三十四

「一回の裏、東京大学の攻撃は、一番センター中介くん、センター中介くん、四年生」
 応援団の渾身の突き。ブラバンの調子外れな音。太鼓の連打。中介秒速で三振、磐崎キャッチャーゴロ、水壁セカンドフライ。東大打線はいきり立って空回りし、恐れていたとおり初回からきりきり舞いが始まった。外野にすらボールを飛ばすことができずに、五回まで三振と凡打の山を築いた。ヘルメットをかぶって打席に立った私も二周り目までまったくのお手上げで、ファーストゴロとセカンドゴロに打ち取られた。おまけにスライダーに食いこまれて、大切なバットを一本折った。横平と臼山もバットを折った。三、四人ずつ封じられているあいだに、三井は七回の表までに小刻みに三点を取られた。六対ゼロ。
 七回裏に入り、応援団とブラバンの熱狂ぶりに反比例して、そろそろベンチにあきらめのムードがただよいはじめた。きのう一勝したからいいじゃないか、というたるんだ雰囲気だ。これがいつもの東大チームなのだろう。
「きのうの意気ごみを思い出してください! きょう勝ち点をあげないと、あした浜野と池島が必死できますよ」
 私はベンチを見回して言った。鈴木睦子がべそをかいていた。キャプテンの克己が、
「しかし、金太郎さん、これじゃどうにも……」
「打開策があります。デッドボールで出ましょう。バッターボックスぎりぎりまで前へ出てユニフォームをかすらせるんです。やってみてください」
 打順は一番の中介からだった。ラッキーセブンのエール交換がなされているあいだ、きのうの勝利をフロック扱いしている明治ベンチの視線に気づいた。ムカッ腹が立ち、
「中介副将、やっぱりデッドボールはやめましょう。ここは、キャッチャーフライになってもいいから、三塁前にセーフティバントをしてくれませんか。南の上体が腕を振り下ろすたびに左へのめりますから。―このままじゃ何も起こらない。きょう負けたとしても、無策のチームでないことを印象づけたいんです。ぼくは次の打席にかならずホームランを打ちます。どうかランナーを貯めるように努力してください」
「よし。二球つづけたらまずいから、一球目を空振りして、二球目にやる。それに失敗したら、三球目を思い切り振る」
 中介はその通りにやった。一球目めくら振り、二球目のセーフティバントが三塁線へファール。三球目強振すると、まともに芯に当たってピッチャーライナーになった。アウトと思ったら、からだが斜めに傾いている南はグローブを逆手に出して捕り損ない、打球をあごに当てた。転々と一、二塁間にボールが転がる。何かが起きた。明治のマネジャーがマウンドにすっ飛んでいく。南はそれを掌でさえぎり、何でもないという身振りをした。鈴下監督が叫んだ。
「いくぞ! ここからだ!」
 二番の磐崎も同じようにやった。ただし彼は、二球目にセーフティバントをしたボールが三塁ライン上にピタリと止まるというラッキーで出塁した。希望に満ちた歓声が上がる。上野がガリ版で刷った『闘魂は』の歌詞をみんなに配った。
「いまスタンドで唄ってる曲です」
 もやもやと念仏のような歌が、太鼓とブラバンの響きに乗って流れてきた。ベンチじゅうがぶつぶつと念仏を唱えだした。私も歌詞を見ながら唱った。

  闘魂は いまぞきわまる
  たくましく 力きそいて
  揚げなん 勝利の旗を
  淡青の この空の下
  おお わが東大 栄えある学府
  おお わが東大 栄えある学府


 陳腐な歌詞だ。メロディにもめりはりがない。こんな応援歌は唄わないほうがマシだ。それでも私はぶつぶつと経を唱えた。どんなくだらないことでも、心を合わせるのだ。合わせた心が澄みわたっていく。
 水壁は初球からバントして自分も生きようとしたが、ファールになった。それからとつぜん、南のコントロールが乱れはじめた。しきりにあごを撫ぜている。ヒビが入ったのかもしれない。ボールは速いがコースが甘くなってきている。投げ下ろす瞬間に歯を食いしばるので、もしヒビでも入ったとすれば痛みは相当なものだろう。私は残酷な気持ちで、
 ―ここしかない。
 と思った。
「水壁さん、ベースに近づいて、ぶん回し!」
 次の一球で試合が決まる。あの遠い日、小山田さんと吉冨さんに、ここで森徹がホームランを打つ、と私に言わせた直観だった。
「次の一球で、形勢が逆転すると思います!」
 ベンチの顔がいっせいに私を見た。私はグランドを見回した。心なしか、カメラのシャッター音が大きくなった。私は叫んだ。
「ピッチャーゆるいよ、よく見えるよ!」
 南が一塁ベンチを睨みつけ、セットポジションに入った。また叫んだ。
「内角、直球!」
 胸もと高目に全力投球。水壁が初めて経験する百五十キロ近いストレートがきた。彼は目をつぶって一心に振った。打球は芯を食って高く舞い上がり、背走するレフトを越えて、あれよあれよという間にスタンドの最前列に落ちた。三塁塁審が興奮してレフトの守備位置まで走っていき、線審といっしょになってぐるぐる片手を回した。たちまち一塁側スタンドにバンザイの声がいっせいに上がった。吹奏楽が高鳴り、応援団が喉も裂けよとばかり叫びはじめる。部長はじめスタッフ全員が総立ちになり、ろろろ、とか、かかか、とか、わけのわからない吃音を発し、壁を平手でバシバシ叩いた。私はでたらめに叫びながら、バットを手に、三人の出迎えにホームベースへ走っていった。次々とタッチをして祝福する。
「水壁さん、ナイスバッティング!」
 ベンチの選手たちもグランドに飛び上がってホームベースに駆け寄った。青高のときとちがって、アンパイアは止めようとしない。私たちはライン上に群れ、水壁をタッチや抱擁や握手で迎えた。六対三。これが起死回生の一打になった。風が足早に雲を掃いて、青空の一角が姿を現した。真昼の照明だ。
「金太郎、つづけて一本頼む!」
「いきます!」
 監督の願いにバットを上げて応え、ヘルメットをしっかりかぶってボックスに入る。一斉にフラッシュが瞬き、グランドが人工のきらめきに包まれた。南のあごが異様に腫れ上がっている。ようやく明治ベンチが島岡監督の指示で救急要員をマウンドに送った。せっかく表舞台を与えられた秘密兵器は、指を一本立て、私だけに投げたら降りると主張しているようだ。意地になっているので、スライダーで私のバットを折ったことなど忘れ、ぜんぶストレートで勝負してくるだろう。たとえ棒球でも百四十キロ後半のボールは捉えにくい。高目だけを投げられたら、十中八九外野フライだ。運よく低目をホームランできたとして、六対四。リリーフの台坂と森磯が八、九回を二点に押さえたとして、八対四。南のあとに出てくるピッチャーの質を考えれば、少なくともあと五点取らなければ勝てない。バックネットを振り返って、テレビカメラを見上げる。激しいシャッター音。
 まんいち内角スライダーを投げてきたときのために、バッターボックス枠ギリギリまでピッチャーへ近づく。曲がる瞬間を叩く。ヘルメットをきちっとかぶり直す。
 初球、外角シュート、ワンバウンド。キャッチャーミットを弾いてバックネットへ転がっていく。二球目。外角高目シュート。ボール。
 ―考え直しだ。ストレート勝負はない。やはり私のバットを折ったことを忘れていないようだ。次は百パーセント、カーブかスライダーで内角にくる。
 三球目、スライダー! 内角へ流れ落ちる曲がりハナをしっかり掬い上げる。打球が舞い上がったとたん、一塁スタンドからヒャーッという声が折り重なって上がった。一塁へ向かう背中へ、つぶてのフラッシュ。白球が伸びていく。歓声のうなりが高まり、最上段にボールが突き刺さると、球場を殴りつけるような叫びに変わった。全速力で回る。
「金太郎!」
「金太郎さん!」
 ベンチがスタンドに和した。
「金太郎さん!」
「金太郎!」
 スタンドの波がうねる。背を丸めてホームインし、タッチの並木を通り抜けてベンチへ走りこんだ。みんな抱きつくことを忘れ、感嘆の声を上げながら握手をする。やがて私のホームランは、大騒ぎではなく、熱い静かな握手だけで迎えられるようになるだろう。そのときは優勝が近いかもしれない。六対四。
 ピッチャー交代。南の面相が気の毒なくらい変わっていた。背に腹は替えられない。きのうにつづいて浜野が登板した。彼のボールなら打てる。
「なんであんなに飛ぶんだ、金太郎さん」
 水を飲んでベンチに落ち着くと、大桐がきのうと打って変わった不満のない明るい顔で訊いた。克己がすでにバッターボックスの前で浜野の投球を見つめている。
「球を捕えた瞬間に前腕を絞る、それだけです。二の腕を振り子の紐のように意識するんです。あ、臼山さん、好きなコースをフルスイング!」
 次打者の臼山に声をかける。
「よしきた!」
 浜野は眉間にシワを寄せながら不機嫌そうに投球練習をしている。脚が短い。スパイクを高く上げ、そっくり返るような投球フォームがわざとらしい。速球派という評判だけれども、百四十キロそこそこの肩なら、遠投も百メートルそこそこだろう。小笠原より弱肩かもしれない。テルヨシは青高のころからこのくらいの球を投げた。いまごろは肩も回復し、早稲田でエース候補として練習に励んでいるにちがいない。南の速球に馴染んだ目に浜野のボールがスローボールに映る。横平が、
「なんだか打てそうな気がする」
 ポツンと呟いた。チーム全員の気持ちだった。その気持ちを裏切らない攻撃になった。五番克己から始まり、八番の横平まで五人、全員ヒットをかっ飛ばした。克己左中間二塁打、臼山センター前へライナーでワンバウンドのヒット、ノーアウト一、三塁から、大桐ががむしゃらに振り回し、右中間へポテンヒット。一点。ふたたび一、三塁から、横平が一塁線を抜く三塁打。二点。六対七。たちまち逆転した。三井の代打の台坂センターライナー、犠牲フライになって六対八。ワンアウトランナーなし。中介ライト前へゴロのヒット、磐崎右中間の二塁打で、ワンアウト二、三塁。ホームランを打ったことで強振に目覚めた水壁が、深いレフトフライを打ち上げて一点。六対九。ツーアウト二塁、私がライトオーバーの二塁打を打って、一点。六対十。克己ショートフライでチェンジ。一挙に十点を取った。球場じゅうのどよめきが止まない。仁部長が真っ赤な顔で、
「どうなってるの!」
 と叫んだ。睦子と詩織が抱き合って跳びはねている。
 八回表に台坂が三塁打とスクイズで一点を取られたが、どうにか凡打を打たせて抑えた。三振も一つ奪った。百三十キロを出すことができて、コントロールがよければ三振は取れるのだ。優勝を目指すチームは、そういうピッチャーを少なくとも三人は抱えていなければならない。七対十。八回の裏の攻撃に入る前に私は言った。
「どんな方法でもいいですから、ピッチャーはとにかく毎日肩を作ってください。投げることでしか肩はできません。距離を考えず、山なりではなく低いボールを投げること。ぼくもやむを得ず左から右投げに替えるとき、そうやってがんばりました。とにかく、一人でも二人でも、三振を取れるピッチャーを作ってください。肩は遠投と腕立て伏せで作るしかないんです。一、二年生の遠投とバッティングのテストをあしたお願いします。ぼくも参加します」
 中介が、
「左投げを右投げに替えたって!」
「替えてあんなにすごい肩?」
「天才だ!」
「わかってるじゃねえか」
「金太郎、おまえ、人間か」
 監督が、
「私も知らなかった。とんでもない男もいたものだな。金太郎さんについていこう。そして優勝へ導いてもらおう」
「オー!」
「ウエ、ウエ、ウエ、ウエー!」
 私は困惑して笑いながら、
「優勝は数年かけましょう。一年、二年では……しばらくは、優勝を夢みて鍛えましょう」
 いずれにせよ東大チームはすばらしい経験をしていた。それは一回、一回、勝利の喜びに近づこうと必死でバットを振る誠実な経験だった。その誠実さに応えて球場が沸きに沸くのを体感する喜びだった。自らの努力の一つ一つが感嘆の目に曝されるときに、からだがふるえる高揚感だった。
 八回裏、七対十。ここでだめを押さないと、台坂の保証のないピッチングに頼るしかなくなる。六番、臼山。
「臼山さん、低目をゴルフスイングしてみてくれませんか。高目を捨てて。低目は手を出さないようにと小さいころから教えこまれてきたでしょうが、あれはダウンスイングの流行のせいです。上から叩くよりも、掬い上げて芯を食うほうが打球は伸びるんです。遠心力のせいです。小四のときに経験で知った原則です。小さなからだで遠くまで飛ばせたのはそのせいだったんです。ベーブ・ルースは遠心力打法でした。ベーブ・ルースはすごい体格でしたけど」
 ベンチに笑いが湧いた。
「まだ見たことはありませんが、きっと法政の田淵というバッターもアッパースイングだと思います」
「わかった。掬い上げてみる」
 審判の右手が上がった。臼山は掬い上げるのが苦手だ。彼はこれ以上ない緊張感を持ってバッターボックスに立った。


         三十五

 浜野は坪口という一年生の左腕のサイドスローに代えられていた。投球のほとんどがカーブとスライダーで、ストレートは百二十七、八キロ。ストレートもお辞儀をするので変化球に見えて区別がつかない。私を抑えるために彼を出してきたのは明らかだ。掬い上げ打法の私には、外へ流れていく変化球は打てないと踏んでいるのだ。私を抑えれば三点差をひっくり返せると考えている。この程度のクセ球で、私ばかりでなく、ほかのメンバーも抑えられると思っている。だから、坪口に臼山の緊張感は伝わらない。
 初球、内角低目のゆるいカーブ。臼山は思い切り掬い上げた。するどい打球がレフトの白線を削って粉を舞い上げた。東大チームで足の速いのは中介と磐崎と私だけで、あとはみな鈍足だ。足は鍛えることができない。臼山は懸命に走って二塁へ滑りこんだ。間一髪セーフ。私はベンチを見回して大声で言った。
「もう十点取るつもりでいきましょう。あしたの試合をしなくてすむように。来週の土曜日には、わがチームが東大だとはだれも思わなくなります」
 一塁ベンチの上の応援が狂躁状態になっている。ほとんどの学生の声がつぶれているのがわかる。めずらしく副部長の岡島が叫んだ。
「いけいけ、ドンドンいけ!」
 シンプルなエールなので、みんなの気持ちが和む。
「大桐さん、見ていったらだめですよ。振り子、振り子」
「アイ、ガティット!」
 大桐はボックスに立つと、バットを寝かすことをやめ、少し長めに持って垂直に立てた。手首と前腕が鍛えられていないのでバットを絞ることは難しいが、〈振り子〉だけはできる。きょうから彼のバッティングに新しい世界が開けるだろう。初球、ドロンと外角へカーブ、ストライク。二球目内角高目、ゆるいストレート、ストライク。いつもとちがって大桐がただ待とうとしていないことは、するどい表情からわかる。三球目、初球と同じ外角のカーブ、振り子が振り下ろされた。セカンドの頭にハーフライナーがふらふら飛んでいく。セカンド、ジャンプ。グローブ届かず、前進したライトの前にポトリと落ちる。足の遅い臼山は三塁で止まった。スタートがよければ鈍足の臼山でもホームインできた。三塁コーチの兼の責任だ。打球に対する勘が選手もコーチもなっていないのだ。これまでこうやって取れる点を失ってきたのだろう。大桐は自力でヒットを打てた喜びに舞い上がり、一塁コーチの細木原とハイタッチしている。
「牽制球注意!」
 私は怒鳴った。男二人がびっくりしてこちらを見た。大桐はベースに貼りついた。左バッターの横平がベンチを出ようとした。
「横平さん、あなたは長打力がある。外角ばかりきますから、ホームベースに近づいて、思いっ切り掬って! 内角にきたらデッドボールを狙ってください。大して痛くありません」
 初球、胸もとの直球。ユニフォームをかすったと横平は手ぶりで主張するが、受け入れられない。危険を感じたのか、坪口は次のボールを外角へ落としてきた。ホームベースに寄っていた横平には真ん中に見える。渾身の力で掬い上げた。彼らは芯を食う直感をまだ養っていない。今度もふらふらとショートの後方にフライが上がった。左中間のポテンヒットになることはすぐにわかった。しかし臼山はタッチアップでも待つように三塁ベースに立っている。
「臼山さん、走れ! 早く!」
 すでにワンバウンドでショートが捕球し、バックホームの態勢をとっている。臼山のホームインは間に合わない。彼は走れずに終わった。いったいこのチームのでき損ないぶりはどうしたことだろう。相馬なら、何をやってるんだ! と怒鳴るところだが、鈴下は舌打ちもしないで黙っている。私も沈黙した。ほとんどの人間が弱い者の味方をする。それでは弱い者はいつも甘えた気持ちで、手を差し伸べられることを期待するだけだ。
 ネクストバッターズサークルの台坂がすがるような目で私を見ている。
「先輩、スクイズはだめです。一点じゃない、十点取るんですよ。三振するつもりで、ぜんぶ扇風機でいってください! ダプルプレーを食らってもいい。いい当たりでなければ一点取れます」
 私はいつのまにか、さも自分が指揮官でもあるかのように、仲間たちに命令する態度になっていた。私の指示はいつも明瞭正確で実行しやすいものだったから、この二試合彼らはすみやかにというだけでなく、喜んで私の命令に従ってきた。いまも三点リードしていることもあって、部長はじめスタッフたちは私の提案にまったく逆らわなかった。私はこの態度で一貫することにした。勝利を知らなかった者たちの先陣を切って勝利の喜びを教えること、それこそ私の責務だと感じたからだ。
「よーし! 扇風機でいくぞ」
 台坂はひと声叫ぶと走ってバッターボックスに向かった。長打がほしい。左中間か右中間、それで二点は取れる。こんなゆるい球にバットを当てられないはずがない。そのへろへろ球を彼は四球つづけて一塁線にファールした。やはり大きく強く振ることができないのだ。彼は次の真ん中のカーブを空振りして三振した。失望の太鼓の乱打。
「十点、十点!」
 ―中介さん、さっきのようなピッチャーライナーじゃだめだ。もう一本ロングヒットを打ってくれ。三点差では負ける。
 初球、乾いた音が響いた。素振りのように美しいフォームで47の背番号が回転した。外角へカーブが入ってくるところへ、偶然バットがヒットしたのだ。中介は懸命に一塁へ走り出した。打球は今度はピッチャーのあごを襲わずに、彼のグローブをはるかに遠く越えて右中間へ伸びていった。今度は走者三人ともスタートを誤らなかった。勢いのあるボールがセンターとライトのグローブをすり抜けてフェンスまで転がっていくあいだに、すべてのランナーが全速力でホームインした。中介は大事に二塁で止まった。
「台坂さん、七対十三になりました。五点取られても勝ちますよ。でも、まだワンアウトなので、ぼくまで回ってきたらホームランを打ちます。とにかく、これで勝ち点は確実です」
 ベンチで、エイ、エイ、オー、ヤア、ヤア、ヒョウ、というひょうきんな勝鬨が上がった。時を合わせてブラバンの演奏と応援の声が爆発した。磐崎がフルスイングしてサードライナー。ツーアウト二塁。さっきホームランを打っている水壁が、裏をかきセカンド前のセーフティバントで出塁した。ナイス! 岡島副部長が、
「いいぞ、いいぞ、いけー!」
 ストロボとシャッターの音が共鳴する。ツーアウト一、三塁。明治の島岡監督はなすすべもなく腕を組んでベンチにふんぞり返っている。まるで試合を捨てたような態度だ。ボールが滲むように見えはじめたので、ゴーグルをかけた。鈴下監督が私の尻を押した。
「金太郎さん、明治に絶望を与えてくれ」
「はい。レフトかセンターに打ちこんできます。白川さん、これと同じバット、来週の土曜日までに十本注文しておいてください」
「了解!」
 坪口はセットポジションから素早いモーションで外角にカーブを落としてきた。遠くワンバウンドした。盗塁警戒と私に対する撹乱のためだ。薄暮のグランドにバウンドするボールがくっきり見えた。何をしようとスピードがないので効果はない。敬遠で出すつもりでもなさそうだ。弱小東大の、しかも一年生ごときを敬遠するのは、名門明治大学を率いる島岡監督のプライドが許さないのだ。たとえこの球の遅いピッチャーにしても、どこかの高校からスカウトで連れてきた有力選手だろう。敬遠などしたくないはずだ。
 二球目、胸もとのストレート。ストライク。三球目、バカの一つ覚えのように外角にカーブがきた。私はボックスの前隅へステップしながら、センターに振り抜くように前腕を絞った。左中間にライナーが飛んだ。レフトとセンターが捕獲の簗(やな)を狭めていく。私は彼らと足の速さを競うように一塁へ疾走した。すぐに外野手二人の歩速が緩み、追走をあきらめた。白球が左中間スタンドの最前列に突き刺さった。大歓声の中を全速でベースを回る。スタンドから金太郎コールが上がる。ホームイン。一塁ベンチ前に、監督を右端にして選手たちがずらりと並んでいる。手を打ち合わせながら走る。ベンチに走りこみ、部長や準レギュラーやマネージャーたちと握手する。七対十六。もう負けはない。鈴下が、
「二試合にして五号か。二十本はあっという間だな。田淵が四年かけた記録を一シーズンで破るかもしれないぞ……」
 目が潤んでいる。
「ついに勝ち点ですよ!」
 岡島副部長が言った瞬間、克己が高いセンターフライを打ち上げてチェンジになった。私は眼鏡をかけたまま、爪先で跳ねるように走りながら守備位置についた。観客席がどこまでもくっきり見える。空がどんより曇りはじめている。この喜びの瞬間に倦怠に襲われるのは恐ろしいので、灰色の空は見上げない。
 最終回、台坂はフォアボールを連発し、ヒットを五本打たれて、六点取られた。しかし逃げ切った。十三対十六。
「テヤー!」
「ソレー!」
「トリャー!」
 守備位置から雄叫びを上げながら全員走り戻りる。私たちを讃える応援団のパフォーマンスがかしましい。ブラバンが高らかに『足音を高めよ』の演奏をする。歌声が響きわたる。東大スタンドに向かって監督がこぶしを突き出す。選手同士が抱き合う。
「信じられません!」
 上野が叫んだ。
「信じろ! さ、集合だ」
 鈴下監督の声がふるえている。信じる。きのうは初めての大学野球の経験に緊張していたせいで、攻走守や勝利の感覚がぼんやりしていたが、きょうは鮮明だ。ついに野球に〈着手〉した感じだ。ホームベースを挟んで集合。明治チームの整列がのろい。
「礼!」
 高校野球とちがって、たがいの握手がない。なぜだろう、死力を尽くして戦い合ったのに、相手を讃える気持ちがない。礼儀に欠けている。礼儀は本能だ。教育でどうにかなるものではない。礼儀は自分の価値を過大視しない生まれ持っての才能なので、教育できない。礼儀や品格を教えるのは自分の心そのもので、親や教師ではない。いっしょに走って応援スタンドに向かう監督に、
「監督やスタッフ以外の背番号の数字、大きすぎませんか。せいぜい20番台までにしたほうが見栄えがよくなるし、選手の気持ちも引き締まると思いますけど」
「そうだな、部長以下に諮ってみよう。秋季以降になると思うが、実現させよう」
 応援団の前に整列し、全員深々と頭を下げた。
「神無月ィ!」
「金太郎!」
 私は帽子を挙げて振った。チームメイトも倣う。新聞記者とカメラマンが肩をぶつけ合いながら走り寄ってくる。一塁スタンドの学生やOBが手を振り、フェンスの金網にしがみつく。バックネットでは村迫たちが上機嫌に語り合っている。私の礼に応え、からだを低く折ると通用口へ去っていった。彼らは私のことを球団の正式な記録に新たに留め、今秋以降の自由交渉に内密に備えている。まんいち春か秋に優勝があれば、大きな花を添えることになる。私は彼らの背中にもう一度礼をした。きょうは五本の蝋燭を吹き消す。
 きのうと同様、一塁内野席の演壇前に集合して、『闘魂は』の斉唱を聞く。やはりブラバンのメロディにめりはりがない。
「ありがとう!」
「ありがとう!」
 スタンドから声が乱れ落ちてくる。ベンチへ駆け戻る。監督や助監督や部長やコーチたちの上気した顔。笑い狂っている野球部員やマネージャーたちが、記者やカメラマンに取り囲まれる。一人のレポーターが私にマイクを突き出し、
「昭和二十二年の《破天荒な躍進》以来、二十一年ぶりの快挙ですね」
「何でしょう、それは」
 中村図書館で大学野球は研究しなかった。レポーターは嬉々として答える。
「当時は各大学と一試合ずつ戦う総当たり方式だったんですが、東大は明治、早稲田、立教、法政と破って四連勝し、同じ四連勝の慶應に二連敗して二位になったんです。それ以来東大はどの大学からも勝ち点を挙げていません。ついにきょう挙げました」
「そうだったんですか。知りませんでした」
「知らなかったぞ!」
「俺も!」
 部員たちが口々に呼応する。フラッシュがうるさい。私は監督とスタッフたちを盾にして彼らの背中に立つ。それでも何本ものマイクが突き出される。彼らへの応答に三十分は覚悟しなければならない。きょうだけ頼む、と手で拝んだ鈴下監督のきのうの約束は反故になった。
「優勝が視野に入りましたね」
「あと四大学が残っています。Aクラスは近づきました」
「最大の敵は法政ですね。対策は?」
「対策を立てられる基盤をいま築いているところです」
 私が興味あるのはホームランを打つことだけだが、集団競技では個人の卓越やキズは大きな話題にはならない。彼らが主に知りたいのは集団の盛衰のことで、集団に貢献したり集団を脅かしたりする個人のことではない。
「弱点がまったく見られないバッティングですが、苦手なコースはありますか」
 ついに個人的な質問がきた。
「外角と内角の高目です。克服するような素振りを工夫してやってます」
「一試合三本は、去年の春の早大荒川選手に継いで二人目、連続二試合で五本はリーグ新記録です」
 東大初、六大学史上初、という言葉が飛び交う。
「最大のライバルは田淵選手ですね」
「競争は嫌いです」
「連日内外のプロ球団のスカウトが目を光らせておりましたが」
「中日ドラゴンズで野球をするのが、幼いころからの念願です。ほかに希望はありません」
「東大に新たな歴史を刻んだご感想は?」
「東大に歴史を刻めば、六大学野球にも歴史を刻むことになるのでうれしいです。四連勝がこれまでの東大の記録なら、五連勝を目指します」
 私は選手たちの後ろに退き下がる。


         三十六

 レポーターは鈴下監督に、
「二日つづけて、ものすごい爆発でしたが、昨年までの練習方法に改良を加えられたのですか?」
「改良はこれからです。ほとんどの選手が小さくて非力なので、ふだんからよく食べて体重を増やし、こつこつ筋力を鍛え、遠投や素振りで肩や腰を強くすれば、きのうきょうのような攻撃ができる回数が増えるでしょう。秋までに体力アップを目指します」
「神無月選手は選手たちに指導もなさってるんですか」
「アドバイスだけです。彼はアイデアマンですから」
 私は笑わずに監督の肩口から真剣な目をカメラに向ける。部員たちが目を潤ませている。勝利を契機にして喜びの核心を垣間見たからだ。一心不乱にやる野球は美しい。彼らはこれまで何も見てこなかったのだ。目先の勝利のことすら考えていなかった。彼らはいま野球を愛している。愛するものに没頭して、精神的な充実に目覚めはじめた。もともと野球への愛に飢えていたはずなのに、誠実に愛し返す心が足りなかった。達成をあきらめた最初の倦怠にしがみついていただけだった。三年前の私のように。
 隠れている場所にマイクを突き出された。
「これからの東大野球部の最大の課題は何でしょう」
「野球に対して愛情を育むことです。たった二度の勝利が、彼らを目覚めさせました。言いすぎかもしれませんが、これまでの彼らは、どこかで野球をバカにしていたと思います。達成感を得られないものだったからです。これからはバカにするどころか、野球とは何かとも考えないでしょう。放言、野心、名誉欲、批判―野球が彼らにとってそういったものの対象になることはなくなるでしょう。野球をしない人の人生は無数にあるけれども、野球をやる人の人生は一つです。野球に関して自己の目指す何ものかを成し遂げて、真実らしいものに触れることです。それができれば、彼らは一般の東大生と一味も二味もちがってきます。真実は射精のような一瞬の解放によって悟るものではなく、愛を捧げて悟る何かです」
 記者団がドッと笑った。
「射精ですか。記事にはできないでしょうね」
「しなくてけっこうです。ファンを失いますから。勝利は、射精よりももっと強い感動です。生理的なものではない、ある種の達成感です。青森高校の野球部員たちも、思わぬ勝利をきっかけに野球を愛するようになって、ふつうの青高生たちとちがってきました。いっしょにいたいと思える人間たちになりました。ぼくの新たな友人である東大生たちは勉強部屋で有効でない時間の使い方をしてきました。そして烏合してきました。仕方がありません。類は友を呼ぶのが人生ですから。だから彼らは気が合った。不毛な競走を愉しめる仲間だったからです。あしたからの彼らは、不毛な勝ち負けのためではなく、野球への未練のために懸命に練習するようになるでしょう。勝利は未練を残すためのきっかけになります。ぼくは未練のせいでハラワタが熱くなった人びとのそばに、その熱を外に発散したいと思うようになった人びとのそばにいたいと思います。野球の過去を持たない彼らといっしょに、できたての未練をいとおしむ彼らといっしょに、未来を作ろうと思います」
 記者たちが一斉に拍手した。泣いているレポーターもいた。監督やチームメイトはみんな泣いていた。
 帰りのバスで監督が、
「あしたは休養とりたいやつはとっていいぞ」
 克己が、
「あしたのスポーツ紙は全部買う。一日中ごろごろして読むんだ」
「きょうもぜんぶ買ってたじゃないか。俺は人生初のホームランだったから、もちろん全紙買った。あしたは朝日も読売も買う」
 水壁がはしゃぐ。中介が、
「俺も。南のあごを砕いたのは俺だからな。でも、結局、金太郎さんのことばかりになるんじゃないか」
 大桐が、
「当然だろ。だれのおかげで勝てたと思ってるんだ。俺たちのことなんか、メンバー表以外には書かれないよ」
「活字は、東大昭和二十二年以来の勝ち点、だけですよ。ぼくのことも田淵と比較して小さく書かれるだけです。あと五勝すれば、春の優勝の可能性が出てきます。それだけを考えましょう。喜びがこれほど大きいのは、負けることにうんざりしていたからです」
 有宮が泣きながら、
「肩作ろうぜ!」
「オー!」
 水壁が、
「俺は、授業以外はバットをひたすら振る。金太郎さん、バットを振りすぎて故障することはないかな」
「あります。手首の腱鞘炎。二百本程度なら、だいじょうぶです。ぼくは小学校から中学校にかけて二百本以上振ってましたが、上限は三百本で止めてました。内角、真ん中、外角、高目、腰の高さ、低目、掛け算して九コースを二十本ずつ振るんです。それで百八十本になるでしょう? 無理をすると、腰もやられますよ」
 上野詩織が、
「学生歌、足音を高めよ、お願いします。昭和二十八年にできた歌です。スタッフの方もよろしく。きょうブラバンが最後に演奏したものです」
「学生歌って、何ですか」
 私が訊くと、上野は、
「東大には校歌がないんです。京大と北大を除いた旧帝大には校歌がありません。学生歌や応援歌はあるんですが」
「ああ玉杯というすばらしい寮歌があるので、だいじょうぶですよ」
「ええ、でもちょっとさびしいですね」
「ブラバンへのリクエスト、忘れないでください」
「はい、かならず実現させます。ではみなさん、お願いします。さん、はい!」

  足音を高めよ 雄々しき響き
  地の果てに届きて 
  かぎりなき命燃えたり 
  ひたぶるの情熱かけて 
  友よ友よ
  その火絶やすな自由の火を


 詩織についてみんなぼそぼそ、しかも確実に唄いはじめる。これまた闘魂はと同様、まったく意味不明の歌だった。メロディも平坦すぎて、足音を高めよ、の部分しか記憶できない。こんな歌をスタッフも部員も、老若まちがわずに唄えるのが不思議だった。部長の仁が言った。
「神無月さん、あなたが東大にきてくださったおかげで、野球ばかりでなく、人間的な革命ももたらされました。私どもスタッフもそうですが、部員たちがみんな明るくなって、グランドからじめじめした雰囲気が消えました。感無量です。これまで東大百年の歴史にあなたのような方はいなかったわけですから、まぎれもなく一世紀に一人いるかいないかの人物でしょう。やはり降臨という言葉でしか言い表せません。われわれ自身の発展のためにも、あなたの行動を見守りたいと思います」
 私は笑いながら、
「私的な行動は看過してください。と言っても、ぼくは決してみずから進んで不祥事は起こしません。ただ、世間の倫理に逆らうように動き回るところがあるので、報道関係者には、私生活をつけ回さないようにと釘を刺しておいてほしいんですが」
 ピー、ピーと指笛が鳴った。中介が、
「きのうネット裏にいた美女たちのことだな。金太郎さんがハーレム作ったって、だれも騒がないよ。いまから緘口令を敷く。そうだよな、克己、大桐」
「そうだ! 俺たちの目の保養にもなる」
 磐崎が、
「そういう軽々しい問題じゃない。マスコミは庶民の代表だから、庶民倫理の格好つけという意味ではいちばん子供だとも言える。子供のヒステリーは始末が悪い。格好つけずに衷情を吐露した金太郎さんの話は、一般人の色自慢じゃない。大人の誠実な訴えだ。金太郎さんだけの問題じゃないと冷静に受け止めて、俺たち〈大人〉がメディアの取材活動に対して警戒網を張らなくちゃいけない。そうでしょ、スタッフのかたがた」
「もちろんだ。広報課のおえらいさんからも釘を刺してもらう」
 副部長の岡島が胸を叩いた。克己が、
「金太郎さんは、春秋二季のリーグ戦、六月の新人戦に出てくれさえすれば、ほかに何の枷もない。俺たちが卒業した後の受け継ぎも、俺たちだけでスムーズにやる。キャプテンの重責も免れるようにするから安心してくれ」
 監督が、
「ところで、秋のシーズンから、背番号を改変する予定でいる。20番台までにしたほうが士気も上がるし、目にも涼しいと金太郎さんが言うんだ。もちろんいまのままでもいいが、変えたいやつは申し出ろ」
 さっそく中介が、
「47は大きすぎだと思ってたんです。9番でお願いします」
「白川、メモ取って」
 30番以上の数名が申し出た。31番の台坂が18番へ、44番の磐崎が1番へ、49番の横平が7番へ。
「これで外野は、7、8、9になったな。ファースト臼山22、水壁24、大桐6、克己2、以上は現状のまま。そのほか大きな番号の準レギュラーも、希望があるなら白川に伝えておけ。秋から東大は強豪だ」
「ドェース!」
 部室に戻り、汗の滲みたユニフォーム一式をダッフルに詰めた。
         †
 部屋の明かりを消し、ストローベリーケーキの蝋燭五本を吹き消した。カズちゃん、素子、法子の拍手。二つのグラスにも太いキャンドルを入れて灯してあったが、それも拭き消した。部屋の灯りが点く。
「日曜出勤は?」
「三時半で上がり。法子さんは朝からずっとお留守番をしてくれたのよ。テレビ中継を観ててもらったの」
 からだの大きい順に、カズちゃん、法子、素子。私の向かいに素子と法子が、私の隣にカズちゃんが座った。全員で、
「五号ホームランおめでとう!」
 カズちゃんが、
「二試合で五本は六大学新記録ですって?」
「大したピッチャーじゃなかったから」
 鶏の腿肉のステーキ、スパゲティボンゴレ、マッシュポテト、マカロニグラタン、コーンスープ。一人一品ずつ作ったのだという。皿が並んでいる順番にゆっくり味見していく。
「最強の味だ。どんな高級レストランよりもうまい」
 うれしそうに女同士で微笑み合う。カズちゃんと素子はテーブル越しに片手でハイタッチした。ネット越しに見ていて覚えたのだろう。
「イギリスで、首なし死体がカバンに入っとったんやて。ポートのラジオで聞いた」
 脈絡もなく素子が言った。カズちゃんが、
「私も聞いた。インド人女性ですってね。中絶の跡があったらしいわ。かわいそうに」
「犯人は恋人かしら」
 節子が言う。私が答える。
「恋人は首を切らないな。いや、手も足も切らない。縁を切るだけだ。異常者か、それとも、中絶反対か何かの狂おしい信念にとりつかれている男の犯行だね」
「キョウちゃんの言葉を聞いてると、不思議な世界に入りこむわ」
 カズちゃんがマッシュポテトをフォークですくって口に入れる。私は鶏のステーキに舌鼓を打つ。法子は話に乗らずに、グラタンに熱中している。素子がスープを含みながらカズちゃんに笑いかけた。
「ほんとにキョウちゃんは野球の神さまやね。いのちの記録もすごいけど」
「そうね、詩も神さまよ。二冊目のノート、やっと清書が終わったわ。感動して眠れないほどだった。キョウちゃんの詩は、心から慰めてくれる。野球も同じ。心から楽しませてくれる。楽しませるのも、慰めるのも、人を救うことに変わりはないわ。この世には字を読むことや、考えることが不得意な人もいる。その人たちは、キョウちゃんの野球を観て救われる。スポーツをすることが不得意だったり、からだを動かすことがままならなかったりする人もいる。その人たちはキョウちゃんの詩で救われるというわけ。私たちのように、字を読めて、考えられて、スポーツに偏見を抱いていない人間は、その両方に救われるわ。……キョウちゃんの才能に優劣をつけることはできないのよ。野球選手とちがって芸術家は才能をぶつけるだけじゃ取り合ってもらえないし、才能のほかに〈政治〉がないと世に出られない。だから詩や文章については、私たちはキョウちゃんの存在をささやかな言葉で伝えるだけで精いっぱい」
「野球で有名になることが、〈政治〉になるんやないの?」
「いつかスムーズに引退させてくれて、野球関係の仕事に就かずに机に向かわせてくれればね。そうでないかぎり、傑作の数は極端に少なくなるか、駄作しか書けなくなるわ。才能があると、それだけ犠牲を求められるってよく言うけど、でも、そんな格言では解決できないくらいキョウちゃんの文章は天才的よ。犠牲になんかしないで、しっかりと歴史に残さなくちゃいけないわ」
 みんな納得したようにうなずいた。

 


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