四十九

 四月二十七日から対慶應戦が始まった。二日間で決着がついた。十九対二、十六対一。台坂と有宮が完投勝利。
 あまりにも弱いチームだった。ピッチャーもバッターも記憶に残るほどの選手が一人もいない。秋季も安全パイだろう。私はあえてホームランを狙わずにミートポイントのおさらいをするつもりで臨んだが、二試合で五本も打ってしまった。十六号。春だけで田淵のこれまで四年分のホームランを打つことが確実になった。
「いままでこんなチームに負けてたんですね」
 監督が頭を掻いて、
「面目ない。慶應は広野や江藤省三が抜けたあとは、たしかに骨なしのチームになってたんだが、そんなチームにも東大は勝てなかった。おととしの春は慶應が最下位で、東大が五位に浮上なんて珍事も起きたんだがね……。それでも去年の春の慶應は、リーグ初の完全試合をやった渡辺のおかげで優勝してるんだよ。浮き沈みの激しい大学だ。これから数年は、また低迷をつづけるんじゃないかな」
「とにかく、しばらくはカモになりそうですよ」
 ここまでかもしれないので、せいぜい大きなことを言ってみる。
 六勝一敗、勝ち点三。六勝零敗の法政に次いで二位のままだ。来週の立教戦を二勝しても優勝は無理かもしれない。法政と東大が次の二戦を勝って、八戦全勝と八勝一敗でぶつかった場合、二勝一敗でないと優勝はない。二勝一敗でも、優勝決定戦になる。その前に立教に一敗でもしたら終わりだ。法政が次の明治戦で一敗でもしてくれないか。いや、他力本願はだめだ。とにかく勝ち進むことだけを考えよう。
 五月十一日の立教戦まで二週間の中休みに入った。
         †
 光ほのかに―アンネの日記、はだか随筆、太陽の季節、山びこ学校、と一週間かけて読む。第二の性を除いてすべて読了。アンネの日記。どう感じていいかわからない本。倉庫の屋根裏に家族と同居人が逼塞。ふつうの声の会話も音楽もなく、囁くことで意思疎通するしかない生活。希望は外にある。アンネの言葉。
 ―太陽の光と、雲一つない青空があって、それを眺めていられるかぎり、どうして悲しくなれるというの? 
 太陽の季節。愚書。はだか随筆。大学教授のシモネタ本。くだらない。
 山びこ学校は良書だった。とっておく。山村貧困家庭の中学二年生の文集。生命力。一生徒が無着成恭にあてた答辞の紋切りがいい。
 ・すばらしく大事な人間の命も、生きていく態度をまちがえれば、さっぱり値打ちのないものだ。
 ・いつも力を合わせていこう、かげでこそこそしないでいこう。
 ・人間の値打ちというものは、人間のためにという一つの目的のため、もっとわかりやすく言えば、山元村のためにという一つの目的をもって仕事をしているかどうかによって決まってくるものだ。
 〈山元村〉を〈愛する者〉と置き換えれば明瞭だ。これを中二生が書いた。
         †
 五月五日の日曜日に、高円寺で十九歳の誕生日をカズちゃんたち五人に祝ってもらった。十九本の蝋燭を吹き消した。ハッピーバースデイの歌は嫌いだからやめてほしいと頼んでいたので、だれも唄わなかった。
 みんなで一品ずつ料理を作り、豪華な食卓になった。酢豚と生春巻がうまかった。誕生祝いとして、一万円ずつ熨斗袋を渡してくれた。
「寺田の大将さんから、五十万円の小切手が届いてるわ」
「やっぱり送ってよこしたんだ。康男の名前だけど、ワカからだね」
「松葉会に連絡して若頭さんにこれこれこうだと言ったら、ヤスも一人前になったってとぼけるの。七月に浅草詰めになるけど、わざわざ会いにいく必要はない、大事な身だから慎重にって」
「どうやって会えばいいかな」
 法子が、
「ここに遊びにきてもらえばいいじゃない。高円寺でいちばんいい店で食事をして、お話して」
 そうよ、そうよ、とみな賛成した。カズちゃんのほかに康男を知っているのは、法子と節子だけだった。素子は興味深そうな表情だったが、吉永先生は少し恐怖の混じった上気した顔をしていた。先生が訊いた。
「ヤクザって、恐くないんですか」
「見た目も中身も、この世でいちばん恐ろしいよ。別世界の住人だから。でも、こちらを友人や知人だと認めると、これ以上ないくらいやさしくて強力な味方になる。短気な気質を除けば、気配りの濃やかな、人間的に底なしに純粋な人間が多いんだ。ここには遊びにこないと思う。ヤクザは、知り合いに迷惑をかけることを極端に嫌う。ワカが何と言おうと、ぼくたちが会いにいくしかない。浅草あたりにぼくたちの顔見知りはいないから不都合はないさ」
 カズちゃんがうなずき、
「リーグ戦が終わったら、かならず会いにいきましょう」
         †
 五月六日月曜日。快晴。
 ダッフルにトレパンと古いスパイクを入れた。綿パンに下駄のいでたち。本郷の練習はオミットして、ひと月ぶりに軟式野球の授業に出た。福島教授とお別れのつもり。井之頭線に乗ったころから曇りだし、駒場グランドにつくころには小糠雨になった。
「だいじょうぶなのかァ? 義理立てしにこなくてもよかったんだぞ。成績は優をつけることに決まってるんだから。せっかくだから、先回できなかったお披露目をしておくか」
 福島教授が喜んだ。細かい雨の中、急遽対抗試合をすることになった。福島は、希望者二十人ほどのメンバーを任意に組み合わせて二チームを仕立てた。守備位置と打順は各チームで決めるようにと言った。
 周囲を見回しても駒場のグランドにマスコミ関係者の姿はない。この時点で学生たちの大半は私のことを知っていたが、ありがたいことに彼らの関心は映画俳優や歌手やテレビタレントに向いているので、スポーツ選手ごときを前にしても大騒ぎをしない。東大生ほど芸能界にあこがれている人種はいないと、この数カ月でつくづく知った。民間の最大権力であるNHKのドラマ出演者を見れば、一目瞭然、ほとんどが旬の芸能タレントだとわかる。NHKは上層部の大半を東大出身者で固めている。彼らがなぜ、芸能人を好むのか私には理由がまったくわからない。お近づきになって、アンチ知性の韜晦をステイタスにしたいのかもしれない。揺るがない知性の肩書はすでに持っているのだから、浮薄なアクセサリーは微笑ましい愛嬌になる。
 組分けされたチームで、お客の私は四番をまかされた。キャッチボールの球が速すぎて捕球できないから、外野に回ってくれと言われた。配慮してもらってレフトを守らされた。
「ゴロやフライは、ゆるく返球してやってください」
 と助手に言われた。西高のソフトボール大会と同じ気分になる。手加減して投げれば山なりになって、味方に不利益を与えることもある。手首を利かせて捕球しやすく投げるしかないと思った。軟式で肩をふつうに使うと脱臼の恐れがあるので、かえってそのほうがいい。福島教授が、
「神無月くん、ピッチャーやってみろ」
 とマウンドに立たせたが、肩を使わず手首だけで投げると、なかなかボールのコントロールが定まらないので、
「やっぱり、レフトでいいよ。しかし、手首だけで投げても速いなあ! 真ん中にきても打てないし、どこへきても打てない。ある意味完璧なんだけど、フォアボールで負けちまうな」
 学生たちの守備やバッティングはあまりにもへたくそで、同情する気にもならなかった。ある一人の学生のライナー性の流し打ちには多少の見どころがあった。彼が二度目の打席に立ったとき、外野が深く守りすぎているので、
「ライト、ずっと前へ出て!」
 とレフトから大声で指示を出した。彼の打球は浅いライナーになってライトのグローブにすっぽり収まった。拝み取りという格好だった。そのバッターが守備交代のときに訊いてきた。細身だが意外に背が高かった。
「どうして、あの場所に打球が飛ぶとわかったの?」
「きみの構えからだよ。バットを寝かせて短く持ち、両膝を曲げた格好でバットを振っても、ボールは遠くへ飛ばない。低いライナーで右のほうへ飛ぶ」
「そうか、さすがだな。俺は熊本工業で万年補欠だったんだ。神無月が軟式野球を選択したのは腕自慢?」
 呼び捨てにしてきた。よく見ると目尻に皺がある。年を食っているのかもしれない。
「野球しか効率的にからだを動かせないから」
 試合後、全員グランドに集まったところで、二人の助手を従えた福島教授が学生たちを立たせたまま言った。
「諸君、きょうは神無月くんのバッティングを見ることができてよかったね。見たこともないようなスイングだったろ。軽く振って五打席五ホームラン。ぜんぶ森の中へ消えていった。超人的だね。ノーバウンドのバックホームも見たね。あの球筋の低い遠投力には度肝を抜かれただろ。あれでも半分くらいの力でしか放ってないはずだよ。ボールがキャッチャーの顔に当たって、セーフになっちゃったのは愛嬌だったけどさ」
 丸顔のキャッチャーが赤く腫れている額をさすった。車座の連中がサワサワと笑った。
「神宮のグランドに勇姿を見にいきたまえ。とりわけ彼のバッティングは、生涯記憶に残ると思うよ。もちろんこれから何年もつづけてホームラン王を獲るだろうし、プロ野球でもホームランキングを獲りつづけるだろう。身長百八十センチ。八十キロ。筋肉隆々というわけでもない。全身が鞭のようにしなる。巷にはとんでもない人間がいるということを思い知らされるね」
 福島は握手を求めた。それから私の肩に手を置き、
「もう一度、バッティング、見せてくれないか」
「わかりました」
「学生諸君も目に焼きつけてくれ。この先の人生で、二度とお目にかかれない打球だ。きみ、全力で投げてくれ! 神無月くんもできるだけ全力で振ってほしい。こちらの助手は硬式野球部OBだ。ブルペンピッチャーだったがね。かく言う私もそうだ」
 また学生たちがサワサワと笑った。
 おりよく霧雨が上がった。助手の一人がマウンドに登った。百三十キロ前後の高目のストレートを投げこんできた。見逃す。なかなかのものだ。次の一球が膝もとにきた。軽くすくい上げる。ボールはきれいな弧を描いて、外野の森に消えた。力を抜いて打ったが、百十メートルは飛んでいる。学生たちのため息のような歓声と、慎ましい拍手がつづいた。福島教授や助手ほどの感銘は受けていない。母と同様、彼らは野球に価値など置いていないからだ。助手はもう一球投げた。全力で振った。ボールが古かったのか破裂音がし、ふらふらと土手の前に落ちた。
 更衣室でワイシャツと綿パンに着替え、ダッフルにトレパンとスパイクを詰めて校門を出る。足もとは下駄だ。ライトライナーの学生がついてきた。
「俺、光本。二十六歳。去年まで古川電工に勤めてた」
 その程度のわけありは驚くにあたらない。
「電気会社?」
「具体的には何をやってるのかよくわからない。簡単に言うと、機械の部品作りかな。建築デザインの仕事もやってて、俺はそこで設計図を引いてた。仕事ができすぎて、同僚にやっかまれた。いづらい会社だったよ」 
 嫌いなしゃべり口だ。基本が愚痴になる。たまたま正門に入ってくる山口と遇った。
「よう、山口! 駒場散歩以来だな」
「おまえに会いにきたんだよ。鈴木の言ったことに感銘受けてな。霧雨だったし、ダメ押しできてるんじゃないかと思ってさ。体育で軟式やってるってこともわかってたし。ひょっとして、だな。ま、会えなかったら、掲示板でも見て、マルガのまずいそばをすすって帰るつもりだった」
「俺、光本。神無月とは体育の授業でいっしょだ」
「呼び捨てか」
 山口は胡散臭そうに光本を見た。三人で駅の階段を上って東口へ出、適当に喫茶店を探す。パン屋の隣に小さなたこやき屋。おそろしく小さい構えのドアを入ると、四人がけのカウンター、四人がけのテーブル二卓、二人がけ二卓。四人がけのテーブルに座る。
「きのう誕生日だったろ。ほれ、プラチナの万年筆だ。胴体革張り」
「おお、サンキュー! 値段に関係なく革張りがほしかったんだ」
 ブレザーの胸に差す。
「安物みたいに言うな。二万円もしたんだぞ」
 カルピスを飲んだ。乾いた喉に信じられないほど美味に感じられた。山口がアイスコーヒーを直接グラスから飲みながら言う。
「しかし、あきれたな。おまえが一般の学生の中に雑じって野球をするなんてさ。まじめにやってるわけじゃないだろな」
「真剣にやってる」
「みんな、たまったもんじゃない」
「なんとも思ってないよ。彼らは東大という抽象物にしか価値を置いてないからね。福島という教授が、自分は東大硬式野球部出身で、指に嵌めるだけで血圧がわかる装置の発明者ですと紹介しても、鼻で笑ってるやつのほうが多かった」
 光本が、
「俺は笑わなかったぞ。才能ってすごいなと思った」


         五十

「そもそも、あんた、だれ」
 山口が睨む。光本は、文Ⅰの光本佳孝だ、と言って、私にしたのと同じ話をした。
「あんたの年齢も、受験するまでの事情もわかった。神無月には関心のないことだ。こいつと付き合いたいなら、言葉と人間性だけで付き合え。付き合えたら、深いものが見えてくる」
「もう見えそうになってる」
「そんなはずはない。有名な野球選手ってだけのことだろ。言葉も聴いてなければ、人間性にも触れてないはずだ」
「……まあね。まだ二度しか会ってないから」
「じゃ、あこがれてるだけで何も見えてない。俺は山口勲という。あんたと同じ文Ⅰだ」
「教室で会ったときはよろしく」
 山口は薄く笑って、たこ焼きと焼きそばを頼んだ。
「教室にはいかない。試験のときには会えるかもしれんな。文Ⅰのやつは本を読まん。あんたは読むか」
「ふつうに」
「戦争と平和は読んだか」
「ああ」
「努力家だな。あれを読み切るやつはめったにいない」
「ぼくも読んだよ」
「おまえは無意識に読み切っちまう。努力とは関係ない。おい光本くん、東大生というのはすぐ、文Ⅰだ文Ⅲだなんてやりだすが、神無月が文系二番入学だって知ってたか」
「新聞で読んだ」
「そうか。一番は文Ⅱにいるそうだから、神無月は文Ⅰでも一番入学ってことだ。こいつの前では、スポーツはもちろん、勉強も威張れんぞ。文学も、人生歴も、何もかもな。いずれわかる。優越感はいまのうちに捨てておけ。死にたくなるぞ。まあいい。じゃ、音楽は何が好きだ?」
「……あまり聴かない」
「そこがネックになりそうだな。とにかく神無月は忙しいんだ。しつこくつきまとわないでくれよ。体育の授業に出てるのも、人払いの一環なんだからな。ところで神無月、新宿のグリーンハウスな、週二日、一晩三十分のステージ三回と決まった。ワンステージ三千円。けっこういい金になる。北村席さんの金で飲み食いしたくないからな」
「よかったね! 山口のギターをみんなに聴かせてあげられる」
「客のリクエストに応えて唄うのがメインらしいから、ギターだけを好きなようには弾かせてもらえないみたいだ。飲みにくることがあったら、俺の伴奏で唄ってくれ」
「もちろん」
 山口はアイスコーヒーを飲み終え、
「法政戦はどういう見通しだ?」
「苦しい。一勝できればいいだろうな。あと四本ホームランを打ちたい。区切りよく、二十本」
「それだけでも、何世紀も破られないよ。プロにいったら、百本を目指すんだろう」
「ああ。そうして、二年ぐらいでやめたいね」
「そのあとの人生もお付き合いさせてもらうよ」
 光本は冗談でも聞くような表情で、私たちの顔を見比べていた。
「プロへいくまでの勉強は、みんなで手分けして助けてくれるそうだ。マネージャーの上野って女が言ってた。教場試験だけがんばればいいってさ」
「俺も手伝うよ。基礎法律関係の教養科目ならだいぶ一致してるものもあるだろう。その分のレポートならぜんぶ書いてやる」
「法律関係はとってないな」
「そうだったな。なら仕方ない。傍観するさ。鈴木睦子か。どっぷり惚れられたな。面倒なことにならんようにな。人は面倒ぎらいなやつに面倒を運んでくるもんだ。なるべく和子さんには面倒をかけるな。じつは和子さん以上に面倒嫌いな女はいないんだからさ」
「わかってるよ。だから面倒嫌いなぼくを選んだんだ」
「今夜は、ひさしぶりにラビエンにいくか」
「いこう! よしのり元気かな。きょうこそ、きちんと飲み代を払ってやろうよ」
「部長が取らないって言うんだから、おごられてればいいだろう。よしのりさんのふところが痛むわけじゃない。お礼にまた歌を唄ってやろう」
「そうだな。ひさしぶりに唄いたくなった」
「……不気味な人間関係だ。興味がある。俺もご相伴していいかな」
 光本が浮き立つ。また山口が薄く笑った。
「興味? フン、くればいいさ。とにかくあまり神無月につきまとうなよ」
「体育のときだけだよ」
「もう出ない」
「もう一回ぐらい出なよ。さびしいじゃないか」
「ほざけ。そういうこと言うと、おまえごときの機嫌取りに神無月はふらふらいっちまうんだよ。じゃ、俺はグリーンハウスに打ち合わせにいってくる。六時に阿佐ヶ谷でな。ギターを持っていくわ」
 新宿へ出て山口と別れ、光本と丸ノ内線で新高円寺へいく。
「恐ろしい会話だったな。何者だい、あの山口というのは」
 ここでも呼び捨てだ。
「正真正銘の親友だ。ぼくが何人かの女と付き合うようになった経緯を説明するのは面倒なので省く。この先もずっと、どの女のことも語らない。一人と添い遂げるのも、十人と添い遂げるのも、稔り豊かな幻想だ。幻想であるからには、語ってもしょうがない」
「…………」
 まだ一時を回ったばかりなので、新高円寺駅から高円寺駅の北口まで二十分ほど歩き、素子のポートに初めて顔を出す。
「いらっしゃいませ」
 素子はハッと口に手を当て、カウンターの女店主に耳打ちした。彼女はいそいそとやってきて、
「ようこそいらっしゃいませ」
 丁寧な口調で言った。私はうなずき、ナポリタンの大盛りを頼む。
「はーい、ナポリタンの大盛り二丁!」
 おきゃんな雰囲気に一変身する。カウンターの調理人がホーイと威勢のいい返事をする。親しめる店だ。フライパンの音が高くなった。
「きょうはどしたん? 友だちなんか連れてきて」
 水とおしぼりを持ってきた素子がうれしそうにしゃべりかける。
「体育の授業で知り合ったばかりだ。法学部の光本くん」
「光本です。一度社会に出ているので、二十六歳です」
「山口さんと同じ法学部やね」
「そうなんだ。いま山口にも会ってきた。誕生日のお祝いに、ほら、万年筆もらっちゃった」
「革張り! 格好ええね」
「飛島の社員からもらったパーカーと、西高の土橋校長のモンブランと、このプラチナの革張りで、三本になった。結局使わないから、宝物になるだけだ」
「原稿書くやろ?」
「鉛筆でね。夜、ラビエンにいくよ。山口と合流して唄う予定だ。まず、昼めし。それからフジでコーヒーを飲んで、家で待ってる」
 客たちが息を呑んでいる。私に気づいたのだ。素子がいそいそと品出しカウンターへいった。光本が、
「ずいぶん静かな扱いだな、時の人なのに」
「かまわないでくれてるんだ。人は騒いでほしいやつにしか騒いでやらないもんだ。ぼくは有名人を作りたがるマスコミのあいだで有名なだけだよ。マスコミ人は特定の場所にしか集まらないから、ぼくは彼らのいる場所を避けさえすれば静かに暮らせる」
 私の声が少し小さめなので、カウンターの素子が真剣な表情で聞き耳を立てている。ナポリタンを両手に寄ってきて、
「はい、大盛り。あたし、兵藤素子です。あんたの二つ上、二十八歳。よろしく」
「よろしく。授業で神無月を気に入っちゃってね」
 素子は唇に指を当て、
「名前を出さんといて。呼び捨てなんやね。知り合ったばかりやろ」
「勤め人だったころの癖だね」
「関係ないわ。先輩風吹かして。最初のうちぐらいクンかサンづけでいくものやろ。キョウちゃんを呼び捨てにできるのは、山口さんとよしのりさんだけやよ」
「じゃ、神無月くん」
 囁くように言った。私も小声で、
「神無月でいいよ」
 素子が、
「ふつう、初対面でキョウちゃんに近づいてこんでしょう。いまもむかしも、キョウちゃんは近づきがたい人やよ」
「山口といい、あんたといい、この男を崇め奉ってるな」
「ふつうの人間のいろんな才能を足しても、キョウちゃんの十分の一にもならんからよ」
「たしかに、あの野球はすごいよな」
「野球だけやない、ほかにもいろいろ人の思いもつかん才能を持っとる。とくにすごいのは、他人と心中する才能や。ふつうのやさしさやないで」
「心中はオーバーだろう」
 素子は、はい、と返事をしてカウンターへいき、すぐコーヒーを持ってきた。
「あんた、初対面で、赤の他人でしょう。ここまでついてきたあいだに、くるなって、断られた? キョウちゃんは死んでも断らんよ。それでなくても忙しく暮らしとるのに」
 光本は黙った。
「まねできんやろ。魅かれたんなら、あんたもキョウちゃんと心中してみい。あたしたちは会ったときから心中しとるんよ。スパゲティ食べたら、女神に会いにいくことやね。じゃ、キョウちゃん、あとで家でね」
 光本は呆れ顔でさっさとナポリタンを平らげ、私が食い終わるのを待っていた。
「俺はとんでもない人間を目撃しているのかな」
「十九歳の野球小僧だよ」
 ポートを出るとき、光本は私にごちそうさまも言わなかった。
「心中って、何だ」
「気にしないほうがいい。ぼくには違和感のない言葉だ」
 フジのドアを押して入った。短い階段を下りる。黒革のソファを向かい合わせた四つのテーブル席、L字形のカウンター。広くて落ち着く空間だ。入口から二つ目のテーブルに腰を下ろす。これまで二度きたが、いつもこの席に座る。私と向かい合わせにドッカと座った光本を見たとたんに、カズちゃんは眉をしかめた。めずらしいことだった。ここでも光本は似たような自己紹介をした。
「あなた、嘘や隠しごとはキョウちゃんとの距離を大きくするわよ。それがないことがスタートラインよ。製図を引いてたのは、アルバイトじゃないの?」
 光本は腕組みをしてため息をつき、
「……そのとおり。七浪してやっと文Ⅰに合格した。その間に、東京教育大や早稲田の政経、いろいろ落ちてる。熊本工業はほんとうだ。機械科出身。古河には二十二まで四年間いた。退社したあとのアルバイト期間も含めて、八年、こつこつ勉強をつづけた。兄貴が京大法学部から農林省にいった秀才でね、負けたくなかった。浪人最後の一年間は、川崎の夜間予備校にかよった。東大に受かって、すべて帳消しだ」
「ふうん、なかなかそこまで正直に言えないものよ。せっかく告白してもらったけど、キョウちゃんはそんなこと歯牙にもかけてないでしょうね。きょう飲みにいくラビエンのよしのりさんは中学しか出てないわ。すごい記憶力の持ち主よ。山口さんはギターの天才。あなたにも何か取り柄がある?」
「……ないな」
「なら、付き合いは相当きついものになるわね。せいぜい、キョウちゃんを楽しませてちょうだい。ぜったい自分の事情に引きずりこまないこと」
 うまいコーヒーが出た。
「家にいって、休んでて。山口さんと待ち合わせの時間は?」
「阿佐ヶ谷、六時」
「五時四十分に家を出ましょう。お腹は?」
「いまナポリタンを食ってきた」
「みんなで軽くお茶漬けを食べてから直行しましょ。きょうはひさしぶりにキョウちゃんの歌を聴いて、うんと涙を流そうっと」
 フジを出る。光本は私と並んで商店街を歩きながら、痩せたあごを振り振り、
「やさしく馬鹿にされてる感じだな。腹は立たないが。……だいたい、歌ごときで泣けるのか」
「光本くん、何かに感動したことは?」
「……思い出せないな」


         五十一

 家に着くとキッチンテーブルに落ち着いた。彼とのあいだに微妙な距離がある。けっして縮められない距離だ。
「どういう女なんだ、彼女は」
「女神だよ」
「女神? どっから見ても人間だろ」
「ひどく神に近い人間と言えば満足か。見てわからないならしょうがない」
「見るだけじゃな。ウルトラ美人だが」
「口も利いただろ」
 光本は八年間にわたる長々しい苦労話を始めた。うんざりしながら聞いていると、カズちゃんと素子が帰ってきた。
「ただいまあ! さあ、お茶漬け食べて出かけるわよ。二人、お腹すいてないなら、私たちだけ食べていきましょう」
「うん。私、シャケ」
「私はコブ」
「女神さんて、いくつですか」
「当ててみて」
「俺と同い年、二十六」
 素子が眉を吊り上げ、
「あたしより年下ってこと? 無理ないわ。ほんとにそう見えるもん」
「三十四よ」
「ええ!」
「素ちゃんも、二十二、三にしか見えないわよ。齢というのは見た目。実際の年齢なんかいくつでもいいの。あなた、三十くらいに見えるわよ」
「苦労したからね」
「どんな? はい、お茶漬けできた。食べよ」
 二人でサラサラやりはじめる。
「俺、古河では仕事できたから、バイトだったのに忘年会に呼ばれたんだよね。座敷に入るとき襖越しに、高卒のくせにって声が聞こえてきたんだよ。中に入らずに帰った」
「やっぱり凡人ね……」
 カズちゃんが呟くように言った。茶碗を片づけながら、
「そんなのが苦労? たとえば、だれかのすぐれた技能を見たとするわね。すごいってびっくりしたあとで、その人が高卒だったとしたら、高卒のくせにって思うかしら。ぜったい思わない。見てた人が負け惜しみを言うのは、その人が大卒のときだけよ。自分の肩書でその人の技能を相殺したいからよ。肩書はすぐれた技能じゃない。そういう人間て、無能者である自分をふくらまして見せたいの。会社では仕事ができるということが肝心で、そのほかのことは無関係。仕事のできない無能者に何か言われてひるむのは、有能よりも無能にあこがれてるという大矛盾ね。あなたはほんとうの有能者には感動しない体質なんじゃない? だから八年もかけて無能者に近づく努力をしちゃったのよ」
 素子が、洗って拭いた茶碗を胡桃材の食器戸棚にしまう。
「苦労って、大事なものを奪われることやよ。あんた能力のある仕事を奪われなかったやないの。ただ、どうでもええ悪口を言われただけでしょ」
「まいった。あんたたちは別の価値体系の中で生きてるんだな。しかしね、どんなきれいごと言っても、世間の口が価値じゃないの」
「十中八九の人はね。苦労や恐怖というのは、たしかに世間の口が与えるものなんだけど、あなたの言う別の価値体系の中で昇華されるのよ。あなたの苦労は、素ちゃんの言うとおり、ほんものの苦労じゃないわね」
「神無月は苦労人なのか。何か大事なものを奪われたのか。そうは見えないな」
「キョウちゃんは何も語りたくないはずよ。理解を期待してない質問には答えないの。はい、話はそこまで。出かけるわよ」
 阿佐ヶ谷に着くと小止みしていた雨が本格的に降りだした。かならずと言っていいほどラビエンのいき帰りには雨が降る。ギターケースを提げて改札で待っていた山口が手を上げた。一分も歩けば着くのに、彼は売店で傘を二つ買い、一つを女たちに渡し、一つを私たちに渡して、濡れながら先へ歩いた。傘を渡された四人は相合傘でラビエンまで歩く。
「いらっしゃいませ!」
 部長が深々とお辞儀をした。山口が二本の傘を巻いてスタンドに差した。よしのりを円卓の中に見つける。客と言い争っている。相手はいつかのイボ学生だ。
「一文なしだぞ!」
 私はわざと彼らの諍(いさか)いを遮るような大声を上げた。
「おお、神無月!」
 こちらに向かって手を上げる。気勢をそがれたイボ学生が険しい目でこちらを見た。
「あれも東大の法学部だよ」
 山口は光本に言った。私たちはイボ男から三席ほど離れた席に坐った。男はわだかまりを残した顔で、独り言のようによしのりの横顔にしゃべりつづけている。
「愛だとか、芸術だとか、書生っぽみたいなことを言うなよ。そんなのは戯(ざ)れ言だ。センチメンタリストというのは、この現実社会では、頭を撫でられて追い払われるか、最初から消されるか、そのどちらかしかないんだ。イチコロだよ」
 私は小声で山口に言った。
「すごいね、ぼくたちの殺虫剤だ」
 よしのりはイボ男にうんざりした視線を返し、
「センチメンタリストにかぎらずみんなそうでしょ。人間は、と置き換えたほうがいいんじゃない?」
「いや、センチメンタリストにかぎられる。やつらは意識の高い庶民じゃない。社会構造の中で自分を捉えることができない。だから、個人的な些細な侮辱には仕返ししようとするが、国家ぐるみの大いなる侮辱には報復できない。報復できるのは意識の高い庶民の集合体だけだ」
 山口が思わずテーブルを叩こうとして、そろそろと手を下ろした。光本はイボ学生のクズのような理屈に感嘆し、カズちゃんと素子は徹底して彼に軽蔑した眼つきを流した。山口はテーブルを叩く代わりに、離れた席から男に言った。
「それ、もろにマキャベリの『君主論』だな。ああいう本も、ときには箴言として読んでみるのもオツだけど、事実に文学的なオブラートをかぶせてないので、飽きるよ」
 イボがあわてた顔で山口を見た。
「いま言った庶民論は俺のメッセージじゃない。べつにセンチメンタリストを皮肉るつもりはないよ。どんなときも、どんなところでも人間への侮辱をはっきり糺(ただ)して、それを追及しなければいけないと、俺はさっきからこのバーテンに言ってる。みんなが新しくなっていくのを、手をこまねいて待っていちゃいけないとね。人間がいつとはなしに変化するのを待っていちゃいけないんだ」
 よしのりは笑いながら言った。
「何言ってるのか、さっぱりわからんな」
 イボはかまわずしゃべりつづける。よしのりは私たちの前にグラスを並べ、ビールをついだ。レーズンバターと乾きもののオーダーを厨房に出す。素子が、
「私、焼きうどん」
「おいきた、焼きうどん五人前!」
 イボ男がよしのりを睨み上げて、
「意識の高い一部の庶民が、庶民全体の高揚に力を貸してやらなければいけないということだ。庶民に解放や自由をもたらすほど革命を豊かなものにしようとするなら、けだしすぐれた庶民がすべてを正し、すべてに責任を負わなければならない。革命とはそういうものだ。それなのに、どいつもこいつも―」
 私は話が耳に入らないように、椅子もう一つ分、彼から遠のいた。よしのりは私の顔色を横目に窺いながら、男に言った。
「だから庶民の代表のおたくは、いつも一人で責任を背負って、疲れた、疲れたって言ってるわけ? そんなきれいごと言うと、お里が知れるよ。革命と言う以上は、その高い意識とやらで革命の相手をイメージしてるんだよね。打倒しなくちゃいけない相手はだれなのよ。政治家? 資本家? いや、少なくとも、おたくのイメージしてる相手は人間じゃないな。国家を中心にする図式だろ。つかみどころのない図式は相手にできないよ。でも図式を変えたいんだよね。変えるためには、国家の図式という抽象物じゃなく、国家に影響力のある具体的な他人を攻撃しなくちゃならなくなる。それで少し文化がうねる。でも、いつでも首をすげ替えられる権力者を打倒しても、あっというまにうねりはもとどおりだ。つまり人や図式を打倒の目標にしても無益だということだね。自分の外を改革するんじゃなくて、自分の内を改革するんだよ。それができるのは、愛と芸術だ。その二つが一人ひとりの個人に深く浸透しないかぎり、図式の改革は不可能だ。あんたをたとえるなら、そうだな、権力なんて的外れなものを勝手に敵だと思いこんで突進していくドンキホーテだね」
 ちょっと待て、と山口は口を挟んだ。
「ドンキホーテは愛にまみれた人物だ。権力を攻撃する社会改革なんてことも考えてない。このかたは、自分の努力の姿勢を誉めてもらいたいだけの、愛のない、ただの苛立った登山家でしょ。そこに権力があるから倒してみたい、といういき当たりばったりのね。権力というものの居場所は、モビリティに富んでいると俺は思う。変通自在だ。天皇から将軍へ、将軍から総理大臣へ、総理大臣から芸能人へ、芸能人から彼らの雇い主のスポンサーへ。横山さんの言う図式とやらの中では、資本家も政治家も庶民もみんな権力者だということだよ。残念ながらそんなアメーバのような図式は打倒できないと思う」
 光本はポカンと山口を見た。イボが、
「おまえこそ何を言いたいのかわからん」
「あんたはきっと、打倒できないという事実にどうにも直観的に腹が立って、打倒の峰に登る勇敢な登山姿を誉めてくれない見物人たちを叱っちゃうわけだ。どうのこうの言っても、結局は、あんた自身が権力を握りたい焦りから出てくる葛藤だね。何年もかけて東大にきたのも、そういう理由からでしょう?」
 どこかの席から拍手が上がった。よしのりが、
「あんたも懲りない男だな。図星じゃないか」
 山口がイボに向かって、
「俺たちは目が回るほど忙しく暮らしてるから、学生運動がどういうものかまったくと言っていいほど知らないし、政治や経済のことも、世間のことも大して知らない。俺たちの気持ちといえば、ただ胡散くさいものに対処しなくちゃいかんということだけだ。つまりどんなときも、柔軟な子供の心でいようということなんだな。俺はその子供の気持ちを心頼みにしている。横山さんの言うとおり、柔軟な心は、自分の蝋のように固まった観念を変革する意志を持てるからだよ。その意志を惹起するのが、あんたの言うおセンチな愛と芸術だ。変革するのは飽くまでも自分自身だ。愛も芸術も、大衆の動向を左右する国策ほどの力はない。しかし、大衆の素である個人は確実に変革する」
 カズちゃんが、
「子供でもこれだけ独創に満ちたことを言えるのよ。五つも年上のあなたの独創はカラッケツということになるわね」
 よしのりは、一本のビールを飲み終わった山口と私の前に、スミノフのボトルとグラスを置いた。カズちゃんと素子にはもう一本ビールを置く。焼きうどんが出てくる。山口はスミノフを一口、二口すすりながら、
「子供は子供でも、この神無月は天才児だけどな」
「ケ! またその色男の野球バカか。文学部に情実入学でもさせてもらったんだろう」
 光本が、年齢とサラリーマンの出自と、それから東大文Ⅰと小さな声で言ってから、
「俺はその野球バカの友人です。七浪のバカです。俺はスレスレ合格だろうけど、この神無月は全学二番合格ですよ。新聞読んでないんですか。それに東大に情実入学はない。あんたも俺も、だから苦労したんだよ」
 よしのりが私に、
「なんかほかの話をしてよ。東大東大ってやかましいから」
「いや、話はもういい。ぼくは山口と唄うためにきたんだ」
「そうか! ありがたい。素ちゃん、何かさっきからおとなしいよ」
「あたりまえや。話がおもしろいもん。ちょっと胸クソ悪いやつもおるけど」
 素子は男たちの言葉のやりとりを堪能していたようだ。イボ男は目を光らせながら沈黙していたが、光本が文Ⅰだと聞いて口調を改め、
「権力自慢をするために東大にきたんじゃないんですけどね。私はあなたと同じ労働経験者です。新聞配達をしながら二十四で東大に―」
 光本が慣れない調子でやり返した。
「俺は自慢したくて東大にきたんですよ。どんなにアサハカだと言われても、否定できない。きみのような権力打倒を目指してきたわけじゃない」
 よしのりは光本にもスミノフをついだ。光本はそれをちびりとやり、焼うどんを食いはじめる。
「結局、働いて東大に入れたのが自慢なんだよね。それが最終目標だったんだからね。なんてったって東大だもの―きょうまではそういう気持ちだった。……コペ転。この人たちを見てたら恥ずかしくなってきた。よく考えるとさ、東大にきたらもうやることがないんだよ。きみもやることがないんで、党派根性プンプンのホラ念仏を唱えてるわけだ。彼らはちがう。東大に入る入らないは関係ない。東大なんか駅の改札みたいに通り過ぎて、しっかり目的地を目指して走っていっちゃう人間もいるんだよ。俺たちは駅の階段でへたりこんでる。どこにいけばいいかわからないからだよ」



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