四十九

「あんた、だれ」
 山口が睨む。堤は、文Ⅰの堤佳孝だ、と言って、私にしたのと同じ話をした。
「あんたの年齢も、受験するまでの事情もわかった。神無月には関心のないことだ。こいつと付き合いたいなら、言葉と人間性だけで付き合え。付き合えたら、深いものが見えてくる」
「もう見えそうになってる」
「そんなはずはない。有名な野球選手ってだけのことだろ。言葉も聴いてなければ、人間性にも触れてないはずだ」
「……まあね。まだ二度しか会ってないから」
「じゃ、あこがれてるだけで何も見えてない。俺は山口勲という。あんたと同じ文Ⅰだ」
「教室で会ったときはよろしく」
 山口は薄く笑って、たこ焼きと焼きそばを頼んだ。
「教室にはいかない。試験のときには会えるかもしれんな。文Ⅰのやつは本を読まん。あんたは読むか」
「ふつうに」
「戦争と平和は読んだか」
「ああ」
「努力家だな。あれを読み切るやつは、めったにいない」
「ぼくも読んだよ」
「おまえは無意識に読み切っちまう。努力とは関係ない。おい堤くん、東大生というのはすぐ、文Ⅰだ文Ⅲだなんてやりだすが、神無月が文系二番入学だって知ってたか」
「新聞で読んだ」
「そうか。一番は文Ⅱにいるそうだから、神無月は文Ⅰでも一番入学ってことだ。こいつの前では、スポーツはもちろん、勉強も威張れんぞ。文学も、人生歴も、何もかもな。いずれわかる。優越感はいまのうちに捨てておけ。死にたくなるぞ。まあいい。じゃ、音楽は何が好きだ?」
「……あまり聴かない」
「そこがネックになりそうだな。とにかく神無月は忙しいんだ。しつこくつきまとわないでくれよ。体育の授業に出てるのも、人払いの一環なんだからな。ところで神無月、新宿のグリーンハウスな、週二日、一晩三十分のステージ三回と決まった。ワンステージ三千円。けっこういい金になる。北村席さんの金で飲み食いしたくないからな」
「よかったね! 山口のギターをみんなに聴かせてあげられる」
「客のリクエストに応えて唄うのがメインらしいから、ギターだけを好きなようには弾かせてもらえないみたいだ。飲みにくることがあったら、俺の伴奏で唄ってくれ」
「もちろん」
 山口はアイスコーヒーをすすり終え、
「法政戦はどういう見通しだ?」
「苦しい。一勝できればいいだろうな。あと四本ホームランを打ちたい。区切りよく、二十本」
「それだけでも、何世紀も破られないよ。プロにいったら、百本を目指すんだろう」
「ああ。そうして、二年ぐらいでやめたいね」
「そのあとの人生もお付き合いさせてもらうよ」
 堤は冗談でも聞くような表情で、私たちの顔を見比べていた。
「プロへいくまでの勉強は、みんなで手分けして助けてくれるそうだ。マネージャーの上野って女が言ってた。教場試験だけがんばればいいってさ」
「俺も手伝うよ。基礎法律関係の教養科目ならだいぶ一致してるものもあるだろう。その分のレポートならぜんぶ書いてやる」
「法律関係はとってないな」
「そうか。なら仕方ないな。傍観するさ。女マネージャーか。惚れられたな。そいつの面倒も見なくちゃいけないことになるぞ。面倒を見て、面倒なことにならんようにな。人は面倒ぎらいなやつに面倒を運んでくるもんだ。なるべく和子さんには面倒をかけるな。じつは彼女以上に面倒嫌いな女はいないんだからさ」
「わかってるよ。だから面倒嫌いなぼくを選んだんだ」
「今夜は、ひさしぶりにラビエンにいくか」
「いこう! よしのり元気かな。きょうこそ、きちんと飲み代を払ってやろうよ」
「部長が取らないって言うんだから、おごられてればいいだろう。よしのりさんのふところが痛むわけじゃない。お礼にまた歌を唄ってやろう」
「そうだな。ひさしぶりに唄いたくなった」
「俺もご相伴していいかな。……不気味な人間関係だ。興味がある」
 堤が浮き立つ。また山口が薄く笑った。
「興味? フン、くればいいさ。とにかくあまり神無月につきまとうなよ」
「体育のときだけだよ」
「俺はグリーンハウスに打ち合わせにいってくる。六時に阿佐ヶ谷でな。ギターを持っていくわ」
 新宿へ出て山口と別れ、堤と丸ノ内線で新高円寺へいく。
「恐ろしい会話だったな。何者だい、あの山口というのは」
 ここでも呼び捨てだ。
「正真正銘の親友だ。ぼくが何人かの女と付き合うようになった経緯を説明するのは面倒なので省く。この先もずっと、どの女のことも語らない。一人と添い遂げるのも、十人と添い遂げるのも、稔り豊かな幻想だ。幻想であるからには、語ってもしょうがない」
「…………」
 まだ一時を回ったばかりなので、高円寺駅の北口まで二十分ほど歩き、素子のポートに初めて顔を出す。
「いらっしゃいませ」
 素子はハッと驚き、カウンターの女店主に耳打ちした。彼女はいそいそとやってきて、
「ようこそいらっしゃいませ。騒ぎませんからね。どうぞごゆっくり」
 小声で言った。私はうなずき、ナポリタンの大盛りを頼む。
「はーい、ナポリタンの大盛り二丁!」
 カウンターの調理人がホイと何気ない返事をする。素子の耳打ちが聞こえていたのだろう。フライパンの油が焼ける音が高くなった。
「きょうはどしたん? 友だちなんか連れてきちゃって」
 水とおしぼりを持ってきた素子がうれしそうにしゃべりかける。
「体育の授業で知り合ったばかりだ。法学部の堤くん」
「堤です。一度社会に出ているので、二十六歳です」
「山口さんと同じ法学部やね」
「ああ、いま山口にも会ってきた。誕生日のお祝いに、ほら、万年筆もらっちゃった」
「革張り! 格好ええね」
「飛島の社員からもらったパーカーと、西高の土橋校長のモンブランと、このプラチナの革張りで、三本になった。結局使わないから、宝物になるだけだ」
「原稿書くやろ?」
「鉛筆でね。夜、ラビエンにいくよ。山口と合流して唄う予定だ。まず、昼めし。それからフジでコーヒーを飲んで、家で待ってる」
 客たちが息を呑んでいる。私に気づいたのだ。素子がいそいそと品出しカウンターへいった。堤が、
「ずいぶん静かな扱いだな、時の人なのに」
「かまわないでくれてるんだ。人は騒いでほしいやつにしか騒いでやらないもんだ。ぼくは有名人を作りたがるマスコミのあいだで有名なだけだよ。マスコミ人は特定の場所にしか集まらないから、ぼくは彼らのいる場所を避けさえすれば静かに暮らせる」
 私の声が少し小さめなので、カウンターの素子が真剣な表情で聞き耳を立てている。ナポリタンを両手に寄ってきて、
「はい、大盛り。あたし、兵藤素子です。あんたの二つ上、二十八歳。よろしく」
「よろしく。授業で神無月を気に入っちゃってね」
 素子は唇に指を当て、
「名前を出さんといて。呼び捨てなんやね。知り合ったばかりやろ」
「勤め人だったころの癖だね」
「関係ないわ。先輩風吹かして。最初のうちぐらいクンかサンづけでいくものやろ。キョウちゃんを呼び捨てにできるのは、山口さんとよしのりさんだけやよ」
「じゃ、神無月くん」
 囁くように言った。私も小声で、
「神無月でいいよ」
 素子が、
「ふつう、初対面でキョウちゃんに近づいてこんでしょう。いまもむかしも、キョウちゃんは近づきがたい人やよ」
「山口といい、あんたといい、この男を崇め奉ってるな」
「ふつうの人間のいろんな才能を足しても、キョウちゃんの十分の一にもならんからよ」
「たしかに、あの野球はすごいよな」
「野球だけやない、ほかにもいろいろ人の及びもつかん才能を持っとる。とくにすごいのは、他人と心中する才能や。ふつうのやさしさやない」
「心中はオーバーだろう」
 素子は、はい、と返事をしてカウンターへいき、すぐコーヒーを持ってきた。
「あんた、初対面で、赤の他人でしょう。ここまでついてきたあいだに、くるなって、断られた? キョウちゃんは死んでも断らんよ。それでなくても忙しく暮らしとるのに」
 堤は黙った。
「まねできんやろ。魅かれたんなら、あんたもキョウちゃんと心中してみい。あたしたちは会ったときから心中しとるんよ。スパゲティ食べたら、女神に会いにいくことやね。じゃ、キョウちゃん、あとで家でね」
 堤は呆れ顔でナポリタンを平らげ、私が食い終わるのを待っていた。
「俺はとんでもない人間を目撃しているのかな」
「十九歳の野球小僧だよ」
 ポートを出るとき、堤は饗応した私にごちそうさまも言わなかった。
「心中って、何だ」
「気にしないほうがいい。ぼくには違和感のない言葉だ」
 フジのドアを押して入った。短い階段を下りる。黒革のソファを向かい合わせた四つのテーブル席、L字形のカウンター。広くて落ち着く空間だ。入口から二つ目のテーブルに腰を下ろす。これまで二度きたが、いつもこの席に座る。私の対面にドッカと座った堤を見たとたんに、カズちゃんは眉をしかめた。めずらしいことだった。ここでも堤は似たような自己紹介をした。
「あなた、嘘や隠しごとはキョウちゃんとの距離を大きくするわよ。それがないことがスタートラインよ。製図を引いてたのは、アルバイトじゃないの?」
 堤は腕組みをしてため息をつき、
「……そのとおり。七浪してやっと文Ⅰに合格した。その間に、東京教育大や早稲田の政経、いろいろ落ちてる。熊本工業はほんとうだ。機械科出身。古河には二十二まで四年間いた。退社したあとのアルバイト期間も含めて、八年、こつこつ勉強をつづけてた。兄貴が京大法学部から農林省にいった秀才でね、負けたくなかった。浪人最後の一年間は、川崎の夜間予備校にかよった。東大に受かって、すべて帳消しだ」
「ふうん、なかなかそこまで正直に言えないものよ。せっかく告白してもらったけど、キョウちゃんはそんなこと歯牙にもかけてないでしょうね。きょう飲みにいくラビエンのよしのりさんは、中学しか出てないわ。すごい記憶力の持ち主よ。山口さんはギターの天才。あなたにも何か取り柄がある?」
「……ないな」
「なら、付き合いは相当きついものになるわね。せいぜい、キョウちゃんを楽しませてちょうだい。ぜったい自分の事情に引きずりこまないこと」
 うまいコーヒーが出た。
「家にいって、休んでて。山口さんと待ち合わせの時間は?」
「阿佐ヶ谷、六時」
「五時四十分に家を出ましょう。お腹は?」
「いまナポリタンを食ってきた」
「みんなで軽くお茶漬けを食べてから直行しましょ。きょうはひさしぶりにキョウちゃんの歌を聴いて、うんと涙を流そうっと」
 フジを出る。堤は私と並んで商店街を歩きながら、痩せたあごを振り振り、
「やさしく馬鹿にされてる感じだな。腹は立たないが。……だいたい、歌ごときで泣けるのか」
「堤くん、何かに感動したことは?」
「……思い出せないな」


         五十

 家に着くとキッチンテーブルに落ち着いた。微妙な距離がある。けっして縮められない距離だ。
「どういう女なんだ、彼女は」
「女神だよ。見てわからなかった?」
「見るだけじゃな」
 堤は八年間にわたる長々しい苦労話を始めた。うんざりしながら聞いていると、カズちゃんと素子が帰ってきた。
「ただいまあ! さあ、お茶漬け食べて出かけるわよ。二人、お腹すいてないなら、私たちだけ食べていきましょう」
「うん。私、シャケ」
「私はコブ」
「女神さんて、いくつですか」
「当ててみて」
「俺と同い年、二十六」
 素子が眉を吊り上げ、
「あたしより年下ってこと? 無理ないわ。ほんとにそう見えるもん」
「三十四よ」
「ええ!」
「素ちゃんも、二十二、三にしか見えないわよ。齢というのは見た目。実際の年齢なんかいくつでもいいの。あなた、三十くらいに見えるわよ」
「苦労したからね」
「どんな? はい、お茶漬けできた。食べよ」
 二人でサラサラやりはじめる。
「俺、古河では仕事できたから、バイトだったのに忘年会に呼ばれたんだよね。座敷に入るとき襖越しに、高卒のくせにって声が聞こえてきたんだよ。中に入らずに帰った」
「やっぱり凡人ね……」
 カズちゃんが呟くように言った。茶碗を片づけながら、
「そんなのが苦労? たとえば、だれかのすぐれた技能を見たとするわね。すごいってびっくりしたあとで、その人が高卒だったとしたら、高卒のくせにって思うかしら。ぜったい思わない。負け惜しみを言うのは、見てた人が大卒のときだけよ。自分の肩書でその人の技能を相殺したいからよ。肩書はすぐれた技能じゃない。そういう人間て、無能者である自分をふくらまして見せたいの。会社では仕事ができるということが肝心で、そのほかのことは無関係。仕事のできない無能者に何か言われてひるむのは、有能よりも無能にあこがれてるという大矛盾ね。あなたは有能者に感動しない体質なんじゃない? だから八年もかけて無能者に近づく努力をしちゃったのよ」
 素子が、洗って拭いた茶碗を胡桃材の食器戸棚にしまう。
「苦労って、大事なものを奪われることやよ。あんた能力のある仕事を奪われなかったやないの。ただ、どうでもええ悪口を言われただけでしょ」
「まいった。あんたたちは別の価値体系の中で生きてるんだな。しかしね、どんなきれいごと言っても、世間の口が価値じゃないのか」
「十中八九の人はね。苦労や恐怖というのは、たしかにその人たちが与えるものなんだけど、あなたの言う別の価値体系の中で昇華されるのよ。あなたの苦労は、素ちゃんの言うとおり、ほんものの苦労じゃないわね」
「神無月は苦労人なのか。何か大事なものを奪われたのか。そうは見えないな」
「キョウちゃんは何も語りたくないはずよ。理解を期待してない質問には答えないの。はい、話はそこまで。出かけるわよ」
 阿佐ヶ谷に着くと小止みしていた雨が本格的に降りだした。かならずと言っていいほどラビエンのいき帰りには雨が降る。ギターケースを提げて改札で待っていた山口が手を上げた。一分も歩けば着くのに、彼は売店で傘を二つ買い、一つを女たちに渡し、一つを私に渡して、濡れながら先へ歩いた。傘を渡された四人は相合傘でラビエンまで歩く。
「いらっしゃいませ!」
 部長が深々とお辞儀をした。山口が二本の傘を巻いてスタンドに差した。よしのりを円卓の中に見つける。客と言い争っている。相手はいつかのイボ学生だ。
「一文なしだぞ!」
 私はわざと彼らを遮るような大声を上げた。
「おお、神無月!」
 こちらに向かって手を上げる。気勢をそがれたイボ学生が険しい目でこちらを見た。
「あれも法学部だよ」
 山口は堤に言った。私たちはイボ男から三席ほど離れた席に坐った。男はわだかまりを残した顔で、独り言のようによしのりの横顔にしゃべりつづけている。
「愛だとか、芸術だとか、書生っぽみたいなことを言うなよ。そんなのは戯(ざ)れ言だ。センチメンタリストというのは、この現実社会では、頭を撫でられて追い払われるか、最初から消されるか、そのどちらかしかないんだ。イチコロだよ」
 私は小声で山口に言った。
「すごいね、ぼくたちの殺虫剤だ」
 よしのりはイボ男にうんざりした視線を返し、
「センチメンタリストにかぎらずみんなそうでしょ。人間は、と置き換えたほうがいいんじゃない?」
「いや、センチメンタリストにかぎられる。やつらは意識の高い庶民じゃない。社会構造の中で自分を捉えることができない。だから、個人的な些細な侮辱には仕返ししようとするが、国家ぐるみの大いなる侮辱には報復できない。報復できるのは意識の高い庶民の集合体だけだ」
 山口が思わずテーブルを叩こうとして、そろそろと手を下ろした。堤はイボ学生のクズのような理屈に感嘆し、カズちゃんと素子は徹底して彼に軽蔑した眼つきを流した。山口はテーブルを叩く代わりに、離れた席から男に言った。
「それ、もろにマキャベリの『君主論』だな。ああいう本も、ときには箴言として読んでみるのもオツだけど、事実に文学的なオブラートをかぶせてないので、飽きるよ」
 イボがあわてた顔で山口を見た。
「いま言った庶民論は俺の眼目じゃない。べつにセンチメンタリストを皮肉るつもりはない。どんなときも、どんなところでも人間への侮辱をはっきり糺(ただ)して、それを追及しなければいけないと、俺はさっきからこのバーテンに言ってる。みんなが新しくなっていくのを、手をこまねいて待っていちゃいけないとね。人間がいつとはなしに変化するのを待っていちゃいけないんだ」
 よしのりは笑いながら言った。
「何言ってるのか、さっぱりわからんな」
 イボはかまわずしゃべりつづける。よしのりは私たちの前にグラスを並べ、ビールをついだ。レーズンバターと乾きもののオーダーを厨房に出す。素子が、
「私、焼きうどん」
「おいきた、焼きうどん五人前!」
 イボ男がよしのりを睨み上げて、
「意識の高い一部の庶民が、庶民全体の高揚に力を貸してやらなければいけないということだ。庶民に解放や自由をもたらすほど革命を豊かなものにしようとするなら、けだしすぐれた庶民がすべてを正し、すべてに責任を負わなければならない。革命とはそういうものだ。それなのに、どいつもこいつも―」
 私は話が耳に入らないように、椅子もう一つ分、彼から遠のいた。よしのりは私の顔色を横目に窺いながら、男に言った。
「だから庶民の代表のおたくは、いつも一人で責任を背負って、疲れた、疲れたって言ってるわけ? そんなきれいごと言うと、お里が知れるよ。革命と言う以上は、その高い意識とやらで革命の相手をイメージしてるんだよね。打倒しなくちゃいけない相手はだれなのよ。政治家? 資本家? いや、少なくとも、おたくのイメージしてる相手は人間じゃないな。国家を中心にする図式だろ。つかみどころのない図式は相手にできないよ。でも図式を変えたいんだよね。変えるためには、国家の図式という抽象物じゃなく、国家に影響力のある具体的な他人を攻撃しなくちゃならなくなる。それで少し文化がうねる。でも、いつでも首をすげ替えられる権力者を打倒しても、あっというまにうねりはもとどおりだ。つまり人や図式を打倒の目標にしても無益だということだね。自分の外を改革するんじゃなくて、自分の内を改革するんだよ。それができるのは、愛と芸術だ。その二つが一人ひとりの個人に深く浸透しないかぎり、図式の改革は不可能だ。あんたをたとえるなら、そうだな、権力なんて的外れなものを勝手に敵だと思いこんで突進していくドンキホーテだね」
 ちょっと待って、と山口は口を挟んだ。
「ドンキホーテは愛にまみれた人物だ。権力を攻撃する社会改革なんてことも考えてない。このかたは、自分の努力の姿勢を誉めてもらいたいだけの、愛のない、ただの苛立った登山家でしょ。そこに権力があるから倒してみたい、といういき当たりばったりのね。権力というものの居場所は、モビリティに富んでいると俺は思う。変通自在だ。天皇から将軍へ、将軍から総理大臣へ、総理大臣から芸能人へ、芸能人から彼らの雇い主のスポンサーへ。横山さんの言う図式とやらの中では、資本家も政治家も庶民もみんな権力者だということだよ。残念ながらそんなアメーバのような図式は打倒できないと思う」
 堤はポカンと山口を見た。イボが、
「おまえこそ何を言いたいのかわからん」
「あんたはきっと、打倒できないという事実にどうにも直観的に腹が立って、打倒の峰に登る勇敢な登山姿を誉めてくれない見物人たちを叱っちゃうわけだ。どうのこうの言っても、結局は、あんた自身が権力を握りたい焦りから出てくる葛藤だね。何年もかけて東大にきたのも、そういう理由からでしょう?」
 どこかの席から拍手が上がった。よしのりが、
「あんたも懲りない男だな。図星じゃないか」
 山口がイボに向かって、
「俺たちは目が回るほど忙しく暮らしてるから、学生運動がどういうものかまったくと言っていいほど知らないし、政治や経済のことも、世間のことも大して知らない。俺たちの気持ちといえば、ただ胡散くさいものに対処しなくちゃいかんということだけだ。つまりどんなときも、柔軟な子供の心でいようということなんだな。俺はその子供の気持ちを心頼みにしている。よしのりさんの言うとおり、柔軟な心は自分の蝋のように固まった観念を変革する意志を持てるからだよ。その意志を惹起するのが、あんたの言うおセンチな愛と芸術だ。変革するのは飽くまでも自分自身だ。愛も芸術も、大衆の動向を左右する国策ほどの力はない。しかし、大衆の素である個人は確実に変革する」
 カズちゃんが、
「子供でもこれだけ独創に満ちたことを言えるのよ。五つも年上のあなたの独創はカラッケツということになるわよ」
 よしのりは、一本のビールを飲み終わった山口と私の前に、スミノフのボトルとグラスを置いた。カズちゃんと素子にはもう一本ビールを置く。焼きうどんが出てくる。山口はスミノフを一口、二口すすりながら、
「子供は子供でも、この神無月は天才児だけどな」
「ケ! またその色男の野球バカか。文学部に情実入学でもさせてもらったんだろう」
 堤が、
「俺はその野球バカの友人です。八浪のバカです。俺はスレスレ合格だろうけど、この神無月は全学二番合格ですよ。新聞読んでないんですか。それに東大に情実入学はない。あんたも俺もだから苦労したんだよ」
 堤は、年齢とサラリーマンの出自と、それから東大文Ⅰと小さな声で言った。よしのりが私に、
「なんかほかの話をしてよ。東大東大ってやかましい」
「いや、話はもういい。ぼくは山口と唄うためにきたんだ」
「そうか! ありがたい。素ちゃん、何かさっきからおとなしいよ」
「あたりまえや。話がおもしろいもん。ちょっと胸クソ悪いやつもおるけど」
 素子は男たちの言葉のやりとりを堪能していたようだ。


         五十一

 イボ男は目を光らせながら沈黙していたが、堤が文Ⅰだと聞いて口調を改め、
「権力自慢をするために東大にきたんじゃないんですけどね。私はあなたと同じ労働経験者です。新聞配達をしながら二十四で東大に―」
 堤が慣れない調子でやり返した。
「俺は自慢したくて東大にきたんですよ。どんなにアサハカだと言われても、否定できない。きみのような権力打倒を目指してきたわけでもないけど」
 よしのりは堤にもスミノフをついだ。堤はそれをちびりとやり、焼うどんを食いはじめる。
「結局、働いて東大に入れたのが自慢なんだよね。それが最終目標だったんだからね。なんてったって東大だもの―きょうまではそういう気持ちだった。……コペ転。この人たちを見てたら恥ずかしくなった。よく考えるとさ、東大にきたらもうやることがないんだよ。きみもやることがないんで、党派根性プンプンのホラ念仏を唱えてるわけだ。彼らはちがう。東大に入る入らないは関係ない。東大なんか駅の改札みたいに通り過ぎて、しっかり目的地を目指して走ってっちゃう人間もいるんだよ。俺たちは駅の階段でへたりこんでる。どこにいけばいいかわからないからだよ」
 イボ男はまたむっつり黙りこんだ。堤はつづけた。
「きょうものすごいものを見てしまった。五打席五ホームラン。軟式ボールだけどね。打ったボールがグニャッとつぶれて、揺れながら飛んでいくんだ。最後に監督命令で、みんなの前で二本だけパフォーマンスをしてくれた。全力で打ったんだ。ボールが割れたよ。恐ろしかったなあ。そのはずだ、いま話題の金太郎さんだからね。金太郎さんは、体育が必須だってんで、遊びで軟式野球をとってるんだ。まいったよ」
 男はキラリと横目を光らせ、
「知ってますよ。初対面じゃないから。でもイヤミだな。そこまで野球がすごいなら、東大になんかくる必要ないだろう。どっかの野球大学で野球だけやってりゃいいんじゃないの?」
 堤が、
「必要がなかったのは、東大まできて、ハイ終了みたいな私たちだろう。やっぱり、新聞配達してるくせに、新聞読んでないんだなあ。神無月くんはね、ぜひ東大にくる必要があったんだよ。どうしてなのか、だいたいの事情は新聞を読めばわかる。そこを攻めるのはおかどちがいだ。曲解だよ。そのダメ押しの証拠みたいなのを、きょう見せてくれるってこの人たちが言うから、楽しみにしてるんだ」
 イボ男は、またケッと吐き出し、
「野球以外に何かあるの? たかが文Ⅲで、才能もへったくれもないんじゃないの」
 山口は苦笑いし、
「ほんとに悲しい男だね、あんたは」
 カズちゃんがため息をつくと、堤もため息をついた。イボは調子に乗り、
「悲しいのはそのイロオトコだろ。このあいだもそうだったが、今回も女連れだな。女にちやほやされてヤニ下がってるようじゃ、男もおしまいだ」
「お、別の方向からきたか。とことん情けないやつだ」
 素子が、
「一度でも、おしまいになってみたら?」
 山口がカウンターを叩いて笑った。よしのりが、
「おい、あんた、きょうこそ追い出されないように口を慎んだほうがいいぞ。怨みもない人間に喧嘩を売ってどうするんだ」
 山口が、
「たしかに神無月は知識や教養はからきしだ。もともと興味がないからね。アタマに憶えこませた知識や教養は、野球選手上がりには付け焼刃だと強烈に自覚してるんで、敬して遠ざけてる。興味も、野球と女と友情に限定されてる。神無月の本質は子供だから、興味のないことには振り向かない。しかしアタマを使って考えることは本気だし、知識や教養と関係なく天才特有の結果を導き出す。声も、身振りも、笑うことだって、泣くことだって、それは神無月自身だし、神無月の本質だし、神無月の感情の成りゆきだ。それはあまりにも感動的なんで、人を動かす。ただし動かされるのは選ばれた人間だけだ。選ばれないのはつらい。しかし、自分だけ選ばれようなんてのは虫がよすぎる」
 よしのりを盗み見ながら言う。それから山口は気のないふうに店内を見回した。カウンターに肘を突いて、酔いを募らせながら私たちの会話を聞いていたイボ法学部が、たまらず立ち上がった。
「そんな野郎に選ばれたくなんかないよ。おまえら、つくづく呆れた野郎たちだな。おセンチなことしか頭にないのか。おい、そこのイロ男。野球大名人。えらく買われたもんだな。それほどの男なら、何か身になることでもしゃべれるだろ。だいたい、口が利けるのか」
 酔漢特有の馬鹿げた尊大さを見せる。カズちゃんが、
「どうしたの、この人」
 素子はカズちゃんの腕にすがった。
「早くキョウちゃんの歌が聴きたい」
「そろそろやるか」
 山口が言う。私は向き直って男を半眼で見つめた。それから視線を下ろして、ビールグラスを握っている二十四歳の男の手を見つめた。私ほどではないが、長い労働のせいで節くれだっていてさびしかった。
「あなたは、話の様子と暇な時間の使い方からすると、学生運動すらやってないですね」
「おいおい、神無月! 目が怖いよ。落ち着け。相手にするな」
 よしのりは私の致命的な短気を知っている。私は笑ってよしのりに手を挙げた。
「なぜぼくをここまで侮辱するのか知りたいだけなんだ」
「おまえはカッとなると脇目を振らないからな。―爆発しないでくれよ」
 イボ男はよしのりの言葉の効果で、少し引いたように、
「……学生運動のような実際の政治活動には、興味を向けないようにしている」
「じゃ、シンパの演説ですか。口が達者なだけですね」
「ほう、大きく出たな。じゃ、きさまは何か、この混迷する社会に対して、自分なりの意見を持っているのか」
 カズちゃんが私の腕に手を置き、
「キョウちゃん、もうそんな話は切り上げて。時間のむだよ」
 山口が両手を後頭部に回して組んだ。
「ちょっと待て。聞き捨てならないな。おい、神無月、あとは俺が引き受けてやろう。さっさとすませて早く唄おうや」
 私を気づかって微笑んでいる。堤がその微笑をこわごわ眺めている。男が、ヘッと言った。
「あんたに引き受けてもらいたくないな。俺はこのイロ男の意見が聞きたいんだよ」
 私は、
「わかりました。意見を言うことは自分に厳しく戒めてるし、くだらないと思うことに対してはこれといった意見もないですが。―混迷、でしたね? いつの世にもはびこる退屈きわまりないメディア表現だと思います。どうしてもあなたは、テレビに映し出されるような暑苦しい社会現象のことが忘れられないようですね。自分でそんな世界へ実際出かけていったことなんかないんでしょう? 自分が会ったこともない大勢の人間と、頭だけでしつこく関わりたがる人は、自分の利益を考えることにひたすら真剣な人ですよ。他人に関わるのも勤め向きでやってるだけで、命賭けでない。十把ひとからげで他人をどうこう言いたがるのが動かぬ証拠で、だから大勢の他人の思惑が気になって、すぐ疲れてしまう。お勤めですからね。疲れますよ。それがあなたの苛立ちのもとです。過剰な運動か病気からくる倦怠以外、人間には疲労の原因など存在しない。人はめったに疲れないんです。ぼくの場合、そういう生ぬるい疲労は、それにふさわしい人にまかせておけばいいという考えです。ただ、静かに生きてる人間はかならず何かを守ろうとして命賭けですから、へたに十把にからげて関わると痛い目に遇いますよ」
 私は容赦のない率直さで言った。
「言葉がもったいない! もうそのへんでいいだろう」
 山口が声を高めると、堤が肩をビクッとさせた。よしのりはとぼけたふうにビールの栓を抜いて、自分のコップについだ。
「立派なご意見じゃないか。自信満々なんだな。社会を自分の単純な理屈で仕切れると思ったら大まちがいだ。たわごとは馬鹿相手に言え。十把ひとからげの人間たちにうるさく関わって、救済の方策を探ることこそ学問だし、命賭けで生きてる人間を救う哲学だ。なぜなら社会の人間は、その救済を命賭けで待っているからだよ。きさまは、そういう哲学以外の何かを守ろうとして、命賭けで生きてるってわけだろ」
 私は彼の隣の椅子へ移動して、彼の手首を強く握った。
「なんだなんだ、暴力か」
「ちがいます。そんなことしたら、リーグ戦に出場できなくなります。よく聴いてほしいからですよ。あなたは頭が悪い。まずもって平凡な人だ。世間の人間はあなたの言うような救済を待ち望んでないし、そんな不明の闇のような哲学で救われることもない。ぼくも含めて、彼らは政治や制度によって救われるんじゃなくて、愛や友情によって救われるんです。あなたのような頭の悪い人がいくら徒党を組んだってだれも救えない。理由はわかるでしょう、臆面もなく正論ばかり口にしているからですよ。正論なぞ、それぞれが胸の中で了解していればいいことで、口に出して言うのは頭の悪い証拠です。愛と友情は口に出さなきゃならない。口に出すのに正論より勇気が要るからです。ぼくが何に命を賭けているかって? べつに命を賭けるほどのあては見当たらないけど、自分のための命はいらないですね」
 私は手を離した。男はひざを組み替えて、もう一度、へ! と吐き出した。
「なら、死んじまえばいいじゃねえか」
「いまのところ他人のために役立っている命だから、それができないんです。労働以外で人の役に立ったことのないあなたにはわからない」
「俺がモテないってことか? これでも―」
「わかりますよ、どこにでも物好きはいますからね。ぼくにしてもそうです。しかし、その人たちの役に立ってますか。自分をかわいがらずに」
「意味がわからんな」
「命をくれる人に、命をあげるということです。全員にまるまる一つをあげられないから、ひとまず生きていて命を分配する。くどいようだけど、自分のための命は要りませんからね。愛ある者同士の、愛あるあいだの命のやりとり。その意味だけで、人は自由です。あなたの言う社会というものが、神に起源するものか、人間の作り出したものかは知らないし、それがどんな方向へ動いていくものかもわからない。確実なのは、社会が混迷していようといまいと、愛し合う人間の集団があるということです。その中で、だれでも、人に強制されない身に合った自由を工夫して楽しんでる。生半可な解放の主張などというものが、大勢の人間の幸福を生み出すためにどんなに無力なものか、いくら頭が悪くてもわかるでしょう」
 山口は痛ましい表情をしていた。目が潤んでいた。
「まだこいつには神無月の親切心がわからないみたいだな。仕方ない、神無月、いつものようにボーッとしておけ」
 山口はケースからギターを取り出した。よしのりが言った。
「あんた、やめなよ。さっきまで俺と話してたんだろ。なに絡んでんだよ。みんなでじっとがまんしてやってるのわかんないの? 神無月と議論したって、かなわないよ。よく苦しむ人間は、よく人生を知ると言うだろ。そういう人間は、何ごとにつけきちんと批判できるんだよ」
「傷の嘗め合いか。身の毛がよだつぜ」
「なんだと!」
「でなけりゃ、友情ごっこだ」
 よしのりは思わずカウンターから身を乗り出したが、仕事柄自分を諫めるように男の顔から視線を逸らした。男はひるまず、まるで少年のように顔をこわばらせている。


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