五十五

 二人でキッチンテーブルに向き合って、ほどよい辛口のカレーを食べた。ライスに添えた福神漬けとラッキョウがうまい。
「うまい。料理上手だ。……シーズン明けには帰省するの?」
「はい」
「青高に寄ることがあると思うけど、猛勉と相馬先生、それから石崎先生によろしく」
「しっかり伝えます」
「訊きたかったんだけど、睦子の家は金持ち? こんなすごい部屋はふつうじゃ借りられない」
「青森市場で青果の卸商をしてます。大金持ちじゃありませんけど、娘が東京の大学で学べるくらいのお金はあるようです」
「箱入りだね」
「いいえ。二人姉弟の長女です。父は四十四歳、母は三十九歳です。バリバリ仕事してます。弟は三つ年下で、いま青森商業の一年生。卒業したら店を継ぐことになってます。私は母が二十一歳のときの子です。ほったらかされて、わがまま勝手に育ちました。箱入りの秘蔵っ子じゃありません」
「でも結婚しないわけにはいかないだろう。ぼくはだれとも結婚しないよ」
「私もしません。学者になって、お局(つぼね)さんになります」
「それじゃ親の気がすまない。親は世間に逆らえない」
「東大の女なら、どんな変人でも許されます。それが世間です。世間が許せば親も許します。神無月さんにはけっして迷惑をかけません」
「子供ができたら?」
「産みます。何の障害にもなりません。でも、学生のうちは気をつけます。育てるなら、経済力をつけてから自分で育てたいから」
 私は睦子の手を握り、
「ぼくには子供が一人いる。詳しい話はしない。ぼくは汚れた人間じゃないけれども、あまりにも常軌を逸してる。ぼくを深く知るうちに、離れたくなるかもしれない。耐えられなくなったら、遠慮なく離れてほしい」
「私もふつうの人間じゃありません。好きになった人からは離れません。お子さんはどこにいるんですか」
「名古屋。三十九歳の、もと芸妓のトモヨさんという人が母親だ。売春婦という言葉は嫌いだから使わない。子供は男の子で、名前は直人。九カ月になる。マスコミには知られてない。いずれプロ野球にいったら、ふとしたことで知られてしまうかもしれない。ぼくのタニマチの素封家がトモヨさんを養子に採ってくれたので、母子ともに幸せに暮らしてる。養家のタニマチは北村席と言って、ぼくの最愛の恋人の実家だ。北村席はもと置屋で、いまはトルコ風呂を経営してる。恋人の名前は北村和子。いずれ、ぼくと付き合っているうちに事情はわかってくる。驚かない?」
「ちっとも。その女の人たちといっしょに冒険してるような気持ちです。和子さんは東京に?」
「うん、高円寺にいる。青森でもずっとそばにいてくれた。木谷はぼくの看病をしたときに彼女に会ってるはずだ。その恋人は北村席の一人娘だ。素封家の娘なのに、労働を厭わない人で、いま高円寺の駅前の喫茶店で働いてる。もう一人の恋人、もと街娼の兵藤素子という女といっしょに暮らしてる。素子はぼくが自分の意思で名古屋から連れてきた。かぎりなく純粋な女だ。北村和子は神さまのように度量の広い人なので、ぼくは女神と呼んでる。三十四歳。素子は二十八歳」
 睦子は表情一つ変えず、
「みなさんにいつか会わせてくださいね」
「自然とそうなると思う。東京にはほかに三人の恋人が出てきてる。看護婦の滝澤節子と吉永キクエ、それから蕎麦屋に勤めてる山本法子。彼女は近いうちに水商売に入るだろうと思う。もともとその筋の仕事をしてる家の娘だから。親友が二人東京にいる。一人はもちろん山口で、もう一人は横山よしのりという男だ。阿佐ヶ谷でバーテンをしてる」
「すっかり話してくれてうれしい。ほんとにお城ですね。そのお城に入っていれば、いつまでも神無月さんといっしょにいられます」
 信じられないほど明るく笑った。
「……あとでもう一度してしてくれますか?」
 真っ赤な顔で言う。
「しよう。睦子のイキ方はカズちゃんと同じくらい慎ましくてかわいらしいから」
「……イクって言葉、からだが引き締まる感じで好きです。愛してるという言葉と同じ意味に聞こえます。あなたのところへイキますって―」
「睦子、好きだよ」
「はい!」
 いっしょに風呂場へいき、睦子はバスタブに湯を埋める。そのあいだに私はシャワーで髪を洗った。睦子は私をバスタブに入れ、丁寧に石鹸で磨く。
「さあ、あしたから本を読むぞ」
「私たちは、バトンガールの募集と、特訓。がんばります。毎日、夜の八時には部屋にいますから、好きなときに訪ねてくださいね」
 睦子の背中にシャボンをたてながら、
「……ほんとに好きだよ」
 と言うと、睦子は振り向き、
「私はその百倍」
 カズちゃんと同じことを言い、きれいな歯を見せてうれしそうに笑った。
         †
 水曜日から金曜日までの三日間、カズちゃんの机で読書をしながら、一九五十年代のドゥーワップを何曲も聴いた。ファイヴ・サテンズ『イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト』、ソニー・ティル&オリオールズ『クライング・イン・ザ・チャペル』、プラターズ『オンリー・ユー』、ザ・スカイライナーズ『シンス・アイ・ドント・ハヴ・ユー』、クレスツ『シクスティーン・キャンドルズ』、ロネッツ『ビー・マイ・ベイビー』、シュレルズ『ウィル・ユー・スティル・ラヴ・ミー・トゥモロー』。
 夕食のあと、かならずカズちゃんと素子のどちらかを抱いた。カズちゃんも素子も何のこだわりもなく、待ちかねたように全身で歓びを表した。机に向かうと性欲が湧く。野球をしているときは湧かない。どういう仕組みだろう。野球を中断していたころにはあれほど輪郭正しくまとまっていた考えが、いまはとんと明瞭でない。まとまらない。何がいちばん差し迫って大切なことなのかも判断できず、天才とか、怪物とか、ときには神などと呼ばれながら、本能のまま動いている。つまり、神を騙(かた)り、本能を正当化している。天才や神は、本能の対極にある存在だし、こんな杜撰な頭の持ち主であるはずがない。
         †
 五月十一日、十二日と立教大学とぶつかった。二試合とも一方的な結果になった。二十三対七、二十五対三。私たちはフリーバッティングでもするように彼らをめった切りにし、二試合連続全員安打という六大学記録を樹ち立てた。二試合でホームラン十二本、私が七本、克己と中介と臼山が初ホームランを、水壁は二号、横平は三号を放った。
 立教大学はエースの土井池という軟投型ピッチャー一人に頼っている弱小チームで、強打と言われる三番の中沢も、四番の望月も、ミートがうまいというだけで、何の恐怖感も湧かせない選手だった。小学生のころ、六大学の存在は具体的に知らなかったけれども、立教大学の長嶋、杉浦、本屋敷の三羽烏が六大学リーグを席巻していたことは、週刊ベースボールを読んでぼんやり知っていた。心の底に少しばかりその強さの名残を期待して対戦したが、まるで少年野球チーム同然で、一時代を終えてしまったのだと痛感した。
 昭和三十三年、プロ野球選手になった直後に、雑誌の表紙に載った四角いあごの長嶋や眼鏡をかけた杉浦をハッキリ憶えている。本屋敷という選手は、六大学時代はもちろん、プロでプレーをしている姿も見た記憶がない。
 昭和三十五年ごろ、西松の飯場の白黒テレビで、昼間一人、六大学野球の中継をぼんやり観たことがあった。早稲田の徳武という四番バッターが、足もとにファールチップを打った瞬間を鮮やかに憶えている。試合そのものは緊張感のない、妙に退屈な雰囲気のものだった。
         †
 十三日月曜日のスポーツ新聞の見出し。

  
変身東大快進撃! 優勝も? 
  ウルトラマン神無月を総大将にいよいよ法大と激突!


 その記事は、学生運動のタテカンを差し置いて本郷キャンパス構内各所の掲示板に貼り出された。田淵が通算二十一号を打ったと報じられたが、私はすでに二十三号を放っていた。これからの一本一本が、そのまま六大学記録になっていく。
 スポーツ紙のすべてが、プロ野球そこのけで、毎日私の顔写真を紙面に載せた。阿佐ヶ谷の橋本家にまで新聞記者が押しかけてくるようになったが、騒がれると下宿を追い出されるからと鈴下監督に直訴し、彼を通じて大河内総長から各新聞社に自粛を促してもらった。しかし、報道の自由とやらで、勧告も効果が薄いようだった。下宿どころか、喫茶店や食い物屋にまで追いかけてくる報道記者たちに疲れ、法大戦が終わるまで高円寺に避難することにした。するとすぐさま各紙が、

 
金太郎足柄山へ雲隠れか 
 法大戦出場危うし?


 といったいいかげんな報道で騒ぎ立てた。
 そんな折、母から便箋一枚の手紙がきた。
 ―四月来、学生の本分を忘れ、調子に乗って浮かれているようだが、おまえの様子は大学生の清廉質実の生活態度を大いに損なっている。今後学期試験の成績いかんでは、おまえのクラブ活動の自粛を野球部の責任者に訴えるつもりでいる。そのあたりを心しておくように。
 一本目の横槍が入った。素早い反応だと感じた。むろん返事は書かなかった。
         †
 五月十七日。法政戦を前日に控えた金曜日、本郷グランドで、レギュラーバッター陣がピッチャーの投げこみを手伝った。手伝いの内容はただ一つ、ヒットやホームランを打ちまくること。
 上半身に力のつきはじめたほとんどのバッターが、外野のフェンスやネットまで飛ばせるようになってきている。ピッチャーの学習することは、どういうコースにどういう球種を投げれば長打を喫するか身をもって学ぶことだった。いずれにせよ、あしたの法政戦には間に合わない。付焼刃でも付けないよりはマシだという考えだ。打ち終わってバッターボックスを外した克己に、
「キャプテン、法政の主要メンバーとその特徴の概略を教えてください」
「まず左腕の山中正竹。百六十八センチ。小さな大投手と呼ばれてる。球は百三十キロ程度で遅いんだが、制球力抜群で、失投はほとんどない。右バッターの外角に落ちるスクリューが最大の武器だ。卒業までにリーグ最多勝の記録を樹ち立てるのはまちがいない。まだ三年生だから、卒業までに五十勝いくんじゃないか。次に右の江本孟紀(たけのり)。三年生。百八十八センチの長身だ。タコみたいにクニャクニャからだをくねらせながら投げてくる。高校までは百五十キロの速球が持ち味だったらしい。大学にきてから肩を壊して軟投派に転じた。それでもストレートは相変わらず速い。百四十キロは軽く投げる。タコ投げのせいで打ちにくいことこの上ない。カーブ、シュート、スライダー、特にカーブが切れる。プライドの高い短気な男で、松永監督と仲が悪いって噂だ。中継ぎは一年生の横山晴久。これも百八十四センチとデカい。シュートピッチャーで、ノーコンだ。キャッチャーはご存知田淵幸一、百八十六センチ。当たるととにかく飛ぶ。ほかに、荒いけど長距離打者のセンター山本浩司、百八十三センチ。シュアなサード富田勝、百七十七センチ。この四年生三人は法政火山とか法政三羽烏と呼ばれてる。いま日本で金太郎さんの次に有名な選手たちだ。三人とも甘いコースはホームランにしてしまう。ショートの三年生山田克己は打率のいいバッターで、首位打者も狙える逸材だけど、六割を打つ金太郎さんが出てきて影が薄くなった。あとはレフトの三年生堀井和人くらいかな。現時点で四割打ってる。法政はシゴキと特訓で有名な大学だ。それだけに選手の迫力がすごい。呑まれないようにね」
「はい。江本は連打してカーッとさせれば打ち崩せますね。横山は大事な試合に投げてこないでしょう。山中と江本二人で三試合いく気ですよ」
 夜、カズちゃんと素子が、寄せ鍋の具の肉団子を作っているとき、節子がやってきたので、たちまち賑やかな台所になった。
「足りない具があったら、買ってきましょうか」
「準備万端。白菜を切って、ニンジンと大根を刻んでくれる?」
「シイタケ、シメジ、春菊もありますね」
「きょうは牡蠣の寄せ鍋。肉団子と油揚げ入れるとおいしいの。昆布でダシをとって、醤油を少々。それでオッケー。仕上げにお餅がいい? うどんがいい?」
 全員うどんと決まり、食卓についた。ビールをコップ一杯ずつ。カズちゃんが、
「ホー、うまいのなんのって!」
「ごはんが進むがや」
「節子さん、産科のお仕事、順調?」
「はい。産科の仕事はやり甲斐があります。婦人科の患者さんは悪性の病気が多くて気の毒ですけど。……出産に立ち会うのはとても緊張します」
「奇跡のかたまりが生まれてくるんだもの」
「異常分娩以外は、ほとんど助産婦さんの仕事なんです。出産後の母親や乳児のケアは私たちの分担です」
 素子は興味津々の様子で、
「具体的には、どういうことをするん?」
「出産前は、採血や予防接種、つわりのときの点滴、医師の診察の介助、出産のときは助産婦さんの分娩介助、帝王切開など手術のときは医師のオペ介助、出産後は、新生児の沐浴、おむつ交換、授乳指導、産後検診の介助、痛み止めの注射、オリモノやオシッコの量のチェックなどですね。ほかに中絶手術の介助もあります。婦人科の仕事は、筋腫や癌の手術介助、検診介助といったもの。とてもつらい仕事。セックスの幸せを与えてくれる器官の病気で同性が苦しむのを見るのは耐えられない。……私のおかあさんの快復は、奇跡なんです。ふつうは、とっくに死んでます」
 私はため息をつきながら、
「たしかに、それはつらい気分になるね。快楽の器官のせいで死病に罹るなんて。原因は男の不衛生だね。女をそんな目に遭わせないように、ぼくはいつもきれいにしてる。男の心がけで、女は永遠に快楽の器でいられる」
「キョウちゃんみたいな気配りをする男は、めったにいないわ」
 女三人でうなずいた。
 それからみんなでビートルズを一時間も聴き、いっしょに風呂に入った。コーヒーを飲みながら少し歓談をしたあと、カズちゃんと素子に勧められて、節子といっしょに床に就いた。あしたが大事な試合であることを気づかって、節子はからだを求めてこなかった。私は彼女のやさしさに感謝しながら、唇を合わせ、抱き合って眠った。


         五十六

 五月十八日土曜日。曇。朝食のとき、節子が明るく満足している様子を見て、カズちゃんと素子も心からうれしそうだった。二人の誤解がくすぐったかった。カズちゃんが尋いた。
「試合は何時から?」
「一時半」
「私と素ちゃんは、きょうはいけないわ。節子さんは土曜日だからいけるんでしょう?」
「午後から、勉強会があるんです。あらかじめ研究課題を宿題に出し合って、二カ月にいっぺん、土日に看護婦が自主的に集まって意見を言い合うんです。とても勉強になります。日赤だけの慣行だそうです」
「この三日間は応援にきてくれないほうがありがたい。山口にもそう言っといて。一勝二敗で準優勝、二勝一敗で勝ち点と勝率が並ぶから、同点決勝だ。つまり、優勝決定戦に勝たなければ優勝できない。集中して戦いたい。スタンドに顔見知りの姿を見つけたくないんだ」
「わかった。月曜日の帰りには寄ってね」
「かならず。帰ってきたら、風呂に入ってすぐ寝たい」
 カズちゃんがうなずくと、素子は指でオーケーを作った。
「二連敗したら、春季リーグ戦は終わりだ。そのときは、楽しい計画を立てよう」
「はい。あしたは吉永さんにも連絡して、月曜日にみんなで集まってるから」
 三人に高円寺駅の改札に見送られた。母が何を言ってこようと、一本でも多くホームランを打つことしか頭になかった。
 新聞やテレビ関係者のたむろする本郷のグランドで、一塁ベースからライトのポールまで、五本、全力で走りこむ。ピッチャー以外のレギュラーもまねをして走りこんだ。ブルペンでは有宮が投げこみをしていたが、ほかのレギュラーピッチャーは外野フェンスに向かって真剣に遠投していた。きょうの鈴下監督は、ピッチャーを全員投入するつもりでいるとわかった。
 バスに乗るまでのあいだ、私は軽く捻転体操をしながら、フェンス沿いの樹木を見て廻った。白い花房の群れを垂らしたイワナンテンやハクウンボク、オオヤマツツジの赤紫のラッパ、可憐な白い花を点々と散らしているカンボク、サンザシ、ニワトコ、ウツギ。紅色の総状花をつけるナツハゼ、ベニドウダン。樹木の足もとには、キンバイカ、シャリンバイ、クサツゲ、シャクナゲ、サツキ、ビラカンサ。東大球場は意外な花園だった。
「金太郎さん、いくぞ!」
 監督に呼ばれてグランドを出る。みんなのスパイクがイチョウ並木のコンクリートに鳴る。水壁が浮きうきと、
「山中の先発はまちがいないよな。とにかく振り回していくぜ」
「そうですね、見ていけばかえって選球眼が仇になります。真ん中と内角はぜんぶ手を出すべきです。五回に一回はまともに当たるでしょう」
 監督が、
「法政火山が相手じゃ、バントなど無意味だからな」
 これまででいちばん静かなバスの移動だった。助監督や部長をはじめ、スタッフ全員が緊張のせいで寡黙になっていた。選手たちもそれぞれの思いに浸るように、窓の外の景色を見つめていた。
 神宮球場のグランドやスタンドに人があふれていた。選手たちがバラバラ動く秩序のないグランドよりも、背景に淡い青空のある観客席のほうが美しかった。バッティング練習はせず、守備練習だけした。そのときもスタンドに見惚れた。
 先攻。やはり法政の先発は左腕の山中正竹だった。小さい。下半身も細い。ボールは思ったほどゆるくはない。百三十キロの半ばは出ている。変化球のスピードもかなりある。外角に曲げられたらついていくのがたいへんだ。
 ―バッターボックスの前方にいざって、できるだけピッチャー寄りに立とう。
 法政の学生スタンドは爆発的な応援だった。バトンガールが踊り狂っている。東大側も懸命に声を張り上げ楽器を高鳴らせてがんばっているが、バトンガールが二、三人バトンを回して足踏みしているだけだ。いかんせん観客が少ない。東京大学開闢以来の快進撃だというのに、応援に駆けつけない学生たちの気が知れない。OBらしき姿が多いのも、かえってさびしい雰囲気をかもし出している。それでも初戦の五、六倍くらいには増えている。自信に満ちた法政チームのキャッチボールがまぶしい。田淵のセカンドへの低い送球に目を瞠る。私より六センチも背の高い男だ。キャッチャーボックスにそびえているように見える。
 千年小学校の校庭を走り回っていた遠い日、きょうの日は予想できなかった。六大学の学生として野球をやることになるとは夢にも思わなかった。あのころの夢は、一足飛びに中日球場のグランドに飛んでいた。しかし、どうしてかわからないが、いまの状態がうれしい。このうれしさは私にとって意味がある。一足飛びでなかった人生を一足一足克服してきたうれしさだ。
 プレイボールの声。両軍の応援スタンドから太鼓の音が降ってくる。夢の中で予想できなかった馬鹿げた音を、私は喜んで、遠い日に夢見た中日球場のスタンドの歓声に重ねて聞く。
 中介がバッターボックスに立った。カラ元気を出してバットの先を山中に向ける。山中は意に介さず、まじめな顔で振りかぶる。まったく力が入っていないフォームで初球を投げこんできた。外角ギリギリのカーブ。中介は前にのめって見逃した。ストライク。これは打てない。私も打てるかどうか。二球目真ん中のストレート。強振。空振り。三球目内角低目ストレート。ファール。コンビネーションが読めない。配球を読んではいけない。きたら、振る。それだけだ。四球目外角へ落ちるシュート。少しお辞儀をするボールの上を叩いてピッチャーゴロ。いままでのピッチャーと何かがちがう。圧倒されるものがある。
 二番磐崎。初球胸もとから真ん中へ落ちるシュート。初めて見る変化だ。
「ストライーク!」
 味方ベンチがざわついた。
「すごいな」
「磐崎さん、ブンブンいって!」
 二球目外角ストレート。田淵のミットがいい音を立てる。ストライク。磐崎は口をへの字に結んで、ボックスを外すと手に砂を摺りつけた。三球目真ん中低目にスピードの乗ったスライダー。強振。当たり損ねのサードゴロ。富田が手堅く抑えて正確な送球。ツーアウト。どうしても芯を捉えられない。監督が、
「水壁、セーフティ、いってみるか」
 きょうは横平ではなく水壁が三番だ。
「やってみます。ピッチャーの横を狙います」
 初球真ん中高目ストレート。ストライク。水壁は、
「クソ!」
 とわざとらしい声を上げると、ボックスの外に出て、二、三回素振りをした。二球目真ん中低目カーブ。両手でキッチリ、押し出すようにバントをした。ボールがピッチャーのグローブをかすめ、ショートの山田の前に転がる。ダッシュしてきた山田が素手でつかむと送球をあきらめた。内野安打。ベンチが色めき立つ。
「よし、よし、よーし!」
「金太郎さん、頼んだぞ!」
 スタンドに金太郎コールが始まる。スタンドのほうぼうでフラッシュが光る。田淵がマウンドに走っていく。ひとことふたこと交わしてすぐ戻ってくる。
「怪物くん、敬遠はしないよ。お手並み拝見だ」
 ソフトな声で語りかけ、外野にバックの指示を与えると、片膝を突いて構えた。六センチも大きい男には思えなかった。山中はひょうひょうと振りかぶり、投げ下ろした。手首のしなるのがスローモーションのように見えた。外角高目からシュートが落ちた。ストライク。田淵が素早く一塁へ送球する。水壁、手から戻ってセーフ。私はボックスに立ったまま、ボールの軌道を記憶した。二球目、同じコースにストレート。ボール。太鼓と管楽器と喚声が意識に戻ってくる。山中がボールをこねて考えている。私はネット裏を見た。ただならぬ眼つきをした男たちが居並んでいる。男たちの中に村迫の顔があった。私は田淵に言った。
「外角は見きわめました。次は内角ですね」
「その手は食わないよ」
 私はうなずいてバットを構えた。内角には投げてこない。山中の手首だけを見よう。ランナーをじっと見て、セットポジションに入る。腕を振り上げ、投げ下ろす。手首は返さなかった。ストレートだ。外角高目。踏みこみ、左掌を押しつけてフルスイングする。まともに芯に当たった。ラインドライブしてしまう。水壁が全力で走る。異様なスタンドのどよめき。球が伸びていく! レフトの堀井がライン目がけて走る。フェンスに当たりそうだ。ジャンプ。
 ―よし、越えた!
 ボールが最前列で弾んだ。ウオーという歓声。審判がぐるぐる手を回している。一塁を全力で回る。水壁も三塁を全力で回っている。二塁を蹴り、三塁を目指す。止まない歓声と拍手。ノッポの田淵がマスクを手にぼんやり立っている。アンパイアに足もとを見つめられながら、ホームベースを駆け抜ける。ベンチ前の選手たちに抱き止められ、揉みくちゃにされる。
「金太郎さん、ありがとう!」
 監督が両手で私の腕を握る。有宮が、
「一直線だったな!」
「ナイス、ホームラン!」
 上野詩織の握手にスタッフたちの手が重なる。克己が背中から抱きついてくる。睦子が克己の背中に飛びついた。二対ゼロ。歓声が止まない中で、きょうは五番に回った横平が打席に立つ。ベンチが声を合わせた。
「横平、もう一本!」
 背番号7が素振りを終えて、バッターボックスに入る。初球、内角へ落ちるカーブ、見逃しストライク。二球目、膝もとのスライダーを強振。すばらしいフォームでセンター前へ弾き返した。ブラバンのムスターファ。応援団の正拳突き。東大スタンドが総立ちになって闘魂はを唄う。臼山、高いセカンドフライ。チェンジ。
「イグゼ、イグゼ、イグゼー!」
 私は大声を上げてレフトへ走った。東大スタンドからの大歓声を受けながら、中介と二本、三本、強いキャッチボールをする。外野スタンドを見回す。ギッシリすし詰めだ。レフトから眺める有宮の球速は山中よりもまさっているように見える。きのうの練習で、少しでも長打を避けるようなコースに投げ分けられるようになっているなら、互角に近い投手戦を期待できるはずだ。
 一番バッター、三年生苑田邦夫。ベースに近づき、屈んだ姿勢で構える。バットを短く持ち、あたかも足が速そうだ。ブラバンの喧騒の中で、目障りなくらいにバトンガールが跳ね回る。
 有宮第一球、外角ストレート。キーンという音を残して、打球が右中間へ飛んだ。塀ぎわまで一挙に抜けていく。盛り上がる歓声を受けて、苑田は二塁ベース上にすっくと立った。山田が私へのレフトライナーに倒れたワンアウトから、法大打線のつるべ打ちが始まった。山本浩司三遊間ヒット。ワンアウト一、三塁から田淵レフトスタンドへ特大のスリーランホームラン、上段まで飛んだ。富田ライト前ヒット、堀井レフトラインぎわへ二塁打、島原センター犠牲フライで一点、神保セカンドゴロ。チェンジ。二対四。この勢いのまま、彼らは八回裏まで打ちつづけた。
 私の残りの三打席は、デッドボール一つ、露骨な敬遠二つだった。内角シュートのデッドボールを右脇腹に当てたときは、深く食いこんだ痛みのせいで思わずしゃがみこんだが、生まれて初めて死球を喰らったことに感激し、その痛みを愉快にさえ思った。そして、この手荒な〈歓迎〉から、胆力によって耐えられる苦痛の限界を学んだ。そのズシリとした重さや根の深い痛みからして、ヘルメットをしていない頭部に喰らったら致命傷になるだろうと学んだのである。死に場所がここに一つあった! その発見に私は有頂天になった。
 私がしゃがみこむ姿を見ると朋輩たちがスッ飛んできた。てっきり〈やられた〉と思いこみ、険しい表情で私を助け起こした。
「だいじょうぶか、金太郎さん!」
「骨か! 肉か!」
「痛むか!」
「脇腹です。肋骨じゃありません。息が止まりましたが、もうだいじょうぶです。ピリピリするくらいです」
 痛み止めの凍結スプレーを持って、助監督の西樹といっしょに睦子が走ってきた。私がユニフォームの上から指差す脇腹の下部に、気丈な顔で噴きつけた。克己が、
「二週間ぐらい、アザになるぞ」
 山中は九回を完投した。東大はつぎこんだすべての投手を打ち崩され、十七対二で負けた。法大は全員安打、五十累打、田淵が三本のホームランを打ち、一番バッターの苑田という男が六本のヒットを打った。六大学新記録だと放送があった。残塁が多くなければ三十点取られたかもしれない。
 翌十九日の試合も、やはりつぎこんだ五人全員を打ちこまれ、九対一で負けた。完投した江本から奪い取った一点は、二回先頭打者で出た私のソロホームランだった。残り三打席はすべて敬遠された。東大のバッターはだれもかれも打席に向かう前に、明らかに腕力にまかせて振ってやろうという意気ごみを見せていた。そして打席ではマウンドの江本をハッシと睨みつけながら奮闘したが、眼光の甲斐なく全員三振か凡打に切って取られた。
 法政大学の完全優勝、東大は八勝三敗で準優勝だった。法政スタンドの狂気じみた乱痴気の光景。彼らはこれから街なかへ押し出していくのだろう。あたりの熱狂が東大チームには浸透してこない。私はこうしたざわめき、こうした乱舞、こうした逆上に、自分もいっしょに巻きこまれたいという不思議な欲望を感じた。
 最後の整列のとき、ドラゴンズの村迫総監督が手を上げて別れの合図をした。私は深く一礼した。仲間たちは球場に対する儀礼と誤解して、私をまねて礼をした。応援スタンドのほぼ全員が泣いていた。野球という楽しい夢に流す涙は私にはなかった。


         五十七

 バスの中でわれに返ったとき、あたりの風景が、まだ夢のつづきのように思われた。夢の過激な喜びにつづいて、現実の平安が立ち返ってきた。選手たちが座席に腰を下ろして、何か話し合いながら笑っていた。グランドでどういう挨拶の手続をしてバスに乗りこんだか憶えていなかった。私は帽子を脱ぎ、窓を開けてしばらくのあいだ、額にさわやかな風を味わっていた。街の静かな響きに耳を傾けた。何の考えもなく、何の思いもなく、人工的な街並に見られる神々しい美しさに心を奪われていた。かくも静かな、かくも澄みわたった、かくも壮大な虚構が、野球をしなかった時代の生活の真実らしさを思い出させた。
 思い出が、虚構の中に紛れこんできた。目玉を刳りぬかれてスグリの垣に吊るされたミースケ、雪の日に家出した義一と私、腸が融けるような下痢、国際ホテルの棒チョコ、自転車を漕ぐサイドさんの背中、崖の家の爺婆、トンネルの家の母の赤い血、破傷風、京子ちゃんの黄色いパンツ、ひろゆきちゃんの自転車、貸本屋のお婆さん、茶色い給料袋、サーちゃんの唾、ドブの水、テーブルの下に転がった五十円玉、切り通しの飯場の男、野毛山の病院、裕次郎、階段を昇っていく父の太いズボン、サトコの背中……。
 それらさまざまな神経を傷つけた現実が、百年も前に起きたことのように思われる。それほどむかしに見た現実が、まるで生まれて初めて観た映画か何かのように目の裏に生きいきと残っていて離れない。夢の世界に定住しはじめた心が、そういう現実の想い出からまったく解き放たれるということはない。しかし、十年のときが神経にじゅうぶんな休息を与え、頭の奥に重苦しさを感じなくなり、からだじゅうにのんびりとした気持ちがみなぎりわたり、大気と陽の光とをこれまでになく満喫している幸福感はまぎれもなくある。目の前の夢に心が炙られ、燃え上がり、充足する。それは小止みのない愛撫だし、絶え間ない快楽だ。それなのに、感覚は忘れていた貧しく痛ましい現実の幻に揺すられて目を覚ます。
 ―だいじょうぶだ。この快楽はまだつづく。法政の優勝騒ぎで、敗者東大の影は薄くなり、母の偵察の目はしばし休息するだろう。秋の終わりまで横槍は入らない。
 東大周辺に学生たちや見物人や報道陣がギッシリつめていた。フラッシュが光の束で降り注ぐ。チーム一同は人波に揉まれ、握手攻めに遭い、フラッシュを浴びながらグランドまで行進した。バンザイの斉唱が絶えず上がる。グランドにも一般学生たちがぎっしりだった。報道関係者の異常な数。逃げ出したくなった。監督が報道陣を引き受けると言ったので、すぐにみんなで部室に駆けこみ、着替えをする。汚れ物をバッグに詰める。パンツ姿の中介が平服を着こみながら、だれにともなく、
「総長は仕方ないとして、学部長や教授たちの顔が見えないな。祝辞もないのか」
 優勝を逸したことに不満はないので、話の水を別種の不満のほうへ向ける。大桐が応える。
「その愚痴は贅沢だ。ここは東京大学だぜ。スポーツを称揚する仕組みはできあがっていないだろう。まあ、優勝でもしないかぎり騒ぎたてるほどのことでもないと思ってるんだな。珍事として騒いでるのは、マスコミと一般の野球ファンだけだ。ある意味今年は、金太郎さんがいたからこその大躍進だ。浮かれてるわけにはいかんぞ」
 横平が、
「とにかく、きょうあすのテレビや新聞は、東大一色だ。それで溜飲下げようや」
 四十人に余るチームメンバーが、ふたたび人波を押し分けて赤門の外に出た。ついてくる記者たちを監督が掌で押しとどめた。
「反省会になります。ここからは遠慮してください」
         †
 本郷のせんごくの二階座敷で反省会が催された。しかし反省とは名ばかりで、喜びの会合だった。仁部長が立ち上がると全員立ち上がった。
「東大の新しい歴史の誕生に乾杯!」
「乾杯!」
 監督が立ち上がり、
「金太郎さんの三冠王に乾杯!」
「乾杯!」
 二十五本のホームランと、四十七打数三十二安打六割八部一厘の打率は、六大学野球の記録として永遠に破られないだろうと部長が言った。副部長が、
「チュウレンポウトウじゃないが、不吉なものさえ感じる。神無月くん、頓死しないでくださいよ」
 克己が、
「秋シーズンも法政だろうが、来年は優勝だ!」
「オー!」
「俺たちは秋に去っていく。金太郎さんを中心にして、来年こそかならず優勝を果たしてくれ」
 大桐が言った。レギュラーのほかにベンチ入りしていた準レギュラーの二、三年生十六名が応えた。
「まかしといてください!」
「やります!」
 横平が、
「安請け合いするな。来年は、法政は不作になるが、早稲田がピークになる。やっぱり優勝決定戦がいいとこだ。だいたい、東大の入試が難しすぎるんだよ。文武両道のやつがきやしない」
 克己が、
「それを言ったらおしまいだろう」
 鈴下監督が腰を下ろすと全員腰を下ろした。
「女子マネージャー連が言っていたが、せめて応援の充実だけでも図らないとな。今回の準優勝のおかげで、多少は応援団員も集まるようになるだろうが、うちもバトンガールを本格的に養成したらどうだ」
 マネージャー全員で、
「やってます!」
 西樹助監督が、
「付け焼刃で養成できるかな。ねえ、白井くん」
「はあ、ブラバンの充実を図ったほうがいいんじゃないですか。バトンガールが何人か集まったとしても、東大では見映えが……」
「たしかにな」
 上野が立ち上がって、
「馬鹿にしないでください。東大女子はけっこうセクシーです。バトンと合わせて、チアリーダーズを考えているんです。高校野球ではすでに昭和三十一年に、富山県の滑川(なめりかわ)高校の六人の女子生徒が甲子園でやってます。白いロングスカートに紺の半そでシャツ、白い帽子に白い運動靴、紺のソックス、白手袋の手には小旗でした。それから十二年、まったく流行しませんでしたが、応援団ととてもよくマッチすることに注目しました。工夫してバトンガールのような華やかさを持たせようと思ってます。―獲得と養成、がんばります。練習さえすれば、バトンにひけをとらないものになると思います」
 オー、ガンバレヨー、と拍手が上がる。水壁がグイとビールをあおり、
「優勝戦になると神無月がかならず敬遠されるとわかった。法大でさえそうだ。打線の充実を図らなくちゃいけないな。筋力をつけるだけじゃ足りない。もっともっと打ちこみをしなければ」
 めいめい意見を言いはじめた。
「ピッチャーも投げこまないとね」
「剛速球ピッチャーが、東大に受かるとは思えない。打力を重点的に鍛えるしかない」
「百四十キロ以上出せるバッティングマシーンを入れてください」
 部長が、
「よし、一台入れよう。ピッチャーは肩作りをつづけてくれよ。きのうきょうの打たれ方はひどかったぞ」
「オース!」
 こういう大雑把な作戦でいい。人材が足りないときは、たしかに作戦を練らなければならない。しかし、愚にもつかない細かい作戦を練ってもむだだ。水準のピッチャー、バッターを育てていく、それしかない。
「新入生練習会が五月の二十五、二十六日とあるが、有志の先輩たちと私たちスタッフで行なう。無理して出る必要はない。六月一日からは新人戦トーナメントだ。それまではめいめい適宜東大球場で自主トレをやってくれ。準優勝したから、法政と東大がシード校になる。二勝すれば優勝だ。金太郎さん、出てくれるか。二日土曜日の十時の本試合と、三日日曜日の十時からの三位決定戦か一時半からの決勝戦のどちらか。とにかくたった二試合だ」
「出ます。二日の十時ですね。そこで負けたら三位決定戦にいくということですか?」
「そう。いずれにしても二試合だ。ホームラン記録は加算されるよ。三十本の大台に載せたらどうだ? 秋季新人戦も入れたら、確実に達成できるだろう。それこそ何百年も破られない前人未到の記録になる」
「がんばれ、金太郎さん!」
「二年間で五十本超えだ!」
「新人戦のあと、七日から月末まで国公立大戦になる。これも有志のレギュラーと補欠の合併チームで戦う。国公立大戦に関しては、うちは過去二十年八割方優勝か準優勝という強豪チームだから、金太郎さんを欠いてもだいじょうぶだ。七月は京大戦だ。八月は夏季合宿、七大戦。六月から八月まで、そのスケジュールの中に夏季オープン戦も埋まりこむ。忙しいぞ」
 カメラマンが乱入してきた。写真だけ、写真だけ、と叫びながら、シャッターを押しまくる。一人ひとりまんべんなく撮る。鈴下が、
「写真を撮ったら退散してくださいよ。神無月くんは気難しいんだからね」
 百枚も撮ってから、また彼らはどやどやと引き揚げていった。
「新人戦のメンバーの推薦を頼む。試合に出たことのないやつなら、学年を問わないぞ」
 克己が、
「キャッチャー、棚下、熊田、森野。ピッチャー、三井、村入、森磯。ファースト……」
 大桐が受けて、
「ファースト、佐田、川星。セカンド田宮、ショート壮畑」
 水壁が、
「サードは、矢島、宇佐」
 最後に中介が、
「レフト神無月、吉井、風馬。センター岩田、杉友。ライト有本、藤山」
「何人挙げた? 三人、三人、二人、一人、一人……」
 睦子が、
「十九人です」
「まだ背番号をもらってないやつは、重複しないように、自分の好きな番号を注文に出せ。来年以降は先輩の番号をもらってもいい。有力なやつが入ってきたら、蹴落とされるぞ」
「オース!」
 手を握り合って喜んでいる。
「あのう、監督……」
「なんだ、金太郎さん」
「二試合とも、二打席で交代してくれませんか。あとを吉井さんと風馬さんに。新人戦なんか優勝する必要ないでしょう。ぼくはベースコーチに回ります」
「わかった。吉井は先月退部した」
「……そうでしたか」
 あたりを見回しながら、ほとんど記憶にないその男の顔を思い浮かべようとした。ボンヤリとした気弱な雰囲気しか浮かんでこなかった。鈴下監督は、
「風馬は三年生か。風馬、新人戦の成績が重要になるぞ。目立った活躍をしたら、来年からライトかセンターで出場できるかもしれん」
「はい!」
「スターティングメンバーは、主将と副将で話し合って決めてくれ」
 和やかな宴が七時過ぎまでつづいた。最後に、部長の『ああ玉杯』に全員唱和して、もう一度乾杯のあとで解散になった。
 南阿佐ヶ谷まで睦子といっしょに帰った。
「東大の準優勝なんて……まるでお伽話みたいです。大学じゅうがドンチャン騒ぎになると思いましたけど、案外ひっそりとした祝勝会でしたね。ほかの教授たちも出席しませんでしたし」
「大桐さんが言ったとおりだよ。大珍事として目に映るためには、ふだんから東大の野球部に関心を持ってないと。……でも、さびしいもんだね。ぼくは、野球が思う存分できたから幸せいっぱいだけど。こうなったら、来年と言わず、法政が全盛のうちに優勝して見返してやりたくなったね。この秋しかないな、先輩たちがいるうちに」
「優勝しましょう!」
「ああ、お伽話をこのままつづけて、優勝しよう。きょうは高円寺にみんなが集まるよ。睦子もくる?」
「もう少し遠慮します。一人ひとりのこと、もっともっと神無月さんのお話を聞いてから」
「いい人たちばかりだよ」
「ええ、それはわかってます。もっとしっかり神無月さんの女になってから、何気ない日にお会いしたいんです。そういう機会があったら、かならず電話ください。飛んでいきます」
「何気なくないかもしれないけど、夏に浅草の寺田康男に会いにいくときはいっしょにいってくれる?」
「はい! ときどきお話してくれたヤクザの康男さんですね。会いたいです」
「そのとき、何人かの女にも会えるよ」
「楽しみにしてます」



(次へ)