五十二

 レジ係の上品な部長が首を伸ばして、
「どうかしましたかァ?」
 と遠くから声をかけた。
「何でもありません。議論白熱でーす」
 よしのりは手を振った。カズちゃんも手を振った。山口が、
「おまえという男はいつでも、無理やり捻じこんでくる他人に本能的にやさしい態度を見せる。その必要も理由も認めていないくせに、それ以外の反応を思いつかないんだな。しかし、この男もなんでおまえに喧嘩を売るのかなあ。おまえの静かさが気に入らないんだろうな」
 カズちゃんと素子は〈議論〉のあいだじゅう、安心したようにニコニコ笑っていた。彼女たちは私の異様な落ち着きを見て、私とイボ男とのあいだの裂け目の大きさに気づいている。私が言葉だけの鞘当てで気分がささくれることはないと知っているのだ。
 堤は、私の話が理想に流れるせいで、信じかねるような眼つきをすることもあったけれども、私の語調が誠実だったので、目立たないようにうつむいてビールをちびちびやっていた。
 よしのりも知っていた。爆発を予感させるような脅しをイボ男にかけても、ほんとうに私が爆発するとは思っていない。私が爆発するのは、かならず相手が先走りの行動をするときだ。言葉で喧嘩を売られるかぎり、ふつうの人間が堪忍袋を破裂させるような危ういところでも、私はぜったい爆発しない。たぶん私はもの心ついた第一歩で、不気味に広い尺度みたいなものを与えられてしまい、その尺度に合わせれば、一般の人間のいきり立つ理由など、神経の枝にもかからないくらいつまらないものになってしまったのだろう。そう思うと私の心はほのぼのと安らいだ。
「冷静だよ、神無月は。俺みたいな、ちまちま欲に迷ってるやつは、泣いたり叫んだりうるさいもんだ」
 男がよしのりの言葉をせせら笑った。私はその不快な笑いを圧しつぶすように静かに言った。
「それこそ、このあいだあなたの言った、〈よくない笑い〉ですよ。意味のあることをしゃべったようでも、ただ熱が高くて、うわごとを言ってるようなことって多いんです。あなたは、愛を語るのは書生っぽだって言ってましたが、きっと書生っぽの言葉だけがうわごとじゃない。愛するというのは、熱にうかされた戯(ざ)れごとじゃなく、健康で冷徹な行為だから」
「疑いもない卓見だ」
 堤がポツリと言った。するとまた、男が最後の力をふり絞って、
「親がかりどもは言うことがちがうな。愛だとか友情だとか、甘ったるくて聞くに堪えん。人間が生きてきた歴史というのは、もっと乾いてスペクタクルなものだ」
「それも、うわごとですね。その歴史の中に、あなたはいますか」
「そりゃいるさ。俺は庶民の一人だし、一人ひとりの庶民の歴史が積み重なって、長大な歴史になっているんだからな」
「いわゆる広角的な視野というやつですね。なかなかその覚悟には到達できない。もっと視野を拡げるために、その眼鏡を魚眼レンズに替えたらいかがですか」
 男が椅子を蹴って立ち上がった。
「きさま! 表へ出ろ!」
 よしのりが、
「やめとけ! 神無月に暴力を仕掛けちゃいけない。神無月は見かけよりはるかに短気だよ。ほっぺた殴り合いの喧嘩なんて、ヤワなことじゃすまないぜ。あんた、ヤバいことになるよ」
「執念深い男だなあ。よほどぼくが気に入らないことを言っちゃったんだろうな。しかし、たしかにこの想像たくましい人物の言うとおり、傷の嘗め合いかもしれない。友情ごっこかもしれないね。なるほど混乱や不正を許さないのは革命思想かもしれないけれど、イデオロギーにわれを忘れれば人は過ちを犯す。理解し、思いやり、そして愛することこそ革命思想だ。それを忘れると人は堕落して、人間性を失う」
「ええい、うんざりした。もうこの店には二度とこない!」
 靴を鳴らしてレジに向かった。
「おとといこい! 早く配達所の四畳半に帰って寝ちまえ!」
 よしのりの怒鳴り声を背に、法学部はレジに金を叩きつけるようにして出ていった。よしのりは山口に笑いかけながら、氷の上にスミノフを注いだ。
「えらく脅かしたもんだね、よしのりさん。あれじゃだれだって逃げ出すよ」
「助かったよ、よしのり。長距離マラソンにようやくケリがついた」
「キミオと熊谷のこと、野辺地で知らないやつはいないぞ。あんなふうに脅したのは、おまえに暴力をふるわせないための予防線だ。おまえはもともと、限度というものを感じる想像力が欠けているからな。きょうにしても、しゃべりすぎだ」
「たしかにね。自分に対して感じる恐怖はそれだ」
 カズちゃんが、
「ちゃんとお金を置いていくだけの常識はあるのね」
 山口が、
「飲んだら払う。世間のルールに小心なだけだな。あの男は今度こそ二度とこない。どうしても神無月の歌を聴き損じてしまうみたいだな」
「男同士の議論て、言葉をきちんと選んでやり取りするのね。楽しかった。なんだかあの人も怨めなかったわ。小物だけど」
 カズちゃんが言うと、素子が、
「うん、花火みたいやった。男って、言葉でしっかり喧嘩できるんやね。……キョウちゃんの目、怖かった。あたしたちの前で、あんな目をしたこと一度もあれせんも」 
 白髪の部長がレジからよしのりを手招きしている。
「ちょっと、絞られてくるわ。クビかもな」
「横山さんをクビにしたら、店がつぶれるよ」
「知ってる。それより山ちゃん、早くギターいこうよ。三十分はむだしたぜ」
「オッケー」
 カズちゃんと素子がハイタッチして喜んだ。よしのりがレジに向かった。山口と私は今夜もジュークボックスの前に立った。よしのりが部長の前で、小言を喰らいながらしきりにうなずいている。
「あの様子じゃ、小言を喰らうのも初めてのことじゃないな」
「でも、呆れてるふうじゃないよ。笑ってる」
「横山さんはラビエンのスターだからな。で、神無月、きょうは何いこうか」
「そうだな、ポール・アンカの『パピー・ラブ』いこう。知ってるよね」
「あたりまえだろ」
「たまには英語の歌を唄いたくなった。唄い出しのand they の and は but の意味だからね。and と but は互換性がある」
「そうだったのか。これまで謎だったんだ。ようやくわかったよ。じゃ、いくぞ」
 椅子に座ったまま、山口の美しい前奏が始まる。騒音の中にとつぜん紛れこんできたギターの響きに驚いて、前回と同様店内が静まり返った。

  And they called it puppy love
  Oh, I guess they’ll never know
  How a young heart really feels
  And why I love her so
  And they called it puppy love
  Just because we’re in our teens
  Tell them all, please, tell them it isn’t fair
  To take away my only dream
  I cry each night my tears for you
  My tears are all in vain
  I’ll hope and I’ll pray that maybe someday
  You’ll be back in my arms once again
  Someone help me, help me, help me, please
  Is the answer up above
  How can I, oh, how can I tell them
  This is not a puppy love
  Someone help me, help me, help me, please
  Is the answer up above
  How can I, oh, how can I tell them
  This is not a puppy love
  This is not a puppy love
  Not a puppy love…

 山口が私と同時に演奏をフェイドアウトさせると、われに返ったように、店内のいたるところから喝采やら、指笛やら、足を踏み鳴らす音やらが立ち昇った。堤が真っ赤な目をして憑かれたように拍手している。カズちゃんは夢みる眼差しで首をかしげ、素子の目からはいまにも涙がこぼれ落ちそうだ。歌詞の意味などわからないはずなのに、哀切なメロディが胸を打ったようだ。
 レジから戻ってきたよしのりは唇をへの字に結び、うん、うん、とうなずいている。
「びんびん耳にきたぜ」
「声が天から降ってきたぞ、神無月。おまえの歌はいつも……おまえの歌だけは……」
 山口が絶句した。
「メロディが超絶だったんだね。それと山口の天才的な伴奏だ」
 厨房から無骨そうな料理人が出てきて、
「これ、店から」
 唐揚げと果物のオードブルがテーブルに置かれる。
「ありがとう。でも、けっきょくこれ、よしのりのふところに響くんだろ」
 部長が早足でやってきて、
「こんなすばらしい歌と演奏には、謝礼を出すのがあたりまえです。専属として出演していただきたいのですが、当店はまだその種のシステムが整っておりませんので、当座は飲食代無料ということでご勘弁ください。いずれオーナーに諮りまして―」
「そんな形では、ぼくは唄いませんよ。喉のスタミナがないし、いろいろ忙しいから」
「はい、もちろん山口さんとご来店くださったときだけでけっこうです。とにかく、ステージの製作をオーナーに諮ります」
 勝手に話を進める。堤が、
「この人たちが言ってたこと、わかったよ」
「何が?」
「……人間のスケールが無限だ。その才能も付録かもしれん。ゾッとする」
 カズちゃんが、
「ね、人生捨てたもんじゃないでしょう? 知らない世界を知るのはいいことよ。生きてるのが楽しくなったでしょ」
「あたし、キョウちゃんといると、毎日楽しい」
 素子がよしのりを見上げてうれしそうに言う。よしのりは素子のグラスにビールをつぐ。
「山口はどんな曲でもドラマチックにアレンジしてしまうんだね」
「途中からおまえの声に合わせたんだよ。作曲したポール・アンカに二人で敬礼だな」
 よしのりが、
「ま、そのへんにして。山ちゃん、もう一曲、頼む」
「きょうはこれで満杯」
 堤が、
「冷たい水の底に沈んでいくみたいだった。寒いんじゃなくて、からだが冷たく澄んでいく感じだ」
 素子が、
「ほんとに、いつ聴いても悲しい不思議な声。ずっと聴いていたいわ。いつから二人で唄うようになったん?」
 素子が訊く。山口と私は顔を見合わせ、
「高一の十月だったかな」
「ああ。それから、猛勉のバス旅行」
「アンナ・マリアの、ひみつ」
「忘れられないな」


         五十三

 堤が山口やよしのりの目を気づかいながら、
「神無月くん……一つ、尋いていいかな」
「うん」
「自分のために命はいらない、という……あれが、どうも俺には」
「自分主体で生きることに美を感じられない、という意味だよ。結局、食べたり、飲んだり、セックスしたり、寝たり起きたりで、自分主体に生きちゃうんだけどね。……意識だけは抵抗してる。病的な博愛主義者だと思わないでよ」
「まさか。ただ、とてもわが身に引きこんでは考えられなくてね。意識だけでも、と言っても……それも不可能だな。どういう精神の持ちようで、そんなふうになったんだ」
 カズちゃんが堤にやさしい笑顔を向けて、
「本人は意識さえしてないのよ。自分じゃ説明できないでしょうから、私が説明するわね。博愛主義者だと思わないでと言ったのは、自分の言葉を感激屋さんのものと思わないでほしいということなの。世の中には、自分が博愛主義であることに本気で感激してる人がいるから。キョウちゃんは八方美人の博愛主義者じゃないけど、完全な愛他主義者よ」
「すごい才能の個人主義者(インディビジュアリスト)だとは認めるけど、どうして完全な愛他主義者(アルトゥルイスト)だなんて言えるんですか」
「この八年、ほとんど毎日キョウちゃんを見てきたからよ。私はキョウちゃんを批判しない。批判なんかで、キョウちゃんが完全だという信念に達したんじゃないの。打たれたの。キョウちゃんは無垢な人よ。無垢の中に完全がそっくり含まれているの。……私はキョウちゃんに対して申しわけないことがあるの。それは私がキョウちゃんを愛しているということ。完全というのは、愛すべきものじゃない、ただ完全として眺めるべきものなのよ。愛は人間を平等にすると言うけど、私は心の隅でさえ自分がキョウちゃんと平等だなんて考えてないの。肩を並べようなんて考えたことがないの。キョウちゃんは天使なのよ。天使は人を憎むことができない。そして、自分に愛を向けることもできない。私たちのようなふつうの人間に、すべての人を恨まないとか、自分を愛さないなんてことができるかしら。私はよく、自分にそう問いかけてみるのよ。もちろん、できないわ。それは不自然なことだもの。人はかならず自分を愛して、人を憎むものよ。さっきの学生さんのようにね。自分を愛さずに、すべての人を憎まないなんて、私にはできない相談だけど、キョウちゃんはできるのよ。完全な愛他主義者って、そういうこと」
 山口が泣いている。カズちゃんはつづけた。
「キョウちゃんはだれとも比べられない人間よ。人に対する侮辱や恨みを超越してるのね。自分を愛せないなら、せめてだれかから愛されることがキョウちゃんの幸福になるわ。でも、自分に向けられた愛情なんか、キョウちゃんに何の興味があると思う? そういうキョウちゃんを愛したからには、同化するしかないでしょ? キョウちゃんの〈いらない命〉を私たちが一方的に引き受けるの。これでわかった?」
「……はあ。神無月くんに出会ったという事件は、口を拭ってすませられることじゃないということですね」
「愛したならね。そうでないなら、捨てればいいだけのことよ。キョウちゃんには痛くも痒くもないことだから」
 よしのりがしたり顔で、
「ちょっかいさえ出さなきゃいいんだよ。特に暴力ね。倍にも三倍にもしてやり返されちゃう」
 頓狂なことを言う。素子が、
「馬鹿じゃないの。でも、みんな、楽しいわ」
 私たちと顔を見合わせて笑った。
 その夜、大して飲みもしないのに具合の悪くなった私に付き添って、山口と堤は高円寺に泊まった。
「ウォッカが効いたのね」
 女二人の手で蒲団に寝せられ、コンニャクのようなアロエの実を口に押しこまれた。酔った耳にしばらく男二人と女二人の賑やかな会話が聞こえていた。
「私は、神無月くんに心中を誓う!」
 と堤が叫んでいた。
「口だけだ。自分が異常でないかぎり、神無月の異常さをじっくり味わえば気が変わる」
 と山口がせせら笑った。そこから聞こえなくなった。夜中に一度、枕もとの洗面器に戻した。また、カズちゃんにアロエを飲まされた。
 翌朝、寝ている私を残し、出勤する女たちに連れ立って二人の男は帰った。山口が堤を連れ去った格好だった。口だけの心中を誓わせたくなかったのだろう。いつまでも気持ちの悪い酔いが残っていた。間歇的な吐き気に苦しめられながらうとうとした。
         †
 二時に起きてシャワーを浴び、東大球場へ出かけていった。監督、スタッフは早めに引き揚げたのか、姿がない。選手たちはみんないた。無番の練習用ユニフォームに着替えて一時間余り塀沿いにゆっくり走った。ポールの下で吐き、胃液を搾り出した。部室裏の水道で口をすすぎ、ようやく吐き気が治まった。足が軽くなった。ふたたび走り出すと、心配した連中が後ろをついてきた。克己が、
「金太郎さん、だいじょうぶか」
「はい、昨夜は羽目外して、二日酔いです。思ったとおり、ランニングで吐き気が吹き飛びました」
 みんな芝に腰を下ろし、ストレッチに入る。バックスタンドで応援団とバトンガールたちが演舞の型の練習をしている。
「バトンが四人に増えましたね」
 大桐が、
「黒屋と上野のリーダーシップだ。ぎこちないけど、楽しみが出てきた。きのうはブラバンと応援団が練習してた。迫力があったぞ。この三年、応援なんてさびしいもんだったからな。神無月がきたおかげだよ」
 横平が、
「打ってくか、金太郎さん」
「いや、みんなの打撃を見せてください。気づいたことを言います」
 白川はじめ四人のマネージャーたちが走り出てきて、手帳を手にする。補欠たちもケージ後ろに控えて姿勢を正す。レギュラー、準レギュラー二十人のバッターに五打席ずつ一巡り打ってもらい、コースと高低、打撃結果と私の感想を記録する。投手は五人、速球のみ一球ずつ、一人のバッターに投げる。一人のバッターは五人のピッチャーを連続で打つ。ボールは勘定しない。弱点を本人に報告すると白川が言う。
 総じてすばらしい進歩を示していた。準レギュラーを含むすべてのバッターが中距離以上の打球を飛ばした。とりわけ横平、克己、水壁、臼山が長距離打者に育ってきた。準レギュラーにもめぼしい選手がチラホラ見えはじめた。しかも、次順の打席を待つあいだも、彼らは腕立てと腹筋背筋鍛錬に精を出していた。応援団とバトンガールたちも、バッティングのあいだじゅう黙々とパフォーマンスをしている。二十人のフリーバッティングが終わると、女子マネージャーたちが部室の冷蔵庫から絞りタオルを取ってきて配る。睦子が、
「毎日、一定のスケジュールでやってます。次はベーラン一周、五回です」
 黒屋が、
「八時半から、自由練習開始、十一時からスケジュールに入り、一時終了、監督、コーチたちが帰った二時から同一スケジュール。四時終了。そのあと自由練習。どちらのスケジュールに参加してもいいし、自由練習だけに参加してもいいです」
「スケジュールって?」
「グランド三周、五十メートルの全力キャッチボール二十投、素振り五十本、二組に分かれて、部室でウェイトリフティング組とグランドで筋トレ組、三十分で交代、さっきのやり方でフリーバッティング一巡、休憩、ベーラン五周。フリーバッティングには五人の投手は強制参加です。五人は毎回ちがいます」
「なんだかみんな上半身がガッチリしてきたね」
 中介が、
「金太郎さんが出てきたときは、タイミングの学習をすることになってる。十本打って見せてくれ。有宮、台坂、五球交代で五スイングずつ二巡り、ボールは勘定しない」
「オーライ!」
 一、三塁側のファールグランドに部員がびっしり居並ぶ。ネット裏にレギュラーが陣取る。ストライクはすべてホームランを打つようにスイングしなければならない。打ち損じたときも正しいスイングをしていないと、タイミングの学習はできない。ストライク十本のうち、七本ホームランを打ち、三本打ち損なった。打ち損ないはフライ二本、ゴロ一本だった。遠く外れたボールは六球。それに対しても、ボールからかなり離れたストライクコースをしっかり空振りのスイングをして見せた。
「サンキュー! 金太郎さん」
 中介が叫ぶ。すでに選手たちはタイミングだけのスイングに入っている。
「ウェイトリフティングしてきます。白川さん、セッティングお願い」
 部室へいき、ユニフォームの上半身を脱いで、三台のうちの一台に仰向けになる。バーベル棒を握り締める。白川が四十キロの円盤を入れる。胸に抱え下ろす。何ということもない。
「二の腕はこれで鍛えるしかないからね。ぼくの前腕は強いからいまのままでいい。ダンベル訓練は要らない」
「ベンチプレスやってると、前腕も自然と鍛えられちゃうよ。神無月は体重八十キロぐらいだよね」
「うん、身長もそのくらい」
「筋肉マンなら、最終的に百二十から百五十までもっていく。野球は、筋肉マンはかえってダメで、やりすぎると、しなやかな筋肉が硬くなっちゃう。二の腕だけを鍛えるつもりなら、練習に出てきたときに、一回二、三分でいいよ。八十キロ以上は禁止。持ち上げは十回まで」
「了解。白川さん、何学部?」
「理Ⅰ。基礎科学。一誠寮が根城で駒場の北寮が出城。家が貧乏でね。香川の農家だ」
 最初の情報以外は要らない。
「もう就職決まったんでしょう」
「フリーカメラマンで出世することを狙ってる。少し出世しないと、しがらみから脱することができない」
「よく意味がわかりませんけど」
「しがらみを断ち切らないと田舎を断ち切れないということだよ。運転席の床に穴の開いた、緑のペンキを塗ったトラックから逃げられないということだよ。サラリーマンや学者は目指さない。いい子ちゃんはしがらみを脱し切れない」
 なにか悲しかった。それ以上聞かないことにした。睦子が入ってきた。
「わあ、四十キロ。私、二十キロでした。みんな五十キロでがんばってますよ。臼山さんが七十キロを持ち上げました」
 四十キロを十回上げて終了。来年までは五十キロ十回で通そうと決める。睦子がおしぼりを持ってくる。上野と黒屋が入ってきて、
「白川さん、鈴木さん、音楽室で応援団とバトンの合同練習です。ブラバンも参加します。七時まで。それできょうは解散です」
「ほーい」
 みんな出ていき、一人きりになった。からだを拭き、平服に着替えて、グランドに出る。オレンジ色の夕日が目に暖かい。シルエットになった仲間たちが勢揃いしてバットを振っている。悲しみが寄せてくる。彼らにも悲しみはある。そしてあらゆる悲しみには深くて複雑な理由がある。どれほど推理しても、どれ一つとして探り当てることはできない。出会ったばかりのころの彼らには、悲しみを感じなかった。いまは感じる。私はしみじみと満足してグランドをあとにした。
 腹が減っていたので、正門前のルオーという喫茶店に入った。表が窓ガラスから見通せる席に座り、カレーとコーヒーを注文する。メニューが飲み物とカレーとアイスクリームしかない店だったからだ。肉とジャガイモがゴロリと大きいカレーが出てきた。うまかった。コーヒーもうまかった。食べ終えて、立ち上がろうとすると、トントンと窓を叩かれた。睦子だった。勘定をすませて外に出る。
「七時までじゃなかったの」
「その場で振り付けを工夫するのはたいへんなので、ブラバンの曲目をバトンさんたちに配布して、ちょっとさわりを演奏してみて終わりました」
「睦子のアパートに寄っていこうかな。約束のカレー食べにいけなかったから。ごめんね」
「うれしい。きょうも偶然火曜日です。いま食べたばかりでがっかりかもしれないけど、もう一度カレーを作ります。食べてくださいね」
「食べる。いまもお替りしようと思ったくらいだったから」
 車内灯の明滅するムッとする地下鉄で南阿佐ヶ谷までいく。
「買い溜めた古本を読み切ろうと思ってね、ランニングと読書と外食にかまけてたら、約束がすっかり先延ばしになっちゃった」
「私、約束してくれる神無月さんの気持ちがうれしいだけで、実行するしないは気にしてないんです。毎日こうして神無月さんのそばにいられて、幸せです」
 駅前から肩を並べて歩く。見回しても、商店街らしきものが見つからない。独立した惣菜店すらない。
「買物はどうしてるの」
「阿佐ヶ谷駅まで出て買ってます。こういうところって、ただの乗り継ぎ駅だから、周りはほとんど住宅街なんです」


         五十四 

 細道に入ると、人けはなくなる。睦子は腕を組んでくる。
「こんなふうにしてるの、ほんとに夢みたいです」
「ぼくといっしょにいたいという睦子の信念が生み出した理想だからだよ。理想を抱くことは自分なりの信念を貫く夢のような行為だからね。……夢だと思わなければ長つづきしない儚い行為だ。でも、信念を貫く自分にプライドを持てる。プライドなんて屁の突っ張りにもならない代物だけど、すがすがしく生きていける」
「はい」
 明るくうなずいた。
「ぼくとの関係を夢だと思ってくれてうれしい。ぼくの信念は……理想は……よくわからないんだ。好きな野球をすること、好きな友と語らうこと、好きな女と抱き合うこと、好きな本を読むこと、好きな詩を書くこと。……そういうのを信念と言うんだろうか。ただの寝太郎の趣味じゃないか。ぼくはいつもそういう自分を愛されるとき、詐欺を働いてるように感じる」
「私の信念は……理想は……そういうふうに悩んだり、疑ったり、悩みや疑いを解決するために深い言葉を話したり、すべての悩みや疑いから離れてすごい才能を発揮したりする神無月さんといつまでもこうしていることです。神無月さんには信念も理想も必要ないと思います。生きている姿がそのまま、人間の模範ですから」
 福寿ハイツの鉄階段を上る。鉄階段―鶴田荘、葵荘、上島荘。孤独な生活のさびしい象徴。カズちゃん、節子、文江さん、そして、睦子。さびしい人たち。さびしい人たちの周りに集まる人たちの一人。さびしい私。離れられなくなった私たち。
 一帖の沓脱ぎの右が立派な下足棚、左がトイレ。上がって右手がガスレンジ四つを置いた大きなキッチン。かわいらしいテーブルが置いてある。シンクの向こうはすべて明るい窓だ。キッチンの外れのアコーディオンドアを引いて中を覗くと、タブ式の風呂になっている。廊下はなく、キッチンに並行するように六畳二間がつづいている。仕切りは折り畳み式の清潔な板戸だ。道側に大きなガラス戸が立っている。一つの六畳間に横長の大机。机の上に本が散乱している。もう一つの六畳間は寝室のようだ。鏡台と炬燵の姿が見える。
「すてきだ。三万円くらい?」
「そう。ぴったり。さっそくカレーの用意をします。奥の六畳でテレビでも観ててください。新聞はテレビのそばにあります」
 寝室にいくと、二十インチくらいのカラーテレビが置いてある。点けると、共同アンテナの画像がきれいだ。切抜きの穴だらけのスポーツ新聞が畳んである。切り抜いた部分は私に関する記事だ。押入れから敷布団だけ取り出し、寝転がる。夕方のニュースをやっている。数学より難解な情報だ。文化大革命やら、アセアンやら、心臓移植、あしたのジョーまで。そんなものに張るアンテナがない。張るふりもできない。キッチンへいき、睦子の背中を見つめながらテーブルに腰を下ろす。
「コーヒーメーカーは? フィルター式のでもいいけど」
「ありません。今度用意しておきます」
 おたまでアクを取っている睦子を後ろから抱き締める。
「神無月さん……」
 振り向かせて唇を吸う。
「火を止めて。蒲団へいこう」
「はい」
 私はその場で自分の服を脱ぎ、睦子も立たせたまま全裸にする。美しい三角形を撫ぜる。寝室へいき、敷布団に横たわる。胸をさすり、乳首を含む。
「きょうは、きちんと最後までしようね」
「……はい」
 睦子はうなずき、まだ慣れない手つきで私のものをつかみ、口いっぱいに頬張った。舌も使わず、ゆっくりと顔を上下させる。かわいらしい。怒張の度合いが急に高まってきても、このあいだのようには吐き出さない。私は睦子の濡れた溝に指をゆっくり上下させながら、クリトリスの膨張を待つ。勃起してきた。
「すぐにイカないように、こらえて」
 股間に屈みこみ、小陰唇、膣口全体に舌を使い、ふくらんだ核を吸い上げる。
「か、神無月さん、もう……」
「こらえて」
「ウン、ウン、ううう、だめ、神無月さん、もうだめ!」
「いいよ、イッて」
 ウーンとうめいて、先回と同様、ふるえが爪先まで一直線に走った。あいだを置かずのしかかって挿入し、彼女の口を口で塞ぎながら腰を動かした。まったく痛がらない。長くアクメをこらえたせいで異常なほど潤っている。膣も緊縛し、きっちり抵抗がある。
「ああ、神無月さん、だめ、だめ! 気持ちよすぎる、どうしよう、ああ、どうしよう」
「いっしょに気持ちよくなろうね。どうにもならなくなったら、イクって言って」
「はい、イク」
「だめ、さっきよりももっとがまんして」
 浅く深く激しく往復する。ビクビクと壁が脈打って狭くなる。一挙に収縮してしまうのをこらえている。
「ああ、イク、もうイク、あ、ああ気持ちいい! がまんできない」
 大きく引くようにこする。
「ああ、イキます、いっしょにお願い、いっしょにイッてください、あああ、イク、イクイク、イクッ!」
 グンと陰阜が突き出されると同時に私も吐き出した。腰を逃がさないようにしっかり押さえ、律動を伝える。
「あああ、うれしい! イク、イク!」
 律動のたびに恥骨を突き上げ、膣を堅く締めて応える。
「ああ、好きです、愛してます、あああ、イク!」
 抜いて、痙攣する腹を腹に密着させ、しっかり抱き締めた。唇を強く吸う。
「好き、好き、愛してます」
 しばらく睦子の律動に付き合って腹をぶつける。きりもなく達するので、腹から降りて抱き寄せた。力を振り絞って痙攣し終わると、私の首に何度も口づけをする。
「……こんなに気持ちいいなんて……狂ってしまいそう」
「狂ってもいいから、明るいままでいてね」
「シーズンが終わるまで、狂いません」
「それから、嫉妬もしないでね。女が何人もいるから」
「しません。女の人にも、神無月さんにも。私は、神無月さんのそばにいられれば、もう何も言うことがないんです。愛してます、一生、愛しつづけます」
         †
 二人でキッチンテーブルに向き合って、辛口のカレーを食べた。私は裸、睦子はきちんと身仕舞いしている。ライスに添えた福神漬けとラッキョウがうまい。
「うまい。料理上手だ。……シーズン明けには帰省するの?」
「はい」
「青高に寄ることがあると思うけど、猛勉と相馬先生、それから石崎先生によろしく」
「しっかり伝えます」
「訊きたかったんだけど、睦子の家は金持ち? こんなすごい部屋はふつうじゃ借りられない」
「青森市場で青果の卸商をしてます。大金持ちじゃありませんけど、娘が東京の大学で学べるくらいのお金はあるようです」
「箱入りだね」
「いいえ。二人姉弟の長女です。父は四十四歳、母は三十九歳です。バリバリ仕事してます。弟は三つ年下で、いま青森商業の一年生。卒業したら店を継ぐことになってます。私は母が二十一歳のときの子です。ほったらかされて、わがまま勝手に育ちました。箱入りの秘蔵っ子じゃありません」
「でも結婚しないわけにはいかないだろう。ぼくはだれとも結婚しないよ」
「私もしません。学者になって、お局(つぼね)さんになります」
「それじゃ親の気がすまない。親は世間に逆らえない」
「東大の女なら、どんな変人でも許されます。それが世間です。世間が許せば親も許します。神無月さんにはけっして迷惑をかけません」
「子供ができたら?」
「産みます。何の障害にもなりません。でも、学生のうちは気をつけます。育てるなら、経済力をつけてから自分で育てたいから」
 私は睦子の手を握り、
「ぼくには子供が一人いる。詳しい話はしない。ぼくは汚れた人間じゃないけれども、あまりにも常軌を逸してる。ぼくを深く知るうちに、離れたくなるかもしれない。耐えられなくなったら、遠慮なく離れてほしい」
「私もふつうの人間じゃありません。好きになった人からは離れません。お子さんはどこにいるんですか」
「名古屋。三十九歳の、もと芸妓のトモヨさんという人が母親だ。売春婦という言葉は嫌いだ。子供は男の子で、名前は直人。九カ月になる。マスコミには知られていない。いずれプロ野球にいったら、ふとしたことで知られてしまうかもしれない。ぼくのタニマチの素封家がトモヨさんを養子に採ってくれたので、母子ともに幸せに暮らしてる。養家のタニマチは北村席と言って、ぼくの恋人の実家だ。北村席はもと置屋で、いまはトルコ風呂を経営してる。恋人の名前は北村和子。いずれ、ぼくと付き合っているうちに事情はわかってくる」
「その和子さんは、東京に?」
「うん、高円寺にいる。青森でもずっとそばにいてくれた。木谷はぼくの看病をしたときに彼女に会ってるはずだ。その恋人は北村席の一人娘だ。素封家の娘なのに、労働を厭わない人で、いま高円寺の駅前の喫茶店で働いてる。もう一人の恋人、もと街娼の兵藤素子という女といっしょに暮らしてる。素子はぼくが名古屋から連れてきた。かぎりなく純粋な女だ。北村和子は神さまのように度量の広い人なので、ぼくは女神と呼んでる。三十四歳。素子は二十八歳」
 睦子は表情一つ変えず、
「みなさんにいつか会わせてくださいね」
「自然とそうなると思う。東京にはほかに三人の恋人が出てきてる。看護婦の滝澤節子と吉永キクエ、それから蕎麦屋に勤めてる山本法子。彼女は近いうちに水商売に入るだろうと思う。親友が二人東京にいる。一人はもちろん山口で、もう一人は横山よしのりという男だ。阿佐ヶ谷でバーテンをしてる」
「すっかり話してくれてうれしい。ほんとにお城ですね。そのお城に入っていれば、いつまでも神無月さんといっしょにいられます」
 信じられないほど明るく笑った。
「……もう一度してしてくれますか」
 真っ赤な顔で言う。
「しよう。テーブルに手を突いて」
「え?……はい」
 スカートを捲り上げ、パンティを下ろして秘部を探るとすでに迎え入れる態勢になっている。
「後ろからすると、亀頭がお尻の側の壁をこすることになる。ちがった感じで気持ちいいから、それも経験しておこうね」
「はい」
 挿入すると、ビクンと締まった。
「ああ、ほんと、気持ちいい!」
 動きはじめる。
「あ、気持ちいい、とっても気持ちいい、ああ、すぐです、すぐです」
「がまんして、オマンコがもっと締まってくるまで、限界までがまんして」
「は、はい、がまんします、うーん、気持ちいい、あ、オシッコ!」
 かまわず突き立てる。
「神無月さん、だめだめだめ! オシッコ、あ、イク、イクイク、イク!」
 グイと尻を突き出し、踵を持ち上げるようにして腹を縮める。スキーン液が三筋、四筋床に飛んだ。猛烈に膣が締まって射精を促す。私は激しく腰を突き出し、
「睦子、イク!」
「キャ! 気持ちいい! イクウウウッ!」
 睦子の尻が激しく前後し、愛液が床に飛び散る。腹を抱え、律動を伝える。
「ウグ、イク、イク! あああ、気持ちいい、イクッ!」
 爪先立ったふくらはぎが硬直し、愛液が飛びつづける。腹をさすり、硬くふくらんだクリトリスに指を当てる。呼吸している。抜き取り、振り向かせて唇を吸う。睦子は貪るように私の唇を舐める。
「愛してます、愛してます、命も何もかも、ぜんぶあげます」
 私はスカートを引き下ろして下半身を裸にすると、椅子に座らせた。椅子を並べて私も座る。まだ睦子の腹がビクンビクンと痙攣する。手を伸ばし、胸をつかんだ。
「お風呂に浸かろう」
「はい。お湯を入れます。その前に、オシッコを拭かないと」
「オシッコじゃないよ。女の射精だ。スキーン液。ぼくといっしょに射精したんだ。神秘的だね。ふだんは、ぼくのお腹にかかるからだいじょうぶだよ」
 睦子は桜色の頬をうつむけて、うれしそうに微笑んだ。
「でも、拭きます。すごい量、恥ずかしい」
 シャツをはおっただけの、尻まる出しの無邪気な格好で、懸命に床に雑巾を使う。
「いけないオマンコ、いけないオマンコ」
 と呟いている。かわいらしい。自分の体内から椅子の上に漏れ出た精液も拭う。それからようやく私といっしょに風呂場へいき、バスタブに湯を埋める。そのあいだに私はシャワーで局部を洗った。睦子は私をバスタブに入れ、丁寧に石鹸で磨く。
「オマンコって口に出したの、初めて?」
「はい、とてもさわやかな響き。青森弁のマンジュウよりずっときれい。イクって言葉もからだが引き締まる感じですてきです。愛してるという言葉と同じ意味に聞こえます。あなたのところへイキますって―」
「睦子、好きだよ」
「はい!」
「さあ、あしたから本を読むぞ」
「私たちは、バトンガールの募集と、特訓。がんばります。毎日、夜の八時には部屋にいますから、好きなときに訪ねてくださいね」
 睦子のからだにシャボンをたてながら、
「……木谷といつか」
「わかってます。神無月さんの魅力に勝てる女なんかいません。木谷さんと私は友だちです。同じ気持ちと感覚を共有してるほうが長つづきします。いつか木谷さんに悪い気がするって言ったのは、私がいつも神無月さんのそばにいられるからです。夏に遊びにくるって言ってました。私と同じようにかわいがってあげてくださいね」
 きれいな歯を見せてうれしそうに笑った。


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