六十一 

 テーブル板を載せただけの炬燵で二人きりになると、法子は、
「私、やっぱり水商売向きの女って、見抜かれちゃうみたい」
「どういうこと?」
「お蕎麦を食べにくる常連のお客さんに、中央線沿線に何軒かお店を持ってる社長さんがいて、ママをやってみないかって誘われたの。武蔵境駅前の群(むれ)ってスナック」
「ああ、よく通るね。商店街の端っこ。階段昇った二階」
「そう。月々の売り上げの三十パーセント払うって」
「たしかな人?」
「みつ井のご主人に聞いたわ。還暦過ぎた小岩井さんという地元のお大尽ですって。小岩井ハウジングっていう工務店チェーンの二代目で、土地持ちだし、金離れはいいし、ただ水商売は新宿に出してるドンキーって店以外うまくいってないから、ママさんを探してたんですって」
「やってみたら? 独立するチャンスかもしれないよ」
「そうね。もともとそのつもりだったし、自分の店を張るまでの中継ぎのつもりでやってみる。もう、お蕎麦屋さんみたいに気楽にできなくなっちゃうけど」
「気楽にやりなよ。蕎麦屋もスナックも、どっちにしたって賃取り仕事だ。でも才能を生かそうとする仕事でお金をもらうのは気楽だ。お金をもらって食っていくことが究極の目的じゃなくなるからね。食うためじゃないことを目標にするのは気苦労がない。ほんとうの目的は食うことじゃなくて、才能を生かしてよりよく生きることだろ。そのためには、のんびりと気楽に、苦労などせずに、人間らしく仕事をするべきだ。お金をもらったら違和感を覚えるくらい気楽にね。そういう理想的な生き方には、どうせ批判や中傷という底なしの苦労が待ってるから、ハナからのんびり気楽にやらないと身がもたないよ」
「ああ、大好き。そういうしゃべり方。神無月くんて、ほんとうにスッピンね。山口さんが言ったように、神無月くんは生きててくれるだけでみんなを幸せにする人よ。いつまでも生きててね。そして、だれも捨てないでね。私たちには神無月くんしかいないんだから」
         †
 五月の二十三、二十四日の週日に、全学の一年生が参加するバス旅行があった。富士の麓の山中湖畔のいくつかの宿に、文Ⅲ三百七十名が部屋割りされて一泊することになった。法子に買ってもらった東大色のブレザーを着て、青森でカズちゃんに買ってもらったイタリア製の靴を履いた。
 渋谷駅ハチ公前に十一時集合。みな私を避けるようにしている。時めく人間に屈服するのが癪だというふうだ。女たちが私を見ながらしゃべり合っている。鼈甲の丸縁眼鏡を新調した上野詩織がいたが、バトンガールやブラバンの話をするのも取ってつけたようなので口を利かなかった。いつだったか宿便の話をしていた男がやってきて、色紙を差し出した。
「林といいます。サインください。素直な人間なら、神無月さんのサインをほしがりますよ。いやな野郎たちだよなあ。法政戦観ました。センターへ白い閃光一直線、あれ一本で観にいった甲斐がありました」
「さんづけはやめてよ。呼び捨てでお願い」
 サインをすると、リュックのような小袋にしまった。
 文Ⅰと文Ⅱは別の土地へ出かけていくらしいが、それがどこかはまったく聞こえてこなかった。西沢のバス旅行を思い出したけれども、引率者が付き添わない分、解放的な感じがした。費用は大学側の負担だという。一年生三千人余りの旅費と宿泊費をまかなうとなると、どれほどの金額になるのだろうか。だれかが後ろの席でタイムリーに、
「東大生一人に、国から一千万出ているそうだ。四学年で一万三千三百人。千三百億円」
 聞いたようなホラ話をしている。とにかく、こんなちゃちな団体旅行のために国庫給付金の一部が還元されているとすると、ほかにどんなくだらないことに賛助金が出ているのだろうと思うけれども、具体的に思いつかない。それが事実だとして、千三百億などという給付金は使い切れるはずがないから、ほとんど大学側のネコババになるのではないか。たぶん、実際のところは賛助金など大して出ておらず、ただ大学に対して国からどんぶり勘定で使途のつまびらかでない金が下賦され、その一部が学生に回ってくるだけのことだろう。
 竜飛旅行のときと同じように、バスの中で歌のマイクがやりとりされた。タイガースやテンプターズのゴミみたいな歌が、聴くに堪えない声で次々と唄われていく。いくら芸能界好きとは言え、彼らの意識がこれほど低いことに深い好奇心を覚えた。それは畏怖に近い感情だった。
「次、三冠王に唄ってもらいましょう」
 井之頭公園の桜の下でミンミン蝉をやった猪口という男が言った。辞退してほんの一瞬でも気まずい空気が流れるのは面倒だし、また私が気取っているなどと誤解されれば、馬鹿者たちにつまらないわだかまりを残してしまう。それはうるさい。で、その場で思いついた春日八郎の『長崎の女』を適当に唄った。みんな奇異の目を見開いて聴いていた。だれも涙を流さず、上野詩織のほかは拍手もしなかった。唄い終わると、林が飛んできて、
「うまい! とんでもなくうまい。俺、高校でロックバンドをやってたんだけど、こんな歌のうまいやつに会ったことがない。すごい。今夜はいっしょに旅館で唄いまくろう。じゃ、今度は俺が一曲いく。長崎の女と同じ年、六十三年のヒット曲だ」
 一瞬、山口がしゃべっているのかと錯覚した。色の白い長い指で私からマイクを取り上げると、コニー・フランシスの渚のデイトを英語で唄い上げた。舌を巻くほどのうまさだった。ハスキーな、どこまでも伸びていく声で、正直なところ、コニー・フランシスよりも聴き応えがあった。
「すごいなあ……天才だ……」
 私は思わず呟いた。こんな愚か者の集団の中に天才がいる。野辺地中学校のトランペットの中野渡もそうだったけれど、天才は結局だれにも引き立てられずに巷に埋もれてしまう。あれから中野渡の名前はまったく聞かない。オーケストラの一員になったのか、ドサ回りのバンドのメンバーで全国を巡っているのか、とにかく単身デビューの話は一向に流れてこない。この男も、私から感嘆の呟きを搾り出させただけで、しばらくしたらどこかに姿を消してしまうのだ。林は唄い終えて、マイクを隣の男に渡した。パチパチとさびしい拍手が上がった。
「きみ、宿便に凝ってたやつだよね」
「それを言ってくれるな。あほらしくなって、やめた。だれだって、腸に多少のカスは残るにきまってるもんな。俺、諏訪清陵高校出身、林郁夫」
「神無月郷。名古屋西高校出身」
「六大学野球界の大スターだ。名乗らなくていい。サイン、ありがとう。一生とっておくよ。俺は英雄志向だからサインがほしい。本来ならおまえはクラスの連中にわいわい取り囲まれてるはずだ。なんでみんなおまえを無視してるのか、理解に苦しむだろ? 東大生は凡人志向だからだよ。芸能人を好むのもそのせいだ。格下に見てるからな。おまえにも芸能人程度の凡人止まりでいてほしかったんだろうが、野球も歌も天才ときては、無視するしかないだろ」
 マイクはどんどん回っていったが、歌のうまいのは林一人で、あとはみんな男も女も唄いたがりの音痴ばかりだった。
 昼食どき、林は握りめしを持ってきて、私に差し出した。
「諏訪の山菜おにぎり、うまいぜ」
 青高のバス旅行の車中と錯覚した。木谷千佳子の大きな握りめし。
「長野から送ってくるわけがないね」
「俺が握ったんだ」
 白い指で握ったおにぎりを清潔に感じた。
「オラにもけねがな。弁当持ってこねがったんだ」
 からだの真ん中が肥ったズーズー弁が寄ってきた。眼鏡をかけた顔も真ん中が肥っている。何もかもラグビーボールだ。林は渋々その男にも握りめしをくれてやった。私はこの山内純という男だけは意識に留めていた。名古屋西高の校長室で浜中が、たしかに彼の名前を口にしていたからだ。睦子とはグランドで会えるが、クラスで会える青森高校出身者は山内ただ一人だ。捜し回りでもしないかぎり、理Ⅰの一戸と理Ⅱの奥田にはおそらく遇えないだろう。もちろん宮中の直井整四郎にも。
「山内くん。ぼく、二年生の夏まで、青高にいたんだ」
「おめを知らねやつはいねべ。野球ばりでなぐよ。うだで国語と英語のできる男だって、みんなへってらった」
「今年青高からきたのは、きみと一戸と奥田と鈴木睦子だよね」
「んだ。現役は、ダークホースのオラと、理Ⅰの一戸、理Ⅱの奥田、文Ⅲの鈴木だけだ。合格確実と言われてた五、六人はぜんぶ落ぢた。浪人は五人受がった」
「古山と小田切の消息を知ってたら、教えてくれないか」
「二人とも同じクラスだったすけわがる。古山は明治の夜間政経、小田切は東北大の理学部。梅田滋、覚べでらべ?」
「うん」
「北大の医学部さいった。一戸は、理Ⅰはおもしろくねってへって、来年文Ⅲを受け直すてじゃ」
「中退しちゃったの?」
「つい、こねだな。四月に入学して、五月に中退だず」
「よほど、おもしろくなかったんだね」
「ほんだべおん。在籍したまま転部試験を受げることもできるたって、そたらの潔ぐねってへってせ」
「ふうん。格好よくみえるけど、結局同じテリトリーをうろうろしているだけだね。東大から脱しきれないんだろう」
 広瀬という北海道出身の男が寄ってきて、
「そいつ、贅沢なやつだな。理Ⅰにいればいいのに。そんな危険を冒してまでくる価値が文Ⅲにあるの? 失敗したら何もかもオジャンじゃない。東大は二度受かる大学じゃないよ。学費を出してくれた親への感謝がぜんぜんない。ぼくの親なんかバシャバのように働いて、ぼくを東京へ出してくれたんだ」
 山内が目を剥いた。
「それ、おめ、バシャウマのまちがいだべ」
「え! ぼく、バシャバって習ったよ」
 信じられない会話になった。東大生の最後の砦であるはずの〈お勉強〉が危うい。
「そう習ったんだよ、記憶ちがいのはずがないよ」
 広瀬はどこまでも幼いプライドを堅持しようとして、目に涙を浮かべた。
 ―こんなことで泣くやつもいるのか。
「俺もバシャバだと思ってたよ。気にするな。俺なんか、二次試験、四割チョイしか取れなかったぜ」
 と林が広瀬の肩を叩いた。いいやつだと思った。桜見物の連中は猪口以外一人も寄ってこなかった。奇異な感じを抱いた。私は林に尋いた。
「きみは、桜見物のとき、いたっけ」
「いかなかった。酒のイッキ飲みが嫌いでね」
 高速道路を何本か乗り継いで、三時間ほどで到着した。山中湖畔の立派な旅館にバスが横づけになった。夕闇の中で灰色の湖が鈍く光っている。えらぶった学生たちを、何人もの従業員が仰々しく出迎えた。部屋が割り振られることになり、自己申告が許されたので、林と山内と同じ部屋になった。
 夜、宴会場で食事が終わると、舞台に眼鏡をかけた痩身の学生が上がって、指のあいだでピンポン球を出したり消したり増やしたりする手品をやりだした。詩吟、パントマイム、横笛、ウクレレ。どれもこれも下手くそすぎる。なぜ歓声が上がるのか解せない。やがて大型のカラオケ装置が運びこまれ、自由参加の歌合戦になった。さっそく林が舞台に跳び上がり、ビートルズの『ハロー・グッバイ』と『愛こそはすべて』をつづけて唄った。みごとだった。冗談ではなく、ビートルズよりも迫力があった。それなのに喝采も指笛もない。三々五々、膳を前にぺちゃくちゃやっている。私と山内と上野詩織がパチパチやった。
 林は仲間たちからぱらぱら起こる、手品やフルートのときよりもはるかに少ない拍手に媚びたふうな微笑で応えながら、あでやかに舞台の中央でお辞儀をした。発見だった。東大にこんなやつがいるとは思わなかった。彼は掘り出し物だ。私はすぐ止んでしまった拍手を補うように、指笛を吹き、掌が破れるほどもう一度拍手をした。彼の歌を聴いてしまったあとは、舞台にだれも近づこうとしなかった。周りのレベルが低いか、自分に近いレベルのときは勇んで挑戦するが、敵わないレベルに直面するとすみやかに身を引く。しかしこういう輩ばかりのはずはない。やさしく、寛大で、折に触れて厳しい人びと。大沼所長、土橋校長、ガンジー……。
「神無月!」
 林が私を手招きした。関心がないということを誇示するクラスメイトたちのわがまま勝手なおしゃべりの中で、私はわざわざ大声で答えた。
「OK! ぼくも唄う」
 ここはぜひとも、彼らにみずからの無能を認識させる必要がある。人は無能であることを恥じなければならない。そして能力ある者に感動し、感謝して、余命と愛情を捧げなければならない。私が寺田康男や、山口や、カズちゃんや、トモヨさんや、節子や、文江さんや、素子や、法子や、睦子や、木谷千佳子や、ミヨちゃんや、ユリさんや、そのほか大勢の人びとに捧げているように。私は舞台に上がり、選曲が彼ら向きではないとは思ったが、橋幸夫の『潮来笠』と『江利子』を唄った。騒音を押しのけようとして全力で唄ったので、声がどこまでも高らかに出た。そして極端に疲労した。唄い終わると上野詩織と林と山内だけが拍手喝采した。彼らがはしゃいでいる中で上野がアンコールを要求したので、疲れた喉を励ましながらその場で『学園広場』を唄いはじめた。

 空に向かって 挙げた手に
 若さがいっぱい 飛んでいた
 学園広場で 肩組み合って
 友とうたった 若い歌

 とたんに、あのざわついた聴衆の中から二人、三人と学生が飛び入りしてきて、ほとんど合唱状態になった。こういうことだ。自信のないことは烏合の中に紛らせる。見物の学生たちも声を合わせた。やがて会場の合唱は晴ればれとした喧騒に変わった。しかし、すぐに〈宴のあと〉がやってきて静かになった。皮肉なことに『学園広場』が彼らとの訣別の歌になった。


         六十二

 みんなが寝静まって廊下に物音が絶えたあと、林と山内は割り当て部屋の畳にあぐらをかいてビールを飲みながら、フランス語の難しさについて語り合っていた。私は体育以外の授業には高々一回しか出たことがなかったが、その中でも波佐見のフランス語は最もいけ好かない授業だった。私は蒲団に肘枕で横たわって、うとうと耳を傾けていた。林は音楽についてしゃべりたそうだったが、山内は興味がなかった。
「教授室さワイロ持ってくべと思ってよ」
「何のために」
「オラんど、未習組だべ。点の底上げしてもらうのよ。そんでねば、百点満点で五点もとれねど」
「たしかにそうだな。反則みたいな既習組が何人もいるからな」
「ぼくは0点でいいや。試験は受けない」
 私が蒲団から言うと、林も、
「俺も」
「そう言わねで、二人でついてきてけろじゃ」
「おもしろそうだから、ついてってやるか、神無月」
「そうだね。ワイロは何?」
「ロングホープ一カートン。センセが吸ってる煙草だ」
「ちんけなワイロだね。でも、いってみよう。来週月曜日ね。おもしろそうだ。どういう反応をするか興味がある。ところで林、きみは東大なんかやめて、歌手になるべきだよ」
「バンド仲間にもそう言われたけど、歌手としてデビューするのはそれほど簡単じゃない。いくら声がよくても、神秘的な魅力がないとな。自信がない。それを言うなら神無月、おまえは世界を獲れる。少なくとも日本は獲れる。神秘的な魅力をクリアした上に、しびれる声をしてる。ひょっとして、どっかで唄ってる?」
「いや、歌が唄えるというだけだ」
「もったいない」
「もったいないのは、きみのほうだよ。爆発的なハスキーボイスだ。さしずめ、ティミ・ユーロだね」
「オラ、寝るわ。じゃ、来週の月曜、頼んだぞ」
 つんぼ桟敷に置かれた山内は、あくびを一発して蒲団にもぐってしまった。私は彼に語りかけた。
「青高の野球部に山内という先輩がいたけど、ひょっとしてきみの兄さんか?」
「んだ」
 簡単に答えた。
「なぜ黙ってたんだ」
「兄貴は青高卒業したあと、仙台の熊谷組さへって、ずっとレギュラーだったすけ、忙しくて連絡どころでねがったんだ。東大受かってから手紙書いた。おめといっしょのクラスになったって。したら大喜びで返事がきてせ、神無月の忙しさは自分どころでねがら、じゃましねよにしろってよ」
「そうか、きみは、思い出話に時間を取られると思ったんだね。水くさい。お兄さんはスラッガーだった。センターを守ってた」
「野球しか頭にね男だった。おめのことばりしゃべってらった。一生忘れねってよ。実家の部屋に、おめといっしょに写ってる新聞の写真を額さ納れて飾ってら」
「プロには?」
「ドラフトにも上らなかったじゃ。いまも熊谷の四番だ。おめみてな天才は、百年に一人だんだ」
 そう言って、また蒲団にもぐった。
「ちょっと、外へ出ようか」
 林に誘われて、旅館の庭へ出た。いい夜風が吹いている。林は置石に尻を落ち着け、ア行でドレミファソラシドを夜空に唄い上げた。
「ほんとにすばらしい声だ。驚愕だ」
「サンキュー。……あのさ、神無月、おまえは、どうして唄うんだ?」
「どうしてって、唄いたくなる理由なんて、わからないよ」
 光夫さんのように、思いのたけをうまく表現できないから唄うんだ、というような格好いいことは言えなかった。そして、そう言ったとしても自分の心とは微妙にちがっていた。
「ただ、自分の声を聴きたくなるんだ。友人が言うには、ぼくの声は聴いただけで泣きたくなるそうだ。だから、ぼくは人を泣かせる自分の声を聴いているだけでじゅうぶん幸福な気持ちになる。人に聴かせようとあえて思わない。自分が聴きたいんだ。自分ひとりだけで唄うのは、たまたまその曲のすばらしさを再生してみたいと思うときだけだけど、そのときも自分の再生音を聴いてる」
「ふうん。自分の声を他人に聴かせたいわけじゃないのか」
「自分の声が他人にも魅力的に聞こえるかどうかわからないのに? そりゃ、再生がうまくいっていると感じるときは、他人も同じように感動をするだろうと思うことはある」
「非凡な音楽しか再生には値しないな。非凡な音楽。そういう音楽に触れると、だれだって胸にくる。非凡なメロディの再生にはそうさせる征服力がある。ただし、再生装置が非凡な場合にかぎる。……おまえの答え、気に入ったよ。おまえの声は非凡だ。曲の媒介なんか意識するより、声そのものを聴かせることに徹したほうがいい。何か、アカペラで唄ってくれ」
 私は姿勢を正した。
「じゃ、島津ゆたかの『あなたのすべてを』という曲を唄う」

  名前も知らないあなたと私
  なのに不思議ね 胸がときめく
  恋はこうして生まれるものなのね
  教えてほしい あなたのすべてを
  今宵ひとりで歌う あなたへの歌

「ヒュー! すばらしいなあ! なんて声だ。おい、二人でアルバイトしようぜ。ステージのある店で唄うんだ。唄う場所は俺が探してくる。東大生二人組、稼げるぜ」
「ぼくは野球で忙しい。それに、喉にスタミナがないんで、三曲ぐらいしか唄えないんだ」
「……そうか。全力で唄ってるもんな。まあ、聴くチャンスのあるときに、せいぜい聴かせてもらうさ。俺にしても、博報堂に入るまでの余暇活動だ。考えたら、バイトをするほどの余裕はないな。叔父と約束しちゃったからさ。博報堂に入りますって」
「文房具屋さんか」
「いや、広告会社だ。資本主義社会の寄生虫。しかし、ほんとに知らないの? 天下の博報堂だぜ。とぼけてるんじゃないの?」
「ぼくの頭を探ってもむだだよ。空っぽだ。韜晦なんて高級なことはできない。ふうん、寄生虫に寄生するわけか。まあ、人間だって、もとはと言えば子宮の壁に寄生する虫だったんだからな。生まれたあともだれかに寄生しなければ生きていけない」
「……ふむ」
「新宿にグリーンハウスって店があるんだけど、そこで親友がギターの弾き語りをしてる。いつかそこへ唄いにいかないか。六月からは新人戦が始まるから、その前だ」
「わかった。おまえが唄うときは、かならず同席させてもらう。おまえの歌は聴き逃がせない」
         †
 二十四日午後三時過ぎに渋谷駅ハチ公前にバスが帰り着いた。バスの中で上野詩織に、土日はゆっくりからだを休めたいので練習に出ないと告げた。みんな別れの挨拶もそこそこに、めいめい渋谷を基点に帰路を急ぐ。林と山内の二人以外とはだれとも親睦を図らない旅だった。花見の連中とさえ口を利かなかった。林と山内にコンコースで手を振り、中央線で阿佐ヶ谷へ帰る。
 ―こんなものだろう。パサパサした集団。おさらばしたら二度と思い出さない集団。すべて観察し終えた。
 旅館の土産屋で買った信玄餅を婆さんたちに差し出す。
「入れ歯がねえ」
 着物の婆さんが苦情を言いながら受け取る。眼鏡の婆さんが、
「名古屋のお母さんから電話がありましてね。迷惑をかけてないか、よく勉強をしてるかって」
 着物が、
「迷惑でないまでも、来客が多いということは言いました。勉強はよくしていらっしゃるようだと言っときました」
「こちらに出てくるとか言ってませんでしたか」
 眼鏡が、
「いいえ。破目を外すようなことがあったら、遠慮なく追い出してくれとだけ」
「野球のことですか?」
「野球については何も言ってませんでした。ここまで有名な野球選手にケチはつけられないでしょう。女性関係のことだと思います。従姉さんや叔母さんのことは、私どもはひとこともしゃべりませんでしたよ。曲がりなりにも、神無月さんの事情はあらかた存じてますから。そういうことが原因でお母さんの逆鱗に触れたことで、ままならない青春時代を送られたんですよね。お気の毒に―。あの女のかたたちはみなさんすばらしい人です。神無月さんのお力に百パーセントなってらっしゃる。私どもが足を引っ張るようなことはけっしてしませんよ」
 着物が、
「ただ、あまり人が訪ねてくるのはねえ。音楽の音ももう少し小さくしていただかないとご近所迷惑ですしね」
「わかりました。気をつけます。きのうまでは東大の親睦旅行でしたが、あすあさっては野球部の短期合宿ですので部屋を空けます」
 眼鏡が、
「はいはい、野球をやってらっしゃれば、規則正しくかよわねばならないでしょうし、長期短期の合宿もあるでしょうし、それは気になさらないでください」
「この二年が、プロ野球にいけるかどうかの正念場なんです。ここで母にじゃまされたら一巻の終わりです。母は、新聞は株式、テレビは夫婦善哉、ぼくが野球で騒がれてることは薄ボンヤリとしか知らないはずです。どうか、野球の話が出たら、クラブ活動的にやっているようだぐらいに伝えておいてください。スポーツを熱心にやる人間を落伍者のように思ってる人ですから」
「ご心配なく。私どもは神無月さんの味方です。がんばってプロ野球選手になってください。親が子供のゆく手をじゃまするなんてことがあっていいものですか」
 親切だ。それなのに女のことをどうのこうのと言いすぎる。着物婆さんの不満はハッキリしている。親切ごかしの眼鏡婆さんのほうが口が軽そうだ。いやな予感がする。なるべく早いうちにここを出よう。
 夕方、カズちゃんから電話が入った。山口と相談した結果、あすあさっての温泉旅行は伊香保に決まったということだった。
「高速を使うから、二時間ぐらいでいけると思う。伊豆とか箱根は混むからやめたわ。よしのりさんにも声かけたけど、書き入れどきだからいけないって」
「傷心の時期だからね。女と別れたばかりだ。新しい恋人の書き入れどきだろう」
 伊香保か。花や草を見るのが楽しみだ。
         †
 五月二十五日土曜日。文字どおり五月晴れ。十時にカズちゃんの家に全員集合。庭の敷地を削ってカーポートをしつらえたガレージに、すでに九人乗りの白いバンが入れてあった。新車でゆったりとした室内だ。前席の背に折畳み式の食台までついている。
「ぼく、助手席もらうよ」
「好きにしろ。中列三人、後列二人、適当に乗って」
 中列に素子、節子、吉永先生が乗り、後列に山口、法子が乗った。ギターケースは最後部の荷台に置いた。
「山口、免許は」
「この夏に合宿教習で取る。名古屋にいく前にな」
 いつのまに練習していたのかと思うくらいカズちゃんの運転がうまい。軽いハンドルさばきとブレーキのかけ具合のよさにうっとりする。関越自動車道に入り、百二十キロぐらいで走る。
「和子さんは何をやらせても器用だな」
「ほんと。お姉さんを見とると、毎日驚くことばっかりやわ」
「車の運転くらいだれだってできるわよ。素ちゃんも山口さんといっしょに合宿して免許取ったら?」
「来年にするわ。今年はみんなで名古屋に里帰りするので手一杯やから」
 節子が、
「そうね、来年みんなで合宿いきましょうよ」
 吉永先生と法子も賛成の声を上げる。先生が、
「素子さんのお料理の勉強、どうなってるの」
「一生懸命やっとるよ。お姉さんといっしょにコーヒーの本も読んどる」
「ほんとにまじめなのよ。何の問題もないわ。来年の六月まで、調理師の受験にじっくり備えなくちゃね」
 私は明るく応えるカズちゃんに、
「カズちゃんにいろいろ訊きながら勉強できるのは心強いね」
「素ちゃん、えらいのよ。毎月二万円も貯金してるの」
「何のために? 家には仕送りしなくていいんだろう?」
「生活費はお姉さんにおんぶにだっこやから、お小遣い以外のお金が余ってまう。将来の開店資金の一部にしてもええし、お姉さんが車を買う一部にしてもええ。役に立ちたいんよ」
「ありがとう、素ちゃん。でもだいじょうぶよ。貯めれば使う喜びがあるから、せいぜい貯金して楽しみなさい」


         六十三

 途中のサービスエリアで、みんなで水沢うどんを食べる。手打ちのもりうどんに、かぼちゃと舞茸と春菊のてんぷら盛り合わせがついている。醤油だれとゴマだれを選べることになっているが、男二人は醤油だれ、女たちはゴマだれで食った。硬くて弾力があるうどんだ。味は何と言うこともない。博識の山口が、
「水沢うどんは、讃岐うどん、稲庭うどんと並んで、日本三大うどんの一つなんだぜ」
「三大はだれが決めるんだ」
「庶民の口だ」
「ぼくは、阿佐ヶ谷や高円寺の立ち食いうどんのほうがうまいけど」
「俺も西荻の立ち食いのほうがうまいと思うけどな」
「じゃ、西荻、阿佐ヶ谷、高円寺で三大になる」
 みんなで大笑いする。吉永先生が、
「節子さんは産科でしょ?」
「ええ、もう定着した感じ。最初はいろいろ手伝わされてたけど。……出産て、命懸けだってよくわかる。特に三十五を過ぎると危ないの」
 カズちゃんが運転席から、
「産みたい?」
「遠慮します。子供は家庭がないと育てられません。家庭よりもキョウちゃんのほうが大事です」
「キョウちゃんは大事でも、女としての喜びはどうするの」
「何よりも出産は女としてすばらしい経験だと思いますけど、女としての喜びより、人間としての喜びのほうを優先させます」
 素子がパチパチ手を叩く。山口が、
「どうなってんだい。ほかの女たちも同じか?」
「同じ!」
 いちどきに声が上がる。カズちゃんが、
「産みたいときは応援するわよ。みんなで力を合わせれば、子供の二人や三人、何てことないわ。女としての喜びも産む人といっしょに経験できるし」
 法子が、
「和子さんは?」
「私は女神なんでしょ? 神さまの繁殖方法って知らないから」
 渋川インターで降りて、十五分ほど走る。長い石段のふもとの駐車場にハイエースを停める。山口が、
「この三百六十段の石段の下を温泉が流れてる。めずらしいものだ。このあたりを石段街と呼ぶそうだ。小さいころ、家族で一度きた」
「それで伊香保を勧めたのね」
「まあね」
 駐車場を出ると、新樹という高級感のある木造の大きな旅館があった。
「ここよ」
「俺の泊まったのは、こんな立派な旅館じゃなかった。油屋といったかな」
「いまもあるわよ。そっちは五人部屋しかなかったのよ。ちょっと歩こうか。石段街を散歩してきたら、ちょうどチェックインの時間になるわね」
 みんなでキョロキョロ左右を眺めながら上っていく。土産物屋、薬局、鮨屋、ラーメン屋、酒屋、喫茶店、銭湯。温泉町のありきたりの商店街だ。上りきると、お決まりの神社があり、飲泉所のそばに赤い弓形の橋が架かっている。緑がすがすがしい。
「これだけだな」
「自然なんていつも〈これだけ〉だよ。これだけじゃないのは、人間だ」
 戻り道に射的屋が一軒あったので、女たちを物産店へ追いやって山口と入り、二回りやった。収穫は小さなふくろうの置物一つだった。
 新樹へいく。女将を先頭に中居たちが一行を出迎える。北村席を思い出した。小ざっぱりした提灯が二つ、玄関の両脇に下がっている。一階の大半が、ガラス張りのラウンジだ。
「廊下が畳敷きだぜ」
「感激だな」
 ぞろぞろ最上階の三階に昇る。
「こちらが槐(えんじゅ)の間でございます」
「エンジュって、特徴のない背の高い木なんだよね。二十メートル以上になる。黄色っぽい白い小花が凋(しぼ)んだあと、数珠みたいにつながった花穂ができるのが特徴だ」
「博士、始まりましたな」
 紺のぴちっとしたお仕着せを着た仲居がドアの鍵を開け、私たちを室内へ導くと、膝を折って備品の案内をする。十二畳、三畳、七畳半、三畳。十二畳についた屋根のないバルコニーに、五人も浸かれそうな露天風呂があり、大きなガラス窓から上信越の山並を望むことができた。バルコニー以外は、すべて畳敷きだった。
「とんでもなく贅沢な旅館だな。一人いくらくらいだ」
 山口の質問にカズちゃんが、
「一泊二食つきで、四千円」
「ほう! 帝国ホテルが五千円で日本一だ」
「年に一回だもの、そのくらいの贅沢したっていいんじゃないか」
「だな。食い物がうまいことを祈るぜ」
 吉永先生が、
「まずお風呂ね。大浴場にいきましょうか」
「混浴じゃないのか」
 カズちゃんが、
「だったら困るわね。山口さんはこらえられるかもしれないけど、素直なキョウちゃんは危ないわ。まず私たちが入ってくるから、あとで男どもが入りなさい」
 山口はウハハハと笑った。五人の女たちは下着一枚になって浴衣に着替えはじめた。山口は目のやり場もわきまえず、口をだらしなく開けながら見つめている。
「みんなムチムチしてるな。おまけに均整がとれてる。神無月は果報者だ」
「偶然だよ。ありがたい偶然だ」
「胸の大きさは吉永さん、腰の細さは節子さんか。尻の張りは法子さん、脚の長さは素子さん、全体の理想的な均整は和子さんだ」
「ありがとう、年上を立ててくれて」
 カズちゃんが笑いながら言う。
「いやあ、だれ一人欠点がないもんでね。そのからだをぜんぶ神無月一人に捧げてるかと思うと、羨ましくて泣けてくる。しかし、おトキさんも捨てたもんじゃないぜ」
「結局それが言いたかったのね」
 女たちはガヤガヤ出ていった。山口と私は浴衣に着替え、ベランダのテーブルに向かい合って、茶菓子をつまんだ。背の高い緑の木立の向こうに、同じ緑の山並が見える。山口は山並を眺めながら、無言でしばらく茶をすすっていた。私は彼の沈黙が好きだ。
「山口、鉄道員を弾いてくれ」
「ああいいぞ」
 山口は黒革のケースからギターを取り出して、組んだ膝に載せた。
「鉄道員、禁じられた遊び、アルハンブラ……」
「おまえの名古屋の原点だからな」
 低音の絃のふるえが腹に沁みわたる。目をつぶって思い出を引き寄せる。牛巻病院、康男、光夫さん、節子、熱田神宮。ギターの調べに乗って走馬灯が廻る。春の宵。ちょうどいまの季節だ。
「……おまえは世間的な喧騒をきらわないのに、静寂に浸されてるように見えるのはなぜなんだろうなあ。見習えるもんじゃないが、見習いたいよ。自分がそういう雰囲気を持ってたら、人生ホッとする」
 私は頬をゆがめて、
「ぼくは自分の小学生時代がなつかしい。快活で、うるさい人間だった」
 山口はフンと笑って、
「おまえの回想を聞くかぎりでは、おまえはもの心ついたころからその雰囲気だ。……もの心つく前の人生がつらすぎたんだよ。……立ち直りの第一歩は許すことなんだろう。収まらない腹の虫を収めるんだな。それをやり終えると、人は静かになる。もの心ついてからきょうまでのお前だ。生き延びてきたのが不思議なくらいだ。いつもそう思いながらおまえの歌を聴く。涙が止まらなくなる。……何か唄ってくれるか」
「うん。ニール・セダカの悲しきクラウン」
 スタッカートのリズムが呼吸を誘う。深く息を吸い、

  Here I come, the king of clowns
  As I hide behind this smile and paint the town
  Though I cry since you’re gone
  You’ll never know because the show must go on
  I’ve been sad, I’ve been blue
  Ever since the day that you found someone new
  I pretend but you can’t tell
  With my broken heart I play my part so well
  Step aside, here I come, the king of clowns
  As I hide the lonely teardrops that come down
  I make believe with a smile
  But the king of clowns is crying all the while
  Tra-la-la-la-la-la-li-lo
  Tra-la-la-la-la-la-li-lo
  Here comes the king of clowns
  Tra-la-la-la-la-la-li-lo
  Tra-la-la-la-la-la-li-lo
  Here comes the king of clowns
  Step aside, here I come, the king of clowns
  As I hide the lonely teardrops that come down
  I make believe with a smile
  But the king of clowns is crying all the while
  Tra-la-la-la-la-la-li-lo
  Tra-la-la-la-la-la-li-lo
  Here comes the king of clowns
  Tra-la-la-la-la-la-li-lo
  Tra-la-la-la-la-la-li-lo
  Here comes the king of clowns
  Tra-la-la-la-la-la-li-lo
  Tra-la-la-la-la-la-li-lo
  Here comes the king of clowns

 山口がうなだれて泣いている。拍手の音が立った。浴衣姿の五人の女たちが、立ったまま泣きながら拍手をしていた。
「神無月、風呂入るぞ」
「オー」
 女たちの前で浴衣を脱ぎ捨て、バルコニーの露天風呂に飛びこむ。
「青森以来だね」
「ああ、月の輪熊以来だ」
 山口が私の背中を流しながら言う。
「法政戦より、五月祭のほうが盛況だったってんだから嘆かわしい。十万人集まったそうだ。おまえのホームランが気の毒だよ」
「ホームランなんて、広場のお祭りに比べたら、道端のウンコか、せいぜい草の花だ。そんなものを見ないで東大を通り過ぎられるのは、彼らにとって幸せなことじゃないか。青高のマラソン大会や運動会も草の花だ。山口がマラソン大会トップで、木谷が百メートルの優勝者だったなんてことは、もうだれも憶えてない」
「マラソンか。なつかしいよ。体力だけが自慢の男が、いまや東大法学部だものな。神無月のご威光のなせる業だ。しかし、東大は重すぎて、身動きが不自由だ。要らない鎧だな」
「右に同じ。ぼくは周囲の助力で追い出してもらえそうだけど、山口はどう?」
「いつかも言ったけど、おまえが中退するときに、俺も中退する」
 背中を交替した。広い褐色の背中だ。
「立ち直ったかな、よしのり」
「今朝もう一度温泉に誘ったが、断られた。嘉手納デモにいってきたそうだ」
「何だそれ」
「沖縄返還デモの一環だ。B52の撤去を求めて、基地のアメリカ兵と衝突したんだとさ。イボ男とちがって実践的だ」
「よしのりはやっぱりお祭りに興味があるんだな。趣味がないとそうなる。バーテンで一家を築けばいいのに」
「それじゃ何か満足しないところがあるんだろう。つまらないことで大ケガしなければいいけど。……話を聞くと、彼は水泳選手になれなかったことがすべてだな。水泳が唯一の趣味だったんだよ」
「……もし、青高で野球をしてなかったらと思うと、心臓が引き攣るよ。永遠に葬られてた。よしのりみたいに」
 カズちゃんが私と山口の下着を用意した。
「俺の分まで?」
「そうよ、三年前はキョウちゃんのほうが小柄だったけど、いまはいっしょぐらいだものね」
「筋肉のつき具合は、神無月のほうが立派になったな」
「ホームラン王だからね」


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