三十一

 副将の大桐がバットを寝かせて低く構えた。三球ボールを選んだ。なぜか慎重になっている。二球つづけて外角のストレートがギリギリのコースに決まって、ツースリー。私は声を張り上げた。
「ブンブンいけ!」
 六球目、ボール。大桐は一球も振らずにがまんして、四球で出た。ワンベースをモギ取ったという爽快な顔をしている。長いあいだについた習性だろうが、これはよくない自己防衛だ。味方の士気を奪う。
「克己主将、大桐副将の消極性を注意することはできませんか。味方が勢いに乗っているとき、フォアボールを選んでも何にもならないんですよ。それなら思い切り振って凡打したほうがいい。ベンチが盛り上がる」
 私はベンチの全員に聞こえるような大声で言った。
「……あいつは文Ⅰでね。遊びのつもりで野球をやってるんだ」
「見たところ、そんな余裕があるようには見えないですね。凡打するのが恥ずかしいんでしょう。そんな気持ちでいると、バッティングチャンスでも彼はフォアボールを選ぼうとするようになりますよ。何でもかんでも振っていく仲間に対するルサンチマンも積もります。意地悪い感情で応対されたら、ぼくもバントと短打の人に転身しますよ」
 思わぬ脅しをかけた。監督が首を振って、
「あしたから大桐の練習はバッティング以外させるな」
「守備がじょうずだということはくれぐれも褒めてください。フォアボールを選ぶ姿勢はそのじょうずさに見合わないと」
「わかった。勝利のためだ。みんなもいいな。バッティング練習を増やしたいやつは、好きなだけ増やせ」
「はい!」
「たがいに信じ合うことは、闘う背骨になります」
 左打者の横平がバットを短く持ってバッターボックスに立った。初球、ゆるいカーブをバットで迎えにいって一塁線ファール。彼はファーストまで少し走塁距離の短い利点を活かして、チョコンとボールをバットに当てて塁に出ようとする。そのくせ大して足も速くない。紅白戦でもその特徴は顕著だった。監督が怒鳴った。
「横平、振りまくれ!」
 びっくりしたように横平が膝もとのボールを叩きつけた。すごい勢いで打球が一、二塁間を抜いていった。横平はぼんやり一塁で立ち止まろうとした。
「走れ! 走れ!」
 私はベンチ前に跳び出て叫んだ。スピードの乗った打球が白線のほうへ逸れていく。二塁打コースだ。飛び出してきた私の姿に驚き、横平は背中を丸めて走り出した。私は腕をぐるぐる回してほかのランナーに合図した。彼らも猛スピードで走り出した。ライトがクッションボールを誤り、お手玉をしているあいだに三人のランナーがホームインした。横平は三塁へ頭から滑りこんだ。六対ゼロ。
「もう一点! 監督、スクイズ」
「オッケー、有宮、スクイズ」
「わかりました!」
 有宮はセカンド前にやすやすとスクイズを決め、横平はホームベースに猛然と滑りこんだ。有宮は一塁から跳びはねて戻ってきた。七対ゼロ。中介は強振が板について、高く上がるレフトフライだった。いい傾向だ。チェンジ。
 私は全速力でレフトの守備位置まで走った。三点を叩き出した横平は私をまねて、空を見上げるようにあごを上げて走った。中介も背中を丸めて走った。大歓声が上がった。かぎりなくフラッシュが光る。パシャパシャというシャッターの音も重なり合って聞こえてくる。炭がはぜるような音だ。私はわざわざライトの守備位置まで走っていって、横平の周りを一周しながら、
「先輩には長打力があります。もっとバットを長く持ってください」
 と声をかけて、また全速でレフトまで戻った。横平は、
「ヘオー!」
 と素っ頓狂な声を上げて応えた。
 もちろん、有宮の力では七点は安全圏でなかった。結局、有宮と継投の台坂は明治大学の小刻みな反撃に遭って九点取られたが、東大が私のツーラン二本で四点取り返し、十一対九の二点差で勝った。三回から継投した明治の浜野は、私のホームラン以外には得点を許さなかった。一本はライトポールを巻き、もう一本はバックスクリーンの上の通路に飛びこんだ。最終打席は右中間フェンスを直撃する二塁打だった。つまり私だけに頼りきった勝利だった。優勝は遠い。
 村迫一行が姿を消したネット前へ走っていって、山口やカズちゃんたちにピースサインを掲げた。彼らも同じサインで応えた。
「キョウちゃん、すてきー!」
 吉永先生が叫んだ。
「神無月くん、愛してるゥ!」
 法子が叫んだ。スタンドが温かく笑った。山口とカズちゃんと素子は、大きく笑いながら、ただただ拍手していた。記者やカメラマンたちがインタビューに走ってきた。私はあわててベンチに駆けこんで、マネージャーたちの陰に隠れた。二人のコーチもいっしょになってうれしそうに私を隠した。人垣の肩口から、島岡監督がマイクやカメラを手で払いながら、浜野たちを集めて叱り飛ばしているのが見えた。叱る余裕があるということは試合結果にショックを受けていない証拠だ。私を封じこめさえすれば、あと二試合は勝てると踏んでいるのだ。あしたはかならず秘密兵器を出してくる。ピッチャーがたった二人しかいないはずがない。インタビューを受けていた監督が私を手招きした。
「きょうだけ、頼みます!」
 拝むように手刀を顔の前にかざしている。私はマネージャーやコーチたちに道を空けられ、インタビューアーの前にのろのろ歩いていった。取材のアナウンサーたちがスリコギのようなマイクを突き出してきた。
「ついに怪物始動ですね。初打席初ホームランの感触はいかがでしたか」
「少し真芯の感じで、打球がお辞儀するのが心配でした。不得意なコースでしたが、うまく叩けました」
「これに勢いを得て、一泡吹かせるどころか、残り試合ぜんぶ勝ってほしいというのが東大ファンの胸の内じゃないかと思うんですが」
 東大にファンなどいるのか。
「やってみないとわかりません。でも、チームの調子は文句なしです。素質のあるバッターばかりだし、ピッチャーは、こつこつ肩を強くする訓練でどうにかなると思ってます。しばらくは打線の爆発を信じて、一つでも多く勝ちたいです。じゃ、ぼくはこのへんで」
 マイクは仲間たちに移り、克己に向けられた。
「すばらしい打撃戦でしたね」
 彼はアンダーシャツの袖で額の汗を拭きながら、
「神無月デーですよ。しばらくはそれがつづくでしょう。ぼくたちが猛特訓しないと、彼一人に負んぶに抱っこのチームなってしまう。早く神無月に追いつかないと。いや、彼に追いつくのは無理だ。迷惑をかけないようにしないと」
 殴り書きするように記者のペンが素早く動く。
「あしたの予想はどんな具合ですか」
「どう思いますか」
 克己は逆に訊いた。顔に抑えがたい喜びがあふれていた。記者が答えないので、
「ひょっとしたら勝つかもしれないと、期待を持ってもらえるようになったことが、弱小東大チームにとっては信じがたい大進歩です。チームの調子はいいので、あとは運だけです。個人的には、神無月のホームラン記録がどこまで伸びるかが興味津々です。彼の一本一本のホームランが、東大の汚名を少しずつ雪(そそ)いでくれる気がします。ぼくたちは、わがチームに降臨した神無月についていきます」
 鈴下が記者の群れから離れ、バスに乗るぞと全員を手招きした。マイクがしつこく追ってきてさまざまな質問を浴びせたが、みんな逃げるように引き揚げた。
 帰りのバスで監督が言った。
「金太郎さん、十割、三ホームランだ。もちろん個人としてもお手柄だが、東大野球部のお手柄でもある。マスコミがうるさくなるぞ。きょうは金太郎さんに逃げられたけど、彼らもしつこいからね。リーグ戦のグランドでは、その騒ぎをがまんするしかない。金太郎さん、練習は出たくなければサボってもけっこうだ」
「授業にきちんと失望したので、できるかぎり練習に出ます。報道関係者は気にかけないことにします。いつまでも逃げていられませんから」
「四年間のうちには、ひょっとしたらAクラスを狙えるかもしれんな」
 私の腹案をまだ鈴下監督は知らない。いまここで告げる必要がある。
「狙いは優勝ですよ。自分の都合でものを言ってすみませんが、二年以内の優勝です。優勝したら、中退してプロへいきます。優勝しましょう!」
「優勝か!」
「優勝!」
「優勝!」
 チームメイトたちは、これまで一度も口に出したことがないにちがい単語を叫んだ。心の底では優勝などできるはずがないと思っているので、彼らは私の中退という単語を無意識に聞き逃した。鈴下監督は聞き逃さず、一瞬顔色を青くした。横平がさびしそうに、
「……中退するのか」
「はい、プロにいくために東大にきましたから」
「プロへいくために東大にくるやつなんて、あとにも先にも金太郎さん一人だろうな」
 鈴下監督がさびしそうに呟いた。私は、ホームランを打ってホームインするたびに、村迫球団代表が立ち上がって拍手していたことを思い出した。
「あしたも優勝目指して全力でぶつかりましょう」
「金太郎さんを中退させないためには、四年生まで優勝しないほうがいいんだよな」
 部長の仁が言うと横平は明るく笑った。仁もしっかり聞き留めていたのだ。このときベンチの全員が私の事情を理解した。中退、中退、という囁きがベンチに周回する。四球屋の大桐が私に何か言いかけて、うなだれた。私は言った。話を逸らした。
「大桐さん、人間は万能になれません。ぼくみたいに突発事故で東大に受かったような鈍才とちがって、大桐さんは大秀才です。勉強で失敗することはまずありません。野球以外のことはぜんぶだいじょうぶという気持ちで、余技の野球にも打ちこんでください。バッティングは楽しいですよ。相手のコントロールミスを頼みに、ぼんやりバッターボックスに立っているのはつまらない。もちろんそれが必要な状況もありますが」
 大桐は蒼白の顔を上げ、
「……その話じゃない。それはじゅうぶん反省した。俺も優勝を念頭に置いてガンバルということなんだ。神無月の中退をめでたいものにしたい。しかし、えらく謙虚なことを言うね。きみが文系全体の二番合格だというのは知らない者のない周知の事実だよ。駿台模試も全国一位だったそうじゃないか」
 上野詩織と鈴木睦子が、びっくりして私を見た。
「またそれですか。お勉強は学問じゃありません。要領のゲームです。才能はまったく必要ない。必要なのは、自分ができない問題に解答しない勇気と潔さだけです」
 大桐が語を継いだ。
「きみは万能の天才だ。天才は謙虚であろうと傲慢であろうと、楽しく生きられる。そう願えば、巨利を博することだってできる。産をなして、落魄するのだって格好いい」
 克己が、
「何言ってるんだ、大桐。見当外れなことを言うなよ。本音じゃないだろう」
「本音じゃない。羨ましかっただけだ。金太郎さんの天真爛漫さがね。会った瞬間に嫉妬が湧いてしまったのが悔しくてさ。みんなもそうだろう」
 仁部長がひやひやした顔で、
「とにかく、神無月くんは天才なんだからさ。仕方ないだろう。嫉妬しっぱなしでいいじゃないか」
 私の機嫌を案じているのは明らかだった。私は、
「……楽しくはないですよ、大桐さん。大学野球はクラブ活動ではないですから。才能ありと認められたことをするのは、使命感がつきまとうので楽しくはない。勉強は努力のし甲斐があってけっこう楽しかった。小学校以来、ぼくは鈍才だったんです。先輩たちの野球みたいなものです。先輩たちも、才能のある勉強をするのは楽しくなかったでしょう。だから、不得意な野球を楽しんでください。ぼくが東大に受かるなら、先輩たちも野球で優勝できますよ」
 安堵の拍手が上がった。次々に拍手が伝染した。私が笑うと、笑い声がつづいた。
「優勝だ!」
「その前に勝ち点だろ!」
 大桐も笑っているが、安心はできない。少しでも反発の気配が見えるのだ。ルサンチマンが解消したと考えるのは早計だ。この先私を不快にするのは、大桐だけではないかもしれない。私は不快なものからは逃げる。そこにいる意味がないからだ。不快なものと戦うことはけっしてしない。ほかにもっと貴重な時間の使い道がある。瞬間沸騰は愚か者の餌食になるから、短気も起こさない。
「とにかく、あしたも勝ちましょう。速球ピッチャーか、極端な変化球ピッチャーが出てくるはずです。あした決着をつけなければ、たぶん勝ち点を上げられません。もう一日むちゃ振りしてみてください。みなさんは思いっ切り振ったバットにボールを当てた経験はほとんどないでしょう。硬球は当たれば飛ぶんですよ」


         三十二

 バスが農学部の正門に着いた。みんなで部室に戻って着替えをする。岡島副部長が私の下駄を見つめ、
「うなるくらいの変人ぶりだね。痛快だ」
「ふだん足を解放しておいたほうが、感覚が鈍らないと思いまして」
 鈴下監督が、
「短いミーティングをしたい。ふたことみことある。聞いてほしい」
 と言った。みんな緊張して彼に注目した。
「大桐が奇しくも神無月のことを天真爛漫と評したが、私たちフロントも彼と初めて会ったときは、彼の異常な率直さに当てられた。神無月はなぜ東大にこなければ野球ができなかったか、みんなも得心がいってるはずだ。金太郎さんには幼いころから、私たちには窺い知れない複雑な事情がまとわりついている。それが彼の私的な行動をいまなお複雑なものにしているんだ。野球以外のことはすべてマグレだと、本気で思ってることも含めてね。けっして謙虚に振舞ってるわけじゃない。本気なんだよ。疑ったり嫉妬したりする相手じゃないんだ。部長副部長と三人で阿佐ヶ谷の下宿を訪ねたとき、彼は私たちに念を押すように、野球は自分の唯一の才能で、自分にとっては命だが、定時的な拘束は意に反するので、好きなときに練習に出ることを許可してほしいと願い出た。私たちはうなずいた。天真爛漫につきものの怠惰を多少危惧しながらね。ところがどうだ。思った以上に熱心に練習には出てくるし、本番では期待どおり大活躍するし、きみたちもうれしい悲鳴を上げているだろう。天真爛漫で率直で勤勉な人間だったんだよ。まさに克己の言うとおり、金太郎さんは東大野球部に〈降臨〉したんだよ。何の偏見も持たずに、不満や羨望を捨てて、素直に彼の天真爛漫な翼に乗って大空を舞おうじゃないか」
「オォー!」
 部長も副部長もコーチもマネージャーも、全員揃って声を上げた。大桐が私に握手を求めた。
「空振りはみっともないものじゃないですよ」
「うん。これからはぶんぶん振っていくよ。笑うなよ」
「笑いません。内角を上から叩くと自打球がありますから、気をつけてください」
「選球眼はどうやってつける?」
「好きなコースを一つ覚えこむことです。それが基準になります」
 次々とほかの選手も握手を求める。
「居残って練習したいやつは、バッティング練習をやっていけ。やりすぎるな。早めに引き揚げて、あしたに備えてくれ。じゃ、解散!」
「一勝、バンザイ!」
 臼山が叫んだ。監督とスタッフが部室を出ていくと、私を除いた部員全員がグランドへ駆け出していった。まだ陽は傾いていない。黒屋と上野と鈴木は女子更衣室へ去り、私は少し後ろめたい気分でマネージャーの白川の前で着替えをして、球場をあとにした。白川は朝から詰め襟の学生服を着ていた。
「居残ったほうがよかったかもしれません」
 赤門のところで白川に言った。彼は東大新聞に載せる写真の係も兼ねているので、部室を引き揚げるのがいつも一足早い。
「いや、これでいい。まだ彼らは金太郎さんに圧迫感を抱いてる。神無月くん、きみはたった一日で東大野球部を変えてしまった。ぼくは、きょう起きたことがまだ信じられないし、こんなに希望に燃えたこともない。これまでの東大チームは、まったく勝てない体たらくをこれ見よがしに胸を張って、負けることで確かな知性を認められたいという鼻持ちならないスノビズムがあったんだ。世間評価に甘えてたんだね。でもきょうからは甘えていられなくなった。こんなに豪快に勝てたことをフロックと思われたくないからね。知性なんかいらない、とにかく勝ちたいというシンプルな欲が出てきた。これは大変化だ。もともと彼らは、勉強を後生大事にやることで、生きている充実感を覚えるタチで、野球なんかどうでもよかったんだよ」
「シンプルな欲を維持するには、シンプルな努力が必要です。才能がない場合は、努力の絶対量が勝利の源になります。彼らがグランドに走っていったのは、それがわかったからでしょう。あしたも勝てると思います」
 本郷三丁目の地下鉄の降り口で白川に手を振った。白川は一誠寮へ戻っていった。
 コンクリートの狭い階段を降りていく。東京にきて、地下鉄というものをはじめて知った。名古屋にもあるけれども、乗ったことはなかった。地下につづく階段を降りるときはいつも、光沢のない空に背を向けて、光沢のある闇の中へ融けこんでいくような気持ちになる。
「神無月くーん!」
「神無月さーん!」
 上野と鈴木が背中を追って階段を駆け下りてきた。
「きみたちも丸ノ内線?」
 眼鏡を外した上野が目に力をこめ、
「はい、池袋から渋谷へ出て、井之頭線の神泉です」
「私は南阿佐ヶ谷」
「鈴木さんとそこまでいっしょだね。ぼくはそこから自転車で天沼へ帰る」
「南阿佐ヶ谷駅から国鉄の阿佐ヶ谷駅まで、一キロくらいです。私のアパートからは南阿佐ヶ谷駅のほうが阿佐ヶ谷駅より百メートルくらい近いんです」
「あの近辺ランニングして知ってた。偶然近い場所に住んでたんだね」
 上野の手前、とぼけた。
「じゃ、私はこれで。あしたも、よろしくお願いします」
 上野は手を振って、逆のホームへつづく地下道をくぐっていった。私たちの電車はすぐにやってきた。混んでいる。ドアぎわで立ったまま話をした。睦子は囁くように言った。
「あと三日。……逢いたかったです。逢いたい一心で一生懸命勉強しました」
「とにかくきれいになった」
「歯を治しただけです」
「土台がよかったんだね。……木谷千佳子、どうしてる?」
「青森駅の土産物店で働いてます。二年後に国家試験を受けて、青森市役所に勤めたいって言ってました。国家二種とかいう資格が必要で、二十一歳からしか受けられないから、それまでバイトするって聞きました」
 睦子はやさしく笑い、
「神無月さんのこと好きだったから、私に先を越されて悲しいでしょうね」
「鈴木さんは木谷と親しいからね」
「はい。おたがいの家に遊びにいったりもしてました」
 席が空いたので並んで座った。温かい太腿が触れる。弾力がある。
「山口が法学部にいるよ」
「西沢先生から聞きました。神無月さんとつかず離れず暮らしてるって」
「西荻窪に住んでるんだ。そのうち会えるよ」
「楽しみにしてます。……神無月さんとこうしていられるなんて、夢みたいです。きょうのミーティングも、まるでテレビドラマみたい。毎日が楽しくて仕方ありません」
「アパート?」
「はい。六畳二部屋の。ときどき会いにきてくれますか?」
「うん、いく。近いから、自転車でいける。ぼくのアパートは管理人がうるさいし、マスコミに嗅ぎつけられるとやっかいだからね」
「わかってます」
 客がすいてきた。睦子の声が少し大きくなる。
「毎回インタビュー受けるの、つらいですね」
「これからは、すたこら逃げるつもりだ。鈴木さん……」
「はい」
「―ぼくは、女がたくさんいるよ」
 思い切って言った。
「神無月さんのような人を独占しようなんて、考えたこともありません。……上野さんが言ってました。上野さん、神無月さんと同じクラスらしくて、一度見ただけで、ふるえるほど好きになったんですって。きっといつか―」
「鈴木さんはそんなんでいいの?」
「かまいません。……これからは睦子って呼んでください」
「しっかり二人きりのときにね。睫毛が長いなあ。知らなかった。味噌っ歯で男を撃退してたんだな」
「ちがいます。ずっと気にしてたんです。神無月さんがいつも私の口もとを見てるので、決心しました」
 いっしょに南阿佐ヶ谷で降りた。
「家を確認してから帰る。きょうは何もなし。それは二十三日の火曜日」
「はい」
 階段を昇って地上へ出て、自転車の鍵を開ける。ビル街をしばらくいってから、細道に入った。家並を見通しただけで、このあたりの道筋は記憶できないとあきらめた。どの家も似ていて、特徴のある建物がない。睦子は国鉄阿佐ヶ谷駅の方向へずんずん歩いた。一本道だが、左右の民家の庭に変化があるので飽きない。
「ここです」
 レンガ造りの二階建ての建物を指差す。下に二室、上に二室、たった四室しかない。豪華な感じがする。夕暮れの中で、埋めこまれた表札が福寿ハイツと読み取れた。
「これなら道筋を暗記できる」
「あの二階の左の部屋。見ていきます?」
「いや、ぼくは心の準備を必要とする男だから。火曜日に見る。ここから阿佐ヶ谷駅まで自転車で走って地理を覚えるよ」
 しばらく二人で玄関にたたずむ。
「小粒なマンションだね。風呂つき?」
「はい。一人用の大きなタブです。……私、バージンなんです」
「そんな気がしてた。だいじょうぶだよ、心配しなくても。いずれゆっくりね」
 顔を近づけて、額にキスをする。睦子の肩がブルンとふるえ、私の腰をしっかり抱き締めてきた。
「じゃ、ここから帰るから。あした、一時、グランドで」
「はい。がんばりましょう」
「がんばろう。さよなら」
「さようなら」
 私はダッフルを肩に自転車に跨った。手を振って辻を曲がるまで、睦子は胸の前で手を振りながら見送っていた。
 十分もかからないで阿佐ヶ谷駅に着いた。一瞬、自転車を物陰に置いて電車に乗ろうかと考えたが、そのまま漕ぎつづけて高円寺へいった。高架を見失わないように走った。
 女五人が玄関に飛び出してきた。
「初勝利、初ホームラン、おめでとう!」
「ありがとう! あした、山口は?」
「あしたも、新宿で弾き語りのバイトのオーディションですって。きょうも球場の帰りに出かけていったわ。私たちは、法子さん以外、あしたは日曜出勤」
「節子も?」
「はい、今週と、再来週です。新人の義務。日曜祭日の院内待機という仕事です。日赤はふだん、日曜祭日はお休みなんですけど、新人の看護婦と医師が病院に詰めることになってるんです」
「先生も?」
「勤めはじめたばかりなので、二日連続のお休みはちょっと……」
「だね」
 法子が、
「私は荷物が届いてから職探し。来週初めには届くと思う。基礎作りだから、すぐに水商売には勤めないわ。ふつうの仕事でウォーミングアップしないとね。あしたはここでお留守番」
 素子が、
「またニュースで派手にキョウちゃん映しとったよ。ユニフォーム姿がほかの選手とぜんぜんちがうわ。お人形みたいやった」
「あしたの試合が終わったら、ケーキに蝋燭を立てるわね。二日間のホームランの分。みんなでトリアノンに予約しにいったのよ」
 カズちゃんが三人の女にうなずきかける。素子は笑って、
「蝋燭はあした打つ分は買い足すわ。ケーキに書く文字、キングってのを考えたんよ。ええでしょ? キョウちゃんはいろんな意味でキングやから」
 法子が、
「小学校のころから神無月くんの野球は騒がれてたけど、こういうことだったのね。あんなに簡単にホームラン打ってしまうと、ほかの人がかわいそう。みんな外野へ飛ばすのがやっとなんだもの」
「野球は勉強とちがうんだよ。マグレはつづかない。と言うより、一度のマグレもない。勉強はマグレの連続だ。いい証拠が目の前にいる」
 女たちは顔を見合わせながら笑っている。カズちゃんが、
「節子さん、キョウちゃんのこういうもののしゃべり方を気にしちゃだめよ。稔(みの)るほどコウベを垂れるって気持ちでしゃべってるわけでもないし、照れてるわけでもないの。自分を低く見せようとする病気なのね。……見せようとするというか、ほんとに低く見てる。すごい実績を完全否定されると、ふつうの人は戸惑っちゃうけど、私たちは知らんぷりしてればいいのよ。治療できない病気だから」
「よくわかってます。先週そのことをキョウちゃんに話したばかりです」
 吉永先生が、
「少しずつ慣れてきました。キョウちゃんが大事に思うことって、ふつうの人とちがうんだと思います」
 カズちゃんと素子は、そのとおりというふうにうなずいた。
「法子のアパート、武蔵境だって? これで全員、中央線に勢揃いすることになったね。山口や、よしのりまでいる。そのうち見にいかなくちゃ」
「家じゃなく、私を見にきて」


         三十三

 夕食はハンバーグライスだった。ハンバーグばかりでなく、添え物のジャガイモも生野菜もこの上なく美味だった。めしをどんぶりに二杯食った。最近、朝の排便がだんだん下痢でなくなってきているとふと思った。体質が徐々に変わってきたのかもしれない。
「食パンの割合が大事なんよ。お姉さん、名人やわ」
 節子がキクエの顔を見ながら、
「おいしい。ぜったいこんなふうにできない。心がこもってる」
「和子さんが心こめないことなんか一度もないわ」
「そ、腕よりも心」
 カズちゃんが乳房の上をポンポンと叩いた。
「あたしなんか、炒め物しかできんも」
 素子が鼻に皺を寄せた。
 うまい晩めしを食ったあと、素子の三助で風呂に入り、居間に落ち着いてみんなでテレビを観た。巨人―阪神戦。カラーテレビだが白黒画面。堀内と懸河のドロップ権藤の投げ合い。相変わらず国松がいるのがうれしい。阪神には藤本も並木もいない。吉永先生が、
「土橋校長先生、喜んでくれてるでしょうね」
「うん」
「西高の校長先生ね。恩人の一人」
「恩人はたくさんいるけど、筆頭クラスだ。青高以来、恩人が増えつづけてる」
 節子が、
「感謝することで人生が充実します」
「そのとおりだね。よき偶然への感謝」
 五回土井の一号、七回長嶋の二号。十対ゼロのまま放送は途中で終わり。チャンネルをキイハンターに切り替える。素子が、
「東大はどうなん?」
「何もない。カラッポ。むかしはすばらしい学校だったんだろうね」
 カズちゃんが、
「落第しそう?」
「このままだと確実にね。合格できそうなのは体育と英語だけかな。落第しつづけていれば放校を食らうから、東大をやめるには好都合だけど、おふくろがそういう状況になったら野球にストップをかけにしゃしゃり出てくるだろうから、のんびり落第もしていられない。成績表は親に送付されないらしいけど、どこから話が洩れるかわからない。中退まで野球をつつがなくやりつづけるためには落第しちゃいけないって、きびしく考えたほうがいいかもしれない。……バレさえしなければ野球漬けになれるんだけど」
「たいへんやな」
「二年間は踏ん張らないと」
「もうだいじょうぶよ。中央のマスコミが騒ぎだしたのよ。野球を取り上げられることは二度とないわ。あとはプロとの契約の時期にどれだけ協力者が尽力してくれるかだけよ」
「そこで少しプロ入りが遅れたとしても、一年経てば親の同意が要らなくなる。根本的な恐怖は去ったと思う」
「キョウちゃん、あと二年よ。それが過ぎれば野球だけをして暮らせるのよ。そのあいだは少しでも勉強をしてお母さんを黙らせておいてね」
「うん」
 二人の対話に節子とキクエがうなずいて腰を上げたので、私たちも腰を上げて玄関に出た。さびしい。二人の手を握る。
「とつぜんいくからね」
「いつでも待ってます」
「早番と遅番をまちがえないようにしてくださいね。ドアの前で立ち往生なんて目に遭わせたくありませんから」
「うん。前の週に電話して確認する。来週は?」
 吉永先生が、
「土曜日は出番なので、日曜日の応援にいきます」
 節子が、
「私は、土日は非番です。土曜日に応援したあと、高円寺に泊まっていきます。日曜日も応援にいきます」
 路に立ってみんなで手を振る。居間に戻り、カズちゃんと素子の仕事の慣れ具合や、北村席の繁盛ぶりなどの話をしているうちに、眠くなったのでそのまま居間に蒲団を敷いてもらい、すぐ眠りに落ちた。
         †
 翌十四日日曜日のスポーツ紙に大見出しが載った。

   
初打席初球弾!
     
モンスター六大学リーグ鮮烈デビュー
 
   神宮球場沸騰日米スカウト六十人
 希代のヒーロー誕生の瞬間を二万九千人の観客が目の当たりにした。昨秋ドラフト十二球団一位指名が予測されながら、選考を拒否した神無月郷外野手(18)が、十三日神宮開幕戦の第一打席で鮮烈なデビューを果たした。
 ワンアウト、ランナー一、二塁。池島の初球、顔のあたりにきた高目のカーブを目にもとまらぬスイングで強打。打球はグングン伸びていき場外に立つ照明灯直撃のスリーランとなった。怪物神無月郷がドラフト一位候補の評価を確定させた瞬間だった。観客はこれまで見たこともない弾道のホームランに興奮して総立ちになり、腹の底から搾り出すような歓声を上げた。ネット裏に陣取った国内十二球団、メジャーリーグ三球団の総勢六十一人のスカウト陣も驚愕を隠さず、メモをとるのも忘れて茫然とスタンディング・オベイションの状態になった。
 神無月はその勢いのまま、残りの三打席を二ホームラン一二塁打と打ちまくった。力みのない打撃フォーム、光のように一閃するバット、えげつないインパクトの音、すばらしい打球の伸び。目に鮮やかに残ったのは、彼が三本のホームランを放つたびにダイヤモンドを全力で回ってベンチへ走りこんだことだった。試合後のインタビューでの彼の説明によると、拍手や喝采をいつまでも浴びているのが恥ずかしいので、早くベンチに走り戻りたいという気持ちから思わずやってしまうのだそうだ。怪物に似合わない繊細な神経が微笑ましい。
 神無月はレフトの守備でも再三の好守強肩で観衆をうならせた。彼は超絶な美男子であるばかりでなく、その立ち居がこの上なく美しい剛と柔を兼ね備えた野球選手でもある。今後、試合よりも彼を〈観〉にいく人びとが増えることはまちがいない。とまれかくまれ、十割、三ホームラン、打点七。彼に鼓舞された他の選手の巧打も光って、東大は明大を十一対九で打ち破り、今季初勝利を挙げ、おそらく優勝候補に躍り出た。
 「神無月の強みは、常に自分を井の中の蛙と信じこんでいるところです。だから常に自分ばかりでなく私たちにも全力を要求します。私はいつも彼の人格に肌を粟立てています」
 と鈴下監督が目を潤ませた。百八十センチ、八十キロ、遠投一二四メートル、右投げ左打ち。打力はもちろんのこと、遠投力もプロを含めて日本球界ナンバーワンだ。三冠王はもちろん、チームとしての優勝が現実味を帯びてきた。しかし、何をおいてもホームラン! 北からくだっていまや六大学の怪物となった神無月郷は、今季、いったい何度あの緊張感に満ちた一直線の弾道を見せてくれるのだろうか。


 留守番の法子が、目玉焼きと納豆と味噌汁の簡単な朝めしを用意した。
「よく眠れた?」
「うん、八時まで寝ちゃったから、九時間か。寝すぎだ」
「和子さんたちは七時に出かけました」
「七時半開店だからね。東京の朝は早い」
「早番は三時半まで、遅番は三時半から十時半までって言ってた」
「私、武蔵境駅前のお蕎麦屋さんにしようと思ってるの。それで少し東京の仕事に慣れてから、ぼちぼち〈お水〉のほうを探そうかなって」
「のんびりやればいいよ。日銭が稼げればいいくらいに思って。ほんとにみんな働き者なんだから」
 和田堀までランニング。下痢でない軟便。耳鳴りほとんどなし。うれしい。音楽部屋で三種の神器。シャワー。法子が玄関にダッフルを用意する。
「いってきます!」
「がんばって!」
 自転車に乗らずに出る。フジでモーニングサービス。富沢マスターもカズちゃんもウェイターやウエイトレスも、ガタイの大きい初見の客に一瞬驚いたが、ふつうに注文をとり、ふつうに品物を出した。みんなで私を静かにしておいてくれる。私に気づいた周りの客にも、マスターが唇に指を当てて騒がないように注意する。私も静かに食い終え、静かにレジにいく。店員たちもふつうに、ありがとうございました、と挨拶した。下駄の音を立てて表へ出ると、店内で賑やかな拍手が上がった。
         †
 二回戦の試合開始は二時四十五分だった。観客三万六千。初めて目にする超満員の観衆だ。報道陣でごった返す廊下を通って一塁側ベンチに入る。特殊眼鏡をかけてグランドに出てみた。すべて明瞭に見えるが、芝やスタンドの美しさが半減する。こんな鮮明な景色の中で野球をやりたくない。スタッフも選手も何も言わず、ただニヤニヤしていた。
「薄暗くなってきたらかけます」
「黄昏の眼鏡怪人。名物になるかもしれないね」
 助監督の西樹が言った。上野や鈴木睦子がクスクス笑う。
「やっぱり人相変わりますか」
 鈴下監督が、
「近くで見ると別人だよ。ユーモアはあるけど、美青年だいなしだ。遠くからならまったくわからないだろう」
 眼鏡を外す。よほど見えにくくならないかぎりかけるのはよそうと決めた。
「外したね。豪傑金太郎にそんなしゃれっ気があるとは知らなかったな」
 白川が笑う。岡島副部長が、
「ヘルメットをしないのもしゃれっ気? 法政戦ではかならずかぶってね」
「はい」
 一塁側東大スタンドの観客が三百人ぐらいに増えている。ネット裏に山口やカズちゃんたちの姿はない。
 一塁スタンドの東大ブラバンが、何やらメロディラインの不明瞭な校歌ふうの行進曲を奏でている。応援団はいるが、もちろん明治大学のようなバトンガールはいない。歴史的な初戦勝ちをしたというのにこのありさまだ。私自身はそのほうが気楽だが、応援する者の意気ごみとしてはいただけない。その一画以外はほとんど満員だというのもさびしい。
「白川さん、あのさびしい応援、何とかなりませんか。士気に影響します」
 ビックリした顔で白川が一塁側の応援席を眺める。考えたこともなかったようだ。上野詩織が、
「私、なんとかします。今シーズンいっぱい、時間をください」
 例の熱い視線で私を見つめた。
 ネット裏のテレビカメラの上方の最上部に放送席が見え、最下段には、ドラゴンズの村迫代表をはじめとするプロ野球関係者らしき顔が並んでいる。落ち着かない。きのうより確実に増えている観客のせいで、ここが自分の居場所だという確信が弱まっていく。華やかすぎることには逃げ腰になる。ここが正念場だとおもって乗り越えなければ、とうていプロでやっていけない。
 島岡監督は二年生の南という右の速球派を立ててきた。ブルペンをじっくり見る。百四十五キロ前後は出ている。それだけでなく、球筋がわずかに変化するクセ球だ。簡単には打てない。高目のスライダーを顔のあたりに投げられたら危ない。きょうはヘルメットをかぶろう。
 打撃練習と守備練習をオミットし、ひたすら南の球筋を観察する。ベンチを見回すと、みんな不安そうな顔をしている。克己に言う。
「あの小さいスライダーは、しばらくミートが難しいかもしれません。でも、たぶん四回か五回あたりには目が慣れてきますよ」
 明治応援団の整然とした動き、おお明治の斉唱、金管楽器の澄んだ響き。バトンガールたちがいない。初戦のきのうは特別出演だったのか。
 たちまちプレイボールのコール。きょうは後攻だ。東大チームが守備に散る。
 大歓声の中、明治の一番バッター倉田が打席に入る。克己が外角に構える。ガチガチになった村入の投げこむボールが棒球になっている。バッターを見ないでベースを見て投げるからだ。ポンポンとツーナッシング。へんに追いこんじゃだめだ、そう思ったとたん、左中間へライナーのホームランが飛びこんだ。明治スタンドの怒号。悪夢の始まりだった。二番、三番にツーベースの連打を喰らいさらに一点、四番の広沢にライト前のヒットを打たれてさらに一点を取られた。三対ゼロ。ノーアウトで三井に交代した。彼は百三十キロも出ないゆるい〈速球〉が幸いして、後続の三人を内野ゴロに打ち取った。
「おいおい、三井、やるじゃないか」
 監督が三井の背中をバシンと叩く。お辞儀をする彼のボールをたまたま明治打線が打ち損なっただけだ。次は打たれる。さびしい一塁スタンドが精いっぱい盛り上がる。監督が叫ぶ。
「さあ反撃だ! 目にもの見せてやれ!」
 ベンチ組の選手や、マネージャー、コーチ陣が雷同して叫ぶ。
「オエ、オエ、オエオエー!」


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