百

 国道4号線から入りこみ、公園入口の案内掲示板を見る。碑銘を読みながら、
「明治二十七年完成、県でいちばん古い公園か。一八九四年。ミヨちゃん、この年の歴史的事件は?」 
「うーん、露仏同盟、日英通商航海条約、日清戦争、ドレフュス事件」
「優秀! 北村透谷自殺、高山樗牛滝口入道、樋口一葉大つごもり」
「それ、不気味。かないません」
 母子で手を取り合って笑う。母親が、
「この球場には二年間よくかよいました。きのうのことみたい。ちょうどいまごろの季節よ。神無月さんのユニフォーム姿、目に浮かぶわ」
「東大のユニフォーム姿は、おとうさんのアルバムで見れるわよ。モノクロの新聞写真だけど」
「ううん、青高のユニフォーム姿が忘れられないの」
 青森市営球場を左に見て、枝桜と松の並木道を歩く。奥さんが左右をきょろきょろ眺めながら、
「神無月さん、樹や花の名前をよく知ってましたね。私たちも桜や松ぐらいはわかりますけど、あとはぜんぜんわかりません。教えてください」
「ここの桜はソメイヨシノ、松はクロマツ、ヒマラヤスギ、杉と名はついても松です。メタセコイア、モミジ、ケヤキ、シンジュ。うん、ポプラもある、あれはユリノキ、コブシ」
 ミヨちゃんが片手を挙げ、おどけ顔で、
「きりがないわ。そのへんにして、石碑を見にいきましょう。三十一もあるんですよ。小学校の夏休みの自由研究で調べたの」
「これは知ってる。プロ野球初の完全試合藤本英夫」
 ミヨちゃんは四阿(あずまや)の横の石碑を指差し、
「あれは公園でいちばん古い升六(しょうろく)句碑。居ならふや正月したる小田の雁」
「だれ、升六って」
「黄華庵(こうかあん)升六。江戸の文化文政時代の俳人。大阪の人で、一茶のお友だち。ふふ、そのくらいしか知らない。砂浜にいきましょう。啄木の歌碑があるわ」
 池沿いの道を通って砂浜に出る。海水浴客で混雑している。
「昭和三十一年建立か。大して年月が経っていないのに、字がかすんで見えないな。何て書いてあるんだろう」
「船に酔(ゑ)ひてやさしくなれるいもうとの眼見ゆ津軽の海を思へば」
「一握の砂、たしか第三百九首だ。明治の末に〈石をもて〉渋民村を追われたときの歌だね。啄木は二十歳あとさき。盛岡の常光寺の住職だった父親の一禎さんが、宗費を滞納した責任を問われて、野辺地の常光寺の知り合いのもとへ逃げこんだんだ。それで一家が離散して、女房の節子は盛岡の実家に戻り、母親は知り合いのもとに身を寄せた。盛岡駅で長女を抱いた女房と別れた啄木は、妹の光子を連れてこの津軽海峡を青函連絡船で渡った。同人誌仲間のいる函館へいくためにね。妹は啄木と函館で別れて小樽の親戚のもとへいった。青函連絡船の三等客室は船底にあってね、油くさくて揺れが激しいから、胸具合が悪くなる。この、やさしくなれる、という表現にはぼくも啄木を読みこんでたころ悩まされてね、船酔いのせいでトロンとなったということみたいだ。その元気のない眼を、〈やさしくなれる〉と歌ったんだね。五カ月も函館にいないうちに大火に遭って、啄木も小樽へ転居してる」

「悲しきは小樽の町よ、ですね。啄木が渋民村を追われた理由は、お父さんの宗費着服だったとか、代用教員時代のスト騒動だったとかいう話は知ってますけど、啄木は函館へいってアテがあったんですか」
「成功のあてというものはなくて、同人誌編集に打ちこんで心機一転しようとしたんだね。それまでの啄木は近代人の仲間入りをしたいという一種のエリート病に罹ってて、岩手と東京を往復してた。東京で出世すれば幸福になれると思ってたんだろう。一流の近代を謳歌してる東京は、劣等感にまみれたおちこぼれの啄木をそう簡単には受け入れてくれない。啄木は何度も挫折を繰り返した。で、もう幸運なんかあてにするつもりもなく、純粋に人間的ロマンを求めて北海道に渡ったんだと思う。でも、どんな土地も二流の近代がはびこってるに決まってるから、純正なロマンなんかあるはずがない。函館では、新聞社社員や学校教員なんかを転々とやりながら、いろいろ女とも付き合い、悶着を起こしたりする。会社ではかならず上役ともめる。二流の近代も彼を救ってくれなかったんだ。釧路に移ってからも新聞社社員をやったけど、人間関係がうまくいかずにこれもだめ。函館に女房子供が追ってくる。啄木の女性関係は乱れてる。二流の中でも頭角を現せないなら、ええいヤケだ、もう一度一流に挑戦してやれ、何かマグレがあるかもしれないぞ。女房子供を友人に預けて再上京。たとえそんな〈一流〉なんか手に入れたとしても、彼の資質よりもはるかに劣った代物だったのにね。天才というのは真実が見えているのに道草を食うからね、結局また挫折して、結核で死んじゃった」
「道草を食って、犬死しちゃったんですね」
「犬死はしてない。真実の作品を残したから。どれほど道草を食っても、天才は真実を残すんだ」
 奥さんが、
「神無月さんにとっての道草は、何ですか。神無月さんはどう考えても天才ですから、お聞きしたいんです」
「むかしは道草食ってるように感じてましたけど、いまは感じてません。むかしは、啄木と同じ、文学へのあこがれの中で暮らしてました。芸術の歴史に名を残したいと願う病気の中で暮らしてました。野球は一瞬のもの、芸術は永遠のものだと考えたんです。無知でした。いまは人生に道草はないとわかってます。一流も二流もなければ、一瞬も永遠もない。ものごとも人も、ただ愛すること。その連続した真実の実践に、一秒の道草もない」
 私は笑いながら言った。二人は元気よくうなずいた。
         †
「中島秀子さんは、どうしてますか」
 テーブルでミヨちゃんが訊いた。
「いま青高の二年生。五番以内の成績だそうだ。名門大学に受かるのは確実だね。ぼくがドラゴンズに入ったら名古屋大学にいくって、ミヨちゃんと同じことを言ってる」
「私に負けないくらい郷さんに命懸けの人ですから、まちがいなく受かるでしょうね。私もがんばらなくちゃ」
「豚肉とリンゴを持ってきてくれた女の子ね。きちんとした子だったわ。あの子とは、もう……」
「まだ、まったく。四年前にキスをしただけです」
 ミヨちゃんが、
「郷さんて、ほんとに、自分からはぜったい手を出さない人なんですね」
「目をギラギラさせて艶福家ぶる男は世間にたくさんいるけど、神無月さんのようなホンモノの男はまずいないわね」
 うまいコーヒーを飲む。テレビをつけると、キーハンターをやっている。
「東京から回ってきた番組の再放送。東京と同じ時間帯の番組はNHKぐらい。ミヨ子は勉強で籠もりっきりだし、夫婦二人でテレビを観ても退屈で」
「巨人の星は、おとうさんおかあさんと三人で、郷さんを見るような感じで観てます。神無月くんはこんなものじゃないって、おとうさん、いつも興奮するんです」
 話をしているうちに主人が帰宅した。最後に会ったときより一回りも肥っている。
「おお、こりゃ、神無月くん! きてくれたのが」
 堅く握手する。
「練習の中休みで、思い立って会いにきました。ご主人にお会いしたら帰ろうと思って待ってました」
「ありがと。神無月くんの活躍はいつも新聞で拝見してます。すごいね。大天才とは思ってたけど、大の上に超のつく天才だったんだね。この家に下宿してくれた八カ月は一家の一生の思い出だし、自慢の種ですよ。女房もミヨ子も、この三年話すことといえば、神無月くんのことしかなくてね。うれしいんですが、辟易します。かく言う私も、スクラップブックの鬼ですがね。いやあ、とにかくうれしい。きょうは時間が許すかぎりゆっくりしていってください」
 彼は握手を解くと、
「とりあえず、汗を流してきます」
 と言って風呂へいき、女二人は台所に立った。
         †
 ステテコの上に浴衣を引っかけた主人が私にビールをつぐ。
「このところ青森も三十度前後で、夏真っ盛りです。青高は一回戦敗退でした。夢よふたたびはないですな」
 母子がフィレステーキと生野菜のサラダを運んでくる。
「柔らかいですよ。サラダといっしょに食べて。すぐにごはんとお味噌汁をお出ししますから」
「ま、飲んで」
「じゃ、一杯だけ」
「東大野球部は、禁酒が原則?」
「いえ。そういった拘束はありません。試合期間中でも常識の範囲内で」
 主人はクイとコップをあおり、
「いくらなんでも、もうお母さんは認めたでしょう」
「永遠にそれはないです。ただ、東大入学を契機に母とは音信が途切れてしまいましたので、心置きなく野球をやってます。大学の成績が不良になったら、不意に槍が飛んでくるでしょう。でも、むかしほど戦々恐々とすることはなくなりました。どんなにこちらが近寄っても、気持ちを滅入らせることでしか応対できないような人と、だんだん疎遠になっていくのは仕方のないことです」
 主人はため息をつきながら自分のコップにビールをつぎ、
「プロのスカウトは、うろうろしてるんですか?」
「うろうろしてますが、卒業の年までは声をかけてきません。在学中のプロ勧誘は禁止されてますから。中退すればすぐきます」
「マスコミは?」
「ぼくのマスコミ嫌いは、彼らの本音のところでは生意気だと見なされて、ぼくのことを紙面で少し皮肉ることはありますが、実際に足を引っ張ることはありません。ケガさえしなければ、このまま順調にいくと思います」
「野球一つで、うだでぐ、ちがる人生が開けたですなあ」
「野球一つって、あなた、神無月さんの生き方がぜんぶ合わさって、こうなったのよ」
「わがってるでば。だすけスクラップブック作って、神無月くんの人生の追っかけしてるんでねが」
 ミヨちゃんが、
「新聞記事で人生は追いかけられないわ」
「それもわがってる。切り抜いてると楽しいんだじゃ。マコトさんも作ってるってよ」
 私はフォークを止めて顔を挙げた。
「奥山先生が」
「そうなのよ。マコトちゃんはいつも神無月さんのことを心配してるの」
「ぼくが失意のドン底にあったころに出会いましたから。いつまでもぼくのその後が気になるんですね。ありがたいことだと思います」
 彼は私を万能だと信じ、前途を案じている。一才のほかには虚空しかないことを見抜けないやさしい人びとの無知。私は彼らの根本的な無知に安住する。ステーキをもりもり食った。二人の女も、ナイフとフォークを盛んに動かした。
 主人はビールのコップを重ねながら野球の話に終始し、酔いつぶれて、別れの挨拶もそこそこに寝室へいってしまった。まだ八時にならなかった。
「応援してくれてうれしいと、あしたご主人に伝えておいてください。奥山先生にも、機会があったら」
 食卓の片づけにかかった奥さんが、
「ただうれしかっただけなんですよ。女とちがって、男は有名な人とむだ話はできないという緊張感があるみたいね。神無月さんに会えてほんとに喜んでるんですよ」
「……折があればかならず帰郷すると祖父母に約束しました。短い滞在なので、こちらまで足が回らないかもしれないけど、都合がつけば少しでも顔を出すようにします」
 ミヨちゃんが、
「じゃ、羽島さんに電話しますね。女は準備が必要ですから」
 そう言って、茶目っ気のある笑い方をした。
 母子は堤川の土手まで送ってきた。二年前の春まだき、赤井の合格祝賀会の夜にも奥さんとミヨちゃんはこの場所で名残を惜しんだ。ときの流れの一瞬を感じる。私はあの時と同じように二人と熱い握手をした。
「野球、がんばってください。いつも応援してます。勉強、がんばります」
「くれぐれも、おからだお気をつけて。さようなら」
「さようなら」
 母子の姿が闇にまぎれて見えなくなるまで見送った。


         百一

 川風が吹いていることに気づいた。黒い水面が微光をきらめかせて動いている。水と草のにおいがした。空を見上げる。乾いた星の眺めが川面の湿った闇の残像に重なった。それは私の生きている理由を肯定するやさしい闇だった。戸口に立って洗濯物を干していた末子の目が浮かんだ。―やさしい闇。彼女たちの生活の基調はそれだ。
 土手を下り、カズちゃんの住んでいた桜川から、青高の校舎塀沿いに歩いて松原通に出た。青高の正門にユリさんのシルエットが立っていた。宮ヶ谷小学校の校門の薄闇に立っていた母に似ていた。あのときとちがって私は息苦しくなかった。私は手を挙げた。ユリさんが応え、サンダルを鳴らして走ってきた。
「こんなに早く逢えるなんて! ミヨ子さんから電話もらってびっくりしちゃった」
 並んで歩きはじめる。
「どうしてた? 顔色が悪いよ」
「更年期障害。女も終わりに差しかかると、頭痛、腹痛、発熱、倦怠感」
「暮らしは?」
「商売は繁盛よ。今年も満室。まじめな子ばかりで管理がラク。春にみんなで英霊の墓までハイキングしたの。楽しかった」
 玄関まできて、アパートの名前が白百合荘に変わっていることをあらためて思い出した。ミヨちゃんもうっかり健児荘と言っていた。玄関を入ると、一人の女子学生が頭を下げて階段を上っていった。
「二人ほど帰省しないで勉強してるんです。あしたの朝食は離れでとるからだいじょうぶよ。私はもうお風呂に入ったから、神無月さんどうぞ」
 ミヨちゃんの言った〈準備〉の意味があわただしく迫る。ユリさんはまずそれを終えてしまいたいのだ。
「いっしょに入ろう」
「はい。流してあげます」
 ユリさんは焦っていないふうに食堂のテーブルに落ち着く。いじらしい。コーヒーをいれようとするのを止め、
「ゆっくり顔を見せて」
 恥ずかしそうに横に並んで座る。下まぶたと頬に残酷なたるみがきている。しかし好みの顔だと再確認する。
「やっぱりいい顔だ」
「大正七年、四月二十三日生まれ。五十歳になりました」
 文江さんと同い年であることも確認する。ユリさんはギュッと腕を抱いてくる。
「……逢いたかった。……野球はたいへんですか?」
「いや、好きなときに練習に出てくれって言われてるから。……三冠王も獲ったし、準優勝もしたから、ますますゆるくなる」
「勉強は?」
「ズルしてる。試験のたびに手伝ってくれる人たちがいるんだ」
 離れへいき、長い口づけをする。二人全裸になり風呂に入る。大きな胸―私は小さな胸を見たことがない。これからも小さな胸出会うことがあるのだろうか。乳首を吸う。
「ああ……いい気持ち。ミヨ子さんがときどき日曜日にきてくれて、けっこう長くお話して帰るんですよ。勉強のこととか、お父さんのこととか、お母さんのこと、そしてもちろん神無月さんのこと。恋しくて死にそうになるって、おたがいにうなずき合うの。来年青高に受かったら、ここからかようことになりました」
「よかったね。心の友ができて」
 ユリさんはシャボンを立て、私のからだを洗いはじめる。耳の後ろから首、胸、腕、背中、腹、両脚から陰部へ。しゃがみこみ、股のあいだを大切そうに洗い、亀頭を含みながら睾丸を手で洗い、足指のあいだを丁寧に洗う。肩から何度も湯をかける。磨きあげたという顔でにっこり微笑む。抱き合って湯船に浸かる。口づけ。甘い香り。ユリさんのにおいだ。勃起してくる。
「……元気になってきたわ。うれしい」
 跨り、ゆっくりからだを沈ませる。そのままじっと動かないで抱き合う。脈打つ。
「あ、イッてしまう、いい?」
 私はうなずき、尻を逃がさないように抱き寄せる。唇を吸う。すぐに唇を離して荒く呼吸する。
「あああ、イク、ク!」
 そのままで二度、三度、ユリさんは達する。ザーッと立ち上がり、湯船から両脇を垂らして何度も尻を突き出す。追いかけるように挿入する。
「あああ、だめェ、イクイク! またイク! またイクッ!」
 摩擦することなく射精が訪れる。ユリさんは私の律動に合わせて達しつづける。ぐったりとうなだれるユリさんの耳を噛む。ゆっくり振り向き、唇を求める。抜いて、こちらを向かせ、抱き締める。
「イキやすいから。もっと落ち着いてセックスをしたいんだけど、どうしてもすぐイッちゃうの。うるさくてごめんなさい」
「うるさくない。ぼくを愛してくれてるんだ」
「神無月さんを知ってからは、だれとも寝ていません。こうなるのをほかの男に見せるのなんて、ゾッとする」
 風呂から上がり、からだをきれいに拭い合う。
「インスタントラーメンが食べたい」
「あるわ、サッポロ一番。ごはんは」
「いらない」
 ユリさんは私が裸であぐらをかいている居間のテーブルに、丁寧にいれたコーヒーを持ってきた。
「これを飲んで待っててね。具をたくさん入れてあげる」
 居間から見える台所に、パンティだけ穿いた背中が立っている。コーヒーをすする。うまい。
「もう、タバコはやめたのよ。おいしくないから。退屈することもないし」
「新聞は切り抜く?」
「もう切り抜きはやめました。神無月さんのことは、ぜんぶ頭の中。逢える日がすべて。過去も未来もないの」
 手を動かしながら答える。
「玉ポンでお願い。固くして。それからチクワのスライス」
「はい。お野菜は玉ねぎ、キャベツ、白菜、ニンジン、モヤシ」
「ニンジンは入れないで」
「私は入れようっと」
 ユリさんは大きな胸を揺らしながら、中華鉢に野菜を山盛りにしたラーメンを二つ運んできた。顔をじっと見ていると、
「恥ずかしいわ。だいぶ垂れてきたから」
 不可抗力の悲しみを吐露する。
「まだまだ張りがあるよ」
 胡椒をたっぷりかけ、麺をすする。
「うまい! 隠し味がたくさん入ってる」
「昆布と醤油と鷹の爪だけよ。ピリッとするでしょ」
「ほんとに料理が上手になったね」
「エヘン」
 得意そうに裸の胸を張る。野菜を口に含み、おいしそうに噛みしめる。
「おかしい、わざわざ遠くから訪ねてきた恋人と、インスタントラーメン食べてる」
「人生だね」
「入マス亭や馬&馬には相変わらずいってる?」
「この一年で二回ぐらいいったかしら。一人じゃつまらないわ。一度ぐらい東京に遊びにいってみようかな。いくなら、いまの季節ね」
「きなよ。ぼくが忙しいのは、四月から六月、九月から十一月。その四カ月は野球漬けになる」
「やっぱりやめる。学生も里からいつ帰るかもわからいし、居残りする学生もいるし」
「健康にしてれば、いつだって逢えるさ」
「そうね。逢えたいまを大切にしなくちゃ。散歩しましょ」
 ユリさんはセミロングの紺のスカートを洋ダンスから出して穿き、薄手の白いセーターをはおった。置時計を見ると、十時になるところだった。青高正門前の表通りに出た。白亜の校舎を遠く眺める。
「いつ見ても、すばらしい高校ね」
「ああ、いいな」
 五十とは思えない若い姿がすっくと立って私に寄り添った。私たちは松原通を堤橋のほうへ歩いていった。下腹の熾(おき)が消えている。散歩のあとにもう一陣の嵐は吹き荒れないだろう。この数分で感覚をほとんど使い果たしてしまったようだ。しかし、この消耗感は爽快だ。私はユリさんの手を握り、
「裏切られると、人生は短い旅ですむけど、裏切られないと長旅になる。まだまだ旅をつづけなくちゃ。……長生きしたい」
「私も。いっしょに」
「生きていこう。ぼくは家庭を作るつもりはない。いまも、これからも生きていくだけだ」
 堤橋を横切り、港のほうへ下っていく。アパートに混じって民家が点在している街路に出た。防波堤が見える。
「こっちへは、一度もきたことがないわ」
「魅かれる町筋だ。一廻りして帰ろう」
 北国の夏の深夜が近づいている。小路をたどり、あの町並に入りこむ。
「おかしなところに入りこんじゃったみたい」
 ユリさんに気を差して女たちは声をかけてこない。フンという感じでそっぽを向いている。
「絶望した女たちがいる場所だ。見ておいたほうがいい。ぼくも真冬に一度きた。首を吊った夜だ」
 ユリさんは私の腕にしがみついた。
「思い出さないほうがいいわ、そんな夜のことは」
 踵を返して歩き出したとたん、
「ボクちゃん!」
 という声がした。小さい顔が戸を引いて出てきた。そうだ、あのときも彼女はこの戸口から出てきたのだった。モンペではなく、夏のスカート姿で年甲斐もなく跳ねるように走ってきて、
「恋人連れて、幸せそうじゃない。ほんとに元気に生きてるんだね。よかった。あれからたくさんいい人に会えたんだね」
 女を見つめているユリさんの眼に憐れみとはちがった共感の色が走った。
「うん、たくさん。いまもずっとぼくを見守ってくれてる」
「そちらのおねえさん、あたし五十七、もうすぐ還暦。めったに商売に出てこないんだけど、よかったわ、きょう出てきて。ボクに逢えた。あれから二年半ね。ボクのこと忘れられなかったのよ。ごめんなさい、おねえさん、それだけ価値のある男だってことを伝えたくて。おねえさん、いい顔してる。そういえば、あの土間でかち合った同級生、どうなった?」
「明治大学にいってるようだけど、会ってない」
 横にいるユリさんに、
「あのとき山口といっしょに看病してくれた古山だよ」
 ユリさんは小首をかしげて、ああというふうにうなずく。
「あたし、大貝さとみっていうの。ボクは?」
「神無月郷」
 何かを思い出そうとする顔になった。
「あ! 野球選手の―。新聞の写真を見たとき、まさかと思ったんだけど。ボクは野球のことなんか、これっぽっちも話さなかったから。すごいわねえ。見どころある子だなって思ってたからいまさら驚かないけど。あれからいろいろな人に助けてもらったのね。おばさん、うれしいわ。死ぬんじゃないかっていうほど思いつめてたから。あたしね、昼間はスーパーのレジで働いてるの。ここには、三日か四日にいっぺんしか出てこない。もうすぐ完全に足を洗うわ。でね、あたし、再出発するために家を買ったの。ちょっと見てってくれる?」
「うん」
「ぜひ見せてください」        
 青森駅まで歩いた。あしたよしのりと会う予定のグランドホテルを見上げる。軒の迫った小路を抜けて、道が入り組んだ住宅街で足を止めた。家といっても、吉永先生の水色の小屋程度のものかと思っていたら、小さな庭のあるきれいな一軒家だった。ユリさんの離れよりはよほど立派な、平屋の愛らしい家だ。
「きれいな家ですね!」
 ユリさんが目を輝かせた。
「もう少し顔が太れば、五十七には見えない自信はあるわ。からだはこのごろグラマーに戻ったし。でも、もう商売したくない。この家もぜったいそんなことには使いたくないの」
 潅木に縁どられた玄関を入る。土間が掃き清められている。
「いつもお掃除してるのよ。たった一つの財産だから。お風呂も見て」
 私たちは遠慮なく上がった。四角い木製の、よく磨きたてられた浴槽だった。透明な湯が張られている。
「おねえさん、あんた、どんな仕事してるか知らないけど、がんばりなさい。ボクを守る一人なんでしょう?」
「はい、ありがとうございます。私は、残りの人生ぜんぶ神無月さんにあげることにしてます。財産もぜんぶ、残してあげることにしてるんです」
 ユリさんは意外なことを言いはじめた。
「そうそう、そうしなさい。とにかくからだこわしちゃだめよ。命あっての物種なんだからね。ボクちゃんを悲しませないことも、あんたの大事な仕事よ」
「はい、身に沁みてわかってます」
「時間とらせたわね。あんたたちの大事な時間なのにね。ごめんなさい。そうだ、ボク、あのときは大金を置いてってくれてほんとにありがとう。あのお金、一円も使わないで宝箱にしまってあるの。くじけそうになったときに、いつも眺めて自分を励ましてたのよ。ボク、せっかくやさしい人たちに出会えたんだから、これからはそれにしがみついて生きてってね。さよなら」
「さよなら」
 二人で大貝さとみに手を振った。


         百二

「なんてロマンチックなのかしら」
「財産なんかもらっても使い道がないよ。本気なの?」
「本気です。使わなくてもいいから受け取ってね。二十年、三十年先のことかもしれないけど。それにしても、才能のある人って、人生が別なのね。ふつうの人は、一生かけてもこんなことに巡り合わないわ」
「いつかぼくには目標がないって言ったよね」
「憶えてない―」
「ほかの女に言ったのかもしれない。口癖みたいなもんだから。とにかくぼくには、人生の目的といったものがないんだ。目標に視線を据えた狂気がないから、ほとんどの人から好意を与えられる。ぼくは凡人のような考え方はしないけれど、目標がないという点では、無能者の一種だ。……こういうことに巡り合うのは、才能があるからじゃない。一筋通った目標がないせいで、いろんなことにぶつかるからだよ」
「神無月さんは、人よりすぐれた一本の才能の持ち主というより、人間として絶対的な天才よ。絶対的な存在はあらゆることにぶつかるわ。……神無月さんには、あまり斜に構えてほしくないんです。大勢の人たちから好意を受けてきた分、それ以上に排斥されたてきこともわかるわ。きょう神無月さんが言った、裏切られないと長旅をするって言葉も私にはわかるんです。つまらない世の中でまだ死なずに生きてるんだし、そういう世の中で生きていくしかないんだし、このままがんばって長旅をしていきましょう」
 私は不覚にも涙をこぼした。
「うれしいわ、泣いてくれて。私の心が伝わったのね。さ、帰りましょう」
 淡く、遠く、高島台から眺めおろした線路の風景が浮かんだ。おかっぱの福田雅子ちゃんや、笛をくれた内田由紀子や、歌のうまかった田中恵子。もし何かの拍子で彼女たちと暮らしていたら、こんな満ち足りた生活をしていただろうか。たぶんしていなかっただろう。まじめな彼女たちの生活設計に合わせ、野球もやらず、詩も書かず、労働し、型どおりの穏やかなセックスをし、その結果生まれた子を育て、未来への恐怖に基づいた貯蓄をし、流行に倣った遊山をし、老いて、微笑み合いながら若いころの思い出を語り合う―まざまざとその図が想像できた。しかし、そんなことがこの無能な自分に可能だったろうか。無能のゆえに可能だったに決まっている。可能だったけれども、幸福でなかっただけだ。生まれ出たことだけが私の人生に与えられた条件だった。―あの線路から先は、いまの人生しかありえなかった。
         †
 七月二十三日火曜日。快晴。十時に目覚めると、ユリさんが気づいて台所からやってきた。
「なんでもないことのように見えたものだから、つい口に出すのを控えてたけど、神無月さん、ほんとうに東大生になったのね。何かお祝いしなくちゃ」
「何もしなくていいよ。今朝もユリさんと、またお風呂に入れればいい。きのう夜はおたがい丸太ん棒みたいに眠っちゃったからね。五時にはここを出て、友だちと待ち合わせてるグランドホテルにいく。あと七時間ぐらいしかいられない」
「散歩しましょう。神無月さんの大好きな散歩」
「うん」
 鯵の開きとハムエッグの朝食をすませたあと、正門の前から山路に向かって、陽射しのきびしい道を並んで歩きはじめる。居間の文机の上に読み差しの本が伏せてあったのを思い出し、
「何を読んでたの」
「有吉佐和子。華岡青洲の妻。年末から読んでるのに、まだ終わらないんです」
「本はゆっくり読めばいい。書く人もゆっくり書いてるんだから。……ちょっと回っていきたい道があるんだけど」
「いきましょ」
 あの森に向かって歩いていった。死へ向かって踏みしめていった道だ。堤に切られた道から森に入りこみ、青黒い瀞(とろ)の前でしばらくたたずんだ。わくら葉が沈みこむ感触や、川音や、梢から見上げた皓々と輝く月を思い浮かべた。山口の、バカヤローという声も甦ってきた。そんなことが記憶の底に残っているのがさびしかった。忘れようといくら決意しても、忘れられないのだ。ユリさんも私に並びかけて、何も問いかけずに瀞を見下ろす橋の上に立っていた。ふたたび国道のほうへ歩きはじめると、ユリさんは私にぴたりと寄り添った。
「何年前でも、ほんのきのうのことだ。いまでは、そういう気分はある種の狂気だとハッキリわかってるから、ふとそんな気分がよぎったときに、正気であろうと決意すればすむようになった」
「狂気でも正気でもその神無月さんを見ること、それがみんなの生甲斐なのよ。神無月さんはとても神秘的だけど、その神秘を生むのは能力じゃなくて、神通力だと思う。神無月さんそのものが神秘的だから、神通力を生むの。野球の能力が衰えても、神無月さんを愛する人たちは気にしないでしょうね。神無月さんが神秘的なまま生きてるから。ホームランを打たなくても、神無月さんが生きてるだけで癒されます」
「……自分が神秘性を生まれながらに持ってるなんて信じられるはずがない。生まれたあとで身についた、分を越えた力が、ぼくを愛する人たちにぼくのことを神秘的に思わせるんだね。でも、そのおかげでぼくは自分をやさしく見つめられる。人の生甲斐になってるんだ、生きていていいんだよって」
 昼めしにユリさんは得意のチャーハンを食った。
「名人の域まできたね」
「ホホ。浪岡にある眺望山(ちょうぼうさん)にいってみましょう。標高百四十メートル、二時間ぐらいで登り下りできます。革靴でへっちゃら。タクシーで往復一時間。三時間と少しの気持ちのいい散歩ができるわ」
「いこう」
 二人で離れと寮に分かれて排便。離れでシャワー。抱き合って最後の湯に浸かる。ユリさんがラフなスカートを穿いた。水筒を持つ。
 タクシーで関野商店前を出発して、松原通から堤橋、古川跨線橋、油川バイパス新城入口。右折して新城川を渡り、国道280号線をひた走る。青田と青空しかない。
「道と空だけ。すごいな」
「ね、目的地にいくだけの道。住宅もけっこうあるんだけど、ばらまかれてる感じだから道だけに思えるわね。八甲田の山並を出発してきたから、進行方向に山並もないの。ほんとに道と空だけ」
 左折して県道2号線に入る。運転手が、
「太宰治の金木へ抜ける道です」
「はあ」
 とだけ応える。七、八分走り、眺望山西口に到着。
「ここが登山口。あの二階建ての山小屋が管理棟。駐車場もトイレもあるわ」
「小便をしておこう」
「はい」
 タクシーの運転手が、
「ここは交通の便がないですから、東口で待ってましょうか」
「お願いします」
 五千円を渡す。
「差額はあとで精算します。……あの」
「はい」
「神無月選手ですか? 東大の」
「そうです」
「うへ! サインいただけますか」
「もちろん」
 彼が内懐から取り出した手帳に添えられたボールペンでサインする。
「ありがとうございます! もしやとは思いましたが、人ちがいだったら失礼なので話しかけられませんでしたよ。秋季リーグ、がんばってください」
「がんばります」
「じゃ、東口でお待ちしてます」
 案内図を見て、西口から東口へ帰る四・四キロのコースに出発する。クローバーの生える道を登りはじめる。クサギの五裂の筒状花が咲いている。ホオノキの大木。
「モクレンの一種だよ」
 対岸にキャンプ場を見ながら沢に沿って進み、一合目を通過する。登山道と言うよりは、きつい勾配のない遊歩道だ。水野といった多度山よりもラクなハイキングコース。随所に解説板が立っている道を、もどかしいくらい少しずつ登っていく。ヒバ林の中に延びた幅の広い歩道。ヒバの樹幹は杉よりもかなり細い。幹の右巻き左巻きの標示がある。たしかに樹皮がねじれている。森の鬱蒼とした雰囲気がなく、疎林の空気が爽やかだ。四号目通過。シダ群落に出る。針葉樹林の下にはシダの群落ができる。掲示板がある。ユリさんがぶつぶつ読む。
「リョウメンシダ、サカゲイノデ、オシダ、ジュウモンジシダ、ミゾシダ、イヌガンソク」
「どれがどれだかわからないね」
 もう山腹道から尾根道へ移動する丸太階段が現れた。あっという間に尾根道。スミレサイシンの赤い実。ツバメオモトの蕾。ツクバネソウの赤い蕾。八合目標示板。青森ヒバ保護林の標示板。
「神無月さん、あれ、ヒメホテイラン!」
 ユリさんの指の先を見ると、ヒバ林の床に十センチほどの一茎、翅(はね)を広げたトンボのような形をした濃いピンクの花が立っている。
「とてもめずらしい花よ。ヒバの林にしか咲かないの。葉は一枚だけ根もとについてる」
「やさしい同伴者みたいだね」
 そのまま歩きつづけると、ヒバ林によく似たヒノキ林になった。九号目休憩所に着いた。山頂脇の位置にある。少し大きな四阿(あずまや)といった造り。ユリさんと腰を下ろす。周囲を見回すと、ナガハシスミレ、コミヤマカタバミのピンクの群落。正面にチョコンと隆起している部分に山頂の碑が建っている。
「林の散歩道という感じだったね。でも充実した時間だった」
「たった三十五分よ。神無月さん、足が速いんで驚いちゃった」
 水筒のコーヒーをついで飲み合う。ガヤガヤと子供たちの声がする。山頂広場にいってみると、保育園か幼稚園の子供たちが、スミレの咲く草はらで引率教師と仲良く戯れていた。園児でもラクに登れる山なのだ。見回すと火の見櫓のような木造の展望台とピクニックテーブルがあるきりだった。二人で展望台に登った。
「おお、すばらしい」
 遠く八甲田連峰が眺望できた。首を巡らすと、陸奥湾も見えた。眺望山。名前の由来はこれだったのだ。
「ユリさん、ありがとう。この日を忘れないよ」
「私も」
 山頂から東口への歩道をたどる。ミズバショウ。名も知れぬ美しい花々。大きな葉の座布団を敷いた紅紫三弁のエンレイソウ。白い三弁もある。ヒバ林。杉の木もある。幹が二又、三又に分かれているヒバを時おり見かける。オドリヒバと標示がある。
 くだり道になり、東口が近い。沢へ下りてU字状に曲がる。あっけなく東口に着いた。勾配のゆるい、くだってきた道を振り返る。一時間足らずで登下山した。
 待っていたタクシーに乗りこむ。
「早いですね! 足の速い人より三十分以上早い」
 ユリさんが、
「ほとんど小走りでついていきました」
「さすが怪物ですね。道のりは三キロぐらいのものなんですが、登りくだりがありますからね」
「待っていてくれて助かりました」
「ほんとにここはバスもこないところで、国鉄の奥内駅から登山口まで六キロもあるんですよ。今年、県民の森に指定されました。近場の里山だし、日本三大美林でもあるというわけで、大人から子供までリュックサック背負ってやってきます」
「私も寮の生徒さんとそうやってきたわ」
「ヒメホテイラン、見ましたか」
「見ました」
「あれが目当てでくる写真家も多いんです。なんてことない花なんですが、貴重だと言われると見てしまいますね」
 ユリさんがシットリと汗ばんだ手で私の手を握っている。求めている。しかしそんな場所はない。
「四年後は、プロですね。やはり希望は巨人ですか」
「中日です」
「ほう、ドラゴンズ。あそこも強いですが、今年は最下位で低迷してますよ」
「そうですか。ぼくにとっては、あこがれの球団です」
 タクシーの時計を見ると三時二十分だ。帰路をひた走る。
「お二人はご親戚か何か」
「神無月さんが青高にいたころの、下宿のおばさんです。神無月さん、お土産は?」
「いらない。荷物になるから」
「義理堅いかたですね。わざわざ訪ねてくれたんですか」
「そうなんですよ。何年かにいっぺんの里帰りのときは、かならずきてくれるんです」
「スポーツ選手はそうでなくっちゃ。世知辛い世の中で奇特なことですね。はい、着きました、関野商店」
 預けていた金のツリを出そうとしたので、
「取っておいてください。きょうはほんとに助かりました」


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