百二十七

 千年の交差点から東海橋に向かう。
「よくこの道を歩いて康男を送っていった。一人で歩くと遠いけど、康男といると一息に感じた」
 吉永先生が、
「私だけかしら、康男さんに会ってないの」
「山口さんもよ。焦らなくても、いつか会えるわよ」
 素子が、
「浅草に会いにいったとき、びっくりしたわ。キョウちゃんに負けないくらい神秘的やった」
 浜中がぽつりと言った。
「神秘って、いったい何でしょうね」
 カズちゃんが答えた。
「均整のとれた憂鬱―」
 よしのりが拍手した。東海橋のたもとで車を停め、幅広の歩道に十二人勢揃いして川面を眺めた。
「康男が危篤だと知らされる数分前、ここで寒い風に吹かれた。一月一日にたまたま訪ねてきたんだ。大ヤケドをして入院してると教えられて、この橋へ駆け戻って、牛巻病院までひたすら走った」
「すごい距離やが! ここからあの病院まで!」
 素子が叫んだ。菅野が、
「五、六キロですね。中学生の足で走っても、四十分はかかります。心臓、破裂しますよ」
「もう、この道を下っていっても、康男のアパートはないんだ。駐車場になってる。ここが思い出の終点」
 恩田が、
「その駐車場も撮って帰ります」
「いきましょう。私、見たい」
 キクエが言った。カズちゃんが車の番をしていると言うので、ほかのみんなで中川運河沿いの道を歩いていった。
 ガランとした駐車場を撮影してから、さびしい町並を少し散策した。
「この神社を写して帰りましょう」
 駐車場の裏手に、石鳥居の素盞鳴神社というのがあった。鳥居の両脇に狛犬ではなく石燈籠の立っているかなり大きな神社だった。石柱の素盞鳴(すさのお)という漢字は、山口に教えてもらわなければ読めなかった。境内の木々の緑が蒸れている。参道を入って左に社務所、右に手水舎がある。水は湧水ではなく、蛇口をひねる水道水だった。それでも女たちはめずらしがって口を漱いだ。通り抜けできる前拝殿がある。郵便ポストのようなブリキの賽銭箱が立っている。両脇に阿(あ)狛と子を連れた吽(うん)狛。素盞鳴神社という扁額をくぐる。榊と松の木陰が涼しい。短い石柱の列に導かれて中拝殿に出る。ここにも両脇に狛犬がいる。賽銭箱はない。石柱の玉垣の向こうに倉庫や民家が迫っている。参道の突き当たりを左に折れると、賽銭ポストを備えた二つ並びの末社があった。左が秋葉神社、右が知立神社。社名を書いた真新しい立て札が刺してある。垂れている注連縄(しめなわ)も新しい。浜中が、
「こりゃ大きい神社だなあ。江戸初期の勧請(かんじょう)ですから、三百年以上ですか。由緒ありそうですね」
「どんなに由緒があっても、だれの思い出の場所でもないですね。康男もこんなところにきたことはなかったろうな。思い出の場所はあの駐車場だ。でも、思い出の場所には思い出が住んでるだけ」
「それをたどるのをセンチメンタルジャーニーと言う」
 と山口が笑った。
「トイレ!」
 と素子が言い出して、女たちが境内の公衆便所へ急いだ。男たちも連れションをした。
 東海橋へ引き返す。カズちゃんが車のそばに立って手を振っている。
「和子さん、きれい!」
 女たちが走っていく。夏の午後の光にカズちゃんが輝いている。浜中が道を見通し、
「千メートルも見通せるくらい家並が低いですね。それに道が広くて四車線もある」
 恩田がパチリ、パチリ。
「お腹すいたでしょ。おトキさんが、鮭おにぎりとウィンナーおにぎり、十二個ずつ握ってくれたの。みんなで二個ずつ食べましょ」
 大きな握り飯と小さな握り飯が、大小二つの竹折に二列に並んでいた。
「やっぱりこれ二個は無理です」
 節子と吉永先生がウィンナーを遠慮した。からだの大きな私と山口が引き受けた。
「うまいなあ、絶品だ!」
 山口が五人の女に微笑みかけた。五人はうれしそうに山口の顔を見上げた。私も彼と同じ背丈だと気づいて、少し得意な気分になる。
 川風に吹かれて小腹を満たしたあと、熱田神宮めざして車を出す。
「へえ、ここを走ったのか……」
 よしのりが呟く。
「走ったとおり、いきましょう」
 菅野が言う。十分ほどで千年の交差点から千年小に回り、新幹線の高架をくぐって西松の事務所跡に出る。勉強小屋と事務所は周囲に鉢植えを置いた瀟洒な民家になり、下駄屋から三棟ほどのつづきは空地になっている。堀酒店から平畑の通りを左折する。八百清は自販機を置いた乾物店になっていた。杉山薬局のシャッターが半分下りている。民家、事務所、民家、事務所。ドアが茶褐色に変色したクマさんの社宅。加藤雅江の家の大楠の向こうに工場群のスレート屋根が見える。
 大瀬子橋を渡る。宮中の制服姿の女子生徒が二人並んで歩道を歩いている。宮の渡し公園から内田橋へ。後ろを走るクラウンもバンの走路の理由を悟って神妙についてくる。伝馬町を進む。ビルの建物が少し多くなる。
「ここまで一気に走って、神宮前までのろのろ歩いた」
「そりゃそうだろ。俺ならとっくに死んでるよ」
 よしのりが言う。菅野が手の甲で目をこすりながら、
「熱田神宮へいきましょう。東門は混みますから、西門の無料駐車場へ回ります」
 左折して西門へいく。道の反対側の加賀美幸雄の石材店が空き地になっている。彼も三島平五郎ちゃんのようにどこかへいってしまったのだろうか。みんなで歩いて南門へ回る。
「この煤けた鳥居が正門なんだ」
 節子が遥かな視線で見上げた。緑の濃い木立ちを左右に見ながら長い参道を歩く。デンスケ担いだ田代の格好が滑稽だ。太鼓橋を渡り、
「おしっこ!」
 一声上げて素子が宝物館脇のトイレに飛びこんだ。節子が、
「またあ? 素ちゃんの膀胱どうなってるの。車の冷房で冷えたのかしら」
「私もいっとこ」
 法子が言うと、結局カズちゃんも吉永先生も従った。残った節子に、
「節ちゃん、あそこ」
 又兵衛小屋を指差すと、節子は真っ赤になって目を逸らした。素子が濡れた手をスカートにこすりつけながら出てきた。カズちゃんたちもぞろぞろ出てくる。
「熱田神宮のトイレはきれいねえ」
 などと話し合っている。玉砂利の音、木々の葉ずれ、小鳥のさえずる声。手水舎に女たちが立ち並んで手を洗う。西、東、南のどの門から入っても手水舎にいき当たる。きょう初めて知った。カズちゃんが、
「きのうきて心が洗われたばかりなのよ。ほんとに熱田神宮って、清らかな気持ちになるわね」
 女たちがうなずき合っている。恩田が盛んに樹齢千年の大楠を撮っている。山口が立て札を見て、
「御神木(しんぼく)? 弘法大師お手植え、か。日本じゅう空海まみれだ。なになに、大蛇がときどき現れるがハクビジンがいるせいでなかなか姿を見られない、か。玉子が備えられているのがおもしろいな」
 恩田が卵を供えた籠をパチリとやる。宮中の職員室をさまよい出てこの境内にたどり着き、根方に横たわった大楠はこれではない。境内に八本あるうちのどれかだ。ホンザンの勉強部屋の近く、信長塀のそばだったような気がする。もう四年も前のことだ。木洩れ日が射す参道を第二鳥居まできて、本宮を見やる。山口が、
「鳥居というのは中央を通るんじゃなく、少し端を歩き、くぐる前に一礼をするのが正式なんだぜ」
 中央をくぐりながら言う。吉永先生が節子の腕を取ってケラケラ笑う。先生はだれとも気が合う。ならずの梅を右手に見て、本宮へ進む。女たちの参拝だ。私は数歩遅れてつづく。素子が、
「キョウちゃんはお参りが嫌いなん?」
 よしのりが、
「神さまが神頼みしてどうすんだよ。な、山ちゃん」
「ああ。俺は神さまじゃないから、神頼みすることもある」
 菅野が、
「私はお参りします。頼みごとをしないと神さまに失礼だから」
「俺は自力本願の男だし、無礼者だから勘弁」
 そう言って、よしのりは祈祷殿のほうへぶらぶら歩いていった。私と山口もつづく。絵馬が折り重なった絵馬掛けがある。よしのりが、
「交通事故のお払いとはね。受験も結婚も出産も、性生活の悩みまで、何でもかんでも神頼みだ。いつからだ、こんなことやりだしたのは」
 山口が、
「奈良時代からだな。神事に献上する実際の馬の代わりに、板に描いた絵馬を献上しはじめた。実利的な願いごとを書くようになったのは江戸時代から。何だ、あの粘土と瓦でこしらえたみたいな塀は。百メートルはあるな」
「信長塀だ。ここの神主の息子に聞いた。例のたこ焼き男」
「へえ! これが有名な信長塀か」
「有名なのか」
「ああ。土と石灰と油を混ぜたものに、瓦を積み重ねていって塗り固めた築地(ついじ)塀だ。上に屋根が架けてあるだろう。ああいうやつを築地塀というんだ。一五六○年、信長は桶狭間の戦いに赴く前にこの熱田神宮で戦勝祈願をした」
 受験知識は西暦で言う。
「いつもながら物知りだなァ」
「植物博士には敵わない」
 よしのりが競うように、
「俺はその先も知ってるぜ。信長は熱田神宮の神兵に援軍を依頼したという話がある。そいつらも含め、信長はわずか三千の手兵を率いて、桶狭間の北の田楽狭間で休息中の今川義元の本陣を急襲して討ち取った。その戦勝の礼としてこの塀を寄進した」
 私は、
「どうして塀なんてものを?」
 山口が、
「神道には〈穢(けが)れ〉という概念があってな、血や死を連想させるものを敷地内に持ちこんではならないという考え方だ。国じゅうが戦争状態の戦国時代は、そりゃケガレが入りこむに決まってる。だから信長は象徴的な塀を造ることで、熱田神宮を穢れや略奪から護ろうとしたんだろう。もう一つ、戦国時代は神道が仏教に押され気味でな、神道家系の信長が神道を保護するために防御塀を作ったとも考えられる。神道保護のために彼が採った策が、キリスト教の後援だ。日本三大塀の残り二つは、秀吉の寄進した三十三間堂の太閤塀と、秀頼の大練塀。どっちも信長の影響だね」
 いつのまにか浜中やカズちゃんたちが戻ってきていて、すごい、すごい、と言いながら山口とよしのりに拍手した。
「今川の兵力は何万人もいたの?」
 と私が訊くと、よしのりは、
「そこまでは知らん」
 山口が薄笑いをしながら、
「二万だ」
 と言った。菅野が、
「大したもんですなあ、お二人の知識は。さすがの神無月さんも目を丸くしてますよ」
 山口が、
「神無月の目を丸くさせるのが、俺の生甲斐なんだよ。ギターなんか、その最たるものだ」
 よしのりが、
「神無月は、自分のできないことや知らないことには何でも目を丸くしてくれるからな」
 浜中や恩田たちも声を出して笑った。


         百二十八 

 一路北村席へ帰る。暮れていく街並が美しい。雪の青森とはちがった美しさだ。私の横顔を見つめていたよしのりが、
「おまえはほんとにきれいに生まれついたんだな。目が吸いついて離れないよ」
 ふふ、とカズちゃんが笑い、
「よしのりさんもじゅうぶんきれいよ」
「俺は紙に描いた漫画だよ。せいぜい芸能人止まりだ。俺みたいなイイ男はこの世に腐るほどいる。神無月は光輪が架かってる。あんたらは幸福だな。こんなきれいな男に抱いてもらえて」
「私たちも紙の漫画ぐらいきれいでなくちゃ、抱いてもらう資格がないわ」
「あんたたちも、後光が射してるよ。神さま同士が抱き合ってるようなもんだ。直人を見てみろよ。どう見ても、光源氏だろ」
 法子が、
「ほんとにきれいな子。にこにこ周りを見つめながら、ぜんぜんやかましくしないのも神無月くんそっくり。……和子さんにも似てるみたいなんだけど」
 吉永先生が遠慮したように、
「和子さんて、トモヨさんと双子じゃないですよね」
 よしのりが、
「おお、それ、俺も訊きたかった」
 法子もうなずく。カズちゃんが、
「ビックリしちゃうでしょ。でも赤の他人。もう慣れたけど、小さいころからトモヨさんの顔を見るたびにドキッとしたものよ。大きくなってからは、よく相談相手になってくれた。ほんとは事情のある姉妹なんじゃないかなって思ったこともあったわ。背の高さまで同じなんだもの。でも、いまはそんなことは何とも思わない。私にそっくりな人がキョウちゃんの子供を産んでくれたことに感謝の気持ちでいっぱい。自分の子供だと思ってトモヨさんを精いっぱい支えてあげないと」
 菅野が、
「横山さんは、私たちは神無月さんの夢の中にいるだけだと言いましたけど、神無月さんの見る夢の中で現実を忘れてすごせることにはちがいないんで、私はそれでじゅうぶん満足です。みなさんが東京へ帰られるまで夢を見たら、翌日からは光源氏を眺めながら夢を見ます。横山さんの言うとおり、女のかたはいいですね、神無月さんといつもいっしょにいられて。夢が醒める間がない」
 山口が、
「男もいっしょにいられりゃいいけど、今回のようなチャンスがないと、なかなかね」
 カズちゃんが菅野にすまなさそうな顔を向け、
「ところでね、菅野さん、もうトモヨさんとおトキさんには話したけど、キョウちゃんも山口さんもこれからはどんどん忙しくなるので、半年に一度というペースではこられなくなると思う。会いたいときは、名古屋から東京に訪ねてくるしかなくなるわね。……それも、しばらくの辛抱だと思うけど……。キョウちゃんには、スムーズにプロにいってもらわないと」
「仕方ないですよ。神無月さんがプロ野球の選手になるのは、いちばん現実に近い夢ですからね」
 キクエが、
「東京にいる私たちも同じようなものです」
 節子と法子がうなずいた。菅野がカズちゃんに尋いた。
「あさって出発ですか」
「しあさって、火曜の昼ね」
「さびしくなります」
         †
 トモヨさんに抱かれた直人が、かたことをしゃべりながら笑っている。彼を中心にさざめいている座敷で、山口と浜中と田代がビールを振舞われている。主人と菅野とよしのりが相伴している。恩田は写真を撮りまくっている。おトキさんと賄いたちは台所にいる。私は直人の頭を撫でたり、耳をいじったり、手の指を広げてみたりしている。唇にキスをしようとすると彼は顔を引いた。みんな笑った。浜中が、
「神無月さんが人の親だというのが不思議な気がします」
 主人が、
「入団前に子供がいた選手は、ドラゴンズの小川健太郎ぐらいですかね。彼は入団が三十歳だったから。社会人も経験していたし」
「十代では初めてでしょうね。もちろん世間には発表いたしません。永遠にね。希代の才能をくだらない好奇心と中傷で潰されたのではかなわない。きょうは神無月さんの名古屋時代をたどりました。すばらしかった。人生がおのずとサバイバルゲームになってる。筆舌に尽くしがたいとはこのことです。取材であることを忘れました」
 彼は言い、部屋の中にいる男や女を仲間のようにしみじみと眺め回す。田代も同じように眺め回しながら、
「周囲のかたがたもすばらしい。この人間関係をぜひとも世間に伝えたいのですが、それもできない事情を私どもは重々知っております。世間レベルでは、神無月さんの行跡は悪徳と見なされます。百人のうち九十九人が認めないでしょう。その代表があのお母さんです。たぶん神無月さんのサバイバルは永久に終わらない。その意味で、悪く傾けば、野球選手としての将来も危ぶまれます」
 菅野がじれったそうに、
「私らが世間レベルでなければいいわけでしょ」
 浜中が何度もうなずき、
「周囲のかたがたは、とっくにそんなレベルでないことは田代の言うとおりです。われわれも同じレベルだと確信しています。問題は神無月さんに近づかずに、遠くから神無月さんのことを云々する人たちです。独裁者にでもならないかぎり、彼らには対抗できません。対抗しないように、穏やかに報道するしかないんです。プロにいってからの神無月さんの野球人生も、プロを退いてのちの野球人生も、私どもは語りべの気概を忘れずに、渾身の力で伝達します。しかし、この三日間の数々の取材記録は、私どもの玉手箱に納めようと思っています。他の報道組織とも連携いたしません。また、発表する場合の記事は、すべて表面的なものにいたします。それでもじゅうぶん驚嘆に値しますが……。私ども報道関係者は、その程度のことしかできないんです」
 山口が、
「神無月は、このまま社会の敷いたレールを走っていけば、瑕(きず)を咎められて社会に葬られるということでしょう。さすがマスコミ人は察しが早い。そのとおりです。俺たちはこいつに遇った瞬間に、心中する気持ちを固めたんです。俺たちはいつも窮極的に心中できるときを楽しみに待ってるんです。だいじょうぶ。あなたたちに迷惑はかけません。俺たちがついています。その様子をせいぜい報道してください。とにかく俺たちは神無月をプロに送りこんで、まず一つの夢を実現させますよ」
「わかりました。おっしゃることは全面的に理解しておりますのでご信頼ください。私どもは神無月さんに惚れこんだ人間です。みなさんと気持ちはまったく同じです。秋のリーグ戦は書きまくりますよ」
 浜中は山口とがっちり握手した。女たちが手を載せた。主人夫婦がたまらなくうれしそうに声を上げて笑った。私も釣られて笑った。だれも笑う私の顔を見なかった。私がそこにいることを肌で感じ取るだけで満足のようだった。田代が主人に向かって、
「あしたは雨模様ですから、われわれは一日かけて取材の整理をします。出かける予定ができたら、名古屋観光ホテルに連絡をください」
 女将が、
「整理に段落がついたら、おいでや。ゴロゴロしてりゃええが。うまい肴でもつまみながら、チビチビやってください」
「はい、夜にでも。神無月さんの歌が聴きたいですからね。なんせ、まとめる記事の中身が濃いので、一日仕事です」
 浜中たちは酔いが回らないうちに、夕飯と見送りを辞退してホテルへ引き揚げた。庭の遣り水を終えて戻ったおトキさんが、トモヨさんから直人を抱き取る。女将が山口に、
「たぶん秋やろうけど、うちの人と何日か大学野球の見物に東京へいくことに決めたんよ。トモヨとおトキを連れてな。山口さん、案内頼んでもええやろか」
「まかせてください。旅館のお世話もします」
 コーヒーを飲んでいた店の女たちから羨望のため息が漏れた。
 台所が活気づき、夕飯の盛りつけが始まったようだ。私は主人夫婦を見つめ、
「ぜひ、グランドとスタンドの華やかさを楽しんでください。選手たちのプレーを見たら目が覚めますよ。ホームランの美しさも堪能してください」
 菅野が、
「私もいきたいけど、女の子の送り迎えがあるからなあ」
「菅野ちゃんには、神宮球場は泣いてもらうわ」
「ぼくがドラゴンズに入団したら、中日球場でいくらでも観る機会はあります」
 店の女たちが、
「旦那さん、そのときにはうちらも中日球場連れてってや」
「おお、連れてったる。まだおまえらがここにおったらな」
「年季遅らせて、ずっとおるわ。クニに帰ってもしょうないもん」
「四十過ぎまでおるなよ。それ以上おりたいなら、賄いに回れ。一生使ったる」
「ほんと! うれしいわあ」
「月給、安いぞ。チップもあれせん」
「そんなもんいらんわ。それより、旦那さん死んだら、トルコ終わりやろ」
「トクがおる。トクが死んだら、トモヨか和子に継いでもらう」
 カズちゃんが、
「私、継がないわよ。トモヨさんにお願いするわ。直人の将来もあるし」
「私にそんな……」
「できるわよ。信用できる人を会計に雇ってね」
「もうとっくに三人雇ってあるわ。税理士、公認会計士、司法書士。腕が悪かったらいくらでもすげ替えたる」
 皿鉢がどんどん運ばれてくる。店の女は五人ぐらいしかいなかったが、やはり二十人ほどのにぎやかな食卓になった。トモヨさん母子と義父母の坐った一角に、菅野やトルコ嬢たちがたむろした。東京組は勝手に散らばり、飲み食いを始めた。主人がビールグラスを傾け、
「菅ちゃん、一日ご苦労やったな。楽しかったやろ。羨ましいわ」
「楽しかったです、ほんとに。毎日毎日別世界を味わわせてもらっとります。神無月さんはわれわれとまったくちがう世界に住んでますから。この仕事をしていると、いろいろ変わり者に出会いますけど、神無月さんはそういう範囲じゃないです」
 山口が、
「神無月個人が変わっているのはもちろん、周りを変わり者にする素質というか、感染力というか、俺たちでさえ通俗でなく生きてきたという錯覚を起こさせる男だよ」
 主人が、
「何階級か特進した気になるね」
 そう言う父親にカズちゃんがうなずきかけ、
「人間的に高くなった感じがいつもしてるわ。初めて遇ったときから」
 山口が菅野に、
「神無月といると、遊山気分がなくなるから、疲れるんじゃないですか?」
「疲れます。でもその緊張感がたまりません。それでいてホンワカした気持ちになります」
 ようやくおトキさんが山口の傍らに坐った。穏やかな笑顔だ。賄いたちが別テーブルに坐り、食事を始めた。おトキさんは山口と何を話すともなく、賄いのテーブルに戻っていって食事に混じった。私はカズちゃんに訊いた。
「この家と、新築の寮と、女の人はどういうちがいで振り分けられてるの」
「年季明けが一、二年に迫ってる人がこっちに全員きてる。食費と住居費はどちらも毎月一律よ。合わせて一万円。北村席としてはそれじゃぜんぜん足りないんだけど、年季明けのお祝いボーナスに充ててるのね。いつか話したおとうさんの罪滅ぼし」
 菅野が、
「そういうわけで、北村席のほうが少しオトシをめしたかたが多いわけだ」
「失礼よ、菅野さん」
「へへ」
 一日歩き回ったせいで、カズちゃんたちは夕食をすますとぐったりしてしまった。しばらく主人夫婦や山口と話をしていた北村席の女たちが、凝った肩をほぐすように腕を高く伸ばし、
「お先」
 と言うと、がやがや風呂へいった。おトキさんがもう一度私たちの卓にきて、山口に腰を寄せて座った。山口が、
「おトキさん、聞いたと思うけど」
「はい、秋に旦那さんたちとお訪ねします。案内と言っても、取り立ててお気遣いはいりませんよ」
「旅館はアテがある」
 店の女たちが風呂から上がって部屋へ戻るのと交代して、女将に促された山口もおトキさんといっしょに風呂へいった。主人夫婦と、トモヨさん母子と、カズちゃんたちとよしのりと菅野が残った。女将が丁寧にコーヒーをいれた。
「俺、素ちゃんの妹に会いにいってくるわ。女将さん、彼女の源氏名はわかりますか」
「百人といわずおるからねえ。トモヨ、何だっけ。あんたあっちの寮の手伝いにもいくでしょ」
「はい。たしか、ハルカちゃんだったと思います。羽衣のほうにいますよ。出勤してるといいんですけど」
 素子が、
「へんな感じ。ハルカなんて、自分の妹に思えせん」
 節子と吉永先生が顔を見合わせ、少しまじめな顔になった。法子が素子に、
「好きでもない人を何人も相手にするのは、とてもつらいことでしょうね」
「それが商売よ。……つらさに慣れてしまうことがいちばんつらいんよ。好きな人に遇わんかぎり、一生そうやわ」
「よしのり、そういう女の魂を買うんだ。たまには自腹切れ」
「それはいけません。横山さん、お好きに遊んできてください」
 よしのりは頭を掻きながら主人に辞儀をし、うれしそうに玄関へ出ていった。
「あいつは頭もいいし、人もいいけど、根性が乞食だ」
 私が言うと、カズちゃんが、
「そんなこと言わないで。よしのりさんの人のよさに救われることは多いんだから」
 下働きの後片づけの音が台所から聞こえてくる。
「トモヨ、直人の首が折れとるぞ」
「はい、寝かせてきます」
 トモヨさんが離れへ去ると、山口とおトキさんが廊下からお休みなさいをして、二階へ上がった。カズちゃんが素子たちに、
「私たちもお風呂いこうか」
「いこ、いこ」
 カズちゃんたちが風呂へいくと、主人夫婦と菅野と私が残った。


         百二十九

 主人が、
「こちらにあまりこれんようになるって聞きましたが」
「はい、おそらく」
「そりゃそうでしょうな。むちゃくちゃ忙しい身なのに、盆、正月、花見なんてやっとれませんわな。いい年してそんなことも考えんと、甘えとりました。名古屋から応援しとりますよ。ステージ部屋は、カラオケにでも使ってお茶を濁しときます。あしたは聴かせてくださいよ」
「一曲でも多く唄えるようがんばります」
 主人は腕組みをして、にっこり笑うと、
「……あと三人ぐらいはだいじょうぶですよ」
 私にそう言うと、女将にうなずく。
「は?」
「東京の女の人たちですよ。万が一デキてしまった場合はですな、もちろん彼女たちの気持ちしだいですが、かわいそうなことをしないでほしいんですわ。トモヨもあと二、三年は、デキたら産むつもりやと言っとります」
 私も腕を組んで、
「……産むのが当然です。直人のようなかわいい子を闇に葬ることはできません。彼女たちも、まんいちそうなった場合、産んで育てるでしょう」
 女将が晴れやかに笑って、
「この先まず確実なのはトモヨやろ。直人に弟か妹がほしかったんですよ。和子が産んでくれるのがいちばんええんやけど、あの子は神無月さんといっときも離れたくないよって承知せんやろね」
 主人が、
「神無月さんは有名人やから、子供の問題は命取りになりかねん。何があっても神無月さんの子供だということは世間に出さん。東奥さんにもそれは念を押しといた。所詮、人は常識に戻る。神無月さんの才能や人間性にいくら感動しても、最後は常識やら道徳やらに戻る。和子たちや山口さんたちにはそれはない。たしかに、神無月さんは変人や。世間からどう扱われようと気にする人間やない。進んで死にたがる人間や。お母さんが神無月さんをいじめた理由もそれや。しかし、そういう人やからこそ、ワシらはきちっと守らんとあかん。守りの手薄な神無月さんを殺すわけにはいかんのです」
 女将が、
「神無月さんはとんでもなく立派な人やよ。山口さんや和子たちがそういう立派な人に入れこむ分には、私は何の異存もあれせん。ただ、ことが知れたとき、世間のちょっかいは並のものやないと思うで。それに腹を立てるだけじゃ何の解決にもならん。守りを固めとかんとあかんの。神無月さんを守り、周りの人たちを護らんとあかん。そのためには世間よりも強い味方がおらんとあかん。うちらはそれほど力があると思えんでな。……松葉会さんにお願いしたわ」
 主人が、
「二つ返事やった。もちろん暴力で護るゆうことやない。政治の力でな。マスコミに悪さを仕掛けられたら、仕掛け返すんやなくて〈きびしく注意する〉ゆう形で政治的に脅しをかけるゆうことや。松葉会さんは政界ともつながっとるでな。どんなに正しい護り方をしても、暴力を使ったら法律を破ることになるでな。それがひいては神無月さんの身に降りかかる。もちろん、プロにいったら、常々護衛もつけるという話しやった。引退するまでつづけると保証してくれた」
 私は驚き呆れながらうなずき、
「ありがたい話ですね。窮地に陥らないよう、ゆめゆめ気を抜かずにがんばります。その種のことで危うくなったら、かならずお義父さんお義母さんにお願いするつもりです」
「お願いせんでもだいじょうぶや。目に見えない力に護られとると思って、安心して暮らしてくれればええ」
「私ばかりでなく、私の周りの人たちにも目をかけてやってください。もし頼ってきたらですが」
「もちろんやが。どういう形でも助けるで。それで北村席も護られるゆうことになる。ただ、神無月さんほど警戒する必要はないやろ。ワシらには神無月さんとちがって世渡りの知恵も愛想もあるから、世間にいじめられることはない。神無月さんに世故はない。しかし神無月さんなしでワシらは生きていけん。あんたが死んだら、ワシらの夢も終わりや。どうやっても護らんといかん」
 直人を寝かしつけたトモヨさんが戻ってきた。女将が、
「話はそれだけですよ。大ごとと思わず、安心して野球をやってな」
「はい。ありがとうございます」
 主人夫婦の顔つきが一瞬、ワカや光夫さんと同じものになった。
 風呂から上がってきたカズちゃんたちは、主人夫婦を囲んで世間話を始めた。私は世間話が苦手なので、もっぱら主人と女将とカズちゃんが話す。店の女たちはときどき私の顔を見て、ノンポリとかカクマルとか語義を尋いてくるけれども、山口もよしのりもいないので答えられない。
「こないだも日大の学生が、神田の街頭で警官隊と衝突したそうやないですか。安田講堂の封鎖って何ですかね。東大総長を辞任させる勢いだとゆう話です」
「すみません、わかりません。よく耳にするのに、何のことかわからないんです。最近わからない言葉を挙げてみますね。ピーコック革命、いざなぎ景気、ライフサイクル、サイケデリック……」
 素子が、
「よう聞く言葉やけど、意味がわからんよね」
「うん、わからない。流行語だけじゃない。世の中のこともぜんぜんわからないときてる」
 父親が、
「サイケデリックて何や、和子」
「LSDという麻薬の錠剤を飲むと、水に流したペンキが渦を巻いたような幻覚が現れるらしいのよ。それをサイケ調っていうの」
「カレッジフォークやら、グループサウンズやら、世の中まったくわからんようになった」
「わからなくていいじゃない。うちの商売と関係ないでしょ」
「そうもいかん。服の流行はちゃんと採り入れとるで。接客にはミニスカートを穿かせとるし、カウンターの男や女には、パンタロンやらトータルネックやら着せとる」
 どうだというふうに胸を張る。カズちゃんがプッと笑い、
「トータルじゃなく、タートルネックでしょ。亀の首という意味よ」
 トモヨさんと法子がコーヒーをいれに立った。
「和子さん、ピーコック革命って何ですか」
 吉永先生が訊いた。
「男も孔雀みたいに派手な服装になったってこと」
 菅野が、
「いざなぎ景気はわかります。東京オリンピックからこっち、好景気がつづいてるってことでしょ?」
「いざなぎの意味はわからないけど、そうね」
 主人が、
「神話か何かから採った名前じゃないですか。山口さんや横山さんがいてくれたら、もっと詳しくわかるのに、神無月さんじゃ埒が明きませんな」
「ライフサイクルは訳せるよ。命のサイクル」
「で?」
「乳児期、幼少期、思春期、青年期、壮年期、老年期、死。そんなふつうの教科書用語がなぜ流行してるのかはわかりません」
 全員大声で笑う。カズちゃんが、
「その各時期に国家が援助して、国民生活の安定を図るという福祉政策の考え方らしいわよ。絵に描いた餅ね」
 主人が、
「神無月さん、そんなものわからんでけっこう。知っとるやつだけ知っとればええんです。野球のことさえ知っとれば申し分なし」
 私は微笑みながら、
「あのう、ぼくがここまで社会的無知になった理由なんですが……」
 主人が、
「ワシはそれが神無月さんの長所だと思っとるから、聞いてもどうということはないが、理由があると言うなら興味深いですな」
 私がしゃべり出すとなると、いつもカズちゃんたちは目をらんらんと輝かせて耳を傾ける態勢をとる。
「いつもみなさんが話すことは、世間道徳でもなければ学問的知識でもありません。ユーモアのある雑学です。山口やカズちゃんやよしのりたちの言うこともそうです。そういう知識をぼくは拒否しないし、できれば知りたいとも思います。ぼくの言う無知というのは世間道徳と学識的なもののことです。みなさんはそういうものを尊重する人たちではありませんが、この世には、社会の仕組みを訊ねでもしたら、こちらが知りたい以上にいろいろなことを無理やり教えてくれようとする人たちや、自分にもわかっていないカラクリの正体を説明してくれようとする人たちがうじゃうじゃいます。ぼくはそういう知識を頭にしまうのが面倒です。その面倒くさがりの結果を〈無知〉と呼ぶなら、喜んでその批判に甘んじようと思います。ぼくは極度の無知に対するあこがれをいつまでも保っていたい。利口に対するあこがれはとっくのむかしに失いましたから……。ぼくは、反社会的な人間が吐く本質的で恐ろしい言葉が好きです。四年前、康男のお兄さんは、俺たちは引込み線に隠れて本線を見守っている人間だと言いました。ぼくはそういう背骨の通ったことを言う人たちが大好きなんです。お義父さんもお義母さんも、トモヨさんもおトキさんもまさにそうです。カズちゃんも素子もキクエも節子も法子もみんな、そういう言葉をひっきりなしに語ります。山口ももちろんそうです。引込み線の中で化石みたいになっている純粋な人間に会いたいと、ぼくはいつも思ってきました。ぼくは世間の仕組みは何もわかりたいとは思いません。もし何かわかることにでもなったが最後、そこにはもう感動というものはなくて、知識という信号だけしかないことになります。だからぼくは、何か感動的な気持ちを起こさせる恐ろしい本質的な言葉をいつまでも純粋なものとして、いつまでも感嘆すべきものとして聞きつづけたいと思うんです」
 カズちゃんが目を充血させながら、
「すてきな人―。キョウちゃんには太い一本のアンテナしかないの。知識という信号を捕まえて生活に役立てようっていう小枝みたいなアンテナがないの。おとうさんが言うように、それは長所ではあっても、欠点ではないわ。余分なアンテナがないから頭が澄みわたってる。大将さんのお兄さんの言葉も、一本の太いアンテナにしっかり入ってくるわけね。キョウちゃんが知識をひけらかさないおかげで、私たちはとっても生きやすいわ」
「ない知識をひけらかすことはできないよ」
「知ろうとしないことと無知とはちがうわ。草木や花の名前のような、関心のあることはとことん記憶してるし、知りたくないことは徹底して知ろうとしない。知りたくないのはキョウちゃんの勝手だけど、無知だなんて卑下するのはやめてね。私たちの前でも、ほかの人の前でもぜったいやめて。知りたくないことを知ろうとしないことは、ふつうじゃ考えられない美徳なのよ。この先、知識人と呼ばれる人たちは、キョウちゃんがぜったい知らないと予想できる専門知識をふっかけてくるでしょうけど、知りません一点張りでいいのよ」
 主人が、
「ワシらが世間のことを語るのは、たしかに神無月さんのおっしゃるとおり、新聞やテレビから仕入れた雑学を楽しんでるだけのことでな。神無月さんが毛嫌いする世間道徳や学問知識とは無縁だと思ってくださるのはありがたい。いやはや、神無月さんならではの長所やが、あらためて目からウロコやなあ」
 菅野が、
「そういう雑学を神無月さんがにこにこ聞いてる意味がわかりました。太いアンテナにきちんと入って、ユーモアとして受け取ってもらえるから、無視はされないということですからね。ところで、こんなのは雑学ですか? 野球場の新聞記者は勝手にスタンドに出入りして、どこに腰掛けてもいいことになっている」
「へえ、そうなんですか。知らなかった」
 主人が、
「その雑学自体まちがっとるぞ。記者は記者席以外に座ってはいかん。神無月さんが信じてまうやないか」
「すいません」
 部屋じゅうに笑いが湧いた。
「私たちにも反省点はあるのよ。ほとんどキョウちゃんよりずっと年上だから、とかく姉さん風吹かせた口ぶりになっちゃうのね。知ったかぶりをしないで、ちゃんと同年齢として向き合わなきゃ、せっかくのキョウちゃんの頭をボケさせてしまうかも」
 素子が、
「ええんよ、お姉さん、よすぎるアタマが少しぐらいボケたほうが愛嬌あるわ。若ボケのキョウちゃん、かわいらしいがね」
 吉永先生と節子がにっこり笑った。こんな調子で、五人の女たちはコーヒー一杯飲み終えると、
「さ、寝ましょ」
 というカズちゃんの声に従って立ち上がった。いっしょにコーヒーをいれた法子がトモヨさんにウィンクして襖を閉めた。五人の軽快な足音が廊下に響く。主人が、
「トモヨに気を利かせたんやな。女はなかなかああいう気持ちにはなれんもんですよ。大したもんだ」
 女将が、
「嫉妬を焼かんように、神無月さんに自然に鍛えられたんやろ」
 菅野が、
「いや、女将さん、嫉妬とかそういうものとちょっとちがうんですわ。鍛えられた結果じゃなくて、一心同体なんですよ。一日いっしょにおると、ようわかります。みんな一人ひとり、神無月さんのこと以外、だれのことも気にしとらんのです」
「ほうやな、うちも感じとったわ。でしゃばりの子が一人もおらん。節子さんも変わったなあ。やっぱり文江さんの子やわ。どっか抜けとる」
「あの人たちはみんなそうですよ。女の中の女が一堂に会したという感じですね」
「ほんとにな。トモヨ、はよ帰って抱いてもらい。直人は気にせんと楽しんできや。夜泣きせん子やから、ほんとにラクやわ。ミルクのやり方はわかっとるで、心配せんでええから。じゃ、菅ちゃん、お願いね」
「ほいきた」
 私は、
「いや、菅野さんも一日運転して疲れたでしょう。ぼくもきょうは疲れたので、このまま風呂に入ってこちらに泊まります。菅野さんも早く帰って寝てください。あしたの夜は楽しみましょう」
「ガッテン。家族サービスをしてから、三時過ぎにゆっくりきますよ」
 菅野は浮きうきと出ていった。女将が、
「二階の奥の客間が開いてるから、そこに寝なさい。ゆっくりね。幣原(しではら)さんが直人に添い寝してくれるから、心配せんと」
 トモヨさんは大きな目を輝かせた。幣原という名前を初めて聞いた。雇いの子守女かもしれない。
 寝つかれないのか、非番の女たちが麻雀や花札をしに座敷に降りてきた。おトキさんも山口を部屋に置いて静かに戻ってきて、まだ頬の赤い顔で主人夫婦に挨拶すると、下働きの何人かといっしょに、大門の寮の後片づけを手伝いに出かけた。
「山口さん、疲れて寝てしまったんやろう。大門の寮の手伝いも今月いっぱいでお終いや。おトキに賄いの指導にいってもらっとる。寮を立ち上げたのは初めてやし、賄いも新しく雇ったでな、片づけの仕方までおトキに教えてもらわんといかん」
 女将が、
「おトキは直人ばかりいじりよる。山口さんの子供がほしいんやろが、叶わん願いや。哀れやな」
 主人が、
「哀れなもんかい。老いらくの恋をして、女の生甲斐を取り戻したんや。直人をかわいがるのは、直人がほんとにかわいいからや。店の女たちも、一日直人にべったりやろうが」
「ほうやね。さ、神無月さん、早くお風呂入って、トモヨとゆっくり寝なさい。うちらももう寝るわ」
「はい。お休みなさい」
「七時にはお台所に立ちます」
「もっとゆっくりしとりゃあ。乳の出が悪くなるよ」



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