百六十

 四国屋商店に電話をして、きょうの午後に顔を出すことを伝える。小雨がパラパラきているので傘を持った。ダッフルを担ぎ、下駄を履いて本郷へ出かけていく。フジに寄って、カズちゃんのいれたコーヒーを飲み、金城くんと呼ばれている若い新入りが焼いたふかふかのジャムトーストを食べた。マスターが持ってきたスポーツ紙に、東大球場で無番の私が走っている姿が数ショット載っていた。見出しに、神無月秋季リーグに向けて始動、とある。この種の見出しは二年前に青森で見たことがある。
「いつもと変わらないことをしてるだけなんです。本郷のほうが細かい練習ができるのは確かです」
「やっぱりマスコミは球場のどこかに隠れてるんだね」
「はあ、荻窪のほうも撮られていそうですね」
 カズちゃんが、
「一種のコマーシャルだと思って、撮らせておきなさい。騒いでくれたほうが、キョウちゃんだって野球をするのが楽しいでしょう?」
「そうだね、注目されるほうがやり甲斐がある。千佳子は昼めしどうしてるの?」
「ここかポートで食べてるから安心して。私、千佳ちゃんや素ちゃんを見てるとワクワクするの。百パーセント、バックアップしてあげる」
 マスターが、
「スパイク、アメリカのメーカーに注文出したから、何週間かしたら届くよ。二十七・五センチだったね」
「はい」
「まず一足履いてみてからだね」
         †
 十時からレギュラーたちに合流。明るく声をかけ合う。何人か欠けているメンバーは授業出席組だろう。三十度に近いようだが、霧雨のせいで涼しく感じる。ネット裏のスピーカーから音楽が流れているのに驚く。詩織か睦子のアイデアにちがいない。山形から戻った選手やマネージャーたちがわいわい部室に寄り集まっていた。詩織がいち早く気づいて、
「あ、神無月くん、こんにちは!」
 部員たちがいっせいに笑顔になる。
「金太郎さん!」
「ひと月半ぶりの顔合わせですね」
 詩織の短パンから突き出た脚が少し日焼けしている。睦子がバーベルのそばで遠慮がちに笑っている。ここでも小型スピーカーを部屋の隅に設けて軽音楽を流している。
「ふうん、しゃれたことをしますね。上野さんか鈴木さんのアイデアでしょう。カナダの夕日か。五十六年のヒット曲。中学生のころ、リバイバルで大流行したな」
 克己に話しかけるが、情けなさそうに笑って、
「音楽はからっきし」
 と顔の前で手を振る。睦子が詩織といっしょに寄ってきて、
「七帝戦、優勝しました! 山形合宿でもみんな、金太郎さんにつづけって、必死に練習したんですよ」
「胸が希望でいっぱいになりますね」
 詩織が、
「京都で買った下駄、帰りにお渡しします。もうその下駄、歯がちびてきてますよ。鈴木さんのプレゼント履かないんですか」
「もったいなくてね」
 みんなで私の足もとを見下ろす。私は礼を言い、ロッカーを開けて服を脱ぎはじめる。詩織と睦子がさりげなく顔をそむける。白川と黒屋がやってきて、日焼けした顔で笑いかける。
「会いたかったぜ。夜蒲団に入ると、助手たちがいつも金太郎さんの話をしてたよ」
 白川が言う。
「何て?」
「あれほどの美男子なら、野球なんかやらなくてもいいんじゃないかって」
「そりゃひどい。野球を取ったらただの木偶坊(でくのぼう)です。正体、知ってるでしょ」
 ユニフォームをきちんと着こむ。黒屋が、
「すてき。木偶坊を撫で回して、正体を探りたいわ。ね、上野さん、鈴木さん」
 年上の未熟な女が年下の成熟した女二人に笑いかける。詩織も睦子もただ微笑するだけだ。白川が、
「黒屋たちじゃ、探索の荷が重すぎるんじゃない」
「なんせまだ腹掛けをした皮かむりの金太郎ですから、探ってくれる女の人にご迷惑をかけます。皮が剥けるまで遠慮します」
 爆笑になる。詩織が口に手を当ててクスクス笑った。おそらくあまり男を知らない黒屋が赤くなってうつむいた。
「道々、先輩たちの名前を頭の中で復習してたんですよ。克己キャプテン、棚下さん、中介さん、岩田さん、大桐さん、壮畑さん、横平さん、臼山さん、水壁さん、磐崎さん……」
 有宮が、
「ピッチャー忘れるなよ」
「有宮さん、台坂さん、村入さん、三井さん、森磯さん。それからレフトの風馬さんがいましたね」
「大したもんだ!」
 鈴下監督以下、部長と副部長と助監督が入ってきた。鈴下が、
「やっと会えたな、金太郎さん!」
「はい、名古屋土産買ってきました。ウイロウときしめん。三人に一組ずつ、どうぞ」
「おう、きしめんもか。ありがとう。このウイロウってやつ、噛み応えと甘みの具合がちょうどよくて大好物なんだ」
「あ、西樹助監督の分、忘れた!」
 鈴下監督が、
「だいじょうぶだよ、きしめん分けてやるから。ウイロウは譲れない」 
 部室に笑いが満ちる。部長の仁が、
「金太郎さん、少しからだが大きくなったか」
「はい。名古屋でのんびりしながら脂肪をつけました。東京に戻ってから、脂肪を筋肉に変えるようにダンベルを使って鍛錬しました」
 監督は満足げにうなずき。
「この一カ月で、二、三年生の中から、だいぶ実力の伸長した選手が出てきたんだ。クリーンアップと克己は鉄板だが、それ以外は高レベルでどんぐりになった。秋は楽しみだよ」
「法政三羽ガラスが抜けないかぎり、秋に優勝するのは奇跡でしょう」
「あれれ、上野が言うには、秋が最大のチャンスだと金太郎が言ってたって」
 私は、
「もちろんそう思いますけど、本気で優勝を狙うのは来年の春からだと思います」
「そう言わずに強気でいこうよ。頼りにしてるんだからさ」
 グランドに出るとき、睦子が走ってきて、
「千佳ちゃん、うまくいってます?」
「すべて順調。カズちゃんたちに溶けこんでるよ。勉強もがんばってる。心配無用。きょう、詩織のところにいってくる。今夜遅くいくかもしれない」
「期待しないで待ってます。きてくれたら、あしたの練習は午後から出ます。お風呂沸かしときます。いっしょに入りましょうね」
「うん、じゃね」
 フェンス周回のウォーミングアップのあと、ポール間ダッシュ一往復。三種の神器、素早く二十回ずつ。中介、横平とキャッチボール。
 投手はピッチング練習主体の自由メニュー。ランニングやダッシュをしたり、遠投をしたり、ブルペンでピッチングをしたりしている。レギュラーピッチャーの球速が増している。特に村入と三井がいい。彼らに混じり、充実した気分でからだを動かす。フェンスまで全力疾走五本。外野ネットに向かって遠投、百メートルほどを三本。この右腕は私の生命線だ。野球選手でいるあいだだけは壊さないでおきたい。実戦のときのアクシデントが怖い。特にクッションボールを捕ったあとの振り向きざまの送球は、からだと腕の角度がいびつになるので、肩を外したり、肘の筋を痛めたりする危険がある。少ないステップでの最大遠投も怖い。左肘を痛めた瞬間の恐怖が甦る。腕立て。肩関節の強化を意識しつつ五十本。腹筋二十、背筋三十。報道陣のフラッシュがスタンドで光る。
「よーし、フリーバッティング、五本ずつ!」
 監督の命令に、居残り組と、夏以降に入部した一年生十人余りがバッティングマシーンを押してくる。バッター以外のレギュラー、準レギュラーが守備位置につく。
「まず百三十キロ!」
 私は守備に回る。二十人ほどアットランダムに打っていく。克己に替わって五番に昇格した静かな左バッター横平から。バットを長く持っている。速いスイング。すばらしいミートだ。ライナーでライトのネットの下方に二本当たった。
「ナイス、ホームラン!」
 レフトから声をかける。守備を入れ替わりながら、順繰り打っていく。どの選手も凡ゴロや凡フライが少ない。水壁。長打力がグンと増している。七帝戦でもホームランを一本打ったらしい。ほとんどの打球が左中間右中間を抜いていく。彼も二本ネットに当てた。大桐。ミートを心がけて強いゴロを打とうとしている。二本に一本は外野へ抜ける。
「大桐、いいなあ!」
 克己が叫ぶ。次打者の臼山が熱心に掬い上げる。三塁ゴロと内野フライが多い。芯を食わないからだ。しかし、長身の彼はファーストから外せない。
「実戦に強いからだいじょうぶだろう」
 私といっしょに守っている三年の風馬が皮算用をする。八番にみずから降格した克己のシュアなバッティングは、チームでいちばん信頼感がある。鋭いライナーが私にも一本飛んできた。中介と磐崎の一、二番コンビは主にバント練習に精を出した。
 兼助手の外野ノック二十本、控えキャッチャーの棚下がいい動きをしている。
「おーい、金太郎、そろそろいけ! 百四十キロ!」
 監督が呼びかける。
「ほーい!」
 走っていき、バットに素振りをくれながら、
「百四十五キロでお願いします! 十本」
 ホームランを意識せず、ライナーを〈上げる〉よう心がける。レフトへ二本、ライトへ二本、センターへ一本、すべてネットの上部へ当てる。
「ひゃー! 相変わらずだな。安心、安心」
 克己がキャッチャーボックスでミットを平手で何度も叩く。新入生から拍手が湧く。これを見たくて入部したやつも多いだろう。大いにサービスしなくてはいけない。
「村入さん、三井さん、五球ずつお願いします。センター中心に打ち返します」
「よっしゃ!」
 マシーンの脇に立ち、交互に投げる。センターライナー一本、左中間安打二本、センターオーバーのホームラン七本。助手、マネージャー入り混じって盛大な拍手。十人の新人たちは茫然としている。
「よーし! マシーン百五十キロ、好きに打て!」
 霧雨。雨滴の弾き具合を確かめるために、ゴーグルをかける。水滴をよく弾く。視界も鮮やかだ。二本ライト上段へ。中段へライナー一本。高いフライでネット越え一本。百五十メートルはいっている。私はそれで打ち止め、ふたたびグランド周回に入る。レギュラーたちは、二本ずつ何巡りも挑戦した。走りながら眺めるかぎり、全員、三回に一回は芯を正確に捉えた打球を飛ばしている。百五十キロでこれなら、実戦になったら二割五分は打てるだろう。チーム打率は二割七、八分いくかもしれない。
 内野ノック。水壁、大桐、磐崎、臼山ら内野手のサマになっている連繋プレーをめずらしい気分で眺める。控え選手の数も増えている。胸にあふれてくるものがある。優勝ではなく、楽しい野球への期待だ。
 助監督の西樹に呼ばれ、投球練習場に回って一年生新人のテストを見る。きょう一日、球拾いばかりさせられている連中だ。レギュラーたちが集まってきた。克己が、
「一年生は走らされるだけで半年放っておかれるんだよ。それでも残ってるやつは、根性だけは合格ってわけだ」
 中背の一人、百三十七、八キロの伸びのある速球を投げるやつがいる。助監督が、
「都立西高からきた那智というんだ。来年あたりから中継ぎもいけるんじゃないかと見てる。有宮ぐらいは投げられるだろう」
 六人ほど見終わって、那智以外は全員見こみのない素人だとわかった。彼らは少なくとも一年間はフィールドの縁の球拾いになる。マシーンを百三十キロに戻し、新人のバッティングも見る。ほとんど腰砕けか、単なる大振りだ。一人、百八十センチに近い左バッターが、ミート主体のスイングでセンター方向にいい打球を飛ばしていた。すぐ克己が、
「右投げ左打ちか。金太郎さんと同じだな。きみ、名前は?」
「野添です」
「野球部だったの?」
「はい、中京商業で。補欠でしたけど」
 私は驚き、
「中商? 中商から東大に受かったの?」
「はい、十年に一人ぐらい受かります」
「スカウトで中商へいったんだろ?」
「はい、鶴舞中学から。四番打ってました」
 岡田先生に率いられて鶴舞にいったときは、対戦相手は北野中学だった。鶴舞中学とはトーナメントでも当たったことがない。私は克己を振り向き、
「彼、即戦力じゃないですか」
「そうだな、中京商業にスカウトされるくらいなら、守備はオッケーだろうし。大桐の控えで入れてみるか。おい、きみ、内野できるか」
「補欠でしたから、一とおりは」
「守備練習は、壮畑といっしょに大桐の後ろにつけ。出場のチャンスがあるかもしれないぞ」
「はい!」
 マシーンから出てきた野添に、
「ぼくも中商からスカウトを受けたんだ」
「知ってます。宮中の神無月さん。百年は破られないと言われてるホームラン記録。中商の監督がぼやいてました。神無月を獲れてたら、三年連続春夏甲子園だったのにって。ぼくは新聞で神無月さんの鬼神のような活躍を知って、東大受験を決めたんです。そばに近づくことも畏れ多くて、春からずっとグランドの隅で眺めてました。ようやく打たせてもらえました。こうしていっしょに野球ができて、感無量です」
「何学部?」
「理Ⅰです。神無月さんの知り合いに一人会いましたよ。一戸くんという人。青森高校で英語のクラスがいっしょだったと言ってました」
「一戸通(とおる)か。直井というやつは? 直井整四郎」
「さあ、知りません」


         百六十一

 ホームベースに立ったノック役の兼の脇に、克己、棚下が並んで、本格的な守備練習が始まった。リズミカルに一、二塁間、二遊間、三遊間と打っていく。だれもかれも目覚ましい上達ぶりだ。外野にボールがいっさいこぼれてこない。肩もかなりでき上がり、送球もほぼ正確だ。左中間に高いフライ。走りながら捕球し、瞬時に体勢を立て直し、野添に見せるつもりで、セカンドへ強い送球をする。磐崎は嬉々としてグローブに収め、キャッチャーへ返す。センター弱肩中介、正確だが頼りない返球だ。早く岩田か杉友に引き継ぐべきだ。ライトの横平は強健だ。影の薄い藤山という控えがいたが、これは攻走守すべて目立たないまま退部してしまった。私の控えの風馬は、リーグ戦以外の試合に出場できるという意味では恵まれているほうだ。センターの控えは岩田だが、私は横平の次に打力を買っている。ファースト、セカンド、サードは四年の臼山、磐崎、水壁。三人とも攻守安定していて、控えの出番はない。監督の言う成長組は、おそらく、岩田や横平のことだろう。しかし、どう贔屓目に見てもまだまだ強豪高校レベルのチームだ。せめて強豪大学のレベルにならなければ優勝はない。助監督の西樹の号令。
「ベーラン、五本!」
 これがいちばんつらい。吐き気を催すことはほとんどなくなったが、嘔吐に対する長年の恐怖感は消えない。とは言え、呼吸がきついことを除けば、小学校以来ダイヤモンドを回るスピードは相変わらずチームナンバーワンだ。走る姿が美しいとよく言われる。そのたびに、長嶋茂雄がセカンドを回る華麗な姿を自分に重ねる。野球をしている歓びが湧いてくる。三塁のファールグランドに女子マネージャー三人が立っている。詩織は両手を握り締めて私を見つめている。ベースを蹴ってスピードをのせる。
 二時半、ダッフルに練習用ユニフォームを一式入れ、傘を手に下校する。報道陣の追跡はない。本郷三丁目駅の地上出入口で詩織を待った。白い開襟シャツに紺のセミロングスカートが、節子の歩き方で近づいてくる。手を振った。驚いて走ってきた。仲良く肩を並べて地下への階段を降りる。紙袋を差し出す。
「下駄を受け取らないで帰るから、忘れられたのかと思いました」
「まさか」
 受け取った紙袋をダッフルに納れる。
「イージーリスニング、いいアイデアだったね」
「はい。練習をくつろいだ雰囲気にして、実戦で緊張してほしかったから。仁部長に掛け合ったら、一発でオーケーしてくれました。バトン部の部費もようやく一定の額が正式に下りることになりました。ブラバンは五十曲くらいに曲目を増やすそうです。氷用のバケツは一斗樽を二つ調達しました。先週、林くんに頼んだんです。彼の実家、造り酒屋だから」
「彼、元気だった?」
「はい。グリーンハウスに聴きにいくって言ったら、神無月の歌を聴かせるから、ぜひきてくれって。男も女も、神無月くん、神無月くん」
「林から家庭教師を押しつけられてね。週一回だから、一カ月の約束で引き受けた。門前仲町。小四の男の子だって。一カ月ぐらいやって、あいつの顔を立てたら、さっさと辞めるよ。詩織のマンションに寄ってから、ちょっと顔見世にいってくる。いっしょにいく?」
「いえ。そのあとで睦子さんのところにいってあげないといけないでしょう」
「なんだ、聞いたのか。あしたも練習に出るんだろ?」
「リーグ戦前二週間は、土日以外は出ることが義務づけられてるんです。土日も出ますけど」
「ごめんね、泊まれなくて」
「いいんです。睦子さんも私も、神無月くんのこと独占するつもりありませんから。きょうは神無月くんのおかげでみんな張り切ってたわ。監督や助手の人たちまで。先輩のマネージャーたちも、へんに浮かれちゃって。黒屋さんに手を出しちゃだめですよ。鬼の首とったみたいに自慢されるのいやだから」
「向こうから言い寄ってくる女は、気に入った女以外手を出さないよ」
 電車がやってくる。
「持って帰って洗濯しなくちゃいけないユニフォームが、もう二着ロッカーに入ってるんだ。このダッフルのはカズちゃんに預ける」
「ロッカーのは、あした私が持ち帰って、クリーニングに出しといてあげます」
「じゃ、いまお金払っとく」
「いらないわ。水曜日に戻しときます」
「ありがとう。グローブにグリースを塗るよう、野添に頼んどいて。あいつは秋からショートの準レギュラーだ。壮畑さんには気の毒だけど」
 車内灯が点いたり消えたりする。
「春とは見ちがえるチームになりました」
「うん。克己さんは長打力があるし、もともとシュアなバッターだから、八番じゃなく、臼山さんの代わりに六番を打つべきだな。克己キャプテンに言っといてね」
「はい」
「神無月くんは、走りこみの熱の入れ方すごいですね」
「ふだんの練習量がみんなの十分の一もないから、チャンスがあるときに取り戻しておかないとね。荻窪でも毎朝走ってるんだ」
「仁部長が言ったとおり、一回りからだが大きくなったわ」
「百八十一センチくらい。八十キロから八十一キロかな。これでストップだね。もっともっと筋力をつけないと、プロでやってけない。優勝したら中退するつもりだし、優勝しなくても、いつでも中退してプロにいく気持ちはあるから」
「……さびしいわ。……両親のことや、親戚のことや、結婚を断った人のことなど考えると……私、中退は無理」
「当然だよ」
「たとえ遠く離れていても、ずっと神無月くんのことを思いながらワンオブで生きます」
「ぼくと別れたら、だれかのオンリーワンになれるのに」
「それはだめ。神無月くんのこと、どうにもならくらい好きだから。でも、ほかの女の人たちみたいにピッタリくっついては生きられない。遠くのワンオブ」
「だれかのオンリーワンになるまで、詩織のいい男でいようと思ってた」
「ずっと神無月くんのワンオブです」
 いっしょにマンションまでの坂道を歩く。言うべき言葉がない。女が感情のほうへ気持ちを向けたら、感情の淡い人間は手出しができない。
「きょうはする?」
「もちろん。いまのうちにうんとしておきます。苦しいほど好きです。……神無月くんがプロ野球選手になっても、ときどき逢いにいきます」
 詩織は部屋のドアを閉めるとすぐに全裸になり、風呂場にいって、スポンジとシャワーで手早く掃除を始めた。私も全裸になって、その様子を眺めていた。湯船に屈みこむたびに、尻のあいだから色の淡い陰唇が見え隠れする。吉永先生と同じだ。思わず指でなぞった。一瞬尻がすぼんだ。詩織は高らかに笑った。初めて聞く明るい笑い声だった。
「ごめんなさい、笑っちゃって。悪気はなかったの。ゾクッとしたのが恥ずかしくて。女ってスケベよね。きょうはお風呂に入りたいわ。雨模様でじめじめした日だったから、どこもかしこもグショグショ」
 詩織は手についた洗剤を洗い落とし、浴槽にシャワーを当てて流す。栓をひねって湯を出す。湯を満たしているあいだ、私は浴槽にあぐらをかき、詩織は壁や鏡を洗った。
「まめにやらないと、すぐ黴が生えるんです」
 シャワーを噴きつける。湯が満ちたあとで、自分の陰部もシャワーで洗った。
「スッキリしたろう。さ、入ろう」
「はい」
 向き合って浸かると、湯があふれた。とつぜん涙が湧いてきた。
「どうしたの? 悲しいの?」
「いろいろなことが押し寄せて、思わず泣いてしまった」
「へんなの。お爺さんみたいなこと言うのね」
「独りで浸かるのはなんだかさびしいけど、女と二人で浸かるとホッとする。ホッとするとかならず悲しくなる。いっぺんに感謝の気持ちがあふれてくるんだ。ぼくみたいな―」
「はい、そこまで。神無月くんは何を言い出すかわからない。韜晦も意識してしゃべるならイヤミな謙遜ですむけど、本気だと病気だと思われるわ」
「よく病気だと言われる。韜晦と誤解される理由が知りたいけど、つまらない議論は時間のむだだから、逆らわないできた」
 詩織が握ってきた。
「こんなになってる」
「からだが病気じゃないことは確かだね。せっかく勃ってるんだから、跨ってぼくのを入れてほしい。もっとホッとしたい」
「はい、包まれたいんですね」
 ヌルリと入る。すぐに脈打つ。
「ああ、私こそホッとする……ああ、嘘みたいに気持ちいい……しばらくこうしてて。好き、大好き。死ぬほど好き」
 唇を吸ってくる。ビクンと尻が上がる。
「だめ……もう」
 私の唇を噛み、ウーンとうなって果てた。じっとしていると、詩織が動きはじめる。
「あ、あ、気持ちいい!」
 クリトリスをいじる。
「あ、ウーン!」
 痙攣するまま陰丘を上下させ、連続で気をやる。たまらず、ザバッと湯をまとって立ち上がった。浴槽の縁をつかみ、うつむいて腹を何度も収縮させている。ほかの女たちとまったく同じだ。背を押して湯殿に屈みこませ、後ろから挿入する。緊縛が極点に達している。射精するためにあわただしく突き上げる。
「あ、だめだめ、神無月くん、止まらなくなる! あああ、イックウ!」
 一度だけ奥深く突いて吐き出し、すぐに抜く。律動とともに、力をこめて残りの精液を背中に飛ばす。詩織は虚空をつかみながら痙攣している。尻を抱き寄せて私の腹に密着させ、ふるえを体感する。
         † 
 焼きあがったお好み焼きにソースを塗り、青海苔をかけ、カツブシを振って、切り分ける。詩織はブタ玉、私はミックス玉。
「くる者拒まずだとすると、神無月くんは女の人の数をどこまで増やすつもりですか」
「やっぱり気になるんだね。ぼくもひどく気になる。どうやっても罪悪感はごまかせないからね。そろそろくる者の数は打ち止めだと思う。あと一、二年、若くて、美しく見えるあいだだけだ。結局二十人に満たないだろうね。その女たちが生涯の女になる。いずれその中の何人かは、遠方の友人のような存在になって、頻繁な交流もなくなる。……身近に残るのは二、三人。彼女たちはぼくの死を看取り、ともに死ぬかもしれない。よく千人切りとか言うよね。くる者ばかりでなく、いく者まで追いかける。いわゆる性欲の満足のための漁色だね。衰えはじめた男の特徴だ。男の生き方が漁色の方向に定まると、たぶん女の心ではなく、女のからだを利用した快美感が薬物中毒のようなものになって、それを求めることに人生の持ち時間のすべてを使うようになる。当然、禁断症状が出てやめられなくなる。……ぼくは中毒じゃない。心に惚れた者の肉体だけを求める。幸福を与えて、その幸福を自分にも投射したいからね」
「心に惚れた者って?」
「ぼくを生かすために、自分を見かぎっている人たちの心のことだ。見かぎることを本気で幸福と信じている人たちのことだ。じつは、そういう人間は男女を分かたない。ぼくは彼らの恩に報い、ともに幸福になることに命を使う決意をしている。数が多いとか、時間がないなどと言っていられない。ぼくはだれかに不都合を与えようと思って生きているわけじゃない。でも、こういう生き方に苦しみを覚えたり、不都合を感じたりするなら、その人は去るべきだ。ぼくは何とも思わない」
 詩織はとつぜん泣き出し、
「ごめんなさい、神無月くんをいじめるつもりで訊いたんじゃなかったの。最初に抱かれたときにも言ったけど、私は神無月くんの悲しみといっしょに暮らしていこうって決めたんです。神無月くんが抱く女の人の数なんかどうでもいいし、神無月くんの生き方もどうでもいい。ここに生きている神無月くんが好きなだけなんです。嫉妬してるみたいなことを言ったり、親戚とか親とか言ったりしたのは、つい私の平凡さが出てしまったからなの……。怒らないでね。怒って私を捨てないで。神無月くんに近づく努力をしながら、神無月くんを思いつづけながら、ずっとそばにいることを許してください」
 私はミックス玉を頬ばり、
「怒ってなんかいないよ。それに、ぼくはだれも捨てない」
「捨てずに、愛してくれるんですね」
「あたりまえだ。だって、詩織が自分を捨ててぼくを愛してくれてるんだからね。お好み焼き、おいしいよ。すこしビール飲もう」
「飲まないで。弱いんだから。私もあした東大球場だから、お酒なんか付き合ってられません。食べ終わったら、早く睦子さんのところへいってあげて」
「うん、そうする」
 二人顔を見合わせ微笑み交わした。


         百六十二

 五時半。神泉から渋谷へ出て、銀座線浅草行に乗って日本橋で東西線西船橋行に乗り換えて門前仲町へ。乗り換えも含めて五十分弱で到着。高円寺からだと東西線で四十分はかかる。遠い。階段を昇って地上へ出て、隅田川の支流に架かる橋を渡った。川面がざわめき、傘を差さなければならないほどの雨になった。下駄の鼻緒が濡れる。
 傘を差して、材木が一面に浮かぶ川面を眺める。岸沿いの明るい通りに、四国屋商店という老舗らしい菓子店があった。看板にいくつかの電球でライティングがしてある。店の脇に小さな間口の電器店がくっついていた。電器店のカウンターで店番をしていた眼鏡をかけた首の長い丸顔の男に、神無月ですと告げる。男は顔を挙げ、ビクッとして姿勢を正した。
「もしや、三冠王の神無月選手ですか!」
 林は私の迷惑を考えて、野球のことはしゃべっていなかったようだ。
「はい。内密に願います。マスコミがうるさいですから。友人の臨時代理なので長くは勤められないと思います」
「ハ、わかりました。なにぶんよろしくお願いします」
 長い首を下げた。ここの主で、息子の父親のようだ。
「私は技術屋でして、菓子店のほうは女房にまかせて、いつもこっちの電器店のほうに詰めてるんですよ。機械いじりが趣味なんで、要望があれば修理にも出かけます。雅人のことなんですが、とてもわがままな子で手を焼いてます。ひっぱたいてもいいですから、ビシビシやってください。林さんはヤワですからね」
 真剣な顔で言った。母親が菓子店の奥から出てきた。異様に目の小さい、少し足りなさそうな小太りの女で、小さな目のせいか視線がきつく見えた。形ばかりの挨拶をしたあとは、私を見向きもしない。
「主人はああ見えても、芝浦工大を出てるんですよ」
 あらぬほうを見ながら言い、マーくん、と二階に呼びかけた。母親が私に上へいけというふうに指差すので、
「火曜日しかできないんですが。五時か六時ぐらいから」
「それでけっこうです。じゃ、きょうは顔だけ合わせていってください」
 私は階段を上がっていき、框ぎわの部屋のガラス戸を引いた。大テーブルの前にちょこんと坐っている小さな肥満児に頭を下げた。調度が大テーブルと掛軸だけの十畳間だった。隣部屋と六枚の襖で仕切られている。
「初めまして、神無月といいます」
 八重歯を剥いてニヤニヤ笑う。寄っていって隣に腰を下ろした。半ズボンから肥った足が突き出ている。
「いつも何を習ってるのかな」
「これ」
 たまたまテーブルに載っていた算数と漢字のドリルを指で示した。
「そうか、じゃ漢字、算数の順番でいくかな。これからは火曜日にくるからね。あしたが初日だ。きょうは十五分だけ見てあげよう」
 思いのほか愛嬌のある太った男の子は、教えはじめて五分もしないうちに本性を現した。鉛筆を放り捨てると、奇声を上げて笑いながら部屋じゅうを駆け回った。襖の向こうの隣部屋から、ときどきケタケタという不気味な笑い声がする。少年の姉の声のようだ。テレビでも観ているのか、漫画でも読んでいるのだろう。これは教えにくい。林がいやがるはずだ。
「あの笑い声は?」
「姉ちゃん」
 走りながら答える。
「なんで笑ってるの」
「漫画」
 その姉は、十分ほどのあいだに、セーラー服姿のまま、三回も四回も襖を開けて、部屋を横切り、廊下越しのキッチンへいった。私に何の挨拶もしない。
「お姉さん、いったりきたり何してるの?」
「おしっこ」
「嘘だろ」
「ウソ。テレビ。キッチンにあるから」
「それも嘘だな」
「わかんない」
 通りがけにときどきこちらを見つめる目が母親似で小さい。眉も薄く、板のように平べったい〈ぬりかべ〉のような顔をしている。セーラー服を着ているところを見ると中学生だろうが、だぶだぶの作業着のようだ。母親が、
「マーくん、おやつよ。熱があるんだから、きょうはもうやめなさい」
 と息子を階下へ呼びつけた。初日の挨拶に上がってくるかと思ったが、親子ともなかなか戻ってこなかった。そのあいだ姉が何度も出入りした。私をチラチラ見てはキッチンへいく。これは勉強どころではない。
「きみ、何してるの」
「勝手でしょ。自分の家なんだから」
「あしたから、勉強しているときはじゃましないでくれないか」
「マーくんが勉強なんかするわけないよ」
 父親の懇願が虚しく感じられた。十分もしてようやく戻ってきたマーくんは、とっくに退屈していて、小生意気な態度でテーブルに向かったが、もともと興味のない勉強に五分と集中できないのだ。彼は私が書き取りや計算をして見せているあいだ、ときどきその手もとから目を逸らし、上目づかいに私の顔を盗み見ていた。十五分の約束が三十分になった。マーくんは何一つ手を動かさなかった。私は腰を上げた。
「野球好きか?」
「うん、大好き!」
「そうか。じゃ来週、川沿いでキャッチボールしよう」
「うん! 先生、野球できるの」
「キャッチボールぐらいできるさ。じゃ、あしたね」
 帰りに階段の下で、母親が私に茶封筒を手渡した。私はそれをポケットに突っこみ、店を出た。父親が電器店から、
「あしたからよろしく!」
 と背中に声を投げた。
 雨が強くなっていた。傘を差す。橋を渡ったところにスポーツ用品店があったので、一キロのダンベルを二つ買った。ランニングをしながら左右の腕を均等に鍛えようと思ったからだ。
 阿佐ヶ谷駅から歩いて睦子のアパートまでいった。九時を回っていた。ダッフルが肩に重い。ドアを押し開けた睦子は、
「わあ、神無月さん、うれしい!」
 全身をぶつけてくる。口づけを交わす。
「お風呂入ってます」
「ありがとう」
 睦子はその場で私の服をすべて脱がし、自分も裸になる。二人で風呂場にいき、前も洗わず、すぐに抱き合いながら湯に浸かる。
「お土産があるんです。山形と関係のないものです」
「何?」
「お財布。ダンヒルの黒革の財布。小銭納れもついてます。どこか遠出するときに持っていってください」
「ありがとう。高いんだろうね」
「物の値段ですから、気にしないでください」
 カズちゃんからもらった財布をいつの間にか使わなくなったことを思い出した。
「大事にする。きょうは夜遅く帰るよ」
「はい。あした本郷でお会いします」
 湯殿に出て、頭を洗う。そのあいだに睦子は私の背中や陰部をやさしく洗った。私も彼女の全身を洗ってやった。睦子はうつむいて大粒の涙を流した。私のすることに、ほんとうに心から感激しているのだ。
 風呂から上がると、睦子は下着とパジャマを用意した。キッチンテーブルにつき、彼女のいれたコーヒーを飲む。千佳子の影響だろう、睦子もフィルターコーヒーをいれるようになっている。
「後期試験はぜんぶレポートになるみたいです。文学部の講義は無期限停止になるんですって。少なくとも来年の夏まで。大学紛争は、いろいろな大学で起きてますけど、東大のはひどいです。一月に医学部生がストに入ったのが発端です」
 林に聞いた覚えがある。忘れた。
「どうしてストに?」
 飽きもせずに質問する。
「登録医制度反対、青年医師連合を認めよ、の二つ」
 これもよしのりに聞いた。
「やっぱりよくわからないや」
「インターン研修を終えた人を登録医として優遇して、国家試験に受かっただけの人を無登録の医師として軽視したんです。むかしからインターン制度はありましたけど、登録医という差別化はありませんでした。インターンを管理するのは大学病院でしょう? 締めつけの効くほうを優遇したんですね。青年医師連合が、そんなことでは大学の管理体制が改善されないと叫んで、いっそのことインターン制度を廃止してしまえという運動を起こしたんです」
「登録医制度って、青年医師連合を抑えることも狙ってたの?」
「はい。六月には医学部の過激派が安田講堂を占拠したんですけど、機動隊を入れたことで事態が悪化して、大学院生を中心に全学共闘会議、いわゆる全共闘というのが結成されました。それがきっかけで安田講堂はまた学生たちに占拠されました。いまもそのままです」
 過激派、大学院生、全共闘、学生たち……いくら聞いてもわからない。だれとだれが反撥し合い、だれとだれが協力し合っているのかアタマが明らかにならない。よしのりや睦子や林に罪はない。もともと意味不明な言語の鎧を着た人間関係なので、理解の刃が徹らないのだ。
「……東大はどうなるんだろうね。ぼくは騒ぎの事情を詳しく知らないし、よく理屈もわからないから、予測さえつかない。勉強の素質のある人は、ものごとをよく知ろうとするね」
「興味もないことを知ろうとするのが勉強家の悪い癖です。興味のあることとなったら神無月さんのすごさはものすごいです。花や木、音楽、文学」
「はい、そこまで」
 詩織の口調をまねて言った。
「褒めるのは、野球だけにして。それがいちばんうれしい」
 二人で蒲団にいく。睦子は陰茎をそっと握り、含み、唾液をすする音を立てて吸う。亀頭の裏を舐めたり、横を舐めたり、また亀頭を含んで顔を上下に動かしたりする。私がかすかに笑うと、
「自然にこうしてしまいます」
「かわいいよ」
 うん、うん、となまめかしい声を上げながら舐める。
「ああ、おいしい」
 顔を上下に動かしながら睾丸をさする。なかなかやめない。私は彼女のするままにしておく。睾丸から亀頭に向かってやさしく指でさすり上げると、ようやく離れ、蒲団に尻を落として大きく脚を拡げた。私はぐっしょり濡れた襞を注視する。陰毛のすぐ下のクリトリスがふくらみ、割れ目の端から尻の溝に向かって愛液がゆっくり流れ落ちる。腹と尻がふるえはじめる。私を愛情のこもった困ったような目で見つめながら、ハ、フ、ハ、と喉声を出しながらこらえている。
「ああ、だめ、神無月さん、見られるだけで、ウン、ウン、ウ、イク!」
 腹を収縮させて果てた。ふるえる両腿をつかみ、何が起こったのかよくわからない場所に口を寄せる。丁寧に舐め上げる。クリトリスを吸う。顔を横向け、首を振り、細い声を上げながら腹を縮め、肩を怒らせて上下に痙攣する。 
「ご、ごめんなさい!」
 激しく呼吸する。開いた脚の中心に亀頭を近づける。睦子は私の性器を見下ろし、膣口に触れると一瞬呼吸が止み、一センチほど挿入したとたん、
「ハ、あ、あ、ハ、ウーン」
 うなって果てた。愛らしく腹を小刻みにふるえさせる。素子どころではない敏感な体質を宝石のように感じる。私はゆっくり動きはじめる。睦子は喉の奥からうめき声を絞り出し、ぶるんぶるんと胸を痙攣させる。一度痙攣を終えると、うっとりと目を閉じて恍惚にひたる。やがて呼吸が速くなり、口が歪んで、愛しげに私を見つめる顔が崩れはじめる。口をしっかり閉じ、一声叫んで、強く気をやる。それが繰り返される。少し休まなければ危ないと感じて腰を止めた。睦子は胸で呼吸しながら、私を悲しいほど愛しているという顔で見上げる。私は強くうなずいた。睦子はハア、ハアと荒く息を吐きながら、このうえなく安心した顔でにっこり笑う。口づけをする。睦子はやさしく舌を使った。しっかり抱き合う。自然と騎乗位になった。私の胸に掌を突いて、うれしそうに恥毛をこすり合わせる。上下動を始める。細い声を上げながら、口が空気を求めて開き、首をかしげて私を見つめながら泣き顔になる。ウン! と一度痙攣し、それが落ち着くと、しっかり両脚でしゃがみなおして、大きく上下に動きはじめる。口を開け、目をつぶってあごを反り上げる。快感を表すあらゆる種類の声色と呼吸音を私に聞かせようとしているのかもしれない。もちろん睦子にそんなつもりはないだろう。彼女は愛する私に浸っているのだ。呼吸が止まり、
「はああああ―」
 と大きく息を吸った。
「はあ、ウング、うーん、だめっ、あ!」
 強く痙攣するからだを倒してきて、しゃにむに口を吸う。私の頭を抱えて腰を動かしつづけている。数秒息を止め、ガクガク痙攣する。私は睦子の尻をつかんでふるえを和らげようとする。
「はあはあ、あ、だめ、や、や、あー、イク! ふー、ああ、また、イ、イク! ふうん! ふん!」
 腹が何度も打ちつけられる。私はすぐさま上になり、射精するために激しく動く。もうすぐ睦子はラクになる。乳房を握り締めた。射精する。ふくよかなからだを抱き締め、律動に応じる激烈な反射を受け止める。睦子はふるえながら無意識に私の背中をさする。
「愛してるよ、睦子」
「愛してます! 死ぬほど愛してます!」
 背中をさする手がやさしくなる。引き攣りが少しずつ落ち着き、満面の笑みがこぼれる。
「つらかったろうね。すばらしい女だ。非の打ちどころがない。きょうはものすごくがまんしながらしたんだね」
「はい、自分がこんなふうになるなんて考えてもいなかったので、自分だけ満足してしまったら神無月さんを感じさせてあげられないと思って怖くなりました。私も最後まで神無月さんを感じていたかったし……だんだん大きくなっていく神無月さんを感じられて、夢のようでした。……私、これからは五秒でもイケるし、三分でもイケます。でも、五分はぜったい無理です。きょうみたいに、からだが勝手に狂ってしまいます。でも、そうなっても神無月さんのためにがまんします。……いまもお腹の中がふるえてます」
「ぼくがほかの女とするのは、胸が痛い?」
「いいえ、心はみんないっしょですから、同じ幸せをいただいてるんだって気持ちになります。それに、こんな強い快楽は毎日なんて感じられません。ほかの女の人と分かち合うことで、かえって、からだは助かった気になります。女の気持ちよさは信じられないくらい強いものだってきょうわかりましたけど、神無月さんは、途中は何も感じないで、最後に少しビクンとなるだけ。そのことを考えただけでも、感謝と尊敬の気持ちが湧いてきます。何人の女の人としても何とも思いません。神無月さんの自分を捨てたセックスに感謝の心が高まるだけです。……危険日で中に出してもらえないときが、少しつらいと思いますけど」
 睦子は阿佐ヶ谷駅まで送ってきた。そしてじつにやさしく私を抱きしめて改札に見送った。


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