二十一

 水曜日の夕方、野球部から戻るとすぐ、表紙に《算数》とマジックペンで書いた新品のノートを一冊だけ持って飯場を出た。母が静岡の高級茶とやらを一袋持たせた。事務所に出入りしているお茶屋さんから仕入れたものだ。彼女はときどきこのお茶を野辺地の祖父母に送っている。
 歩いているうちに秋の道に夕暮れが濃くなって、灯りはじめた街燈が水で洗ったようにくっきり見えはじめた。明るい雲が電柱の上に浮かんでいる。熱田高校のグランド沿いの歩道に、約束どおり守随くんが待っていた。両手をポケットに入れ、舌を丸めて唾を飛ばしている。声をかけると、びっくりしたように振り向いた。
「ええ男やなあ、神無月くん」
「ほんと?」
「よう言われるやろ」
 記憶をたどった。気に留めたことはなかったけれど、何度か言われたことがあったような気がする。
「……言われない」
 守随くんは私に意外な謙虚さを見出したような、少し驚いた表情をした。軒並思い出した。国際ホテルの外人に言われたことがあった、西脇所長にも、さぶちゃんにも、吉冨さんにも言われた。みんな守随くんとちがって、さりげない褒め方だった。
 守随くんの家は、南一番町の市電通りを挟んだ向こう側の、積み木のように同じ大きさの家が並んだ住宅街の一画にあって、平畑の飯場からはちょうど十五分ほどの距離だった。鉄製の小さな門扉を押して入ると、ヤツデの植えこみからすぐ玄関に突き当たった。彼はカラカラ引き戸を開け、ただいま、と言った。ゴボウみたいに痩せた母親がおろおろ出迎えた。
「いらっしゃい。ようこそ」
「勉強を教えてもらいにきました。よろしくお願いします」
「こちらこそ、洋一をよろしくお願いします」
 眼鏡をかけた父親も出てきた。守随くんと瓜二つだった。
「どうぞ、どうぞ、上がってください」
 二人ともおろおろしていた。守随くんだけが威張っている感じだった。
「神無月くんは野球がうまいんやてねェ。五年生なのに四番を打っとるって? すごいなあ。いつも洋一から聞かされとります」
 極端に表情を崩しながら言う。私はただニヤニヤしていた。
「守随くんのほうがすごいです。いつも一番だから」
「勉強はできても、運動はカラッきしですよ。うらなりやね。もっとからだを鍛えるようにって、ハッパをかけとるんですがね。いやあ、歓迎、歓迎。洋一の友達がわが家に遊びにきたのは、これが初めてですよ」
 初めてという言葉を聞いて、なんだかふっとさびしくなった。あの狭苦しい浅間下の三帖間にさえ、サブちゃんやジロちゃんが遊びにきたのだ。
「これ、静岡のいいお茶だそうです」
「それはどうも、ご丁寧に」
 母親が押しいただくように受け取った。守随くんに導かれて、八畳の茶の間に入った。母親も父親ももニコニコ笑いながらついてきた。すでに菓子盆の載った大テーブルが用意されていた。参考書や問題集も何冊か積んであった。母親がさっそく茶をいれに台所へいった。
「平畑の建設会社にいるそうで」
 あぐらをかいた父親が尋く。
「はい、西松建設の飯場つき事務所です。母はそこで賄いをやってます」
「えらい人だね、お母さんは、きみをこんなに品よく育てて。よほど筋金の入った苦労人やね」
 茶をいれてきた母親が目を輝かせて、
「せいぜいお母さんの苦労に応えたらんとねェ。……神無月くん、ご兄弟は?」
「ぼくだけです」
「洋一も一人っ子やよ。一人っ子というのは、世間でとやかく言われるけど……。そういえば、神無月くん、青木さんの坊やを勇気づけてあげたんやて? 洋一から聞いて、主人も私もほろりとしてまってね」
「いえ、励ましたのは加藤雅江さんです。ぼくは最初、青木くんが気づまりみたいだったのを勘ちがいして、隣の部屋へ逃げてしまって。なんだか、わざとらしく励まさないほうがいいと思ったんです。でも、ちゃんと、心から励ましてあげれば、だれだって明るい気持ちになるんですね。加藤さんはすごい」
 心と反対のことを言った。希望のある人間しか励ましてはいけない、希望のない人間とは心中しなければならない。そんなことはぜったい言えない。
「神無月くんは繊細やねえ。頭がいいんやねえ」
 父親の言葉に守随くんがひっそり笑った。と、母親が、
「二年も三年も寝たきりやもの、なんぼがまん強い人でも、気が滅入っちゃうのが当たり前やから。とにかく励ましてあげないと」
「もういいから、向こうへいってよ」
 うるさいなという眼で、守随くんが母親を睨んだ。二人の大人はハイハイと、うれしそうに居間から退散した。
「やかましいでかんわ。ごめんな」
「ぼく、ほっとしたよ。もっと堅苦しい人たちだと思ってたから」
「どうして?」
「守随くんみたいな、すごい秀才の親だもの」
「ごメイサツ。堅苦しい人たちだよ。父さんは銀行員やし、母さんは熱田高校の先生やもん。あんなふうにニコニコしとるの、初めて見たわ。よっぽど神無月くんのことが気に入ったんやね」
 守随くんは茶菓子を前歯でゆっくり齧った。小山田さんほどではないが、少し反っ歯だと気づいた。私は茶をすすった。
「さっそく、これからいこまいか」
 テーブルの前にあぐらをかき直し、舌先を筒のように丸めながら、固い表紙の『自由自在・算数』という分厚い本を開いた。太字で書いてある公式を指で示す。
「追いつき算。意味なんかわからなくていいから、声に出して、暗誦!」
 私は活字をたどりながら大声を出した。
「追いつくまでの時間、イコール、はじめの距離、割る、速さの差」
「あと三回」
「追いつくまでの時間、イコール、はじめの距離、割る、速さの差。追いつくまでの時間、イコール、はじめの距離、割る、速さの差。追いつくまでの時間……」
 それが終わると、守随くんは私の隣に並びかけ、丁寧に鉛筆を動かしながら、追いつき算の例題を二つ解いて見せた。私がじっと見ていると、
「計算なんか、こんなもんでええんだがや。じゃ、今度は鶴亀算」
 同じような暗誦を繰り返し、さらに仕事算の公式も暗誦させられた。守随くんの勉強に対する真剣な思いが、大きな暗誦の声といっしょに、胸にずんずん滲みこんできて、私は思わず姿勢を正した。
「さ、今度はちゃんと応用問題を解いてみよまい。競争しよ」
 応用問題を解く段になると、守随くんはくるくる鉛筆を回しながら、猛烈なスピードで解答を出していった。私には思考のきっかけすらつかめない難しい問題を前にして、魚が水面の虫を器用に捕らえるようにすぐに解決の糸口を発見する。
「ぼくも守随くんみたいになれるかな」
「たいしたことあれせんよ。暗記したとおりやってるだけやが」
 彼にはふだんの印象とちがって案外陽気なところがあり、私が脇目も振らず考えこんだり、あっ、そうか、と叫んだりすると、何がおかしいのかクスクス笑ってばかりいる。馬鹿にしているというのではなく、どうしてこんな子供だましみたいな勉強に夢中になれるのか、この世の中にはもっと情熱的に打ちこまなければならないものがあるのにといった、大人っぽい悟ったような笑いだった。
 守随くんは勉強の合間に、私の野球の技量を誉めた。
「ええなあ、神無月くんは、野球がうまいで。将来ピッカピカだが。桑子先生が言っとったわ、神無月はきっとプロにいくやろって」
「うん、ぜったい、いくよ。中日ドラゴンズか、大毎オリオンズにいくんだ」
 守随くんは頬を赤らめ、緊張した面持ちでうなずいた。彼自身が願っても叶わない生活の指針と、自分の才能に対するゆるぎない信念が、私の抱負にまざまざと感じられたからだった。
「守随くんだって勉強がすごいから、ピッカピカじゃないか」
「あかすか、そんなもん。勉強なんかできたって、末は博士か大臣どまりだが。先が見えとる」
「博士か大臣なら、最高じゃないの」
「おちゃらけたこと言やすな。ほんとにそう思っとったら、神無月くんだって、もっと勉強するんやない?」
「いや、ぼくは、勉強は……」
「野球選手のほうがすごいで。月とスッポンだがや。生まれつきの才能がちがう」
 私は野球というものが、ほかのスポーツとは比べようのないくらいすばらしいものだとは感じていたけれど、博士や大臣が野球選手より劣っているとは思えなかったし、またそんなことを考えたこともなかった。
「お、七時半や。テレビでも観よまい」
 居間の隅にテレビが置いてあった。守随くんがスイッチを入れると、虹の国からという題字が写った。
「中山千夏いうおもしろい子供と、益田キートンいうおもしろいオッサンが、クズ屋の親子をやるんよ」
 すばらしい主題歌が流れ出した。私はその場でメロディと歌詞を暗記した。ドラマそのものは、クズ屋の父娘の日常をおもしろおかしく描いただけのもので、それほど印象深いストーリーではなかったけれども、親子のユーモアたっぷりな掛け合いがわざとらしくなくて、飽きなかった。
「中山千夏はみなしごなんや。キートンが育てとる。千夏は母親を探しとるんよ」
 保土ヶ谷の父を訪ねたことが、どこにでもありがちなことに思われてきた。世間にはよくある話なのかもしれない。でも、ありきたりと思われるなら、それでもいい。いまでも眼の奥に、階段を上っていく父の背中がはっきり見える。私の思慕はテレビドラマにでもなりそうな月並みなものだったのかもしれないけれど、あの背中の深い悲しみは、私の記憶の中でけっしてありきたりではないのだ。
「さ、勉強!」
「うん」
 それから三十分ばかり仕事算の問題の解き方を教わり、また母親と父親に丁寧な挨拶をされて、守随くんの家を出た。
 帰り道、歌詞をうろ覚えのまま歌ってみた。

 雨が上がった 並木の道を
 歩けばそこに 虹の橋
 あの橋渡れば 母さんが
 きょうも元気か よかったね
 手を振りながら 呼んでいる


 母さんというのは、赤ん坊のときにクズ屋に拾われた女の子が捜し求めている母親のことだと、守随くんが言った。その事情を知りながら歌うと、しみじみと胸にきた。
 テレビはそのとき一回観たきりで、守随くんが中休みにテレビを点けることは二度となかった。だから、うろ覚えの歌詞を確かめることはできなかった。


         二十二

 冬休みを挟んだ二カ月のあいだ、水曜日ごとに、私は夕飯も食べずに守随くんの家にかよいつづけた。勉強の中休みに母親が、
「おぶうにしやあせ」
 と、茶請けのケーキや、ういろうや、うなぎパイなどのおやつを持って現れるのがめずらしかった。一度、出前でとった握り鮨を出されたことがあった。私はナマ魚が好きでなかったので、甘いタレを塗った蒸しアナゴを一つつまんだあとは、そのまま手をつけずにおいた。片付けにきた母親が、干からびた鮨を悲しそうに見つめる横顔を見て、なんだか申し訳ないような気がした。
 守随くんとそっくりのまじめそうな父親も、
「ようけ、覚わりますか?」
 と、かならず母親といっしょに灰皿持参で様子うかがいに顔をのぞかせ、一服吸いつけるついでに、白髪の混じった髪を撫でながら、難しい教訓めいた話をしていった。
「長生きすればするほど、楽しいことがだんだん少のうなっていって、ものごとにすぐに飽きてまったり、ダラダラさぼってみたり、それがもとで苦労したり、悩んだりすることが多なるんです。人間とはそうしたもんですよ」
 とか、
「大きく盗むのは国で、小さく盗むのは人です。所得倍増計画なんて、口先だけのまやかしです。倍増したって、いままでの倍、国に盗まれます」
 などと、眼をパチパチやりながら独り言のように言う。私たちの反応が少ないせいで、父親の話は中途半端に勢いが萎えてしまうことが多かった。すると彼は気まずそうに、二人の将来の明るいことを諭してお茶を濁すのだった。
「きょうはふたたびきたらず。うんと勉強し、うんと遊んで、でっかい可能性に向かってがんばるんですよ」
 居間を出ていくときの背中が、いつも私の心に沁みた。守随くんの父親は彼なりの秘めた哲学を精力的に語っているのではなく、疲れて、単純に愚痴を言っているだけのように見えた。守随くんは机に肘をついて、父親の背中を尊敬のない目つきで見送りながら、舌先を丸めていまにも唾を飛ばしそうなオドケ顔をした。私は悲しかった。おどけたふりを見せてはいても、彼が両親の隠れた独裁の杖に操られていることがぼんやりとわかったからだった。
 勉強は楽しかった。二人で頭を突き合わせながら、いっしょに難しい問題に挑戦していると、いままで自分では気づかなかった頭の中の隅々の細胞が、どういう仕組みからか、しゃきしゃきと活発に動きだすように感じられた。頭の血管の一本一本がさわやかに脈打ち、滞っていた血のかたまりが少しずつ押し流されていくような感じなのだ。
 自分の知らなかったアタマの反応を感じるのはたまらなく愉快だった。私は調子に乗り、守随くんを促しながら、次から次へと新しい問題に挑戦し、ときどき彼より早く解けてしまうことさえあった。私はうれしさに身をよじった。そんなとき守随くんは、おおらかな笑顔で祝福してくれた。彼は、勝ち負けとか、口惜しさというものとは無縁の人間のようだった。何もかも心やさしく認めて、恬淡としているふうなのだ。
「さすがやなあ、神無月くんは。オニアタマの言ったとおりやが。野球もうまいし、頭もいいし、鬼に金棒だがや」
「そんなことないよ。いまのはまぐれさ」
 やがて私は、自分の着想と、計算の達者なことに、われながら驚くようになった。ほど経ずに見ちがえるようになった私を、守随くんは天才とまで言って誉めそやした。
         †
 勉強を始める前に、たまたま相撲の話になったことがあった。あまり相撲を知らない私は、横浜の街頭のテレビで見た若乃花をぼんやり気に入っていたけれど、守随くんは栃錦のファンだった。
「そろそろ、栃若の時代も終わりかな。このあいだ優勝して大関になった大鵬と、怪力柏戸の時代になると思う。柏鵬時代」
「ONみたいなもの?」
「そう。栃若、柏鵬っていうふうに、性格が反対のカップルで売り出すのがマスコミのやり方なんだが」
 私は守随くんの分析力に痛く感心した。頭がいいというのは、こういうことを言うのだろうと思った。
 ある晩、ひとわたり勉強をやり終えたあと、守随くんは表情を引き締め、とつぜん勉強と関係のない話を持ち出した。
「……神無月くん、気悪くせんでな。神無月くんは寺田と仲良うしとるみたいやけど、あんまり深入りせんほうがええと思う。あいつの家は、怖(おそが)いで」
「どうして?」
 私はわかっていて訊いた。
「これだで―」
 守随くんはいつか康男がやったみたいに、頬っぺたに当てた指を斜めに滑らせた。眼鏡の奥の目が執拗に私の顔を見ている。眉間にいやなシワが寄っている。私の中で大きくふくらんでいた守随くんの人柄が、たちまち小さくしぼんでいった。
「そんなこと、とっくのむかしから知ってるよ。……康男がヤクザだったってかまわないさ。ぼくは康男が好きなんだから」
 私は大げさな気持ちでなく、康男のことを、ようやくめぐり会ったたった一人の友人だと思っていた。ほかのクラスメイトたちが結んでいる友情は、どれもこれも上っ面だけの子供の遊びみたいに思われた。私が康男と結びつこうとする心の底には、たしかに彼の大人らしさへのあこがれもあったけれども、そういう仲間たちへの軽蔑や反抗心も蠢いていた。私は少し声を大きくした。
「康男は、まわりの子たちよりずっと大人なんだよ。だれだって人から大事にされなかったり、守ってもらえないとわかったりすると、あっというまに大人にならなくちゃいけないんだ」
 守随くんは呆れたような苦笑を洩らした。
「やられてまったんやね」
「どういう意味」
「寺田は、腐ったみかんだってこと。腐ったみかんは、まわりのみかんも腐らせるんだがや。朱に交われば赤くなる、ゆうが」
 それは世間風を吹かせた聞いたことのある言い回しだった。自分の言葉ではない、思慮の浅い嘘だった。私は嘘が大嫌いだった。
「康男は腐ってないよ!」
 寺田康男は、彼と口を利いたこともない守随くんのような生徒たちには、その入り組んだ気心をはっきりとはつかめない男なのだ。彼らにとって康男は、いつまでたっても傍若無人な、怖いだけの存在にちがいない。しかし、ぜったい腐ってなんかいない。ときどき校庭の片隅や廊下で、弱い生徒をいじめる出来損ないたちにカツを入れるとき以外は、康男はするどい爪を注意深く隠している。恐(こわ)持ての大人らしい風采をのぞけば、静かで、害のない男なのだ。風采だけではない。康男の心はだれよりも成熟している。いっしょに夜道を歩いているときなど、私の話す幼い言葉に、康男がごく自然に大らかな理解や繊細な解釈を加えたりすると、私は泣きたくなる。まわりを腐らせるどころか、生き返らせるのだ。ぼんやり遊び暮らしているような康男の生活は、見かけだけのものだ。彼の豪気さと気持ちの細やかさは、生まれつきの性格のせいで輝かしく磨き上げられていて、だれだってそのどちらにも手が届かないのだ。
「深入りせんほうがええて。……寺田は荒けにゃあ男だで。神無月くんも、みんなに同じように思われたら損だが」
 私は、自分と康男が結んでいる友情のせいで、損をしたとも、何か誤解されたとも思ったことはなかった。人のそばで、いつも心配そうな難しい顔をしながら、臆面なしに鼻を突っこむ連中、何のためにこういう連中は、年がら年中心配そうな顔をしているのだろう。何のために年がら年中小難しく意地悪なのだろう。私は呻(うな)るように言った。
「康男もぼくも、だれからもへんに思われてないし、怖がられてもいないよ。守随くんこそ、康男のことを考え直したほうがいい」
 東海橋を渡っていく康男のさびしそうな背中がはっきりと浮かんできた。たった一人の親友に寄せる自分の愛情がますます確かなものに感じられて、私はしげしげと守随くんの顔を見た。彼は渋い表情をした。彼の孤独そうな目の奥にやさしい気持ちが宿っていると思ったのは、私の買いかぶりだったのだ。
「康男を怖がるやつは、バカだよ。バカなやつだけが康男を冷たく見たり、悪口を言ったりするんだ」
「……バカだって言われたら、もう勉強は教えられんわ」
「ああ、いいよ。もうこない」
 私はノートを閉じると、
「じゃね。これまでほんとにありがとう」
 と言って座を立った。守随くんはこちらを見ようともしなかった。二人の口論が抜き差しならない調子に聞えたのか、それともたまたま何か手を離せない用事があったのか、親切な両親は部屋に入ってこなかった。
「じゃ、ほんとにさよなら」
 私はもう一度、玄関から声をかけた。


(次へ)