百二十四

 八月十七日土曜日。三、四時間のつもりが、起きると十時を過ぎていた。よしのりは早く起きて風呂に入ったらしく、さっぱりした浴衣姿の背中が濡れ縁に見えた。棗(なつめ)の木を眺めながら煙草を吸っている。
「お、起きたな」
「うん。その木はナツメというんだ。幹のところどころにトゲがあって、ギザギザした葉にくっきり三脈が走ってるだろう。それが特徴だ。小さな黄色い花が五月ごろに咲くんだけど、もう散っちゃったね。秋に赤黒い実がなるよ。甘酸っぱい。そのまま食べるのもいいし、砂糖漬けにしてもいける。おトキさん、漬けてないかな」
「めし食いながら尋いてみよう」
「ぼくは風呂に入るよ」
 山口が顔を覗かせ、
「いっしょに入ろう。いま、和子さんたちが入ってるよ。出るときに埋め直すと言ってた。東奥連中は昼ごろくると電話があった」
「一番風呂は?」
「横山さん。次がトモヨさん親子とおトキさん。俺たちのあとはトルコ嬢たちだ。お父さん夫婦は離れの内風呂に入った」
「朝めしは終わっちゃったね」
 よしのりが、
「夫婦とトルコ嬢たちと賄いはな。あとはみんな待ってる」
 山口に片目をつぶり、いっしょに廊下を伝って風呂へいった。水音のする戸をわざと開けると、キャーという叫びと、ハハハハという明るい笑い声が響きわたった。期待していた反応だった。山口が、
「いたずらするな。ほんとにおまえは女をうれしがらせるのがうまいんだから。まあ、風呂の前にコーヒーでも飲もう」
 三十二畳と十六畳一部屋に人がわんさと集まり、父親が直人を抱き、女将とトモヨさんが寄り添ういつもの形になっている。周りをトルコ嬢たちが取り囲み、直ちゃん、直ちゃんと呼びかける。
「おはようございます」
 私の声に女将が頭を下げ、
「あ、おはようさん。遅くまで起きとったん?」
「はあ、三時ぐらいまで。おトキさん、庭に棗の木がありますけど、実を漬けてませんか」
「はい、あります。蜂蜜で漬けたのが」
「ください。コーヒーに合うかもしれない」
 おトキさんがいそいそと持ってきた棗の漬物は、楕円形の種が煩わしかったが、柔らかい甘みがコーヒーの苦味にしっくり合った。
「いけるな、なかなか」
 山口とよしのりが頬をぷっくりふくらませる。女たちが風呂から戻ってきた。
「なになに、それ」
 みんなで棗の実を頬ばる。
「酸っぱ!」
「おいしい!」
 おトキさんたちがせっせと食卓を整える。まず白菜の浅漬け、それから丸干しと玉子焼とおろし納豆。板海苔となめこの味噌汁もついている。私には典型的なご馳走だ。
「ちょっとカラスの行水してきます」
 埋め直したばかりの湯に山口とゆったり浸かった。
「のんびりできるうちに、のんびりしておいたほうがいいぞ。おまえはあわただしい人生を送ってきたし、これからもっと忙しい人生を送ることになる。どんな異常なことの中にも、おまえは閑を求めなくちゃいけない」
「父親みたいな物言いだな。山口は何歳だ」
「たぶん、おまえと同じ十九歳だよ。自殺をしたことはないが」
「馬鹿なことをしたもんだ。どんなものもなかなか断ち切れないけど、命だけは断ち切れると思ってたからね。何もかも自分の命よりは天秤が傾いてた時代だ。いまは天秤がつり合った」
「おまえの命はみんなの命を足し算したものだ。どんなものよりも重い。認識を新たにしろよ」
「うん、そういう気持ちでいると、かえって慎重にいられる」
「きょうはゆっくりして、あしたはおまえの大好きな感傷旅行にいくか」
「そうしよう。あしたの夜は唄って、あさっては東京だ」
 浴衣を着て、うまいめしを食いながら、あしたの予定を口に出すと、女五人全員が参加を申し出た。カズちゃんが菅野に電話をすると、あしたは雨になるらしいから、あしたの予定をきょうにするなら、いまから出ていくと言う。
「菅野さん、一度回ってるから、勝手知ってるものね。じゃ悪いけど、そうしてくれる? え? クラウンとハイエース八人乗り一台?」
 カズちゃんが明るく受け応える。横で聞いていた山口が、
「何人だ? クラウンに四人、ハイエースに八人? 和子さんたち五人と、神無月と横山さんを乗せて俺が運転し、浜中さんたちを乗せて菅野さんが運転すればいいか」
「おトキさんは、きょうは山口さんとデートの日だったから、置いてっちゃだめよ。クラウンの助手席におトキさんに乗ってもらって、後ろに浜中さんたちを乗せて山口さんが運転すればピッタシでしょ」
「たしかに。やっぱりハイエースは菅野さんにまかせるか」
 電話の向こうの菅野がそれでいいと応えたようだ。カズちゃんは電話を切り、
「トモヨさんは直ちゃんのおもりをお願いね。食事の支度は賄いさんたちにまかせればいいから。夜は私が直ちゃんの面倒を見るわ。キョウちゃんとマンションでゆっくりしていらっしゃい」
「いいえ、きょうはみなさん、ゆっくり北村でくつろいでください。私たち親子もゆっくり泊まっていきます」
 カズちゃんは電話帖をめくって則武町のトヨタショールームに電話すると、徒歩で出かけていって、みんなが朝めしを終えるころにハイエースを一台運転して戻ってきた。ピカピカの新車だった。すぐに菅野が到着した。十分もしないで浜中たちもやってきた。
 菅野の運転するバンの車内に、男は菅野と私とよしのりの三人だった。よしのりは菅野や女たちを飽きさせなかった。菅野ははしゃいで、
「近いところからたどっていきましょう。まず名古屋西高。神無月さんとお嬢さんの母校です」
 ええ! と車内がざわめき立った。則武のガードをくぐり、名無しの道から天神山公園へ折れた。もと西高保健婦のキクエが、
「和子さん、ひとことも言いませんでしね」
「キョウちゃんと同じ高校だったなんて、恥ずかしいでしょう。キョウちゃんに申しわけないわ。でも、二十五歳と十歳で出会った男と女が同じ高校にいくなんて、不思議な運命でしょ?」
「ほんとですね」
 よしのりも浮き立ち、
「ここ、ここ、俺そこのアパートに住んでたんだ。二年前、神無月に会うために十和田から出てきてさ、神無月のいた八坂荘ってアパートを訪ねていったのよ。そしたら、先生が腰に手を当てて味噌汁かき回していたんで驚いた」
 キクエが、
「驚いた感じはしなかったわよ。私のほうを見もしなかったじゃない」
「ちょっと妬けてね。相変わらずチンケな正門だな。降りてみる必要はないか、先生」
「そうね、会いたくもない人に遇っちゃうかもしれないし」
 花屋へ向かう。法子が、
「西高の文化祭のとき、ここで食事したわね」
 素子が、
「そうそう、キョウちゃんが悲惨な戦争っていう英語の歌を唄ってくれて」
 みんなでセンチメンタルジャーニーの雰囲気にしっかり入りこんでいる。菅野がバンを一時停止させたので、私たちは後ろを振り返った。山口の運転するクラウンの助手席で恩田がしきりにシャッターを切っている。カズちゃんが、
「十二人はちょっと入りきれないわね。それに花屋さんは、野球ファンが多いからたいへんなことになるわ」
 法子が、
「あのときギターを弾いてた男の子たちや、金原さんていう女の子、どうしてるかしら」
「男のほうは知らないけど、金原は名古屋大学の理学部にいった。新聞に載ってた」
 八坂荘の前の隘路をゆっくり過ぎる。
「あの二階の角部屋がぼくの部屋だった。壁越しに吉永先生の部屋がつづいてる」
 吉永先生が頬を赤くした。大通りへ出て、カズちゃんの花の木の一軒家に回る。
「サッと見て、サッといきましょ。キョウちゃんみたいに、きのうきょうのことをなつかしく思い出すタチじゃないから」
 そう言いながらも、なつかしそうに目を細める。菅野が、
「十年ぶりとか二十年ぶりのセンチメンタルジャーニーならわかるけど、神無月さんの間隔は短いんですよ。たてつづけみたいなもんだ。忘れるのを怖がってるみたいにね。次はどこにいくかな」
「牛巻病院」
 と私が言うと、節子が、
「前を通るだけにしてください」
 カズちゃんは、
「だめだめ、たとえキョウちゃんのお母さんの嫌がらせのせいだとしても、あなたをクビにした病院よ。堂々と歩き回ってやりなさい」
「辞めたのは、自分で……」
「いいのいいの」
 一路バンを飛ばして、牛巻病院に向かう。名鉄神宮前のロータリーに入る。クラウンがついてくる。踏切を渡り、牛巻坂を登り、くだる。夏の街路樹が揺れている。
「見舞いにかよった坂道ね」
「地面ばかり見てたので、周りの景色をあまり憶えてない」
 菅野が、
「たしか八カ月ですよね。野球をやりながら、勉強もして、見舞いを八カ月ですか。常人じゃない。その挙げ句、島流しだものねえ。松葉会さんが、いまも北村席に肩入れしてくれてる理由がわかりますよ」
 病院の駐車場に二台の車を入れ、ぞろぞろ降りる。玄関の構えを恩田が写す。節子と吉永先生が恩田と入っていき、残りの東奥メンバーは路上に待機する。
「山口さんに聞きました。友人の見舞いにここにかよいつめたらしいですね」
 浜中が感慨深そうに言う。山口が、
「神無月から幾度も聞かされた。松葉会の連中に会うまでは、寺田康男という人物に少し嫉妬したよ。しかし松葉会の玄関までいって構成員に会ってみて、さもありなんと思ったな。一人ひとりが魅力のかたまりだった。あれが康男さんだったらどれほどのものだったかと思うと空恐ろしくなった」
 素子が浅草で会った康男を思い出している様子で背の高い山口を見上げる。カズちゃんが、
「浜中さん、田代さん、私たちが松葉会を訪ねたことはぜったい内緒ね。康男さんにもキョウちゃんにも迷惑がかかるから。寺田康男さんという人はキョウちゃんの幼いころからの友だちで、いまは松葉会の組員なの。キョウちゃんの立場が悪くなることを心配して、自分には近づかないようにって、いつも警告してくれてます」
「もちろんそうします。車の中で山口さんから聞いて概ね頭に入ってますから」
 素子が、
「お姉さんは、そのころ、キョウちゃんと同じ飯場に暮らしてたんよね」
「そう、暮らしだしてから五年目。朝昼晩ずっといっしょみたいなものね。私はかよいだったから、晩から朝は会えないことが多かったけど、キョウちゃんが夜遅く帰ってくることが多くなってからは、晩も詰めるようになった。いつも心配で心配でたまらなかった」
 法子が、
「寺田くんがリハビリしてたころ、神宮商店街で神無月くんが彼といっしょに歩いているのに出会ったことがあったわ。寺田くんが一方的に惚れてる感じだった」
「キョウちゃんのほうが惚れてたのよ。自分のほうが惚れてても、キョウちゃんはその雰囲気を出せない人なの。ちょっと見には、相手の愛情に感謝して微笑んでるだけよね。でも、信じられないくらい深く相手のことを思ってるのよ。その思いを精いっぱい行動で表す人なの。私は若いころつまらない男たちと付き合ってきたけど、いつも自分の心の声を聞いてたわ。辛抱して待ってろって。そして十歳のキョウちゃんが現れた。私といっしょに暮らしてくれるために」
 カズちゃんが言うと、田代がホーと賛嘆の息を洩らしたが、それ以上の感想を言うのは憚られるようだった。素子と法子が両側から私の腕をとった。
 節子と吉永先生が恩田といっしょに二階から降りてきて、受付の看護婦にお辞儀をし、玄関にいる私たちに手を振った。私は玄関を出てきた節子に尋いた。
「知り合いに会った?」
「婦長さんと、もう一人」
「熱田祭りのとき、いっしょにいた人だね。なつかしがってくれた?」
「とても。婦長さんは、あのころの私の勤めぶりがよかったって褒めてくれたわ」
「あのころ? 手のひらを返したような言い草だね。規則に縛られていたころの勤めぶりよりも、病院を辞めてからたいへんだった人生のほうに同情しなくちゃ」
 吉永先生が、
「私もそう思う」
「―自業自得です」
「いつもそう思ってるから、褒められたのが意外で、うれしくなったんだね。三吉一家のチンピラにからまれたり、ぼくのおふくろに告げ口されたのは節ちゃんの罪じゃない。かわいそうに」
 先生が、
「ほんとに。だから私、節子さんはここを辞めたあと中村の日赤に勤めてました、いまは東京の日赤に勤めてます、って言ったの。あの人たち、びっくりしてた。ここの十倍も大きい病院だもの」
「牛巻はほんの足がかりだったというあてつけだね」
 私が言うと、素子がうっとりと節子とキクエを眺めた。恩田が感に堪えたふうに言った。
「看護婦というのはああいう冷めた感じがふつうでしょう。白衣を着ているのに、天使らしくありませんでしたね。滝澤さんや吉永さんは別格です。平服でも写真に如実に映えますよ」


         百二十五

 ふたたび車に乗りこみ、数百回目の牛巻坂を登って下り、踏切を渡り、神宮の杜に沿って伏見通りの坂上に出た。神宮の西門からこちらに向かって着物姿の女がやってくる。派手な顔をしている。紅バラを腕に抱えた洋装の少女を連れている。めったに出会わない光景だ。親子だろう、よく似た面高の顔をしていた。
「へえ、なかなかの図だな」
 よしのりが言う。恩田が車を降り、杜を背景にパシャッとやった。女が驚き、それから少し微笑んだ。魅力のない笑いだった。少女が彼女の周りをスキップするように飛び跳ねた。着物の母親が私たちにお辞儀をして通り過ぎていった。娘が振り向いて手を振った。
「すぐそこに松葉会があるけど、みんな恐いだろうね」
 私が言うと、四人の女がカズちゃんの顔を見る。
「恐い人たちじゃないのよ。でも松葉会にはなるべく顔を出さないようにしましょう。若頭さんも、大将さんのお兄さんもかえって気兼ねするでしょうし」
 よしのりがホッとしたようにうなずいた。
「ちょっと、写真撮らないように言ってくる」
 カズちゃんは本遠寺の前で菅野に車を停めさせ、後部座席から降りてクラウンに寄っていった。
「たしかに写真はまずいかもな」
 山口の声が聞こえた。恩田たちがうなずいている。カズちゃんが戻ってきた。
「ゆっくり通りましょう。あの人たちはマスコミを毛嫌いしてるから」
 二台の車が松葉会の屋敷の玄関先だけ舐めるように通り過ぎる。男たちが険しい目で二台の車のウィンドーを見つめる。若衆ばかりで知った顔がいない。私はだれにともなく頭を下げた。迂回して、松葉会の道と併走する国道一号線を通って宮中へ回る。
「男たち、近衛兵みたいに立ってて、おっかなかったな」
 よしのりが言った。女たちは共感しない顔で笑った。
「臆病だからな、よしのりは」
「金文字のガラス窓もおっかなかったぜ。ん? ここが宮中か。野辺地中学校よりだいぶ小さいな。何だ、このくさい川は」
「堀川。庄内川から取水している運河だ。名古屋城から名古屋港まで、江戸時代から何百年も流れてる」
「どんな場所にも歴史はあるもんだ」
 車を降りると炎天だ。宮中の正門からぞろぞろ入り、テニスコートで動き回る連中を見やりながら、上の校庭へ昇る。野球部が生きいきと練習をしている。私たち十二人はネット裏に居並ぶ。
「大将さんと抱き合った校庭ね」
「うん。宮中時代の野球のことも影絵のように黒いシルエットで思い出す」
 キクエが、
「いま、影絵のキョウちゃんが動き出したように感じた」
「私は実際に、総天然色で見たのよ」
 法子が言う。
「これが、中学生の神無月さんが野球をしたグランドですか!」
 浜中が感激している。恩田がパシャパシャやる。部員たちが何ごとかとこちらを注視する。私たちは小さなネット裏に貼りついて見物する。なかなかスピードのあるピッチャーが得意げに胸を張り、大人っぽく低く構えたキャッチャーに投げこんでくる。レギュラーバッティングの最中のようだ。ピッチャーの投げこむ息づかい、スパイクがマウンドの土を掻きこむ乾いた音、バム! という打球音。胸が騒ぐ。
 クラブ顧問らしき男がホームベース脇に腕組みして立っているが、知らない顔だ。かつてナマコ板で屋根を葺いていた部室が、角張ったきれいなモルタルの建物になっている。グランド全体が箱庭のように小さい。その中をほんとうに小さい少年たちが駆け回る。昔日の私だ。木田ッサーのようなバッターが不器用にバットを振る。思わず声が出た。
「腰が先だ!」
 監督がバックネットを振り向いた。顔をグランドへ戻し、それからすぐにまたバネのように顔を戻した。近寄ってきて金網越しに、
「あのう……神無月選手……ですか? 東大の」
「はい」
 私はネット裏から進み出た。恩田のカメラと田代のデンスケが追いかけてくる。何かを予感して何発もフラッシュが焚かれる。監督がグランドに向かって両手を挙げた。
「おおい、みんな、神無月選手だ! きみたちの先輩だぞ」
 ヒャーという声が上がり、無番のユニフォームたちが駆け寄ってくる。ワイシャツ姿の私をしげしげと見つめる。ネット裏でカズちゃんたちが拍手する。浜中と菅野も拍手している。
「触っていいぞ!」
 山口が金網をつかみながら叫ぶ。腕や尻や腰にべたべたと手が触れる。
「腕が太い!」
「腕立て伏せと素振りでこうなるよ」
「東大の四番バッター!」
「アタマめちゃくちゃええがや」
「三冠王だがや!」
「ホームラン二十五本!」
「美男子だが!」
「握手してください」
 全員と握手する。彼らの私に対するイメージはかぎりなくふくらみ、高々百八十センチの私が、彼らの中で巨人のように大きくなる。下のグランドからテニス部の生徒たちが練習を途中にして上ってきた。職員室から出てきたらしい教師も何人か混じっている。彼らにもシャッターが切られる。教師の中には、遠い記憶をくすぐる見覚えのある顔もいる。
「とつぜんやってきてすみません。東大の神無月郷選手が夏休みに母校を訪ねるという企画なので、ご協力のほどお願いいたします」
 浜中が適当なことを言って頭を下げる。
「どうぞ、存分に取材なさってください」
 わいわいやっている教師や生徒たちに田代がマイクを向ける。
「神無月選手を知ってますか」
「知ってます! 宮中出身のすごい選手だと先輩が言ってました」
「勉強のできる不良だったと聞きました」
「転校させられたって聞きました」
「嘘やろ!」
「××先生が言っとったで」
 と、その生徒は答えたが、××という名前に聞き覚えはなかった。あれから四年しか経っていない。私を見知った教師だろう。その場にいた教師が言った。
「教師間では伝説になっています。野球の天才で、秀才で、しかも友情に篤い人格者だったと。まことに母校の名誉です。こうしてお会いできて、感無量です。申しあげる言葉がございません」
 選手の一人が、
「打って見せてください」
 とバットを差し出した。
「ワア!」
 と彼らは叫んだ。私は玩具のような軟式用バットを受け取ると、エースピッチャーに言った。
「五球投げてみて。ショートバウンドか暴投でないかぎり、ぜんぶホームランを打ってみせるよ。ライトへ二本、レフトへ二本、センターへ一本。センターは、体育館の屋根を越えるように打つからね。目測だと、ライトの生垣を越えると八十五メートル、レフトの生垣を越えると九十メートル、体育館の屋根を越えると百二十メートルだね」
「すげえ!」
 私は監督に、
「民家のガラスが割れた場合はぼくが弁償しますので、安心してください。確認の選手をライトとレフトの道路に立たせてもらえますか」
「わかりました。校舎の金網は、神無月さん用に張られたと聞いてます。いまでもあそこまで飛ばす選手はめったにいません」
 私は選手たちに、
「守備につかなくていいから、ここでバットの出し方を見ててください。振ろうとするんじゃなくて、腰を中心にバットをボールの道にぶつけるように回転させるんです」
 紅顔のピッチャーは、緊張のあまり、外角のすっぽ抜けの高目を投げてきた。私は片手で流し打ち、レフトの生垣の外へ叩き出した。ボールは道路を超えた民家の屋根で弾んだ。少年たちには信じられない距離だった。彼らは女のように甲高い声を上げた。二球目は真ん中の低目にお辞儀をする球がきた。打球はライナーで右中間の校舎を越え、生垣の外へ飛んでいった。
「すげえ!」
「力入れて振っとらんが!」
「腰の移動と、バットを投げ出す格好だけ学習してください」
 次はこざかしい配球で内角の胸もとにきた。叩きつけてライトの民家の群れに放りこんだ。少年たちは声をなくしていた。手を叩いたのはカズちゃんたちだけだった。四球目、真ん中高目にナチュラルシュートがきた。渾身の速球だ。かぶせて弾き返した。ボールは体育館の上空へ伸びていき、丸みのある屋根をスッと越えた。グランドじゅうに雄叫びのような喚声が上がった。
「軽く百三十メートルはいっとるで!」
 よしのりがこぼれるほど目を見開いている。私はピッチャーに怒鳴った。
「最後は絶対にホームランを打たれない球を投げてきなさい!」
 彼は考えて、外角から落とす低いカーブを投げてきた。うまく打ってもレフト前ヒットと思ってのことだろう。私は踏みこみ両手首を絞りこんで振りぬいた。早く低い打球がアッという間にレフトの道路に飛び出した。狂ったような拍手が起こった。いつのまにか両翼にぎっしり人が立ち並んでいた。拍手はそこからもやってきていた。少年たちがワッとやってきて、腕といわず腰といわず抱きついた。
「すごい、神無月選手、すごい!」
「左に二本、右に二本、センターに一本。予告どおり、ぜんぶホームランだ!」
 少年たちが私の腕をとって揺すぶるたびに、法子や素子が黄色い笑い声を上げて拍手する。監督が言った。
「おみごとでした! まるで手品ですね」
「民家のガラスが割れなくてよかったですね」
「民家の向こうの伏見通りのほうへ飛んでいったようです」
 山口がネット裏から出てきて私を祝福する。大柄な彼も、少年たちに私の同類とまちがわれて抱きつかれた。監督は私の手を握り締め、 
「すばらしいご指導、ありがとうございました」
「野球は指導できませんよ。見守って容認するだけです。誤解している人が多い。特にプロ野球はそうです。指導したがったり、指導を受けたがったりするような連中は、プロにいっちゃいけない」
「たしかに……。聞きしに勝る神技(しんぎ)でした。この子たちも一生忘れないでしょう」
 私は部員たちを見つめ、
「もしきみたちの中に一つの道に才能があり、その才能を生かそうという志を立てている人がいるなら、よく聞いてほしい。希望を持ちすぎちゃいけないよ。どんなに一つの技能にすぐれていても、権威のある人たちが通行証を出してくれないと、その道を歩めないんだ。身の周りの素人の信奉者に押し上げてもらったって、世に出ることはできない。そうやってこれまでも多くの天才たちが、志を遂げられずに消えていった。好きなことをするには、俗世間の権威に認められる必要がある。でもそのために媚びを売っちゃいけない。努力を忘れずに闘い、用いられなければ去る。媚びないことで認められないなら、すっぱりあきらめることだね。ぼくは騒がれたり値踏みされたりするのは嫌いなんだけど、媚びを売らずにそうされる幸運を得たおかげで、こうして野球をつづけていられる。騒がれることがいくら嫌いでも、目的のために利用できるからね。玄人に騒がれたり値札をつけられたりすることが、目的を達成する第一の取っ掛かりだ。少なくとも、そこまで努力しつづけなさい。天が与えた一芸をひそかな娯楽にしないようにがんばってね」
 少年たちは神妙な顔で聴いていた。浜中が厳しい顔でメモを取っていた。一人の少年が私に訊いた。
「神無月選手はどの球団にいくんですか」
「中日ドラゴンズ。愛する人たちに中日球場のグランドに立つ晴れ姿を見せたいし、それが幼いころからのぼくの夢だったからね。応援してね。じゃ、さようなら。一生懸命練習するんだよ。幸運が転がりこんできたら、逃がしちゃいけない。じゃまする人は叩きつぶしなさい。そうしないとぼくのように遠回りすることになる。くどいようだけど、一度逃がした幸運は、十中八九、もうつかまえられない。ぼくは遠回りするだけですんだ。ほんとの幸運だった。めったにある幸運じゃないんだよ。それじゃ、さよなら」
 ぞろぞろとみんなで下の校庭へ降りた。山口が、
「横山さん、見たか」
「見た。すごいもんだ」
「硬式ボールのホームランはこんなもんじゃないよ。腰を抜かすぞ」
 そこにたむろしていた教師や生徒たちが握手を求めた。女生徒や女教師も混じっている。だれもかれもあこがれの眼つきだ。これが有名になるということなのだろう。どうしても慣れることができない。求めているのは私そのものではなく、私の背後にあるものだ。いま歩いている女五人にこの眼つきを見ることはない。彼女たちは私にあこがれない。一直線に愛してくる。
「がんばってください」
「いつも応援しています」
「東大の優勝を祈ってます」
「ドラゴンズにいってもホームラン王を獲ってください」
 正門で何十人もの人びとが、車に乗りこもうとする私たちに手を振った。恩田がフラッシュを何発も光らせた。浜中がクラウンに乗りこむ前に私の手を握り、
「神無月さん、ご立派でした」
「詐欺を働いた気分です。説教なんて愚の骨頂ですね。自分の生き方や本質に照らしたとき、それまで考えていたわけでもなければ、これから考えることもない行動を他人がぼくに期待しているというだけで、思わず彼らの望むとおりにしゃべってしまう愚かさです。プロになるというのは、こういう愚かな説教や共感のない握手を数え切れないほど繰り返すということでしょう」
 三人の記者は口をポカンと開けた。山口が、
「東奥さん、気にしないほうがいいよ。神無月の病気だから。ワル謙虚じゃないことを俺たちがみんな知ってる。不気味だけどね。浜中さんの言うとおり、神無月の行動は立派なものです」
 素子が、
「自分の力を見せただけのことやろ。詐欺のはずがないがね」
「ありがとう」
「ありがとうって……」
 よしのりが、
「神無月、そういう態度こそ詐欺師っぽいぞ。初めてしっかり見た。ビックリ仰天だ。おまえの頭脳(あたま)とからだは天からもらったものだ。地上の人間のおまえが天を冒涜するな。不遜だぞ」
「おもしろーい!」
 カズちゃんがよしのりの肩を叩いた。


         百二十六

「菅野さん、平畑から、千年小、東海橋、最後に熱田神宮を回って帰りましょう」
「オッケイ」
 わざわざ神宮前へ引き返し、伝馬町を通って内田橋に出る。七里の渡しから大瀬子橋へ。菅野に橋のたもとを右折してもらう。
「ほら、カズちゃん、鶴田荘がまだあるよ」
「ほんとだ! なつかしいわ」
「やっぱりきてよかっただろう」
「ええ」
 菅野と女たちがアパートをじっと見つめる。
「お嬢さんは、このアパートから西松の仕事にかよってたんですか」
「そうよ、キョウちゃんのいる飯場へ」
「お姉さんが女の顔してる」
 素子がからかう。女たちが信頼に満ちた顔で笑う。大瀬子橋へ戻る。板を張った歩道越しに紺色の川面を見下ろす。
「ここも堀川。ここらあたりから新堀川と言うのかな。大きなドブ川だけど、ぼくにはロマンチックに映る。宮中の通学路だ」
「熱田祭りの花火を見にきて、ここでお母さんといっしょのキョウちゃんに遇ったわ」
 遠い目をして節子が言った。
「あのときぼくは戸惑って、ギクシャクした態度になった。おふくろと節ちゃんが妙な睨み合いをしてたからね。ぼくは二人をキョロキョロ見ながら、ただ縮こまってた。母を恐がる自分の平凡さがつらかった。その平凡さをその場で深く恥じたけど、身動きがとれなかったんだ。……スカウトのときも同じだった。おふくろとスカウトは睨み合ってた」
 菅野が、
「神無月さん、ちょっと待って。それがどうして平凡なんですか。この女は恋人で、親友の見舞いのついでに会ってますって正直に言えば平凡じゃないんですか。スカウトさん、母などかまわずに、この場から中京商業へ連れてってくださいって居直れば平凡じゃないんですか。そりゃただの馬鹿でしょう」
「うん、でも少なくとも勇気ある馬鹿だと思う。平凡じゃない。平凡なのは、臆病が身についているやつだよ。ぼくはそのとき何とかして冷たい睨み合いをとりなしたいと思ったけど、自分の思ってることをひとことも言えなかった。ただ、からだを切り刻まれるような感じがしてただけだった」
 カズちゃんが言った。
「節子さんもそんな勇敢な時期があったのね。キョウちゃん、もし縮こまらずに睨み合いに白黒つけてたら、菅野さんの言うとおり、それこそオバカサンよ。勇気なんかじゃないわ。無謀なだけ」
「節ちゃんのことを、康男の面倒を見てくれてる看護婦さんだと言ったら、おふくろは見くだすような目をしたなあ。不良も、看護婦も、彼女にとって見くだすべき存在なんだとわかった。救いがたい俗物根性だ。見くだしていい存在なんかこの世にあるはずがない。見くだしていいのは自分だけだ。でもぼくは、その態度はなんだ、と言えなかった。おふくろに何も言い返せず、ただ、すぐあとで、臆病というのはどんなものよりも、人が生きている意味を台無しにするものだと感じただけだった。尻ごみしているかぎり、人は侮辱されるばかりなんだ。そう感じるといたたまれなくなって、大瀬子橋の人混みを分けて節ちゃんを捜し歩いた。橋の外れまでいき、また人混みの中を外れまで戻った。二度往復したけれど、節ちゃんの姿はどこにも見当たらなかった。そのあいだも空に花火が打ち上げられるんだ。ぼくの臆病を祝福するようにね。つくづく思い知った。ぼくは好きなものも好きと言えない平凡な人間だ。平凡な人間には挫折が似合っている。ときどき花火みたいに挫折はやってくる。華々しい祝福だ。ぼくは結局、びくびく逃げているだけの人間だと悟った。どうせ逃げるなら、しっかり好きなものの中へ逃げたほうがいい。逃げて、逃げて、逃げつづけて、好きなものを手に入れる人生を送ろう! とつぜんその考えが浮かんだとき、ぼくは生き返ったようになったんだ。それからはカズちゃんのおかげでなんとか生き延び、遠くからの監視つきの逃走を開始した。更生という名目でね。そのあいだカズちゃんはぼくを励ましつづけてくれた。……名古屋に呼び返されたおかげで、また逃走を中断されたけど、中途半端な監視だったので、しっかり計画を立て、目立たずに逃走を継続できた。……いまのぼくは、しっかり逃げ切ってる」
 素子が、
「キョウちゃんが逃げてくれたおかげで、うち生き返ったんよ……」
 節子が、
「いっしょに逃げつづけましょう。私がちゃんと逃げていれば、ほんのいっときでもキョウちゃんが挫折することはなかったのよ」
 吉永先生が、
「好きなことをやり遂げることと、逃げるということが、どんなに危険でやり甲斐のあることか、納得がいったわ。うまく逃げなければ、キョウちゃんの言う好きなことにたどり着けないということね」
 菅野が力強くうなずいた。
「そうですよ! 神無月さんはいつも、自分の価値を取るに足らないものだと考えてます。それは大きなまちがいなんですが、実際そう考えて意地悪をする人たちがいるんだからやむを得ない。数を頼んだ意地の悪い人たちを怖がり、仕方なく愛情深い善良な人たちへ逃げこもうとする。取るに足らない価値の自分を愛してくれる人びとの中で安らかに暮らすためにね。正しい行動ですよ。神無月さんは、やさしく善良なものを見出せないと生きられませんから」
 よしのりが、
「語るね」
「私の悪い癖です」
 カズちゃんが、
「神さまってそういうものでしょ。悪意からきちんと逃げながら、善なる人の中へ逃げこむのが商売よ。そういうキョウちゃんに感動する人がキョウちゃんを愛し、キョウちゃんに信頼され、愛し返されて、命を捧げる。感動しない人はキョウちゃんを追い出してせいせいする」
 法子が、
「キッチリ追い出してくれればいいけど、手もとに置いて引きずり回し、苦しめる」
 菅野が、
「人生懸けて、真剣に逃げなくちゃいけないわけですね」
 大瀬子橋を渡り切る。
「ここが脚の悪い加藤雅江の家。大きな楠木が目印だ。楠木の葉や幹や根から樟脳が採れる。ときどきいいにおいがしてたのは、楠木のせいだったんだね」
「雅江さんは、顔も心もきれいな子よ。キョウちゃんを大好きなのね。とてもやさしい目をしてた」
 カズちゃんの言葉に法子が反応して、
「去年の五月に、雅江ちゃんをノラに呼んで、神無月くんに会わせてあげたの。あれっきりね」
「うん。ときどき思い出す。……なぜか遠いと感じる女だ」
 カズちゃんが、
「少しぐらい世間のにおいは見逃してあげなくちゃいけないわ」
 素子が、
「何者やの、その子」
「キョウちゃんをいつまでも思いつづけてる子」
 カズちゃんが小さい声で言った。法子がうなずいた。雅江の純粋で前向きなやさしい心情や、愛情や、羞恥心や忠誠の念などというものが、彼女固有の性情なのか、確信が持てない。私は彼女に心惹かれると同時に、恐ろしくもある。
 クマさんの社宅跡から熱田高校へ回り、周囲を一巡りして平畑へ出る。堀酒店の手前で車を停めて、事務所跡を眺める。
「民家に建て替わっちゃった。ここで、小四から中三まで暮らした。あたりもすっかり変わった」
「思い出がぎっしりだけど、何も残ってないのね。みんな、ここを見るの初めてでしょ」
 菅野を除いた全員がうなずく。
「山口とは、彼が名古屋にくるたびにいっしょにここにくるよ。カズちゃんとは何度もきた。いっしょに暮らした場所だからね」
 吉永先生が、
「キョウちゃんがいつもここに戻ってくる理由は何なのかしら」
「よくわからないんだ。……幸福のピーク。思い出すだけで、からだの神経が気持ちよく張りつめる」
 菅野がうなずきながら、
「私はこれで二度目ですが、その、神経がピンとなるという感じ、よくわかります。私もそうなりますから」
 カズちゃんが、
「自分のからだの奥にあるノスタルジーが、キョウちゃんのノスタルジーと共鳴するのね。不思議な緊張感よ」
 後ろのクラウンの窓から、恩田がしきりにファインダーを覗かせてシャッターを切っている。山口が何やら男たちに説明している。よしのりが頭を掻いて、
「なんだか、よくわからない世界だなあ。俺にはそのノスタルジーとやらがないんだろうな」
 菅野が笑いながら、
「横山さんはリアルタイムの人ですよ。あれこれ考えずに、トルコにいってればいいんじゃないですか」
「お言葉に甘えて、今晩もいっちゃおうかな。……ちょっと虚しくなってさ」
 素子が、
「そろそろ、私の妹にめぐり遇うんでない?」
「素ちゃんに似てるの」
「ぜんぜん」
「それじゃわかんないよ。本名を訊くわけにいかないし」
「本名は千鶴。千の鶴。源氏名は知らん。おとうさん似で、うーん、あたしみたいな美人やない」
 菅野が大笑いする。
「負けず劣らずの美人ですよ。羽衣のナンバーワンです」
 菅野は車を出して千年小学校へ回っていく。千歳公園の脇に二台の車を停め、みんなで裏門の前にたたずむ。さっそくパチリ、パチリが始まる。カズちゃんが言う。
「ほんとに、何度きても飽きないわ」
 山口が、
「俺も菅野さんも二度目だが、たしかに飽きないよ。どうしてかな、ズシンとくる」
 吉永先生が、
「立派な小学校ね。ここで幼いころをすごしたのね」
「たった二年半。十年にも思える」
 ここでも野球部が夏期練習をしていた。あまりに小さくて、こびとの群れに見える。監督は服部先生ではない。
「おまえがかつてあんなちびっ子だったかと思うと、くすぐったい気分だな。やるせなくなる。あの校舎の屋根に当てたホームランからすべてが始まったんだな」
 肩を並べた山口が言う。恩田がシャッターを切りながら、
「百メートル以上は飛んでますよ。最初から超人だったんですね」
 正門のほうへ車を移動させる。駄菓子屋の縁台に二、三人の小学生が坐って、トコロテンを食っている。カズちゃんが、
「あら、トコロテン。食べましょう!」
 ぞろぞろと降り立つ。よしのりが、
「トコロテン、十二人分!」
 十二人が店の前に立って、小皿を手にする。小学生たちが恐れをなして去ってしまった。節子とキクエがみんなの皿に酢と醤油を垂らしていく。素子が、
「箸なんか使わんと、指でいっぺんにすすってしまうんよ」
 言われたとおりにする。スッぱいだけで味気ないが、幼年時代を吸い戻すつもりで一気にすする。女たちはおいしいといっせいに叫ぶ。山口が、
「まずいぞ。男と女では舌の仕組みがちがうんだな」
 浜中たちが笑う。薄暗い奥から店番の婆さんがにこにこ出てきたので、恩田が何枚か撮る。じりじりと暑い。
「アッチイなあ、きょうも」
 思わずため息をついたよしのりに婆さんが、
「三十五度やそうですよ。今月はずっと三十度超えとるが」
 腋の下と背中に汗をかいた田代が、
「名古屋は毎年こんなですか」
「二十五日過ぎたら、急に涼しくなるがね」
 カズちゃんが皿を集め、
「ご馳走さま。おいくら?」
「十五円が十二人前やから……」
 素子が意外なスピードで、
「百八十円」
 カズちゃんは五百円札を出し、
「とてもおいしかったから、これを。おつりはいりません」
「こりゃ、あんた、あかんが。じゃ、飴もってって」
 茶色い紙袋に大玉を十二個入れてカズちゃんに差し出す。その場でみんな口に放りこむ。
「じゃ、いくか」
 山口に促されて車二台が出発する。貸し本屋から左折して、通ったことのない道を進む。康男に帽子を弾かれた便所の窓から見つめた木立が、校舎塀に沿って繁っている。千年の交差点に出る。細かい記憶が甦ってくる。あごを犬に噛まれた犬好きの少年の家、歯医者へいく母と通った花見の空地、板塀しか目にしたことのない平伏する民家。



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