四十

 ふるえのおさまった法子は聞き耳を立て、息を殺しながらじっと私の次の言葉を待っている。私が何も言わないので、枕もとに這い上がってきて唇を吸った。人の説明を聞くのは苦手だ。自分でそれをするのは余計に煩わしい。
「今度こそ、休もうか」
「いや、神無月くんもイッてくれないと、うれしくない」
 法子は私の力をなくした性器を唇に当てて、やさしく舌を使いはじめた。彼女の願いが強いのですぐに回復してくる。どれほど傍観者になっても、女のからだに倦怠を感じることはない。何の屈託もなく局部の結合に没頭できる。女の反応に興味が集中する分、自分の快楽のことに関心が薄くなり、達するのが遅くなる。正常位で交わり、単純な抽送をする。すでに膣が狭くなっているので、それでじゅうぶんな快感が得られる。射精を迎える準備をする。カズちゃんは全体を包みこんで、うねり、締めつけるので、射精の準備をする暇もなくとつぜんの快感に引きこまれる。
「何回もイッていい?」
「いいよ」
 狭くなった膣に引き止められるのを振り切るように、抵抗して腰を動かす。
「ああ、イク、イクッ!。はあ、気持ちいい、あ、イク、イクウ! あ、あ、イク、イックウ! もうだめ、神無月くん、愛してる、好き、好き、大好きよ、イク、イック! もうだめ、いっしょにイッて、あ、あ、イク、イク、イクウウ!」
 私は意志の力で達した。いつにも増した射出感に尿道が痺れる。法子の膣が軟体動物のようにうごめいている。刺激しないように抜き取り、まぶたにキスをして横たわる。彼女の手が私の胸に置かれる。
 台所の窓に夕日がきている。林から透いてくる幻想的な光だ。こんな光に包まれる自分が不思議だ。いや不思議ではない。小学校や中学校の校庭で白球を追っていたころの自分にも、たしかにこの光が降り注いでいた。回復を願いつづけた光だ。あした何を願うかではない。きょうまで何を願ってきたかだ。あしたは、きょうまでの希望にくっついてやってくる。
「……雅江ちゃんにも、こんな思いをさせてあげたい」
 ひさしぶりに聞く名前だ。いつのまにか、法子の男勝りの黒目が私を温かく見つめている。
「でも、だめね。道草を食う人には、たぶん待っているものはめぐってこないわ。……でも、一度は抱いてあげてね」
「カズちゃんも同じことを言った。嫉妬しないの?」
 カズちゃんにしたのと同じ質問をする。
「嫉妬なんかするもんですか。神無月くんは、私一人のものじゃないのよ。神無月くんのそばで暮らすことだけを神さまにお願いして生きてきたんだもの」
 棘も皮肉もない素直な言葉だった。私は何回も聞かされてきたその言葉に逆らわずにうなずいた。
         †
 十六日火曜日。法子と午前八時過ぎまで眠って起きた。法子の歯ブラシで歯を磨く。そのあと同じ歯ブラシで法子が磨いた。流しの水道で口を漱ぐ。
「歯ブラシいっしょに使ったの、初めてよ」
「汚い?」
「ううん、お尻も舐められる。神無月くんのからだに汚いところなんか一つもない」
 二人で散歩に出る。上天気。顔を見合わせ微笑み合いながら、風景を見ないで砂利混じりの土の道を歩く。道に飽き、目を周囲の風景に戻す。駅からさほど遠くない場所に広い土地や大きな木々がある。林のへりにポツンと後藤肉店。五メートルものツタにスッポリくるまれている大きなモルタル家がある。土がアスファルトに変わり、駅前に出る。もう一度商店街に入り、キョロキョロ左右を見ながら通り抜けていく。丸田蒲団店の向かいにバー群(むれ)。階段が二階に昇っている。
「バーから銀行まで、この商店街には何でもあるのよ」
 長い軒並だ。アスファルトが途切れ、右折して土の道を真っすぐ進む。十字路にレストランぽあん。
「おいしそう。今度入ろうっと」
 きのう歩いた畑のあいだを通る道。
「猫って、かわいらしくて、いつも縁側や、塀の上や、窓辺でじっとしてるわよね」
「うん」
「でも、動くものをポンと放ってあげると、サッと飛びついて楽しそうにじゃれる」
「うん」
「神無月くんみたい。野球も、勉強も、詩も、歌も、女のからだも」
「なるほど。当たってる」
「プ。そういう神無月くんを思わず抱き締めたくなる。猫を抱き締めるみたいに」
「ありがたい」
「アハハハ。子供のころかわいがってた猫がいたの。ロイという名前。哲学者みたいに一日じーっと窓辺にいて、めったに近づいてこないんだけど、あるとき、寝ている私の首にかぶさって、マフラーみたいになって眠ったことがあったの。かわいくて、うれしくて、私いつまでも動けなかった。……神無月くんて、私のロイ」
「うれしいな。原始的に愛されるのは」
「ウフフ。大好き」
「ぼくも人を原始的に愛そうと心がけてる。でも、もともとふつうの猫のように愛が薄い人間だ。理屈で愛そうとしてしまう。ロイのように突発的な自然体でマフラーになれない」
「それでいいの。理屈でもいいから、なんとなくマフラーになってくれたりしたら、ばんざいしたいくらいうれしいわ。そして少し悲しい。その悲しさが、私、とても好きなの。……いつも神無月くんの名前を呼びたいわ。荷物が届いたら、すぐ電話をつけます。ときどき、呼びかけたら応えてね」
「うん」
 樹海荘に戻る。荷物はまだ届いていない。ダッフルを担ぎ、武蔵境駅前に出る。喫茶店でモーニング。
「おそば屋さんの仕事、いまから決めてく。日曜は応援にいけると思う。がんばってね」
「がんばる。法子もあせらずのんびりやって」
「はい。とにかくお勤めするのは、荷物が届いたあと」
         †
 法子と駅前で手を振って別れてから、鈴木睦子に電話を入れ、三十分後に阿佐ヶ谷駅南口で会うことにした。睦子は練習に出ずに、部屋でずっと電話を待っていた。いじらしかった。
 阿佐ヶ谷の南口に立ってまもなく、睦子のトレパン姿が道の遠くに現れ、私に気づいて早足になり、最後は駆け足になった。両手を広げながら私の胸に飛びこんだ。片手に東大バッグを持っている。
「初々しいね!」
「はい。〈儀式〉が終わったら、午後から練習に出ようと思って」
「ぼくも出るよ。……ほんとにいいんだね」
「はい、三月からずっと、いえ、三年前の春から心に決めてたことです。ちゃんとお風呂に入ってきました」
「旅館がいい? ぼくの部屋がいい?」
「旅館がいいです。記念日ですから、きちんとした場所で」
 南口のタクシー乗り場へいく。乗りこむなり、
「このへんでいちばん立派な旅館へ」
 と五十年配の運転手に言った。
「荻窪に西郊(せいこう)という老舗があります」
「そこへ」
「はい、ご乗車ありがとうございます」
 ダッフルを提げている私の正体に運転手はすぐ気づき、それきり黙った。睦子が私の手を握っている。
「荻窪なら一本で本郷へいけますね」
「そうだね。今度は早稲田戦か。ついに二強とぶつかる」
「勝ちましょうね」
「うん」
 ガードをくぐって青梅街道へ出る。ひどく細い道をくねくね走り、広い道に出、やがて 青銅のドーム屋根を戴く風格ある建物に着いた。周囲の家並から浮き上がった裏手の古屋敷につけた。降りるとき、
「運転手さん、放っておいてくれてありがとう」
「どういたしまして。もう一度出会うことがありましたら、サインをいただきます。そのときは、プロ野球選手になっていらっしゃるでしょうね」
「そうありたいです」
「荻窪駅まで、六、七分ですよ」
「わかりました」
 大きな格子戸を引いて、枝垂れ柳と松の植わった小庭に入った。格式ばった雰囲気の旅館で、広い玄関土間に掃除がゆき届いていた。黒電話を置いたフロントの天井に梁板が交差していた。案内を兼ねた中年の女将が私のダッフルと睦子のトレパン姿を見て、やさしく笑った。睦子も笑い返した。気高く純真な笑いだった。応接コーナーに日本の油絵がかかっている。炉棚に旧式の鉄羽扇風機が置いてあった。
「いい雰囲気ですね」
「震災で、本郷からこちらへ移り住んだんですよ。大正の末です」
「不思議な縁だ。ぼくたち―」
「本郷の学生さんですね。お二人とも新聞の写真で存じてます。ここには政治家のかたや財界のかたもいらっしゃいます。そのあたりはきちっとしてますから、どうかご心配なく。ドームのほうは洋室ばかりですので、こちらの館にお部屋をとりますね」
「一時間ほどで出ます。記念の日なので、いい部屋をお願いします」
「わかりました。二階の、前栽(せんざい)を見下ろせるお部屋にしましょう」
 女将と仲居が仕度に上がった。五分ほどして二階の廊下の奥部屋に通された。一間の清潔な部屋に、新しい蒲団が敷かれていた。掛軸、座卓、障子窓、どれをとってもノスタルジックな趣だ。窓を開けると風が流れこんですがすがしかった。
「よいご記念を」
「はい」
 と睦子が返事をした。女将と仲居が去った。廊下の階段から始まって、部屋の壁や、雪見、一つひとつの調度まで味わい深く、昔の職人の技が集められているとわかる。卓も畳もよく磨かれ、花も活けられているが、風呂はなく、格子の引き戸に石敷きの便所があるきりだ。やはり、その種の品のよい旅館も兼ねているようで安心する。
 庭が美しかった。二人でしばらく窓辺に坐って春の花を眺めた。藤棚のフジが満開だ。五葉松の根方に、紫のイヌノフグリが群がり生え、そのあいだにぽつぽつと可憐なイチリンソウが白く点じている。睦子が茶を入れた。
「めずらしいね。エリカだ。松の向こうに植わってる」
 睦子は私の手をとり、
「……好きです。最初に教室で見た日から、神無月さんの何もかも。東大に合格できたから、四年間はそばにいられます」
「一生そばにいればいい」
「はい、そうします。神無月さんが許してくれさえすれば」
「いてほしい。優勝したら、中退するよ」
「ドラゴンズですね。私は労働能力なさそうですから、名古屋大学に入り直します。そこで勉強しながら、大学の先生になろうと思ってます」
 引き寄せて唇を吸った。舌を絡ませると、慣れないふうに舌を動かした。胸を揉むと舌が止まった。涙を流していた。
「からだを見せて」
「はい」
 睦子は蒲団の上に立ち、トレパンの上下を脱いだ。ブラジャーとパンティになった。カズちゃんとそっくりな体型をしていた。胸と尻が大きく、腰がくびれ、脚が長い。
「すごくきれいなからだだ。何センチ?」
「百六十センチです」
 カズちゃんより一センチ低い。私は彼女のからだを見つめながら、全裸になった。陰茎が少し伸びていた。
「まぶしい……白く輝いてて、人間じゃないよう。そこだけ、色が……」
「手にとって見てごらん」
 睦子は立て膝になり、手のひらに載せた。みるみる怒張してきた。
「わあ! どうしましょう」
「どうもしなくていいよ。そうならないと、睦子の中に入れない」
 睦子はしばらく見つめてから、本能的に含んだ。亀頭を大きな飴玉のように舐める。処理できず、すぐに吐き出した。
「大きくて、舐められません」
 無邪気な女の唾液でぬらぬら光っている。
「睦子って、子供みたいなんだね」


         四十一

 私は彼女を横たえ、フリルつきのブラジャーを外し、白いパンティを引き下ろした。胸はカズちゃんと瓜二つの形と大きさで、臍は深く窪み、陰毛は吉永先生のように幾何学的に美しい逆三角形をしていた。腹に手を当てると、快適な弾力と湿りがある。陰毛が薄いので割れ目がくっきり判別できる。
「幸せ……」
 目をつぶった睦子が呟いた。私は溝をさすりながら、そっと股を割った。
「あ、恥ずかしい」
 クリトリスの包皮の白さが目にきた。包皮から同じように白い核が覗いている。まったく快楽に消費されたことのない陰核だ。大切に口づけをした。ハア、とかすかな息をしながら恥ずかしそうに膝を閉じた。無理に開けて、形のよい二枚の小陰唇を吸いこむように舌に乗せる。小指を膣に浅く入れる。たちまち潤ってきた。呼吸が早くなる。
「初めての感じ?」
「は、はい」
 驚いた。オナニーすらしたことがなかったのだ。生まれて初めての感覚を大切に経験させなければならない。乳房を揉み、乳首を指先でなぶりながら、クリトリスの周囲と柱を舐める。柱が硬くなって、陰核が包皮からふくらみ出てきた。小指を人差し指に替え、上壁を擦りながらクリトリスを舌で押し回す。
「ああ、神無月さん、私……」
 太腿が細かくふるえてきた。喉が切なそうに鳴る。アクメの発声を知らないので、喉を鳴らすだけだ。クリトリスを吸い上げる。
「ア、ウーン!」
 両頬をほてらせ、高く呻いて、尻を浮き上がらせた。爪先までふるわせながら強く達した。尻が降りてきて、本格的に腹の収縮が始まった。両足を突っ張り、腹の収縮を繰り返す。口を吸う。猛烈に吸い返してきた。脚を開き、五センチほど挿入して、止める。膣の内部に脈を感じるけれども、愛液はスムーズに出てこない。
「結ばれたよ」
 睦子は目を開き、
「うれしい……」
 と言った。
「痛くない?」
「痛い……です」
「少し出血するかもしれないけど、動くね」
「はい」
 五センチほどの浅さでゆっくり往復する。
「ツツ……」
 痛みのせいで膣が緩む。愛液が増してこないので、滑らかに動かない。一たん抜いて、腿を持ち上げ、膣口に唾液をたっぷり垂らした。幸い出血していない。
「やさしい人。持ち上げるの、つらくないですか?」
「だいじょうぶ。早く動くけど、痛みをがまんしてね。睦子の中に射精して抱き締めたいから」
「はい……」
 徐々に深く挿入し、わざと引く摩擦を強くして処女膜に痛みを与えるようにする。
「タタ、痛い!」
 ゆるい膣に素早くこすりつけて、五回、十回と頭の中で数えながら、単なる刺激の増幅に頼って射精を引き寄せる。やがてそれはやってくる。睦子の唇に唇をつけながら射精する。律動を大げさに伝えて彼女を感動させる。
「ああ、神無月さん、好き、大好き、愛してる!」
 強く抱き合う。離れ、引き抜いて、膣から流れ出る精液に触れさせる。
「舐めてごらん」
 少し口をゆがめて舐める。
「それがぼくの味だ。睦子の味はさっき確かめた。甘かった。ぼくのは?」
「甘苦くて、強いにおい。……すてき」
「ぼくたちは、いちばん根っこで知り合った。最高の信頼関係を結んだ。もう離れない。睦子が離れないかぎり」
 もう一度しっかりと抱き合った。
「睦子が快楽を感じるようになるのは、あと何度かセックスをしたあとだと思うけど、それまでは毎週火曜日に逢おう。ときどきグランドからいっしょに帰って、道端でするのも刺激になる。恥ずかしいことじゃないから、何度でもしよう。安全日だけね」
「はい!」
「血が出なくてよかった」
「出血する処女は、二、三パーセントしかいないって、保健の時間に習いました。自転車や、体操や、指を入れることで簡単に破れてしまうんですって。……でも、痛かった」
 微笑み合い、胸を接して深く口づけし合う。睦子はティシュで精液を拭い、東大バッグにしまった。そして、だれに教えてもらったわけでもないのに、私のものを亀頭から付け根まで丁寧に舐めて清潔にした。胸を打たれた。
 二人服をつけて、部屋を出た。下に降りると、フロントにいた女将が、
「ご無事に?」
 と睦子に訊いた。
「はい、無事に……念願が叶いました」
 入ってきたときと同じように微笑む。
「よかったですね。これからも、いつなりとお越しください。いいお部屋をご用意します」
「ありがとうございます」
 私は、
「おいくらですか」
「いちばんいいお部屋なので、二千五百円です。お泊りは五千円ですよ。〈急ぎ〉のときは、ふつうの部屋で一時間八百円のご休憩になさい」
「そうします。食事もできますか」
「もちろんできます。種類は多くありませんけど」
 睦子が女将に、
「さようなら」
 と明るく言う。
「はい、さようなら。かわいらしいお嬢さんね」
 睦子が腕時計を見ると、十二時を回ったところだった。陽の高い晴れ上がった道へ出る。
「お腹へったね」
「はい、すきました」
「阿佐ヶ谷に戻って、木莬という居酒屋に入ろう。そういう店の食事は掘り出し物が多いんだ」
 タクシーで阿佐ヶ谷に出る。
「ほら、十二時から二時まで食事ができるって貼紙してある」
 小暗い店に入った。後ろ髪をちょん髷ふうに結ったマスターが、いらっしゃいと言う。長いカウンター、ボックスが四つ。ボックスに客が二組いる。壁に貼ってある食事メニューはハヤシライスとチキンライスだけだ。スッキリしている。いい味だろう。
「ハヤシライスください」
「私も」
「はい。あれ? ひょっとして、神無月選手?」
「そうです。いまから練習に出るところです。こちら、マネージャーの鈴木さん。ぼくがサボってるので、迎えにきたんです」
「かわいいマネージャーだ。選手も気もそぞろになるね。九重佑三子に似てるな」
 言われてみれば、たしかにそうだ。あらためて見直す。マスターが、
「へえ、神無月選手かァ。いい男だなあ。やっぱり阿佐ヶ谷に住んでたんだ」
「やっぱりって?」
「いや、ある人に聞いてね。サイン、いただいていいですか」
「はい。金釘流ですよ」
 出された正方形の色紙に楷書で、
神無月郷 木莬さんへ S43・4・16 と書く。
「ありがとうございます。セロファンで包んで、壁に貼っておきます。どちらにお住まいですか」
 フライパンを動かしながら尋く。
「天沼です。ある人って、横山でしょう。ラビエンの横山。よく飲みにきますか」
「はあ、常連さんです。朝方まで飲んでることもありますね。神無月さんと友人だと言ってたな。ほんとだったんですね」
「青森の同じ町出身です。家が斜向かいでね。あいつ、ツケ貯まってませんか」
「貯まってます。かまわないんですよ。あの人は客寄せの福の神ですから」
 私はポケットから三万円出した。
「これで、当分飲ましてやってください。このことは内緒でお願いします。やつがツケを払おうとしたら、それも受け取っちまってください」
「はあ……じゃ、遠慮なくいただいときます。三万円もあれば、ふた月は横ちゃんの肝臓に貢献しますよ」
 腕のいいコックだった。味わいの深いハヤシライスを二人でたちまち平らげ、チキンライスを一人前とって、分け合って食べた。
「うまかった! ごっそさん」
「ごちそうさま」
「おそまつさま。毎日、マスコミに追いかけられてたいへんでしょう。お忍びだってわかってますから、騒ぎ立てませんよ。色紙を飾らせてもらいますけど、一度きたきりだってお客さんには言っときます。またこっそり食べにきてください。リーグ戦、がんばって」
「ありがとう」
 私たちの会話はボックス席まで届かなかったようだ。ホッとした。
 腕を組んできた睦子が離れがたそうにするので、南阿佐ヶ谷までいっしょに歩いた。
「練習、何時までだっけ?」
「七時です。バトントワラーの件で、上野さんや白川さんとの打ち合わせもあるので」
「バトン? 作るの」
「らしいです。チアリーダーズとまではいきませんけど。ライトブルーの制服と帽子、白ブーツにショートパンツを穿いてバトンを回すくらいのものです」
「ああ、東京オリンピック」
「はい。黒屋さんや上野さんが、去年までバトンをしてた友だちに心当たりがあるみたいで」
「盛り上がるぞ。高校時代はうるさい野球が嫌いだったんだけど、士気を高めるには適度なスタンドの応援が不可欠だってわかってきた」
「来週の火曜日は?」
「睦子のアパートに泊まる。夜、自転車でいくよ」
「やった! 腕をふるってカレーを作ります」
 荻窪に出て本郷に向かう。本郷三丁目の駅で前後に別れる。睦子が先にいく。
 二時から五時までミッチリ練習。守備練習に力をこめた。とりわけ左中間を抜かれた当たりをトスし合って二塁へ送球する練習を何十回もやった。三月末から三週間、フェンスに向かっての遠投練習を怠らずに繰り返してきたおかげで、仲間たちの送球が内外野ともにサマになってきた。
 率先してフリーバッティングをする連中が多くなった。きょうからバッティングケージが三台に増やされた。横平の当たりがコンスタントに芯を食い、打球の伸びも増してきたので、三番固定が当確となった。
 仲間たちに挨拶をし東大球場をあとにする。高円寺でビーフシチューを食い、新しいユニフォームを受け取って、暗い夜道を自転車で阿佐ヶ谷へ帰る。これからの人生がふと不安になったけれども、どの夜道も明るく透き通って見えた。
         †
 本降りの木曜日を休んで、霧雨の水、金と練習に出た。霧雨の降る空の下で腕立て伏せ百回と、それからレフトの守備位置からライトの守備位置へのダッシュを十本やった。守備練習は三塁送球とクッションボールを念入りにやったが、フリーバッティングは流し打ちを二十本ほどにとどめた。睦子とはたがいに素知らぬふりをして口を利かなかった。
 雨の降りしきる木曜日の一限に、文Ⅲ8Dクラスの身体測定が駒場北寮隣の体育館で行なわれた。みんなそれぞれ一限の授業をオミットして参加したが、私はもともと出席不要のスポーツ身体運動科学だったので、余分なことをさせられている感じだった。テストは肺活量、握力、懸垂、腕立て伏せ、反復横跳び、垂直跳びの六種。高校時代より増えていないと自分に対して面目ない。肺活量六千六百cc、よし。握力右七十二キロ、左六十九キロ、よし、右が十キロ増えた。懸垂、ようやく五十三回、しかし満足、確実に増えている。腕立て伏せ、少し張り切って百二十回ピッタリにした。ほかの学生は四十回を超えるのがめずらしかった。難物は反復横跳びで、六十六回しかできなかった。垂直跳びは七十九・五センチで、自分の感覚では平均より少し上かなという気がしたが、体育助手に二十センチ上だと教えられた。
 金曜の練習の途中、鈴下監督に駒場の学生課にいくように言われた。春に払いこんだ入学金と学費が返還されるという。私服に着替えて、グランドをあとにした。下駄が気になったが考えないことにした。
 駒場の学生課の窓口にいくと、応接室へ導かれた。役人風の人物から封筒に入った小切手を渡された。
「下駄ですか。いいですねえ。私も学生時代はほとんど下駄でした」
「スパイクからふだん足を解放しておくためです」
「なるほど。のびのびした足をしてますね」
「二十七・五。バカの大足です」
「ハハハ……。ところでほかでもありません。きみは、法・経・文全学部の千三百七十名中、二番の入学成績でした。文科Ⅱ類に首席がいるので、文科Ⅲ類ではもちろん、文科Ⅰ類でもトップということになります。この先三年間、学費は免除と決定しました。将来学費が値上がりした場合も同じです。留年が二年つづくと、免除は一年間取り消しとなります。三年生からの進振りで、成績しだいで全科類枠で文Ⅰか文Ⅱに進級することも可能です。とにかくおめでとう。この調子でがんばってください。―野球も、がんばってね」
 にこやかに握手を求めた。合格を手にする〈こすさ〉みたいなもの、そんなもので天下一といわれるこの大学に受け入れられたことをしみじみ恥ずかしく思った。しかしその程度の機転で受かる大学だとわかったことは、今後、権威や世評を見かぎるうえでじゅうぶん役立った。世評に叶った結果を出すには、異能ではなく小才で足りる、小才を発揮しているむだな時間があったら、天賦の大才を生かす道に一路邁進すべきだとも痛感した。邁進する一路に踏み出すために、むだな寄り道をするしかなかったことが口惜しかった。
 高円寺に寄ってユニフォームを受け取り、電車で阿佐ヶ谷に戻る。
「あしたは泊まってね」
 というカズちゃんの声が耳に残った。このところ、女体からしばらく離れようと決意していた。人間には生命欲がある。その中でも最も命に関わらない性欲を設けてはいけない気持ちになっていた。それをすれば何かがどうにかなるというわけではないが、そういう気構えになっていた。でもカズちゃんは女体ではない。性欲の源ではない。
 永島慎二の家の向かいの銭湯へいき、ゆったり浴槽に沈む。銭湯といえばかならず描かれているクレパス調の富士山を眺めながら汗を出す。私は雲海にまぎれる山がいちばん好きだが、そんな富士の絵は一度も見たことがない。風呂を出て、大将で餃子二皿とラーメンを食って帰り、朝七時まで熟睡した。


         四十二

 四月二十日土曜日。九・九度。風あり。南阿佐ヶ谷まで往復。七時半、ありん堂の赤飯とおいなりを食いながら、自転車で南阿佐ヶ谷へ。
 八時五十分、農正門前からバスで出発。九時二十分、神宮球場着。九時半から早稲田と交互に二十分ずつの試合前練習。フリーバッティングには参加せず、外野の芝生で、もっぱら三種の神器をやる。守備練習はしっかり参加する。早稲田は法政と並んで優勝候補に挙げられている。腕が鳴る。鈴下監督が言うには、
「三年に緩急自在な安田、小坂、二年にアンダースローの大木がいて厄介だ。三人とも速球派ではない。変化球が持ち味だ。安田も小坂もサイドスロー。二連勝するつもりでこの三人でくるだろう。ファーストの小田とショートの荒川の守備は鉄壁、サードの金子は一年生だが、肩が強くて俊足だ。キャッチャーの阿野は頭が切れる」
 バッターについては、選手たちが口々に、荒川、谷沢という三年生の名前を出した。
「荒川は巨人の荒川コーチの息子でね、王と同じ一本足打法なんだよ」
「バッティングセンスは、谷沢のほうがずっと上だね」
 などとうなずき合った。バッターはわが道をいけばいい。争うつもりはない。
 試合は十時半から始まり、十二時十分に終わった。あっという間だった。十一対一で惨敗した。
 白川の用意した新品バットは霊験あらたかだった。先発の左腕安田からセンター前ヒット、センターオーバーの二塁打、レフトライナー。八回に交代した大木から、ライト最前列へ高く舞い上がる六号ホームラン。四打数三安打。厄介というほどの投手陣ではなかったが、東大のヒットは私の三本だけだった。安田の逃げるシンカーと食いこむカーブに全員きりきり舞いした。
 一直線にライトスタンドに飛びこんだ谷沢のホームランが目の保養になった。早稲田の白地に臙脂のユニフォームがさわやかで、しかも重厚だった。ブルペンにテルヨシの姿はなかった。ベンチの中にも見かけなかった。スタンドで応援の一員として立っていたのかもしれない。
 カズちゃんたちは、私が活躍できればほかに何もいらないので、ヒットを飛ばすたびにキャーキャー騒いでいた。ブラバンの演奏は休みなく響きわたり、応援団も律儀に叫んでいた。プロ野球関係者はかなり増えていて、早大の選手にも東大の選手にも、まんべんなくするどい眼つきを配っていた。早稲田が勝ってあたりまえなので、フラッシュやストロボはそれほど焚かれなかった。試合後のインタビューも早稲田側に集中し、スムーズに引き揚げることができた。それでも、あとを追ってくる記者もいて、私は笑顔で応えた。
「あしたはたぶん勝ちます。大差負けはけっこう気持ちいいです」
 監督やスタッフたちが笑っていた。克己が、
「ほんとにあした、勝てるか?」
「百パーセント」
 本郷に戻って、長いミーティングが行なわれた。鈴下監督が、
「台坂、打ちこまれたことは気にするな。肩のスタミナを作らせるつもりで完投させたからな。あしたも、有宮には完投してもらう予定だ。ただ、金太郎さん以外がノーヒットというのが気がかりだな。克己、原因は何だ」
「選球眼だと思います。俺も含めて、ボールを最後まで見てませんでした。神無月はきっちり見きわめてた。捕られましたけど、三打席目のレフトライナーはすごかった。手首のさばきがみごとだった。でも、まねできません。選球眼だけを見習おうと思います。台坂を見殺しにして悪かった。明大戦で調子づいちゃって、ほとんどのやつがヘッドアップしてた。大振りとヘッドアップは別物だからな」
「いや、何ごとも勉強だ。むだじゃない。俺もヘロヘロ球を打たれすぎた。コントロールだな。こちらこそ、すまん」
 台坂が笑いながら言った。副将の中介が、
「安田のストレートは、けっこう速いな。きょう投げなかった小坂も、やっぱりストレートが速い。どちらも小さく曲がるカーブを持っていて、小坂のほうがするどい落ち方をする。大木は軟投だけど、ナチュラルシュートが打ちにくい」
「つまり三人とも打ちにくいわけだ。金太郎さん、何かアドバイスは」
「ぼくの選球眼なんて、大したことありませんよ。克己主将は褒めてくれましたが、安田の場合、直球と変化球にスピード差があるんで、打ちづらかったんでしょう。ぼくは勘でめくら振りしました。どんなときも、自分の得意なコースを待って、思い切り振るしかありません。見習うなら、その思い切りのほうを見習ってください。好きなコースに入ってきそうになったら、そこを目がけて、自分の理想のスイングでバットを思い切り投げ出すんですよ。ピッチャー対策なんか立てないほうがいいです。肩の強さと、スイングの思い切り。この二つを身につけると、野球選手としての自信がつきます。ミートの勘はいずれ自然と身につきます。あしたに備えて、少し打ちこんで帰ります」
「俺も!」
「俺も!」
「それじゃ、ピッチャー陣、フェンスに向かって遠投練習五十本。フリーバッティングの打球に気をつけて、外野守備もするつもりでな。コーチ陣、フリーバッティングを手伝ってやってください」
 二時間ほどの練習になり、ほとんどをフリーバッティングに費やして、三時過ぎに上がった。鈴下監督といっしょにやってきた助監督の西樹が、
「意見を聞かせてくれ、神無月くん。こんなにゆるい練習でだいじょうぶなのかな、東大はむかしから、この和気藹々の練習を批判されてるんだ。勉強の合間のお遊びなんて言われてね」
「だれだって、できれば練習なんかやりたくないんですよ。厳しい練習は肉体的に苦痛でしかないし、顕著な効果もない。基礎体力をつけ基本的な技量を鍛えれば、あとは興味の深さだけが進歩に関わってきます。細かい修正を自分で工夫しはじめるんです。必然的に練習時間も延びるでしょう。お遊びだなんて批判するやつの想像力は貧弱ですね。いまのままでいいと思います。すみません、えらそうなことを言って。野球はぼくの唯一の才能ですから、つい出しゃばったことを言ってしまいます。……ぼくは野球に逃げ路を用意してないんです。何でも本気でしゃべりますし、本気の分しっかりやります。信用してください」
 助監督が、そして監督が、大きくうなずいた。
「ぼくが練習を短時間で切り上げるのは、大筋はそれが理由です。それと、個人的によんどころなく忙しく暮らしていることも理由です。勘弁してください。遊んでいるわけじゃありません」
 克己が、
「むちゃくちゃ練習してるよ。スパンと切り上げるのは見習わなくちゃいけない点だ」
 この三戦でただ一人ホームランを打っている水壁が、聞きつけてやってきた。
「金太郎さん、俺たちは金太郎さんのやることやリズムをぜんぜん気にしてないよ。俺たちも基礎訓練を欠かさず、興味も深めるから安心してくれ」
 みんなグランドのあちこちからぞろぞろ近づいてきた。
「明治戦の水壁さんのホームランは、きれいなフォームでした。全員がホームランを打てるようになれば、野球そのものが好きになるし、競争心も湧くし、練習にも励みが出て身が入ります。ヒットはホームランの打ち損ないだと肝に銘じてください。バントやスクイズがぜったい必要な場合以外は、ホームランを打とうと念じてバッターボックスに入ってください。バランスのいいスイングをして、ボールの少し下の芯を食えば、百六十センチのからだでも中段まで持っていけます。速球ほど飛びますから、速いピッチャーが出てきたら、しめたと思ってください。たとえゆるいボールのピッチャーでも、遠くへ飛ばそうと念じれば、外野のあいだをするどく抜く打球になります」
 メンバーのあいだに明るい笑いが満ちた。
「一勝は重要です。勝ち点よりも、一勝を目指しましょう。勝ち点なんか勝利にくっついてきますよ」
 克己が、
「そのとおりだ。まっとうな理屈を聞くと元気が回復するぜ」
         †
 高円寺の食卓は夕食の準備で大わらわだった。まず風呂に入れられた。
「わ、よごれてる。何日してなかったの」
「火曜日から」
 カズちゃんにしっかり恥垢を取ってもらった。
「瑠璃は磨かなくちゃだめよ。今夜は素ちゃんに磨いてもらいなさい」
「カズちゃんは危ない日?」
「そ」
「あしたはみんな応援にくる日だね」
「夜はすき焼きよ」
         †
 四月二十一日日曜日。快晴。
 女たち全員が華やかな衣装で観戦にきていた。球場の売店で調達したのだろう、手にメガホンを握っている。山口は外野スタンドのどこかにいるはずだった。
 対早大二回戦は先攻だ。それだけで勝てそうな気がする。三塁側ベンチ。クリーニングの上がってきたユニフォームを着、革ベルトをきつく締めた。スパイクも新しいものを履いた。ソックスは替えない。
 ダークブルーの背番号8を意識しながら、グランドに飛び出した。守備練習。歓声に包まれる。素子たちの甲高い声が混じっている。三塁側スタンドの一角に東大側の応援者が八百人はいる。初日の百人を考えると信じられない増え方だ。観衆三万八千人。四試合目にしてついに超満員になった。短パン穿いた即製のバトンガールが二人、物慣れない様子で応援団の脇に立っている。バトンをときどき回すが、動きがサマになっていない。応援団も彼女たちから顔をそむけている。ほうぼうから失笑が湧く。フラッシュが盛んに光るのは、バトンガールそのものよりも、東大生の女子応援がめずらしいからだろう。
 守備練習交替。試合開始二十分前。上野詩織が、
「十人以上は集める予定だったんですけど、三年生の先輩が苦戦してて。その人、高校時代にバトンをやってたことがあって、ひさしぶりにやってみるかって張り切って」
「高校の先輩?」
「はい、山形東高校です。もともと体操部の先輩で、彼女、バトンは高校時代にときどき駆り出されてやってたんです。二人ほど、やっと引っ張ってきたみたいですね」
 早稲田の華麗な守備が目に入る。どいつもこいつも肩がいい。特にサード金子、ショート荒川、キャッチャー阿野、ライト谷沢。精鋭たちだ。睦子が、
「上野さん、体操やってたの?」
「はい。ドンくさいんで、補欠でしたけど。きょうはとにかく演壇に出てもらって、様子見。一応バトンガール勧誘の宣伝と思っておいてください。パフォーマンスできるようになるのは秋季以降だと思います」
 早稲田守備練習終了。東大応援団の動きがあわただしくなり、ブラバンの演奏が始まる。フォークダンスふうの曲だ。バトンがぎこちなく回る。上野が、
「あの曲じゃマズいですよね。アイデアがないわ」
 私はめったに口を利かないスコアブック係の黒屋に言った。
「ブラバンにもっとハッパをかけてください」
 二年生の黒屋はビックリしたようにポニーテールを揺らして私を振り向いた。
「はい!」
 うれしそうに微笑む。金原に似ている。おそらく理系だ。チームメイトたちも哄笑して、
「そうだそうだ、ハッパかけろ。ありゃひどい」
「流行歌をバンバン演奏するように言ってください。それからコンバットマーチを改良してほしい。団歌はエール交換と試合終了のときにかぎって唄うべきです。チームが変わっていくんですから、スタンドも変わっていかないと」
「コンバットマーチはないんだよ。闘魂はだけだ」
 白川が言う。
「おい、小坂だ」
 助監督の西樹の声に早稲田のブルペンを見る。先発の小坂だった。左腕から繰り出すストレートが速いという話だったが、百三十キロそこそこの放物線軌道だ。カーブも遅速があるだけで、するどくはない。
「打てますよ。初回に大量点を取っておきましょう」
 だれも呼応しない。単なる鼓舞と取っている。東大のブルペンは有宮。ほとんどカーブの連投。スターティングメンバーが放送されていく。いちいち拍手が上がる。監督が、
「さあ、金太郎、とにかく一勝だよね」
「そうです! 一勝!」
「一勝!」
 ベンチが唱和する。サイレン。ほとんど同時に審判の声。
「両チーム、整列!」
 ベンチから駆け出していく。偶然谷沢と正対する。一回戦はうつむいて並んだので、早稲田のメンバーとはこれが初対面のようなものだ。じっくり見る。私より背の低い選手がほとんどだ。荒川がいちばん大きい。私と同じくらいだ。どの選手も、私に射通すような眼差しを注ぐ。これだからうつむいていたのだった。礼。ベンチに駆け戻る。鈴下の簡単な檄。
「ブチかませ!」
 私たちの簡単な応え。
「オエース!」
 中介がバッターボックスへ走っていく。
「がんばってェ!」
 マネージャー三人娘の声が追いかける。


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