三十七

 四月十五日月曜日。晴。七時に起きた。部屋の空気がほの暖かい。十度はある。しっかり春だ。
 法子がスポーツ紙と一般紙を買ってきて、丁寧に食卓に並べた。きのう日曜出勤だったカズちゃんと素子は、きょうは午後からの遅番だということで、みんなゆっくりと朝食の支度をしながら台所を動き回っていた。
「ぼくは昼ごろ本郷に出る。きのうのきょうでダレたくないから」
 法子が、
「下宿の場所まで案内してくれない?」
「いいよ、そのあとで東大球場へいく」
「私は昼までに武蔵境に帰ります。あしたあたり荷物が届きそうな気もするし」
「蒲団だけ買って待機してればいいわよ」
 カズちゃんが言うと、
「武蔵境の駅前商店街に大きな蒲団屋さんがあるわ。名古屋ではベッドだったから、買わなくちゃ」
 カズちゃんが、
「ちゃんとしたものを買ったほうがいいわよ。お金ある?」
「たっぷり」
 新聞を眺める。

 
これ、ほんとに東大?

 というスポーツ紙の見出しを筆頭に、諸紙のスポーツ欄が東大一色になっていた。女三人で覗きこみ、感嘆のため息をついた。

   
北の怪物 東でも大暴れ
     
二試合で五発 Aクラスどころか初優勝も?

 一本目のホームランのフォロースルーが大写しになっている。法子が、
「五月人形みたい」
 カズちゃんがうなずき、
「ユニフォームという鎧を着た五月人形」
「クエスチョンマークだらけだ。とまどってるんだね」
 法子が、
「そりゃそうよ。東大と野球もびっくりする組み合わせだけど、ましてや優勝となったら想像不可能だもの。神無月くんしか起こせない奇跡ね。これからどうなっていくのか怖いくらい。ふつうじゃないことが起きてるわ」
「ぼくはふつうのことをしてるんだけどね」
 素子が、
「キョウちゃんのふつうは、異常なんよ」
 朝食のテーブルが整う。ハムエッグと納豆と焼海苔に、ナスの漬物と味噌汁。朝からめしが進む組み合わせだ。私だけでなく女たちも精力的に箸を動かす。素子がふと箸を止め、
「キョウちゃん、これからは何年も忙しくなるね。あたしらがそばにいることを考えすぎんといてね。ときどき顔を見せてくれれば、それでじゅうぶんやから」
 カズちゃんが、
「そうよ。私たちがいつも心がけてることは、できるかぎりキョウちゃんのそばにいることだけ。そして、キョウちゃんのさわやかな声をいつも耳にしていること」
 法子が、
「じつは、千年小学校で初めて神無月くんに遇ったとき、私は絶望したの。そしてそれを吹き飛ばすためにすぐ決意したわ。神無月くんという存在をふつうじゃない架空の夢だと思おうって」
 素子が、
「みんなわかっとるわ。こうしていられるのも束の間の夢やって。きのう、夢を見つづける情熱って話をしたばかりやないの。叶わん夢だなんて絶望せんと、夢を見つづけるゆう気持ちを鍛えることで心が豊かにするんやないの? それがあたしにとっての幸福や。その幸福だけは、絵空事やない。世間のどんな人も、その幸福を奪うことはできん」
 カズちゃんが、
「そのとおりよ」
 とうなずいた。私ははっきりとした語調で応えた。
「ぼくは夢を見つづけてるのかもしれないけど、ぼくたちの関係は現実だよ。野球は、この場所に留まろうと思ったとき、たまたま身近に現れたんだ。むかしを忘れさせてくれる夢のような遊び道具だった。ほとんど消えかけてた幼いころの記憶はなぜか悲しくて、遠い灯りみたいに頭の隅でずっと揺れてた。そんなものは忘れなくちゃいけない―そのためには、静かに、規則的に、夢を見ているように流れていく生活が必要だったんだ。なぜかと言うと、何かむかしの思い出に没頭していると、つい孤独だった幼いころを思い出してしまうし、自分だけですごしたそういう過去を忘れて出発しないと、新しく出会った人を愛することに冷たいものが混じってしまうと思ったからなんだ。ぼくは自分と似たようなおとなしい表情をした人びとにめぐり会うことで、人のやさしさを知り、愛情こそ命の根本だと気づいた。人を愛することは、気長な、崇高な、無から何ものかを創り出す仕事だ。ぼくのような変てこりんな人間を愛する人にしても、心の仕組みはきっとぼくと同じようにへんてこりんだろうね。おとなしい表情の下には、きっとたくさんの抑えられた悲しみや、たくさんの圧し殺されたため息がひそんでいるにちがいないんだ。それを隠しながらぼくを愛してくれる人に、ぼくが不安を与えるはずがない。ぼくのほうこそ、そういう決意をさせてもらって幸福だ。ぼくはこの場所からどこへもいかない」
 カズちゃんが笑いながら、
「キョウちゃん独特の文脈で話してるけど、私たちがキョウちゃんを愛してるのと同じくらい、キョウちゃんも私たちを愛してるってことを言いたいのよ。野球は出世するためとか、出世して私たちを切り捨てるためにやってるんじゃないってこと。素ちゃんと法子さんがみんなの不安を代表して言ってくれたけど、何も心配することはなかったということね。みんな、よかったわね。私もよかった」
 素子が、
「出世するためやなくても、キョウちゃんは出世するでしょ。あたしらは、愛されとることに甘えて足を引っ張らんようにせんとあかんね」
 みんな赤ベコのように一斉にうなずいた。カズちゃんがいれたコーヒーを三人で飲んだ。素子が私に語りかける。
「あたし、あのころ命がしぼんだみたいな生活してたでしょ。キョウちゃんはあたしにとって、そういうみじめな生活に飛びこんできた値段のつけられないほど大切な贈り物やったの。……いまもそう。あたしいつも神さまに感謝しとるんよ」
「……私もよ」
「私も」
 三人テーブルの上で手を取り合った。
 法子が立ち上がったので、私はダッフルを担ぎ、下駄を履いて、いっしょに玄関から出た。素子が法子に、
「来週も神宮球場へいくやろ」
「うん、日曜の応援にいきます」
「キクちゃんも日曜日はくるゆうとった」
「じゃ、来週。和子さん、素ちゃん、ごちそうさま」
「いってくる。自転車置いてくね」
「カギして出るわね。早く帰ったら自分で開けてね」
「ぼくもカギ持ってるからちゃんと開けられる」
「きのうのユニフォーム、クリーニングに出しとくわ」
「了解」
 法子と二人阿佐ヶ谷に出、山口に電話する。母親らしき人が出て、少し驚き、すぐ代わった。
「法子と阿佐ヶ谷にいる。下宿を見たいって言うんで」
「わかった。三十分で阿佐ヶ谷のポエムにいく」
 ポエムのテーブルに法子と向かい合っていると、下駄を履いた山口が、五、六紙を手にやってきた。ドッカと腰を下ろす。法子に、
「きのうもすごい試合だったんだって?」
「はい。神無月くんのホームラン二本」
「神無月のホームランは美しいからな。あの軌道は一生忘れられない。上京五人女、おとといで全員と顔合わせしたな。もういないだろうな」
「いない」
「俺を呼び出して正解だ。男と女二人きりでいるより、男二人女一人でいるほうが、まんいちマスコミに見つかったときに勘ぐられない」
「そんなつもりはなかった」
「わかってるよ。しかしこういうことなら、いつでもお安い御用だ。女二人以上のときも呼んでくれ」
「きのうのオーディション、どうなった」
「三時からぶっ通しで三時間もやった。新宿のグリーンハウスというパプだ」
「合格か?」
「バッチリ。ちょっと高級な店だから、学生を雇うかどうか逡巡したんだな。きょうの予定は?」
「法子にぼくのアパートを見せてから、本郷へ練習に出る」
「きのう、オーディションにいく前に神宮に寄って、ライトスタンドから観てたんだぜ。すげえ当たりが俺の頭の上へぶっ飛んでった。スカッとした」
「なんで東大の学生席へいかなかったんだ」
「さびしい村より、賑やかな街だ。応援が楽しくなる。どの新聞もおまえのことばっかりだ。三試合総当たり戦が始まって以来、東大史上初の勝ち点だって? 弱いチームもあったもんだ。まあ、一回戦ボーイの青高を二年連続で準優勝に導いた男だ。三位ぐらいにはもっていけるんじゃないか」
「優勝を狙ってるよ」
「大きく出たな。日曜日はかならず観にいってやる」
「ネット裏に全員集合してるぞ」
「合流しないよ。独りで応援したい」
「賑やかな街じゃないのか」
「俺だけの感想を抱きながら観たいってことだ」
「授業はどうしてる? ぼくは一週間じっくり受けて、ほとんど切った。人間も見つからなかった」
「俺も一とおり聴いて、切った。カスばっかりだ。国語学の北条というやつだけは話がおもしろくて、二度出席した」
「おろしろいって?」
「言葉を飾らないしゃべり方をするんで、理屈の辻褄が合って快適だ。そういうことはほかの講師には皆無のことなんでな」
「パフォーマンスがめずらしいってことだね。中身は」
「講義内容に興味があるわけじゃない。やつがいま研究テーマにしている〈笑い〉に関する雑談がおもしろくてな。二回目の講義のときにこんな話をした。私たちはだれでも、息を吐き出しながら、一息で『ハ、ハ、ハ、ハ、ハ』という音を出すんです。初めのハは大きく、最後のハは小さくて、息が切れかけているかのような状態になります。ハ、ハ、ハ、ハ、ハという音は、快いリズムで一秒間に五回発せられます。この単純なパターンを変えるのは難しい。わざと変えようとすると、なかなかうまくいかないので、自分がいかに標準的、かつ自動的に笑っているかわかります」
 山口は、ハハハハハ、と五回つづけて発声し、
「ほんとうに五回かと思い直したよ。三、四回がふつうだと思ってたからな。とにかくそんな話を聞いたら、意識して笑えなくなっちまう。そういうところがおもしろいと言えばおもしろい。こんなことも言ってたな。ほとんどの笑いは冗談のあとに出るわけじゃない、ふつうの会話の一部として発せられる、聞き手よりは話し手が発することが多い、たいていは会話文の区切りで発せられるから、笑いは句読点代わりだとな」
「息継ぎがわりということか」
「というより、しゃべり終わったことを目立たせるためらしい」
「学問というのは、抽象や総合ばかりでおもしろくないな。かわいらしいものとか、きれいなものなんかを見たときに、思わずハハハとやっちまうのは、どう定義するんだ。微笑はどうなる。ぼくは山口を見るたびに笑ってしまうけどな」
「……冴えた男だな。うれしいよ。ふつうでいたいのに、はみ出し者にしかなれないおまえとちがって、ああいう連中ははみ出し者を気取ってるが、ふつうの人間だということだろう。おもしろいと思ったのは錯覚だったかな」


         三十八 

 山口がコーヒーをすする。私もすする。うまいコーヒーだ。法子がおいしいと言う。山口が、
「ジャーマンブレンド。ポエムにしかない。夏はブラジルのアイスコーヒーがうまいぜ」
 初めて会ったときから、私は山口に対して愛情を感じていた。寺田康男のときと同様、私は彼といるだけで満足だった。私は、本能的に、山口がいまの地位よりもずっと価値のある人間であることがわかっていたけれども、彼はそれをほかの人びとにはみごとに隠しおおせていた。
「で、そのパブでギター修業をするのか」
「しばらくな。遠大な計画の第一歩だ。弾き語りで守備範囲を拡げてみるよ」
「法学部におもしろい学生は見当たらなかったのか」
「いないな」
 山口は法子を見て、
「家は落ち着いた?」
「あしたくらいに、荷物が届くと思う。それからゆっくり部屋の整理」
 あらためて法子をよく見ると、名古屋にいたころよりは少し太って、胸が鳩のように張っている。
「朝早くから和子さんがいっしょに探してくれて、午前中に決めてくれたの。きょうは蒲団一式買わなくちゃ。生活用品は、おかあさんが送ってくれるし、二、三日中には落ち着くんじゃない」
 とうれしそうに語る。
「で、武蔵境のどのへん?」
「節子さんの反対口から歩いて十分。『みつい庵』ていう駅前のお蕎麦屋さんが募集の貼紙出してたから、ついでに五月から働くことに決めちゃおうっと」
「蕎麦屋?」
「すぐやめるつもり。肩ナラシね。少し、東京の雰囲気を覚えてから、夜の勤め先を探すわ」
「さっさと神無月のアパート見せにいこうぜ」
 山口が立ち上がってレジへいった。
 明るい道へ歩み出す。永島慎二の通りのほうへ出た。歩きながら山口に、
「おトキさん、元気かな」
 山口はなつかしそうに目を細め、
「何度か手紙くれた。なかなか東京に遊びにくるのは難しいよ。やっぱりこっちからいくしかないな」
 私はうなずき、
「人に会うというのは、たいへんなことだ。時間と意志がないと。……特に意志」
「おまえのは鋼鉄の意志だ。時間をひねり出して貫く。俺は真鍮の意志ぐらいかな。時間の都合に合わせて貫く」
「ぼくは時間があってもぐずぐずする。ただ、すぐにでも会おうとする鋼鉄の意志はないけど、別れないという鋼鉄の意志はある。遇って、気に入ったら、ぜったい別れない。そう言えば、法子と再会したのは蕎麦屋だったね」
「そう、運命の再会―」
 橋本家の前に出る。
「あの角部屋。ごらんのとおりの環境だ」
「庭の眺めがいいわね」
「ボケ、ミツマタ、オウバイ、サツキ、トキワマンサク、赤、白、黄色、ピンク、きちんと考えて植えてる。ヒヤシンス、フリージア、クロッカス……これは最近気づいた」
「神無月くん、花に詳しいのね、すてき」
「祖母が天才だからね。小さいころからよく教えてもらった」
「あの目立たない花、何かしら」
「アラセイトウ。この庭のは白い種類だけど、赤も紫も桃色もある。カズちゃんの家の庭は芙蓉がきれいだね」
「相変わらず、鬼みたいな知識だな」
 山口が腕組みをして首を振る。法子は部屋のガラス窓に視線を移し、少し背伸びをして、
「きれいなステレオがある。ぴかぴかしてる」
「ナショナルテクニクスSC1400。音楽がないと、生きてる気がしない」
「ラジオじゃだめなの?」
「ラジオも長いあいだステレオで聴いてきた。でも澄んだ音楽が聴けない。小学校四年生のときから外国のポップスを欠かしたことがなかったんだけど、高校に入って忙しくなってしまって、二年以上も耳を留守にした。音楽の歓びを取り戻さなくちゃ。ノアでも『ヘイ・ポーラ』の話をしたことがあったね。お姉さんに幼いって言われたけど、ポップスを聴く耳も、クラッシックやジャズを聴く耳も先天的なもので、人間的な成熟とか、ブランクのあるなしとか、いっさい関係ないんだ。ただ敏感でなければ馬の耳だ。敏感なら、すぐ駄作と傑作を聴き分けられる。飯場のクマさんも、ここにいる山口も、そういう耳を持った人間だ。幸いなことに、ぼくもそういう耳を持ってる」
 山口が、
「クマさんというのは、中古のステレオをおまえに買ってきたっていう飯場の運転手のことだな」
「うん、そのステレオがきっかけで、本格的に音楽漬けになったんだ」
「神無月くんのことが好きだったのね」
「ぼくもクマさんが大好きだった。どうしてるかなあ……みんな、遠くへいってしまう。ぼくのほうから積極的に訪ねていかないせいもあるけど、あのころの名古屋のだれもかれも思い出だけの人になってしまった。かろうじて、康男と、節子と、法子と、それからカズちゃんが残った。人間て、いつも顔を合わせてないといけないんだね。そうじゃないと好きだったことまで忘れてしまう」
 法子はうっとりと首をかしげていた。私は孤独な道の上から人びとの善意の広場へ取りこまれたことをしみじみ幸福に思っている。しかし、ときどき、たまらなく孤独な道に戻りたいと思うことがある。そのことは言わなかった。
「―何か聴かせようか」
「聴きたい……」
「ちょっと寄っていくか。俺も聴きたい」 
 大家の婆さんに、客を入れると断って部屋に入る。
「あの婆さんたちにいちいち来客を報告しなくちゃいけない。少しうんざりしてる」
 山口はすぐ机に寄り、詩稿ノートを覗きこんだ。
「きみたちよ憶えていてくれ、酷寒の荒涼をわたしも見たのだ。……お、あの詩が完成してる。たしか、私も悲しみながら横たわった、ここまでだったな。……私も見たのだ、いつも私は、蒼い古代の人びとのその声を聞くのだが、私がきみたちに言いたいのも、これだけのことにすぎない、野も山も、川も海も、滅ぼうとして滅び去ったのではない、歴史のなかへさらわれていくことで、きみたちを捨てたのだった、けれどもきみたちよ憶えていてくれ、百世紀を明けそめてなお、きみたちの吐息だけが確かなもので、そして、一つしかないのだということを。―すばらしい! なんという透明度だ」
 山口は机に手を突いて、しばらく瞑目した。涙をこらえている。
「レコード選んでよ」
 山口は頭を振ると、レコードラックからタミー・ウィネットのスタンド・バイ・ユア・マンを抜き出した。
「相変わらず渋いところを集めてるな」
 不動産屋の警告を思い出して少しボリュームを絞った。いい音が流れ出す。
「おお! いい音だな」
「すてき。こんな音、聴いたことない」
「ぼくも最初びっくりした。機械ってどんどん進歩するんだね」
 つづけて赤い鳥の竹田の子守唄と、私は誰のためにをかける。低音の伸びと絃の響きがすばらしい。山口と法子がいるのを忘れて聴き入る。康男にもこうしてステレオを聴かせたことがあった。
「私、神無月くんにうんと贅沢させてあげる」
「必要なときはお願いするよ」
「新聞に載ってたが、おまえ、やっぱりすごい入学成績だったんだな」
「ああ、マグレの打ち止め。学費免除になった。一万二千円ぽっちだけど」
「千円でも払わないですむならそれに越したことはない」
「お母さんは、毎月お金送ってくるんでしょう?」
「学費どころか、生活費も送ってよこさない。ぼくが、いろいろな人から金をもらってるのを知ってるからね。毎月カズちゃんのお父さんが学費を送ってくれるし、飛島の人たちがくれた餞別の残りもある。カズちゃんもときどきくれる。いつもふところがあったかいんだ」
 山口が、
「北村のオヤジさん、俺にも毎月十万送って寄こす。親たちが驚いたんで、おまえ絡みの事情を話したら、タニマチを買って出られたということは見こまれたということだ、期待を裏切らずに、将来かならず出世して恩義に報いるようにしろって、それでザッツエンド。サッパリしたもんだよ」
「それでもバイトするのか」
「修業は欠かせないからな」
 法子は、私が義捐金暮らしをしているということよりも、母からまったく仕送りを受けていないという事実に驚いたようだった。法子はバッグを探って封筒を差し出した。
「はい、これ、合格のお祝い。母と姉と私から。おととい渡すのを忘れちゃったら、きのうもすっかり忘れちゃった」 
「分厚いな!」
「十万円ずつ、三十万円。受け取ってもらわないと困る。おかあさんたちからくれぐれもって言われてるから」
「しかし、神無月のおふくろさんはどういうつもりだ。有徳の神無月は金の成る木だとでも思ってるのか」
「受験料と入学金は出してもらった」
「受験料……彼女はいつ報いを受けるんだ」
「いい死に方をしないわよ。とにかく受け取って」
「また抽斗に放りこんでおこう。ありがとう」
 婆さんたちに挨拶をしてアパートを出、王将でホレタマ定食を食った。食事のあいだじゅう客たちが私のほうを見ながらざわついていた。
「おまえは絵になるから、どうしても写真が出ちまう。ノイローゼにならないように、せいぜい工夫しろよ」
 店を出て、山口と法子と三人で中央線に乗った。
「きょうのマスターは、山口がいるので唄わなかったな」
「このあいだも悪気はなかったんだが」
「けなしたのね。気の毒に。小熊ちゃんみたいな顔して、繊細そうだったもの」
 電車の窓の外の風景が、過去の世界を包む皮に見える。その皮をいちいち剥き、過去の世界を引っ張り出そうとする。この土地の景色に、引っ張り出したい過去がないことに気づく。記憶のネガに焼かれていない世界は引っ張り出しようがない。仕方なく新しい皮を憶えこもうとする。ただ、思い出にする前に、確実に思い出になると予見しなければ記憶できない。
「ボーッと何を見てるの」
 法子が私の目を深く覗きこんできた。その目を見つめ返し、力のある美しい目だと思う。私の女たちの目は、大小に関わらず力と光があって、とても美しい。山口が私の代わりに答える。
「記憶しようとしてるんだ。悲しい本能だ。次で降りるよ。神無月、早大戦がんばれよ。日曜日のスタンドにいるからな。捜さなくていいぞ。じゃ、法子さん、今度みんなで横山さんの店にいこう。上京してから会ってないんだろう」
「はい、本を読むようになったって報告したいです」
 山口は西荻窪で降りた。一駅だけ法子と二人になる。
「きょう、練習の帰りに寄るよ。四時くらいかな」
「ほんと! 電話がないから連絡できないわね。北口のパチンコ屋の前で待ってる。四時になってもこなかったら、パチンコ屋に入ってるね」
「うん。入って捜す」
 私は吉祥寺で降り、法子はそのまま電車に乗って去った。



         三十九

 東大グランドにほぼ全員集まって熱心に練習していた。監督以下スタッフはバックスタンドでじっと見つめている。ランニング、三種の神器、遠投、素振りを終え、芝生で寝転がって軽いストレッチをやっていると(重いストレッチはケガのもとだ)、白川マネージャーがやってきて芝に腰を下し、六大学野球の講義を始めた。
「基本的なことを教えておいたほうが、みんなと話が通じやすいと思ってね。東大野球部は東京六大学野球連盟に所属してる。これを所属リーグと言う。六大学は言える?」
「明治、東大、早稲田、慶應、法政……」
「立教だ。リーグの歴史は大学野球でいちばん古く、大正十四年、一九二五年だ。その年に東大は五勝七敗で四位。以来七十六シーズン、昭和八年に三位が一回、昭和二十一年に二位が一回あるきりで、あとはすべてBクラスだ。四位が九回、五位が十三回、六位が五十二回だ。ここ十年二十シーズンは、五位が二回、六位が十八回」
「すごいですね!」
「ある意味すごい。ここに優勝となったら、すごい、ものすごいを超えて、超常現象だ」
「Aクラスが二度もあったのなら、実績はあるわけです。大正以前は強いチームだったことを思い出すべきです」
「一高か。むかしむかしのお話だね。ところで、試合はぜんぶ神宮球場で行なわれる。春と秋のリーグ戦最終週は早慶戦一カードだけ行なわれる。神宮球場は学生でない一般人も学生席で応援観戦できる。二試合行なわれる場合、観客の入れ替えはない。二戦先勝で勝ち点一、勝ち点が同じ場合は勝率の高いほうが上の順位になる。同勝ち点、同勝率で一位の場合、早慶戦終了後にプレーオフ一試合が行なわれる。同じ条件で一位が三チームの場合、巴戦三試合が行われる」
「一誠寮の食事は寮生以外でも―」
「オーケーだ。たまに食いにいってみてくれ。みんな喜ぶぞ」
「野球部員はアルバイトができますか」
「それもオーケーだ。たいてい家庭教師か塾講師だけどね。基本的には六勤一休で、日曜日は休みが取れる。金太郎さんには関係ないな」
「はい、特別待遇ですから。甘えないように自分を戒めてます。野球用具に関してもぼくは特別待遇ですが、ほかの部員はどうなってるんですか」
「グローブ、スパイク、ユニフォーム、バットは各自購入。帽子、ヘルメットは大学が支給。部費月千二百円。一年生は免除。一誠寮食費有料。生協の食堂は夜の十時まで開いてる。ユニフォームは二万円から三万円もするので、けっこうな出費だ」
 私はふと好奇心が湧いて、
「新治投手というのはいつごろの人ですか」
「昭和三十六年から四年間エースで投げた。大男。八季連続最下位だったけど、四年間で八勝もした。四十敗以上してるけどね。四十年に大洋入りして、二年間で九勝六敗。立派だね。ここ二年はほとんど登板がない。引退だと思う」
「井手という人は?」
「三十八年に東大に入って四十一年まで投げた。新治の控えで二年間やった。四勝二十一敗。金太郎さんの愛する中日ドラゴンズにドラフト三位で入団して、新人で一勝四敗。沈んだね。野手転向が囁かれてるけど、悪あがきだろう。東大の名を高めてくれるのは、金太郎さんだけだよ」
 さびしい気分になって、フリーバッティングを始めた。カメラマンたちがケージに集まってきた。
 公衆電話からフジのカズちゃんに連絡を入れた。
「法子のところに泊まってくる」
「わかった。帰ってくるのはあしたの練習のあとね」
「うん。夜阿佐ヶ谷に自転車で帰る」
「はい。何食べたい」
「トキワのビーフシチュー」
「オッケー」
          †
 四時十分。武蔵境駅の北口を出て、武蔵境商店街を見通す。境銀座という三角の小旗が電柱から電柱に掛け渡してある。左手の角地の五階建てのビルの隣にパチンコ屋があった。大きなガラス扉の前に法子が立っていた。
「お待たせ」
 法子は嬉々として腕を組んでくる。
「私も四時にきたばかり。お腹いっぱいだけど、みつい庵に入りましょ。偵察」
 角ビルの一階の蕎麦屋の小ぎれいな暖簾を眺める。商店街の何軒か向こうに蒲団屋が見えた。
「よさそうな店だ」
 戸を引いて入る。二時を回っているので立てこんでいない。小上がりにあぐらをかいて店内を見回す。掃除が行き届き、品出し口も清潔だ。奥で働いている職人の白衣も糊が利いてパリッとしている。もりそばを頼む。法子はたぬきそば。白巾を姉さんかぶりにした中年の女が愛想よく応対する。たぬきそばと天ぷらうどんを頼む。
「たぬきがいちばん好き」
「ぼくは立ち食いの天ぷらうどんがいちばんだな。東京で覚えた。こういう正式な店にきたら、もりを食うことにしてる。―あれ、おもしろいね。何だろ」
 壁に貼ってあるポスターを指差す。
「ああ、巨人の星。星飛雄馬」
 ユニフォームを着た少年がボールの代わりに割り箸を握って、ざるそばをすすっている漫画だ。手描きなので、店の者が描いたとわかる。
「感じのいい店だ。たしかにもう一人いないと、混んだときに注文が滞っちゃうね。時給は?」
「四百五十円」
「喫茶店の二倍だ。西高の同級生の父親が今池でパチンコ屋をやってるんだけど、そこは時給百何十円だって」
「それ、ひどすぎる」
 もりそばとたぬきそばが出てくる。うまい。二人たちまちたいらげる。
「武蔵境にきたら、かならず入ることにしよう」
「すぐ約束しようとする。そんな暇ないでしょ」
 商店街の一本道を歩きはじめる。店々から吐き出される活気が快い。蒲団屋で、かなり高価な一式を注文する。法子は住所を告げ、一時間後に届けてくれるように言う。
「昼間退屈しただろう」
「箒木とバケツと雑巾買って、一日お部屋のお掃除してた。名古屋に電話したら、十一日にようやく荷造りが終わって送ったと言ってたから、届くのはきょうあすね。ここの商店街、何でも売ってるのよ。名古屋には、こういう、町に一つあるような賑やかな商店街って、あんまり見かけないわよね。神宮前にしても、それほど賑やかじゃないし。東京は商店街だらけね」
 通りを抜けて右折すると、町が田園にまぎれていく風景になった。道の肩に林が迫っているせいか、湿った土いきれがする。民家の群れが、ところどころの空地を跨いで連なっている。
「いいところだ。横浜の浅間下に少し似てる。いや、浅間下もこんなに土はなかったな」
「浅間下って?」
「小さいころ、おふくろと暮らした横浜の下町。名古屋にくる前、四年間いた。どの一年も細かく憶えてる」
 私は立ち止まって、はるかな思いといっしょに湿った土いきれを吸いこんだ。
 T字路を左折してすぐ、平屋のアパートがあった。樹海荘と長方形の板が打ちつけてある。コンクリートを打った廊下を法子は浮き浮きと先に立っていく。外股が少し節子に似ている。廊下の左右に三戸ずつ。
 ―きのうのことばかり考えている。しかし、あしたというのも空っぽな言葉だ。きょうの次の日というものに、何の信仰も持てない。多くの歳月が流れ去った……そんな決まり文句を言えるときが、いつかやってくるのだろうか。
 左手奥の三号室のドアを開けて、沓脱ぎを上がる。かなり大きい内便所がついている。ノブを引いて覗いてみると、和式の水洗なのでホッとした。新しい畳が冷えびえとしている。法子が掃除のつづきにかかる。
「掃除道具だけがピカピカしてる」
「ふふ、これでけっこうきれい好きなのよ。もう庭の落ち葉掃除と、押入と窓枠の掃除は終わったわ」
 壁に箒をかけ、バケツに水を盛って雑巾を絞る。せっせと畳を拭く。
「この部屋、冷えるわね。蒲団届いたら、すぐ敷いちゃう。いまのところ暖房器具はそれしかないから」
「よかったね、それしかなくて」
「へへ、その言葉の意味よくわかる」
 法子は窓ガラスを固く搾った雑巾で拭く。すべて終えるとタオルで乾拭きをする。
「あ、食器も買ってある」
 食器が形ばかりに整っているガランとした流しが詫びしく映る。
「水屋が届かないと、さまにならないね」
 ステンレスの流しがレンジ台も含めて一帖もある。どうしてそんなに広く造ってあるのかわからない。
「この部屋、十畳はあるね。何かの寄り合い部屋だったんじゃない?」
「そうかもね」
 流しの横幅だけ窓が切ってあって、ひどく明るい。金網の棚でも取り付けて、こまごました調理用品を増やしていけば、暖かい雰囲気の台所になるだろう。
 流しの左端から直角に折れた壁に、背の高い磨りガラスの二枚戸がはまっていて、開けると、庭の体裁の整わないかなり広い囲い地になっていた。葉の上に砂ぼこりを載せた無花果の木が立っている。管理人が手入れを怠っているらしく、その根方にサクラソウやミヤコワスレがでたらめに群がり生えていた。
 押入の天井板と仕切り板の裏を拭き、トイレ掃除が終わるころ、蒲団が届いた。うれしそうに包装を解いた真新しい蒲団一式を法子は丁寧に敷き、容れもののビニール袋を畳んで押入の隅にしまった。
「オシッコ!」
 トイレに飛びこんでいった。私は裸になって蒲団にもぐりこんだ。
「もうだめ。がまんできない。抱いて、早く抱いて」
 法子はトイレを出るなり蒲団へ直行する。
「早くイキたい。シックスナインでイカせて、すぐイクから。それで少し落ち着くと思う」 
 法子を顔に跨らせ、小便の名残と愛液で濡れそぼった陰唇にかぶりつく。舌を丁寧に使う。
「ああ、すぐイク、オシッコついてない?」
「うん」
「ああ、気持ちいい! すぐイク、イク、イクウ!」
 鼻の上で下腹が収縮し、局部全体が私の口を塞いだ。唇にクリトリスの緊張が伝わる。舐め上げる。法子は飛び上がって、蒲団の脇へ転がり落ちた。背中にびっしょり汗をかいている。
「神無月くん、じょうず―」
「ちょっと休もうか。疲れちゃった」
「嘘! こんなになってるくせに」
 起き上がり、両手で握りしめる。口を開け、呑みこむ。思いついたように、後ろ向きに跨った。
「うわあ、この格好、気持ちいい、ああ、当たる、気持ちいい、奥に当たる」
 だれもが執着の中で生きている。傍観者になることができれば執着は消える。すべてを見通し、何もかも理解できるからだ。法子が上下に動きはじめた。
「だめ、すぐイッちゃう、ああ、気持ちいい、あ、イク、イッちゃう、イッちゃう、イクウ!」
 また、脇へドサリと落ちる。見ていて愉快になってきた。
「かわいいね、法子は。天真爛漫で。きっと、死にたいなんて思ったことなんかないんだろうね」
 法子は愉悦の中で懸命に答えようとする。
「な、ないわ、神無月くんはあるの?」
 あえいでいる背中がかわいらしい。
「ときどき、ある」
「どうして?」
「死ねば、生きていて山ほどすることがあるなんて、人に気兼ねしてもらう必要がなくなるだろう?」
「……なんだか、すてき。神無月くんの言葉って、いつも胸にくる」
 法子は苦もなく私の話に感応する。まだ背中がふるえている。
 ―私に言葉などない。見て、感じ取るだけでいい。見て感じ取り、だれかのほうに近寄るということ、私でない何かに向かって好奇心を持つということ……身を落とすこと。


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