百六十六

 三十人ほど二組に分かれてキャッチボール。だいぶ力のある送球が目立つ。手首の振り方も堂に入ってきた。遠投の成果だ。ボールを受けていて気持ちがいい。
 ティーバッティングは高目だけを練習した。高さを七十センチ、八十センチ、九十センチに調整して十本ずつ。ティーバッティングのあいだ、ピッチャーは外野ネットへ遠投。
 コーチの小原によるレギュラーと準レギュラーのノック。補欠が外野フェンスに貼りつく。内野十本ずつ。コーチの兼に交代して、外野十本ずつ。ワンバウンドのバックホーム三本ずつ。右肩がますます強くなってきたと実感する。優に百二十五メートルを投げられる。フリーバッティング。そのあいだ私は、フェンスまでの五十メートルダッシュ五本、腕立て五十本、腹筋背筋五十回。打席につき、神経を凝らして十本。内角外角高目低目に課題は設けない。ホームラン七本(ライトへ三本、センターへ二本、左中間へ二本)、レフトライナー一本、センター前ゴロ一本、ファーストゴロ一本。
 十時半。午後にかけて授業のある連中が帰っていき、新しい練習組が入ってくる。補欠たちがマシーンを押してきて、準レギュラー以上のフリーバッティング。外野で補欠分担の助手がノックを始める。私はベンチ脇の水道で頭を洗い流し、午前練習を終えた同輩たちと第二生協食堂へ昼めしを食いに出かける。補欠のほとんどは授業を受けに帰った。カレーライスと大盛りサラダ。
 ―またカレー。
「克己さん、四年生の就職先は決まったんですか。大桐さんと中介さんのことは、さっき聞きました」
 大桐と中介の二人は離れたところで食っている。
「前にも言ったけど、俺は東京外語の中国語に入り直す。将来国連で働きたいんだ。横平は基礎生物学科の大学院、光合成の研究をやるらしい。水壁は本田技研、磐崎は英文科の大学院、壮畑は三井生命、有宮はクニで高校教員。ええと、それから、棚下は博報堂、臼山と台坂は司法試験浪人だ」
「すごいですね。そこまで他人のことを記憶できるものじゃないですよ。かなり親しく付き合ってるんですね」
「金太郎さんが入部してから、部員間の雰囲気が変わってさ。よくみんなで集まって、希望を語り合うようになった。一つでも多い勝利の希望をね」
「思い切って、後進を登用するということも考えたほうがいいですよ。勝利を増やすために」
「考えてる。センターに岩田、ショートに野添。この二人は 第三クールに使おうと思ってる。中介と大桐には了解を取った。活躍したら第四クールでも使う。最終クールは中介たちの記念だから交代させられない」
 十一時十分から紅白戦が始まった。五人に減ったバトンガールが、膝の高い足踏みをしながら、バトンをきらめかせる。かけ声もうまく共鳴しない。それがなぜかひどく色気があった。詩織が心配そうに見ている。
 試合では、すべてレフトへ打ち返すことを心がけた。レフトオーバーのホームラン一本、レフトライナー二本、レフト前ヒット一本。敵チームの四番横平が、ライトオーバーのホームラン二本、ライト前ヒット二本。そのほか、克己と水壁が一本ずつホームランを打った。乱打戦になり、七回終了して九対九の引き分け。監督やスタッフが狂喜した。
「これだよ、これ。何番からでも打てる打線。京大戦、七帝戦とかなり成長してきてることはわかってたんだ。金太郎さんみたいに課題を設けて練習をするには、まだまだ個人的に力不足だが、総合力はグンと増したな」
 克己が、
「来週はひたすら調整だ。土曜日から、早稲田、法政、一週空いて慶應、明治、一週空いて立教の順。最初の二週間のうちどちらかで勝ち点を上げられれば、優勝の可能性が出てくる。白川、日程表を配ってくれ」
 九月十四、十五(十六)、二十一、二十二(二十三)、十月五、六(七)、十二、十三(十四)、二十六、二十七(二十八)。北村家の人たちがくるのは、十月五日から七日だ。鈴下監督が進み出て、
「早稲田は安田と荒川と谷沢だけのチームだ。打撃は水物だ。勝てる可能性はじゅうぶんある。安田の六十キロの超スローボールに気をつけろ。法政には連敗するかもしれん。富田、山本、田淵の打撃力、山中と江本の投手力は群を抜いている。金太郎さん一人じゃ太刀打ちできない。しかし、いまの東大は春の東大より強い。精いっぱい善戦してくれ。きょう以降、檄は飛ばさない。解散!」
 同じことを相馬も言ったことがある。結局檄を飛ばしまくった。バトンガールがマネージャーたちといっしょに女子更衣室へ引き揚げていく。私はまた頭を水道で洗って、更衣室へ向かった。赤門で私を待っていた睦子と詩織と、池袋まで同道する。
「お疲れさん。いつも二人で待っててくれてありがとう」
 詩織が、
「きょうは三人で食事しようと思って。と言っても、池袋でラーメンを」 
「しばらくこんなチャンスはなくなりますから」
 睦子が微笑みながら言う。
「リーグ戦期間中まったく逢わないとするなら、五十日以上チャンスはないね。でもぼくは、リーグ戦が始まったら、試合にしか出ないから、曜日を決めずに、火水木のどれか都合のいい日に、ふらりと荻窪にくればいい。二人で連絡取り合って、重ならないようにしてね。マネージャー稼業は忙しいから、なかなか時間を取れないと思うけど」
 二人は顔を見合わせて、うれしそうに笑った。睦子が、
「遠慮します」
「私も。女のからだは危険物ですから」
 池袋駅前の有名店らしいラーメン屋で、味噌ラーメンとギョーザを食べ、東口の信号前で別れようとすると、睦子が、
「私たちこれから映画を見て帰ります。神無月さんもどうですか」
「いや、ぼくはいまから神田の古本屋街を回って帰る」
 詩織が、
「あしたの練習にちゃんと出てきてくださいね」
「昼までにはいく」
 睦子が、
「リーグ戦終了まで紅白戦はありませんけど、ブラバンと応援団も、バトンに混ざって練習するそうです」
 二人で浮きうきとテアトル池袋のほうへ去っていった。
         †
 山手線のホームでばったり一戸とおるに遇った。友人と二人でいた。むこうは気づかなかったが、私が気づいた。眼鏡をかけているので確信はなかったが、近づいて声をかけた。
「一戸くん?」
 彼はびっくりして私の顔を見た。まちがいなくヘミングウェイを暗誦していた男だ。
「ぼく、神無月」
「わかってるよ。おまえの顔を知らないやつはいない」
 一戸は眼鏡を押し上げてあらためて私を見た。下駄とダッフルもめずらしそうに見る。同伴の男が尋く。
「一戸、おまえ北の怪物の友人か」 
「友人てわけじゃないが、同級生として知ってる。……神無月、おまえ麻雀打てるか」
「打てない」
「そうか。いまから渋谷の雀荘にいくところだ。じゃな、リーグ戦がんばれよ」
 それだけだった。無性にさびしかった。
「見学してもいいか」
「いいけど、麻雀を知らないなら退屈だぞ。昔話をしてる暇もないしな」
「少し見たら帰るよ」
 彼らと同じ電車に乗った。同僚が私と口を利きたそうだったが、私のガタイの大きさに気圧されてか話しかけてこなかった。
 渋谷の駅前に出て、小さな雀荘に入った。ポケットに五万円入っていた。
「基本的なことしか知らないけど、混ぜてくれないか。五万円ある。迷惑がかかるようなら途中でやめるから」
 横地、山崎さん、あの天才たちのようには打てないけれど、牌を切る作法とリズムはわかっている。役は横地のくれた実用本で覚えた。得点の計算はうろ覚えだが、彼らが率先してやってくれるはずだ。それ以前に〈上がる〉ことのほうがめずらしいだろう。五万円を使い果たすつもりになった。
「打てないと言ったろ」
「うん。じょうずに打てない。じょうずにできないことは、すべて〈できない〉ことの範疇だ。チョンボというのをするかもしれない。でも、頭が回らないからかえって迷惑のかからないスピードでできる。適当に切ればいいわけだから」
「謙遜するな。二番入学だからな。頭のキレはいいだろう」
「そんな情報、どこから入ったんだ」
「新聞だ」
「デマだね」
 ゲームそのものに僥倖を期待する気分はまったくなく、学生の中に横地や山崎さん以上の〈手だれ〉がいるのかどうか確認してみたいという淡い興味があった。それ以上に、一戸を異能者集団の象徴に据えたかつてのなつかしい思いが頭を占めていた。どんな麻雀を打つのだろう。
 七つ、八つの雀卓に真剣な顔が貼りついていた。卓が空くまでしばらくソファに座って彼らの表情と牌さばきだけを観察した。髪をポマードでてらてらさせた店主らしき中年の男が、一勝負始まるごとに、
「ゲーム代!」
 と声をかけて料金を徴収する。そのときに注文を受けた食い物や飲み物を、ラビエンのバーテンのようなチョッキを着た若い店員たちが、卓のあいだを忙しく飛び回りながら配っている。ピンの十・二十、と賭け金らしきものが壁に明示してある。意味がわからないので一戸に尋ねると、
「千点百円。ウマ、三着は持ち点より十マイナス、四着は二十マイナス、二万五千点持ちの三万返しだから、点棒を使い切ってハコテンになると五千円払い」
 と教えた。ウマの意味は不明だった。横地とやったときは、たしか賭け金はなかった。飛島寮のハコテンは千五百円だった。五千円は高すぎると思ったけれど、五万円あるのでだいじょうぶだろうと皮算用した。場ちがいなところへきてしまったと思う間もなく、ふらりと入ってきたフリーの学生客一人といっしょに、学生同士の卓へ案内された。学生の卓と聞いてホッとした。賭け金が安くなると思ったからだ。甘い考えだった。フリーの学生は一戸たちと顔見知りのような笑顔を交わした。
「レート、わかってる?」
 その学生が壁を指差す。
「あれと同じですか」
「あたりまえだろ。雀荘に学生もサラリーマンもないからな。それから、あれもな」
 もう一度、壁の貼紙を見た。役満御祝儀―自模(つも)三千円通し・栄和(ろん)三千円。
「ヤクマンをツモ上がると九千円、一人から当たると三千円」
 すぐ五万円がなくなりそうだった。
 壁にぐるりと役満達成者の名前を書いた紙がピンで留めてある。東西南北の牌のつかみ取りで場を決め、私は北(ぺー)になった。ゲーム開始の会釈を交わし、東を引いた仮親(かりおや)がピチッと張った白い布の上にサイコロを振る。ものすごい緊張感だ。サイコロが五と出て彼が正式な親(起家(チーチャ)と言うらしい)と決まり、次に九とつづいてドラというものが決められ、どういう勘定かわからないが彼の牌山から四枚ずつ取っていき、最後に親がチョンチョンという作法で二枚、子供が順に一枚ずつ取る。親の切り出し、次の者のツモ、切り出し、圧倒的なスピードだ。並べた牌を吟味している暇もない。これで同年輩の学生なのか。そればかりでなく、彼らの手さばきや打ち回しの腕が、横地や飛島の人たちよりもかなり上回っているとすぐにわかった。何もできないうちに、一局、二局、三局と進んでいく。
「ザンク」
「マンガン!」
「クンロク」
 などとかけ声が上がる。折おりの彼らの冴えた会話や、得点計算の猛烈な速さから、一人一人が及びのつかない知能の持ち主に見えてきた。おたがいが顔見知りのようで、親しげに冗談を言い合ったりもする。私は顔が熱くなり、何も考えられなくなった。東のラストの私の親はあっというまに蹴られた。
 ただ、ここまでの一戸たちの会話から、かなりの麻雀用語を確認できたり、覚えたりできたことはうれしかった。マンズ、ピンズ、ソーズ、中張(チュンチャン)牌、ヤオチュウ牌、ポン、チー、テンパイ、リーチ、ドラ、裏ドラ、トイメン、上家(カミチャ)、下家(シモチャ)、それから、シュンツ、アンコ、トイツ、アタマ、タンヤオ、チャンタ、ホンイツ、チンイツなどといった用語はぼんやり知っていたが、洗牌(せんぱい)、リーパイ、数牌(シュウパイ)、字牌(ツーパイ)、風牌(フォンパイ)、三元牌、リンシャン牌、ハイテイ牌、オタ風、場風、メンゼン、カンサキ、アリアリ、食いタン、河(ホー)、仮東(カリトン)、王牌(ワンパイ)、数え役満、トップやめといった言葉は知らなかった。
 南場もすみやかに過ぎ、オールラストのサイコロを振るころには、私は持ち点のほとんどを失い、二万五千点持ちのうち千百点しか残っていなかった。このまま終わってしまうと、場代五百円と合わせて、五千四百円を奪い取られることになる。なんという力量のちがいだろう。私はぼんやり卓の上を見つめた。
「おい、親、早くツモれよ」
 私はあわてて四牌をツモった。だれかに打ちこんでこれ以上沈んだときの意気消沈を危ぶんだ。私は心の中で呟いた。
 ―とにかく金がなくなるまでやろう。すべてハコテンでも、ヤクマンを喰らわなければ五ゲームはできるだろう。


         百六十七

 リーパイをする。幸運が訪れた。北がアンコで、東・南・西がトイツ、サンピン・スーピンとイーソ・ローソ・キュウソの順子(シュンツ)。小四喜(ショースーシー)ができ上がりかけている。チャンタを疑われないようにキュウソから切り出した。トイメンの眼鏡の学生からすぐに西が出て、ポン。イーソを切る。オタ風を鳴いたせいで、ホンイツに見られていることが彼らの表情からわかる。字牌は出にくいかもしれない。と思っているところへ北を引いてきて、カンをした。ワンパイからウーピンを引き入れる。ローソを切って、東と南のシャボでテンパッた。
「やな感じだな。でも四喜を狙ってるやつが、わざわざカンするはずないよな。まだ四巡目だし、いいか」
 私に西を鳴かせたフリーの学生が呟いて、トップを走っている気安さから躊躇なく南を切り出した。
「ロン―四万八千点」
 抑えた声で言った。フリーは私の手の内を見ると、ヒェーと叫んだ。
「トップやめにします」
 マグレだとわかっているので、早く帰りたくなった。勝ってみると、大しておもしろいゲームでもない。これ以上いても一戸と会話をするチャンスもなさそうだった。てらてら髪のマスターがやってくる。私は名前を尋かれた。彼は短冊に神無月郷様と墨書きし、壁にピンで留めた。卓の上に勝ち分とは別にフリー学生の三千円が投げ出された。彼は渋い顔をして、
「きみのだ、取れよ。俺は浪人の××、こいつは文Ⅲの××、そっちも文Ⅲの一戸。三冠王と打てて光栄だったよ」
 一戸の連れが、
「しかし、神無月選手は麻雀強いなあ。オーラスまで寝たふりして、反則だぜ」
 一戸が、
「カンしたのはさすがだな」
 口々に褒めそやす。
「カンをしたのは、一牌でも多くツモって早くテンパイしたかっただけです。深読みしてもらってラッキーだった」
「勝ち逃げはないだろ。でも、あしたは練習か。来週の土曜日から秋季リーグ戦だものな」
 一戸が、
「青高から文Ⅲに山内と鈴木がきてるはずだけど、知らない?」
「鈴木睦子は野球部のマネージャーだし、山内とは同じクラスだ。きみが理Ⅰをやめて文Ⅲに転部したがってることは彼から聞いた」
「ごらんのとおりさ。小説を書きたいんでね。色川武大にぞっこんだ」
 美しい文章を書く麻雀作家だ。
「文学部にいかなくたって、小説は書けるだろう」
「才能があればね。まずは学問的になぞっておく」
 神童のなれの果て―この男は、芸術家にはなれない。英語の暗誦が得意な異能者というのがせいぜいのところだ。これで一戸とは永遠のお別れだ。
「じゃ、これで失礼します。お付き合いしていただいたので、勝ち金はいりません。ゲーム代を払っておいてください」
 雀卓の上に紙幣を残したまま外へ出た。
         †
 電車の窓からビルの彼方に薄い藍色の夕映えが見える。ネオンの反映だろう。異能者たち……彼らとは、出会いの最初から対話の種などなかったのだ。惨めな思いに満たされる。
 ―たぶん、常にこの空と、この座席だ。十年後も、二十年後も、ひたすらこのときがあるだけだ。時間はまるで川のようだ。どうあがいても、ねじ伏せようとしても、止まることなく流れていく。私には流れを見つめる岸辺の一席が用意されているにすぎない。
 三冠王、ヤクマンか。ただの幸運だ。マグレは永遠にはつづかない。ここまではじつにいい流れだった。マグレの連続する夢見るような生活だった。
「夢の日々はどこにいった? 夢の日々にどんな意味があった?」
 そう思い返すときがかならず訪れるだろう。そして永遠に答えが出ないだろう。たしかに私は生き延びてきた―なんとか。大したことじゃないと関所関所で思ってきた。しかし大したことだった。だから私は人の何倍も老いた。いつのころからか、鏡を見ると、あのころの私とは似ても似つかない見知らぬ男がこちらを見つめるようになった。
 クマさん、小山田さん、吉冨さん、荒田さん、デブシ、関……親しい人たちが去っていった。私の前から一人ずつ消えていった。さぶちゃん、神無月大吉、サトコ。私が生きてきたのは彼らに別れを言うためだったかもしれない。いまの私を作った場所にも泣く泣く別れを告げなければならなかった。海、坂道、メンコやビー玉をしまったベッドの抽斗、学校、街。あのころに戻れたら、私は別の生き方をするだろう。
 カズちゃん、山口、寺田康男。いまも私といっしょに生きている人びと。私は大きな過ちを犯した。―希望を持つということ。希望を棄てない愚かさと浅はかさを省みないということ。彼らに私の愚かさと浅はかさを謝罪するためにも、私は生きつづけなければならない。魔法のように希望が実現すると信じながら、謝罪し、償う時間はある。まだ私は見果てぬ夢を追いつづけているけれども、生きているあいだそのことを彼らに謝りながら生きるのだ。私は私の夢に巻きこんだ彼らをけっして捨てない、彼らからけっして逃げない、叶うまで夢を見つづける私を無敵と信じて、いっしょに夢を見つづける彼らの幸福をけっして壊さない。彼らの苦しみは私が引き受ける。心が過ちの記憶を呼び戻すとき、疲れた目にさまざまな光景が浮かぶ。そしてまだ先があると気づく。そのすばらしさに勝るものはない。
 こうしているうちに、いずれ私も消えるだろう。消えてしまうまでに言いたいことが山ほどある。恥ずかしいことだが、私がだれかに謝罪したことは一度もない。人に不愉快な思いばかりさせてきた。青森高校でホームランを何本も打って、人びとにもてはやされはじめたとき、小学校以来の野球生活を思い返し、私は重要な疑問に直面した。長いこと私が目を背けてきた疑問だ。
 ―いったい私は何を成し遂げたのだろうか。
 私の希望は冒頭から結末が読める単純なものだった。成功か挫折か。人びとの人生と同じだ。だれもが薄々結末を読んでいる。しかし途中のあらすじは……だれも読めない。
 序章はひどかった。半ばの章も大半はだめだった。捨て鉢になった。しかし愛ある人びとに救出された。寺田康男、クマさん、小山田さん、吉冨さん、荒田さん、加藤雅江、久住先生、山田三樹夫、奥山先生、西沢先生、相馬先生、山口勲、そしてだれよりもカズちゃんに。彼らの拍手と援助のおかげで、結末の読める人生でも、幕を下ろすのはまだ早いと気づくことができた。物陰から顔を出して未来を覗くのではなく、情熱に油を注ぎ、自分の弱さを燃やしながら、彼らの賛助に恥じない人生を堂々と生き切ると思い直した。彼らとの人生は始まったばかりなのだ。
 十時を回っていた。井之頭線で渋谷から神泉まで一駅戻り、詩織のマンションを訪ねる。きょうも女のもとへいく。女の人生を奪いにいく。彼女たちの日々のすべてが人生の織物の一部として残っていく。好ましかったはずの人生模様が、私の編み棒に荒らされる。荒らされるのも彼女たちの人生の波乱という名の均衡なのかもしれない。私はがんらいそんな均衡に関心がない。幸不幸のない均一な人並みの人生に未練がある。しかし、他者の人生を踏み荒らす者の立場になってしまった。彼女たちを苦しめるのがなぜ私だったのかという疑問。その疑問への答えはない。
 すべてをなげうって、私と女たちの均一な人生を回復しなければならないといつも考えている。少なくとも、彼女たちを幸福な者にしなければならないと考えている。私のしていることは〈失敗〉と呼ばれるのにふさわしいことだけれども、失敗を繰り返しつづけている。あらゆる他人の失敗を並べて警告されても、人はまた自分の失敗を選ぶ。馴れ親しんだ失敗だからだ。……血の呼び声が失敗であるはずはない。そう信じることで救われるのは、私を愛する女たちではなく、私だろう。彼女たちは救われていない。自分をずり落ちた壁掛けの絵だと思う。彼女たちの理想の位置からずり落ちた壁絵ならば、もとの場所に掛け直すのが正しい行いなのだろうが、私には、ずり落ちた場所に置かれるのがいちばん幸福に感じられる。ずり落ちた私を愛する女たちにいつも眺めてもらえるからだ。ずり落ちた場所で幸福であるからには、もとの場所に掛け直される必要などないと考えるのは私だけの理屈だ。私の幸福のために彼女たちは築いてきた理想をあきらめている。それが幸福だと錯誤しながら。
 ドアをノックすると、覗き穴でも見たのか、
「きてくれた!」
 とドアの向こうで叫ぶ。ドアを押し開け、抱きついてきた。
「好き、好き」
 と言いながら両腕を腰に回す。きょう睦子と三人で道を歩いていたときの様子とまったくちがう。長い口づけをする。
「話しだけしにきた。きょうはそういう気分じゃない」
「神無月くんの心のままに。こうしていられれば、私は幸せ」
 居間のテーブルにつく。詩織は台所に立ち、
「カレーです」
 またか。鍋をかき回す姿が女らしい猫背だ。八坂荘で胸を張って味噌汁をかき回していた吉永先生とは似ていない。香ばしいにおいがした。
「ひょっとしたらと思って、まだ食べないで待ってたの」
 法子のヤナギカレイ。いっしょに食卓につく。体力のためと思って、ゴロリとした肉のかたまりを噛む。
「お、うまい」
「でしょ。カレーは自信があるの」
「神田にいくつもりが、青高の一戸という同級生に遇って、麻雀を打ってきた」
「どうでした?」 
「マグレで勝ったけど、空しいな。だれとも知り合いにならなかった。もともと一戸とも知り合いというほどのものじゃなかったからね。ギャンブルの場で友人は作れない。でき上がっていた友情でさえ崩れるかもしれない。ギャンブルは苦手だ。根本的な頭の悪さを思い知らされる。男は頭だと言ったおふくろは、こういう頭がこの世にあることを知らなかっただろうな」
「……それで、好奇心は満足しましたか?」
「うん。麻雀というのはパチンコや競馬とちがって、独特の緊張感がある。長考は許されないし、得点計算を素早くしなくちゃいけない。手役も臨機、変えていく必要がある。効率重視のゲームだ。とにかく頭が追いつかない」
「神無月くんが知的な緊張感を嫌ってるなんて、だれにもわからないでしょうね」
「ただの劣等感だよ。自分の根本的な頭の悪さに対するね。知識や教養をだらだら振り撒かれるのにはイヤ気を感じるけど、頭の回転を見せつけられるのも刺激が強すぎて好みじゃない」
「才能を見せつけられたときはうれしいんでしょ? 野球でも文学でも音楽でも」
「そうなんだ。からだがふるえる。人間の神秘を目にするときの緊張感には、最大級の幸福感まで加わる。その幸福感の一部が芸術になる」
「一部って?」
「神秘を感じる歓びから派生する、やさしさ、心遣い、不安、悲しみ、深い愛情……それが芸術だと思う」
「不安や悲しみも、幸福感の一部なの?」
「そう、人間特有の幸福だ。人に序列をつけるアタマの輝きは神秘に思えないから、幸福な気持ちをもたらさない」
「……そういう考え方、すばらしいわ」
 寝室を眺める。
「お、ちゃんと万年布団敷いてるね」
「うん。ときどき上げて干さないとカビが生えるのよ。畳もふにゃふにゃになっちゃう。知ってた?」
「知らなかった。ぼくの蒲団も帰ったら干さなくちゃ。……このカレー、うまいな」
 福神漬けとラッキョをたっぷり添えたじつにうまいカレーだ。
「ビーフカレーはたった一つの得意料理なの。アク取りとルーの配分なんですけどね。ルーは辛口三種類」
「ほんとにうまい。なぜ生協の料理人は、こういう味にできないんだろう。市販のルーを三つ入れただけだよね」
「そう、それと、ルーを入れる前の肉と野菜の煮物から根気よくアクを取ること。大食堂の賄いさんは、人を喜ばせる気持ちがないんだと思う。最初の肉と野菜を炒めるところから丁寧にやらないと」
 二人とも額と鼻に汗をかきながら二皿食う。食後にフィルターでいれたコーヒー。
「うまかったなあ。まだ舌が求めてるけど、腹がいっぱいだ。詩織は卒業したら、クニへは戻らないんだね」
「そう。……ついこのあいだまでは、神無月くんが中退することになったら、私も中退するつもりだったんです。神無月くんがいなくなったらガッカリしちゃうから」
「中退はやめにしちゃったんだよね?」
「はい。女の東大中退なんてツブシが利かないんです。卒業したぐらいじゃ、高校の先生あたりしか勤め口はないし、小学校や中学校の先生になる人もいるけど、あまり小さい子は相手にしたくない。結局東大へいく女って、いくだけで終わりっていうのがほとんど。東大の男もたいていそうだけど。とにかく卒業して、東大の大学院へいきます。学問をしながら、プロ野球選手の神無月くんをいつも待つ―最高の人生ね。どういう学問をするかまだ決まってないんだけど」
 食器を片付けにシンクに立っていく。いじらしい背中。後ろから抱き締める。
「東大の女は、みんなツンとして気取ってるのに、詩織はぜんぜんちがうね」
「女にかぎらないわ。自分を売る用意をしてる人間は、ツンとするんです。傍目ばかり気にしてるから。自分以外を見ようとしないってこと。私だって同じ時代があったからわかる。そんなことするのが空しくなる人に出遇わないかぎり、変わらない」
「詩織を空しくしたのが、ぼくだってわけ? ちがうな。ぼくは自分を売ろうとすることは早いうちにあきらめたし、また、人の視線も気にしたことはないけど、むかしから自分しか見つめてないよ。他人との関係性の中で生きる自分のことばかりいつも考えてる。そういうエゴイスティックな男に出会ったからって、自分が空しくなるのはおかしい」
「神無月くんが見つめてるのは、自分のことじゃなく、人のことばかり考える自分よ」
「どういうこと?」
「こうやって、私に会いにきたでしょう? 自分じゃなく、他人との関係性の中で生きる自分を見つめるために。それは他人を幸せにするためってことよ。池袋からそのまま帰ったってよかったんじゃない? 練習や紅白戦で疲れてるんだし、他人を幸せにするなんてできれば避けたいことよね。だから、きてくれた! って、私叫んだの。そういう行動って、自分を売ることじゃないし、自分しか見ようとしないということとはぜんぜんちがうわ。自分がどんなふうに人に役立つか、そればかり考えてるのって、エゴとは言わないと思う。エゴどころか、神無月くんは人のことばかり考えるようになったから、自分がいなくなっちゃったのよ。存在してないのと同じ。そのいなくなった自分ばかり、さびしく見つめてる。……すごい人だわ。でも、そんなことは関係ないの。神無月くんて、基本は男にも女にもモテない人よ。知らなかったでしょ? 存在自体がおっかないというか、不気味だというか、シャクだというか。自然児なのね。それは、神無月くんの視線が自分自身に向いてるときにも、自分以外に向いてるときにも、木や花みたいに変わらないということよ。つまり、生きているけれど徹底して植物的なの。神無月くんにしっくりしないものを感じる人は、神無月くんにふるえない人間ね。ふるえないと、逆に神無月くんに違和感を覚えちゃう」


         百六十八

「言いたいことがよくわからないけど、ぼくには自分の頭の悪さに対する底なしの絶望がある。だれだって頭がよく生まれたかったろうけど、ぼくには叶わなかった。それが諦念にもなってる。つまり、頭が悪く生まれたから、遺伝子の引っ張り合いと、反発のし合いでしか生きられない。詩織の言いたいのはそういうことかな」
「また天然なこと言って。でもそういうところなのよね。そういうのを頭が悪いって思う人にとっては、神無月くんのような人間は頭が悪いって定義されるんでしょうね。私のような人間には、天才にしか見えない。……神無月くんが付き合ってる人たちって、きっと天才を生理的に好きな人たちね。一人一人が、神無月くんと似たような、天然の人たちなんだと思う。……とにかく神無月くんには、打ちのめされちゃうの。自分の存在価値を疑って空しくなるほどよ。気づかない人間は、まったく気づかないけど。神無月くんのぜんぶの女の人たちに会ってみたい。どんな人たちなんだろう」
「口やかましくない、不満も言わない、明るくて、笑い好きな女たちだよ。でも、いざ会ったら嫉妬しないかな」
 詩織は私の両頬を手で挟み、
「……きれいな目。やさしくて、穏やかで、何でも透視するような目。私が傷つくのを心配してるのね。嫉妬なんてしません。そういうレベルの感情では、神無月くんに対処できないもの。セックスにしてもそうよ。してもらって心からありがたいと思うもの。大事なものを分けてもらったっていうか、自分じゃ掘り出せない宝物を掘り起こしてもらったというか。嫉妬なんかする人は、恩知らずじゃないかしら」
「みんなぼくを誉めようとする。このごろでは、誉められるかさばりのある人間のふりをして黙って聴いてることに決めたんだ」
「それは誤解ね。曲解かもしれない。神無月くんのことを誉めようなんて、だれも思ってない。ほんとうに神無月くんの心は大きくて、深みがあって、温かさがあって、さわやかなんです。何人もの女の人と関係してる生活って、ふつうの人にはきれいな感じはしないかもしれないけど、神無月くん本人は清潔に感じてることがよくわかる。だから、抱かれると、きれいな心でこちらの心もきれいにしてもらった感じがする。そういう不思議な人に、これまで一度も会ったことがなかった。あたりまえよね、自分のことを考えないときに心の魅力って出てくるものだから。だれだってそうだけど、自分のことを考えるとそのとたんに心が固まって、不自然な、醜いものになるんです」
 私の顔をじっと見て、フフと笑い、
「キョトンとしてる。私は心の底からそう思ってるんです。現代の〈若い老人〉たちのあいだではめったにお目にかかれないような、いさぎよい心と、ほんとうの若さが神無月郷のからだには詰まってるの。驚くほどの純情と無目的! 詩を書いているというのも、何の疑問もなくうなずける。神無月くんは神秘を感じる喜びって言ったけど、心とからだの不思議を受け入れて生きるのって、エネルギーが必要なんです。もともと打ちこめるものがあってこそ、心もからだもエネルギッシュに生きられるんだと思う。私も、神無月くんのようなエネルギーの素を持たないと」
 詩織は冷蔵庫から缶ビールを二つ持ってきた。私は二息で思い切り流しこんだ。詩織も同じようにする。
「野球部のマネージャーじゃエネルギーの素にはならないの?」
「団体行動はいっときの青春にすぎないわ。個人的な一生の仕事……自分の素質を生かすような」
「もともとエネルギーの素がないなら、見つけようとしないほうがいいんじゃない? エネルギーの素なんて偶然現れるものだよ。現れなければ、与えられた環境の中でたまたま気に入ったことに全力を注いで生きる情熱をエネルギーにすればいい。山口のギターのように、ゴッホの絵のように、エリ・ヴィーゼルの小説のように。それで大勢の人びとの魂を救えるなら、とんでもない幸運だ。気に入ったことがないなら、自分を捨てて、愛する人びとのために全力で生きるようにするしかない。ただ、愛すると苦しいし、悲しい。人を愛さなければ苦しみや悲しみにつけ入られる隙はない。でも、苦しみも悲しみもない人生なんて、砂を噛むように味気ない。……苦しくなりすぎたら、ぼくに手を振っていいんだよ。冷えてきたね。少し眠くなってきた。あの蒲団でうとうとさせてもらうよ」
 服を脱いで下着姿になり、寝室にいって詩織の万年布団に潜りこんだ。
「私も、お腹がいっぱいになったら眠くなっちゃった」
 パンティ一枚になって寄り添ってきた詩織の胸にしがみつきながら、暖かい蒲団にくるまれたとたん、耐えがたい眠気が襲ってきた。詩織も同じらしかった。私を抱き締めながら無言になった。二人で前後不覚に眠った。
         †
 朝、額にキスをされて目覚めた。神宮前の旅館―。永遠に消えない朝。
「映画の中みたいに平和な目覚めだ!」
「感謝のキスよ。神無月くんがわがままを許してくれるから」
「わがままなのはぼくのほうだ。だれでも引きずりこむからね」
「それが許すということ。引きずりこんでるふりをして、こちらの望みどおりにしてくれる。それも手当たりしだいじゃないわ。近寄る人は引きずりこむけど、遠くで眺めてる卑怯者は放っておくのよ。神無月くんを愛する人を引きずりこむのは許しそのもの、眺めてるだけの卑怯者を放っておくのも許しの一種でしょう?」
「一部の人間を執念深く許してないことに、ときどき気づく……」
「悪さをした人に復讐をするのも、まぎれもない許しよ。だって、悪から解放してあげるんだもの」
 目玉焼きと板海苔をリクエストして、うまい朝めしを食った。
「簡単な注文で、うれしい」
「これに白菜の浅漬けがあったら満点だ。米抜きの食事はいやだ。食事のまね事をしているような気がする」
 二人でシャワーを浴び、下着を替えた。
「映画の帰りに睦子さんに言われたんです。いつ神無月くんがきてもいいように、下着は五組ぐらい買っておいたほうがいいって。神泉の商店街で買って帰ったの。神無月くんが神田の帰りに寄るって予想してたんですね」
「だろうね」
「早く神無月くんの世界をぜんぶ知りたい」
「小さい世界だよ。女が多いだけで」
「その一人ひとりの世界を足し算すれば、神無月くんの大きな世界です」
 交代でゆっくり大便をする。幼いころから私の便は、大きさも長さも小指大の柔らかいものが数本出るだけだ。さもなければ腹痛を伴わない下痢だ。カズちゃんはこの便を見て悪性の病気を疑ったが、その後も何回か確認して、体質的なものだと納得した。
「栄養をぜんぶ搾り取って、これだけ出すのね。でも、いいにおい。赤ちゃんのウンコみたい」
 と言って微笑した。詩織といっしょに渋谷駅まで歩き、山手線で池袋へ出る。
「たっぷり寝たからだいじょうぶですね」
「だいじょうぶ。起きるまで一度も目覚めなかったから。あ、そうだ、あしたまでに帽子を二個追加しといて。まだ新しいのがあるんだけど、この秋、毎試合汗の乾いた帽子をかぶりたいから」
「はい。……きのうの晩の神無月くん、へんだったわ。苦しくなりすぎたら手を振ってサヨナラしていいなんて……。私の感覚は異常じゃありません。何がほんとの苦しさかは知ってます」
 農学部正門から東大グランドに入る。睦子が走ってくる。私たちがいっしょに登校してきたのではなく、正門のあたりでたまたま出会ったと思っている笑顔だ。もしそれが睦子の意識的な振舞いなら、大きな度量がうれしい。
 応援団の蛮声が聞こえる。学生服に白鉢巻の連中がスタンドに整列し、何やら天に向かって唱和している。その後方のベンチを雛壇にして、バトンガールが十人余り、懸命にバトンダンスの練習をしている。ときおり黄色い叫び声を上げる。黒屋が手拍子を打っている。別の区画にブラバンがこれも二十人ほど腰を下ろして、楽器の調整をしている。記者やカメラの数が多い。睦子が、
「マスコミがうるさいから、リーグ戦までの練習は短く切り上げるようにって監督が言ってました」
 走って部室に入る。レギュラーがほとんどいる。克己が、
「バシャバシャうるさいんだ。金太郎さん、一週間はなるべく早めに切り上げたほうがいいよ。レギュラーと準レギュラーも、適当に練習したら、用具の確認だけして帰ることにした。遅くまでの居残り練習は補欠のみ」
「わかりました。適当にやります」
 ユニフォームに着替え、七十キロのバーベルを十回上げ、ストレッチを入念にやってからグランドに出た。バーン、とブラバンの演奏が響きわたり、応援団、バトンガールがいっせいにパフォーマンスを始めた。バトンなしの白手袋だけの女も半数ほどいる。目を瞠った。みごとな調和だった。
 一連のメニューにまじめに参加する。特に素振りを入念にした。監督命令で、レギュラーたちが車座になってその素振りを見学した。フリーバッティングでは低目の掬い上げを三十本披露した。掬い上げは打ち上げではなく、叩きつけだということをしつこく言いながら打った。肘の手術から七年近く経つ。七年経てばすべてが変わる。肘の治癒に触発されたわけではなく、目的がシンプルに統一されたせいで、私は空虚な自分を捨て、空虚でない他人と親和する人間になった。他人と戦わずに、自分と闘う人間になった。
 一足早く練習を切り上げて私服に着替え、まだグランドにユニフォーム姿でいる仲間たちに挨拶をする。フラッシュが連続して瞬く。スタンドの睦子と詩織に手を振り、逃げるように正門を出る。使いこんだ野球帽に愛着が湧き、宮中のときのように汗染みをタワシで洗い落としてみようと思ってダッフルに入れた。通りがかりに金物屋があったのでタワシを買った。
 汗染みは簡単には落ちなかった。タワシで少し毛羽立ってしまったので、洗面器に水を汲み、熱湯を注いでぬるま湯にし、洗濯洗剤を落として手洗いした。やさしく押しながら洗った。ツバの部分が折れないように気を使った。外側に染み出した汗と内側の折れ目の部分は歯ブラシでこすった。染みが落ちた。湯を替えて押し洗いをもう一度した。最後に水で押し洗いをして、洗剤気を抜いた。バスタオルで水気を取り、小ザルにかぶせて裏の隘路に置いた。じつに面倒な作業だが、こうするしかない。クリーニング屋に、帽子を洗えるかどうか確認してみよう。
         †
 九月六日金曜日。曇。ワイシャツに綿パン、下駄。曇り空だが傘は持たない。アーケードのクリーニング屋に寄り、野球帽を洗えるかどうかを訊く。
「洗えます、特別料金になりますが」
 と答えた。
「わかりました、どうも」
 と言って出る。心配ごとが一つ減るのはささやかな幸福だ。サブちゃんの五十円玉。それを見つけたことがどれほどの幸福感をもたらしたかをしみじみ思い出した。
 東西線の早稲田駅で降りて、早実の金網塀沿いにあてずっぽうで歩き、時計台を見上げながら開放門に出る。門前の通りに男女の学生たちがうろうろしている。一度しかきたことがないのに、あたりの風景になぜかなつかしさを感じる。二歳のころに母が何度か連れてきたのかもしれない。太陽だったころの母―。
 開放門の向こう、大隈侯像の前で男たちがたむろして待っていた。近づいていくと、
「おう、まちがいなかぞ! 神無月や」
「握手!」
 五、六人の男たちが手を求めてくる。堤が、
「おまえら、畏れ多いぞ。神無月くん、こいつらが中野の両関で会ったやつらだ。東大生よりおもしろいぞ」
 打ち揃って高田牧舎というレストランに入る。
「うん?」
「どうした。この店は気に食わないか?」
「いや、名古屋西高時代の友人がいる」
 中二階の席で、あの水野がめしを食っていた。こちらに気づいていない。
「声をかけたほうがいいんじゃないのか」
「そうだな」


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