百二十一

 飛島さんが立ち上がって、若き血を唄いだした。フラッシュが一発、二発。三木さんと山崎さんと佐伯さんが手拍子を打った。私も山口も手拍子を合わせた。所長は笑いながら腕組みをしていた。唄い終えて飛島さんは、
「キョウくん、対慶應戦は、お手柔らかに頼むよ」
「そんな余裕はないですよ。ぼくだけが打っても勝てないチームですから。どんな大学と戦っても、勝ち点を取るのは難しいです」
「投手力がオシャカだものね」
 所長が、
「表のクラウンは、東奥さんか?」
「はい、名古屋支社で借りました」
 菅野が機転を利かせて思いつきを言った。山口は問われない前に、
「俺はホテルのフロントで聞いて、レンタカーを借りました。あしたの午前早く新幹線で帰ります。神無月の練習が午後からなので」
「そうか、それじゃそろそろ戻らないとな」
 夕食がお開きになって、恩田が記念写真を撮った。台所の母と下働きは写真の列に混じろうとしなかった。
「またくるよ」
 私が母に声を投げると、山口が袖を引いた。台所からすぐに返事が返ってきた。
「何かのついでなら、こなくていいよ」
 山口が囁いた。
「めざしてくるわけないだろ」
 山口以外に母の言葉をたしなめる人間は一人もいなかった。佐伯さんがまた私のからだを抱き、握手した。
「いちばん喜んでほしい人だったのにね。郷くんの出世がまだ信じられないんだよ。日本中が大騒ぎになっても信じないかもしれない。勉強もせずに、野球ばかりしてて、道草を食って、そういう郷くんを心配しながら生きるのが楽しかったかったんだと思う」
 私は母を哀れに思いながらも、本心を言った。
「楽しかったなら、島流しにはしないと思いますよ。理解に苦しんだのは、もう過去のことです。いまは理解する気もありません」
「……いつか仲直りできるといいね。これに懲りないで、また遊びにきてね」
「はい」
 また山口が苦々しい顔をした。所長が浜中を見つめて、すまなさそうに眉を下げた。
「こんなもので取材になったの、東奥さん」 
「はい、じゅうぶんです。お母さんにたっぷりお話を伺いましたから」
 所長は小声になり、
「たっぷり悪口をな。キョウは不良じゃないよ」
「承知してます」
「俺たちはキョウを常に後援するし、いつまでも見守るからね。異動の辞令が出たとしても同じだ」
「異動の話があるんですか」
「もしもの話だ。そんなふうに記事を書くよう心がけてほしいな。三木、あの封筒しまってあるよな」
「はい、とってきます」
 三木さんが寮へ向かおうとすると、山崎さん、飛島さん、佐伯さんがあとにつづいた。戻ってきた三木さんから渡された封筒は、これまででいちばん分厚かった。
「一万ずつ足しといたぜ」
 山崎さんが言った。所長が受け取り、中を確かめた。
「二十四万入ってる。春からのカンパが貯まったものだ。好きなように使え。足りなくなったら、俺宛に手紙をよこせ。すぐ送ってやる」
「ありがとうございます。遠慮なく使わせていただきます」
 餞別をブレザーのポケットにしまい、食堂を出た。男たちはシロといっしょに鉄門まで送ってきた。山口ともう一度シロの頭を撫ぜた。男たちは二台の車に手を振った。シロがさびしげに腰を落としていた。母と新入社員と下働きの女は出てこなかった。
         †
「な、神無月、おまえ、喫茶店で黙ってしまったけど……俺は言いすぎたと思ってないからな」
「うん、わかってる。山口の気持ちがうれしかったんだ。自分の小心を反省してた」
「おまえは小心者じゃない。大空のような心の持ち主だ。……弱い者いじめを好む人間ているんだ。弱い人間は常に存在するから、いじめはなくならない。おまえは弱い人間でもない。弱いように見えてしまう人間だ。いじめる人間は常に勝たなければ気がすまないんだ。だからいまの地位にいられる。そういうやつにとって、負けは許されない。おまえは十歳から勝利者の道を歩みはじめた。彼女に近づいちゃいけない」
 山口がハンドルを操りながら言った。
「気前のいい人たちだな。しかし、義捐金が迷惑なことは、おまえの表情でわかった。プロ野球選手という名目が立てば、堂々と断れるよ。援助するのは、おふくろさんが送金してないことを察してるからだ。ほかから援助のあることも察してるが、それほど多額じゃないと思ってるだろう。このカンパはプロにいくまで定期的なものになるぞ」
「うん、それまではありがたくいただくよ。断らないことが感謝の証だ」
「この世には、孤立した天才を痛めつけようとする人間もいるが、見捨てずに引き上げようとする人間もかならずいる。……安心しろ。もうおまえはサロンに入った。そこから引きずり出そうとする人間を見つけたら、全力で追い払ってやる」
「スポンサーと芸術家の形だね。すてきだ」
「俺はスポンサーじゃない。友という名の用心棒だ。友情は力だ。力があれば、おまえの自己実現は容易になる」
 鳥居通から日赤前を右折する。山口がハンドルを切る。菅野たちのクラウンが前を走っている。
「道を見るといつも、長く歩いてきてここにいるという喜びと、その先っぽにある死を感じる。夜に感じることが多いけどね。昼間はつい周りの景色を眺めてしまう」
「夜に、おまえとここにいられてよかったよ」
 山口の左手が私の右手をしっかり握った。
「あした帰るなんて嘘言わせちゃったね」
「きょう、あそこにおまえを泊まらせたくなかったんだよ」
         †
「お父さん、酒を飲んでもいいですか」
 玄関に入るなり、開口一番そう言った。控えの間で煙草を吹かしながら、よしのりや女将や店の女たちと歓談していた主人が、
「もちろん! おおい、おトキ、トモヨ、酒とつまみの用意だ! 神無月さんが酒を飲みたいってさ。トモヨは今夜直人と泊まっていけ」
「はーい!」
 カズちゃんたちがどやどや出てくる。夜の十時に近いので、みんな寝巻姿だ。しかもお揃いで、神社の絵柄を染め出している浴衣だ。素子が、
「神宮前の商店街で買ってきたんよ」
 エプロンをまだ外していないトモヨさんが、
「みなさん、セクシーね。郷くんが目移りしそう」
 カズちゃんは裾を直しながら、
「何言ってるのトモヨさん、キョウちゃんは目移りなんかしないのよ。キョウちゃんにとって一人ひとりの女が理想の女なの。だから私たち、自信満々でいられるのよ。きょうは男どもが飲みたい気分みたいだから、だれも期待できないわね」
 女たちは顔を見合わせ、残念そうでもない様子で笑った。記者たちはくつろいであぐらをかき、
「じゃ、遠慮なくいただきます」
 と言ってビールをつぎ合った。山口とよしのりと私に菅野がつぎ、菅野と主人にトモヨさんがついだ。夕食の残り物が運びこまれる。餃子、シューマイ、焼きそば、レバーの甘辛煮、肉野菜炒め、チャーシュー、くらげ、辛い中華スープ、豪華だ。男六人に女七人が寄り添う。上座に主人と女将が坐った。二人の左右に夜更かしのトルコ嬢たちがついた。おトキさんたち賄いは部屋に下がっていた。
「不思議な世界だと思ってましたが、ここがいちばん安らぎます」
 田代の言葉に菅野がうなずき、
「あたりまえでしょ。いちばんまともな世界なんだから。ヒュー、筋肉がほぐれる!」
 菅野が笛のような声を上げる。カズちゃんがすかさず、
「たいへんだったみたいね」
 寮ではひたすらじっとしていた菅野が、
「社員のかたたちは極上でしたが、お母さんがね。神無月さんを憎んでる。信じられないことに何一つ認めてない。タチの悪い女帝だな。口数は少ないのに、不気味な圧力でみんなを仕切ってる。神無月さんが一泊すると親切心で言ったのに、泊まらないで帰れと追い立てられました。あれは気が合わないとかそんなものじゃないですね」
「しかし、子供の幸福を願わない親というものがあるんでしょうか」
 浜中の真剣な問いかけに、カズちゃんが、
「そういうふつうの理屈じゃ理解できない親もいるのよ。関わり合いにならずに逃げるのがいちばんいいんだけど、キョウちゃんは、負けてあげるという賢いやり方でずっと接してきたの。女親でよかったわ。キョウちゃんはすぐカッとなる人間だから、これが男親だったら殺してるかもしれない」
「神無月さんでもカッとするんですか?」
 恩田の問いに、
「とんでもなくね。片鱗はときどき見えるわ。理不尽なことを承知しない雰囲気ね。キョウちゃんもそういう自分を怖がってるみたい」
「そんなふうにはまったく見えませんね。それどころか、気弱な……」
「お母さんのことね。あれは特別。理不尽すぎて、怒りよりあきらめが先に立つから」
 よしのりが、
「神無月は怖いよ。野辺地に転校してきたばかりのころ、地元のヤーさんの弟で番を張ってたやつに喧嘩を売られて、だれにも言わずに約束の場所に出かけていったんだ。七、八人の仲間もまとめて一人で打ち倒した。おっそろしく喧嘩が強いんだ。その前の日に、そいつの手下にからまれて、顔と言わず腹と言わず全身を何度も蹴りつけて、肋骨を骨折させてたんだけどね。止められるまでやめなかった。冷静に蹴ってたのが怖い。……母親にしても、たまに会う分にはあきらめですむけど、ずっといっしょにいたら危ないぞ」
 東奥の記者たちがしみじみと私を見た。山口はどこ吹く風という微笑を浮かべている。主人が、
「ワシは糠に釘みたいな男より、短気な男のほうがええな。……母親に爆発するわけにはいかないものなあ。理屈を持って意地悪な人間がいるというのは、どっかで聞いたことはあるが、理屈がないというのはキ印みたいで納得できん。神無月さんが優秀すぎることが原因かと思っていたが、優秀な息子を持ったら大喜びして自慢して回るのがふつうやから、原因は別にあるということになるな」
 カズちゃんが、
「原因も何もないのよ。私は六年間もいっしょに仕事をしたから、キョウちゃんのお母さんのことは自分なりにわかってる。あの人は、大勢の人の考えることやすることを鵜呑みにしちゃうのね。東大に受かるのは人間ワザじゃないとか、プロ野球選手になれるのは何万人に一人だとか。そんなことは身近の人に起こりっこないと思ってる。どこか遠い世界の人に起こることだと思ってる。だから、身近な人に起こったらマグレで、喜ぶのはみっともないことだと思ってる。いいことが起きて喜ばないのは矛盾したことだけど、たとえ矛盾したことでも、自分の信念どおりに押し通しちゃうの。まともだなと思ったのは、水俣病のことで一度怒ったことぐらいかしら」
 山口が、
「それも社会的趨勢だからな。正義の怒りじゃないだろ」
「そうね、いいことも悪いことも、社会的な通念をほとんど認めちゃう。特に権力者や有名人は頭から認めちゃう。お母さんの頭を占めているのは、権力もなければ有名でもない人たちの欠点だけ。一日じゅうだれかの悪口ばかり言ってる。だからといって、自慢はぜったいしないの。そこがうまいところ。自己愛から言ってるんじゃないって思われるようにする。悪口の相手は周りのほとんどの人だったけど、別れたご主人か、キョウちゃんのことが圧倒的に多かった。所長の悪口は言わなかった。東大出だから。なぜキョウちゃんの悪口を言うのかわからなかった。よく勉強して、野球でも大活躍してたころよ。キョウちゃんのこと、冷酷で、ずるくて、立ち回りがうまいって、くどくど言うの。何度か私、お母さんの考えはまちがってるって反抗したことがあったけど、あんたはだまされてるんだ、そのうち痛い目を見るよ、の一点張り」
 山口はため息をつき、
「才能の存在を信じてないし、見抜くこともできないから、マグレや裏心とまちがうんだろう。その考えを神無月は刷りこまれてしまった。きょうこそ、それがはっきりした。神無月がいつも口にする自分の哀れな姿は、母親の〈理想像〉なんだよ。神無月は自分を見失ったまま生きてきた。神無月、おまえには一つのマグレもないぞ。人の裏をかく政治性もない。才能に満ちあふれた、ただの純朴な馬鹿だ。俺たちの神だ」
 吉永先生が、
「そんなひどい環境の中で、あんなすばらしい成績を残しながら、野球もやってきたんですね。もう、褒めるとか讃えるとか、そういう問題じゃなくて、それってただ驚くべきことです。そのキョウちゃんをお母さんは……人間のすることと思えない」
「キョウちゃんに女がいるなんてことがわかったら、どういうことになるかわかってくれたわね。病院を追われた節子さんの例を忘れないでね。トモヨさんと直人は、うちのおとうさんおかあさんのおかげで助かった。私たちもよほど結束を固くしないと、助からないわよ。たとえキョウちゃんがプロに進んでも」
「はい!」
 女将の周りの従業員たちまでうなずいた。浜中たちが感動したふうに大声で笑った。


         百二十二

 節子が、
「何も恐がらずに強い気持ちでいれば、どんなことも切り抜けられます。あのころの私は弱すぎたのね。秘密にしておくことの大切さがわからなかった」
「そうよ、正直でいられる人たちのあいだで正直でいればいいの。それはごまかして生きるってことじゃないんだから」
 山口が、
「神無月、おまえ、和子さんに出会わなかったら、人生ボロボロだったぞ。俺もだ。彼女のおかげで、いまここに神無月といられるんだからな」
 よしのりが、
「俺はちがうぜ。女と関係なく神無月と会った」
 山口が、
「男は出会うだけだ。救えない。死にかかってた神無月を救ったのは男じゃない。女たちが神無月を生き返らせてくれたおかげで、俺たちは関係を維持できた」
 法子が、
「神無月くん、死にかけてたの?」
 山口が、
「いつも死にかけてる。……感じてるはずだ」
 カズちゃんが、
「みんな感じてるわ。おとうさんもおかあさんも、菅野さんも、だんだんキョウちゃんのことがわかってきたこちらの記者さんたちもね」
「山口、カズちゃん、きょうぐらいぼくの話題はなしにして、楽しく飲もう」
 私が言うと、臍を曲げかけていたよしのりは少し機嫌を直して、
「気にするな。それで俺たちは楽しいんだから。話を戻すが、山ちゃん、神無月に対する俺の気持ちをもうちょっとしゃべらせてくれ。出会っただけで、途中の波乱万丈を目撃してないと言われると、ちょっとさびしい気はするが、俺はいつも神無月のことを思ってきたし、自分が生きてるのは神無月のためだけだということもわかってる」
 女将がそっと帳場部屋へ戻っていった。
「きょうのお金の計算は、あしたの生活の基本」
 カズちゃんはそう言うと、父親の顔を見て笑った。
「男の友情話はご馳走だ。ワシは食うよ。おまえたちは眠くなったら寝ろ」
 トルコ嬢たちに言った。だれも腰を上げなかった。一人の女が主人に酌をした。菅野が両隣にビールをついだ。山口がうなずき、
「聞かせてもらうよ、横山さん。でも神無月はいつものとおり、聞いてないぜ」
 菅野が、
「そうそう、神無月さんはいつも上の空。ポワーン」
「わかってる。神無月との出会いが衝撃的だったなんて言っても、神無月には耳にタコだから言わない。こいつと出会ったころ、俺は自分が不幸だということばかり話してた。たしかに当時の俺の待遇は快適なものじゃなかった。あんな思いは二度としたくない。……しかし、俺が自分のことを四の五の言う前に、神無月はそれどころじゃない経験をしてたんだ。それでも俺の話を親身になって聞いてくれた。そんなやつはいままで一人もいなかった」
 私は言った。
「よしのりは、ぼくの島流しの屈託を減らしてくれたからね」
 山口が、
「……まあ、そんな状況にあったら、ふつう聞くふりはしても、親身にはならんな」
 よしのりはうなずき、
「神無月には他人の気持ちが何もかもわかってるんだな。だから何を聞いてもありきたりに聞こえる。それでも親身になるんだよ。自分の経験を語りに混ぜたりしてな。比べることなんかできっこない自分の経験と、まるで共通点があるみたいにしゃべるんだ。つまらない俺の経験に花を添えるためだよ」
 吉永先生が、
「キョウちゃんは、そういうことが自然にできるんです。ぼくはダメなやつだって連呼することで、キョウちゃんより自分のほうが大きくなったような気にさせるんです。そんなのまちがいだって、ハッと気づくんですけどね。でも、そのおかげで何度も救われてきました。……それから一秒も忘れられない人になったんです」
「そうなんだ。俺はいつもこう自分に言い聞かせてる。もし、神無月に出遇うことがなかったら、俺は徹底的に潰れていただろうってな。なぜ俺はここにいるのか。それは神無月がここにいるからだ。神無月を見るために、いま俺はここにいる。―俺の生まれてきた意味なんか探したってあるわけがない、神無月の奇妙な言動、物欲のなさ、自然で旺盛な色ごと、そういう、人間として意味のあることごとくが俺の心を和らげるんだってな」
 いつのまにかおトキさんやトモヨさんまで、主人のそばで端座してよしのりの話を聴いている。
「ラビエンでシェーカーを振ってるとき、俺と客との関係は、つまるところ飲み友だち程度に留まってる。たまたま俺の個性とやらを買いかぶって、カウンターでのやりとりを超えた親密な付き合いを求めてくるやつがあると、イライラする。つまり、彼らに対する俺の注文を露骨に言ってしまえば、俺は神無月と神無月を取り囲む人間以外に関心がないんだから、お前たちに対してはズボラに、この上なく不道徳に振舞うぞ、それがいやならそばに寄ってくるな。その代わり、俺は話上手だし、芸達者だし、なかなかかわいげもあるから、それをおもしろいと思うなら、信用できないのを承知で付き合ってくれ、とまあそういうことになるんだ」
 主人が真剣な顔で聴いている傍らで、浜中がメモノートを置き、
「友愛というより、凄絶な恋心ですね。失礼をお許し願ってお尋ねするんですが、神無月さんの所有欲に対する無頓着さというのに感銘したら、ある種の社会放棄を学ぶことになりませんか」
 山口が、
「そのとおりですよ、浜中さん。たしかに感銘して学ぶけれども、俺たちは神無月のすることを学んでも実践しない。理解して愛でるだけです。社会放棄を実践するのは神無月なんですよ。俺はそうする神無月を理解している―俺の愛する友が、どうして北国の片隅で暮らさなくちゃいけなかったのか、その片隅から引っ張り出されて、せっかく転がりこんだ成功のチャンスをどうして自ら放棄しようとしたのか、いまならハッキリわかる」
 主人が、
「お母さんの妨害やろ。こうやってわざわざ遠回りしたんは」
「たしかにそれも原因の一つです。でもいちばん大きな原因じゃない。彼女がお膳立てした中三の秋から高二の夏があったからじゃないということです。俺もそれが最大原因だろうと思ってました。東大に入り、野球部に入り、恐れていた干渉がまったく起こらないので、あれ? と気づいたんです。驚くかもしれないけど、母親のせいでもない。もっと複雑です。それがきょうわかった。母親は東大合格を喜んでもいなければ、野球を忌み嫌ってもいない。どちらにも驚くほどの無関心です。東大と野球が自分にどう影響するかしか考えていない。最初から神無月というカヤの外にいた人間でした。もちろん、名古屋へ転校して、東大に入らなければ、対面を最大価値と考える母親のとんでもない行動力でゆく手を塞がれたことはまちがいない。しかし、数年内にそれは除去されたこともまちがいないんです。神無月を放っておかない人たちの手でね。母親の言に従って自分を移動させつづけた原因は―あるときから、たぶん初めてホームランを打ち、初めて百点をとったときから、自分のためにお膳立てされたすべてのことに後ろめたさを感じるようになったからなんですよ。成果が単純に上がりすぎる、これは自分の実力のなせる業ではない、何かのまちがいだ、人はもっと複雑に苦労しながら生きて、それでようやくものごとが成就するってね。あの母親を筆頭に、神無月の純朴な耳に、それまでしつこくそういうことを吹きこむ人間が多すぎたんですよ。そして必然的に、あらゆる種類の成功と名声に反撥しはじめた。反撥と言うより違和感かな、そんなにまでして成功したくない人間、できれば失敗したい人間、勝ちたいやつに負けてやりたい人間になった。そういう人間に無意識に変身しようとしたんです。母親も負けてやりたいやつの一人です。そして無意識に実践した。無意識にですよ。しかも完璧に。無意識だから完璧に決まってます。島流しも転校も完璧にやりおおせた。そういう人間が、この世には確実に存在するんですよ」
 頬がふるえてきたので、山口は無理に微笑を作った。素子が、
「負けんと、実際に出世しとるやないの」
 カズちゃんが、
「気に入った人に喜んでもらいたいからよ。でも喜ばせようとは思ってないの。山口さんが言ったとおり、無意識なの。それでも人が喜ぶとうれしくて、生きる勇気が湧いてくるのね。人が喜ぶのはうれしいけど、励まされるのは苦手。だからいま、私たちはキョウちゃんが苦手なことしてるの。でもそうするのが楽しいって、よしのりさんが言ったでしょう? だからキョウちゃんは複雑な気持ちだけど、うれしいのよ。島流しも、転校も、東大受験も、あのわがままなお母さんを喜ばせるため。喜ばせないと人生をずたずたにされることは確かだったから、けっしてまちがったことをしたわけではなかったのよ」
 山口のそばに坐っていたおトキさんが目頭を拭った。恩田が大きくうなずいた。
「神無月さんは、みなさんの精神世界に多大な貢献をしていますね。その素は、神無月さんから発散される精神のにおいです。人間的な勝利のにおいであり、社会的な敗北のにおいです。と言っても、悲観的なものではなく、じつに明るい滅びのにおいです。どんな豪快なホームランを打っても、悲壮感がただよっていて、凄さよりも美しさを感じさせる。私、大仰な言葉遣いをしてますが、神無月さんの前でしゃべってると照れくさい感じがしません」
 トモヨさんが初めて口を開いた。
「汚れきった身で、こんなすばらしい人の子供を産めたことは奇跡です。あんなきれいな子を。郷くん、あらためてお礼を言います。ありがとうございました。どんなことがあっても、命を懸けてついていきます」
 カズちゃんがやさしくトモヨさんの肩を抱いて、
「キョウちゃんは何も考えてないわ。あなたが喜んでくれるからよ。お礼なんか言わなくてもいいの」
 恩田が立ち上がり、カズちゃんから始めて、店の女を含め一人ひとりの女の写真を撮っていった。浜中が、
「紙面に発表するものではございません。いずれ神無月さんについて書く本の資料とさせていただきます。きょうお撮りしたものは大判に延ばして、近いうちに北村席さん宛てにお送りします。記念にしてください。東奥日報は定期購読という形で、毎日郵送いたします。二、三日遅れになりますが」
 田代が、
「私ども、名古屋の街と、北村席のかたがたにぞっこん惚れこんでしまったので、ときどき絵と音を採りにこようと思ってます。よろしいでしょうか」
 帳場から出てきた母親が、
「いつでもきてや。あんたらええ人やから、うちらも楽しいわ」
 山口がおトキさんの手をしっかり握った。炊事着にエプロンをつけたおトキさんの坐り方が、野辺地のばっちゃにそっくりになっている。しかしその顔容はほかの女たちと同じくらい若々しい。田代が、
「広い世界だなあ! ここまで世界が広いと、いま生きてる世界がバカバカしくなりますよ」
 浜中が微笑みながら仲間たちにビールをついだ。恩田が、
「広い狭いというより、本質的すぎて、コペルニクス的転回を起こします。私、神無月さんの野球はもちろん、神無月さんそのものも撮りつづけます」
 しばらく座をにこやかに見つめていた菅野が、
「そろそろ、私は帰りますかな。北村席にいるとケツに根が生えちまう」
 浜中が、
「私どもも引き揚げましょう」
 何人かのトルコ嬢たちが、
「うちらは麻雀して寝よ」
 主人が、
「付き合うぞ」
 打ち揃って八畳部屋の雀卓へいき、一抜け、二抜けなどと言いながら、牌を掻き混ぜはじめた。麻雀をしないほかのトルコ嬢たちも取り巻いた。恩田が雀卓に近づき、何度かシャッターを切った。それから菅野と浜中と田代といっしょに玄関へ出ていった。みんなで門まで送った。
 女将は山口とおトキさんといっしょになってみんなにコーヒーを用意した。ときどき直人の様子を見にいっては戻ってきて座に加わっていたトモヨさんが、
「みなさんお休みなさい」
 と挨拶して、直人の待つ寝室に去った。かよいの賄いたちがぽつぽつ帰りはじめる。麻雀に参加していない店の女たちも、コーヒーを飲み終えると二階へ上がっていった。カズちゃんたち五人の女と、私たち三人の男が、おトキさんの用意した焼きビーフンを食べながらビールをつぎ合った。


         百二十三

 女将がふと呟いた。
「負けてあげると言ってもねえ……神無月さんは、お母さんにいつまで好き勝手をさせておくん?」
 ペチンペチンと雀牌を打ちつける音がする。
「好き勝手をしているつもりにさせておくだけです。どうにか手出しをされない場所に避難できましたから。法律的にはどうであれ、心の中で親子の縁を切ったんです。母の罪を裁くには、ぼくも罪を犯さなくちゃ。目には目を。寛容はおたがい何の効果も生まない」
「……ほうやねェ。いえね、もし、私が神無月さんみたいなすごい子を産んどったら、そして亭主に捨てられるような目に遭ったら、どんふうになっとったやろと思ってね。わが子が天才や秀才でなくて、自分を愛してくれるような平凡な子であることが、結局は救いになるんやないかって思ってね」
「おふくろの気持ちがわかるんですね」
「わからん。でも、同じ母親として、ちょっと気の毒な気はするわ」
 私はある種の好意から、このカズちゃんに似た瞳を持っている女にひとこと言っておきたくなった。
「母親としての愛情は、たしかに大きな美徳です。力強い動機でしょう。だから母親の多くの行動は、そのために許されます。でもその行動に良心がある場合だけです」
 カズちゃんが、
「キョウちゃん、うちのおかあさんはキョウちゃんのことが大好きなの。キョウちゃんがいじめられるが耐えられないの。おかあさんがキョウちゃんのお母さんのことを気の毒と言ったのは、人間として失望したからよ。平凡を好むような人だったってことに失望したの。自分の信じる平凡さを守るためには、実の子の非凡さを殺してでも意志を貫くという残酷さに失望したの。ひょっとしたらそういう残酷さは、自分も持ってるかもしれないって怖くなったのね」
「カズちゃんのお母さんは平凡な人じゃありません。ぼくの母とは似ても似つかないやさしい人間です。母は臆病で、人にやさしくできない未熟な子供です。そのくせ愛されることを当然のことと思っている人です。でもそういう人は愛されない。人間は愛したい者を愛します。愛したくない者は愛せないし、愛さない者を怖がったり気の毒がったりもしない。父はきっとその気持ちに素直に従ったんでしょう。あまりにも呆気なく父に捨てられたことで、母の気持ちは路頭に迷ってしまったんだと思います。未熟な子供は身近なものに復讐の眼を向けます。ぼくがその標的になったという簡単な図式です。そういう未熟な子供に、もう思いどおりにされたくありません」
 節子も吉永先生も素子も法子も、山口もよしのりも、私の口から何気ない皮肉な調子で語られるこうした恐ろしい言葉の数々を貪るように聴いていた。女将が、
「しっかり守ったげるでね。心配せんでええんよ。……じゃ、和子、うちは寝るから、あとは適当に。おとうさんたちなんかほっといて、早くお休み。じゃ、みなさん、お休みなさい」
「お休みなさい」
 しばらく沈黙したあと、吉永先生が言った。
「キョウちゃんのお母さんは、人間を青白いガラスのようなものを透して見てるのね。肌の色も血の色も青白く見える。だから他人はみんな冷酷に見える。やっぱり気の毒な人だわ。気の毒だと思うだけですけど」
 カズちゃんが、
「キクエさん、ほんの少しでも同情すると、キョウちゃんのお母さん、息を吹き返しちゃうわよ。理屈で考えちゃだめ」
「お姉さん、焼きおにぎり作ろまい。ビーフン食べたら、おなかへってまった」
 カズちゃんたちが焼きおにぎりを三皿に盛って戻ってきた。二皿を雀卓へ持っていく。
「みんな眠くないの? 女は夜更かしが苦手なはずだ」
 節子が笑って、
「ぜんぜん。きょうは熱田神宮を歩いたり、うなぎを食べたり、神宮小路の法子さんのお店に寄ってお母さんやお姉さんとお話したり、帰りにはテレビ塔に上がって夜景を見たりして、いまもちょっと興奮気味。帰りに松坂屋にもいって、和子さんと法子さんと素子さんの見立てで、私と吉永さんはだいぶ洋服を買ってもらったのよ。私たち二人がいちばん野暮ったいから」
 女たちは遊山の見聞話を始めた。よしのりは一人杯を酌み、山口と私はそれぞれ雀卓の一人の背中につき、ゲームの進行を興味深く眺めた。一人ひとりの牌さばきのみごとさに目を奪われた。山崎さんや横地の指の動きに似ていた。三枚ずつ並べる形の複雑さにも心を奪われた。三色という美しい上がり手と、チートイツという整合性のない上がり手に感嘆した。彼らもまた得点計算が異常に早かった。私の父がこのゲームに練達していて、酷薄な取りたてをしたという話を思い出し、しみじみとバクチ打ちにたいする畏怖の念が湧いた。彼らは赤や黒の点が打たれた細い棒をやり取りしながら、和やかに何回戦か戦い終わった。やってみろと私と山口に卓が譲られたが、二人とも要領を得ず、失敗を繰り返した。山口は牌を別の山から取ったり、フリテンをしたりして叱られ、ソツなくやろうとする私も、自分でポンをしたあとにリーチをかけたり、やはりフリテンをしたりして叱られた。横地の三角部屋や飛島寮の娯楽部屋で何も学ばなかったということだ。私は自分の学習能力の低さを恥じ、ただニヤニヤ笑いながら赤面した。
「頭の回転が必要な難しいゲームですね。ぼくには手に負えない」
「慣れですよ。いずれワシが教えてあげます」
 主人が笑った。私は、
「いや、けっこうです。頭の限界を超えてます」
 カズちゃんたちはトランプを始めていた。よしのりが言う。
「神無月、もし俺がヨタロウだったら、おまえや山ちゃんみたいなおもしろいことができると思うか」
「まずほんとうにヨタロウであることだね。そして、これはおもしろいと思える趣味があること。その趣味が、没頭していること忘れられるほど夢中になれるものなら言うことなしだ。その姿を人が見てもおもしろいと感じるはずだよ」
「辛辣だな。おまえはさりげなく、これ以上ない皮肉を言う。俺にそんなものあるはずがない」
「ヨタロウには趣味が必要なんだ。社会との関係性が希薄な趣味がね。実益を兼ねようとしちゃいけない。役立たずの覚悟というのかな。読書、映画、音楽鑑賞、カメラ、プラモデル、盆栽、碁将棋、俳句、温泉巡り、食い歩き、散歩、ジョギング、釣り、そんなものばかりが趣味じゃない。野球やギターや書道のような一本道だって趣味になる。いっそバーテンを趣味にしてしまえばいい。パフォーマンスを夢中でやっていれば、それを見る人もおもしろいと感じる」
「人の役に立って、実益を兼ねることもあるぞ」
「それはそれで喜べばいい」
 素子が、
「キョウちゃん、もう目がトロンとしとるよ。寝なさい」
 山口が、
「よし、話のつづきはあしただ。俺はおトキさんと寝る。おまえは三日間、彼女たちと寝ろ。大きな部屋があるんだろ」
 おトキさんが、
「玄関の左手が、十二畳の客間です。お蒲団は押入に八組入ってます。横山さんはどうしますか」
「どうしますかって……」
 主人が杯を含みながら、
「ここにいる店の子の中から、一人どうぞ」
 よしのりが渋ったような顔をしたので、私はパチンと手を叩いて、
「いっしょに寝よう。ステージ部屋で話をしながら」
 よしのりはうれしそうに笑った。カズちゃんが、
「さ、おとうさんも寝なさい。もう一時よ。あしたは〈寝て曜日〉。お腹がすいたら起きてらっしゃい」
 節子が、
「和子さん、あしたはどこか出かける予定がありますか」
「どこへいっても芸のないところばかりよ。中日球場にいったって、キョウちゃんほどのバッターを見れるわけじゃないし」
 山口が、
「あしたはみんなでゴロゴロしてよう」
 よしのりが、
「俺が東奥さんを熱田神宮とテレビ塔と名古屋城に連れてくよ。じつは俺、いったことないんだ」
 カズちゃんが、
「そう? じゃ、ハイヤーを雇いなさい。お金渡しとくから。あしたは土曜日で、菅野さんは半休なのよ。午後には出てくるけど」
「菅野さんにいっしょに回ってもらいたいな」
「あしたの朝、電話しとく。ゆっくりしてらっしゃい。なんならおトキさんと山口さんもいっしょにいったら? まだデートしてないでしょう」
 おトキさんが、
「私はトモヨさんと台所のことをしながら、ご馳走作って待ってます」
 山口が、
「神無月とゴロゴロしてるよ」
 おトキさんが、
「じゃ、寝てください。お嬢さんがたは十二畳の客間、神無月さんと横山さんはステージ部屋に、いまお蒲団お敷きします。朝の七時にはお風呂ができてますから、めいめいご自由に」
         †
 寝床でよしのりが話しかけてきた。
「未来って何だろうなあ」
「正体のわからない幻だね。ときは過去から未来にかけて永遠に流れるけど、信じられるのは現在だけだ」
「実体のないものは信じられないわけか。おまえはいたずらして死のうとしたことがあったけど、幻の不死を願ったことだってあったんだろ」
「ない。みんな、自分が不死であるかのように思って生きてる。不死の自覚が、紙のリボンみたいに、首の周りをひらひら踊ってる。いつかあの道であいつに出会ったが、もうけっして出会わないだろう―不死を願えば、そんな大切な感傷を忘れてしまう」
 きょう会えただけかもしれない人たちの顔を思い出した。きょう会った人たち……そのすべての顔を思い出した。
「……不死を思ってるみんなって、俺たちのことじゃないよな」
「ちがう。ぼくたちはセンチメンタリストだ。死ぬことをなんとも思ってない。涙が出てくる」
「……センチメンタリストだけで、物足りなくなることはないか」
「ない。才能豊かなセンチメンタリストといるのが、いちばん魂をかよわせやすい環境だ。一年、二年、多少の束縛と賑やかさをがまんして、才能の手すりにすがりながら階段を昇ってみるのもいいかもしれないと思ってる」
「俺たちにはうれしいことだよ」
「野球の才能にたまたまスポットライトが当たったせいで、みんなが喜んでくれる。単純な才能がいい」
「単純の極致は複雑に通ず、か?」
「通じない」
「おまえの考える複雑って、どういうものだ」
「複雑そうな顔をすると、世間が価値をつけてやる仕組みだね。その価値が、汝みずからを知れというソクラテスの単純な言葉より、百倍も価値があるという仕組み。みんな竜巻に捲きこまれたみたいにそういう価値を得ようとアクセクしている。ぼくにはそのアクセクの絡まり具合が複雑すぎてわからない。単純の極致は単純に決まってる」
「だれのことを言ってるんだ、複雑というのは」
「ぼくが付き合ってない人たち。おまえもときどき、そいつらに近づこうとすることがある。そのときだけ、おまえが遠くなる」
「……三、四時間、寝ておくか」
「そうだね」



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