七十六

 私たちはホロ酔いで電車に乗った。鉄橋から見下ろす大きな川が、泥水を集めて乱暴な流れ方をしている。上流に見える山並の空が夕映えに包まれている。森や藪畳の模様が目に暖かい。夏が近い。稜線のあたりに紫の縞模様がかかっている。それを見ているうちに窓ガラスに残照が射してきた。私はしばらくそれに目を炙(あぶ)ってから、ゆっくりと車内広告に視線を移した。
「辻さん、唐突ですが、芸術をどう思います?」
「さびしい特殊な人間の排泄物だ」
「ああ、まったく同じことを考えたことがあります。奇特な連中だけが寄ってきてにおいを嗅ぐ……」
「そこまで選良的なものじゃないと思うが……ま、排泄物にすぎんな。ポチポチ散らばってる分には大してにおわない。そういう場合の芸術は、人びとの辛気くさい人生の大事な香水だと思ってるよ。ただ、ひとまとめに肥溜めに溜めると、やたらにくさい」
「芸術家が徒党を組んだらということですね……」
「耐えられない悪臭と、猛毒を垂れ流すね。しかし、孤立した芸術家なんてのは聞いたことがないだろう。スポンサーがかならず全員集合をかける。芸術家も集まるしかないんだな。道端で適当なクソをひらせてもらえないとなると……公衆便所じゃ、いいクソはひれないな。たまに何万人に一人というやつもいるけどね」
「わかりやすい比喩ですね! 中原中也も、啄木も、孤独に道端でクソをひりました。しかし、道端だろうと、公衆便所だろうと、いいクソをひる人はかぎられてると思いませんか。野球も、物理学も、芸術も、それらを包摂する人間そのものもそうです。その事実だけが人類の希望なんですよ。その一人にめぐり会いたくて、人は生きるんです。どう理屈をつけても、辻さんも芸術を特別扱いしてますね。野球も、ギャンブルも、東大も、父親も、滋賀大教授も、ヤクザも、特別扱いしてますね。ぼくは何も、だれも、特別扱いしません。すばらしい事柄や、すばらしい人間に出会って生き延びようとしてるだけです」
「神無月くん、きみは偉大な無秩序だよ。矮小な秩序の対極にいる。きみのホームランを見たとき、爽快さを超えて、美しく感じた理由がわかった。理屈を越えてたからだね」
「辻さんも、ぼくが会いたかった美しい人間の一人です」
「光栄だ。きょうきみとすごしたことは、旅立ちのいい記念になった」
「じゃ、ぼくはここで降ります。さよなら。お元気で」
 高円寺駅のホームから車中の辻を見送った。彼はドアの窓から照れくさそうに小さく手を振った。本能的な無頼に殉じている、癒しようもなく寄るべない男!
         †
 夕食はビーフカレーだった。私はスプーンを動かしながら、辻とすごした一日の感動を話した。胸ポケットから金を取り出してテーブルに置き、
「どんな分野にも、道を極めた人はいるもんだね。今度はボートレースを研究するんだって。どんな旅をするんだろう」
「履歴書と関係ない旅ね。気持ちよさそう」
「その人、腕落とされんでよかったわ。ヤクザはお金に細かいから、返せんとなったら腕でも首でも取るよ」
「そういうことをするのは、ケチなんじゃなくて、貸し借りの面子なのよね。お金にかぎらず、ヤクザは面子がすべてだから」
「プラグマティズムじゃない義理人情だね」
「そう、ヤクザは精神性が高いのよ」
 素子は、ふうん、と信じられない顔をする。
「みんな大将さんみたいなヤクザばかりやとええけど」
 辛くてコクのあるカレーを、三人とも二膳ずつお替りした。コーヒー。
「素子は最近どんな本を読んでるの」
「山本周五郎全集」
 いつかカズちゃんが青森で買ったものだ。
「じゃ、吉永先生と話が合うね。彼女は周五郎の大ファンだから」
「季節のない街がよかった」
「あれ、すてきね」
「―そうだね、うん、ほんとだ」
 思い入れたっぷりに私が言うと、素子は、
「あ、それ、食中毒で死んでまう子供の科白やない?」
 正解! と私は手を叩いた。 
 カズちゃんは、仕事帰りに素子としめし合わせて買ったというプレゼントを私に渡した。リボンつきのケースを開けると、黒い牛革の財布とガマ口だった。カズちゃんは机の上に出しっぱなしの紙幣を財布にしまった。私はがま口に小銭を入れた。
「二人で、キョウちゃんが勝って帰るか、負けて帰るかの賭けをしたの。二人とも勝って帰るになっちゃって、賭けにならなかったから、お金を出し合って財布を買ったの」
 私は財布から十万円を抜いて、有無を言わさず五万円を素子に差し出し、
「これで服を買うなり、お母さんにボーナスをあげるなりして。それからカズちゃん、こっちの五万円は吉永先生に送ってあげて。少し苦しい生活をしてると思うから」
「了解。素ちゃんみたいにアッケラカンとしたところがないから、キョウちゃんから直接渡すのは間が悪いんでしょ。節子さんは、このごろお母さんからかなり仕送りがあるらしいわよ。法子さんは家が資産家だから、お金に不自由することはないしね」
 素子が、
「これ、ぜんぶおかあさんに送るわ。何カ月かいいお小遣いになるやろ」
「妹は立ちん坊してるんだっけ?」
「お姉さんとこのトルコに勤めとる。たいそうな実入りやから、おかあさんにラクさせてやっとるやろ。でもこの五万は喜ぶはずや。あたしはうんと貯金せなあかん。自分のお金で動き回りたいで。着るものはぜんぶお姉さんのお下がりを仕立て直しとるんよ。どんな服よりも高級やが」
 私は首を振り、
「みんなエネルギッシュだね。ぼくはプロへいくまでヨタロウだ」
「あたりまえでしょ。もともと人間はぜんぶヨタロウよ。お金を稼いで社会人と呼ばれるの。キョウちゃんは人間の原型。お金なんか稼ぐ必要がないわ。しっかり野球をやって、うんと食べて、ときどきセックスして、本を読んで、ものを書いてヨタロウしなさい。それだけでもふつうの人間にこなしきれる生活じゃないわ。だれよりもエネルギッシュなヨタロウよ。で、お馬は好きになったの?」
「ドッシリとしてて、きれいだった。でも走る姿が苦しそうだった。自分から進んであの姿を見にいくことはないだろうね。馬券を当てるのは至難の業だ。娯楽と考えて、お金を捨てるつもりじゃないと、かなりストレスになる。競馬も、深く研究した人のものだね」
         †
 翌十七日月曜日、上野詩織の言いつけを守って、前期試験の時間割を見にいった。小糠雨。ブレザーを着て、革靴を履いた。
 高円寺駅前から電話をして、林と正門前で十時に待ち合わせた。そのほうが見落としがないと思ったからだ。林は手提げバッグから赤紫の液体の入っている瓶を取り出し、
「これ、実家で採れた葡萄の原液ジュースだ。持ってけ。濃いからいっぺんにたくさん飲むなよ。ちびちび楽しめ」
「ありがとう」
 ラベルの貼ってないただの瓶だ。ホンモノという感じがした。
 二人で掲示板に近づき、英、仏・露の教場試験会場と七教科のレポート試験のテーマをメモする。体育は、欠席三回までの学生は合格とすると書いてあった。私は例外になる。
・世界史概論―担当高埜。日本近世国家の構造的特質を授業内容に即して論じよ。
(たしかに日本は世界に含まれるな。構造的という言葉は最近よく聞くが、薄ぼんやりしているな)
・西洋近代文学史―担当井上。タレス、パルメニデス、プラトンは、いかなる言語空間を開いたか。これに対してアリストテレスの開拓した言語領域はいかなるものであったか。
(これは文学というより、哲学か言語論ではないのか。もちろんさっぱりわからない)
・万葉集論考―担当稲岡。坂上郎女(いらつめ)の怨恨謌(うた)の対象について諸説を記し、もっとも可能性の高いと思われる説およびその理由を示せ。
(なぞなぞか? 参考書があってもどうにもならないな)
 手帳に書きつけながら私は、構内でしばしば見かける丈の短い皮ジャケットや、黒のタートルネックや、うなじの下まで垂れている長髪がゆき交うのを眺めた。この無目的な大学は、無目的だからこそ流行のメッカでもある。林が、
「ビートニクか。作家や音楽家を気取ってんだな。アンディ・ウォーホール、ボブ・ディラン、ビートルズ。東大というのは、他人になりたいやつの集まりだ。で、なになに、教場試験の目玉は英語とフランス語だけだな」
 手帳を出して掲示板を舐めるように見る。
「ぼくは英語だけ。あとは上野詩織に連絡して、レポートを書いてもらう」
 登録しているいくつかの科目のどれ一つとしてノートも取っていなければ、レポート範囲についての知識のカケラもなかった。一度も講義を聴いたことのない科目さえある。われながら呆れ返った怠慢だが、どうやってレポートに臨むかという当然の課題がまったく頭に浮かばなかった。受験勉強をクリアーしてきたことが信じがたかった。
 母に学業成績のことはまだ知られていない。いや、まだ結果すら出ていない。結果は瞭然としている。ひとたび成績不振の結果が出たら、遅かれ早かれ母のアンテナに捉えられるだろうし、そうなったら彼女は仕事を休んででも上京してくるだろう。そして、学生課か野球部事務所に駆けこみ、野球をやめさせるようにと諄々と訴えるにちがいない。母はコトを大ごとにする口がうまい。大学は親の直訴には抗えないし、子は親の折伏(しゃくぶく)に抗えない。いや、抗って実があったためしがない。母がその挙に出る前に万全の策を講じなければならない。
 母がどう思おうと、私は東京大学に野球をやりにきた。私としては野球だけやっていればいい理屈だ。しかし、表向き、大学で〈学問〉をしていて、それに関する前途も暗くはないという気配を見せておかなければ、これから二年間の私の野球の命運は危うい。野球部の仲間たちは表面的な風聞を耳に入れただけなのに、そのことを私よりもずっと深刻に考えていた。秀才の彼らが助力を申し出たのもそれゆえだった。
 私は入学以来ずっと自尊心の靄(もや)に包まれていたため、学内の試験をどんなふうに切り抜けるかという不安が頭に浮かんできても、周囲の学生たちと自分を比較して、彼らと同じ試験を受けたとしても劣った成績をとるわけがないと安心していた。それが怠慢のもとになっていた。しかし、あのフランス語の講師のおかげでその思い上がりは幻と消えた。とつぜんのことだった。私はスケールが根本的にちがう〈学問〉に取り囲まれていると知った。受験勉強とはまったくちがう、到底太刀打ちできない〈修学体系〉の中に放りこまれてしまったと知った。
 ……こうなった以上、上野詩織たちが心頼みだ。まさか他力を頼むことになるとは思わなかったが、少なくとも二年間は、せめて野球をやっているあいだだけでも、この急場を学問に馴致された人たちに救ってもらうしかない。
 林と生協へいく。
 タレが薄くてエビの小さい天丼を林と食っていると、上野詩織がウィンドウを笑いながら叩いて、ちょこちょことテーブルにやってきた。私はメモを渡した。
「これ、レポートのテーマ。七教科だった。教場試験の英語は何とか乗り切るから、レポートお願い。フランス語とロシア語は落とす」
「わかった。英語の教場試験の予想も作っておくわ。七科目ぐらい、何てことないわよ」
 林が詩織に、
「練習の催促にきたのか?」
「神無月くんの練習は自由参加になってるの。二つ目の判子、やっと完成したわ。時間かかったァ」
 私に判子を手渡す。フォロースルーに入ったバッターの姿が彫ってある。
「なんだなんだ、ちょっと見せろ」
 林が奪い取って窓にかざす。
「こりゃ、いいや。上野が作ったの」
「そうよ」
「天下の東大生が勉強もしないで、こんなことばっかやってるのか。ついでに、俺にも作ってくれ」
「だーめ。好きな人だけ」
 丸眼鏡を指で押し上げ、イーをする。
「神無月くん、お願いがあるの」
「なに」
「山中湖の旅館で唄った江利子、また唄ってほしいんだけどな」
「ここで?」
「そう。あのすばらしい声を、みんなに聴かせてあげたいの」
「江梨子か。俺ももう一度聴きたい。裏をつけてやる」
「じゃ、三番だけ」


         七十七

 林がハスキーで伸びやかなファルセットで導入部を唄いはじめた。

  海辺のお墓 その下で
  静かに江利子は眠っている
  野菊だけど 江利子よ
  摘んできたぜ 江利子よ
  いまでは逢えはしないけど
  残る名前の美しさ

 食堂じゅうから大喝采が起こった。膳部のおばさんたちも手を止めてこちらを見つめている。林がまた性懲りもなく涙ぐんでいる。
「林も山口も、涙腺がどうかなってるのか」
「おまえの声がどうかなってるんだよ。なんというのかなあ、内臓(はらわた)をえぐるというか。とにかく、とんでもない声だよ」
「ほんとにすてき! そこらへんの歌手が裸足で逃げだすわ」
「林と二人で新宿の店のバンドをバックに唄った。歌は林のほうが数段上だ。上野さんは林の歌を聴いたことがないだろ。それこそ、内臓をえぐられるぞ。おもいで―耳にこびりついてる」
「なんだか二人、恋人同士みたい。なんていうお店」
「グリーンハウス。歌舞伎町からちょっと逸れた区役所通りにある。法学部の山口という男と林が勤めてる。ぼくは、飲みにいったら唄う」
 食堂にいた何人かの女子学生が寄ってきて、
「歌手のかたですか?」
 と尋く。
「何言ってんだ。野球部の神無月を知らないのか。東大の名を一段と上げてくれただろう」
「あ、三冠王!」
「そうだよ。神無月の歌はプロじゃない。神の域。人間どもに聴かせるのはもったいない。俺の歌はセミプロ。将来もセミプロのまま。いずれ、博報堂の人なんで」
 と林が答えた。詩織が、
「そればっかし」
「じゃ、神無月、ちょっと授業に出てくるわ。あんたたちも去って。なに手帳なんか出してんだよ。サインなんかする暇ないよ。この二人、いまから野球のスケジュールの打ち合わせだから」
 林が女たちの肩を抱えて去っていくと、詩織は急にまじめな顔になり、先に立って表に出た。菊の門を出て線路沿いに歩きはじめる。踏切を渡る。腕を組んできた。
「林くん、私の気持ちをわかってくれたみたい。きょうこそ、こないだの願いを叶えてくれない? ぜったい面倒なことにならないって誓うから」
 一昨夜も時間差でカズちゃんと素子を相手にしたので、少し億劫な気がした。遊び心で抱きたくなかったので訊いた。
「ぼくのこと、好き?」
「それ以上。苦しいくらい」
「わかった。マンションへいこう。ぼくはちっともロマンチックじゃないよ。驚くと思う」
「神無月くんの存在自体がロマンチックよ。何を言っても、何をしても関係ないわ」
 真昼の路に二人の靴音が響く。会話は単刀直入に。
「きょうは危険日じゃないね」
「はい。最初から露骨ね」
「言ったろ、ロマンチックじゃないって。処女?」
「……そう」
「オナニーしたことは?」
「どんどんくるのね。もちろんあるわ。もう十九歳よ。十歳くらいからしてる。一カ月にいっぺんくらい」
「上野さんもどんどんくるね」
「……女のからだに詳しいの?」
「ぼくはヤサグレてる感じがする?」
「ううん、その逆。でも、女が放っておかないって感じ。……心配なことがあるの」
「なに?」
「女のあそこって、グロテスクでしょ。神無月くんがガッカリするんじゃないかって心配」
「性格と同じように人それぞれだからね。でもぼくは神秘的で美しいものだと感じる」
 神泉駅を遠く見下ろすマンションに入った。先日の管理人がいる。寛容な笑顔で頭を下げた。私も頭を下げる。
 詩織は鍵を開けてドアを入るなり、キスしてきた。きちんと返す。
「鈴木さんとは、青森から?」
「つい最近。……詩織はどうして野球部のマネージャーに志願したの」
「いつも神無月くんを見てられるから。女性志願者第一号は鈴木さんだったのよ。合格したその日に、東大球場の事務室にいったんですって。私は、神無月くんの受験写真が新聞に載ってすぐ。とうとう理想の人に会えたって思って」
 書棚が一つ増え、机の上にも本が積んであった。勉強家らしい部屋のたたずまいだ。詩織は私の渡したメモを机の前の壁にピンで留めた。六畳の万年布団は掛蒲団だけ畳んであった。清潔そうなシーツが覗いた。
         †
 小陰唇もクリトリスの包皮も湿って光っている。包皮が茶色く変色していないので、あまり頻繁にオナニーをしていないことがわかる。睦子は真っ白だった。長い小陰唇が折り畳まれて膣口を覆っている。よく見る形だ。指でつまんで拡げると、淡紅色の前庭に湯があふれていた。これで上野詩織の肉体に対する関心のほとんどが消え去った。あとは、この女に愛を感じるまではただの習慣になる。
「入れるよ」
 詩織は何度もうなずく。挿入すると、ふつうの広さの空間があった。温かく濡れた襞に触れる。この感触はいつも新鮮だ。密着の具合、深さ、響き。ここで行為をやめても悔いがない。動く。まったく痛がらない。何年にもわたる運動と、たぶん指を入れるオナニーのせいで、とっくのむかしに破瓜していたのだ。うぶな吉永先生や睦子の場合とはまったくちがう。動きだす。懸命に私を見つめていた目が自動的に閉じられる。やがて、おそらく本人も予想していなかったほどの反応が急激に訪れ、私も瞬間的に射精した。尻を引き寄せ、律動を伝える。
 引き抜き、詩織の痙攣する腹に眼をやる。何度も何度も固く収縮を繰り返している。そのあいだに、私は自分の性器についた彼女の体液をティシューで拭い、下着をつけた。詩織は私を見上げ、
「愛してます……ほんとに……きょうはありがとう。すぐ帰らないで。少しお話してってください」
 詩織は下着をつけ、服を着た。私は彼女の前にあぐらをかいた。
「合鍵、渡しておきますから、気が向いたら、ほんとに気が向いたときだけでいいから、遊びにきてほしいの」
「わかった。期待しないで待ってて。詩織に次の男が見つかったら、こないよ」
「見つかりっこないわ」
「詩織は、将来どうするの?」
「卒業したらクニに帰って、お嫁さん……かな。相手は、四つ年上の、慶應出のお坊ちゃん。父親同士出資し合って合弁のタクシー会社やってるんだけど、その人は今年新卒で入社して、バリバリやってるわ」
「そんな詩織に手を出しちゃって、お婿さん、気の毒だな」
「だいじょうぶ。神無月くんとのことは一生言わないから。……鈴木さんは命懸けね。目つきでわかる」
「詩織も同じ目をしてるよ」
「そうならうれしいけど。でも、どこか、奥行きがちがう。あんな目になるには、歴史があるんだろうなって思う」
「歴史……か」
 視線の力は一瞬の思いからくる。積み重ねたものからではない。
「練習は、今度いつ出るの?」
「さあ、気が向いたらね」
「マスコミにはうんざりでしょ。選手のそばでシャッターをパシャパシャ切らないでください、もっと遠くから撮影してください、ってお願いしたんだけど、ああいう人たちには馬の耳に念仏みたい」
「自分たちを天皇だと思ってるからね。ぼくたちは臣下。きのうの国公立大戦はどうだったの?」
「勝ったわ。医科歯科大に八対十二。国公立大戦は二、三年生が中心のメンバー編成なんだけど、毎年優勝か準優勝なの」
「へえ、意外だな」
「七月六日には一試合だけの京大定期戦、八月の頭には七帝戦があるわ。それが終わると、八月中旬に山形の鶴岡で一週間の合宿よ」
「夏季キャンプってやつだね。九月から十一月にかけての秋季リーグ戦のことしか頭にない」
「十一月は秋季新人戦、十二月は納会、三月は宮崎合宿」
「ほぼ、一年じゅう野球漬けだな」
「四年生中心になるのは、春秋のリーグ戦だけです。神無月くんには春季新人戦に出てもらっただけでじゅうぶん。リーグ戦のあいだはできるかぎりゆったりした気持ちと、しっかり温存した体力で大活躍してもらいたいですから。監督たちも同じ気持ちです」
「とにかく、合宿を含めて、リーグ戦以外は参加しない。いろいろなオープン戦にも秋の新人戦にも出ない。それでチームに不満が出るようなら、考え直すしかないな。たしかにわがままにやりすぎてるきらいがあるけど、野球をやりにきた以上、野球部をやめるわけにはいかない」
「だれも、何も言いません。みんなそのことはわかってます。気にしないでください。神無月くんのおかげで、東大が優勝できるかもしれないんだもの、神無月くんに無理強いするようなことはぜったいしない。ほかのメンバーも必死で練習したり、武者修行したりして、早く神無月くんに近づくことが先決だと思ってます」
「ぼくはがんらいわがままな人間じゃないんだ。足並を揃えることに効果ありと感じる場合は、このひと月の練習のように率先してやるけど。……たぶんプロにいっても、効果のない合同練習はしないという主張はするだろうね。色気のない話になっちゃった。……山形は詩織のふるさとだし、キャンプにいきたいのはやまやまだけど、八月中旬に一週間名古屋に帰省することが決まってるんだ」
「神無月くんがいけばみんな喜ぶでしょうけど、合宿は十五日から二十一日にかけてだから、かぶっちゃういますね。……レポート、書きあげたら、教務に提出しといてあげますね」
「ありがとう。お礼しなくちゃね。合宿から帰ったら、デートしよう」
「わあ、うれしい」
「どこがいい?」
「神無月くんの家のそば」
「近いうちに荻窪に引っ越すから、荻窪にしよう」
「楽しみ―」
 私がテーブルに向かってコーヒーを所望すると、詩織はキッチンで湯を沸かし、インスタントコーヒーをいれた。そのときに鍵も渡された。
「神無月くんのふるさとって、どんなところですか? 名古屋じゃなく、青森のほう」
「どんなと総括はできないけど……すぐ思い出せる風景は、海につづく坂道だ。渚へ下りていくゆるやかな坂道。坂のふもとの浜辺に、銀色の波が打ち寄せてる。岩浜じゃないから、実朝の歌みたいに砕け散ることはない。……静かなさびしい波だ」
「それはきっと、神無月くんの歩いてきた心の道ですね。コミュニケーションを徹底して拒否するための孤独なケモノ道」
「ふうん、おもしろいね。ぼくがケダモノとはね」
「神無月くんは底なしに孤独な、ケモノのような行動家です。ケモノのような行動力を持っている人が深い孤独をねぐらにしてるというのは、とても感動的です。寄り添えない孤独ってあるでしょう? 〈眠狂四郎〉みたいな」
「ああ、市川雷蔵だね。〈眠狂四郎〉が母親に監視されるかな」
「現実に神無月くんは監視されてるわけだから、その矛盾にふるえてしまいます。力の及ぶかぎりその孤独を癒してあげたい―でも、理屈を考えてるうちはまだまだなんですよね。鈴木さんみたいに、寄り添うことが無意識な行動だと言えるくらい、理屈抜きでしゃにむに愛さないと。理屈でわかるんじゃなくて本能でわかるくらい愛さないと」
「せっかく欠陥人間であることを指摘してくれたのに、結局褒めてるよ。理屈抜きで愛するなんてね。ぼくは褒められることを嫌わないようにしてるけど、どうしても慣れないんだ。これからはぜったい褒めないでほしい。ぼくに出会ったことは幸運じゃない。いつか悪運に変わる。そして社会的な破滅だ。その気配を少し楽しんだら、いつでもいいから離れていったほうがいい。ぼくには社会人とはこういうものだというイメージがある。自分から進んで危険なところに飛びこむことはしないけれども、いったんそうした場面に直面すると、びくともしないでそれと闘うだけの度胸のある人間、人生における危険を決闘相手みたいに心得て、ちゃんと自分の進退を考え、力量を測り、卑怯からじゃなく、息をつくためだけに争いをやめ、いまこそ有利と見たら一挙に敵を倒すといったような冷静な意志の持ち主。いつも戦いを予想してる。ぼくはそういう人間像からは程遠い。ものも考えずに、ただ風雲を予感して、いつも退避することを準備しながら、襲いかかられたときだけ反撃するケダモノだ。いざ風雲がくると瞬間沸騰して、なりふり構わず滅ぼうとする。それは行動力や度胸があるからじゃなく、単に臆病だからだ」
 詩織はこの上なくやさしい笑顔を私に向けた。
「破滅しない人って、さりげなく装いながら、おたがい腹の中を探り合うことに浮き身をやつしてる人のことでしょ。そんな人たちとは生きていきたくないなあ。表面上、いっときでも社会を圧倒して、結局破滅していくってのがすてきです。それが神無月くんの生き方よ。すてきな野獣」
 私は苦笑いし、
「やっぱり褒めてしまうね。好きにすればいい」
 服の上から片手で乳房を握り締めると、詩織はうれしそうに笑った。


         七十八

 六月二十五日金曜日。小雨。橋本家の庭の生垣の前。真っ昼間、リヤカーを挟んでよしのりと会話をしている。
「烏帽子岳を初めて見たときは、おお、と思った」
「なんで? どうということもない小山だろ」
「ああいう輪郭の鮮やかさは初めてだった。青空を背景に、くっきりとした輪郭が浮き出てたんだ」
「小さいころは見たことがなかったのか」
「人の顔と、家と、地面ばかり見て生きてたからね。海も、山も、空も、別に関心がなかった。五歳で国際ホテルにいき、六歳で進駐軍官舎、七歳で横浜、十歳で名古屋、十五歳でまた野辺地。その十五年間、屋根から上の景色を憶えていない。十五歳から目を上げて風景を観るようになった」
「で、感動したわけだ」
「最初はね。でもすぐ飽きた。やっぱりおもしろくない。振り仰いだあごは、地面にすぐ戻った。人間やグランドや机の価値を痛感した」
「おまえ、あのころもよくそんなことを言ってたっけな」
「苦しいとき、人は苦悩から逃れるためによく上を見る。何も成さないで救われようとするからだ。成すことは苦しい地面にある。でも、苦しさは人間の本質じゃないし、苦しさを解消するために生きることが人を活性化することもない。だからと言って、苦悩を癒そうとすることは、才能も独創性も殺す。救済の願望は怠惰な心に芽生えるからだよ。何かに夢中なとき、人は空の下しか見ない。地面に定住して、苦しんで初めて、天空に救いを求めずに何かを成そうと思えるし、才能の命じるまま生きることができる」
「怠惰な人間には才能がない、と解釈していいか」
「いい。怠惰な人間は救済を求めると解釈してもいい」
 引越しトラックがきた。助手席にカズちゃんが乗っていた。管理人の婆さん二人が生垣から和やかな顔で覗いている。下旬に出る、とカズちゃんから連絡を受けてからは、彼女たちは愛想がなかった。ついさっき、別れの挨拶をしに部屋に寄ると、
「部屋の壁や畳がどのくらい傷んだか、まだ検分してませんけど、一応これ、お返ししておきます」
 姉のほうが茶封筒を差し出して言った。猫でも飼っていたわけではないし、半年の留守がちな生活をしてきて、柱も畳も壁も傷みようがない。先払いしてある家賃を返したくないのだとわかった。
「マスコミはじめいろいろ人が押しかけてたいへんだったでしょう。これまでかけた迷惑料です。取っておいてください」
 返そうとする封筒を押し戻した。わざわざ生垣まで見送りに出た彼女たちの表情が和んでいるのはそのせいだった。マスコミが文字どおり〈押し寄せた〉ことなど一度もなかった。東大準優勝の立役者と騒がれたあとも、やはりマスコミは〈やってくる〉ことはあっても襲ってはこなかった。あれほど警戒したのは取り越し苦労だったということだ。
 運送屋がステレオ以外の大物小物を荷台に載せたあと、カズちゃんがそのまま道案内をして先にいくことになった。不動産屋の手続もすませておいたと言う。
「一時間後、石手荘でね。どこかでおやつでも食べましょう」
 すでに斜向かいの自転車屋でリヤカーを借りて、ステレオを積みこみ、毛布をかぶせてある。
「リヤカー代五百円は高くないか。ビール百二十円、コーヒー八十円、コロッケ十円、それでリヤカー五百円はボリだろう」
「妙なところに細かいな」
「一万、二万より、十円、百円が気になる。人の細かい欲を顕微鏡で見てる気がして」
「命も何とも思ってないやつが、ステレオは慎重に運ぶか? リヤカー代が高い? 人格異常だな。山ちゃんが精神分裂病だと言ってたけど、わかるよ」
 山口がそんな単語を口にするはずがない。たぶん彼は、私を称賛する意味で分裂気質と言ったのだ。敏感と鈍感が危うくバランをとっている気質。繊細で、孤独な夢想の中に生き、ときに頑固で利己的な人間味の乏しさを露呈する。健児荘で一夜、私を前にコーヒーを飲みながら、やさしい眼差しで言ったことがある。天才の特徴だし、詩人の特徴だとも言った。
 よしのりがリヤカーを牽っ張り、私が押した。天沼陸橋の坂を登るのがかなり骨で、二人ぐっしょり汗をかいた。
「いいなあ、都会のアスファルト道をリヤカー牽いてる俺たちの姿。考えただけでうれしくならないか」
「なる。ステレオが無事だから」
「おまえ、ステレオがよっぽど大事なんだな。そういえば、野辺地でいつもステレオ聴いてたな」
「夜にかけることが多かったから、近所迷惑だったろう」
「おまえにはだれも何も言えん。みんな不気味がってた。俺はよく、窓のそばまでいって聞いてたがな。いい曲ばかりだった。プレスリーだろ、ビーチ・ボーイズだろ、ロイ・オービソン、ボビー・ソロ、弘田三枝子、岸洋子、西郷輝彦か。考えてみりゃ、雑食だったな」
「いいものは、とにかくいい。分野を問わない」
「あのステレオ、どうなった」
「置いてきた。回転数がおかしくなってたけど、飯場のクマさんに買ってもらった記念の品だからね。捨ててもいいよとばっちゃに言ったら、ぜったい捨てないと言い張った。レコードはほとんど送ってもらったし、こっちでも買い足した」
「クマさん?」
「思い出の中でいちばん輝いてる人だ。おまえは知らない。野辺地へいく前だから」
「俺ぐらいおまえに惚れてたか」
「ぼくが野辺地に流されて以来張り合いがなくなって、会社を辞めたってカズちゃんが言ってた。いまは長野で観光バスの運転手をしてるらしい」
「勝ったな。おまえがいなくなったら、俺なら三千里の旅に出るぜ」
「おまえは恐ろしく暇だからだよ。クマさんには家庭がある」
「チェ。今度このステレオで、ジャニス・ジョプリンのサマー・タイムを聞かせてくれ」
「よしのりはジャニスが好きだね。ぼくも聴いてみるかな」
「もうすぐ『コズミック・ブルースを歌う』というLPが出るんだが、予約の段階で売り切れらしい」
「購買をあおる噂はすべてデマだよ。ふつうに手に入る」
「そうかな」
「そうだ。ベストセラーってのも、ぜんぶ嘘だ。聞いたこともない本が、とつぜん出てくるだろう?」
「だな。何かに書いてあったのか」
「勘だ」
「信じるよ。しかし、カズちゃんて、どうしても置屋の娘には見えん。汚れなき処女の感じ。あれで三十四だってんだから化け物だ。バーの娘も、おそろしくきれいになった。天神山のアパートにきたときは、ただのバカだったのにな。先生はちょっと見劣りするけど、それでも最近は並以上になった。どういう仕組みだ?」
「アハハハ、ぼくにもわからない」
「おまえみたいな反権力的で無為自然な生き方もあるってことを、新宿広場のやつらに教えてやりたいよ」
「無為自然て、わかってるのか」
「知らん。おまえは」
「知ってるよ。知性や欲望を働かせないで、自然体で生きるということだ。でも、無為自然を主張したら、それはもう自然体じゃない。じゅうぶん作為的だ。そんな作為的な振舞いができるほどぼくは賢くない。無知と言ってくれ。しかし、何だ、新宿広場って」
「バカの溜まり場。東大闘争からこっち、バカが新宿の西口地下広場にたむろして、平和集会とかほざいてギター弾いたり、フォークソング唄ったり、地元の警察刺激して無駄にぶつかり合ってんだ。それが、次の日が日曜日だってんだから笑える。みごとに労働者根性だよ。そんなエネルギーは、神無月みたいにチンポ勃てることに使ったほうが、よっぽど人類のためになるのにさ」
「戦争とか平和とか、すべて上下関係に聡い人たちの関心事だね。おまえの言うとおり暇人だ。セックスは遊びのエネルギーじゃないぞ。上下関係のない生物学的な必然だ。本能に押された〈仕事〉だよ。仕事は単調なものだ。単調なことは誠実に行なうのはあたりまえで、単調さを糊塗する幸福感がなくちゃいけない」
「要するに楽しんでセックスしろってことだろ」
「ああ、心の底に誠実な義務感を持ってね。単調で誠実な義務感は愛情という実になってずっしり稔る」
「愛というのは単調なものなのか」
「そうだ、単調でなければ愛と呼ばない。愛は究極的には仕事なので、他人に引き継ぐことができる」
「……さびしくないか」
「さびしい。こういう考え方をする自分が。……もっとべたべた人に寄り添う人間でありたい」
 二時間近くかかって石手荘に着いた。玄関にカズちゃんが待っていた。八坂荘以来の自転車が軒の下に置いてある。よしのりが、
「ごめん、ごめん、遅くなった。リヤカー牽いて歩くと、ひと駅でも歩くとさすがに遠い」
「むだ話しながらだから、よけいじゃないの。あたしもいま不動産屋さんから帰ってきたとこ。細かい手続はぜんぶすましておいたわ。番号は変わるけど、電話も二、三日中に移せるって。この番号よ」
 渡されたメモをシャツの胸ポケットに押しこむ。
「まだ手続が残ってたの?」
「菊田さんと長話してたの。野球中心の異常な生活をしてるから、ちょっとしたことで追い出さないでほしいって」
「まだぼくたちは姉弟のまま?」
「そうよ。薄々わかってるみたいだけど。私たちが常識を尊重してるって態度が気に入ってるようね。信用できる人よ」
 よしのりとステレオを抱え合って部屋に入ると、けっこう片づいている。ステレオを押入と向かい合った壁際に据え、机と小さな書棚の脇にミカン箱の本立てを少しずらして置いた。
「さあ、めしだ。カズちゃん、どっかめぼしい店見つけた?」
「駅前にいろいろあったわよ。ラーメン屋がずらっと並んでたし、ピザ屋もあった」
 よしのりが太い眉をピクピクさせて、
「ピザか。初体験してみるか」
「あまり食いたくないな」
「何ごとも好奇心よ。ラーメンを初めて食べたときのことを思い出しなさい」
 母と桜木町で食べた支那ソバを思い出した。信じられないほどうまかった。
「食ってみるか」
「カズちゃん、悪いね、きょうもおごられちゃって」
「よしのりさんはいつもキョウちゃんに貢いでばっかりで、ふところ寒いでしょ」
「貢ぐ? ああ、精神的にね」
「物質的によ。ラビエンの飲み代ぜったい取らないでしょ」
「あれは部長が―」
「私たちの分も取らないわ。キョウちゃんの周りの人も引き受けてあげれば、よしのりさんが喜ぶってことを部長さんは知ってるのよ。よしのりさんがキョウちゃんにぞっこんだってことが伝わってるわけ。部長さんが貢げば、店の収入減になって、よしのりさんの昇給はないだろうし、無給の残業もさせられるだろうし、結局よしのりさんが貢いでることになるでしょ。懐が寒くなるのはだれだってわかる理屈よ」
「そう思ってくれるのはありがたいけどさ、ああいうことはぜんぶ、純粋に部長の好意なんだよ。部長がやらなきゃ、俺がぜんぶ払ってる。カズちゃん、わかるかな、この世にはそいつに一円も使わせたくないやつがいるんだよ」
「わかるわよ。痛いほど」
「こいつは打ち出の小槌でも持ってるらしくて、俺のはした金なんか屁の突っ張りにもならないだろうけど、つい、くれてやりたくなる」
 カズちゃんはフフと笑って、
「キョウちゃん、打ち出の小槌の説明をしたいって顔ね」
「うん。ぼくを振れば金が湧いてくるってわけじゃないんだ。まず、青高以来のカズちゃんのお金とお父さんのお金、それでもう貯金が二百万を超えてる。飛島の社員たちから餞別や義捐でもらったお金、吉永先生や法子がくれた祝い金、エトセトラ、エトセトラ、合わせて三百万近い。おまけに野球にかかる費用は無料。これからもどんどん増えてく」
 カズちゃんは首を振り、
「キョウちゃんには架空のお金ね。どんなに増えても、ぜんぜん使わないんだから。どんどん使ってね。キョウちゃんの価値に見合う金額なんかないのよ。とにかく、くれるものは遠慮なくもらっておけばいいの。みんな、特にキョウちゃんの女は、キョウちゃんにあげるために稼いでるの」
「まいったな。俺もイロ男なんだけど、どこがどうちがうんだろうなあ」
「ただのイロ男というところよ」


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