二十八

 白い雑種の仔犬が食堂によろよろ現れた。生まれて一、二週間くらいのオスだった。不器用にからだを摺り寄せては鼻で鳴いた。白くて丸いふるえる頭、モグラのように開いた脚、そして何とも言えない手ざわりのいい毛並みをしていた。彼は鼻を鳴らしながら四六時中社員たちのあとを追いかけた。だれにでも甘える気立てのようだった。私は彼の潤んだ利口そうな目が気に入り、母に飼ってくれるように頼みこんだ。それが岡本所長の耳に入り、事務所にぜったい入れないこと、という厳命のもとにお許しが出た。犬はシロと名づけられた。母はけっこうこの犬が気に入っていて、いつも小皿に心がけて牛乳を足していた。
 まだ乳のにおいをただよわせている神秘的な命の切れはしを観察することは、私にかぎりない喜びをもたらした。太い無邪気な脚、蹠(あしうら)にはバラ色の疣がついていた。彼は牛乳の小皿へ這っていき、赤いちっぽけな舌で舐め、満足するとあごに牛乳をつけたまま、よちよち後じさりした。
 シロは食堂の隅で深い眠りを何日か繰り返したあと、だんだん足腰がしっかりし、ふつうの犬らしくなっていった。ひと月もすると、遠くから全速力で駆けてきて、胸や顔に跳びつくようになった。彼は放し飼いにされ、社員たちが一杯機嫌でどやどやと寮部屋へ引き揚げる踵についていったり、だれかれの靴やサンダルを裏庭へ持ち出したり、夜中に遠吠えをして安眠を妨げたりした。
 やがて、やんちゃな時期も過ぎると、みんなが出払っているあいだは、飯場を根城にかなり広い範囲を遊び回るようになった。ときどき小学校の裏門のあたりで、道端のにおいを嗅いでいる彼の姿を見かけた。一人遊びが性に合っているらしく、岡本所長の危惧をよそに事務所へ近づくこともなく、勝手に遊んでは時分どきに帰ってくるので、だれも彼の存在を気にかけなくなった。
 シロは事務所ではなく食堂をねぐらに定めた。彼は涼しいコンクリートの床や、食べもののにおいのするゴミバケツのかたわらが気に入っていたし、母やカズちゃんがサンダルを鳴らす音、騒がしく食器が鳴る音も気に入っていた。彼は食堂そのものをふるさとだと思っているようだった。彼を見つめながらよく、目玉を刳り抜かれてスグリの垣に吊るされていたミー助を思い浮かべた。犬と暮らすことは初めてだったけれども、私には自分の身に起きていることが、新奇に見えながら、そのじつ果てしなく何度もあった何かであるような気がした。
 シロを飼うのと時を合わせるように、母は八百清から生後半年ほどのメス猫をもらってきて、自分の部屋で飼いはじめた。これにもミーという簡単な名前がついた。母は仕事が退けたあとや、公休日の午前などに、万年炬燵の膝に乗せて指で毛を梳きながら、もう一方の手で、相変わらず高島易断の本とか会社四季報などを開け閉(た)てしていた。そうして、ときどき隣部屋の私に、
「××株は、上がるよ。所長さんのお墨つきなんだから」
 と声を投げたりした。もともと金銭に慎重な母は、べつに欲心が強いというわけでもないのに、このごろでは自分の臨時収入(洗濯屋や八百清から得たリベート)と毎月の給料を安全な株に投資するという方法で、秘密の雪だるまを太らせて楽しんでいるようだった。私のお年玉もその資金の一部になっているのだろう。彼女の話では、
「二十万円のおカネを、五分の利息がつく電力株に投資してるのよ」
 ということだった。その元金と、ときどきの買い足しで増える利を合わせると、十年後にはだいたい二百万円になるだろうと、うれしそうな笑みを漏らした。
 しばらくすると、犬も猫も急に大きくなりはじめた。シロは遊び上手なので気にならなかったけれど、部屋にばかりいるミーのほうは、板襖や柱に爪を立てたり、畳を小便で汚したりする厄介者になった。母はようやくミーを表に放してやった。それでもミーの癖は治らず、部屋に戻るとかならず畳に粗相をした。
 やがて、襖越しに母の部屋から絶えず煙草のいがらっぽいにおいと、猫の排泄物のにおいの入り混じった空気が、昼となく夜となく私の部屋に忍びこんでくるようになった。私はあらためて、母の法外なだらしなさに驚いた。彼女の立ち居や、雑な片付けの習慣もみんな不潔らしく感じはじめた。煙草を途中で消して火鉢や灰皿に並べておく癖や、風呂上りに髪をだらしなく肩に垂らしている姿なども嫌悪の種になってきた。
「ヘッシ! ヘッシ!」
 と一日に何回か聞こえる奇妙なくしゃみも憎々しかった。
 あるとき、いつもと種類のちがう魚が腐ったようなにおいに辟易して、母が食堂に詰めている午後に、板襖を開けて入りこんだ。部屋は乱雑そのもので、新聞や、週刊誌や、いつ洗うとも知れない洗濯物がとり散らかされた中に、布団を敷きこんだ夏冬兼用の炬燵が据えっ放しにしてあった。悪臭の正体はそこにはなかった。
 押入れを開けてみた。強い樟脳(しょうのう)のにおいがした。驚いたことに、雑然と放りこまれた衣類の上に、子を産んだばかりのミーが長まっていた。敷布を積み重ねたにわか仕立ての産褥から、眼を光らせてこちらを見るミーの腹に、濡れそぼった小さな子猫が四、五匹絡みついている。
 裏庭にいって、洗濯紐にかかっている古そうなタオルを何枚か引き外し、バケツの水に浸して固く絞った。六畳に戻ると、ミーを刺激しないようにそっと子猫を引き離し、一匹一匹タオルで拭いた。ミーは押入れからよろよろ出てきて、子供たちのそばで狂ったように鳴いていたが、畳の上にくるりとからだを丸めて乳を与える格好になった。目のふさがった子猫どもが彼女の腹に吸いついた。そのあいだに、しとねにこびりついた毛を爪でこそぎ取ったり、血で汚れた敷布を剥がして押入れの床を拭いたりした。悪臭のもとが敷布だとわかったので、そっくり新聞紙に包みこんで縁側に放り出した。そして押入れの蒲団のあいだから要らなさそうな古シーツを引っ張り出して、新しいしとねを作ってやった。
 そんなことをしているとき、押入れの奥の隅に、新品のビニールケースがいくつも積んであるのが目についた。手をつけた気配もない。薄い箱に『肥後芋茎』と書かれたリング状の乾燥した太紐がぎっしり詰まっている。
 ―ヒゴ、イモクキ?
 食いものにしては固く乾燥しすぎているし、といって子供の遊び道具というのでもなく、リングの脇には怪しげなヒモ縒(よ)りの棒も並んでいる。正体のわからないまま見つめているうちに、何やら秘密の香りがしてきた。そこには何か本能的に好奇心を刺激するものがあって、私はそれに促されるままに、貴重な宝が姿を現すことを期待しながら、箱を包んでいるビニールを破った。底まで探っても、ヒモ縒り棒以外のものは現れなかった。がっかりして、そのぴかぴか光る箱を、もとどおりの暗がりにきちんと積み直しておいた。それから、丸めて放り出した新聞紙のかたまりを裏のゴミ箱へ捨てにいった。
 その後何日経っても母は、私が押入を清潔に掃除して、ついでに汚い敷布を始末したことについては、一言も問いたださなかった。
         †
 夏もそろそろ盛りを過ぎ、平畑の街路樹が葉を落としはじめた。
「キョウ、一歩、二歩、散歩」
 日曜日、いつものようにクマさんに誘われて表に出たとき、電柱のスピーカーから流れてきた曲に惹きつけられた。そのメロディは、フランク永井や美空ひばりの歌謡曲とはちがう、力強くて、リズミカルで、そのくせ胸に沁みるような切ない響きを持っていた。
「この歌、だれ?」
 と訊いた。
「ジョー・スタッフォード」
 クマさんはすぐ答えた。これまでもニール・セダカやポール・アンカなどは、彼のポータブルプレーヤーで聴いたことがあったけれども、こんなに心を打つ曲は初めてだった。
「いい曲だね」
「ああ。霧のロンドンブリッジ。四、五年前の歌だ。気に入ったのか」
「うん」
「じゃ、キョウはハスキーボイスが好きなんだな」
「ハスキーボイスって?」
「しゃがれ声。ミスティボイスとも言ってな、百万ドルの声ってやつだ。ティミ・ユーローだろ、ダスティ・スプリングフィールドだろ、ジュリー・ロンドン、コニー・スティーブンス、そうだ、泣き節のコニー・フランシスもちょっとハスキーだな。男もけっこう多いけど、女のハスキーにはかなわない。澄んだ声ってのは、インパクトが弱いんだよな。ケーキ食いにいくか。『オレンジ』にはステレオがある」
「うん!」
 クマさんがオレンジの鈴を鳴らしてドアを開けると、客は一人もいなかった。店内はどこもかしこも磨きたてられていて、とても清潔な感じがした。店の奥でステレオがピカピカ輝いている。
「何食う」
「アップルパイ」
 アップルパイとコーヒー。クマさんはアサヒゴールドと、つまみのピーナッツ。
「マスター、何曲か聴かせてくれや」
 クマさんが言うと、前掛けをした店主がにこにこ笑いながらカウンターから出てきて、リサちゃんの家のやつとそっくりなステレオにドーナツ盤を載せた。コニー・フランシスのボーイ・ハントだった。このあいだザ・ヒットパレードの高崎一郎が、ニール・セダカが作曲してコニー・フランシスに贈った曲だと紹介していた。クマさんが言ったとおりコニー・フランシスは泣いているような声で、どこまでも高らかに唄い上げる。
「これはどうですか。レイ・チャールズの旅立てジャック」
 単純で、泥臭い感じ。あんまり好きじゃない。黙っていた。
「子供の耳には、この曲のよさはわからないんじゃないの」
「そうですか。これならいけるでしょ」
 軽快な音楽がかかった。子供みたいな声だ。たちまち心臓が心地よく拍ちはじめ、気分が浮き浮きしてきた。

  アムゴナ、ノッコオンナ、ドー
  リンゴ、オンニャ、ベー
  タッポ、オンナ、ウィンドー、トゥー

「これ、だれ?」 
「エディ・ホッジス。恋の売りこみ。まだ十四歳の男の子ですよ」
「男! 女の子かと思った」
 ステレオの前に立っていた店主が笑顔でうなずく。次にヘレン・シャピロの悲しき片思いがかかった。イギリスポップスのさびしい雰囲気。太い声。好きな曲だ。
「彼女もまだ十四歳なんですよ」
「うそ! 三十歳ぐらいの声だよね」
「俺も知らなかったわ」
 店主はニコニコしながら、
「イギリスのヒットチャートで一位になった曲です」
「しかし、けっこうなコレクションだね。どれくらいあるの?」
「LPも入れると二千枚くらいですか。かなり散財しました」
「こんなにレコード揃えてる喫茶店はないよ。選曲もいい」
「ありがとうございます」
 頭を下げながら、次のレコードに大切に針を落とす。クマさんが耳を立てる。
「ティミ・ユーローの涙の思い出か。これもイギリス人だぞ」
 と私に言う。
「知ってる。ぼくもこの曲大好きなんだ」
「ハスキーボイスの大御所だな」
 深みがあって、パンチが効いていて、すばらしい声だ。店主は私たちの反応に気をよくしたのか、次から次へとドーナツ盤をかけていく。
「貸し切りだな。悪いね」
「いえ、私も楽しいですよ」
 リッキー・ネルソンのハロー・メリー・ルー。なんと太くて、柔らかくて、透明な声だろう! クリフ・リチャードのサマー・ホリデイ。変わった鼻声だけど魅力たっぷりのメロディだ。
「ほらきた、キョウ。これがコニー・スティーブンスのシックスティーン・リーズンズだ。名曲中の名曲だな」
 悲しさがまっすぐ心臓に突き刺さってくるような曲だった。
「こんな曲を人間が作ったなんて……」
「信じられないだろ? 音楽家って、そういうもんだよ」
 耳に親しんできたカレンダー・ガールや、悲しき十六歳や、あなたの肩に頬をうめてがターンテーブルに載せられていく。こんなふうに立派なステレオで、しかも大きな音で聴くと、あらためて、どれもこれも複雑な楽器音の入り混じった美しい曲だとわかる。ステレオが欲しいと心から思った。
 客が入ってきて、店主がターンテーブルを小休止させるまで、私は歌声にじっと耳を傾けながら、大人っぽくコーヒーをすすり、アップルパイにフォークを突き立てた。ステレオをじっと見つめる私の顔を見ていたクマさんが、
「ステレオ、欲しいか―」
 と尋いた。私はうなずいた。クマさんは煙草の煙を吐き出しながら、天井を見上げた。私は、うなずいてしまったことに気を差しながら煙を見ていた。


         二十九

 それから何日もしないうちに、
「ほい、キョウ、ステレオだ」
 クマさんが大きなステレオを担いで、小屋の玄関にやってきた。息を弾ませながら大きく笑った。私は信じられない気持ちで三和土へ降りた。クマさんは軽々と三畳間にステレオを運び入れると、机と反対の壁にくっつけて慎重に置いた。
「でっかいなあ! ラジオまでついてる」
「ゼネラルのリムドライブ方式だ。質流れ品だけど、ちゃんといい音で鳴る。俺のレコードを全部くれてやる。バディ・ホリィとか、プレスリーとか、五十年代ものが多いから気に入らんかもしれんけどな。喫茶店で聴いたレコードは、ぼちぼち買ってきてやる」
 クマさんはステレオのスイッチを入れ、まずラジオを鳴らしてみた。大きな、ふくらみのある音が狭い部屋を充たした。
「うん、いい音だ」
 それから彼は、針の上げ下ろしはゆっくり丁寧に、音がひび割れてきたら針を替えろ、やたらにレコードは拭いてはいけない、といったようなことを話した。
「部屋が狭くなっちゃったな。蒲団を敷いたら、ぎりぎりか」
「―クマさんが使えばいいのに。ぼくがクマさんの部屋に聴きにいくから」
「ガキのくせに遠慮するな」
 即興のきくクマさんらしくもなく、友情の理由をうまく説明できないようだった。
「康男にも聴かせてやろうかな。びっくりするだろうな」
「大将はどうかな。こういう趣味はないだろ。一人で楽しめばいいさ。キョウがポップスキチガイになったのも、もとはと言えば俺の責任だしな」
 クマさんは照れくさそうにからからと笑った。
「じゃ、レコードを取りにこい」
 いっしょに彼の部屋にいくと、クマさんは押入の段ボールに詰めてあったレコードを畳にぶちまけた。シャイアルスのウィル・ユー・ラブ・ミー・トモロー、ポール・アンカのマイ・ホーム・タウン、アルマ・コーガンのポケット・トランジスタ、ベルト・ケムプフェルトの星空のブルース……。宝の山だった。ラジオで聴いた曲がほとんどそろっていた。もちろん聴いたこともないような曲もどっさりあった。LPを五、六枚、EP盤を十枚ほどもらった。
「なに遠慮してるんだ、ほんとに。全部持ってけ。運んでやるから」
 その夜、母はステレオを珍しそうに眺めながら、不思議に機嫌がよかった。
「何か聴かせてくれないかい?」
 私は、ポール・アンカの二つ折りのジャケットのあいだに、一枚だけ裸で挟まっていた赤いソノシートをかけた。
「いいねェ」
 このごろラジオでよく耳にする太陽がいっぱいというフランス映画の主題曲だった。母は子供じみた甘ったるいハミングで旋律をなぞりながら、うっとり目を閉じた。
         † 
 夕方、野球部の練習から戻り、どんぶり二杯のメシを腹に詰めこむと、裏庭に出て日課の二百本素振りをはじめる。井桁に積んである材木の向こう、蔦でおおわれたモルタル造りの家から、渡辺マリの東京ドドンパ娘が流れてくる。すばらしい曲だ。最近は美空ひばりまでが、赤いタイトスカートを穿き、ぎこちない身振りでドドンパを踊っている。メロディはひどい。このあいだ母が渋い顔で、
「ひばりだけは、みっともないまねはしないと思ってたのに。芸人はみんないっしょだ」
 と言った。私も、案山子がつまずいたようなドドンパ踊りはみっともないと思うけれども、渡辺マリの太いしゃがれ声だけは、なんだか胸に切なく響いてくる。ハスキーボイスだからかもしれない。

  夜をこがして 胸をこがして
  はじけるリズム ドドンパ ドドンパ 
  ドドンパが あたしの胸に
  消すに消せない 火をつけた

 机に向かう。一日分の夏休み帳を終えると、ステレオのスイッチを入れ、ラジオを点ける。横浜から持ってきたハム音のうるさい六球スーパーは、このごろでは机の飾りになってしまって、薄く埃が積もっている。勉強や読書に飽きると、かならずステレオのほうのラジオをつける。人の声や音楽が、大きくクッキリした響きで耳を打つのがうれしく、ポップスのヒットチャートはもちろんのこと、日本の流行歌や、落語・漫才、浪曲も聴いてみた。サファイア針を減らすのがもったいないので、EPは一日に三枚、LPは一枚だけと決め、大切に聴いている。ジョニー・ソマーズのLPは宝物になった。ワン・ボーイ、あなたなしでは歩きたくない。勝手に、あなたのいない道、と題名をつけた。生まれてきた意味を感じさせる声だ。さびしさと悲しさ、それを感じて充実するために人間は生まれてくるのだ。
 あれからクマさんは、新しく買ったレコードばかりでなく、押入から探し漏れた手持ちのレコードもどしどし持ってきた。EP、LP合わせると八十枚くらいになった。本棚の下二段にぎっしり並べた。
 ステレオのラジオのダイヤルを回していたら、中学生の勉強室という通信講座が耳に入ってきた。中三の英語をやっていた。落ち着いた声の調子に惹かれ、じっと聴いた。チンプンカンプンだった。守随くんといっしょにやった勉強に比べると、ぜんぜんおもしろくない。でも、せっかく見つけた番組なので、何日か聴いてみることにした。 
         †
 決戦の日がついにやってきた。
 準決勝のときは、部員たちみんな、服部先生が千年のスポーツ用品店からせっかく取り寄せたフェルトの背番号を恥ずかしがり、大きさのまちまちな布に適当にマジックで手書きしてすませたのを安全ピンで留めていたのに、決勝戦では、きちんとユニフォームに背番号を縫いつけるように命じられた。私は7、関は3、岩間は1。守備位置どおりの番号だ。補欠は十五番まで配られた。木田は十番をもらってうれしそうだった。
 母か畠中女史に縫いつけを頼もうと思ったけれど、まんいち曲がったり、背中の中心からずれたりすると、もう一度やり直さなければならないので、自分でやることにした。注意して六ヶ所を黒糸で丁寧に留める。家庭科は得意科目だ。布断ちも運針も女よりうまいと家庭科の先生から褒められたし、皮の薄さと長さを競うりんご剥き大会でも、一箇所も途切らせずに優勝した。
 朝からどんよりした蒸し暑い日で、雨がざっときそうな感じだった。みんなで校庭を出るとき、妙な胸騒ぎがして、曇った空を仰いだ。服部先生と部員たちのほかに、応援のために休日出勤してきた数人の先生が南一番町から市電に乗った。首にカメラをぶら下げた桑子も混じっている。彼は、自分の予言が的中したことを得意げに同僚の先生たちに吹聴していた。心の底でひそかに期待していたほかの先生たちにとっても、今回の好成績はおいそれとは信じられないものだったので、みんな戸惑い八分の顔でうなずいている。
「同じ熱田区内の小学校同士が決勝戦でぶつかるのは、初めてのことです」
 服部先生が言う。桑子は車内のだれかれに向けて、何度もシャッターを切った。
「ちゃんとしたアルバムを作るつもりですわ。来年から神無月のいない千年がどうなるか、じつに心細いものがありますんでね。教師生活の記念です」
 服部先生はあごを撫で、部員たちに向かって言った。
「欲を出すな。たとえ負けたとしても、ようやく千年も野球の名門としてささやかな一歩を踏み出したんだ。後輩に希望を託したおまえたちの手柄は、ほんとに計りしれん」
「負けたとしてもっていうのは不吉ですね、服部さん。まあ、神無月にキャプテンまで任せたうえに、戦力を彼一人に頼っていることを考えれば、負けてうるわしというところもありますがね。……せいぜい、いい写真を撮ってやりますよ」
 木田ッサーが憤懣やる方ないといった表情で、
「一人でも神無月くんは百人力だがや。とにかくすごいんやから。俺たち、ぜったい勝ちます」
 四十分かけて栄に着いた。テレビ塔を仰ぎ見る。いやな予感がつづいている。弱気になっている証拠だ。きょうだけはチャンスに打てそうもない気がする。服部先生が私の肩を叩いた。
「どうした、金太郎さん、青い顔して。ふだんどおりでいけ。ホームランなんか狙わなくていいから」
「はい」
 みんなはしゃいで百メートル道路にスパイクを鳴らしながら、エンゼル球場へ歩いていく。スパイクの釘の音が不安を吹き飛ばす。ストッキングを見下ろす。腿まである白靴下の上に穿いた臙脂のストッキング。野球の美しさが集約する場所。
「けっこう立派なもんだな!」
 桑子が遠くから球場の全容をカメラに収める。きちんとした球場の形をしているけれども、かなり小ぶりだ。中日球場を見慣れている私の目には、エンゼル球場はおもちゃのように小さく見えた。球場の外に、小型バスが何台か並んでいる。ぞろぞろとバックネット裏のゲートを入る。
「すげえ!」
 部員たちが息を呑んだ。手入れのいい大きな野球盤のようだ。外野の芝生が濡れたような一面の緑だ。でも、一塁側と三塁側の客席のスタンドの幅は狭くて、たぶん三、四千人しか入れないだろう。両翼が八十メートル、センター百メートル。ちゃんと数字が書いてある。ふつうの小学校の校庭やグランドでは、七十五メートルラインに石灰を引いてホームランの仕切りにするけれども、ここは一回り広いうえに、高さ二メートルぐらいのコンクリートフェンスが取り囲んでいる。フェンスの向こうは見物を入れない狭い芝生になっていて、立派なスコアボードもそびえていた。
 ―あの距離なら、ちゃんと当たれば、ライトの場外まで飛んでいくな。
 形よく盛り上がったマウンドを中心に、どの方角にもよく整備された柔らかそうな土が広がり、外野の芝生でせき止められるところまでつづいている。雲をいぶしながら落ちてくる陽射しのためにグランドがうだるように熱い。
 ミーティングのとき服部先生がみんなに言った。
「強い敵を相手にすると、守ってばかりいるから守りのピンチが多くなるが、そうなったら連携を固くして、全力で防御すればなんとかなる。問題は攻撃だ。攻撃は、水物だからうまくいかないことが多い。なんとか金太郎さんのところへチャンスを回すように意識して、コツコツつないでいけ。だめならだめでいい。うまくいったら、金太郎さんにごっそりさらってもらおう」
「うおす!」
 旗屋が守備練習をしているあいだ、関とフェンス沿いにゆっくり走った。それだけで帽子から汗がしたたり落ちた。
「広いなあ、神無月。いけるか?」
「それほど広く見えないけどね。……バッターボックスに入ったらどう感じるかわからないけど」
「ボリビア」
「ラパス」
「スウェーデン」
「ストックホルム」
「OK! いけそうや」
 雲がゆっくり流れていく。青空が拡がる。グランドに撒かれた水が高い陽に照りつけられてたちまち蒸発する。全員向かい合ってキャッチボールをすませてから、守備練習に入った。服部先生が張り切ってノックをする。
「イグゼ、イグゼ、イグゼー!」
 ベンチで木田が吠える。ライト、センター、レフトの順に高いフライが上がる。観客のだれもが私の小さなからだに好奇の目を注いでいるのがわかる。その証拠に、私がホームへ低いノーバウンドの送球をするたびに、
「オーッ!」
 というどよめきが上がるのだ。


         三十

「両チームのキャプテン! こっちへ!」
 アンパイアがバックネット前へ手招きする。
「ジャンケンして」
 私がジャンケンに負けたので、千年小学校は先攻になった。どんなチームもサヨナラ負けを怖がって後攻をとる。勝っていても負けていても、まるまる九回攻撃できる歓びを放棄してしまうのだ。
「よし、先攻や。勝ったぞ」
 関がにっこり笑うと、チーム全体に元気がみなぎった。先行を取れたことで、旗屋を呑んでかかる気になったようだ。
「今年の千年は強いんだ。自信を持っていこう!」
 私はベンチの中で大声を出した。キャプテンの務めだと思っている。
「そうだ、破竹の勢いだ」
 服部先生は陽に焼けたおおらかな笑顔でうなずいた。
「整列!」
 集合合図がかかった。ベンチからホームベースまで全速力で駆けていく。まるで甲子園だ。そういえば今年は夏の高校野球を観ていない。この試合が終わったら小山田さんや吉冨さんたちといっしょにたっぷり観よう。向かい合って礼をする。睨んでくるやつが何人かいる。関と岩間が睨み返した。
 旗屋の連中がばらばらと守備に散っていく。観客席の乾いた笑い声が聞こえてくる。ほとんどぎっしりで、三千人以上はいる。こんなに大勢の人に見守られて野球をするのは初めてだ。三塁側ベンチ上の最前列に応援の先生たちが陣取り、手をかざしたり、拍手したりしている。先生たちの後方に生徒が三十人ほどいるが、見知った顔は加藤雅江と杉山啓子だけだ。桑子がさかんに写真を撮っている。
 ―あ、荒田さんがいる!
 バックネットのずっと上のほうの席に荒田さんの顔があった。涼しげな半袖のワイシャツを着て、頭に大きな麦わら帽子をかぶっている。私は彼に向かって手を振った。八重歯が光った。
「おい、速いぞ!」
 服部先生がみんなの注意を促した。ひょろりと背の高いピッチャーが投球練習をしている。マウンドから真っ向切って投げ下ろすボールがシューッと浮いてくる。おまけにコースが安定していて、コントロールも抜群だ。
「十三番をつけてるから、五年生だな。それとも六年生の秘蔵っ子かな。百七十センチはあるぞ。あんなピッチャーのボールを打って練習しているやつらにゃ、岩間のボールなんか止まって見えるだろ。平均得点七点というのもうなずけるな。おい岩間、こりゃ、かなり打たれるかもしれんぞ」 
 服部先生が顔に滲み出る汗をタオルで拭きながら言った。
「打たせて、取ります」
 岩間はユーモアのつもりで応え、帽子をかぶり直して不敵に笑った。彼の速球だってかなりのものなのだ。服部先生はみんなをベンチ前に集めて円陣を組んだ。
「金太郎さん、檄!」
「はい! いいか、打たれたって、こっちもそれ以上に打てばいいんだ」
 そんなことしか言えない。
「あんな速いボール、当てるのだけでもたいへんやぜ」
「見当つけて、バットを思い切り振ればいい。一回でも多く振るんだ。振らなきゃ当たらない。ボールが浮いてくるから、高目は見逃せ。ヘッドアップしちゃうからな。低目はショートバウンドしそうなやつでも、ぜんぶ振っていけ。いくぞ!」
「オー!」
 ふたたび陽が雲に隠れ、からだが気持ちよく冷えてきた。審判の右手が上がった。
「プレイボール!」
 一番の関が打席に入る。膝が緊張でふるえている。
「低目は何でも振れ!」
 私は叫んだ。ノッポが腕を振り下ろすやいなや、アッという間にボールがホームベースの上を通り過ぎていった。
「速いなあ……」
 服部先生がため息をついた。
「ノーコン、ノーコン!」
 木田ッサーが見当ちがいな野次を入れる。旗屋のベンチが笑ったようだった。関はストライクの範囲を狭めようとして、深くベースの上にかがみこんだ。二球目も膝もとに剛速球。ストライク。
「振っていけ! 振らなくちゃダメだ!」
 私は夢中で怒鳴った。あのノッポは小わざで目先をくらまされるようなピッチャーじゃない。速いだけでなく、とんでもなくコントロールがいいのだ。たぶん次は胸の高さのストレートだろう。
「ストライーク、バッターアウト!」
 やっぱり胸もとの速球に振り遅れて、関はアッという間に三振を食らってしまった。ボールが速すぎるので、高目か低目かを見きわめる前に、めくらめっぽう振るしかないという感じだ。二番の友近は一塁ファールフライ、三番中野渡はバットの根っこに当ててこれもサードのファールフライだった。でも当てただけマシだ。
「こらァ、いい写真撮らせろ!」
 桑子が声を張り上げた。苦笑いしている。そのまま三回まで、みんなファールチップか内野フライを上げるのがやっとで、ゴロも打てずに三振とフライの凡退を繰り返した。私も第一打席は詰まったセカンドライナーだった。一回、二回、三回と、岩間は前ぶれどおり打たせて取っていった。少しばかり球速は見劣りしても、コントロールはノッポと同じくらいよかった。
「互角だぞ。とにかく、転がしていけ。転がせばなんとかなる」
 四回の表、関、友近と倒れて、ツーアウトから、ミートのいい中野渡が、振り遅れたのが幸いして一塁線を抜くツーベースを打った。でも、私がセンターフライに倒れてあとがつづかない。
 真ん中に球が集まりはじめた岩間は、こつこつと適時打を浴びはじめ、四回、五回、六回と一点ずつ取られた。
 ノッポからはたまに幸運なフォアボールをもぎ取るくらいで、ヒットは中野渡の二塁打と、私のレフト前のポテンヒットだけ。
 三対ゼロのまま悲しいほどの劣勢で最終回まできた。この一回しかない。準決勝と決勝は九回まで戦うことになっている。七回規定だったらとっくに負けていた。この回は八番小平から、九番岩間、一番関とつづく。ここで二人でも出てくれれば、友近、中野渡まで回る。うまくヒットがつづいて私がホームランを打つ……。
「おい、おい、このまま終わる気か! バットに当てて前へ転がせよ。バントでも振り逃げでも、何でもいいから塁に出ろ。とにかく金太郎さんに回すんだ」
 服部先生が悲痛な声を上げた。岩間が張り切ってバッターボックスに向かったけれど、速球にキリキリ舞いして、たちまち三振に切って取られた。
「当てろと言ってるのがわからんのか! 金太郎さんみたいに大きく振ったって、無理なんだよ。よく見て当てていけ!」
 服部先生の指示通り、九番の小平がバットを短く持ってショートへ浅いゴロを打った。打球は運よくショートの前でイレギュラーしてレフトに転がった。服部先生の願いが通じた。
「よっしゃ! これだこれだ!」
 それをきっかけに、不思議なくらいノッポのコントロールが乱れはじめた。
「ノーコン、ノーコン!」
 得意げに木田ッサーが野次った。半信半疑の補欠仲間もいっせいに声を合わせる。
 一番関、二番友近と、二者連続でフォアボール。服部先生が静かに空を見上げた。微笑している。思わぬ展開でワンアウト満塁になったことに一縷の望みを託す笑顔だ。
 三番中野渡。祈った。祈りが通じた。芯でつかまえた強いゴロをサードがはじいた。一点! ワンアウト満塁のままだ。ネット裏から荒田さんの興奮した声が聞こえた。
「キョウちゃん! ホームラン!」
 その叫びが一塁側の観客席に感染して、ホームラン、ホームランの合唱になった。桑子を中心に先生たちが全員立ち上がっている。 
「頼むぞ、金太郎さん! とにかくシンに当ててくれ!」
 絞り出すような声だ。芯に当てさえすれば、私の打球は全部ホームランになると信じているのだ。バッターボックスに入ると武者ぶるいが出た。
 ―満塁ホームランを打てば、二点勝ち越しになる。二点差なら、なんとか逃げ切れる。
 旗屋の監督がマウンドへ走っていく。何やらピッチャーに注意を与えている。打率五割を越える大物打ちの四番バッターが、きょうはラッキーなポテンヒットを一本打ったきり沈黙したままなのだ。ホームラン打者の私をだれよりも警戒している旗屋ベンチにとって、ひどく気持ちの悪い流れだ。満塁なのでもちろん敬遠はできないし、たとえ敬遠して一点を献上したとしても、あとにつづく五番、六番を切って取れる保証はない。私は心に決めていた。
 ―低目なら、初球からぜんぶ振ろう。
 コントロールのいいピッチャーだから、がむしゃらに振れば、三回に一回ぐらいマグレで芯を食うかもしれない。汗を吸ったユニフォームが肩に重い。ボックスの土をならすスパイクも鉛みたいに重い。私はスパイクを地面から引き剥がすように、バッターボックスで二度、三度、足踏みをした。バットを胸の前に差し伸ばして、深呼吸する。旗屋のベンチが静まり返っている。
 初球、高目のスピードボールをヘッドアップのファールチップ。バックネットに一直線に打ち当たる。汗でぬらぬらするバットに砂をこすりつけた。
「ドンマイ、神無月くん、ドンマイ!」
 木田の声。高めに手を出すなとみんなに注意したくせに、情けない。するどいファールチップに恐れをなしたのか、ピッチャーの表情が自信なさそうになった。もう高目は投げてこないかもしれない。好都合だ。あらためて顎を引き、ヘッドアップしないように奥歯を噛み締める。
 ―腰より高い球はまともに当たらない。低目こい、低目こい!
 ノッポのピッチャーは掌で外野にバックするようにあらためて指示し、私をひと睨みすると、大きく振りかぶった。背中まで引き絞った腕を鞭のように振り下ろす。 念じたとおり膝もとに低い速球がきた。
 ―よし、絶好球!
 私は喜び勇んで思い切りすくい上げた。
『しまった、芯を外した!』
 ボールがナチュラルにシュートした分、バットの先っぽに当たってしまった。喚声の上がる中、手応えの悪いボールが高く舞い上がる。
「いけ! いけ!」
 服部先生の大声が聞こえる。私は全力疾走で一塁へ走った。だれも走っていない。一塁と二塁の走者は、帰塁できる位置で止まっている。三塁走者はタッチアップの構えだ。私は一塁ベース上に立って、ライトの頭を越えてくれと祈る。塀ぎわまで背走していく右翼手の動きがスローモーションのようにゆるやかになった。
 ―ああ、捕られたな。
 そう思ったとたん、観客の叫び声がはじけた。白いボールが狭い外野の芝生で弾んだのがはっきり見えた。ポールぎわまで走っていったファーストの塁審がグルグル腕を回している。
 ―入った! 満塁ホームランだ!
「やったー! 金太郎さん、やったあ!」
 一塁ベースから走り出した瞬間、誇らしさがからだじゅうに充ちあふれた。次々とランナーがホームインする。ダイヤモンドを大股で回りながら、私は未来の自分の姿を思い描いた。祝福の鐘の音が頭の中で鳴り響く。ベンチ前で木田ッサーが跳びはね、部員たちが抱き合っている。ネット裏の荒田さんが大きく麦わら帽子を振っていた。先生たちが拍手をし、桑子も写真を撮るのを忘れてその仲間に加わっている。目覚めながら夢を見ているようだ。ホームインしたとき、私に抱きつこうとする腕が四方八方から絡みついてきた。一人ひとりの感激を隠さない目が私を見つめている。服部先生まで、これで試合が決まったと言わんばかりに握手を求めてきた。私は強く握り返した。 
 ベンチに落ち着くと、興奮を顔に出さずに、キャプテンらしく岩間に命じた。
「まだ勝ったわけじゃない。あと三人。内と外に投げてゴロを打たせろ。ランナーをためなければ何とかなる。一つ一つアウトをかせごう」
「よし、きわどいとこばっか投げてやる」
「二点差しかないんだ。バックアップちゃんとしてくれよ。勝てば優勝だ。県大会へいけるぞ」
 ふたたび、オー! とかけ声が上がった。もちろん、だれもが優勝できると信じていた。ここまで七試合もつづけて勝ってきたのだ。おまけに土壇場で逆転したのだ。負けるはずがない。
 ただ私は、あと一回なら、五年生のリリーフを送って、旗屋バッターの目先を変えたほうがいいんじゃないかと、チラッと思った。その気がまったくなさそうな服部先生には進言できなかった。悪い予感が外れるようにと願った。



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