七十三

「……神無月」
 康男が潤んだ目で語りかけた。
「うん?」
「おまえはいつも人のことを忘れんと生きとるな。俺もな、いつもおまえのことばっか考えて生きてきたわ。いちばん思い出したのは、牛巻病院のベッドと廊下や。毎日、一日じゅうおまえがくるのを待っとった。おまえはかならずくるんだよ。かならずな。俺はそのたびに心の中でバンザイって叫んだ。なんでこんな俺のところにくるんかなあって、夜中によう泣いたわ。おまえは俺の神さまや」
 カズちゃんと節子はぼろぼろと涙をこぼし、時田は手の甲で目頭をこすっている。
「神無月さんはオトコですよ」
「俺のせいで、おまえは苦しい目を見た。死んでお詫びをせんとあかんところやが、生きとるといろいろ用事が出てきてなかなか死ねん。おまえにもらった命や。いつでもおまえのために使ったる。……おまえみたいな男を苦しめるやつを俺は許さんで。むかしは力がなかったが、いまならだいじょうぶや。そんなやつがいたらブチ殺したるでな」
「ありがとう、康男。ぼくのしたことに理屈はないんだ。ただ、康男のことが大好きなだけなんだ。千年小学校の校庭で喧嘩した日からね。これからもずっとそうだ。もうぼくを苦しめるやつはいない。ぼくのために康男がブチ殺すやつはいないんだ。……ぼくがいつも思い出すのは、康男といっしょに東海橋まで歩いた夜道だ。康男と同じように、野辺地の蒲団で思い出してはよく泣いた。ぼくが愛した男は、おまえだけだったからね。おまえをじわじわと奪っていった人びとに、ぼくはかならず復讐しなければならない、復讐の旅路という言葉さえ浮かんだ。ぼくは野球だけじゃなく、寺田康男というたった一人の人間に対する未練の深さに寒気がしたほどだったよ。ぼくにはわかってるんだ。もしぼくが死んだら、ぼくの亡骸(なきがら)にすがって、死なないでくれ、もっと生きてくれ、と叫ぶのはおまえだけだってね。ぼくにはわかってた。康男! 死んだぼくの胸を叩いて泣くのは、おまえしかいない。おまえを失ったことこそ、ぼくのいちばんの痛手だったんだ。でも、またこうして会えるようになった。病院のベッドでも言ったけど、いつまでもいっしょに生きていこう。もう離れるのはよそう」
 私と康男はたがいに手を取り合った。時田があぐらの膝にこぶしを置き、苦しげに泣いていた。女四人もポタポタと涙を落とした。
「この北村和子も康男さんと同じよ、キョウちゃん」
「私も!」
 女がみんな声をあげた。睦子まで声をあげた。敷居で音がしたので振り向くと、ガタイ大きい店員が赤い顔をうつむけていた。彼にしてみれば、座にいる私たちの感じたところは、ふだんの自分の感懐と相容れるものだったのだろう。彼も私たちと同じように感激したらしかった。
「人がここまで心をかよい合わせている姿を初めて見ました。こんなことがほんとうにあるんですね。人間というのはすばらしい。ありがとうございます」
「こいつはな、いつも泣かしてくれるんや。こいつの前で泣いても、ぜんぜん恥ずかしないで。同じように泣いてくれるでな」
「財産ですね。ほかに何もいりませんね。すみません。失礼しました」
 店員は山盛りのキャベツを添えたトンカツをテーブルに運ぶ。自家製のソースがついている。目頭を拭って出ていく。時田が、
「あいつ、初めて口利いたで。びっくりしたな。泣いとったで。けっこうここにはきとるんやが、一度も口利いたことなかったでな。てっきり木偶の坊やと思っとったわ」
 牛スジやおでんを持ってきたときの男の、かなり無遠慮に私たちの話を聞き流しているようないかにも無感覚な様子を思い出し、私は思わず笑みを洩らした。
「おもしろいか、神無月。おまえにかかったら、どんなやつもイチコロや。スカッとするな。おお、このカツはうまいで。しっかり食って帰ろう。泣いたら、また腹へってきたわ」
 康男は独酌でビールをもう一杯流しこんだ。時田にもつぐ。私はトンカツにソースをかけ、一切れ噛んだ。
「ほんとだ、うまい!」
 それを合図にして、女たちが頬を膨らませてもぐもぐやりはじめた。彼女たちの頬の薄化粧の上に涙の跡がついている。大きなからだの時田は、二切れずつ口に放りこんでいく。康男が食い残した自分の皿を彼に押しやった。
「いま啼いたカラスがもう笑っとる。どいつもこいつもええ食いっぷりや。神無月もむかしは少食やったのに、ようけ食うようになった。これで世界一の野球選手になれるわ」
「日本一なら」
「謙遜すな。おまえのホームランボールまだ持っとるで。いずれ何千万にもなるやろ」
「何百万なら」
 部屋に笑い声が満ちた。
「野球場には応援にいかんぞ。おまえのためだ。俺たちのような人間は目立つからな。毎日新聞見とったる。さ、浅草駅まで送ってくわ」
 光夫さんの引込み線の話を思い出した。時田が金を払いにいき、女たちは顔を直しにいった。女たちが戻ってしばらくして、時田がトンカツの折詰とソースを五人前、ビニール袋に入れてやってきた。
「冷めてもうまいですよ。夜にでも食ってください」
「ありがとう、大将さん、時田さん。北村席ともども、末永いお付き合いをお願いいたします」
 カズちゃんが深く頭を下げた。
「おたがい生きとったら、いつまでもな。区切れのいいときに、また会おまい。いつでも連絡待っとるでな。セッチン、それからモトコさん、ムツコさん、くれぐれも神無月をよろしくな。神無月に泣きを見さしたらただでおかんで」
「はい!」
「あんたらにはあまりうれしい誘いでなかったかもしれんが、訪ねてきたくなったらかならずくるんやで。そのとき俺がどこにおっても、いつでも喜んで迎えたる。何かあったらかならず連絡するんやで。セッチン、もう神無月から離れたらあかんで」
「お墓までいっしょにいきます。ヤッちゃんもお元気で。会えてよかった。長年の胸のつかえが下りました」
 時田が、
「ドブ掃除が終わったら、二、三年でまた名古屋に戻りますよって、そのときはちゃんと北村さんに連絡しますわ」
「もっと早いかもしれんで。いいとこ一年やろ」
 雨が小止みになっていた。康男と時田は地下鉄の浅草駅まで送ってきた。わざわざ車から降りて、階段口を下っていく私たちに深々と辞儀をし、それから手を振った。
 電車の中で私たちはくつろいで話をした。カズちゃんが、
「素ちゃん、仲店に寄れなかったけど、今度ね」
「そんなもんどうでもええわ。いっても何も目に入らんかったわ。もう胸がいっぱいや」
 睦子が、
「すごい友人関係ですね」
「小四以来の親友なんだ。康男は根っからのヤクザだ。組内での事情は知らないけど、ぼくたち素人にはほんとにやさしくしてくれる。怖がることはないんだよ」
「怖くありません。大きなものを感じます。感動しました」
 節子が、
「キョウちゃんの周りって、男の人も女の人も、はったりのない人たちばかり。包容力があって、とっても気持ちいい」
「はったりかますのは、自分を愛したいからさ。人を愛したい人間は、はったりをかまさない」
「ヤッちゃん、あのころ、私を〈ブチ殺し〉たかったでしょうね」
「……康男はリューマチ先生にやさしかった。あの先生は愛情のかたまりだった。そのリューマチ先生は節ちゃんを気に入ってた。康男はそういうことには敏感なんだ」
 あの石と化したリューマチ先生が私たちに吐いたやさしい言葉。長く思い出さないでいると、言葉の価値が不明瞭になり、言葉の背景にあった美しい魂がむかしの写真のようにますます赤っぽく薄れていく。私はあの日、あの廊下でリューマチ先生を見捨てた。造作もなく、何の動揺もなく、足の裏が地面から離れるくらいやすやすと。
 カズちゃんが豊かな髪を揺らしながら、リューマチ先生とはちがう魅力的な目とあでやかな微笑でものをしゃべっている。
「去年の四月だったかしら、キョウちゃんと山口さんと三人で牛巻病院にいったことがあったの。そのとき話に出た人ね。お亡くなりになったって看護婦さんが言ってたわね」
 節子が手を口に当てて、
「え! 吉本さん、亡くなったんですか」
「訪ねたとき、三カ月ほど前に亡くなったって言ってたから、一月か二月に……」
「みなさんで牛巻病院にいったんですね……」
「悲しまなくていいのよ。節子さんには牛巻病院へいけない事情があったんだから。私はそのころキョウちゃんといっしょにすごす時間がたくさんあったの。キョウちゃんのセンチメンタルジャーニーに何度付き合わされたかしら。何度付き合っても、ちっとも飽きなかった。だって、大将さんみたいな人といっしょにすごした景色をたどっていくことに飽きるはずがないでしょう。節子さんのこともよく聞かされたわ。ほんとにキョウちゃんは節子さんのことを愛していたのよ。浅野先生のことも何度も聞かされた。素ちゃんはキョウちゃんといっしょに浅野先生のおうちにいったんですってね。留守で会えなくてよかったわ。つまんない男だから。まだ私がいってないのは、キョウちゃんの生まれ故郷の熊本と、三沢の岡三沢小学校と、横浜の青木小学校と、名古屋の川原小学校だけ。もうそろそろ、キョウちゃんとむかしの時間を旅する暇がなくなってきたわ。キョウちゃんが大勢の人の中で遊びはじめたから。その人たちに譲り渡したわけじゃないのよ。遊んでる子供を見守ってる感じ」
 素子が、
「キョウちゃん、今度センチメンタルジャーニーするとき、あたしも連れてって。二人で出歩いたことって、瀬戸しかないもん。うなぎ食べに」
「そうだったね。また名古屋にいったときに歩き回ろう」
「私も!」
 睦子が言った。節子は私をしげしげと見つめ、
「キョウちゃんには、望みとか、野心はないのね。私たちから離れて階段を上っていこうとするそぶりさえないもの」
 カズちゃんが、
「キョウちゃんは私たちのそばにいて、大切にするべきことを優先してるだけ。だから私たちは救われるのよ。神さまはおわしますって言うでしょう? 好きなように遊びながらときどき頭を使ってみたり、遊んでみたりしながら、私たちのそばにいてくれるの。台本じゃない言葉をしゃべってね」
 私はため息をつき、
「百回も言うけどね、ぼくはただの、いや、ただ以下の人間だ。一芸は野球だけ、頭が悪くて、移り気で、憂鬱持ちで、気が短くて―」
 睦子がプッと噴き出した。みんなつられて笑った。
「ぼくの言ってることに一つも嘘はない。中身も外見も、平凡以下だ。みんなもそれが見えるはずだ」
「残念ながら、私たちにはそれが見えないのね。キョウちゃんの中身も外見も〈ほんとうの鏡〉に写したら、とってもすてきよ。ほんとうの鏡って私たちのこと。信じてね」
 カズちゃんが言うと、またみんなうなずきながらにっこり笑った。素子が、
「アタマが悪いとか、憂鬱持ちだとか、自分で言う人がどこにおるん? キョウちゃんの言うことが嘘やとわかるわけはね、ふだん気にしとらんことを褒められたときだけ言うからなんよ。今度から、褒められたときは黙っとき。お姉さんも、信じてって言ったやろ」
「わかった。いつも気持ちいいぬるま湯に浸ってるよ」
「さ、女三人は遅番。睦子さんはどうするの」
「本郷のグランドにいきます。ブラバンとかバトンとか、いろいろ打ち合わせがあるので」
「お家は南阿佐ヶ谷でしょ。近いんだから、ときどき遊びにいらっしゃい」
「はい! ほんとは、この時期、それほどグランドに詰める義務はないんですけど、秋に向かって応援の充実を図りたくて」
「オープン戦があるらしいじゃないか」
「国公立大戦を挟んでポツポツ。キャンプが終わった八月の二週目くらいから秋季リーグ開始まで、十五試合くらいあります。ほとんど東大球場です」
 ちょっと散歩をしていくと言って、新宿駅で四人と別れ、あてもなく人混みの中を歩いた。カズちゃんの言った〈神〉の存在を信じようとしながら、往来する人びとの中で、友を思い、女を思い、忘れ得ぬ人たちを思い、新しい涙を流した。私をこれまで取り囲んできた、自分の命よりも大事な人びとを思う悲しみ―それは恐ろしく密度が高く、いつまでも抜け出せない沼のようだった。


         七十四

 六月十二日木曜日。朝から生暖かい霧雨が降っている。駒場に出た。
 一限のスポーツ身体運動科学の授業が、駒場グランド脇のさびれたプレハブ校舎で行なわれた。出席免除を受けているけれども、これも一度だけ出ておくことにする。見知らぬ学生たちと隣り合って長床几に座った。教授が入ってきたとたんに強い驟雨がきた。窓の外が真っ暗になった。即座に点けられた天井の照明が教室を煌々と照らす。保健体育の授業用の小屋なので、部屋の突き当りが黒板になっている。医学博士のその教授は、がさついた黒板の前で『血圧と病気』という外題の講義をした。彼の専門分野のようだった。運動嫌いの学生たちが熱心にメモを取る。彼らは運動に興味はない。
 私の前の席に坐っているジャージ姿の痩せた学生が、しきりにノートをぺらぺらやっているのが目に留まった。講義録を取っているのではないようだ。度の強い眼鏡をかけている。その眼鏡をうつむけて、数字ばかり書きこまれたノートをめくっては、じっと眺めている。左右のページに、数字がびっしり書きこまれていた。単純な対数表のようなものだが、興味がそそられた。
 授業がすんで、プレハブ校舎から学生の群れがぞろぞろ時計塔のほうへ移動していくとき、私は意識してその男を追うようにして歩いた。あの数字の正体を知りたい。男のジャージの背中が正門を出ていった。寮生を除けば、そんな格好で通学してくる学生はいない。それにしても、ジャージに革靴というチンドン屋ふうのいでたちは不気味だ。男が駅の階段を登りかけた。
「あの、失礼ですが」
 私は思い切って声をかけた。男は背中をビクリとさせて素早く振り向き、眼鏡を押し上げて私の顔を探るような表情をした。顔色が悪く、痩せた老け面だ。五つも上に見える。
「おう、花形ミツルくんか。なに」 
「ぶしつけなことをお尋ねしますが、さっき教室で見ていたノートは何ですか」
「あん? 何だっていいだろう。きみに関係ない」
 周囲をキョロキョロ見回し、ひどく警戒している眼つきだ。
「たしかにそうなんですが、単なる数字の羅列にあれほど真剣になるというのは、何か深いわけでもあるのかと思って。数式か何かですか」
 ようやく男の顔がほころんだ。
「数式というより、ただの数字だね。びっくりしたよ、尾(つ)けられてると思ってさ。ちょっとそこでお茶でも飲まないか」
 彼は階段口から引き返して、マルガの隣の喫茶店を指差した。
「おごりますよ」
 男は硬い表情に戻り、
「誘ったほうがおごるのがあたりまえだろう」
 男の背について喫茶店に入った。男は水を一口含み、
「花形ミツルくんは、競馬したことあるか」
 と尋いた。
「神無月と呼んでください」
 と答えると、
「悪かった。神無月くん、競馬知ってるか」
 知りません、と答えた。
「神無月くんは、現役できたんだよね」
「はい」
 男はハ、ハ、ハァと息だけで笑った。私はその奇妙な笑い声を聞いて、こういうふうな笑い方をやってのけられるようになるまでに、この男が重ねてきたつらく苦しい経験はどれほどのものだったろうと思った。
「高校球界のホームラン王が現役で東大ってのは、キチガイ沙汰だな。人はそれだけで腰を抜かさなきゃいけない。だれもそんなそぶりを見せない。きみも不満そうな顔をしていない。……きみはきっと気遣いの激しい男だ。きみのような人はよく器用〈貧乏〉と揶揄されるだろう。人間まともに〈豊かに〉できるのは一つだけだって人は思いこんでるからね。だから多才のきみは豊かな一事に集中して見せて、その他の事柄を怠惰に流すふりをする。人を気遣ってね。しかし、根が勤勉な男だから、徹底して怠惰になれない。何ごとにつけ、好奇心が発動されてしまう。じゃなきゃ、俺のような影みたいな男に興味は持たないよ。俺はきみとは別の意味で多才でね。おかげで四浪した」
 私はある直観から、
「四年間、その数字に関係ある仕事をしてたんですね。ふつうに勉強したら、こんな大学四年もかからないでしょう」
 男は私に興味を感じたように言った。
「こんな大学と思うのか。正直だね。世の中で成功しようと思ったら、正直者というだけじゃダメだぜ」
「成功すると、厄介ごとが多くなります。成功したくありません」
「それもまたえらく正直な意見だな。……俺は成功したい人間だから、不正直だ。金を握ること、すなわち世間での成功だ。成功して、厄介ごとが増えた。忙しく不正直に商売してたからだよ」
「商売って……」
「―ノミ屋」
「何ですか、それは」
「電話で注文してくるやつの馬券を買ってやって、外れたら賭け金の回収、当たったら馬券を金に替えて払い戻し、歩合を十パーセントもらう。さっき見てたのは、顧客のリストだ。五十音を番号にすり替えた名前、そこに電話番号をつづける。ギャンブラーなんて表面あきらめたようなことを言いながら、運命に対していつも不平を吐いてる連中だよ。もっといい運命を探して馬券を買いつづける貧乏人。そういうやつは、十中八九見栄坊で金払いがいいから、回収はラクだ。ノミ屋というのは忙しいんだ。忙しい中で寸暇を見つけて受験勉強したんで、四年かかった」
「東大にこだわったのは、政治家か官僚にでもなるつもりで?」
「そういう連中の人生はおもしろくない。口を開けば現実を語るだけで、その裏側に関心はない。ヤクザ商売をつづける都合で、男っぽい肩書がほしかっただけだよ。そんなことはどうでもいい。身が危うい。ヤクザの金を呑んでしまった」
「のんだ?」
「ああ、頼まれた馬券を買わなかった。三万円の万馬券を二千円、六十万ものんでしまった。そいつが大学まで追っかけてきたのかとすくみ上がったよ。俺の正体なんか知るはずがないから、おかしいとは思ったがね」
「なるほど、まったく買わなかったら、賭け金の回収分がソックリ儲かるわけですね。買わないで中(あ)てられたら、安い配当も高い配当も、それを自分のふところから出さなきゃいけなくなる。高い配当のときはたいへんだ」
「そうだ。いまその状態だ」
 ひどく愉快になってきた。東大にこんな男がいる。林に次ぐ発見だ。
「命が危ないんですか?」
「命までは取らない。腕一本ぐらいだろう」
「ぼく、助けてあげられるかもしれませんよ。松葉会に知り合いがいるんで」
「松葉会って、指定暴力団の?」
「はい、幹部にも知り合いがいます」
「いや、遠慮しとく。ことを荒立てたくない。ことを荒立ててうまく話がつかないときは、それこそ命が危うくなる」
「じゃ、どうするんですか」
「ギャンブルの失敗はギャンブルで帳消しにする」
「六十万も」
「ああ、取り返せる。その現場を見せてやる」
 日時を約した。六月十六日、日曜日、十二時、府中競馬場正門前。国公立大戦の初戦の日だが、見物にいかなくてもいいだろう。
「楽しそうですね。いくらぐらい持っていけばいいですか」
「一万円ぐらいにしといたほうがいい。あるだけ賭けたくなるのが人の常でね、勝てば喜びどころの騒ぎじゃなくなるし、旗色が悪いときは、地団太踏むどころか、欲ぼけの狂気の沙汰になって、次こそ勝てると信じて疑わずにぜんぶスッてしまう。馬券は一口百円ポッキリだ。遊びならそれでじゅうぶん夢を見られる。百円単位で買うのが賢明だ」
「わかりました」
「俺は辻だ。じゃ、日曜にな」
         †
 十五日の土曜日までの三日間、まじめに練習に出た。偶然、梅雨(つゆ)の中休みのような五日間で、どの日も雲の合間から薄日が射していた。陽が当たると少し暑いけれども、日蔭は涼しかった。
 三日間、毎夕、練習から帰り着くと、テレビのサンドストームでも眺めるようにしばらく高円寺駅の改札脇の壁にもたれてぼんやり人の流れを見つめた。気分が不思議に澄んでいて、いつまでも思い出せない原始的な記憶の溶液の中に安らいでいる感じだった。
 ひっきりなしに改札口を人が出入りする。帰巣という目的があるとき、人は確かな足どりになる。下り方面の降り口に眼をやる。電車が出ていってから少し経っているらしく人の動きはない。時刻表で次の到着時刻を見る。立川行、五時八分。構内放送が流れる。下り列車がホームに着いたのだ。下り方面の階段に目を凝らす。ぱらぱらと人が降りてくる。大学生らしき若い男が二人、つづいて中年の女。そのあと大勢の客が改札口に殺到してくる。この町で暮らす人びとだ。子供の姿はない。子供は帰巣を嫌い校庭で遊んでいる。最後の客が改札口を通ると、あたりが静かになる。構内放送が流れる。五時十五分の東京行上り電車。重い鉄の車輌がホームに入る振動が伝わってくる。人びとが改札口に降りてくる。一人ひとり見つめる。女子学生が三人まとまって姿を見せる。あとを追うようにジーパンに赤い半袖シャツの若者が姿を現す。少し伸びた髪がゆるく波打っている。女子学生の横をすり抜けるように改札を通り、短いコンコースを早足でいく。この間五分ほど。長い時間に思えた。目的のない完全な無為。私は毎夕、肩で息を吐いた。
         †
 素子が離れに退がってから、カズちゃんと風呂に浸かった。寝室で一回交わった。カズちゃんは、自分の白くふくよかな腹の上に吐き出した私の精液が肌の色を透かすほど薄かったので、
「しばらくしてなかったのに、薄いわ。あいだを空けすぎたのね。まんべんなく女の人を回るのはたいへんだけど、せいぜい四、五日にいっぺんはしないとね。心配。無理にまとめてしないかぎり、毎日でもいいのよ。女はほんのたまにしてもらえば何カ月もがまんできるけど、男はしなさすぎると体調を崩しちゃう」
 と言われた。
「まったく性欲が湧かないってことはめったにないんだけど、ふだんわがままにさせてもらってるから、体調はだいじょうぶだよ」
「女の気持ちなんか考えてあげなくていいのよ。いつでも準備OKと思ってれば」
 笑い合いながら舌を絡ませた。
 寝物語に、あした会う辻のことを話した。カズちゃんは興味深そうに聞いて、
「どうにもならなかったら、大将さんに相談してみる。話がつくまで、ここに泊まってもらいましょ。お金を貸してあげたっていいし」
 と言った。
「そういう男じゃない。誘ってもぜったいこないよ。金も借りない。賭け事をきわめた人間を見ると、肌寒くなる。……ヤクザの六十万円を呑んじゃったら、ぼくならどういう気持ちになるだろうな。いままで見たことも聞いたこともないような、とても大きな不幸が頭の上で羽ばたいているような感じかな」
「お金ですむことよ。六十万円を返せばそれで終わり。人から借りるのに信義は必要だけど、借りたものを返すのに信義もへったくれもないもの。少し利子でもつければあと腐れないでしょ。彼はただストレートに返すのじゃなく、格好よく返したいのよ。ギャンブラーとしてね」
「そろそろ、引越しすることを大家に言わないと」
「私が電話しといてあげる。マスコミの動きがあわただしくなってきたので、ご迷惑をかけないようにと言っておくわ。さ、素ちゃんのお部屋にいってあげなさい。起きて待ってるわよ」


         七十五

 カズちゃんも素子も日曜出勤だったので、朝めしを食ってからいっしょに出た。霧雨が降っている。梅雨明けが待ち遠しいけれども、明けたら明けたで真夏の陽射しが毎日降り注ぎ、道を歩くのでさえ億劫になる。ポケットに二万円入れた。
 商店街で少し高級な傘を買って持たされる。カズちゃんとフジの前で別れ、素子と構内の売店の前で別れた。売店で競馬新聞と赤ペンを買った。NHK杯と大きな見出しが出ている。ずらりと並んでいる馬の名の下に、何レース分かの競争成績や、何のことやら見当のつかない記号が印刷してあった。きれいな模様にしか見えない。タケシバオー、アサカオー、マーチス……。
 車窓から見上げるセメントの空が硬く押してくる。初めてやる競馬というものに好奇心が高まる。横地や杉浦たちと麻雀をやって以来の緊張感だ。ただ、金を増やすという単純な目的に違和感がある。二万円を捨てようという気になる。どうせ捨てるなら、人とちがった賭け方をすること、むろん辻ともちがった賭け方をすること、そして、しっかり敗北すること。
 西国分寺で乗り換え、府中競馬場前で降りる。新宿どころではない人混みだ。霧雨を顔に受けながらイチョウ並木を歩く。新しい景色をさえぎるので傘は差さない。出目表を売る男が、オレの手柄を見よと叫んでいる。競馬場に向かう人びとがレースの開始時間に合わせて急ぎ足に歩く。それ以外に彼らには生活の時間の標識がない。きのうもきょうも、おそらくこうして流れている。
 ―二度はここにこないな。
 約束より一時間も早いので、道端の喫茶店に入ってジャムトーストを食べる。競馬新聞を開き、自分なりに理解しようとするが、わからない用語ばかりだ。ハロン、上がり、中間時計、トモ、入れ込み、上積み、オープン、追い切り、展開、芦毛、ボックス買い、返し馬、屈腱炎、ズブい、セン馬、フケる……。あきらめて、気に入った名前の馬に赤ペンで印をつける。
 入場券売場の前で傘を差した辻が待っていた。トキノミノル記念像の前に連れていかれた。ミニチュアの鋼銅。
「二十年も前に走ってた馬だ。十戦十勝というのもすごいが、ダービーを勝った直後に破傷風で死んだのもすごい。膝が悪くて、調教はじゅうぶんできない、蹄はいつも割れて痛がる、そんな状況で七回もブッチギリのレコード勝ちをした。天馬だね」
 そう言って、傘を傾けて小さな記念像を見上げた。
「次の六レースからやるか?」
「は? 何レースからでも」
「じゃ、パドックへいって馬を見よう」
 パドック? 聞いたことのない英語だ。質問しない。
「気に入った馬がいたら、その馬の一着馬券か、三着までくればいい馬券か、その馬のいる枠とほかの枠をからめた馬券を買えばいい。単勝式、複勝式、枠番連勝式だ。馬が入る枠は八つある。馬券はその八つをからめて考えるんだ。たとえば気に入った馬が七枠にいて、もう一頭気に入った馬が三枠にいたら、三七と買うわけだ。七枠からぜんぶ流して買う手もある。思ったとおりにやってみろ」
「はい」
 何も〈判断〉しないで買おうと決めている。パドックの柵に寄ると、わずかな雲間が空いて雨脚が弱くなった。辻は傘を差したままだ。
「馬が見づらい。上にいこう」
 傘を閉じ、パドックを見下ろす投票場に登っていく。十数頭の馬が周回している。10番をつけた五枠の一頭の馬が目についた。小柄でさびしそうな馬だ。吉永先生をイメージした。好みで〈判断〉してしまった。しかし、功利的な判断ではない。オッズ表の単勝というところを見上げると、86・1と出ている。ほかに1・7とか3・5などという倍率も見えることを考えると、たぶん大勢の人たちにとって〈意外〉な馬に属する。私は昭和二十四年五月五日生まれだ。2・4と5・5と2・5と4・5の枠番連勝式を千円ずつ買い、1949年生まれなので、1、4、9の単勝式と複勝式馬券を千円ずつ買う。10番の単勝も千円買った。一万一千円。もう半分以上使ってしまった。
「どこで馬券を買うんですか」
「穴場だ。通路沿いに腐るほど並んでる。どこの窓口でもいいから、金を握った手を突っこんで、自分の決めた買い目を言うんだ」
 僥倖切符を十一枚買い、辻とゴール前にたたずんだ。馬券を見せろと言う。
「百円で遊べと言ったのに、無茶な買い方だな。十一番人気の単勝まで千円で買ったのか。さすがビギナーだ。このレースは十中八九、三枠の馬か六枠の馬だ」
 私の買った枠馬券には入っていない。
「買ったんですか」
「いや、決めてあるレースしか買わない。NHK杯だけを買う」
 競争開始の勇ましい音楽が流れ、白い旗が振られる。ガシャッ! という乾いた音を立ててゲートが開き、揉みしだくような激しい先陣争いが始まる。するどいムチの響きの中で時間が澄みわたるようだ。コースの曲線なりに疾駆していく馬群から砂塵が上がる。泥かもしれない。馬と騎手が一体となって驚くばかりのスピードだ。すごい……。思っていたよりも馬がドッシリしている。
 向こう側の柵沿いを通過していく馬たちに、微妙な順番の変化が見える。あの小柄の馬はどこにいるのかわからない。人馬の大群が最後のコーナーを回って直線路に入り、こちらに向かって驀進してきた。鞭をふるって激しく競り合い、ゴール目指して突進する。ムチに応える馬たちのあまりに必死の走りように、胸が苦しい。わずかな分秒の射幸の鼓動。その鼓動はすぐに止んだ。五枠の馬がいない。どこに紛れたのかもわからない。
「ほら、三六(さぶろく)だ」
 辻が静かな声で言った。ゲート際に陣取って大声を上げていた男たちが、新聞を手に引き揚げていく。勝利した馬が鞍を外される。裸の背中からもうもうと湯気が上がる。脚もとの水溜りが風に吹かれて小波を立てている。
「きみもNHK杯まで見(ケン)したほうがいい。残りの金はNHK杯で使うんだな。めしを食おう。どうせ朝めし食ってないんだろ」
「食いました」
「じゃ、付き合え。いまの三六は九・二倍だ。百円が九百二十円になった。銀行の利子を考えると不届きな倍率だ」
 辻は食堂でカレーライスとおでんを食べた。私はコーヒーを飲んだ。
「神無月くん、俺は東大をやめるよ。浪人四年、登校三カ月。なんだか惜しい気もするけど、俺のいる場所じゃない。安全すぎていやになる。俺には危ない生活が向いてる。きょう金を作ったら、あした退学届を出すつもりだ」
「……イヤ気が差しましたか」
「そうじゃない。俺にふさわしい居場所じゃないってことだ。それより、弁償する金を確実に作らないとな」
「どのくらいの確実性ですか」
「予感は百パーセント。ギャンブルに確実性はないが、この馬券は獲れるという予感が確実にある。タニノハローモアの複勝を十万円買う」
「十万円!」
「ああ。三着までくれば七百円以上つくだろう。弁償してもおつりがくる」
 辻が買おうとしている馬も新聞によると〈意外〉な馬だった。しかも私の無思慮な買い方とまったくちがって、シッカリ研究を重ね、委細を推理したうえの結論だ。
 三時近くまで腰を据えて、焼きそばやメンチを肴にビールを二本ずつ飲んだ。酔った。いつのまにかすっかり雨が上がっている。
「競馬は高校時代に目覚めた。最初は近所のプーたちの使い走りで馬券を買っているうちに、そいつらが客になるようになった。彼らのおかげで客層が広がり、計画的に商売できるようになった。呑むためには、相当研究しないといけない。危ないことも何度かあったが、なんとか貯金でしのげた。浪人して、受験勉強もしながらだと、厩舎に出かけていくような細かい研究ができなくてな、新聞一本で頭をひねることになった。それでも浪人中は大失敗らしいものはなかった。合格して、浮かれて、適当に呑んでるうちに、今回のクライシスだ」
「そんな苦しい生活で手いっぱいだったのに、いや、ある意味充実した生活をしていたのに、東大にくる意味があったんですか」
 辻は苦笑いして、
「オヤジが東大出でな。何を教えてるか知らんが、地元の滋賀大学で教授をしてる。膳所(ぜぜ)高校から東大―至上命令だったんだよ。俺の人生の汚点だ。……いまな、競馬のノミ屋を卒業して、ボートレースを研究中だ。いずれ旅に出て、地方競馬で貯金をボチボチ増やしながら、全国めぐりをしようと思ってる。きみの言うとおり、俺にとってこういう生活が大充実のもとだ」
 まぶたが熱くなった。
「あと九千円あります。辻さんの意外な馬の単勝を五千円、複勝を四千円買います」
「俺の研究によれば、意外でもないんだぞ。ただ、きても三着までだと思う。複勝はいいとして、単勝は危険だ」
「いえ、記念に買うんです。当たったらお金にします。当たらなかったら、馬券をずっととっておきます」
 二人で馬券を買い、ゴール前へ戻っていく途中でラッパが鳴った。ふと、上のほうのスタンドのガラス張りの馬主席に目をやった。双眼鏡がいくつも並んでいる。
 ゲートが開いた。タニノハローモアが先頭に飛び出し、後続を引き離していく。ほとんど地を踏んでいないように見える。色鮮やかなゼッケンの群れが地響きを立てて目の前を過ぎた。辻を見ると目をつぶってうつむいている。
「いま向こう正面か」
「はい」
 まだ目をつぶっている。
「先頭のままだな」
「はい」
 やがて馬群が直線に向いて私たちを目指してやってきた。カッと辻が目を開いた。
「よし、粘りこめ! 三着でいい、一着はマーチスに譲ってやれ!」
 重量のある足音がなだれこんできて、目の前を怒涛のように駆け抜けた。何がなんだか見分けがつかない。
「よし、取った!」
「タニノハローモアは何着ですか」
「三着だ」
 私は記念の単勝馬券を内ポケットにしまい、的中の複勝馬券を笑いながら辻に示した。辻は私の肩を抱いて大笑いした。
「絵に描いたようなビギナーズラックだな。さあ、金に替えるか。ああ、首がつながったぜ」
 辻は悠然と穴場に向かった。私は嬉々としてついていった。信じられないほどの感激がある。穴場に人が列をなしている。場内放送が流れる。
「お、七百三十円もついたぞ。七十三万。やっぱり、おつりがきたよ。神無月くんは二万九千円か。おめでとう」
「捨てるつもりだった金が九千円増えました。ありがとうございます。達人の技を見せていただきました」
 辻は穴場で、うっすらと微笑しながら札束を受け取った。案外厚くなかった。私も少ないながらタナボタの金を掌の上に載せられた。この金をどうしようかと思った。いちばんふところの寒い素子にくれてやろう。しかし、私がそんなことをして素子が喜ぶだろうか。無理に渡せば受け取るにちがいないけれど、喜びはしないだろう。負けたと言うのもわざとらしい。
「神無月くんは俺の福の神だ。きみがいなければ、タニノハローモアは三着までにこなかったかもしれん。ご祝儀、十万取っといてくれ」
 有無を言わさぬ感じで胸のポケットに押しこんだ。法子と蕎麦屋で再会して以来、福の神と言われたのはこれが二度目だった。神さまよりは、ひょうきんで、響きのいい言葉だ。
「十万円ももらって、大金持ちになっちゃったなあ。どうやって使ったらいいかわかりませんよ」
「自然になくなるよ。また競馬に使わなければ、少しは長持ちするだろう」
「競馬はしません。どんなことも楽しめるのは、達人だけです。辻さんは競馬を心から楽しんでます。羨ましいです」
「達人というのは、達成した人だな。神無月くんは達成の必要のない天才だから、野球は楽しくないのかな?」
「無条件に楽しいですが、刻苦して積み上げてきたものではないので、達成感はありません。強いて言えば、身に備わった天賦を確認する爽快感ですかね。やり遂げたという感じじゃないんです」
 辻は微笑し、
「達成物が、もともとの自分だったということだな。つまり自分が生まれながらの達人だったということを確認できるなんてのは、猛烈に爽快なことだろうな」
「はい。爽快感はからだの快適さですが、達成感は精神的な充足です。心から人を愛しいと思ったときや、美的にシックリくる文章を書けたときに、達成感に満たされます」
「愛は達成か」
「はい……ぼくの場合は」
 きたときよりも足どりののろい人混みの中を歩く。道沿いの民家の寒竹の垣に、雨上がりの清潔な陽射しが落ちてきた。色提灯を垂らした屋台が出ている。二人でコップ酒をひっかける。一杯が二杯になる。酒が強くなったのか弱くなったのかよくわからないが、きょうばかりは酒が胃袋に響かない。
「あした中退届を出す。もう、きみには会わないだろうな」
「名残惜しいですね」
「どこにいてもきみを応援するよ。思い出すたびにね。野球はよく知らんが、一度だけ法政戦を観にいった。きみは何本かホームランを打った。一直線に遠くへ飛ぶボールを見るのはたしかに爽快なもんだ。自分にできないことを人に託す気持ちはみんな同じだと思う。打ちまくってほしいな」
「はい」


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