百四十五

 私はどうしても直人を抱きたくなり、寄っていって抱き締め、頬にキスをした。小さな両手で顔を押し返された。
「どうしてもだめか」
 苦笑いしながら言うと、山口が、
「成長すれば、もっときびしくなるぞ。おまえがふつうの親みたいに全開放してないからだ。まあ、おまえの状況を考えると、あたりまえだがな。それが直人には直観でわかるんだ。おまえがプロ野球に入ってどっしりして、自分が父親だと堂々と押し出すようになったら、直人の様子も変わってくるだろう。それまでは、直人のことは当事者でない人間にまかせておくんだな」
 私は気に入らない人間ともうまくやれる。相手が何を望んでいるか、何を考えているか、私に何を求めているかを感じ取れる。うまくやらなければならない異質の人間の心に本能的に〈合わせ〉ようとする。しかし、愛する者や親しい者たちの心はまったく読めないので、合わせるのではなく、自分の心に従った〈反射〉をしようとする。自分を彼らと同質のものと信じているからだ。合わせるのではなく、反射して同化しようとする。
 早番の女たちが職場に出、トモヨさんとカズちゃんたちが菅野といっしょに出ていくと、直人を抱いた女将と主人と山口を居間に残して、私と女四人は縁側に出た。おトキさんがコーヒーを入れて持ってきた。
「みなさん、この一週間、ほんとにありがとうございました。あしたからしばらくみなさんのお顔を見られなくなりますが、またお会いできる日を一日千秋の思いでお待ちしております。こんな汚れた世界に素人さんが足を踏み入れて、何のこだわりもなく溶けこんでくださって、心から感謝しております」
 吉永先生が、
「逆です。ここにいればいるほど、自分のほうが汚れた心を持っていることを痛感させられます。この家にいるかたたちは純粋そのものです。悪いプライドや、じゃまくさい自尊心を持ってません。そういう人たちに育てられた和子さんが、純粋になるのはあたりまえで、たった十歳のキョウちゃんの純粋さを見抜いたとしても、ぜんぜん驚くようなことじゃないとわかりました」
 法子が、
「そう、ここにいると、からだぜんぶ、きれいにさせられるという感じなのね」
 素子が、
「キョウちゃんが名古屋に住むようになったら、うちらもみんな名古屋に住むことになっとる。そしたらいつも北村席に寄らせてもらうわ。おトキさんも長生きして、山口さんと幸せな人生を歩んでや」
 おトキさんはうつむき、まぶたを指で拭った。節子が、
「母も、一途で、清潔な人間です。いつまでもいいお友だちでいてあげてくださいね」
「もったいない。こちらこそ」
 節子はおトキさんの手を握った。私も握った。少しがさがさしていた。法子も彼女の手を握って言った。
「山口さんはいい人よ。離さないでね」
 おトキさんは握り返し、
「もちろん離しません。みなさんも、けっして神無月さんから離れないようにしてくださいね。いつも神無月さんに心を浄めてもらえるよう祈ってます。秘密を守るのは難しいですけど、いったん守ると気持ちを固めれば、暴かれることはまずありません。……神無月さんは、私どものような人間の心も浄めてくれます。こんな人がいるのかと、最初のうちは半信半疑でしたが、いまはすっかり信じられます。つくづくお嬢さんの眼力の確かさに驚きます」
 素子が、
「あたしも最初はキョウちゃんのことをキチガイと思ったわ。初めてあたしを買った夜に、この汚いオマンコを舐めてくれたんよ。こんな仕事しとる女のオマンコやよ。そんなことされたの生まれて初めてやったから、びっくりしたわ。すぐ神さまやてわかった。死んでも離れんよ」
「山口さんは、自分の人生は神無月が死ぬまでの人生だと言ってます。みなさんもそうだと思います。私も山口さんの背中をついていきます」
 午後出の女と賄いの女たちがやってきて、トランプをしようと言う。私は断ったが、女たちは七並べを始めた。明るい声が座敷に響きわたる。
 主人と山口が銚子を持って縁側にやってきた。私に並びかけて庭を眺める。主人が煙草に火を点ける。
「あっという間でしたな。神無月さん、このたびはまことにありがとうございました。おかげさまでわが家が嘘のように明るくなりました。お礼の申しあげようもございません」
 山口は主人の盃に酒をつぎ、
「お父さん、神無月に礼は無用ですよ。善行をなした意識が本人にないんです。見てのとおり、上の空です。放っときましょう。それより、この数年、よく神無月を受け入れてくれたと俺は礼を言いたいです。受け入れ先を探すのがたいへんな男ですから。この先も温かい目で見守ってやってください」
「何をおっしゃるやら。直人は連れてきてくれるし、あんたがたは連れてきてくれるし」
「もとはと言えば、和子さんが神無月を連れてきたからですよ」
 父親は強くうなずいた。女たちがキャッキャッと声を上げている。いつのまにか、直人が彼女たちの背中を伝って歩いていた。私は、
「あの世之介には苦労させられると思いますが、よろしくお願いします」
「手をかけすぎないように、精いっぱい自由に育てますよ。神無月さんのように伸びのびとね」
 と主人は言って、豪快に笑った。
 賑やかな午前の時間が終わろうとするころ、カズちゃんたちがマンションから帰ってきた。午後出の女たちがトランプから立ち上がって二階へ上がった。おトキさんと賄いの女たちも台所へいった。父親は、煙草を吸いながら、重ねる杯にでき上がることもなく、山口と延々と話をしている。よしのりが居間で一服つけ、
「やあ活躍した。城を眺めながら、マンションの窓ガラスをぜんぶ拭いた。汗かいちゃった。シャワーもらうね」
 おトキさんが、
「お風呂、できてますよ。どうぞ」
「山ちゃん、風呂付き合ってくれ」
「オッケー」
 どたどたと二人で風呂場へいく。トモヨさんは坐るなりすぐに直人に乳を含ませた。カズちゃんが、
「あと三時間よ。腹ごしらえしといて。私たちはすましてきたから。お風呂使いたい人は順に使って」
「こんにちは!」
 浜中たちが玄関に顔を現し、深々と礼をして、
「いまから出発します。目覚ましい一週間でした。しっかり凡俗を脱しました。ご主人、奥さん、そして神無月さんはじめ、みなみなさま、ほんとうにお世話になりました。この先いくらでも再会できるチャンスがあると思いますが、そのときはよろしくお願いします。この二人がふらりとやってきたら、適当に応対してやってください。東奥日報紙に神無月さん関連の記事が載るたびに、かならず北村席さんと飛島寮さんのほうへ、定期購読紙とは別に数部あてお送りいたします」
 菅野が腰を上げようとすると、
「お気遣いなく。駅前から空港バスでいきますから」
 主人が、
「ええ記事がでけたですか」
「はい、一級資料をどっさり確保できました。この資料をどういう企画で活かすか、じっくり考えます」
 母親が三人にウイロウの箱包みを配る。礼を言って、それぞれがボストンバッグにしまった。カズちゃんが、
「飛行機で青森へ直行?」
「はい。まず青森テレビに、神無月さんの宮中の画像を届けます。すぐに全国放送になると思います」
「とにかく、当分お別れね」
「はい。みなさんとすごした時間の一コマ一コマは、一生忘れることのできないものになりました」
 恩田がカメラを差し上げ、
「神無月さん、今後もしつこく追いかけさせていただきますよ。懲りずにお付き合いください」
 三人の記者が北村席の一人ひとりと握手する。腰にタオルを巻いて前を隠した山口とよしのりが慌てて出てきた。浜中が、
「あ、山口さん、横山さん、この数日お世話さまでした。引き揚げます。神無月さんとお二人との友情の場面は、近いうちに特集いたします」
「北村席が写ってまったら、まずいんやないの」
 女将が言うと、
「前に申しあげたとおり、北村席さんや、女性のかたがたとの絵は紙面や電波にのせないようにします。同僚にも口外しません。歌のステージの模様は、遊山先でということで編集します」
 玄関前にみんな揃って見送りに出る。
「じゃ、秋のリーグ戦で! 少なくとも二、三度、神宮球場のほうにお伺いします」
 彼らは手を振りながら去っていった。遠くから恩田が振り返りざま、何回かシャッターを切った。山口たちは廊下の奥の風呂場へ戻っていった。やがて山口の青高健児の歌が聞こえてきた。カズちゃんが、
「戸山高校じゃなく、いつまでも青森高校なのね。はい、キョウちゃん、直ちゃんを抱いてあげて。当分お別れよ」
 トモヨから受け取り、私に渡す。居心地が悪い胸なのか、えへ、えへ、と泣きだす。笑いながらトモヨがもう一度抱き取った。この数日間に直人がしゃべった言葉のかけらを思い返した。
 ―わんわん(犬も猫も絵本の豚も)、んま(テレビの競馬中継を観て)、まんま(ごはんもおかずも)、あい(私と顔を合わせると発する片言)、っちゃった(いっちゃった、落としちゃった、消えちゃった)、ば(バナナ)、いっち(苺)、ぶっぶ(車)、か……。
 菅野が私の呟きを聞きつけ、
「今度くるころには、一人前のおしゃべりになってますよ」
 おトキさんが賄いたちと海老天丼を持ってきた。みんなで箸を立てる。女将が、
「うちは台所でツマミ食いしたからええよ」
 主人がもぐもぐやりながら、
「さびしなるなあ。まるで永の別れという気分や。神無月さんには四年つづけてきてもらっとったが、和子の話だと、これからは年に一回も会えんようになるそうやな。どうやろう、こられる人は、神無月さんと関係なく、勝手に遊びにきてくれんかな。ワシらや直人に会うつもりでな。横山さんは気が向いたらくるようなことを言っとったが」
「彼の場合、あてになりませんよ」
 私が言うと、みんな静かになった。主人が一人うなずき、
「そうやろな。横山さんも神無月さんがおらんと、つまらんわな。ワシらもそうやから」
 風呂から上がった山口が台所へ駆けこんで、おトキさんとディープキスをした。
「傍若無人だぞ!」
 よしのりが怒鳴る。主人たちが目を丸くし、節子たちが笑う。菅野が、
「山口さんがそういうことするの、楽しいなあ!」
 と大声を上げた。
「さ、山口さんも横山さんも、ごはん食べて」
 私はステージ部屋へ見納めにいき、譜面台やマイクを触った。
 カズちゃんがやってきて、
「さ、お風呂入ってきて」
 風呂へいくと、トモヨさんがエプロン姿で待っていて、全身をきれいに洗ってくれた。やさしい指使いで髪も洗った。
「キョウくんのおかげで、みんな幸せです。私だけがお子をいただいて、申しわけない気持ちでいっぱいです」
「もう一人は産まないとね」
「はい、直人のためにも。文江さんの健康には、みんなで注意してますから、心配しないでくださいね」
 真新しい下着を着せられた。


         百四十六

 出発直前に、おトキさんの心尽くしのミョウガ入りそうめんをすすった。オヤツなので、早仕舞いをした店の女も、賄いも、みんなで食卓についた。素子が殊勝に頭を下げて、
「おじさん、おばさん、ほんとにありがとうございました。千鶴によろしくお伝えください」
「おお、言っとく」
「長いこと立ちん坊しとった女やけど、気持ちはウブな子やから、へんな虫がつかんように見とってやってください」
 女将が笑いながら、
「あんたたちみたいに、男で出世する女はめったにおらんのよ。心配してもしょうがないわ。なるようになるで」
 山口が、
「神無月や和子さんに会いにくると思ったけど、こなかったな」
「千鶴はキョウちゃんと会いたがらんかった。危ない人や言うて」
「まともな判断だ」
 山口が言うと、トモヨさんが素子に、
「どうして?」
「そんなにたくさんの女と付き合うのは、まともな神経やないって」
 節子が、
「キョウちゃんは一人の女としか付き合ってません。和子さんだけ。私たちは和子さんの分身。と言うより、一心同体。だから、まともでないことをしている覚えはないんです」
 吉永先生が、
「ほんとにそのとおりなの。だから、おたがいに遠慮し合うこともないし、強く求めることもありません。ごく自然に暮らしています」
 法子が、
「わかってもらう必要はぜんぜんないと思う。危ない人だと思われてたほうが、人間関係が簡単になるわ」
 素子が、
「ほうよ。だからこそ、トモヨさんも子供を産めたのよ。みんなが簡単な気持ちでいたから」
 菅野が、
「正直なところ、うちの女房がお嬢さんと一心同体になったら悩みますな」
「ウハハハ、ワシもそうや」
 主人がからだを揺すると、女将が、いやですよ、と主人の肩を叩いた。店の女の一人が、「一心同体て、ようわからんわ」
 と言って、カズちゃんの顔を眺めた。カズちゃんはそのトルコ嬢にうなずいて、
「女同士の好意がからだまで一致したら、一心同体よ。まずそんなことは起こらないわ。頭の中の好意のところでストップするから」
 カズちゃんに笑いかけられた直人がわけもわからず笑っている。主人が、
「直人はやっぱり、神無月さんの二代目になるな。ワシらは簡単にくたばるわけにはいかんぞ」
 女将が、
「いいえ、神無月さんのような人は、この世に二人とおれせん。目指そうとしても無理やわ。この子なりの出世を願ってこそ、親心というものです。ほやろ、トモヨ」
「はい、そう思います。郷くんの心だけでも受け継いでくれれば、ほかに言うことはありません」
 主人が、
「それがいちばん難しいことやと思うけどな。心を受け継いだら、女だけでなく、男もうじゃうじゃ寄ってくるで」
 菅野が、
「人は神無月さんに勝手に近づいて、勝手に去っていきます。愛情を注ぐことも、心中することもできずにね。それでも、神無月さんを選んで近づくほど勇気のある人には、去っていくまで親切にしてあげなくちゃいけないと思うんですわ」
 山口が、
「それは、あくまで、神無月中心の配慮でしょう。神無月はその配慮というやつに無頓着でしてね。こいつにあるのは、人間全体に感じる報恩ですね。こいつを愛する者は愛される、愛さない者は愛されない、単なる好奇心で近づく者には反応しない、ざっくばらんにに言ってそれだけのことでね。いやなやつですよ、神無月は。愛してないかぎり、がまんできない人間です」
「そりゃ、山口さん、ひどい言い方だなあ」
「表現がまずかったかな。神無月を意識の中心から外すことですね。自分の内臓みたいに無意識に放っておくんですよ。和子さんは心臓と言ってます。ほかの女も同じように思ってるでしょう。神無月を最上等の人間だと思うと、せっかく築き上げた人生が痛めつけられ、苛烈な拷問を受ける。等級のある人間だと思うと、比べたくなったり、競争したくなりますから。神無月はグレードのない、引力だけの人間です。がんばって近づこうとするんじゃなく、ぼんやり取りこまれれば、もう天国ですよ。過剰な自意識やプライドを捨てるんです。愛しいだけの存在にしてしまえばいい。行動ももちろん一蓮托生にする。じつは人間はだれでも自分をいちばんだと思ってるんです。そこから自分中心の人生観を築き上げる。自分がいちばんでない人生観は、背徳のイデオロギーですよ。グレードのない生き方に美と生甲斐を見出さないかぎり、神無月とは暮らせない。どうです、ひどい言い方じゃなかったでしょう?」
「はあ……」
「俺も思わず口にしてしまいますが、神無月を神だというのは当たってないんですよ。人間の最上等に持ち上げて、そう言いたくなるんですけどね」
「グレードのない引力だけの人間だということですね」
 菅野が鸚鵡返しに言った。女将が、
「なんやの、一日じゅうわけのわからん話ばっかりして。頭が痛うなるわ」
 山口は鷹揚に笑いながら、
「女将さんも、ぼんやり取りこまれていてください。頭をハッキリさせようとするから頭が痛くなるんです」
 主人が、
「ええなあ! こういう話。ワシはこの年まで、男同士の話の醍醐味に飢えとったんです。また何カ月か静かになるんですな。で、神無月さん、秋のリーグ戦はいつからですか」
「九月十四日の土曜日からです。土日の二連戦。一勝一敗だと三連戦になります。土日ごとに試合をして、二度の中休みを入れて七週間つづきます。選手は二カ月近く野球に縛られます」
         †
 父親が私たち八人に新幹線の切符を渡した。
「たぶん十月の初めに東京にいきますよ。おトクには家守をしてもらわんといかんから、トモヨとおトキを連れていきます。ご迷惑はおかけしません。旅館に二、三泊します。菅ちゃんもいくか?」
「あたりまえでしょ。東名を飛ばしますよ。そのために私を雇ってるんでしょうが。いやあ、ついに言ってくれましたね。このあいだまでは、女の子の送り迎えにこっちにいてくれだったのに。女の子なんて、歩いてかよえる距離でしょう。雨が降ったら傘差していけばいいんですよ」
 菅野の勢いに、女将が笑いだした。
「女将さんが留守番をしてくれれば、お乳の出る賄いさんもいることですし、二、三日はなんていうこともありませんわ」
「え、そんな人いるの?」
 トモヨさんを見ると、
「はい、二人ほど。決まった時間に授乳できるというわけにはいきませんけど、お頼みすれば四、五日は」
 カズちゃんが父親に、
「旅館なんて言わずに、うちに泊まればいいじゃない。どうせいっしょに観にいくんだから」
 そうよ、そうよ、と素子が言う。
「いや、旅館に泊まりますわ。大勢で迷惑かけとうない。それに、旅館のほうが風呂や着替えをノンビリできるからな」
「いやだ、なんだかうちは居づらいみたいじゃない」
「そういうことやない。気ままに寝転がったりできんゆうことや。旅館はゆったりできる」
「俺が西荻に探しておきます。老舗旅館に心当たりがありますから」
 山口が胸を反らす。法子が、
「ちゃんとしたお店を持ってたら、夜にでもみなさんで飲んでもらえたんですけど。とにかく狭い店で」
「気遣いは要らんですよ、法子さん。神無月さんの晴れ姿を見るのが目的ですから」
 吉永先生が、
「じゃ和子さん、代わりに私と節子さんを泊めてくれる? 法子さんはお店の責任者で土日は休めないから、泊まるのは無理でしょう」
 法子は残念そうな表情で、
「泊まれませんけど、試合が午前開始なら、いっしょに観にいけます」
 野球に関心のないよしのりもうなずき、
「水商売の土日は地獄だからなあ。無理しちゃだめだぜ」
「じゃ、吉永さんと節子さんはうちに泊まって。お父さんたちとは野球場にいくとき、高円寺駅で合流しましょう。八月の下旬から木谷さんも同居することになってるし、蒲団をもっと買いこまないと」
 山口が、
「そうか、木谷がくるんだったな。ときどき勉強を教えてやるか」
「そんな暇ないだろう。やめとけ。自力で受からないなら、働けばいいだけだ」
 私が言うと、山口は、
「そりゃ、冷たいぞ。一、二年は浪人しないと木谷レベルじゃトップ校は……。せめて働きながら浪人しろと言ってやれ」
 木谷という名前を初めて耳にして、彼女を知らない女三人がカズちゃんを見つめる。
「いい子よ。先月訪ねてきたの。もと青森高校の野球部マネージャー。私の家で浪人することになったの」
 父親が私を見つめ、
「どういう事情かわかりませんが、和子の家に女の同居人が増えるわけですな」
「おとうさんたちの心配することじゃないの。くる者拒まず。素ちゃんと三人で力を合わせて生活するから平気よ」
 女将が、
「増えるのはかまわんけど、神無月さんの健康を考えてあげるようにせんとあかんよ」
「わかってるわ。それがいちばんだもの」
「六大学のスタジアムは神宮球場です。試合開始の時間はまだ決まってません。わかったらカズちゃんに知らせときます」
 山口が膝を叩き、
「お、あと二十分もない。そろそろいくぞ」
 言われてみんな立ち上がる。おトキさんの目が真っ赤だ。山口が、
「おトキさん、十月に東京に出てきたときにまたね」
「はい。待ち遠しいです」
 カズちゃんが立ち上がり、
「じゃ、いくわね。恥ずかしいから、見送りは玄関までにして」
 女五人、男三人が、バッグとギターケースを提げて式台に立ち並ぶ。菅野が、
「芸能人ご一行さまみたいですな。十月にまた元気な顔を見にいきますよ」
 トモヨさんが、
「東奥さんの写真ができあがったら、なるべく直人が写ってるのを選んで、すぐ送ります」
 小鳥のキスをする。私は一座を見回し、
「みなさん、くれぐれも直人のことをよろしくお願いします」
 出迎えたときと同じように、北村一家が玄関前に立ち並んだ。主人夫婦を真ん中に、左に直人を抱いたトモヨさんとおトキさん、右に賄いの女たちとトルコ嬢たち。私はいやがる直人に無理やりキスをした。経験したことのない柔らかい唇だった。カズちゃんたちみんながまねた。


         百四十七

 レギュラーたちが山形合宿から戻り、すぐさま七帝戦で京都へ遠征しているあいだ、八月二十一、二十二日の二日間、ひさしぶりに練習に出た。居残り組に混じって、走り、投げ、打った。感触が戻るまで、大事にやった。部室に新しく入っていた五キロのダンベルで前腕と手首を軽く鍛えた。翼の形に両腕を開いて三十回上下動させた。
 二日目の帰り、補欠組の二年生の先輩二人と、赤門前の喫茶店でアイスコーヒーを飲みながら練習の成果を語り合った。私のほうから誘った。痩せ型の長身と、百六十五センチもないチビで筋肉質の男。二人ともバッティングに熱意ありと見えたからだ。なかなかうまくボールに当たらないが、振り方に真剣味が見られた。彼らをすぐに準レギュラーに推薦するつもりだったが、そうしなくても、いずれコーチ陣の目に留まるだろうと思った。話をしているうちに、和気藹々とした気分が消えた。
「四年までいたって出場の見込みがないだろうし、アルバイトばかりしてるよ」
「バイトの合間に練習してるようなものだね」
 と二人は言った。
「どうしてバイトなんかしてるんですか。東大生は裕福だと聞いてますけど。生活が苦しいんですか」
 そんなやつは野球部に一人もいない。私のような幸運に与(あずか)れなかった貧乏人は、駒場寮にチラホラ潜んでいる。
「苦しいわけじゃないが、裕福でもない。東大生が裕福だというのはまちがった風聞だね。けっこう貧乏人が多いよ。貧乏人は出世しないとね」
「……野球の合間に、バイトだけじゃなく、学問もしてるんでしょう?」
「変わった質問だな。東大だよ。やってるに決まってるじゃないの。三年つづけて落第したら放校だ。知ってるよね」
「はい。じゃ、アルバイトというのは時間を取らないものですか」
「勉強を兼ねた小遣い稼ぎ。時間は取られるよ。家庭教師とか予備校講師。時給三千円は堅い。悪くないだろ」
 いやな気がした。
「そんなことよりさ、どうすれば金太郎さんみたいに、豪快なバッティングができるようになるのかな。俺たちにやる気があるから誘ったって言っただろ。金太郎さんにそう言われると、舞い上がっちゃうよ。ぜひ教えを乞いたいな」
 木田ッサーだとわかった。いや、木田ッサーは夜ひそかにやってきて、貧しい技能を私に曝しながら、涙を流すほどの悪罵に耐えてバットを振って見せた。そして失意のどん底で私に微笑みかけ、去っていった。こいつらは木田ッサーでさえない。際立った才能がないくせに、えらそうだ。熱意と見えたものは、監督やスタッフに気に入られて、次期レギュラーをたぐり寄せるためのものだったのだろう。
「バッティングに見どころがあると言ったのは、前を大きくバットを強振していたからです。それにミート力がともなえば、中距離以上の打者になれます」
「ロングヒッターは無理?」
「強肩と長打力は先天的なものなので、鍛えても限界があります。しかし、大きい振りとミートを鍛えれば、百十メートルぐらいのホームランなら、当たりどころがよければ打てるようになります」
「なんだかつまらないな」
「つまらない? 野球に才能がなくても学問があるじゃないですか。人間は万能になれませんよ。ホームランを打ちたくて東大野球部にきたんじゃないでしょう。レギュラーを取れればいいくらいのつもりだったはずですよ」
「先天的に長打力に欠けてると言われたら、ちょっとやる気がなくなるよなあ」
「東大に受かる能力があれば、野球の才能もあると思ってたんですか。そういう意味の落胆ですか? そんなわけないでしょう。失礼なようですが、もともと比べものになりませんよ。東大は努力と運で受かりますが、速球ピッチャーやホームランバッターには才能がないとなれません。ぼくは東大にマグレで受かったので、野球に才能がないと逃げがきかないんです。学力を試されたら、すぐお里が知れてしまいます。あなたがたは正真正銘の秀才でしょう。野球に才能がなくても逃げが効きます。ガッカリする必要もないでしょう。それがなかなか野球に打ちこめない原因だと思います。ぼくも身に合わない受験勉強で努力しました。あなたがたも身に合わない野球に手を染めたからには、全力で努力すべきです」
 ノッポが、
「まあ、金太郎さんの言うことは正論だけどね。でも卒業さえすれば、実際引く手あまたなんだよな。無理ながんばりをする必要はないというわけ。たしかにガッカリすることもないけど、なんだかつまらなくてさ」
「野球は楽しくないですか。受験勉強でさえ楽しい瞬間は何度かありましたよ」
 チビが、
「正直楽しくはないな。レギュラーなら楽しい瞬間もあるだろうけど」
 ノッポが、
「ただの東大生より、東大野球部出身というのが格好いいじゃん。少し勉強して、国家上級でもとって、官僚を目指す。野球をやっていたのに上級試験に受かったのか。それって最高だろ。役人仲間も感動するぜ。精神的にやつらの優位に立っておかないと、出世に響くからな。出世しなくちゃ、男と生まれた甲斐がないからね」
 本気でしゃべっている。二十歳そこそこの男たちの幼い美学。そして、おそらくは実現するだろう希望。
 ―母があこがれた大学に、母とそっくりな人びとが巣食っている。
 無性にさびしい。こんなところにはいられない。今年の秋シーズンが終わったら、あと先考えずに中退しよう。そしてすぐに村迫球団代表に連絡だ。一年浪人することになるかもしれないが、こんなところにいつづけるより精神衛生にいい。優勝するまでがんばると、監督やレギュラー陣と交わした約束がなければ、いますぐ中退するところだ。優勝は叶わないかもしれないが、もう一シーズン、がんばるという口約束だけは果たそう。とにかくあと数カ月で中退だ。
 補欠たちに声をかけるのはもうやめる。これからは、気心の知れたレギュラーたちと練習をしよう。九月までは荻窪で自主錬に励む。
 帰り道、池袋に出て東上線に乗った。車内はまだ冷房が効いている。汗が退いていくのが気持ちいい。ワイシャツにズボンに下駄。尻ポケットにはいつも数万円が入っている。上板橋駅に降りる。晩夏の微風に吹かれて歩きながら、痛めつけたからだがそれだけでない原因で疲れているのがわかる。風呂屋の煙突を目指して歩く。
 空色の戸を叩くと、寝惚けまなこで先生が出てきた。パジャマの上下を着ている。
「キョウちゃん! どうしたの、こんな時間に」
「練習帰りにふらりときちゃった。キクエこそどうしたの。こんな時間に寝てたの?」
「夜勤明けで、十一時くらいから寝てたんです。きょうは六時から深夜までの中番。ちょうど起きようと思ってたとこ」
 そのまま抱き締めながら布団に押し倒した。パジャマをひき下ろすと、下着をつけていない。スッキリした腹の下から、くびれた腰が広がっている。
「ああ、だめよ、キョウちゃん、舐めちゃだめ。洗わなくちゃ」
「いいよ、そんなの。もう、ビンビンなんだ」
 股間にむしゃぶりつく。乾いていた寝起きの襞がたちまち生気を取り戻し、厚みと水っぽさを増してくる。私は小便でもするようにファスナーを開けて、〈社会の窓〉からはやるものを引き出し、そのまま挿入した。つけ根がファスナーのせいで完全に入り切らずに、中途半端な感じだけれども、とにかくあわただしく往復させた。すぐに先生の膣が濡れそぼってきて、強く陰茎を締めつけた。その感覚が新鮮で、たちまち放出感が迫ってきた。
「あー、うそ、気持ちいい! キョウちゃん! 愛してます、愛してます、そのまま動かしてて、動かし……ああ、イクイク、イクー!」
 同時に達した。ものの十秒もかからなかった。磨いていない歯に気を差してか、先生は唇を求めずに枕を噛みながら全身を痙攣させた。
「二人で思う存分イッたのはひさしぶりだったね」
「ほんと。キョウちゃんの大きさや形が新鮮な感じできちんとわかりました」
 先生は私の髪を指ですいた。ズボンを見下ろすと、陰茎が突き出したファスナーの両縁が白っぽくべったりと汚れている。
「恥ずかしい……。それ脱いでください。洗っておきます。取れるかしら。なんだか業が深いって感じ」
 恥ずかしそうに笑う。ついでに下着もワイシャツも脱がせ、部屋の隅にまとめて積んだ。小さな箪笥を探って下着を出し、ファンシーケースから私の替えズボンとワイシャツを取り出した。ワイシャツはベージュでズボンは茶色。どちらも新品だった。
「ちょっと待って」
 先生はタオルを濡らすと、私の性器を丁寧に拭った。それから口に含み、長い時間かけて、いとしそうに浄めた。
「あら、そろそろ出勤の支度をしなくちゃ」
「晩めしは?」
「いつも病院のカフェテリアのカレーうどんですましちゃうんです。早番のときは、ちゃんと自炊してます」
 先生は下半身をさらしたまま歯を磨きはじめた。かわいらしい尻だ。屈みこんで口をすすぐとき、濡れた茶色い襞が股間から覗いた。それは閉じきらずに、私の形を残したままかすかに開いていた。愛らしかった。
「じゃ、ぼくもいっしょに出る。夕暮れの空気を吸おう」
 机の上にびっしりいろいろな専門書が広げてある。頼もしい気がした。八坂荘で『さぶ』という文庫本の背文字を見たときに感じたわびしい気分が思い出された。
「あの犬、死んでしまいました。大家さんが柿の木の下に埋めたみたい。かわいそう」
 先生は暮れなずむ道を弾むように歩いた。いつもの目標のある歩き方だ。この足どりの先に彼女を待つ人たちがいる。
「……キクエは、どんどん成長していくね」
「するはずないじゃない。成長なんて三つ子まで」
「勉強、順調?」
「はい。きょうは練習だったの?」
「気が向いたから、二日ばかり出てみた。秋に中退する気持ちが固まった」
「それって、予定どおりですか?」
「予定というより、気持ちどおり。本来の予定はもう一年だった。春に少し感激して、優勝するまではやめない予定に切り換えてたけど、馬鹿らしくなった。あとを担う人材がオシャカだ。才能がないうえに、精神をやられてる。まともな四年生とあと三カ月暮らしてサヨナラだ」
「一年間は、来年のドラフト待ちね」
「待たない。強引に入団を図る」
 私は思わず、村迫との約束を破って、ポロリと言った。
「中退すると、その年のドラフトにかけられずに、すぐプロの勧誘があって、翌年からプロ入りだ。どうあってもおふくろは押し切る」
 吉永先生はよく意味を捉えられないようで、
「流れるままね。何がどうなろうと、それが自然体なんでしょう? このごろ、私、キョウちゃんのことがよくわかるんです。そんなふうに何かするためじゃなく、何かする覚悟をしながら、ただそこにいるためだけに生まれてきたんだって。肝を据えてそこにいることで、いろいろな人の心の支えになってるの。だから、何をやっても、そのせいで何が起きても、そこにドッシリいてくれないと困ります」
「ときどき動く銅像みたいなものだね」
「そう、それがぴったり。ときどき動いて悪さする銅像」
 私を見上げて、磨いたばかりの歯をきらめかせる。
「悪さは得意だ」
「ふふ、まだあそこがジーンとしてます」
 私だけではない。だれだって、意地悪な人間でないかぎり、いや、意地の悪い人間でさえ、そこにいることでいろいろな人の支えになっている。とすると、人間のちがいはどこにあるのだろう。だれかの支えになることで、だれもが価値を持って生きているとするなら、一人一人に鑑別のルビを振る必要があるのだろうか。
「……野球がんばるよ。野球に集中すると決めた人生だ。ぼくの分まで勉強がんばってね。あ、常套文句言っちゃった」
 先生はアハハと笑い、
「キョウちゃんの周りって、お城の石垣みたいにガッチリしてます」
「石垣がガッチリしてるだけで、本丸は心もとない」
「だから、本丸はそこに建ってればいいんです。たまに笑って、しゃべって、きょうみたいな悪さしてくれたら、石垣はみんな幸せになります。病院はほとんどお休みが取れないけど、うまく時間が空いたら、荻窪に逢いにいきます」
「余分な気を使わなくていいよ。これからもときどき闇討ちで逢いにくるからね」
「うわあ、毎日お風呂に入っておかなくちゃ。できれば電話してください」
「できればね」
「ごめんなさい、夕食作れなくて」
「駅前の食堂で何か腹に入れてくよ」
「あんな狭い路地に食堂があったかしら」
「探すからだいじょうぶ」




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