五十八

 法子を除いた女たちと山口が待っていた。
「お帰りなさあい!」
「遅かったな。待ちくたびれたぞ」
「残念会をやったんだ。マスコミを締め出してね。野球部以外の大学関係者が一人もこなかったのには驚いた」
「学内の混乱で忙しいんだろうが、ちょっとつれないな。東大の教授たちは野球部をギリシャと考えてるやつが多い」
「ギリシャ?」
「ああ。弱小国だけど、知の象徴として集団の統一にシマリを与えるという理屈だ。東大が加盟している重み、東大なくして六大学なし。知以外で目立っても祝福する気にならないんだろう。優勝となるとさすがに別だろうがな。そのむかし東大のリーグ加盟にあたり、長与又郎野球部長が、かならず一度は優勝するように、どんなに苦しくともみずから脱退することのないように、と言った。脱退どころか、優勝が夢でなくなった」
 吉永先生が、
「鬼のような博識ですね」
 カズちゃんが、
「月曜の前にリーグ戦が終わっちゃってあわてたわ。急いで食卓を用意したんだけど、待ちくたびれてもう私たち食事終わっちゃった」
「こちらも会合で食ってきた。カズちゃん、ユニフォーム二組。洗濯よろしく」
 ダッフルごと投げ出す。引っ張り出し、みんなで汗のにおいを嗅いでいる。
「大事なものだから、つけ洗いしてからクリーニングに出すわ」
 節子がコーヒーをいれる。深煎りのいいにおいが立ち昇る。
「六月一日からの新人戦まで三週間。しばらくゆっくりできる」
「お疲れさん。じつはな、きょうみんなで球場にいってたんだ。おまえに見つからないように、センターのスコアボードの脇にいた」
「へえ!」
 吉永先生が、
「センターに真っすぐホームランが飛んできたときは、みんなであわてちゃった」
「私たちのこと見えてるんやないのって」
 素子がけらけら笑う。
「神無月は、さも手でそこにボールを持っていくみたいに、思うところにボールを運べるからな」
「それは無理だ。せいぜい方向だけだね」
 山口はブレザーのポケットから硬球を取り出し、
「ほら、このボール、屈強の男どもと奪い合って手に入れた宝物だ」
「おまえがいちばん屈強だろ」
「サイン、サイン」
 素子がマジックペンを差し出した。久遠の友・山口へ・神無月郷、と書いた。
「しかし、十試合で二十五本、三冠王か。漫画みたいな記録だな。エベレストどころでないぜ。敬遠されてなかったらどうなったんだ? 田淵も気の毒だ。四年間で二十本以上もホームランを打って、記録にならなかったんだからな」
「秋の目標は、シングルヒットと盗塁だ。塁間の足は速いから」
「へんな目標を掲げやがる。別にいまのままでいいだろ」
 節子が、
「法子さん、店員の手が足りないんで、日曜出勤になっちゃったんですって。火曜日にお休みを取ったらしいわ」
「そう。肝心なときだからね。文江さんはどうしてる。元気?」
「十カ月検診で異常なしと出たって言ってました」
「よかったね!」
 吉永先生が、
「ほんとに。私も高知のおねえさんがそんなことになったら、途方に暮れてしまうわ」
「二年間は油断できないんです。書道教室はお弟子さんが五十人を超えて、師範をもう一人雇ったみたいです。何もかも和子さんのおかげです」
「文江さんの生命力よ。キョウちゃんを想う力」
 山口が、
「直人は、そろそろ十カ月か」
「おとうさんとおかあさんが手離さないみたい。トモヨさんは、女子寮の賄いを手伝ってるんですって。ときどきおトキさんといっしょに、トルコの受付の手伝いもするらしいわ」
 節子が、
「みんな、しっかりやってるんですね。キクちゃんもたいへんでしょう。お仕事慣れた?」
「まだまだです。老人を相手にすることが多いから、かわいそうなことばかりで、気持ちが滅入ります。来年、正看の資格を取ったら、介護福祉士の資格にも挑戦しようと思って」
 カズちゃんは首を振り振り、
「えらいわねえ、キクエさんは。金儲け一筋のうちのおとうさんとはぜんぜんちがう」
 山口が感慨深げに、
「あの古風な館はもうないわけか」
「そっくり同じものを少し大きくして建てたみたい。小さくするなんて言ってたのにね。おとうさんおかあさんが暮らす離れは、少しこじんまりしたものにしたみたいだけど、居間と客間と、三つの座敷は広くなって、ステージも立派なものをこしらえたって言ってた。ステージ部屋の前に十畳一間を作って、キョウちゃんがゴロリとなれる部屋にしたって。演奏や踊りがあるときは桟敷になるようにって。トモヨさん母子の離れは別ごしらえで、一戸建ての立派なものにするんですって。みんなで夏にいくのが楽しみ。あなたたちお盆休みは取れるの? 直ちゃんの誕生日の八月十五日。その前後の五日間を予定してるんだけど。十五日が木曜日よ」
「ぼくは九月の十四日から秋季リーグだから、たっぷり取れる」
 全員問題ないと答える。
「その前に、野辺地に帰ってくるかな」
「横山さんといったらどうだ。言っとこうか?」
「そうだな。でもまだいいよ。八月の末にいくことにする」
「それより、土日かけて温泉にでもいかないか。横山さんもいっしょにさ。もちろん割り勘で」
「いいわね!」
「費用はぼくが出すよ。ようやく金が使える。今週の東大の無料バス旅行はいこうと思ってるから、温泉は来週の土日だな。二十五、二十六日」
「東大恒例、政府後援バス旅行か。俺もいくつもりだが、あんなものいってもなあ」
 素子が、
「あんなものって、いったこともあれせんのに」
「たしかにそうなんだが、予測はつくよな。しかし、もう一回だけ、とどめの親睦ってやつかな」
 カズちゃんが、
「そうよ、観察していらっしゃい。何があるかわからないわよ」
「うーん、学部で旅先がちがうんだよ。神無月といっしょじゃなきゃ、おもしろくもなんともないけどな。とにかく来週の土日、計画立てといてよ」
「東京近辺といったら、箱根か伊豆よね。知らないところだわ。フジのマスターかシンちゃんに聞いとく。素ちゃんもよろしく」
「うん、ポートのママさんに聞いといたげる」
「こういうときに免許が役立つわね。取っておいてよかった。バンでいきましょ。そろそろ車を買おうかなって思ってたところだったの。クーペを買わなくてよかった」
「買うなら、フォードアのセダンにしたほうがいいよ。今回はレンタルでいこう。トヨタハイエースだな。九人乗り」
「そうね。ほんとに山口さんて何でも知ってる。節子さん、いける?」
「はい、土日がお休みですから」
「キクエさんは?」
「だいじょうぶです。二週間前だから、お休み申請できます」
「よし、全員オッケー。法子さんには私から伝えとく」
 コーヒーを飲み干し、山口と女二人、ぞろぞろ玄関から帰っていく。道まで送り出して手を振る。
 台所に戻った素子がさびしがって、
「月末まで、仕事と勉強。キョウちゃんは?」
「自主トレ、エトセトラ」
 カズちゃんはコーヒーカップを片づけながら、
「きょうはお風呂に入って、寝てしまいなさい。お昼まで寝てればいいわ。私たちは八時には出勤するから、朝食にサンドイッチ作っておくわね」
         †
 五月二十日月曜日。十時起床。よく寝た。小雨。きょうの東大球場は休みと決め、合羽を着てランニングに出発。宝橋から高南通りへ出て、南下。杉並八小入口、五日市街道入口、都道7号の交差点。信号を渡り、左折して、住宅の建てこんだ細道を直進。杉並湯。こんなところに銭湯がある。天然地下水で沸かした湯か。天徳泉と同じ井戸水のことだろう。汗拭きのタオルも持ってきたし、帰りに寄ってみよう。
 墓の群れにぶつかる。西方寺。南下に方向を定めて曲がる。きょうも迷ったかな。突き当たっては曲がる。左に妙祝寺、右に修行寺に挟まれた道に出る。延々とつづく寺の塀に沿って直進。
 厄除け祖師堀ノ内妙法寺。日蓮宗と書いてある。雨に濡れた瓦屋根や木々のたたずまいが気に入り、阿吽の金剛力士像に挟まれた仁王門を入る。広大な境内。正面に松の木に囲まれた祖師堂。遠くから見ても大きいが近くで見るとすごい迫力だ。老人が散歩している。鐘楼を見上げる。これほど間近でまじまじと鐘を見たのは初めてだ。鉄門があった。祖師堂を左に奥へ進んでいく。吉野桜の木。庭園のように手入れの行き届いた場所に出た。本堂。僧侶が数人で経を唱えている。三軌堂と右から書いた漢字が読みづらい。祖師堂と三軌堂をつないでいる廊下のツヤがすばらしい。祖師堂の真裏に六重の石塔がある。湧き水を竹筒の穴から垂らした手水舎。日朝堂。学問と眼病の守護と書いてある。三十三夜堂。堂の前に願い事を書き留めるノートが置いてある。寺院にくるといつも願いごとがないので困る。衣食住、野球、支持者たち。日々感謝しているので願いごとがない。歩いて回っただけで気分がよくなり、ふたたび道路へ出て復路のランニングにかかる。
 杉並湯に寄る。脱衣場。壁に貼紙がしてある。天然地下水を使用していますのでお肌にやさしく湯冷めしにくいお湯です。ほかにもいろいろ書いてある。水深一メートルの深風呂は水圧がしっかりかかるため血行促進に有効で、むくみや冷え性の解消にお勧めです。入浴料金も掲げてある。ここも富士と松原の壁画だった。カランが八つ、湯殿は四角い白タイル。浴槽は小ぶり。どこもかしこも清潔のきわみ。
         †
 サンドイッチを齧りながら、カズちゃんの書棚から引き出したヴィヨン詩集を読みさしたあと、一つ、二つ、詩稿の整理をした。昼を回らないうちに上板橋へ出かけていく。雨が止んでいる。
 慣れというのは恐ろしい。これほどの出会いのドラマがあって、たがいに引き合って身近に暮らしているにも関わらず、得体の知れない倦怠のせいで、愛しい者へ勇んで向かおうとする気持ちが疎かになる。飽きたわけではないし、野球の疲労のせいでもない。それどころか愛しさは日々募っていくのに、億劫な気持ちが先に立つ。きのうライムグリーンのワンピースを着ていた節子に対してもそうだ。息せき切って牛巻坂を上り下りしたあの半年間は、いったい何だったのだろう。あのころよりあわただしく動き回っているのに、あのエネルギーはすでにない。きのうの食卓のキクエの言葉を思い出す。
「仕事がまじめだって、婦長さんに気に入られちゃって。みんなやりたがらない老人看護を任されてるの。やりがいが出てきたわ」
 八坂荘―ふるえていた赤いゼリー。吉永先生は、あのゼリーのように繊細に戦く愛情を東京でもひそかに育んでいる。
 長い商店街を通り抜け、信号を一つ渡り、川越街道を目の前にして、軒の途絶えた道へ右折する。かなり歩く。民家のあいだに切られた細い階段を上り、立木に囲まれた空間に出る。空色の小屋のドアを開け、昨夜高円寺から帰ったばかりの吉永先生に呼びかける。
「あら、きてくれたんですね!」
「昼めしは、特上鮨を食べよう」
「わあ、うれしい! その前に一度―」
「もちろん」
 先生は乾燥して清潔な蒲団を楽しげに敷いた。熟睡したせいで生きいきと性欲が快復してきたばかりだったので、義務感のない快適なセックスになった。
 蒲団から出て服をつけた吉永先生の丸い小柄なからだは、心なしか痩せて、頬も少しこけていた。
「痩せたね」
「このところ徹夜が多いの。お年寄りはいつ具合が悪くなるかわからないから、ほんとにたいへん。そうなると、たいてい夜が明ける前に死んでしまうの。何度経験しても慣れない。ヘルパーの認定を受ければいまよりは重宝してもらえるわ」
「正看のあとはヘルパーか。気が遠くなる」
「少し講習を受ければだれでも認定される資格よ。仕事の内容は看護婦とあまり変わらないの」
 先生は別段気張ることもなく、一つ一つ着実に計画を成し遂げていく。前進する気構えに飾り気がない。
「えらいなあ、先生は。実り豊かな単調さ―そのことがよくわかってるんだね。ものごとを完成させるのは、それしかないもの」
「そんな理屈、私にはわからない。褒められるとくすぐったい」
「感動してるんだ。一生懸命生きてる人間には、どうしても感動してしまう」
「キョウちゃんの心の動き方って、よくわかる。だから、私も一生懸命やってるだけ。キョウちゃんの前にいると格好つける必要がないから安心するの。もう半年経験を積めば正看の受験資格がとれるわ。そしたら、もっと幅広く動き回れるし、お手伝いしてあげられる人も多くなる」
「すごい情熱だ。ほんとうに頭が下がる」


         五十九

 吉永先生はゆっくりと目を上げて私を見た。
「だれも、キョウちゃんの情熱にはかなわないわ。何人の人を支えてると思ってるの。自分の道にレールを敷かないなんて、とんでもない情熱よ。たいていの人は、自分かわいさからレールに乗っかってしまう。せいぜいみんなで力を合わせて、そこまでしてくれるキョウちゃんの人生をずたずたにしないようにがんばらなくちゃ」
 いつのころからか、私は、生来的な倦怠と情熱とを取りちがえられるようになってしまっている。そのせいで、周囲の人たちの期待を欺かないように、情熱家を装わなければならないことが多くなった。いまでは私はこの欺瞞をあえて正そうと思わないし、その必要を認めない。むろん、私に吉永先生のような情熱は備わっていない。情熱? 上昇しようとする情熱や、争おうとする情熱や、愛されようとする情熱は、野球に打ちこんでいるときでさえ、私の血液の中を循(めぐ)ったことはない。上昇など考えずに、ただ鍛錬することが楽しく、仕掛けられないかぎり争おうという気にもならず、愛したいばかりで愛されようという気にもならない。
 面倒を避けたいという欲望を除けば、私は幼いころから無欲な人間だった。じっと観察していることだけを好む人間だった。その性向を守るためには、どんな欺瞞にも甘んじられる。それは私の人生で最大の欺瞞だけれども、痼疾である倦怠に蹂躙されて無力な生活を送らないためには、誤解されることをバネにして生きるのは仕方のないことだ。
「きょうは遅番?」
「そう、四時半から深夜の一時まで」
「鰻を食べにいこう」
「はい! そのあとで阿佐ヶ谷のお家を見たいんですけど」
「いいよ。いま一時半か。阿佐ヶ谷駅を往復する時間を入れると、上板橋に帰るまで二時間かかるよ」
「だいじょうぶです。鰻はやめて、立ち食いそばにしましょう」
         †
 阿佐ヶ谷駅の天ぷらうどんを食い、ありん堂の細道のほうをたどった。先生の内股の足先がいつもよりリズミカルに弾む。灰色のローヒールが地面を打つ音からうれしさが伝わってくる。きょうまで先生の足もとをじっくり見たことがなかった。思い起こすと、女たちの中で、内股で歩くのは先生と文江さんしかいない。着物の似合うトモヨさんでさえ外股だ。私は節子のような外股で足先を撥ねる歩き方に魅かれるけれども、内股もかわいらしいと思い直す。鉄格子の門扉に立った。
「わあ、古い!」
「上がって、中を見て」
 お婆さん二人が出てきて、胡散くさそうに先生を見た。いったい何人女がくるのかという顔だ。私は明るく、
「上板橋の従姉です。部屋を見にきただけです。すぐ帰りますから、お茶はけっこうです」
 いったい親戚が何人いるのかという顔だ。キクエは机と万年蒲団とステレオを見ると、安心したふうに微笑み、窓を開けて、
「庭がきれい」
 と言った。
「地面のピンクはサツキ、立ち木のピンクはトキワマンサク。キクエが大好きなピンクまみれ」
「小さいころの毛糸のパンツもピンクだったの。さ、帰ろっと。キョウちゃんは机に向かってくださいね。野球ばかりの毎日になるんだから、机に向かう時間は貴重よ」
 阿佐ヶ谷駅で吉永先生と別れたあと、高円寺に戻った。カズちゃんたちが帰るまでのあいだに、ヴィヨン詩集『遺言の書』を読み終える。
 老女の繰言という詩に肌が泡立った。女にとって死よりも恐ろしい、肉体の老いの絶望を感じたからだ。

 もうだれもかまっちゃくれない……
 哀れに干からびて醜い私……
 ふくよかな股の奥の林にはかわいらしい庭があった……
 おっぱいときては形もなし……
 股の奥の花びらはどう……
 がりがりに干からびてサラミのよう……
 焚き火の傍らにしゃがみこんで綿屑のように思い出を投げこんでは……
 燃え上がり灰となる……


 カズちゃんと素子が帰ってきた。
「法子さん、電話入ったって」
「定休日は火曜日やてゆうとったよ」
「あしただね。いってやらないと」
 二人にヴィヨンの詩を見せた。二人ともニッコリ笑った。
「大問題かも」
「大問題やわ」
「使わないと枯れるのよ」
 法子に電話した。山口を連れていくと告げた。
「太宰治の墓がある禅林寺へいってみたくてね」
「すてき! 太宰治はもうだいぶ読んだわ」
「昼前に迎えにいく」
「はい」
 山口に電話すると、母親が出て、
「準優勝、おめでとうございます。神無月さんが勲の友人だということで、信じられない気持ちでおります。今後ともよろしくお願いいたします。いつかうちにも遊びにいらしてね―」
「は、いずれ」
 電話をひったくる気配がして、
「暇がない人間に何を言ってるんだ。で、きょうは何だ」
「あした法子といっしょに禅林寺まで歩く。付き合ってくれないか」
「いいな。じつは俺も禅林寺は一度もいったことがないんだ」
「武蔵境改札、十一時」
「オッケー」
         †
 五月二十一日火曜日。晴。パチンコ赤玉の前からエトアール通りを東へランニング。エトアール劇場、ムービー山小屋。エトアールは東映系で、極道物や漫画まつりをよくやっている。山小屋は日替わり東宝系の映画館。怪獣物やクレージー物。どちらも二番館のようだ。
 直進五、六百メートルで菊華学園。校庭に群れる生徒の様子からすると女子高のようだ。ここの高校の看板は電車の窓からよく見かける。校舎の外塀沿いに一周する。バカでかい高校だ。三種の神器の場所はない。
 馬橋稲荷という神社があったので赤鳥居をくぐって入りこむ。小さい。涼しい参道を通って別の赤鳥居から出る。また迷いそうだ。杉並第六小学校。細道を駅の方向へたどってひた走る。とつぜん善夫の床屋の通りに出た。安心して歩きだす。
 シャワーを浴び、長袖のワイシャツに着替える。長歩きになるだろう。靴ずれに備えて下駄を履く。
 武蔵境駅前で山口と待ち合わせ。山口は革靴。みつい庵で、私は力うどん、山口はもりそばとカツ丼を食った。
「ここが彼女の勤め先だ」
「さっぱりした感じの店だ。働きやすそうだな。角の一等地で、客も多いし」
 蕎麦屋を出て、民家と空地と林の入り雑じった閑雅な景色を眺めながら、樹海荘まで歩いた。
「武蔵野か―東京の風景とは思えないね。じつにいい」
「都心はどこもかしこも人間のネグラがびっしり建てこんでいるからな。三鷹からこっちは別世界だ」
 法子は庭で蒲団を叩いていた。ジーパンにTシャツ姿だ。物干しの脇に、岡持ちをつけたピカピカのバイクが置いてあった。山口はニヤつきながら頭を下げた。
「いらっしゃい、天才ご両人。原付バイクの免許取っちゃった。店にも出前用のが一台あるんだけど、二台あったほうがたくさん捌けるでしょ。お客さんだいぶ増えたって、ご主人に喜ばれた」
「阿佐ヶ谷や高円寺にくるときは、電車できてよ。事故が心配だから」
「心配性なんだから。でもありがとう」
 いずれ夜の仕事に鞍替えして、お金を貯めて、ノラふうの小さなお店を一軒持ちたいと山口に言う。
「神無月のためだろ?」
「そう。神無月くんを左ウチワで暮らさせてあげるの」
 山口は笑ってうなずいた。
「じゃ、三鷹にいこうか」
「太宰治のお墓なんて、ドキドキする」
「小さい墓だそうだ。俺も楽しみだ」
「こんな近くに住んでるのに、不勉強だな。青高の先輩だと言って太宰を教えたのはおまえだぞ。髄膜炎、覚えてるだろ」
 山口はカラカラ笑った。
「ちょっとお部屋に寄って」
「コーヒーなんか、外で飲もうや」
「そうじゃないの。とにかく上がって」
 みごとに部屋が片づいていた。台所が整い、水屋、和箪笥、洋ダンス、大型の白黒テレビ、鏡台、炬燵、石油ストーブ、机、書棚、大テーブル、ファンシーケース、まるで女学生の勉強部屋だ。調度が多い割には広々とした配置にしてある。整頓名人なのかもしれない。洋ダンスを覗きこんでいる。
「吉祥寺の丸井でブレザー買っといたの。目見当でウェストと股下はちゃんと誂えてもらったから、ピッタリだと思う。そういうことは、私、目利きだから。ズボンも同じ色にしたわ。これ着ていきましょ。さ、脱いで」
「新品のブレザーに下駄じゃね」
「靴も買っといたわ。茶色のローファ。二十七・五センチよね」
「うん。この一年で五ミリ大きくなった。馬鹿の大足」
「ウェスト、股下、足の大きさ? まるで母親だな。いや、母親でもそこまでは知らないだろ」
 あぐらをかいた山口が見上げるなかで、ライトブルーのブレザーに着替えた。東大野球部のカラーだ。生地は柔らかいベルベットだった。
「ね、ほとんどユニフォームと同じ色でしょ? やっぱり似合うわあ。私、センスいい」
「いやあ、神無月は何を着ても似合うな。ふつうそんな上下を着たら、ピエロだぜ」
 山口が私の尻をこぶしで突いた。結局、その上下に下駄を履いて出た。
「靴はいずれ遊びにきたときに、デートにでも履いていくよ。裕次郎じゃあるまいし、ローファはちょっと」
「裕次郎よりも似合うのに」
 一駅戻り、三鷹駅の南口を出て、繁華な商店街を歩く。商店街を抜けてからは、信号のない細い道をひたすら真っすぐ歩いた。途中、下連雀の家並を過ぎた。電信柱の住所標示を見ながら、
「この地名、太宰の小説で読んだ覚えがある」
「ここらへんに太宰は暮らしてたようだ」
 法子が、
「走れメロスって、なんだかつまらない」
 山口はにっこりして、
「日本のドストエフスキーにも駄作はある。斜陽やヴィヨンの妻も駄作だ」
 法子は目を細めてあたりの緑を眺めた。かすかに風がある。遠い時代。流行に惑わされずに文章のことだけ考えて生きた男の息吹が頬をかすめる。
 路傍や民家の庭の新緑を眺めながら、駅から二キロほど歩いて禅林寺に到着した。大通りから引っこんだ寺門までのあいだに、墓碑を彫る原石が乱雑に積まれていて、石工の鑿(のみ)の音が聞こえた。真っ白い寺だ。門の形が風変わりで、浦島太郎の竜宮城に似ている。門の前の戒壇石に『不許葷酒入山門』と刻んである。
「なんて読むの?」
 法子が尋くので、
「くんしゅ、さんもんにいるを、ゆるさず。酒気を帯びてこの寺に入っちゃいけないってことじゃないか」
 私が答えると、
「神無月が言うのは、微醺(びくん)を帯びる、の醺だろ。この葷という字は、肉、魚、ニラ、ニンニク、アルコールのことだぜ。不浄の者や心乱れた者は入っちゃいけないという意味だ。禅寺の人間無視のスローガンだよ」
 と山口が訂正した。


         六十

「山口さんて、ほんとに何でもよく知ってるのね」
「みんなそう言うが、神無月と比べてしまうからだ。神無月よりものを知らない人間はめったにいない。しかし、神無月ほどものを考える人間もめったにいない。知識はないが、驚くほどの知恵がある。つまり、どんな雑知識でも神無月には思考のじゃまだということさ。聡明な人間に、知識人はいないよ」
 法子は首をひねり、
「ということは、ものが考えられるというのは、知識をもとにするんじゃなくて……」
「言葉だよ。知恵の権化。豊かな言葉で、論理を組み立てるんだ。独創ということかな。粒よりの人間だけの特技だ」
 法子はよくわからないがうれしいという表情で、
「神無月くんはすごいってことでしょ」
 と決めつける。山口は、そうだ、と応えて愉快そうに高笑いする。 
「気にしないほうがいいよ。山口はぼくを褒めたいだけだから。ぼくの教養のなさを傷つけないように、ほかのもので相殺しようって気を使ってるんだよ。……不浄の者、か。真っ先にぼくが引っかかる」
 私が言うと、法子は恥ずかしそうに、
「このところ、だいぶ〈不浄〉からごぶさたよ」
 と言って私の手を揺すった。
「おいおい、そういうのを乱心者と言うんだ」
 と山口は言って、自分も恥ずかしそうに笑った。
「……俺もかなりごぶさただ」
「へえ!」
「神無月みたいに向こうから寄ってこないからな。こっちから寄っていく元気は、もともと神無月以上にない」
「精液を腹に溜めこんでるなんて、まさに不浄だ。門の外で告解(こっかい)してから入れ」
「たまには処理はしてるぞ。玄人女でな。おトキさんに逢うまでは仕方ない。手紙で許可を取ろうと思った翌日に、おトキさんから、『性欲はときどき発散させなければいけません。ちっとも不潔なことじゃないんです』と計ったような手紙がきた」
「カズちゃんと同じことを言う」
 森林太郎と刻まれた大きな墓の斜向かいに、ひっそりと小柄な墓がたたずんでいた。
「……質素だね」
「鴎外の墓が無意味にでかいから、つい比べちまうんだろう」
「一般の墓よりもずっと小さいぞ」
「だな。武士の墓は小さい。帯刀を許されていた大地主だから、武士のようなもんだ」
「森鴎外の墓の前に建ててくれというのは、太宰の生前の希望だったらしいね」
「ああ。墓碑の字は隷書(れいしょ)体といって、中村不折の手だ」
「だれ、フセツって」
 法子の眼差しに山口に対する尊敬の念がこもっている。
「洋画家で書道家。もう四半世紀も前に死んだ。後漢が滅んでから隋が統一するまでのあいだを六朝というんだが、その時代の書を研究して、書道博物館まで建てた人物だ」
 法子はそれ以上何も尋こうとしなかった。後漢も六朝も知らないので、聞いてもわからない。私も五十歩百歩だ。
 墓前の花受けに新しい菊が活けてあった。山口はゴールデンバットにマッチで火を点けて、墓前に供えた。私は彼から一本もらって、一服深く吸った。くらくらした。すぐ消した。
「これを吸うのはすごい体力だな」
「吸ってないよ。このために買った」
「墓が黒すぎないか」
「拓本を取りにくる連中のせいだ。魚拓みたいにな」
 法子が手を合わせて目をつぶった。むかし、彼の小説に慄えたことを思い出した。この男はぼくだとまで思った。黄金風景、きりぎりす。その二つを傑作と思い定めた。あれから彼の本を一度も開いていない。トカゲが墓の前を横切った。きらきら虹色に光った。山口が、
「神代(じんだい)植物公園へ回って、バラでも見るか」
「そんなものがあるのか」
「まだいったことがない。庭園すべてがバラだという話だ」
 彼は石屋の前でタクシーに手を上げた。十分もしないうちに植物園に着いた。入場料を払って園内に入る。一面に拡がる鮮やかな色彩の群れに目を射られた。
「わー、きれい!」
 法子の声に、私たちも思わず大きくうなずいた。
「壮観だな、ぜんぶバラというのは」
「自然の色って、迫力がちがうね」
 しかし三人とも色彩だけの平坦な美にすぐ飽きて、あてもなくひたすら園内をうろつきはじめた。法子が寄り添ってくる。
「法子さん、あんたもそうだけど、神無月の女たちはすごいね。神無月といっしょにいても、だれ一人、ツヤっぽい言葉をかけないし、ツヤっぽい視線も流さない。神無月に愛さてれることをみんなが知ってるからだね。神無月を中心にしてるんじゃなくて、みんなで互いに並び合って、まるで地面の下で根を交え、地面の上で枝を交え、空中でにおいを交えている樹林みたいだ。ハーレムじゃない。群体だ。男の樹が何本か混じっていても違和感がない」
「大発見ね。言われるまで気づかなかった」
「山口ならではの明解な表現だ。深く愛し合ってるから、適度の無関心があるということだね。ここは退屈だ。出ようか」
「出よう。この先の蕎麦屋が有名らしいが、蕎麦は法子さんの店で食ったから、俺はもういいや。茶店でかき氷でもすすって、タクシーで戻ろう。法子さん、いい店があったらよろしく」
「日本料理も食べさせる老舗が南口にあるから、そこへいきましょ。旬の焼き魚がおいしいわよ。カキ氷は遠慮するわ」
「まだ季節でもないしな。じゃ、すぐそこへいこう」
 深大寺の門前市で鉢植えを売っていた。法子はそこでオジギソウを買った。この花は牛巻病院の受付で見たことがある。あれからたった四年しか経っていないことに驚く。胸の中に透明な悲しみが沁みわたる。タクシーを拾い、三鷹駅へ戻る。
 柏やという店で鯛尽くしコースを食べた。親子煮と桜揚げというのがうまかった。
「おトキさんをしょっちゅう思い出すんだ。女を好きになって、神無月の詩がいまさらのように胸に響くようになった。目の表面からだけ出ていた涙が、脳味噌の奥から湧いてくるようになった」
「藪から棒だな」
「これを言うとおまえは嫌うが―天才だ」
「そう言ってもらえるのはありがたいけど、ぼくが天才だとして、それがぼくの生活にどう具体的に影響してくるんだろう?」
「言いたいことはわかる。苛立ちもな。とにかく書き溜めてくれ。そう言うことしかできない。俺にも何の展望もないんだ」
「苛立ってないよ。ぼくにも展望なんてものはないし。……プロ野球選手になりたいというなつかしい希望も、希望の境界線を越えて現実になりつつある」
「おまえの作品が世に出るときは、なるべくおまえが死んでいてくれたほうがいい。生きてると、おまえは出版のじゃまをするかもしれないからな」
「出版? 原稿の回し読みでじゅうぶんだろ」
「ほら、そうくるだろ。じゅうぶんじゃないんだ。俺たちにおまえの才能を子飼いにする権利はない。死んでてくれたほうがいい」
「そんな不吉な冗談、やめてよ」
「もちろん、冗談だ」
「―友というのはありがたいものだね」
「ほんと! 男っていいなあ。毎日がロマンチックで」
「男、じゃなくて、神無月は、だ。いつまでもいっしょにいればいい。こいつはあんたを飽きさせないよ。苦しめるかもしれないけど―。女に囲まれてることを言ってるんじゃないぞ。神無月は、何者かになることを人生の価値と思っていないし、そのための努力もしないという意味でね。だから、応援し甲斐がなくて、はたの者は苦しむかもしれないということだ。でも、神無月が生きてるだけでうれしいだろ。それがこいつの存在価値だ」
 法子は私の顔を見ながらうなずき、
「……主人公でいたがらないっていうか、謙虚すぎるっていうか、かわいそうで、かわいそうで、仕方ないの。何にでもなれる人なのに」
「野球選手じゃ不満?」
 私が言うと、
「でも、心からなりたがってないじゃない。見てればわかるわ」
 まだこんなことを言われながら生きている。きっとそう見えるのだ。私は喉から手が出るほど野球選手になりたがっているのに―。野球意外に私にまだ何かがあると思っている希望にあふれた人びと、過剰な能力に未来を託す人びととの行進。彼らに励まされるたびに、いっしょに歩んでいる列の中から眺める景色がすべて、はっきりしない成果に連なる物さびしい書割に見えてくる。この景色一つひとつを大事に見つめながら生きていきたいのに、どうして彼らはこの景色に目もくれずに、列の果てを望見しようとするのだろう。未来を眺めようとするとき、皮膚の裏側にするどい赤剥けの痛みを感じる。スカウトがやってこなくなってからの日々にも、こんな痛みを感じた。そして、その痛みは私の肌に合った。
「このあいだラビエンにいって、店が終わったあと木莬で横山さんと飲んだ」
「おごらされたろ」
「いや、おごってくれた。その代わり、愚痴を聞かされた。本人いわく、女に関してはベテランの域に達してるらしいんだが、これまで女に入れこんだことはなかったらしい。それが初めて入れこみたい女ができたと言うんだ。神無月とちがって俺は、少しオツにすましたくらいの女に惹かれてしまう、と頭を掻いてた。どこの大学かは聞いてないが、いままで拾った中に女子大生はいなかったから、ついスケベ心が湧いたって。道端で煙草の火を借りたのがきっかけらしい」
「ふうん、通りすがりの煙草とは名人技だな。愚痴というのは?」
 山口は具体的に話しだした。ホテルでよしのりと会っているときの女はわがままのかけらもなく、いつも遠慮した仕草で、ベッドの反応にもどことなく落ち着いた育ちのよさが感じられた。これなら私に紹介しても恥ずかしくないと思った。それで、正直に付き合いたいという気持ちから、寝物語のついでに、つい自分は中卒だと告白してしまった。
「またか! 水戸黄門の印籠だな」
 女の顔は落ち着いていたが、口をきつく結んでいた。
 ある朝、帰省するのについてきてと頼まれたから、福島の実家までついていった。いっしょに電車に乗っているときは、やはりいつものようにしとやかで、口調もやさしかった。ところが駅に降りたとたんに冷淡な女に豹変した。
「親に会わせてくれるの?」
 と訊くと、それは無理、一人旅が退屈だったから、と言う。
「じゃ俺は、何しにきたわけ?」
「ボディーガード。お小遣いをせびり取ったら、きょうじゅうに帰るつもりだから。だって田舎の夜道は物騒でしょ。町に入ったら、五十メートル離れて歩いてね」
 たかが造り酒屋の一人娘がお嬢さまぶりやがって、と思ったが、ほれた弱みから、背の高い女の後ろ髪を眺めながらついていった。ときどき振り返る女に手を振ったりする。じつにここが自分のお粗末なところで、こんなふうに何度か屈辱の場をしのいでいけば、いつかこの高慢な女も感心して、身ばかりでなく心も預けるようになるだろうと思ってしまう。五十メートルの奇妙な主従関係は、彼女の家の門口までつづいた。でかい門構えだった。彼女の高い上背がその門にしっくりはまって、近づきがたい感じがした。
「向こうの電信柱の陰で待っててよ。話にキリがついたら出てくるから。おかあさんは話が長いのよ」
「どれくらいだ」
「さあ、三時間かしら。それとも、五時間―」
 女は挑むように、じっと立って彼の反応を待っている。とうとうブチ切れた。別に女に不自由しているわけじゃないのだ。
「これっきりだ。まあ、うまくやってくれ」
 冷静な声で言うとその場から帰ってきた。ちょっと惜しいな、という気もあった。
「というのが、よしのりさんの話なんだが、俺ならその女に鉄拳とまではいかなくても、平手ぐらいは食らわしてたろうな」
「そうよ、ひっ叩いてやればよかったのよ」
 私はただ笑っていた。そんな女もいるにちがいない。人の忍耐を手玉に取るという意味では、女の典型だろう。そういう女に出遇う出遇わないは持って生まれた運で、よしのりは運が悪かっただけだ。
「バイトは何曜日だ」
「月曜と木曜。八時からだ」
「新宿だったわよね」
「ああ、区役所通りのグリーンハウスというパブだ。弾き語りで気楽なんだが、ときどき客のリクエストも受けなくちゃいけないから、理想の仕事というわけではないな。たまにみんなで飲みにくればいい」
「ああ、折を見ていく」
「そろそろ出かけるか。家に戻って、金曜の演目の準備だ」
 山口が立ったのをきっかけに、三人腰を上げ、三鷹の駅前で別れた。私は法子といっしょにタクシーで樹海荘へ戻った。



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