに出る。フラッシュがいっせいに光る。内野の土と外野の天然芝のコントラストが鮮やかに目に飛びこんできた。三万五千人収容できるスタンド。七分の入り。壮観だ。両翼九十八メートル、センター百二十メートル、左右中間百十二メートル。内外野スタンドのフェンスや危険防止金網にも、外野芝生席のフェンスや、場外へ飛び出す打球を防止する五メートルほどの板壁にも広告表示がいっさい施されていない。目に涼しい。助監督の西樹が、
「五年間ラッキーゾーンが設置されてたんだが、去年外された。すっきりしたよ」
 試合開始一時間前。明治チームがバッティングケージに入る。ライナー性の打球ばかりで、なかなかスタンドに入らない。青高よりはマシだが非力だ。二十分で交代した。東大チームの打球は、ゴロか外野の前に飛ぶヒョロヒョロしたフライがほとんどだ。外野でランニングしている敵の一群がある。からだの造りが東大とはまるきりちがう。大きい。東大チームで百七十五以上あるのは、台坂を筆頭に私と臼山ぐらいで、あとはみな百七十そこそこか、それより小さい。何よりも細い。
 一、三塁ベンチ上の応援団とブラバンがザワザワしている。顔をネット裏の席へめぐらしたとたん、テレビカメラの下に六人の男女の顔がきらめいて目を射った。山口、カズちゃん、素子、節子、キクエ、法子。私は六人の〈ファン〉たちに手を振った。振り返してくる。ゆっくりとカメラレンズが巡る。最前列に村迫球団代表一行の姿があるのに気づいた。私は彼らにからだを折った。村迫は意識して挨拶を返さなかった。そうしなければならないことを私は承知していた。
「金太郎さん、やっぱり打って見せてくれ。やつら笑ってやがる。名誉挽回だ」
 鈴下監督が言うので、ヘルメットなしでケージに入った。たちまちフラッシュの嵐になる。明治ベンチが注目する。島岡監督の短軀がベンチ脇に出できて、腕組みして立った。
「三井さん、直球だけ五球お願いします」
 彼が投げるストレートはお辞儀をするので、すべて低目にくる。四本スタンドに叩きこみ、一本危険防止壁の外へ運んだ。大歓声がほうぼうで沸き上がり、どよめきになって広い球場に反響した。
「度肝を抜かれたな。神宮の場外ホームランて、百五十メートルは飛ばないとだめだと言われてて、歴代でだれ一人打ったことがなかったんだよ」
 克己が言う。私自身も、打球がピンポン玉のように飛んでいったので仰天した。背が数センチ伸びたくらいで筋力は二年前と大差ないと思っていたが、こつこつ鍛練をつづけてきたおかげでかなりパワーアップしていることが体感できた。
 ビヤ樽のようなユニフォーム姿の島岡監督の一声で、明治大学チームがベンチ前に集まる。
「金太郎さん、なめられなくてすんだよ」
 鈴下監督が言う。臼山が、
「去年は、春秋で一勝二十敗。十二連敗のあと一勝して、また八連敗。ここで二連勝して勝ち点を上げたら、東大野球部史上初だ。金太郎さん、何かアドバイスがあったらドンドン言ってくれ」
「どうせ負けるなら、一回からぶん回していきましょう」
「賛成!」
 横平が叫んだ。監督が手のひらにこぶしを打ちこんで、
「よーし、ふだんやらないことをやってみよう。いいな、克己、中介、大桐」
「はい!」
 副将の大桐が少し渋った顔をした。気にかかった。よんどころなく個人の才能が関わってくる野球のような世界では、たがいに疑いを抱いたり、いがみ合ったり、肉を噛み合うような暇なことをしていては、才能ある個人が萎縮する。つまり、チーム力が沈滞して勝てない。そのことを大桐に知らせてやりたい。平凡な人間が自己主張することは許されないのだ。工夫しようとしない彼らの怠惰と雷同が、これまで東大に勝利をもたらさなかったことを、身を挺して教えようとする人間に反撥してはならない。私と彼らの共通点は個人としてそれなりの命数が定まっているということだけだ。生きているあいだの才能は平等ではない。
 三塁側東大応援団の太鼓が聞こえてきた。見ると、吹奏楽団を背後に控え、五人の学生服が三塁後方の内野席の板敷きの演壇に後ろ手で立っている。一段上の席で、六人目が大きな校旗を支えている。彼らの横に大太鼓が一つ据えられ、学生が一人、やはり後ろ手で構えている。応援団の周囲には五十人余りの観客しかいないが、ところどころにポツンポツンと学生服の立ち姿が雑ざり、十数人もいる。団長らしき学生服が観客に向かってなにやら叫んでいる。立ち居が青高よりも荘重で華やかだ。
 試合開始二十分前。明治大学の守備練習。部長と副部長が、
「おい、見てみろよ、すごいな」
「はあ、二万五千人を超えましたね。長嶋以来じゃないですか」
 味方ベンチもざわつきはじめた。
「信じられない。こんな大勢の観客の中で野球ができるなんて」
 ふだん物静かな水壁が言う。明治大学のスタンドが数千人にふくれ上がっている。応援団が派手なパフォーマンスをしはじめる。東大側三塁スタンドを見ると、いつのまにか観客が百人くらいに増えてはいるが、それでも球場全体でその区画だけがガラガラの空間に見える。中介が、
「あの満員の外野スタンドにホームランを打てたらなあ。うれしくて、その場で即死だ」
「ホームランは簡単に打てます。コツはたった一つ。いつも、好きなコースを思い切り振ることです。一年あります。かならず打てます」
 私は本気で言う。明治の内野が華麗な守備を披露している。練習中にエール交換が始まった。球場内が騒々しくなった。
「守備は、エラーをせずに、一個、一個、アウトを取ればいいだけのものです。墓穴を掘らないためには、じょうずでなくちゃいけません。しかし、あくまでも守りのじょうずさです。そんなものいくらじょうずになったって、試合には勝てません。ファインプレーよりも、打撃です。打たなければ勝てません。よくボールを見て、しっかり振っていきましょう」
「オス!」
「オース!」
 青森高校よりも一人一人素朴な感じがした。これまで必死に野球だけをやってきた連中が皆無だからだ。
「よし、兼コーチ、ノック!」
 ジャージ姿のノッカーがフィールドに出る。東大の守備練習。いまの言葉が効いたのか、みんな腰を落としてしっかり捕球し、しっかり返球している。どうのこうの言っても、中学生よりはマシなのだ。私は深い外野フライの一本目を二塁へ一直線に返し、二本目を低い軌道でホームへノーバウンドで返した。ネット裏とレフト側の外野スタンドと百人の三塁内野スタンドが沸いた。克己のミットさばきに見どころがあった。島岡が目を輝かせていた。
 ウグイス嬢が東大のスターティングメンバーを発表する。打順、守備位置、クンづけの名前、出身校高名と告げていく。私のところで球場全体に喚声が上がった。ネット裏の女五人が立ち上がって、
「キョウちゃーん!」
 と声を合わせた。つづいて明治のラインアップ。マウンドに登ったピッチャーは池島だった。私は声を張った。
「まず投球練習を見て、スピードと自分のタイミングをイメージしましょう!」
 ベンチ全員で池島の投球を見守る。
「ストレートは、百三十二、三キロ。スライダー、カーブは百十キロ前後です。スライダーは打ちにくい。直球かカーブに絞って、思い切りひっぱたきましょう」
「オィース!」
 明治応援団のかしましさ、ブラバンの荘重さ、半トレパン穿いたバトンガールたちの登場。サイレンが鳴る。審判六人がホームベース前に立ち並ぶ。両チームの選手が走っていき、ホームベースとマウンドのあいだに相対して整列する。主審の、礼! の声に、審判団ともに深々と礼。明治チームが守備に散った。東大スタンドの応援がうるさくなる。
「プレイボール!」
 審判が右手を上げた。中介がバッターボックスに向かう。四年間の自信のなさが滲み出ている背中だ。東大の応援団長が演壇に上り、怒鳴り声を上げ、手と足を使ってきびきびと動きはじめた。応援歌らしきものを客席に強要するが、足並みが揃わない。ぼんやりとブラスバンドの響きも聞こえてくる。これではだめだ。
「黒屋さん、応援歌の歌詞、わかりますか」
「『闘魂は』なら、いま書けます」
「手帳に書いて、あとでください。メロディのない念仏みたいなつまらない歌だけど、歌詞を知っておいたほうが耳に入りやすい。あんな念仏聞かされたんじゃ、だれも覚えられない。ほかの五大学は応援歌で勝ってるところがある。東大も念仏をやめて、ああ玉杯を唄ったほうがよほどいい。さもなければ、巷の流行歌を唄えばいいんですよ。上を向いて歩こうとか、二人の銀座とか、若者たちとかね。応援団とブラバンに提案しておいてください。応援も足並みを合わせたほうがいいに決まってる」
「わかりました!」
 うれしそうに応えた。中介が初球を叩き、セカンドゴロエラーで出塁した。しっかりミートして強い打球を飛ばしたせいだ。おそらく出塁自体がめずらしいからだろう、ベンチじゅうが拍手喝采になる。部長が叫んだ。
「よし、つづけ!」
「イケイケイケー!」
「オエオエオエー! イグゼイグゼイグゼー!」
 私も青高時代のかけ声を思い出して叫んだ。ベンチの何人かがオエオエと呼応した。磐崎はカーブを強く叩いたけれども、先っぽだったせいでボテボテと三遊間に転がった。二塁フォースアウト。一塁セーフ。私は手を叩き、
「ゲッツーにならなかった。ついてるぞ! 克己キャプテン、ここで水壁さんがヒットで出たら、きょうの試合は勝てますよ」
「ほんとか!」
 ベンチ全員が色めき立った。
「ぼくは、きょう、三本はホームランを打てると思います。大差勝ちしましょう」
 ベンチが信じられないという顔で、ウオー! と声を上げた。


         三十  

 鈴下監督が、
「よし、水壁、いけ!」
 水壁はツーワンから内角のストレートを強振し、詰まった当たりが左中間の浅いところにポトンと落ちた。捕られると思った磐崎は二塁で止まった。
「勝ちました!」
 私は叫んだ。半信半疑の顔でベンチも騒ぎ立てる。
「金太郎さん、頼んだぞ!」
 監督が興奮して大声を上げた。金太郎さん、金太郎、とベンチが呼応する。ブラバンと太鼓の響き。念仏の声が高まる。
 初球、すっぽ抜けのカーブが顔のあたりにきた。苦手な高目だが、ハッシと叩く。
 ―よし、いった!
 ドライブのかからないボールが上空へ舞い上がる。センターとライトが一、二歩追いかけようとしてすぐあきらめた。茫然とボールの行方を見つめている。打球はライトスタンド場外の照明灯の柱に打ち当たった。
「ウオーッ!」
 荒波のような歓声が巻き起こり、球場全体に拡がっていった。ものすごい数のフラッシュが焚かれる。
「キョウちゃーん!」
 素子がネット裏から発したドスの効いた声が、三塁側のスタンドに感染し、歓声を引き連れてレフトの外野席まで雪崩れていった。私は速力を増しながらダイヤモンドを回った。拍手と喚声の中で、まるで二年間の運動不足を解消しようとするかのようにスピードを上げる。顔見世の第一号ホームランだ。チームメイトの出迎えを手で制し、カズちゃんたちに片手でピースサインを示しながら、ベンチへ走りこんだ。青高と同じように、だれかれとなく抱きついてくる。監督や助監督が握手を求める。百人ほどの三塁スタンドが狂乱状態になる。三対ゼロ。
「金太郎さん、見せてもらったよ、すごいなあ!」
「驚くべきものを見た。あんなのをこれから何本も見れるんだな」
「いまの、何だったんだ!」
 大桐と磐崎がまだライトスタンドを見つめている。こういう打球をだれも見たことがなかったようだ。このとき私は初めて、自分の人生が有卦に入ったと感じた。
「ドンドン点を取っていきましょう! ホームランを狙えば長打になります」
 鈴下監督が私の大声にうなずき、パンパン手を拍ちながら、
「よっしゃ、克己、ホームランを狙え。いままでやったことのないことをやるんだ!」
「オォス!」
 克己はコチコチになって、低く構えた。初球高目のスライダー。ブンと振り、ファールチップがバックネットへ。ボールをよく見ないで強振している。
「上から見て! 落ちるところを掬い上げて!」
「ウエ、ウエ、ウエー!」
「イグゼ、イグゼ、イグゼー!」
 東大生たちは持ち前の学習能力で、あっというまに自他を鼓舞するかけ声をマスターしてしまった。池島はストレートをやめて打たせて取る変化球一本で攻めようと決めたらしく、またゆるいスライダーを外角へ落としてきた。克己は球筋をしっかりと上から見て、落ちるところを片手で掬った。ライナーが一、二塁間を抜いていく。三塁内野スタンドが狂喜乱舞している。上背のある臼山がひょろりと打席に立った。外角低目のカーブ。空振り。掬い上げることが不得手だと一目でわかった。私は叫んだ。
「叩け! 臼山さん、叩きつけろ!」
 内角の高目にくることを願った。叩きつければ三遊間か三塁線を抜く可能性が高い。ストレートが真ん中低目にきた。叩きつけた。高く弾み、ワンバウンドでピッチャーの頭を越えてセンターへ転がった。
「いった、いった、いったァー!」
 私はうれしくてベンチで足踏みをした。
「ウエ、ウエ、ウエー!」
「イグゼ、イグゼ、イグゼー!」
 ワンアウト一塁、二塁。ベンチがお祭り騒ぎになった。副将の大桐がバットを寝かせて低く構えた。三球ボールを選んだ。なぜか慎重になっている。二球つづけて外角のストレートがギリギリのコースに決まって、ツースリー。私は声を張り上げた。
「ブンブンいけ!」
 六球目、ボール。大桐は一球も振らずにがまんして、四球で出た。ワンベースをモギ取ったという爽快な顔をしている。長いあいだについた習性だろうが、これはよくない自己防衛だ。味方の士気を奪う。
「克己主将、大桐副将の消極性を注意することはできませんか。味方が勢いに乗っているとき、フォアボールを選んでも何にもならないんですよ。それなら思い切り振って凡打したほうがいい。ベンチが盛り上がる」
 私はベンチの全員に聞こえるような大声で言った。
「……あいつは文Ⅰでね。遊びのつもりで野球をやってるんだ」
「見たところ、そんな余裕があるようには見えないですね。凡打するのが恥ずかしいんでしょう。そんな気持ちでいると、バッティングチャンスでも彼はフォアボールを選ぼうとするようになりますよ。何でもかんでも振っていく仲間に対するルサンチマンも積もります。意地悪い感情で応対されたら、ぼくもバントと短打の人に転身しますよ」
 思わぬ脅しをかけた。監督が首を振って、
「あしたから大桐の練習はバッティング以外させるな」
「守備が華麗だということはくれぐれも褒めてください。フォアボールを選ぶ姿勢はその華麗さに見合わないと」
「わかった。勝利のためだ。みんなもいいな。バッティング練習を増やしたいやつは、好きなだけ増やせ」
「はい!」
「たがいに信じ合うことは、闘う背骨になります」
 左打者の横平がバットを短く持ってバッターボックスに立った。初球、ゆるいカーブをバットで迎えにいって一塁線ファール。彼はファーストまで少し走塁距離の短い利点を活かして、チョコンとボールをバットに当てて塁に出ようとする。そのくせ大して足も速くない。紅白戦でもその特徴は顕著だった。監督が怒鳴った。
「横平、振りまくれ!」
 びっくりしたように横平が膝もとのボールを叩きつけた。すごい勢いで打球が一、二塁間を抜いていった。横平はぼんやり一塁で立ち止まろうとした。
「走れ! 走れ!」
 私はベンチ前に跳び出て叫んだ。スピードの乗った打球が白線のほうへ逸れていく。二塁打コースだ。飛び出してきた私の姿に驚き、横平は背中を丸めて走り出した。私は腕をぐるぐる回してほかのランナーに合図した。彼らも猛スピードで走り出した。ライトがクッションボールを誤り、お手玉をしているあいだに三人のランナーがホームインした。横平は三塁へ頭から滑りこんだ。六対ゼロ。
「もう一点! 監督、スクイズ」
「オッケー、有宮、スクイズ」
「わかりました!」
 有宮はセカンド前にやすやすとスクイズを決め、横平はホームベースに猛然と滑りこんだ。有宮は一塁から跳びはねて戻ってきた。七対ゼロ。中介は強振が板について、高いレフトフライだった。いい傾向だ。チェンジ。
 私は全速力でレフトの守備位置まで走った。三点を叩き出した横平は私をまねて、空を眺めるようにあごを上げて走った。中介も背中を丸めて走った。大歓声が上がった。かぎりなくフラッシュが光る。パシャパシャというシャッターの音も重なり合って聞こえてくる。炭がはぜるような音だ。私はライトの守備位置まで走っていって、横平の周りを一周しながら、
「先輩には長打力があります。もっとバットを長く持ってください」
 と声をかけて、また全速でレフトまで戻った。横平は、
「ヘオー!」
 と素っ頓狂な声を上げて応えた。
 もちろん、七点は有宮の力では安全圏ではなかった。
 結局、有宮と継投の台坂は小刻みな反撃に遭って九点取られたが、東大が私のツーラン二本で四点取り返し、十一対九の二点差で勝った。三回から継投した明治の浜野は、私のホームラン以外には得点を許さなかった。一本はライトポールを巻き、もう一本はバックスクリーン上の通路に飛びこんだ。最終打席は右中間フェンスを直撃する二塁打だった。つまり私だけに頼りきった勝利だった。優勝は遠い。
 村迫一行が姿を消したネット前へ走っていって、山口やカズちゃんたちにピースサインを掲げた。彼らも同じサインで応えた。
「キョウちゃん、すてきー!」
 吉永先生が叫んだ。
「神無月くん、愛してるゥ!」
 法子が叫んだ。スタンドが温かく笑った。山口とカズちゃんと素子は、大きく笑いながら、ただただ拍手していた。記者やカメラマンたちがインタビューに走ってきた。私はあわててベンチに駆けこんで、マネージャーたちの陰に隠れた。二人のコーチもいっしょになってうれしそうに私を隠した。人垣の肩口から、島岡監督がマイクやカメラを手で払いながら、浜野たちを集めて叱り飛ばしているのが見えた。叱る余裕があるということは試合結果にショックを受けていない証拠だ。私を封じこめさえすれば、あと二試合は勝てると踏んでいるのだ。あしたはかならず秘密兵器を出してくる。ピッチャーがたった二人しかいないはずがない。インタビューを受けていた監督が私を手招きした。
「きょうだけ、頼む!」
 拝むように手刀を顔の前にかざしている。私はマネージャーやコーチたちに道を空けられ、インタビューアーの前にのろのろ歩いていった。取材のアナウンサーがスリコギのようなマイクを突き出してきた。
「ついに怪物始動ですね。初打席初ホームランの感触はいかがでしたか」
「少し真芯の感じでした。不得意なコースでしたが、うまく叩けました」
「これに勢いを得て、一泡吹かせるどころか、残り試合ぜんぶ勝ってほしいというのが東大ファンの胸の内じゃないかと思うんですが」
 東大にファンなどいるのか。
「やってみないとわかりません。でも、チームの調子は文句なしです。打撃は素質のあるバッターばかりだし、ピッチャーは、こつこつ肩を強くする訓練でどうにかなると思ってます。しばらくは打線の爆発を信じて、一つでも多く勝ちたいです。じゃ、ぼくはこのへんで」
 マイクは仲間たちに移り、克己に向けられた。
「すばらしい打撃戦でしたね」
 彼はアンダーシャツの袖で額の汗を拭きながら、
「神無月デーですよ。しばらくはそれがつづくでしょう。ぼくたちが猛特訓しないと、彼一人に負んぶに抱っこのチームなってしまう。早く神無月に追いつかないと。いや、彼に追いつくのは無理だ。迷惑をかけないようにしないと」
 殴り書きするように記者のペンが素早く動く。
「あしたの予想はどんな具合ですか」
「どう思いますか」
 克己は逆に訊いた。顔に抑えがたい喜びがあふれていた。記者が答えないので、
「ひょっとしたら勝つかもしれないと、期待を持ってもらえるようになったことが、弱小東大チームにとっては信じがたい大進歩です。チームの調子はいいので、あとは運だけです。個人的には、神無月のホームラン記録がどこまで伸びるかが興味津々です。彼の一本一本のホームランが、東大の汚名を少しずつ雪(そそ)いでくれる気がします。ぼくたちは、わがチームに降臨した神無月についていきます」
 鈴下が記者の群れから離れ、バスに乗るぞと全員を手招きした。マイクがしつこく追ってきてさまざまな質問を浴びせたが、みんな逃げるように引き揚げた。



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