四十三

 四月二十一日日曜日。快晴。午後一時の気温十八・九度。
 女たち全員が華やかな衣装で観戦にきていた。球場の売店で調達したのだろう、手にメガホンを握っている。山口は外野スタンドのどこかにいるはずだった。
 対早大二回戦は先攻だ。それだけで勝てそうな気がする。きょうは三塁側ベンチ。クリーニングの上がってきたユニフォームを着、革ベルトをきつく締めた。スパイクも新しいものを履いた。ソックスは替えない。
 ダークブルーの背番号8を意識しながら、グランドに飛び出した。守備練習。歓声に包まれる。素子たちの甲高い声が混じっている。三塁スタンドの一角に東大側の応援者が八百人はいる。初日の百人を考えると信じられない増え方だ。観衆三万八千人。四試合目にしてついに超満員になった。短パン穿いた即製のバトンガールが二人、物慣れない様子で応援団の脇に立っている。バトンをときどき回すが、動きがサマになっていない。応援団も彼女たちから顔をそむけている。ほうぼうから失笑が湧く。フラッシュが盛んに光るのは、バトンガールそのものよりも、東大生の女子応援がめずらしいからだろう。
 守備練習交替。試合開始二十分前。上野詩織が、
「十人以上は集める予定だったんですけど、三年生の先輩が苦戦してて。その人、高校時代にバトンをやってたことがあって、ひさしぶりにやってみるかって張り切って」
「高校の先輩?」
「はい、山形東高校です。もともと体操部の先輩で、彼女、バトンは高校時代にときどき駆り出されてやってたんです。二人ほど、やっと引っ張ってきたみたいですね」
 早稲田の華麗な守備が目に入る。どいつもこいつも肩がいい。特にサード金子、ショート荒川、キャッチャー阿野、ライト谷沢。精鋭たちだ。睦子が、
「詩織さん、体操やってたの?」
「はい。ドンくさいんで、補欠でしたけど。きょうはとにかく演壇に出てもらって、様子見。一応バトンガール勧誘の宣伝と思っておいてください。パフォーマンスできるようになるのは秋季以降だと思います」
 早稲田守備練習終了。東大応援団の動きがあわただしくなり、ブラバンの演奏が始まる。フォークダンスふうの曲だ。バトンがぎこちなく回る。上野が、
「あの曲じゃマズいですよね。アイデアがないわ」
 私はめったに口を利かないスコアブック係の黒屋に言った。
「ブラバンにもっとハッパをかけてください」
 二年生の黒屋はビックリしたように肩の髪を揺らして私を振り向いた。
「はい!」
 うれしそうに黒い顔で微笑む。鬼頭倫子に似ている。おそらく理系だ。チームメイトたちも哄笑して、
「そうだそうだ、ハッパかけろ。ありゃひどい」
「流行歌をバンバン演奏するように言ってください。それからコンバットマーチを改良してほしい。団歌はエール交換と試合終了のときにかぎって唄うべきです。チームが変わっていくんですから、スタンドも変わっていかないと」
「東大にコンバットマーチはないんだよ。闘魂はだけだ」
 白川が言う。
「おい、小坂だ」
 助監督の西樹の声に早稲田のブルペンを見る。先発の小坂だった。左腕から繰り出すストレートが速いという話だったが、百三十キロそこそこの放物線軌道だ。カーブも遅速があるだけで、するどくはない。
「打てますよ。初回に大量点を取っておきましょう」
 だれも呼応しない。単なる鼓舞と取っている。東大のブルペンは有宮。ほとんどカーブの連投。スターティングメンバーが放送されていく。いちいち拍手が上がる。監督が、
「さあ、金太郎、とにかく一勝だよね」
「そうです! 一勝!」
「一勝!」
 ベンチが唱和する。両チームスターティングメンバー発表に合わせるように、早稲田応援団の試合開始前のデモンストレーション。整然と揃っている。ブラバンの響きがすばらしい。バトンはない。
 サイレン。ほとんど同時に審判の声。
「両チーム、整列!」
 ベンチから駆け出していく。偶然谷沢と正対する。一回戦はうつむいて並んだので、早稲田のメンバーとはこれが初対面のようなものだ。じっくり見る。私より背の低い選手がほとんどだ。荒川がいちばん大きい。私と同じくらいだ。どの選手も、私に射通すような眼差しを注ぐ。これを予測していたから初戦はうつむいていたのだった。礼。ベンチに駆け戻る。鈴下の簡単な檄。
「ブチかませ!」
 私たちの簡単な応え。
「オエース!」
 中介がバッターボックスへ走っていく。
「がんばってェ!」
 マネージャー三人娘の声が追いかける。
 小坂がマウンドで投球練習を始める。やはりストレートが速い。カーブの曲がりも大きい。一時四十八分。
「プレイ!」
 初球、中介は、するどく曲がりすぎて内角低目に襲ってきたカーブを左スパイクの先に当て、デッドボールで出た。太鼓の乱打。応援団の突き。バトン、クルクル。鈴下監督が叫ぶ。
「イケイケイケ、イケー!」
 磐崎は二球外角のストレートを見逃したあと、三球目の内角カーブを強振してレフトオーバーの二塁打。驚きと期待の大歓声。明治戦の再現かと三塁スタンドが騒然となる。磐崎三塁ストップ。ノーアウト二、三塁。ブラバンが鉄腕アトムに切り替わる。これを聞くのは青高以来だ。
 水壁初球のカーブの上っ面をこすって三遊間ボテボテのヒット。一点。私は叫んだ。
「よしゃ、大量点だ!」
「そりゃ、そりゃ!」
「ウエ、ウエ、ウエース!」
 みんなで呼応する。ノーアウト一、三塁。私は初球外角に落ちるカーブを打って左中間を抜いた。二点目。ふたたびノーアウト二、三塁。克己ツーストライクから外角スライダーを右中間二塁打、二者生還。四点目。打ち出の小槌のようにヒットがつづく。小坂ワンアウトも取れず、同じ左の安田に交代。安田は小坂のこれまでの打たれ具合を考えて、きのうと打って変わって直球主体に切り換えてきた。これが私たちに幸いした。たしかにストレートは百四十キロ前後ある。きのうは外角の変化球ばかり意識していたせいでこんなに速いとは気づかなかった。しかしけっして快速球ではない。
 ノーアウトのままだ。どうしても二塁走者の克己を還しておきたい。臼山と大桐は本郷で懸命にゴルフスイングの練習をしていた。板につきはじめている。バットの届く低目にくれば長打が出る。ただ、低目の速球を捉えられるだろうか。とにかく目をつぶって振るしかない。
「臼山さん、ベーブ・ルース!」
 長身の野球帽が振り向いて、小刻みにうなずいた。私のほかに左打者は横平だけだが、右打者もベーブ・ルースのスイングをイメージできる。ふつうピッチャーは、低目か外角さえ投げておけば抑えられるものと思っている。そのはずで、ほとんどのバッターは低目や外角が苦手だ。そこで、ダウンスイングで上から叩いて対処しようとする。ピッチャーの思惑どおり平凡なゴロになる。長嶋はドジャースとのベロビーチ合同キャンプから戻っても、あちらで伝授されたダウンスイングに染まらなかった。小学生のころ私は中日球場にいくたびに、長嶋茂雄に目を凝らしていた。彼はネクストバッターズサークルで、いつも掬い上げるシャドースイングをしていた。あの美しいゴルフスイングを忘れられない。
 安田はベーブ・ルースの暗号がわからないらしく、型どおりに外角の低目を速球でついてきた。臼山の意識が低目にいっていたおかげで、ほんのわずか外れたコースを見切ってスピードボールをこだわりなく見逃した。
「ストライーク!」
「エー!」
 臼山は天を仰いだ。そのジェスチャーはいい。また同じストレートがくる。低目を強くヒットしろ。二球目、真ん中低目にストレートがきた。全力の空振り。それでいい。かえって低目の練習の成果を見抜かれない。真ん中高目のストレート、ボール。よし、よく見逃した。ツーワン。安田は配球を考えるだろう。次はまちがいなく内角低目がくる。
「臼山さん、低目なら打てるんですけどね。この三球は、外角低目、真ん中低目、真ん中高目、次は内角低目だろうなあ。バッターボックス、少しホームベースから離れたほうがいいかな」
 私はこれから起こる場面を見透かしたようなことを言った。
「ほんとかあ!」
 みんな固唾を飲んで見守っているが、私の言葉を信じていない。臼山のことも信じていない。自分たちの能力を信じられないのだ。先週、十点以上取って二試合も勝っているのに、きのうの敗戦に打ち負かされている。大差負けを実力だと信じこみ、かならず抑えこまれて逆転されるにちがいないと戦々恐々としている。そうだ、それは勉強でマグレをとったときの私の心の動きに似ている。よくわかる。才能がないと自覚していると、だれでもそういう気分になる。彼らを責められない。
 膝もとにストレートがきた。臼山はやはりベースから離れなかった。サードゴロ! 
 ―サードゴロだって? 
 打ち損ないはだれにでもある。でも絶好球だった。まず打ち損なわない球だ。
「ヒャー、ほんとだ、内角低目だった!」
 大桐が頓狂な声を上げる。克己は動くことができず、ワンアウト。私はため息をついて沈黙した。腹を立ててはいけない。臼山がうなだれてベンチに戻ってくる。なぜか額から汗が流れ落ちている。盛んにタオルで顔を拭いながら、うめくように言った。
「打ち損なったァ!」
 横平が、
「臼山。敵は安田だぜ。打てなくて当たり前だ。ドンマイ、ドンマイ!」
 え? 安田と双璧の小坂を打ちこんだばかりではないか。水壁が、
「臼山、いい当たりだったよ。水でも飲んでこい」
 なぜみんなで慰めているのだ。やさしい言葉などかける必要はない。彼は配球を推理できなかったのだ。叱るべきだ。臼山の失敗を無視して上野詩織が叫んだ。
「大桐さん、ベーブ・ルース!」
「ベーブ・ルース!」
 睦子も叫んだ。女同士明るく顔を見合わせる。そうだ、こうやって失敗を看過し、次の者を明るく送り出してやるべきだった。私は冷酷なやつだ。大桐が応える。
「オッケー!」
 大桐はツースリーから外角低目のカーブを思い切り掬った。浅いライトライナー。なぜ芯を食わないのだろう? そう思ったとたん、みんなベンチからライトへ首を伸ばして、
「あ、れ、れ!」
「ポテン、ポテン!」
 ボールが急に減速して、谷沢がスライディングキャッチできるぎりぎりの距離になった。監督が叫ぶ。
「克己、走れ!」
 一か八かの決断だ。
「走れ! 走れ!」
 ベンチの叫びに呼応して、サードコーチの兼が回れ回れと腕を回した。ライトの谷沢がスライディングせずにショートバウンドでキャッチして、バックホーム。低いワンバウンドで撥ねたボールが阿野のキャッチャーミットに吸いこまれる。克己が足から滑りこんだ。アウト! 大桐はセカンドへ。三塁側の内外野が欲求不満のため息をつく。逆に応援団は盛り上がる。きのう当たりの出なかった横平は、きょうは八番に戻されている。横平はベンチに座っている私の前に立ち、
「金太郎さん、掬い上げるってのは、どこまでの高さ?」
 掬う、という意味に気づいたようだ。
「肩ですね」
「あ、なんかわかった! 手首を絞るって感じもわかった。その高さだと、手首を返さないかぎりバットを振り抜けないものな。たしかにそこがバットを滑らかに振る限界の高さだ。すると、低目を打とうとして手首を返す場合、高目を振り抜くようにして振ればいいわけだ」
「そうです、そうすれば掬い上げたことになります。どんな高さも、叩きつけなければ掬ったことになります」
「クリアー・アップ! 疑問解消。まず肩の高さを征服してくる」
 ツーアウト、ランナー二塁。横平は意気揚々と高目を打ちに出かけたのかと思ったら、二球目の内角低目の速球をみごとに掬い上げた。
「いったあ!」
 打った瞬間、大きなホームランだとわかった。ベンチが沸き返る。フェンスをはるかに越えて、ライト中段に飛行時間の短いライナーが飛びこんだ。横平が両手を高く掲げて一塁ベースを回る。私の踏んだとおり、横平は長打力の持ち主だった。大桐がライトを振り返りながらゆっくり三塁へ向かう。応援団が演台に勢揃いして、勢いよくこぶしを突き出している。バトンガールたちが芸もなく跳びはねる。ベンチ前に全員立ち並んで、ホームインした大桐、横平の二人と手を拍ち合わせていく。六対ゼロ。
「生まれて初めてのホームランだ! 軟式でも打ったことがない」
 横平は感極まって、泣きながらベンチの椅子に座りこむ。黒屋がタオルを差し出した。彼の肩口から助監督らスタッフたちが手を差し出して握手を求める。
「克己キャプテン、こうして一人ひとりがホームランの味を覚えていってほしいですね。次の慶應戦から、横平さんを三番に昇格固定してあげてくれませんか」
「おお、そうしよう。俺は八番にまわる。そのほうがインサイドワークに集中できる」
 上を向いて歩こうの変奏曲が高らかに響く。上野を振り返ると、口に手の甲を当てて笑った。
「さっき、黒屋さんといっしょに三塁スタンドまで急いでいって、ブラバンの指揮者に注文してきたんです」


         四十四

 エース安田が三回に交代したあとは、小刻みに六人の新人ピッチャーがつぎこまれたせいで一方的な試合になった。大木は出てこなかった。あしたの試合のために温存しているのだ。
 十九対四。有宮が自分なりに考え抜いた投球術を披露し、九回を四点に抑え切った。ほとんど真ん中低目のカーブでカウントを取り、ときどき内角の高目と外角の高目に、ボールになるストレートを投げこんだ。単純な配球だが、効果抜群だった。谷沢も荒川も、カーブに手を出せば内野ゴロになり、高目に手を出せば外野フライになった。真ん中のすっぽ抜けを小田に満塁ホームランを打たれたものの、被安打七、奪三振五は、きのうまでの東大のピッチャー陣では考えられないでき映えだった。
「有宮さん、その技をみんなに教えてやってください。エース誕生です」
 私は六打数四安打、三本塁打。最初の二本をライトスタンドの上段に打ちこみ、センター前のゴロのヒットのあと、セカンドライナー、高いライトフライ、最後の打席でスコアボードの右下に打ち当てる九号。有宮が私の尻を激しく叩き、
「スコアボードに打ち当てるとはな。プロでも、あそこまで飛ばせるのは外人ぐらいのものだろう。脱帽、最敬礼!」
 整列して礼。カズちゃんたちのバックネットと姿の見えない山口がいるライトスタンドに向かってピースサインを掲げる。選手もスタッフも報道陣に取り囲まれる。揉みくちゃにされたまま、監督も選手もインタビューを受ける。
「九号ホームラン、これまでの春季リーグ記録を早々と塗り替えましたね」
「何本だったんですか」
「五本です。それどころか、長嶋の四年間通算の八本も超えました。四年目の田淵選手が先週十九号を打ちました。いったい何本まで伸ばすつもりですか」
「わかりませんが、春季は十五本いけると思います」
「四年間で百二十本!」
「いや、好不調の波があるに決まってますから、そんなに打てません」
 次々と異なる放送局のマイクが差し出される。
「神無月選手の大活躍のおかげで、大学野球がプロ野球と肩を並べる国民的関心事になりそうです」
「それはオーバーでしょう。野球は一部の好事家のお祭りです」
「あした勝てば、目標の勝ち点二ですね」
「勝てそうな気がします。きのうと同じような大差負けをする可能性も高いですが、東大のピッチャーもがんばりはじめましたから」
「早稲田に対する感想は?」
「荒川選手と谷沢選手のバッティングが飛び抜けています。それにみんな守備がものすごくうまいです。それから、早稲田の応援はすばらしい―」
 私はベンチの前に睦子と並んでちょこんと立っている上野詩織や黒屋を指差した。
「彼女たちは、ブラバン、バトントワラーといった応援を盛り立てている功労者です」
 一人のマイクが飛んでいった。
「応援団、バトンガール、ブラスバンド、東大が新境地を開きましたね。上を向いて歩こうには驚きました」
「アイデアは神無月くんから出たものです。二、三年以内にはチアリーダーズも発足させたいと思ってます。これからは東大の応援も変わります」
 きょうホームランを打った横平がマイクに向かって首を突き出し、
「……なんてすばらしい! ぼくが打ったホームランじゃない。神無月のひとことで打てた。ほんとかよ、って……泣きました」
 ほとんどの個人の努力が水泡(うたかた)に帰すこの世の中で、信頼する者と力を合わせたことでもたらされた成果だけはウタカタにならないと信じる心。それこそすばらしい! 臼山はマイクに向かって、
「ウース!」
 とひと声叫んだ。たぶん自分の名前に引っかけてシャレたのだと思った。
 監督の引き揚げの合図がかかり、みんなでバスに戻る。バスがゆっくり走り出すと、運転手の脇に立った鈴下監督が言った。
「諸君、よくやってくれた。ありがとう。この勢いで、一つひとつ勝利を積み上げていこう。初戦で水壁、きょうは横平。東大が大型打線に変身しつつある。この変身に私も積極的に一役買いたいと思う。あしたから横平三番、神無月四番、水壁五番、クリーンアップ固定の打線でいく。切れ目のない打線にするために、八番に克己を置く。九番のピッチャーでチャンスが途絶えないように、ピッチャー陣はバッティングの練習にも精を出してくれ。Aクラスが現実のものとして近づいてきた。白川、打順と守備位置の発表」
「はい。一番センター中介、二番セカンド磐崎、三番ライト横平、四番レフト神無月、五番サード水壁、六番ショート大桐、七番ファースト臼山、八番キャッチャー克己、九番ピッチャー。名づけて、ブルー・エクスプロージョンです」
 ウオー! 拍手。
「なお、黒屋と上野と鈴木の骨折りで応援団以下、ブラバン、バトンガールの充実も図られつつあります。もう少し時間をください。鈴木からひとこと」
 睦子が立ち上がって、
「みんなで一生懸命やってます。ベンチ関連の話ですが、ダッグアウトの左右に五十センチほどの高さの水甕(みずがめ)を二つ置くことにします。岡島副部長が調達してくれました。いちいちベンチ裏の水道まで足を運んでいられないからです。青森高校のときの神無月さんのアイデアです。氷水ですから、飲むなり、頭からかぶるなり、好きに使ってください。氷の調達は仁部長さんが引き受けてくれました。東大に氷を卸している業者に頼むそうです。それから、おしぼりを二十本ロッカールームの冷蔵庫に入れておきます。これも自由に使ってください。私たちマネージャーが、大きめのタオルを適宜絞って巻いておきます」
 これも大拍手。助監督の西樹が立ち上がり、
「部室にバーベルとダンベルを用意する。芯を外しても飛距離を保つ筋力を鍛えるためだ。暇を見ては、こつこつ上半身を鍛えてくれ。野球に必要なのは筋力よりはバネと瞬発力だが、筋力がなさすぎてもその二つは発揮されないからね。それから腹筋と背筋の鍛錬も忘れずに。難しいだろうが、神無月くんのスイングのタイミングを盗むようにしてくれ。あとは彼の言うとおり思い切りよく振るだけだ。君たちは学問の緻密さには飽きてるはずだ。緻密な理論打法よりも、思い切りのよいブン回し打法を目指す。どんどん打ちまくってAクラスだ!」
「オー!」
 農正門前でバスを降りると、監督以下は本部事務所へ引き揚げ、選手たちとマネージャー連は東大球場に居残った。暗くなるまで練習や打ち合わせをするのだ。私は、たっぷり汗を吸ったユニフォームをダッフルに入れて、農学部門を出た。高円寺に向かう。
         †
「ただいま!」
 すき焼きのにおいが玄関まで流れてきた。ちょうど夕食の時間だった。山口を先頭に女五人が式台に出てきた。カズちゃんにダッフルを渡す。
「ドロドロだよ。漬け洗いしたあと、クリーニングに出しといて」
「はい。あした着る分はクリーニング屋から届いてるわよ」
 山口が、
「汗流してこい。それからめしだ」
「うん」
 風呂に入り、頭を洗う。風呂を出て食卓につく。みんないっせいに箸をとる。私はどんぶり飯にかぶりついた。吉永先生が、
「スコアボードへ一直線、バットのガシって音、忘れられない」
 素子が皿に具を盛ってよこしながら、
「喉、嗄(か)れてまったわ」
「私も。つい叫んじゃうの」
 節子が喉仏をさすった。山口が豆腐をハフハフやる。
「そのガシって音、外野には澄んだ音で聞こえてくるんだよ。俺、あのホームランから十メートルも離れてないところにいたんだ。度肝抜かれたよ。望遠で何枚か写真を撮っておいた。美女連もかなり写した。できあがったら、和子さんに渡しとく。北村席にも送っといて。三戦まで延びたな。あしたも全力でいけよ」
「うん。きょう、みんなは?」
「あした仕事だから、今夜帰っちゃうのよ」
 ネギやシラタキや豆腐が追加される。肉も片隅へどっさり追加。
「そうか。法子も蕎麦屋の仕事決めたんだったよね」
「うん、五月からの予定だったんだけど、少し見習いでやってみようと思って、あしたからいくことにしたわ」
「店、忙しそうだったしね」
「うん。このお肉おいしい。高かったでしょう」
「百グラム百五十円」
 素子が得意そうに答える。吉永先生が、
「私はとにかく仕事と勉強です。でも、都合がつけばかならず神宮球場に観にいきます」
 節子が箸を置き、
「右に同じ。ようやく部署が産科に替わることになったんです。うれしい」
「節子さんの専門分野だものね」
 カズちゃんが微笑んだ。私は箸を置き、
「ごちそうさん。ああ、腹いっぱいになった」
 山口が、
「俺も。さ、コーヒー飲んだら帰るか」
「駅まで送っていくよ」
「いや、適当にテレビでも観て寝ろ。どうせ六時ぐらいに起きて走るんだろ」
「うん」
「朝ごはんを面倒がらずに食べること。試合は十時半でしょ」
「あしたは二時半ごろだと思う。薄暮まで長びけば、眼鏡をかけなくちゃいけない。ここを八時半に出て、出発まで東大球場で練習する」
 山口のいれたコーヒーを飲む。
「じゃ、あしたは応援なしだ。孤独に戦え」
「うん。十号を狙う」
 カズちゃんと素子がみんなを見送りに出ているあいだに床につく。目を閉じる。……苦しみから遠ざかっている。苦しみが少ないのは、苦しむ力が衰えてきたからだ。たぶんそれは喜ばしいことにちがいない。寒々としたイメージがある。自分が不要な人間だというイメージだ。暗い森を出て、苦しみの少ない道で忘れていた決意が、私の前にこっそりさまよい出てくる。決意した当座だったらそれもよかったかもしれない。しかし、幸いなことに私は不要な人間ではなくなった。私を求める人たちがいて、彼らが生き延びているからには、自分を不要と断じる決意は彼らに死を強いるだろう。それだけではない。私も彼らを求めているのだ。求めるものを失えば、私の寒々とした思いはさらに冷える。私は生きて、私を必要としてくれる彼らをけっして殺さないようにしなければならない。最後まで労わり、愛し抜き、感謝を捧げ、そんなふうにして生きられるささやかな幸福を彼らと分かち合わなければならない。
 二人が戻ってきた足音がした。風呂に入る音がする。二人で笑い合いながら、水音を立てる。居間のテレビが点き、ひとしきり歓談したあと、静かになる。何やら勉強している様子だ。
 私はうとうとする。やがて蒲団に入ってきたカズちゃんに抱き締められる。すがりつき、たちまち眠りに落ちた。
         †
 四月二十二日月曜日。曇。朝、六時過ぎにランニングに出て、北口から環七通りを真っすぐ北上し、妙正寺川の陸橋で折り返して戻った。往復四キロ。約二十分。庭で三種の神器それぞれ三十回ずつ。追加で右片手腕立て十回、左三回。痛まないが、三回でやめておく。素振り、全力で真ん中高目だけ五十本。泥だらけになった。パンツ一丁になり、素子にホースで庭の水道水をかけてもらう。すぐに風呂場にいってシャワーを浴び、全身にシャボンを立て、頭を洗ってさっぱりする。素子が買ってきた朝刊に目を通す。

 
ほんとに ほんとに これ 東大? 
 
超弩級一年生神無月スコアボード弾 推定百五十五メートル
 
春季9号驚異的スピード


 見出しが躍っていた。ホームランを打ったインパクトの瞬間と、スコアボードにボールが当たる瞬間の写真が紙面いっぱいを占めている。田淵通算19号の活字がその写真の片隅で小さく霞んでいた。彼が今年二十本以上の記録を作ったとしても、三年生の荒川が来年すぐに塗り替えるだろう。荒川は通算三十本ぐらい打つかもしれない。私はその記録を秋季シーズン終了までに破るつもりだ。
 バッターにライバルがいるとは思っていない。ライバルは剛速球ピッチャーだけだ。百六十キロのピッチャーに会いたい。プロにいけば会えるだろうか。会ってめくら振りをしてみたい。しかし、尾崎行雄には会えないだろう。彼はパリーグだし、オープン戦や日本シリーズで対戦しないかぎり無理だ。おまけに、去年から右肩をやられて、もう〈終わった〉と言われている。
 朝からステーキが出てきた。
「うんと精をつけて。きょうはぜったい勝たなくちゃ」
 あの東奥日報記者は、たぶん私の記事を大仰に書きつづけているだろう。彼はしょっちゅう東京へ出てこられるわけではない。細を穿った記事は書けない。東京の支社の知人に細かい噂を聞いて、多少の潤色を加えたものを拵(こしら)えているにちがいない。その潤色を凌ぐような活躍をきょうもしなければ。
 法政は立教と慶應にそれぞれ二連勝して、すでに勝ち点二をあげている。早稲田がきょう勝てば、やはり勝ち点二になる。東大が勝っても勝ち点二だ。


         四十五 

 下痢気味の排便をし、耳鳴りを聴きながらコーヒーを飲んで、カズちゃんたちといっしょに家を出た。
「フジのラジオで聞いてるわ。がんばってね」
「ポートはテレビかけとる。お客さんたちと応援しとるでね」
「うん。きょうも高円寺に帰るよ。ゴロゴロしたい」
「ゴロゴロしましょう。テレビでも観ながら。フジでモーニング食べてって」
「いや、生協で食う」
「かならずね」
 フジの前でカズちゃんに手を振る。素子も手を振りながら北口へのガードをくぐっていった。
 赤門についてすぐ、生協第二食堂にいく。どこから眺めても食堂には見えない。玄関のスタンド看板の商品アピールで食堂だとかろうじてわかる。年月を経ていると一目でわかる三階建て石造りの建築物だ。玄関前にロータリーがあり、都営バスの《東大構内》という標示板が立っている。建物の正面がロータリーに沿って湾曲しているのがめずらしい。いずれ記念物扱いの建物になるだろう。土日祝日は休業だが、きょうは週日なので朝八時から開いている。もったいぶって二時半で閉まってしまうので、まだ一度も利用したことはなかった。
 玄関を入り二階へ昇る。食堂は二階のいちばん奥だ。学校の教室を十倍ぐらいに広げたような空間に、これも学校の教室に並べてあるのとそっくりな机と椅子がびっしり並べてある。ほぼ満員状態。見たところ学生よりも一般の客が多い。思ったとおりセルフサービスだ。食券を買う。試合は長丁場になるだろう。腹を満たしておかなければならない。カツ丼と野菜サラダ。雑な味に驚く。仕方なく半分だけ腹に入れておく。水を大量に飲む。弥生キャンパスの東大球場へ回る。
 ユニフォームに着替えて、仲間たちと一時間余りからだをほぐす。フリーバッティングはやらない。三種の神器、ダッシュ、柔軟。多少の汗はかいておいたほうがいい。投手陣は遠投三十本。横平に話しかける。
「きょうから三番ですね」
「うん、推薦してくれたんだって?」
「いいバネとミートをしてますから」
「ありがとう。自分でもびっくりするようなホームランを打っても、新聞には記録でしか載らないんだ。金太郎さんみたいにはいかないぜ。マスコミに騒がれるというのは相当高いハードルだな。分を知ったよ」
「いえ、横平さんは長距離ヒッターになれます。春季だけで五、六本いくと思いますよ。秋季を入れると長嶋の記録は破ります。手首を絞る要領を覚えたのは大きかったですね」
 克己と中介と水壁が会話に加わる。
「俺たち、きのう九時まで、その絞りの練習したんだぜ。まだ前腕の筋肉が痺れてるよ」
 先発の村入が投球練習場でコントロール重視の投げこみをしている。
「早稲田は大木ですか」
「ああ、クニャクャくるぞ」
「完投狙いでくるでしょうけど、今後のことも考えて、なるべく早く引きずり降ろさなくちゃいけないですね」
 農正門前を出発。本郷三丁目、水道橋、飯田橋、市谷、四谷、外苑。二十分。バスが神宮球場の関係者ゲートにつける。降り立ったとたん、おびただしい数の報道陣とファンに取り囲まれる。監督やチームメイトたちは彼らを掻き分けて進みながら、喜びを隠せない表情だ。回廊へ逃げこむ。ここにもマスコミがギッシリだ。警備員に導かれて急ぎ足でロッカールームへ。用具の点検。ダッグアウトからグランドに出る。
 早稲田のブルペンで二人のピッチャーが投げている。一人は大木で、もう一人の美しいフォームで投げ下ろしているほうが小笠原テルヨシだった! 背番号11。大きくなっている。百八十センチはあるだろうか。
「テルヨシー!」
 声が届かない。一塁ベンチから三塁ブルペンに向かって、彼が目に留めるまで手を振っていると、彼はオッと気づき、にっこり笑ってグローブを振り返してきた。なつかしくて駆け寄りたくなった。白川に、
「いってきちゃだめかな。青高野球部の同期生なんです」
「公式の規則は知らないけど、グランドで両チームが交流するのはむかしからタブーなんだ。一年生だし、かえって気を使わせちゃうんじゃない?」
「そうですね」
 小笠原はチームの将来を担う有力な人材に選ばれたということだ。彼はもう一度笑うと、オーバースローの美しいフォームであえてストレートを投げて見せた。百五十キロ近いスピードが出ている。大成長を遂げたのだ。おそらく彼を見にきたのだろう、野球関係者の顔が三塁側の最前列にずらりと並んでいる。いつもの席にカズちゃんたちの姿はなく、テレビカメラがゆっくり回りながらスタンドの様子を追っている。
 東大の守備練習のころには、内外野のスタンドがぎっしり埋まった。早稲田ベンチの小笠原に見せるつもりで、二塁にもホームにもノーバウンドで矢のような送球をした。大歓声の中、小笠原はベンチ前に出て、グローブを高く差し上げ拍手の格好をした。
 ベンチにたっぷり氷水を張った甕が用意してある。睦子が、
「おしぼりも冷蔵庫に入ってます」
 ウグイス嬢のメンバー発表の声が流れる。谷沢や荒川や私のところでスタンドから大歓声が上がる。早稲田の先発は小笠原だった。大木は初戦で私にホームランを打たれているので、早い回の失点を避けたのだろう。闘魂はの念仏が流れてくる。士気が上がらないことおびただしい。
「相変わらず闘魂はか。工夫がないなあ」
 監督が、
「白川くん、小笠原って何者?」
「さあ、よくわかりません」
 私は手を挙げ、
「青森高校の同級生です。三年ぶりの再会になります。あのころとは別人だ。カーブが切れたら少し手こずりますね。村入さん、谷沢と荒川だけはじゅうぶん気をつけてください」
「よしゃ! 有宮のコンビネーション、きっちり学んだ」
 青高のころは、芸能人や歌手に重ねて同胞の名前を覚えていたが、いまはやらない。やらなくても覚えられる。鈴下監督はメンバー表を見ながら助監督の西樹に、
「一番バッターの中村勝っての、知らないなあ」
「一年生の守備要員です。センターに入れたのは金太郎対策ですね。肩がいいんでしょう。肩がどれほどよくたって、ホームランは防げませんよ」
「そりゃそうだ」
 と言って笑う。乾いた音でサイレンが鳴って、私たちは守備に散った。これでサイレンを聞くのはもう五回目だが、耳を立てて意識したのは初めてだった。甲子園の高校野球で聞くような音だった。守備位置につく私にレフトスタンドから拍手の雨が降ってくる。中段に山口の姿を発見した。
 ―あれ? きょうもきてる。そうか、アルバイトは夜か。
 グローブを振ると、立ち上がって両手を高く振り返した。観客たちが誤解していっしょに手を振る。キャーという叫びが混じる。
 プレイボールの声がかかった。中背痩身の中村が打席に入る。村入の初球のストレートを克己がジャンプして捕球した。
 ―ん? 速いぞ。百三十の後半は出てるな。オーバースローを少しサイドにしたようだ。村入さんも変身だ。
 早稲田のブラバンが坂本九のムスターファを演奏しはじめる。さっそく東大のまねだ。東大がこの手の先鞭をつけたと思うとうれしい。なんだか得意だ。二球目、内角高目を空振り。へろへろスイングだ。三球目真ん中高目をフルスイング。失投だけれど、スイングに力がないので左中間の浅いフライになる。中介にまかせてバックアップに回る。
「村入、ナイスピッチング! チョロイ、チョロイ」
 つつがなく捕球した中介が声を張る。早稲田の演奏が鉄腕アトムに替わった。きっと上野と黒屋は耳を澄ましながら、やられたと思っているだろう。
 二番。足の速い金子だ。セイフティかバスターでくる。
「内野、前へ!」
 水壁と大桐の背中へ声を投げる。二人はハッと気づいたように前進する。金子が一、二塁間へバスターした。ゆるいフライが上がり、磐崎がダイレクトキャッチ。
 頭の中にもう小笠原のスピードボールや配球が思い浮かんでいる。振り払う。
「三番、ライト谷沢くん、背番号14、習志野高校」
 三番谷沢。村入のスピードでは簡単に持っていかれる。有宮の投法しかない。まず外角へ二球つづけてカーブ、それから内角高目にストレート、それとも、内角低目に二球つづけてカーブ、それから外角高目へストレート。谷沢に真ん中は厳禁だ。
 ギンッ! という音がして、右中間へ美しいライナーが伸びていく。外角のカーブを引っ張られた。猛烈なスピードでコンクリートの塀に打ち当たる。スタンディングダブル。小細工は効かなかった。
 ウオーと歓声が上がる。四番荒川。
 ―ここで止めろよ、村入さん。内角攻めだ。レフトオーバーなら仕方ないけど、ヒットならば谷沢をホームで刺せる。しょんべんカーブだけはだめだ。強い球で胸もとを押せ。
「押せ、押せ! 内角!」
 私は叫んだ。外角高目ストレート、ボール。二球目も叫んだ。内角高目! しかし外角低目。ボールツー。弱気だ。
「押せ、押せ!」
 外角に力のある直球がいった。力はあっても打ちごろのコースと高さだ。やられる。ジャストミート? 先っぽか。センターへ上がる。中介の頭を越えそうに見えるが、失速しはじめる。
「中介さん、前、前、前!」
 中介は定位置へ駆け戻ったところで、しっかりキャッチ。しのいだ。
 ―きょうも勝てる。
 振り向いてレフトスタンドの山口にこぶしを差し上げ、ベンチへ駆け戻る。克己に、
「出鼻を挫きました。勝てます。九回裏の攻撃はしなくてすみますよ」
「オーシャ!」
「高目見逃し、低目むちゃ振り、三振オーケー」
「オッケー!」
 円陣は組まない。監督はじめスタッフたちがベンチ後列に立つとすぐさま、トップバッターの中介がホームベースへ歩いていく。
「テルヨシ、全力でこい!」
 私の叫びが届くと、小笠原はにやりと笑って大きく振りかぶり、美しいフォームで投げ下ろした。ドスンと一球、膝もとをえぐった。
「ストライーク!」
 ホーという喚声が上がる。かつてのテルヨシを考えると目覚ましい思いがしたが、すぐさま短所を見抜いた。ボールの威力を見せつけようとしていることだ。だからコースが甘い。いまの内角にしても手を出せば自打球になるコースだから、中介は手を出さなかっただけだ。打たせようとして思わず手が出るようなボールを投げないので、中介にじっくり見られた。あと三センチ外寄りなら手を出しただろう。そこにくれば失投なので、打って当然だが、中介がボールの威力に負けなければ長打まであった。
「中介さん、ナイスセン!」
 二球目、するどいカーブがホームベース上で弾んだ。これもそうだ。カーブのするどさを見せつけようとしている。ふつうの速いカーブでいい。しかし、空振り。クソボールだけれど、速いので振ってしまう。自己顕示欲を鎮めれば、小笠原はこの一年で六大学を代表するピッチャーになるだろう。三球目、同じような曲がりの効いたカーブが、外角でワンバウンドした。見せ球だ。ツーワン。次はまちがいなく内角高めにくる。空振りをした中介は見抜いている。バットを少し高く構えた。ダウンスイングではない。大根切りのレベルスイング。ほとんど片手打ちになる。サードの頭上を越える打ち方だ。すぐさまベンチのみんなに中介の狙いを教えた。四球目、テルヨシは内角の捨て球を百四十キロぐらいで抜いてきた。
「いけ!」
 みんなで叫ぶ。コーンと軽い音を立てた打球がサードの頭を越え、ファールラインの内側で弾んだ。中介は楽々と二塁に滑りこんだ。スッと立ち上がり、隙をついて三塁を窺うそぶりまでする。
 ―テルヨシ、百四十キロくらいで何を安心してるんだ!
 二番磐崎。筋肉質。百六十七、八センチ。足はあるが、いまだに打力が未知数だ。ふだんは静かで目立たないけれども、要所要所で適時打を打つ。明治戦では、セーフティバントを一本決めたあと、右中間とレフト線の二塁打を放っている。アベレージヒッターの素質があるのだろう。野球とは関係ないが、私は彼の義侠心を気に入っている。マスコミが私をつけ回さないように対策を講じてくれ、とスタッフに進言した男だ。
 小笠原がボールをこねて考えている。真ん中の高目にストレートだけ投げていれば打たれないのに、配球の妙でスタンドプレイをしようと考えるせいで、アウトを一つ取るという当面の課題に集中できないのだ。頭のいいおまえらしくないぞ。阿野がタイムを取ってマウンドへ走っていった。背番号11の背中が丸くなっている。磐崎はボックスを外して待っている。阿野が戻ってきた。
 磐崎は初球を打つと決めている。その気配がからだから滲み出ている。テルヨシが美しいフォームで投げ下ろした。磐崎は一球目から、外角の速球をバスターした。
「オ、うまい!」
 鈴下監督の声が上がる。早稲田の金子のまねをしたのだ。打球は一、二塁間へ速い球足で転がり、みごとに抜けていった。ブラバンの演奏がタイガースのシーシーシーに替わった。応援団が陽気に踊り狂いはじめる。
「上野さん、たった一日ですごい進歩だね」
 上野詩織が睦子と黒屋とうなずき合いながらうれしそうに、
「夜の十一時まで特訓したんです。バトンはもう少し待ってください」
 ノーアウト、一塁、三塁。
「横平さん、一発いっちゃって! ぼくのお勤めがラクになるから」
 ベンチに笑いが満ちる。小笠原がチンバの目をますますいびつにしながら、蒼白な顔色になっている。私はストッキングのたるみを引っ張り上げ、スパイクの紐を堅く締め直してベンチを出た。記者席のフラッシュの瞬き。
 ネクストバッターズサークルで膝を突く。空を見上げる。灰色の空。私の大好きなものだ。高島台。浅間下。悲しみに包まれて輝いていた希望。希望は最も強烈な悲しみだ。悲しい空の下で、輝かしい希望に満ちたホームランを打つ。究極の願いだ。



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