八十二

 居間に通された。明るく広い部屋だった。大きなガラス戸から、手入れの行き届いた庭が見通せる。オレンジ色の石榴の花が満開だ。
「石榴はいいなあ。枝にとげがあるのが難点だけど」
 驚いた顔をしている父親に、山口はニヤニヤしながら、
「神無月は植物博士なんだ。俳句や和歌も出るぞ。神無月、一首」
「軒下の破(や)れ櫃(ひつ)に散る柘榴かな。虚子」
「たまげたな」
 と言う父親に、
「神無月は、世間のことは皆目知らない。それにもたまげるぜ」
 母親が椅子を勧めた。大テーブルに向かい合う。父親が、
「ここで逢ったが百年目、と勲が言ってましたが、いいえ、仇討ちのことじゃないんですよ。運命的な出会いということです。なるほどショックを受ける異相ですな。神相と言っていい。男を打つ顔だ」
「ほんと、恐いくらいの美男子。モテるんでしょうね」
 母親が相槌を打つ。妹がうっとりと見つめている。
「はい、分不相応に」
 父と母がカラカラと笑った。妹もつられて笑った。父親が、
「生まれたときから敵なしでしょう」
「あります」
「ほう、それは?」
「未来とは戦えません」
「……なるほど。するどい。宿命のことですね」
「オヤジ、不思議な気分だろ」
「年甲斐もなく惚れこみそうだ。勲とは健児荘で出会ったとか」
「おっしゃるとおり運命的な出会いでした。人生が明るく変わりました。以来、親友は二人です」
「もう一人は?」
「小学校以来の友人です。山口は話だけで知ってます。ある暴力団組織に属しているので、ぼくの身を案じて、自分に近づかないようにと厳重注意をしてくれています」
「その人もあなたと同様、際立った人物なんでしょう。……勲が百年目と言ったのは、人生が変わったどころではなく、終わったという意味でもあるそうです。わかりますよ。でなけりゃ、この怠け坊主が東大なんかいけるもんですか」
 山口が、
「こいつに遇うまでの俺は、ウルトラ鈍才だった。それがたった八カ月で一番になった。俺の向上欲も奇跡に加担したのかもしれないが、ほんとうの奇跡は、イメージとしてじゃなく実在する人間として、天才というものを信じられるようになったことだよ。すると〈すぐれ者〉としてじゃなく、人知を越えた〈天からの賜物〉として、虚心坦懐に過去の天才たちも信じられるようになった。これはある種の自己放棄に等しい内面的な革命だ。人間なんてみんな自分を一番だと思ってるもんだからね。……この天才神無月は、自分をどう思ってると思う? 人間のカスだと思ってるんだよ。ね、信じられる? 韜晦じゃないんだぜ。本気でそう思ってるんだよ。病気だね。人生懸けて治療してやりたくなるのが当然だろ。それがだめなら、一生同伴して看病してやるしかない。聞いてる? みんな」
 母親がにこにこ笑いながら、
「はいはい、聞いてますよ」
 私は、
「山口は、家族の中でも同じ言語表現をするんだね。驚いた」
 母親が、
「難しいことばかり言って。神無月さん、新人戦、一家で観にいったんですよ。二打席出ただけで、ほかのかたに打席を譲って、奥ゆかしいことでした。すごいホームランを一本見せていただきました」
 妹が、
「糸を引くようにスタンドに伸びていって、客席が王冠のようにパッと開いて」
「表現が上手ですね。自分の打ったホームランが、そんなふうに表現されるのはうれしいな」
 母娘は終始にこやかに応対し、父親は感嘆に満ちた謹直な表情を崩さなかった。
「東大を受けた事情は勲から聞きましたが、東大そのものに価値を感じたことはこれまでなかったんですか?」
 父親がまじめな表情で訊いた。
「好きになったことはありませんけど、小学生のころに、権威的な価値を感じたことはあります。みんなが東大は日本一の大学だと言っていたのを鵜呑みにしたんです。まだ自分ができ上がっていない子供というものは、社会的価値観に弱いですから。かつてはぼくも偏見にまみれたおバカさんだったということです。でも、野球に没頭し、才能豊かな友に出会い、清潔で果断な女性に愛されるようになって、ぼくはこの世の最大価値が、自己達成と、友情と、愛情にあることを知りました。東大は悪しきプライドに満ちた愚鈍な大学で、真の知性も、真の学問もない、ましてや真の情操もない大学だなどと、そんな信憑性のない幻滅をしたわけじゃありません。何とも思わなくなったんです。権力志向から解放されたんですね。アメリカの哲学者のアラン・ブルームがこんなことを言っています。人間が解放の喜びを知るためには、その前に、偏見と呼べるほどの何ごとかを、まず心から信じていなければならない。ぼくに解放の喜びを教えてくれたのは、野球と、親友と、女性の愛情です。だから中学生のころには、ぼくの気持ちはとっくに、この世の社会的価値観から立ち去っていました。〈立ち去る〉と言うのは〈関心と愛情を失う〉という意味です。東京大学も例外ではありません。何とも思わないこの大学を受けたのは、社会的な権威として価値があると考えたからではなくて、野球をやりつづけるために乗り越えるべき障害物として利用するためです」
「……すばらしい。しかし、具体的な受験では苦労なさったでしょう」
「入学試験の難しい大学ですから、対策にはかなり気を使いました。英語と国語で大幅に得点を稼ぎ、理科で小幅に稼ぎ、数学と社会科をほぼ零点で提出するという作戦です。山口は、たぶん、社会科で大幅に、国語と英語と数学で小幅に、理科は捨ててかかると言う作戦じゃなかったのかな」
 妹が頬杖ついてしげしげと私の顔を眺めている。その顔つきは、両親と比べて感激の少ないものだったが、誠実さにあふれていた。山口が、
「作戦というか、そのとおりになった。ね、明確だろ? 神無月に触れたら、すぐれた人間が周囲に与える影響を感じないではいられなくなる。百年目だ」
 私は妹に、
「きみ、名前、何ていうんですか」
「チサト」
「サトは何通りかあるけど」
「一里二里でないほう」
「じゃ、ひょっとしてぼくといっしょ?」
「そう、千の郷。だから兄妹って感じ。さっきからそう思ってた」
 山口は、
「何言ってんだ、神無月の妹になるには百年早い」
 そう言って彼女の頭をゴシゴシやった。父親がカッカッと笑った。
 やがて母親と妹が食事の支度に台所に立った。パチパチと油の跳ねる音がしはじめた。
「あ、てんぷらだ。大好物! たまねぎ、しいたけ」
 父親が笑い、
「うちのやつは料理名人なんですよ。天つゆは折り紙つきです」
 山口が、
「今夜はてんぷらだと言うと、おやじは一目散に帰ってくる。俺もそうだけどね」
「そういう平和、好きだなあ」
「からかうな。平和は戦争よりいい。ボケないかぎり、人間は平和に暮らすべきだ」
 父親は豪快に笑い、
「男ってのは、平和よりは混乱、混乱よりは戦争、戦争よりは破滅に魅かれますな。しかし、平和を求めないわけにはなかなかいかんもんです」
「ぼくはボケてるので、自分がどの段階にいるかわかりません。どの段階でも、気楽がいちばんいいです」
「おやじ、これ、神無月独特の言い回しだから、聞き流してればいいよ。こいつは平和でない状態をふつうだと思ってる男だから」
「いや、愉快だ。めったにできない会話だ」
「愉快なのは、神無月の言葉に血のにおいがするからだよ。血を流す生身を感じる。すると自分も生きてると感じる」
「そのとおりだ。人間、血を流す覚悟でいれば、どんなときも気楽だ。勲、神無月くんの親友でよかったな。いつも生きていると感じられる。きょうから私も仲間入りさせてもらうよ」
「さあさ、青春談義はそのあたりにして」
 大皿に盛った山海のてんぷらが出てきた。いいにおいだ。湯気の立った天つゆ、大根おろし、ほうれん草のおひたし、生姜の漬物。
「これはご馳走だ! めしは、どんぶりにしてください」
 みんなどんぶりになった。なす、しいたけ、しそ、たまねぎ、ピーマン、小エビとイカの掻き揚げ、鯵。天つゆに大根おろしをたっぷり入れ、こそぎ取るように浸して食う。
「うまい! コロモの柔らかさといい、タレの濃さといい、文句なしだ」
「おふくろ、折り紙つけられたうえに、太鼓判まで捺されたよ」
 どんぶりで二膳食い、ほうれん草のおひたしと生姜で茶碗に一膳食った。妹が、
「野球選手の食欲ってすごい! 私たちの二倍以上食べる」
「だって、あのホームラン、見たでしょう?」
「神無月はふだん少食だよ。こいつのホームランは、からだで打ってるんじゃない。神技で打ってる。春だけで、四年分の大学記録を抜いてしまったんだぞ。人間技じゃないだろ」
「神無月くん、あなたのホームランはどういう仕組みになってるんですか」
「これだけは神さまがくれた才能です。ボールがきたところへバットが、自分でも感覚できない正確さで振り出されるんです。生まれて初めて野球をやったときからです。いまのところ小学校からの生涯打率は六割ぐらいじゃないでしょうか。思い切り振る必要はありません。強振しないので、スィングと弾道が美しく見えるんでしょう。山口のギターも似たようなものです。ところで山口、林がおまえのギターを神がかりだって言ってたぞ。いまさらだよな。ぼくがとっくのむかしに言った意見だもの。どうせ家族にも内緒なんだろう。あとで弾いてくれ」
「え! お兄ちゃんのギターって、そんなにすごいの。ときどき部屋から聞こえてきてたけど」
「ほら知らなかったでしょう。お父さんお母さんにも聴いてもらおう」
「仕方ないな、芸者のお披露目といくか―」
「照れやがって」
 家族はまだ話半分に聞いているようだった。
 食卓が片づいたあとで、山口はおもむろにギターを弾きながら、ヘレン・シャピロの『リトル・ミス・ロンリー』を唄いはじめた。

  さよならと言ったのは あなたの冷たい心なの
  私は悲しくひとり泣いてる
  夜がきてまた強く あなたのいないことがわかる
  涙でいっぱい 私はリトル・ミス・ロンリー
  まだ私の心は あなたが好きなの
  あなただけを求める……
  泣くことが それだけがいまの私にできることよ
  ひとりでさびしい 私はリトル・ミス・ロンリー
  ひとりでさびしい 私はリトル・ミス・ロンリー
 
 思ったとおり、家族に聴かせるのは初めてのようで、みんな驚き呆れた顔で一心に聴いていた。音楽はだれの心もやさしくする。
「おまえ、やるなあ! すごいじゃないか。いつのまにそんな技を身につけたんだ」
 父親が自分の二の腕をさすりながら言った。母親と妹が激しく手を叩いた。家族の食卓に同席するのは、ひろゆきちゃんの家以来だったが、馴染み合う雰囲気がよほどちがっていた。ひろゆきちゃんの家族は冷えびえとしていた。
「神無月、唄ってくれ。いい? みんな、神無月の歌は危険物だ。食後に悪いけど、覚悟して」
「どういうこと?」
 妹が訊いた。
「食ったり寝たりすることに罪の意識を感じさせる。涙が止まらなくなる。神無月、もう一度、リトル・ミス・ロンリーを唄ってくれ」
 私はうなずき、英語で唄いだした。


         八十三

 帰り道で私は山口に言った。
「……きょうの山口の『リトル・ミス・ロンリー』、その場でうずくまって泣きたくなるほどよかった。あんなにドラマチックに唄えるなんて知らなかった」
「あれは弘田三枝子も唄ってる。知ってたか」
「知ってた。ヘレン・シャピロのカバーだ。カバー曲を唄わせたら、弘田三枝子はナンバーワンだ」
「そうだ。ミーナの『砂に消えた涙』なんてのは、絶品だ」
「どちらも、EP盤を持ってる。山口といい、林といい、いったい何者なんだという気持ちになるよ」
「くすぐるな。林はたしかに鉄の喉をしてる。でも、おまえのような声質の凛冽さというか、発声法の伸びやかさというか、それがない。どちらも天才だが、華の質がちがう。おまえの声には透明な圧力がある。林は爆発力だ。ぶん殴られる。涙をこそぎ出すことはない。……オヤジとおふくろが泣いたのにも驚いたが、あの妹が泣くのを生まれて初めて見た。神無月、ジョー・スタッフォードの霧のロンドンブリッジ、唄ってくれないか」
「いいよ。バババを入れてくれ」
 山口はさっそく、バババーバ、バババーバと口で前奏をやりはじめた。

  I walked on London Bridge last night
  I saw you by the lamp post light
  Then bells ring out in sleepy London town
  And London Bridge came tumbling down
  The sky was hidden by the mist
  But just like magic when we kissed
  The moon and stars were shining all around
  And London Bridge came tumbling down

 夜遅いといっても、舗道にはまだ人が繁く往き来している。彼らは私の歌声に足を止めた。
「つづけてくれ。やめるな」
 山口の目にまた涙が浮かんでいる。

  Just you and I over the river
  Two hearts suspended in space
  And there so high over the river
  A miracle took place
  Two empty arms found to love to hold
  Two smoke rings turned to rings of gold
  A smile dress became a wedding gown
  When London Bridge came tumbling down

 山口は立ち止まって、私の顔をするどい眼で見つめた。
「おまえの歌は、死を予感することに親しんだ人間じゃないと唄えないものだ。……生まれてきてよかったよ」
「山口……」
「何もいうな」
「うん……。きょうは、おいしいてんぷら、ごちそうさん。妹、高校何年生?」
「二年生。都立西の秀才だ。和子さんたちとまったくタイプがちがう」
「兄貴を尊敬してる。ついでにぼくも尊敬してもらった」
「三人ともやさしい、いい人間だ。しかし、常軌を逸したものを愛せる心組みは持ってない。尊敬までだ。おまえの歌を聴いて涙を流したって、あしたになれば忘れる。俺はおまえに会ってからは、虚心で彼らを見ることができるようになった」
「どうして?」
「おまえは人間というものを、自然の雨や風のように眺めてる。まあ、思わぬ雨に降られたり風に吹かれたりすれば、多少は気が滅入るかもしれんが、あくまで自然の摂理だから目くじらを立てることもない、という態度だ」
 山口は私の中に、いっさいの環境に対する和合をするどく感じ取っていた。
「強い雨や風にムキになって逆らってた時期もあった」
「そりゃそういう時期もあったろうが、俺の目には、おまえの自我の溶解のようなものが見えるんだ」
「ヨウカイ?」
「ああ。シェークスピアふうに言うと、自我の他我への溶けこみというやつだ。気に入ろうと入るまいと、関心の範疇に入れて、そこへ取りこまれたり、浸ったりする。自分を無にしてな。俺も、そういうふうに生きてみることにした」
 私の倦怠が彼の目に美しく映っている。
「山口にもそんなふうに決意しなくちゃならない枷があるのか」
「あった。もうない。おトキさんの写真をしばらく机に置けなかったし、グリーンハウスのバイトも、家族に相談なしで決めた。いまもって言ってない。飲み屋でギターを弾くなんて言ったら、オヤジやおふくろがどんなに取り乱すか知れたもんじゃないからな。しかし、きょう、気持ちが整った。彼らがおまえを澄んだ目で見つめているのを見て、彼らを見かぎっていた自分の小ささが恥ずかしくなった。おまえのようにゆったり生きる」
「ふうん、山口ほどの男にそんな精神的な枷があったなんて知らなかった。大きくて美しい人間のご愛嬌だね。ぼくにはない繊細なやさしさだ」
「おまえは大小や美醜と関係のない人間だ。生まれ持っての規範がない。おまえと対峙すれば、どんな人間もおまえに吸収され、おまえに融かしこまれる」
「ぼくの目指す規範は山口のような、大きくて、美しい、やさしい人間だよ。ぼくがみっともなく生きてたとき、山口は美しく生きる手伝いをしてくれた。おかげで少しは大きくて、美しい、やさしい人間になれたと思う。ぼくは軟体動物だ。山口がいなければ、骨がなくなる。山口はいつまでもぼくの規範だ。……おトキさんの写真や、グリーンハウスのバイトを秘密にしようとしまいと関係ない。おトキさんを愛し、ギターを愛していればいいだけのことだよ」
「……ラビエンへでもいくか」
「いこう」
 切符を買い、東西線に乗った。
         †
 ラビエンでは、よしのりが帰省の話を出した。
「二十日から五日間休みが取れた。浴衣を着て帰る。神無月もいこうぜ」
「ちょうど野球部の山形合宿のころだな。練習は完全フリー。いってみるか。……こういう言い方はよくないな。いくべきなんだ。人生の恩人の祖父母がいる。何を措(お)いても、いくべきなんだ。……ただ、なつかしくない。退屈だ。大恩ある人ばかりいる場所が、この上なく退屈なんだ」
 山口が、
「わかるよ。でも、爺さん婆さんのためにだけでも帰ってやったらどうだ。その二人は退屈じゃないんだろ?」
「退屈じゃない。しみじみする」
「じゃ、それだけでいいじゃないか。プロになったら、ほとんどいけなくなるしな」
「そうだね。三年帰ってない。……いくと会あわなくちゃいけない人が増える」
「増やせばいいさ。また何年も会えなくなるんだ。後ろ髪引かれるようなやつなんかいないんだろう」
「いない。……浴衣は動きづらい。いくならちゃんとした格好でいく」
 山口が、
「俺もいきたいが、バイトに穴開けるわけにいかんしな」
「いかなくていいよ。じっちゃばっちゃに会ってくるだけだから。八月にはみんなで名古屋にいけるんだし」
 よしのりが、
「馬門(まかど)温泉にでも浸かって、ひさしぶりに野辺地の町を歩こうぜ」
「馬門に一泊、合船場に一泊したら、青森市へ出かける。付き合うか」
「やめとく。おまえの自由行動に水を差したくない。俺は中学の顔見知りと飲んで、クダ巻いてたほうが気楽だ」
 部長が近づいてきて、
「うちも、九月からバンドを入れることにしましたよ。山口さん、週に一回でもきていただけますか」
「いいですよ、週一なら」
「ぜひお願いします。新宿ではワンステージ、いかほどで」
「最近給料アップして、ワンステージ五千円になりました。一日三ステージで一万五千円です」
「ワンステージ八千円お出しします。曜日はいかがいたしましょう」
「新宿では月木やってるんで、火水金のどれかがいいですね。土日は神宮球場のために空けておきたいんで遠慮します。神無月がきたときは、ほかの客に唄わせないという条件もよろしく」
「ふだんも飛び入りはさせません。神無月さんが来店したときも、歌手として紹介してください。ステージには、スツール、譜面台を置き、スピーカー、アンプ、マイク等、質のいいものを用意します」
「ピアノ、ドラム、ベース、アコースティックギター、できればエレキギターも募集かけたほうがいいですよ。ほかの曜日に困っちゃうでしょ。ドラムとベースはぜったい必要ですね」
「ドアに貼紙したらどう?」
 よしのりが言った。
「それもしますが、新聞に広告出します。そのほうが確実です」
 部長が辞儀をして去っていくと、山口が真剣な顔で、
「横山さん、林も週一入れたら? 中央線でナンバーワンの店になるよ」
「言っとく。即オーケーだろう。林くんには話を通しといてね」
「了解」
 よしのりがほかの客の相手をしに移動していったのを機に、ビール二本飲んだきり二人で店を出た。
「カズちゃんの家に寄っていこう」
「神無月、青森いったら、せいぜい自重しろよ。病気になって戻ってくるんじゃないぞ」
「わかってる。青森駅から青高までの道を往復してくる。健児荘に顔を出す」
「先の短い人間に親切だな。よろしく言ってくれ」
「伝える」
 カズちゃんと素子は、キッチンテーブルで勉強していた。ひどく喜んでコーヒーの用意をした。
「ラビエンに寄ってきた。山口が九月から週一でギターを弾くことになった」
「わあ、聴きにいこまい」
 山口が、
「ワンステージ八千円だぜ。一日三ステージで二万四千円。公務員のひと月分だ。嘘みたいだな」
「お金でいくんじゃないんでしょう? 水商売はどんぶりだから。芸術というのはそういうものよ。野球も同じ。そういう場所でしか才能は発揮されない。報酬は感謝のしるしね」
「あの演奏技術からしたら、それでも安すぎる。あ、そうだ、二十日から、よしのりといっしょに野辺地にいってくる」
 二人の女は口を揃えて、風邪をひかないように、と言った。青森は夏でも寒いと思っているのだ。
「七月は青森も暑いんだよ、なあ山口」
「ああ、八月の初旬までは全国並だ。名古屋ほどじゃないが」
「十月にパンツいっちょで泳いで、凍えちゃったね」
「忘れられないな」
 ひとしきりその話になり、女たちも興じた。
「青森へいくことなんだけどね……じつは、もう、面倒になってきた。東京にいる人間以外、つまり、そばにいる人間以外のところへ出かけていくのが億劫になってきたんだ。めったにいけなくなると思うから、今回はいくけど」
 カズちゃんが、
「億劫になってあたりまえよ。こんなふうにたまたまのんびりできる期間もあるけど、一年を通して考えれば、とんでもなく忙しいからだになっちゃったんだもの。遠くにいる人にはわからないでしょうね。でも、億劫になってはだめ」
「面倒くさくなったのは、忙しいからじゃない。大事にしたい人だけを大事にしたい。祖父母を含めて、遠くの人を訪ねるのは今回を最後にしようと思ってる。それでも、東京に出てくる人は大事にするつもりだ」
 山口が、
「きたな、やばい気分が。おまえいつか言っただろ。出会った人間とは、相手が離れていかないかぎり別れないってな。別れを告げにいくなよ。ただ気軽に会ってくればいいんだよ。爺さん婆さんと話をし、合いたい人間に会ってくればいい。ケ・セラ・セラでいいんだ」


         八十四

 カズちゃんはもう一度コーヒーをいれに立った。サンドイッチを作るために玉子とハムを焼きはじめる。
「訪ねてあげなければさびしく思うだろうって考えるから、億劫になるのよ。みんな、五年にいっぺんでも十年にいっぺんでも、キョウちゃんに会えればそれで満足なの。訪ねてあげようって気持ちになることは、これで最後にしなさい。これからは、いきたいからいくという気持ちでいくことね」
 素子が焼きあがった玉子を切り分けながら、
「青森ではだれだれに会うつもりなん?」
「葛西一家と健児荘の管理人さん。それも風まかせだね」
「管理人さんは、キョウちゃんが〈あちら〉のお世話になった人よ」
「ふうん。その人、喜ぶがね。お世話したのはぜったいキョウちゃんのほうに決まっとるから」
「そうね。フフ」
 サンドイッチを食い終え、二杯目のコーヒーを飲み終えると、山口は立ち上がった。
「何にせよ、神無月が忙しくしてれば安心だ。野球でも、旅でも、女でも、動き回ってくれてたほうがいい。大事にしたい人だけなんて心に仕切りを作る必要はない。これからはへんな反省なんかするな。じゃ、八月の名古屋行きを楽しみにしてるぞ」
 山口が帰ったあと、三人で風呂に入った。湯船に浸かって窓を開けると、星がきれいだったので、『見上げてごらん夜の星を』を唄った。二人がすぐに声を合わせてきた。二人とも響きのいいアルトだった。野辺地中学校の校庭でこの映画を観たことを話した。
「キョウちゃんがつらかったころね。一生忘れられないでしょう」
「どうつらかったのかな、記憶がぼやけはじめてる。映画の中の坂本九ちゃんが忘れられない」
 二人明るい声で笑った。
「あたし、映画ゆうもんをめったに観たことあれせん」
「新宿の70ミリに連れてってあげる。2001年宇宙の旅。すごいらしいわよ」
「ぼくはいかない。SFや未来ものは嫌いだから」
「キョウちゃんは観飽きてるからいいの」
 彼女たちは自分のからだを隅々まで洗い、それから二人がかりで私の全身を洗った。三人で湯船に浸かったあと、からだを拭き、私は肩を冷やさないように半袖のシャツを着たが、二人は暑がってパンティだけをつけて台所へいった。廊下をいく相似形でない二つの尻がやさしく揺れた。少し低い位置に素子の尻があるのがおかしかった。私は居間のテーブルに落ち着いた。大きな扇風機が回っている。
「さあ、おやつやよ」
 カズちゃんと素子が作ったインスタントラーメンを食べながら、ゆっくりテレビを観た。巨泉と雪路のイレブンPM。浮ついていて、さびしい。
「なんだかみっともないわね」
「テレビはパンドラの箱だ。醜悪きわまりない」
「何、それ」
「ギリシャ神話。パンドラという女が開けた泥で作られた箱。悪が飛び出した」
「なんで開けたん?」
「知らない。考えることはできる。人類に災難を与えるために、神々が造って地上に送った最初の女とされてるから、開けるのは必然だったんじゃないかな。なぜ、という疑問に答えてくれる学問や芸術はないんだ。自分で考えるしかない。とにかく、悪の群れが飛び出した。びっくりして閉めようとしたら、私も出してくださいと囁くものがある」
「何やの」
「希望」
「希望!」
 カズちゃんも同時に言った。
「意味がわからん」
「ぼくもわからない。きっと、悪のバランス調整役だね。醜悪さの中に希望が独りぼっちで混じってたのがすばらしい。パンドラの箱は一度開けられたら二度と閉められない箱だから、結局、希望もいっしょに飛び出てきた。希望が出てこなければ、この世は地獄になるところだった」
「ダンテの地獄篇ね」
「そう。われを過ぎて悲しみの都、永遠の憂い。滅びの民たちよ、すべての希望を捨てよ」
「われって、だれなん?」
「知らない。倫理のことかな」
「それも意味がわからん。でも、なんとなく、ええ話やな」
「うん。ぼくのような滅びの民も、悲しまず、希望を捨てずに生きていかなくちゃって覚悟させる話だ」
 カズちゃんが寄り添った。素子も寄り添う。
 素子の離れで寝ることになった。一度だけの軽いセックスでも素子にはきつい。二十六年のあいだ開発されなかったからだが、二年も経たないうちに性感のかたまりになってしまった。それは三十年間のカズちゃんにも、三十六年間のトモヨさんにも、四十七年間の文江さんにも言えることだ。いや、もうすぐ逢いにいくユリさんにも当てはまる。そういう肉体の革命は、彼女たちの精神にどういう影響を与えるのだろうか。驚きのあとに感謝がやってくるのだろうか。愛情がやってくるのだろうか。
「キョウちゃんに遇えんかったら、あたし、どうなっとったやろう。恐ろしなるわ」
 素子は痺れたからだを懸命に起こして私のものを口で清めると、急に精根が尽き、うつぶせのまますぐに深い寝息を立てた。
         † 
 七月十七日水曜日。曇。朝カズちゃんたちといっしょに出る。荻窪の石手荘に帰り、ジャージを着て青梅街道へ。荻窪駅と反対側へ曲がって走りだす。
 五、六分走り、荻窪警察署前の信号を渡って直進。とんでもなく広い草はらの公園に出る。雲間に青空。桃井公園。ここならダッシュも伸びのびできるし、バットも振れる。これからはバットを持って出よう。
 ランニングから戻ると、睦子から電話があった。きょうの昼、木谷千佳子が上野駅に着くという。
「十一時半です。いっしょに迎えにいきますか?」
「いく。十一時に上野駅の到着ホームで待ち合わせよう」
 汗を吸った下着を替えて、ワイシャツにブレザーの上下を着、革靴を履く。ポケットに五万円を入れた。通りがかりの喫茶店でモーニングサービス。しっかり食べる。食事が基本だと感じだして以来、ものを食う機会があるときはかならずまじめに取り組むようになった。食欲がなくても食わないとからだに悪いとあえて思いこむ。ときどきカズちゃんのお握りで凌いでいた宮中のころは、いつもからだがだるかった気がする。何年も空の胃を抱えていた生活が祟らないはずがない。葛西さんの家で定期的に食事を供されていた青高時代から、少しだけマシな体調になった。いまは人生でいちばんからだが軽い。これで下痢症と耳鳴りが改善されれば万全だが、それは命の証の宿痾として飼っておこう。
 中央線快速で上野に出る。五つの駅名をあらためて覚える。中野、新宿、四ツ谷、御茶ノ水、神田、ほぼ二十五分。神田から山手線で上野へ。上野駅の十五番ホームで待っていた睦子は、東大のロゴの入ったライトブルーのトレーナーを着ていた。彼女のものごとに頓着しない明るい性格は、私の洞穴生活のカンテラになる。
「睦子はいいなあ」
「千佳ちゃんにふだんの私を見せようと思って」
「そうか。じゃ、ぼくもユニフォーム姿を見せなくちゃ」
「駒場でお昼食べて、本郷で練習を見せてあげてください」
「それでトレーナーを」
「そう」
 二人で微笑み交わした。
 列車から降りてきた木谷千佳子の顔が人混みの中で明るく輝いた。小さなボストンバッグを一つ提げ、夏服の黄色いワンピースを着ている。肥り具合といい背の高さといい、睦子と双子のように見えた。一年のあいだに髪を肩まで伸ばしていた。
「神無月くん!」
 あたりの目を気に留めずに抱きついてきた。すぐに離れて、睦子と握手をする。
「すごいね、ムッちゃん、東大に受かって。神無月くんへの思いが通じたね」
「うん! 野球部でも、いつもそばにいるの。幸せよ」
「よかったわねえ、ほんとに」
「ありがとう。青森から遠かったでしょう」
「十一時間ぐらい。なんてことなかったわ」
「半日かあ。私は飛行機できたから、二時間ぐらいだった。青森は遠いわよね。何日いられるの?」
「土曜日には帰る。私が家の食事の支度をしてるから、あまり家を空けられないの」
「土曜なら二十日だね。ぼく、その日に帰省するんだよ。横山という野辺地の友人と。時間は決まってないけど、いっしょに帰ろう」
「わあ、そうします」
「三日しかないから、東京の名所は少ししか回らないよ」
「はい」
 睦子が、
「きょうは神無月さんの一日の生活をたどりましょうね」
「うん。それ、マネージャーの服装でしょ」
「そう。ふだんの格好見せたくて。まず駒場を回ってから、東大球場へいきましょう」
「東大球場! 東奥日報の写真で何度も見たわ」
 渋谷に出て、井の頭線に乗る。睦子が、
「神無月さんに会えなくて、さびしかったでしょう?」
「恋しくて、どうかなりそうだった。やっと会えた。……このまま青森にいたら、結婚するしかないと思う。そういう点はふつうの家庭ですから。でも、結婚はしません。……頭の中は神無月くんでいっぱいです」
 睦子の目が潤んでいる。気持ちがわかるのだ。
「何とか努力して、早く神無月さんのそばに出てくるべきよ。神無月さんをいつも身近に感じる幸福でいっぱいになるから、ほかに何もいらないって気持ちになれるでしょう?」
 駒場東大前で降りる。
「わ、すぐ門!」
 千佳子はワンピースのスカートをひらめかせて正門に近づいていく。板門を見上げる。
「すご! 武家屋敷の門だおんた」
 思わず出た訛りを聞いて、私と睦子は顔を見合わせて笑った。
「ここが駒場キャンパス。主に一、二年生のかようところ。理系の一部は、三年生以降もここで勉強するみたい。夏休みだからほとんど学生がいないわ。これといって見どころはないけど、一周しましょう。あれが時計塔、これが駒場図書館、あっちが学生課、あの突き当りが生協食堂」
 校舎の群れを抜けて歩きながら、次々指差していく。木谷はキョロキョロしながらうなずく。
「この汚い建物が駒場寮。ひと月千六百円。私のクラスの男子が二人住んでる。ぜんぜん貧乏人じゃないのに、趣味で入寮するみたい」
「ゴミ溜めだぞ。大きな鶏がウロチョロしてる」
「この裏手に一二(いちに)郎池というのがあるんだけど、ただの水溜りだから見なくてもいいわ」
「知らなかったな。一二郎、三四郎か」
「一二のほうがあとでできたんです」
 駒場野球場へ回って、窪地を一瞥すると、時計塔に戻った。
「これでもごく一部なんだけど、むだに広いだけだから探索しても退屈よ」
「昼めしにしよう」
「駒場駅の向こう口に、菱田屋って定食屋さんがあるの。黒屋先輩に一度連れてってもらったんだけど、マルガとは比べものにならないくらいおいしい」
 駅の階段を反対側へ越えて、細道へくだっていく。
「線路沿いを真っすぐ。七、八分。上野さんも何度かきたって言ってた。上野さんてマネージャー仲間よ」
「ムッちゃん、光ってる!」
「千佳ちゃんもよ」
「私も東京にきたいな。でも無理ね。青森で神無月さんを待つわ」
「一年かそこらしたら、神無月くんはプロにいっちゃう。名古屋に本拠地を移すの。それからそばにいっても遅くないんじゃない? 私はそうするつもり」
「え? どういうこと?」
「名古屋の大学に入り直すの。名古屋大学か、名古屋市立大学か、南山大学」
 意外なことを聞かされた。
「東京にいればいいんじゃないか。半年はビジターで動き回るよ」
「東京のチームをビジットするのは、日数にして五分の一でしょう? ホームグランドの名古屋にいるのは二分の一です」
「もったいない。東大を捨てちゃうのか」
「思ってもいないくせに。上野さんもそうしたいって言ってました」
 木谷千佳子はじっと考えこみ、
「家に仕送りできるだけの仕事が見つかれば、私も名古屋にいけるんですよね。……二十一歳まで三年も待つなんて時間のムダ」
「千佳ちゃん、市役所じゃなく、ほかの仕事を見つけるつもり?」
「できれば……。神無月くんといっしょに青森に帰ったら、仕事探し。じつはいくつか思いついた資格があるの」
「なあに」
「保育士と栄養士と調理師。全国で幅広く通用するでしょ」
 私は、
「いいな、それ。でも保育士は責任が重すぎるし、栄養士は二年以上短大か四年制の大学にかよわなくちゃいけない。調理師がいいよ。カズちゃんは栄養士の資格を持ってる。彼女といっしょに暮らしてる素子という女は、調理師の免許に挑戦する予定。カズちゃんはいずれコーヒーのバリスタっていう資格も取って、将来、素子と共同で喫茶店を開くつもりらしい」
「私も、お手伝いしたい」
「あさって、カズちゃんに会いにいく。そのとき相談すればいい。お父さんお母さんを遠くで見守る決意がつくか、説得できるかすれば、いつだって東京にも名古屋にも出てこれるよ。決意がつかないうちに、あれこれ考えたってむだだ」
 睦子が、
「いろいろ事情があるでしょうけど、最後は自分の気持ちよ。がんばってね」
「うん、がんばる」


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