十九

 勉強―
 それは野球と比べれば何ほどの関心事でもなかったので、これまでずいぶんないがしろにしてきた。しかし、五年生の秋のころから勉強がだんだん難しくなり、何か新しいネジを巻かなければ、教室のみんなに追いついていけないことがはっきりしてきた。そうなるとかえって不思議なファイトが湧いた。野球ばかりでなく、関心のない勉強までもできるというのは、悪くない勲章に思われたのだ。
 私のクラスに、おそろしく勉強のできる二人の生徒がいた。彼らはテストのたびに校内の首席を争っているというのは、教師たちの公言するところだった。もちろん二人はそろって学級委員もしていて、名実ともに千年小学校の出世頭だった。私には彼らがまったくちがう世界に住んでいるように見えた。
 守随くんは黒縁の眼鏡をかけたひょろりと背の高い少年で、人を近寄らせない雰囲気があった。仲間と口を利くことはめったになく、彼が声らしいものを発するのは、桑子に質問されたときだけだった。休み時間などによく彼は、舌先を細く丸めて窓から校舎の外に唾を飛ばしていた。でもそれは人に見せるためのひょうきんな技ではなく、ひとり楽しむためのものだった。彼が所在なさそうに雲梯にぶら下がったり、遊動円木にぼんやり腰かけたりしている姿は、だれの目にも孤独なものに映った。私には、守随くんが鈍才たちには測り知れないレベルの悩みを持っていて、それにすっかり関心を吸い取られているように見えた。
 卓球のラケットのように平べったい顔をした鬼頭倫(みち)子は、陰でオニアタマと訓読みで呼ばれていた。ヘコヘコ首を突き出しながら、偏平足のガニ股でゆっくり歩く無口な女の子だった。テストのときだけは、その物静かな趣が一変した。鉛筆を舐めなめ、一心不乱に答案に向かう。がさがさと活発にワラ半紙を前後左右に滑らせる。ゴリゴリ消しゴムを鳴らす。そういう様子には、それこそ鬼のようなただならぬ執念が感じられるのだった。私には、そういう情熱もまた、鈍才たちの到達できない高い境地からきているように思われた。
 守随くんも鬼頭倫子も、からだの周りにひんやりとした空気が流れていたけれども、彼らの青白い顔はどこか人間としての芯の強さを感じさせたし、勉強だけの優等生にありがちな、なよなよ遠慮したり、人を恐怖したりするような軟弱なところは見られなかった。
         †
 二学期も押し詰まった十二月のある土曜日、守随くんと鬼頭倫子と岩間の三人を先導役にして、私を含めた五人のボランティアたちは、脊椎カリエスという病気で長患いをして寝ている同級生の青木くんを見舞いにいった。名指しで見舞い人を決めたのは桑子だった。なぜか彼の贔屓の高橋弓子の姿はなく、もう一人、飛び入りでほかのクラスの加藤雅江が混じっていた。
 脊椎カリエスという病名を聞いたのは二度目だった。廊下をときどき、トンボ眼鏡をかけたしゃくれあごの先生が通りかかる。大鹿先生だ。もうかなりのお爺さんで、どんな科目を、何年生に教えているのかもわからない。痩せたからだの背中が大きな瘤のように膨らんでいるせいで、両足がひょろ長く見え、口を少し開け、両腕をぶらぶらさせながら反り返って歩く姿は、見るからに不気味だった。大鹿先生の背中があんなふうに突き出してしまったのは脊椎カリエスのせいだと、だれだか女の生徒が言っていた。
「青木は六年生の夏から、もう二年も寝とる。生徒会長までやった子や。おまえらの三つ年上やけど、遠慮せんと、しっかり励ましの言葉をかけてきたってくれ。雅江、これで花でも買っていけ」
 百円札を渡した。
 物慣れない私をのぞいて、ふだんは寡黙な守随くんや鬼頭倫子も、それからあとの二人も、遠足のように和気藹々と笑いさざめきながら歩いていった。加藤雅江のからだがほかの三人とちがってリズミカルに揺れるのが、青木くんよりもかわいそうな気がした。
「青木くんを見舞うの、これで三回目やわ」
 手にしたユリの花を嗅ぎながら、加藤雅江が言った。
「知り合いなの?」
 鬼頭倫子が尋いた。加藤雅江はやさしい笑い方をした。
「そういうわけやないけど、なんだか私、病気見舞いが好きみたいで、いろんな人のお見舞いにいくんよ。青木くんは千年の有名人やから、三回もいっちゃった。神無月くんは、青木くんのこと知らんかったでしょう」
 加藤雅江は傾いたからだで私を見上げた。
「うん、初めて聞いた。野球ばかりやってたから」
「知っとる。五年生なのに四番打っとるんやてね。市内のホームラン王のこと、新聞に載っとったよ」
「来年はぜったい十本以上打つよ」
「がんばりゃあ」
「前は横浜にいたの?」
 めずらしく守随くんが口を利いた。
「うん」
 次々とみんな私の顔を覗きこんだ。
「横浜って、大都会やろ? 人口百四十八万、人口図はツボ型……」
 紐で縛った週間サンデーを重そうに提げている岩間が、いつもの物知り顔で言った。
「ぼくの住んでたところは、横浜の下町だった」
 それきり話題が途切れた。私は気詰まりになった。彼らと共通の話題を思いつなかったので、仕方なく野球の話をした。守随くんや鬼頭倫子ほどでなくても、加藤雅江も千年小学校では秀才の部類だ。野球の話に乗ってくるのは、知恵者ぶっているだけで勉強のできない岩間だけだろう。
「巨人の水原監督が、来年から東映の監督をすることになったんだ。来年のパリーグは東映の優勝かもしれない」
 と、ぼそぼそ言った。岩間も含めてみんな興味なさそうな顔でうなずくので、私はたまらなく恥ずかしかった。
「岩間はどう思う?」
「さあ、監督の腕がよくても、選手がガラクタじゃな」
「ガラクタなもんか。張本や毒島がいるし、土橋や久保田がいるし、種茂だっている」
「張本と土橋以外はみんな小物やな。もっとドーンと大物が入団せんと」
 そのとおりだと思ったので、私は黙った。
 青木くんの家は、東海通りから小路へ曲がりこんだごみごみした住宅地にあった。うっかりすると見逃してしまいそうな小さい家で、柴垣の門はからだの幅しかなかった。門にかぶさるように、いじけたイチジクの木がくねっている。塀の隅のところには、忘れられた番兵みたいに傘の格好をした松の木が、さびしそうに枝を差し伸べていた。玄関脇に置かれた石に、青黒い苔がへばりついている。たぶん、ずっとむかしに飾りで置いたものだろうと思った。
 加藤雅江が声をかけて玄関の戸を引いた。重苦しいにおいが流れ出てきた。悪臭というのではない、何かくすんだにおいだ。式台にやつれた顔をした中年の女が現れ、
「あら、加藤さん、またきてくれたん。ありがとう。みなさんも、よういりゃあした」
 青木くんの母親だろう。彼女の案内で青木くんの病間に通されたとき、においの原因がわかった。それは壁や畳や蒲団と同化した青木くんが、長い年月のあいだに培った病気のにおいだった。
 痩せたあごに毛布のけばみたいなヒゲが生えている青木くんは、画用紙のように白い顔をして、部屋の真中でミイラになりかけていた。私は彼からいちばん遠い場所に腰を下ろした。残りの四人は、こだわりもなく蒲団の周囲にぴったり寄り添った。青木くんはみんなに目だけで挨拶した。私のほうまで彼の視線は届かなかった。
 さっきよりも少し元気になった母親が、見舞いのユリを活けた花瓶といっしょに、菓子盆に雷おこしを入れて持ってきた。みんな遠慮せずにポリポリ齧った。私はそのおこしがこの家の空気を吸っているような気がして、手を出さなかった。
「この子は、もう三年も寝とるんよ」
 お母さんはみんなの顔色をうかがいながら、しゃべりはじめた。
「肺の結核は全治したんやけど、菌が背骨に移ってまって。しくしく痛む病気やから、かわいそうでなも。……何年かかるかわからんけど、根気よく養生すれば治る病気やとお医者が言わはったんで、私も主人も希望を捨ててないんよ」
 私は彼女の話しぶりや顔つきを、こまかく観察した。そして、不運な青木くんに彼女がそそいでいる並はずれた愛情や希望が、かえって青木くんを苦しめているような気がして胸苦しくなった。お母さんが紅茶をいれに立った。私はこっそり隣の部屋へ退避した。
「早くようなって、学校に出てきてね」
「いっしょにソフトボールしたり、鉄棒やったりしよまい」
「来年は、修学旅行やで」
 木偶坊(でくのぼう)の青木くんを、やさしく励ますみんなの声が聞こえる。襖の陰から覗くと、聞き飽きているにちがいない激励に耳を立てている青木くんの眼の奥に、病人らしい暗い翳りが見えた。まぶたがはれぼったくむくんでいるのが、いっそう顔つきを険しくしている。
「お母さんの言うとおり、カリエスなんて、きちんと寝ていれば治る病気だがね。安岡章太郎っていう小説家も、青木くんと同じ脊椎カリエスやったんやけど、何年か寝ていたら治ってまったんだ」
 しゃべりかけているのは岩間だ。意味のない励ましだ。ふだんから彼は、
「日活というのは、日本活動写真株式会社の略語だが」
 とか、
「後醍醐天皇の孫に当たるのは、××親王」
 とか、
「出光興産と昭和シェル石油は合併するそうや」
 などと、どうでもいいことばかりしゃべる。ただ、野球のセンスは悪くなく、長崎ほどのコントロールはないけれど、地肩が強い。バッティングも阪神の吉田のようにバットを短く持った水平打法で、けっこうするどい当たりを飛ばす。
 五年生になったばかりのころ、一度だけ岩間は私にくっついて新しい飯場に遊びにきたことがあった。彼は食堂にいた母とカズちゃんに丁寧な挨拶をし、あたりをきょろきょろ見回しながら、
「飯場って、ぼくが想像していたのとはちがいますね。なんだかうちの診察室みたいです」
 と、わざわざ標準語で言って微笑んだ。なるほど台所はきれい好きな二人の女に管理されているので、隅々までピカピカだった。カズちゃんが眉をしかめた。
 私は彼に母子の部屋を見せた。
「ぼっこいだろ」
 岩間は敷居に腰を下ろしたまま、薄暗い六畳間を眺め回し、
「いい部屋に住んでるじゃないか。ぼっこいなんて贅沢言っちゃだめだよ」
 と大人っぽい口調でたしなめた。口調は少しさぶちゃんに似ていたけれど、かもし出す温かさと爽やかさのようなものがぜんぜんちがっていた。彼は畳に放り出してあった『週間ベースボール』を手にとって見たけれど、どのページもぺらぺらやるだけで、野球そのものに関心がなさそうだった。母の出した南部煎餅にも手をつけないで、南北朝時代のダイガクジトウとか、ジミョウイントウとか、わけのわからない長話をした。私には、岩間が私の何に興味があって飯場についてきたのかわからなかった。
 彼が帰ったあと、母は、
「頭のよさそうな子だね。さすが、お医者さんの子だ」
 と褒めた。岩間の背後に、医者の息子の肩書が淡い光線のようにまとわりついていたからだろう。
 その岩間が、創刊号から十何冊も揃えた『少年サンデー』を、さも仰々しく青木くんの枕もとに置いた。
「進呈するわ。連載中の『スポーツマン金太郎』はおもしろいで。この神無月くんは金太郎さんて呼ばれとる。金太郎みたいな強打者だで」
 岩間は振り返ったが、私のいないのに気づいてびっくりしたようだった。私は半開きの襖をさらに狭く閉め、そばにあった座布団を二つに折って枕にした。狭い裏庭に植えられた橘の木が、ガラス窓から見えた。枝に藪カラシや葛が絡みつき、すっぱそうな黄色い実をつけている。そんな同情のない様子を、青木くんの母親や仲間に白い目で見られるかもしれないと思った。でも私は、母親にではなく、青木くんに深く同情していたのだった。野球をしない青木くんは、
「ありがとう―」
 と岩間に言ったけれども、興味もない漫画雑誌を押しつけられたせいで戸惑っているようだった。級友たちの話し声を聞くともなしに聞きながら、私はうとうと眠りかけた。


        二十

 額をひやりと手が撫ぜた。目を開けると、鬼頭倫子が枕もとに坐りこんで、じっと私の顔を覗きこんでいる。睫毛の長いきれいな目をしていた。大人らしい唇がぬらぬら濡れている。
 ―けいこちゃんの唇だ。
 なんだかさびしい気持ちになりながら、しばらく見つめ返していると、鬼頭倫子は顔にかかる髪の毛を耳の後ろへかけると、青木くんの蒲団に戻っていった。
 ようやく気分が落ち着いたのだろうか、蒲団の周りの連中に愛想を振舞いはじめた青木くんの横顔が、襖の端からチラッと見えた。白いかじかんだ指を蒲団の襟から出して、ひらひらと動かしている。病気の説明をしているようだ。骨が融けるとかなんとか言っている。青木くんはそんな自虐的な話をしながら、相手の顔をまともに見ないようにし、たまたま視線が合うと、すぐにその眼を逸らした。私は起き上がって、静かに仲間の中へ戻った。加藤雅江の背中に坐り、青木くんの聴き取りにくい声に耳を傾けた。彼の声はとても低く、神経質な顫(ふる)えを帯びていて、語尾があいまいに口の中へ融けてしまう。
「何もかもやる気がなくなってまって。コルセットをつけるのを面倒くさがっとるうちに、どんどんカリエスが進んで、背骨が曲がってまった。死ぬような病気やないけど、このまま寝とって、うまく治っても、もうまともに運動はできんのよ。下半身に少し麻痺がきとるもんで、もう学校にも戻れん。みんながきてくれると、学校を思い出して、ええ気持ちになるけど、なんだか口惜しいんだわ」
 両膝をスカートに隠して横坐りになっていた加藤雅江が、
「あきらめたらあかんやないの。運動なんかべつに楽しいもんやないでしょ。そんなもんできんでも、ちっとも退屈せんわ。健康な肉体に健康な魂が宿るなんて、決めつけすぎやと思う。からだなんか健康でなくても、心はいくらでも健全でおれるんよ。寝転がって本を読んだり、勉強したりしとればええがね。桑子先生が、青木くんはとっても頭のええ子やって言っとったよ」
 私は加藤雅江の言葉に心の底から感心した。青木くんの大人っぽい顔が明るくほころんだ。
「うん。寝たきりでも勉強はできるよ。いまでも少しずつやっとる。ほんとは中学二年生だで、そういう勉強をしとる。お父さんも教えてくれるし……。でも小学校を卒業しとらんから、正式に中学生になれるのはずっと先の話やけど」
 うっすらとヒゲの生えた大きい顔に、女みたいな柔らかい表情が現れた。
「やっぱり、がんばっとるやないの。口惜しいなんて言ったらあかんよ」
 微笑を浮かべた青木くんの母親の目に、うっすらと涙が浮かんでいる。私はその涙を見て、隣の部屋に引っこんでいて悪いことをしたなと思った。青木くんは屍のように身動きもせず、加藤雅江の肩越しにその聡明そうな生きいきした眼を私に投げた。私はうなずき、
「ごめんね。みんなで励まされるのがかえって辛いんじゃないかと思って、ぼく、隣の部屋へ退避しちゃったんだ。……ぼくは野球をしていないと死んじゃうけど、青木くんは勉強しないと死んじゃうよ」
 私は心のままに言った。青木くんは喉の奥から低い声を出して笑った。守随くんが振り返り、いつもよりきらきらした目で私を見つめた。
「そろそろ、失礼しよまい」
 岩間の言葉でみんな腰を上げた。玄関まで母親が送って出て、深々とお辞儀をした。
「どうお礼を言ってええやら。きょうはわざわざ見舞いにきてくれて、ほんとにありがとうございました。あの子の笑った顔を久しぶりに見ました。これからもどうかときどき会いにきてやってください」
 帰り道、しばらくみんな無言で歩いた。傾きかけた夕日が、五人の影を長く曳いている。
「安岡章太郎は治ったんやけど、ヘチマの正岡子規は死んでまった。青木くんはだいぶ病気が進行してるようやね。回復は難しいんやないの」
 岩間が秘密めかしたように言った。たちまち頭が沸騰した。
「さっき言ったこととちがうじゃないか! 青木くんは、ぜったい死なないよ」
「初期ならストレプトマイシンも効くんやけど、あそこまでくると怪しいで」
「何が怪しいんだ。死ぬなら死んだっていいさ。そんなの青木くんには大したことじゃない。好きな勉強をしながら死んでいくんだから」
 歯ぎしりする思いだった。また守随くんの眼が光った。
「ぼくもそう思う」
「へえ! 命あっての物種だが。死んだら元も子もないやろ。じゃ、ぼく、こっちだから」
 岩間は話を途中にして、手を振りながら去っていった。
「えらそうに、ぺらぺらと。青木くんの前ではいい顔してたのに。何が本気かわかりゃしない。同じ野球部員として恥ずかしいよ」
「ね、神無月くん、毎週、ぼくといっしょに勉強せん?」
 守随くんが小さい声で言った。私は思わずビクッとし、鬼頭倫子がリボンを揺らして歩く後姿を眺めながら、何の考えもなく、うん、と答えた。秀才の誉れ高い守随くんが、自分みたいな野球しかできないスポーツ少年を勉強に誘ってくれたのがうれしかった。鬼頭倫子が振り向いて笑った。
「そうしなさいよ」
「いいなあ、私が教えてもらいたいくらいやわ」
 加藤雅江が言う。
「水曜日の夜、いっしょに算数をやろまい。その曜日だけ塾がないんだ。夕方からきなよ」
「算数、苦手なんだ。できるようになるかなあ」
「なるわよ。守随くんに教えてもらえば安心やわ。神無月くんはきっと、勉強の素質があると思う。あんなに国語ができるんやもの」
 鬼頭倫子が言った。私の額を撫ぜたときとはすっかり別人みたいな、子供っぽい表情になっている。
「国語と算数はちがうよ」
「同じだってお父さんが言っとったわ。どちらも理屈なんだって」
 私は照れて鼻の脇の傷をこすった。いつもそこに手がいってしまう。加藤雅江が、傷ではなくその指をじっと見ていたので、とっさに尻の後ろに隠した。野球のせいで最近とみに節くれだってきた指は、ぜったい人に見せたくないものだった。
「桑子先生が言っとった。神無月くんは転校に時間がかかったせいで進度が狂ってまって、もとの成績に戻れんでいるって。助けてやれって」
「もとの成績って、横浜の?」
「そう」
「もともと大したことなかったよ。何かのまちがいだね」
 まじめそうな表情からすると、守随くんは気まぐれで誘っているのではなさそうだった。たしかに、彼に勉強を教えてもらえば、ぐんぐん上達するかもしれない。そうして教えられたとおりちゃんと勉強をつづけていけば、ひょっとしたら、野球しかできないウスラ馬鹿から脱することができるかもしれない。
「勉強というより、ぼくは神無月くんを気に入ったんよ。遊びにくるつもりでええよ。ただし、遊びにきたら勉強するしかないけど。ぼくの取り柄はそれしかないで」
 私はなぜか勇み立つような喜びを覚えた。
「うん、いくよ」
「鬼頭さんもいきたいんやない?」
 加藤雅江が尋いた。
「私はいい。ピアノやバレーのお稽古事をせんといかんのよ。それに、神無月くんといっしょに勉強したら、すぐに追い抜かれて、アベコベに教えてもらうことになりそうやわ。それって、シャクでしょ」
 いつも口数の少ない二人の秀才が、きょうにかぎって明るく饒舌なのを見て、私は自分まで秀才になったような、愉快な気持ちでいっぱいになった。もうだれも青木くんのことは言い出さなかった。
「学校で一番の守随くんって子が、いっしょに勉強しようって。算数を教えてくれるんだって」
 飯場に帰って母に言うと、彼女はとてもうれしそうな顔をして、
「よかったじゃないの。人間というのは、出会う人によって人生がガラッと変わるからね」
 と言った。
 母には青木くんのことを話さなかった。どうせ、キンタマのときと同じように、かわいそうに、で終わってしまうだろう。私はひとりで、青木くんの人生というものを考えてみたかった。
 寝たきりの人生。そんな人生に幸福はあるのだろうか。何かの成果を目撃できないところに、幸福はない。まずあのからだにスポーツの成果はない。もし彼の好きなことがスポーツだとしたらなんと悲惨なことだろう! それなら、食べること? 眠ること? 排泄すること? その成果は健康なからだになることだ。たぶんその成果も期待できない。彼の好きなことは勉強だけだ。その成果なら、一生寝たきりだとしても、命があるかぎり手に入れることができる。
 私が青木くんの人生を背負ってしまったら、ためらうことなく自殺するだろう。そんな人間が、青木くんにたとえひとことでも言うべきことがあったろうか。何も言うべきではなかった。たとえ、からだに不足のある加藤雅江でも、何も言うべきではなかった。岩間など問題外だ。おためごかしの建設的な意見がいちばんの罪なのだ。
「愛してる、いっしょに死のう」
 それがたった一つの正解だ。そんなことを言えるのは、青木くんの両親しかいない。きょうかぎり、彼のことは忘れよう。私は彼といっしょに死ねない。


(次へ)