二十八

 原田さんが尊敬する岡本所長は、四十格好の東大出の一級建築士で、愛想のいい笑顔とは裏腹に、いつも他人と距離を少しあけておくような態度をとる人だった。彼が遠く離れているときは、茶色っぽい醒めた顔つきと、首のところまでボタンをかけた制服と、だぶだぶのカーキ色のズボンと、それと組み合わせに履いている大きな黒革のブーツだけが目立った。もともと地金がよくて、上に立つべき人間だから上に立ったのだという様子ぶりに、私はなかなか親しめなかった。
 原田さんをのぞいた社員たちは、岡本所長をどこか敬遠しているふうで、いっしょにしゃべったり酒を飲んだりしているところを一度も見たことがなかった。何より所長が食堂に腰を落ち着ける姿を見たことがなかった。彼はいつも、ワイシャツに黒いベストを重ね、事務所の大きな椅子に座っていた。昼食には弁当を用意していて、それだけは食堂に持ってきて食べた。母が味噌汁やお茶を用意した。
「訓戒まじりじゃ、酒の味も極上といえないからなあ。飲み相手は、いくらか軽っこくてはしゃいだところがないと、悪酔いしちまう」
 と小山田さんが言っていたことがある。私は、別に岡本所長のことを嫌いではなかったし、嫌いだと思うほどの関心もなかったけれども、何かの拍子で彼がそばに寄ってくると、その目の動きから自分がぜんぜん視野に入っていないような感じがしたし、かえって視線を向けられたりすると、自分が虫眼鏡で見つけられた昆虫みたいな気がした。
「東大というのは、もともと頭のいい人が、座布団が腐るほど勉強しないと入れない大学なんだよ」
 母は心の底から尊敬したような声で言う。座布団が腐るという言い回しは、東大に関してよく耳にするたとえで、私にはいまひとつ現実味が感じられなかった。
「ぼくも東大に入れる?」
「……さあ、ときすでに遅しじゃないの。もっと小さいころから勉強一筋でないと」
 母の言葉に当てはまるのは、守随くんや鬼頭倫子のことにちがいなかった。土方たちの質のいい頭とはまったくちがう種類の頭のよさというものに、ちょっぴり興味が湧いたけれども、母のありきたりな言葉を反芻しているうちに、急にその興味も醒めた。
 ―野球をするのにそんなもの関係ない。ぼくは中京商業から中日ドラゴンズに入り、そして、ホームラン王になるんだ。
 しかし、名古屋にきてからというもの、母にかぎらず、だれもかれも何かことあるごとに、東大という言葉を口にした。
「原田さんはゲンエキのとき、東大の一次試験に通ったんだって。大したもんだね」
 とか、
「岡本所長は東大の建築科出身で、一級建築士を持ってるんだよ」
「じゃ、とうちゃんといっしょだね」
「大ちがいだよ」
 どこがどうちがうのだろう。あるいは新聞をパラパラやりながら、
「アサヒガオカから、今年東大に五十人も入ったんだって」
 などと言ったりする。千年小学校の先生や同級生たちでさえ、
「守随や鬼頭は将来、東大にいくだろう」
 というふうに、並すぐれて頭のいい人間の未来を象徴する代名詞として、よく東大を引き合いに出した。そのたびに私は、見知らぬ権威に対する原始的なあこがれといったようなもののせいで、胸がドキドキした。そして、ゲンエキとか、一級建築士とか、アサヒガオカとか、その正体がどういうものかはわからないまま、遠いところにある頭脳(あたま)の登竜門として、東大という固有名詞を記憶した。そして、東大がおそらく日本中の勉強家の最終的な目標になっていて、守随くんや鬼頭倫子のような大勢の秀才たちが、毎日せっせと勉強するのは、結局、東大に入りたいからなのだという結論に達した。私は母に言った。
「クマさんも吉冨さんも荒田さんも、東大にいってないけど、とても頭がいいよ。酒井さんの飯場の人たちだって、すごく頭がいい。でも、東大にはいってないし、いかなくたって、ちっとも不便じゃないみたいだ」
 母は一抹の恐怖心のようなものを眉間に閃かせて、
「不便じゃないだけで、それ以上の便利なものは手に入れられないだろう?」
「じゃ、東大にいくと、便利なものが手に入るの?」
「いちいち神経にさわることを言う子だね。お金だって、名誉だって、ハナグスリだって、ぜんぶ手に入るんだよ」
「ハナグスリって?」
「袖の下だよ。べつにそんなもの、あてこむわけじゃないけど」
「ふうん。プロ野球選手も、お金と名誉が手に入るんだから、東大と同じだね」
「野球なんて、ヤクザな商売だ。なんせアタマじゃなくて、あてにならないカラダが資本なんだからね。おまえの考え方はマトモじゃないよ。そういうのを負け犬の遠吠えって言うんだよ」
 私は自分の考えをぜんぶ否定されたような気がして、心がざらつき、何もしゃべりたくなくなってしまった。
         †
 毎日野球部が退けて帰ると、私は充実した気持ちでスチール机に姿勢を正し、まじめに本を読むようになった。それは一種の勉強だったにちがいないけれども、母たちの価値観に合った、将来東大へ通じるような無機的な鍛錬ではなく、まったく毛色のちがう趣味的なものだった。
 本を読んでいると、野球を忘れることがあって、自分でも驚いた。グランドで走り回っていなければ夜も日も明けない私が、机の上で活字をなぞりながら野球を忘れるということが信じられなかった。
 雑誌の付録の『フランダースの犬』はもうぼろぼろになるほど読んでいたし、守随くんから借りた児童物の『レ・ミゼラブル』は一通り読んだ。校舎裏の貸本屋の店先に放り出してある『オール讀物』や『小説新潮』といった廃棄本をときどき拾ってきて、わからないなりに読み通した。横浜時代に借りて読んだ日の丸文庫のような漫画には、もうまったく興味が湧かなくなった。とにかく活字で埋まっている本が読みたかった。活字に目が触れると気分がさわやかになり、野球をするときの手や足とちがう別の細胞が働きはじめる感じだった。
 一度、原田さんが屑籠に捨てた本を拾ってきて、机でぺらぺらやったことがあったけれど、どんな本かと思ったら、『点と線』とか『背徳のメス』とか、大げさな名前のついた推理小説だった。同じ活字でもそういう類のものは、私の中で数段低いレベルのものとしてランク付けされていた。
 晩めしのあとの素振りを終え、机で本を読んでいると、遠く大瀬子橋のほうから何度も花火のはじける音が響いてきた。熱田祭りだ。にぎやかな声が窓の外を過ぎていく。表へ出て見ると、色とりどりの浴衣を着た家族連れで平畑の通りがにぎわっている。みんなでゆっくり大瀬子橋のほうへ流れていく。堀川に数百発の花火が打ち上げられるのだ。二年以上もここに暮らしているのに、一度も見たことがない。家々の前に出してある縁台に、ステテコ穿いて夕涼みをする人たちの姿が見える。留守番の婆さんたちが道の一画に集まって世間話をしている。
 私は小さいころから祭りを好まなかった。笛や太鼓の音も気に入らず、沿道の賑わいも、露店のアセチレントーチのにおいも、大道香具師(やし)の口上を聞くのも、歯の裏にこびりつく綿アメも嫌いだった。野辺地にいたころも、横浜の浅間下でも、町内を浮かれて練り歩く山車を嫌っていた。それなのに、あのとき浅間下で、何の気の迷いからか山車を牽いてしまった。そして、テルちゃんの白い視線を浴びた。私が無理をしていることを見抜かれていたのだ。
「キョウちゃんは、花火見にいかないの?」
 約束ばかりして一度も中日球場へ連れていってくれたことのない八百清の若主人が、店じまいをしながら声をかけた。
「いかない。お祭りは嫌いだから」
「へえ、変わってんなあ」
 人びとがぞろぞろ通り過ぎていく。丸団扇を持ち、浴衣や夏物のワンピースを着てうれしそうに歩いていく人たちを見送りながら、私はちっともうらやましい気持ちにならなかった。とにかく私は、祭りだとか遠足だとか、クリスマスだとか正月だとか、そういったみんなが楽しいと思う行事はどれもこれも退屈だと感じていたので、それに参加することを極端に嫌った。
 実際のところ、とりかかれば夢中になる本も、突き詰めてみると野球をしていないときの空白の時間を埋めるものにすぎなかった。やっぱり楽しいのは、机に貼りついているときではなく、グランドで跳び回りながら野球をしているときだった。だから、もし自分が将来野球選手になれなかったら、もしこんなふうに退屈な行事にかまける人たちといっしょに、めぐってくる季節だけを楽しみにしながら生活を送ることになったら―そう考えると、ぼんやり恐ろしかった。
         †
 千年小学校のホームグランドで行なわれた港楽小相手の準決勝戦は、二対一の接戦で危うく勝った。康男はじめ、大勢の校内生に見守られて張り切りすぎた私は、ソロホームラン一本しか打てなかった。あとはぜんぶ内野ゴロだった。決勝点は、八回の裏にランナーを三塁に置いて、関がボテボテのセンター前ヒットを打ってもぎ取った。岩間がフォアボール二つだけで、一人で投げきった。決勝進出が決まった瞬間、校庭の歓喜のざわめきがなかなか止まなかった。
 その夜、庭のトネリコの前でバットを振っていると、康男が近づいてきた。手にDSボールを持っている。〈金太郎〉とマジックで書いてあった。
「おまえの打ったホームランや。三階の金網に当たって花壇に落ちたのを拾ってきた」
「わざわざ拾いにいったの?」
「補欠が拾ったのをもらった。一生、とっとくわ」
「うまいな、これ、康男が書いたの?」
「その補欠が書いた。ふざけたやつや。千円で買い取れ言うて舌出すもんで、百円払ったったら、笑いながらいらん言うて返してよこしたわ」
「ああ、木田ッサーか。こんな取柄があったんだね」
「おまえが中日ドラゴンズで活躍するようになったら、何万円でも売れるとよ」
「何万円で売れるかどうかはわからないけど、ドラゴンズにはかならず入るよ」
 それは確実に実現しそうな気がした。
「ひさしぶりに晩めし食べてったら。かあちゃんなんか気にしないで」
「あんな先生、気にしとらんわ。こっちが気にしとらんでも、ちょっかい出してくるで面倒なんだがや。おまえとめし食うのは、おもしろいけどよ」
「じゃ、東海橋まで送ってくよ」
「きょうはええわ。いまから兄ちゃんの店でおごってもらうことになっとるで。決勝、がんばれよ」
 と言って、浮きうき裏門から表通りへ出ていった。黒い車が待っていた。
         †
 野球選手にしては小さめのからだや、尋常でない飛距離を新聞で喧伝されたこともあって、私は異色のスラッガーとして市内に知られるようになった。ここまで去年より四本も多い十三号ホームランを放っていた。
 開校以来初めて決勝戦まで勝ち進んだとあって、終業式の朝礼のとき校長先生が全校生徒に向かっていつもより少し長めの話をした。
「またホームラン記録の快挙です。準決勝まで進んだのも大手柄でしたが、なんと、それにも勝ち抜いて、とうとう決勝戦に進むことになりました。こうなったら優勝してほしいというのが正直な気持ちですが、選手たちには勝ち負けにこだわらず、力を合わせて、最善を尽くすようにと言いたい。できれば、神無月くんには今後破られないほどの記録を打ち立ててもらいたいものです」
 自分の才能だけを恃(たの)んでいる私にとって、力を合わせるなどもってのほかで、決勝までたどり着けたのは自分だけの力ではないという淡い連帯感さえ抱かなかった。
「神無月は将来、中日ドラゴンズにいくやろな。そうすりゃ四番を打って、ホームラン王になることまちがいなしだ」
 ことあるごとに、服部先生や野球部仲間のだれもが真顔で言った。私は、学校のグランドでも、教室でも、飯場でも、登下校の道でさえも、自分が期待の星として見守られていることをいつも肌に感じていた。とりわけカズちゃんは、
「私、スクラップブック作ってるのよ。これからずっとキョウちゃんの記事を集めていくの。中学、高校、プロ野球、それからもずっと」
 と言って、人前かまわず私を抱きしめた。クマさんがその二人をまとめて後ろから抱きしめたりして、カズちゃんに背中をぶたれていた。あの反町の崖の上や、浅間下の孤独な生活が、いつのまにこれほど華やかなものに変化したのか不思議な上にも不思議だったし、それだけに何か冷やひやするような不安の気持ちもよぎるのだった。


         二十九
       
「神無月くん」
 日課の素振りをしていると、とつぜん背中から声をかけられた。
「やあ、木田ッサー」
 木田は軽く会釈をして、遠慮がちに私のほうへ近づいてくる。木田の笑顔は訓練されている。仲間のだれ一人として、笑顔のよさでかなう者はない。いつどこで会っても、厚い唇を半開きにしてにっこり笑いかける。きょうは笑っていない。
「どうしたの、こんな夜に」
「イエッサー!」
 例のごとく挙手の礼をしてみせる。このおどけ癖のせいで、彼は木田ッサーと呼ばれている。
「ホームランボール、康男にあげたんだってね」
「睨みつけられたんで、ハハーって謹呈したわ」
 難しい言葉を使う。彼は秀才タイプではないけれど、言葉遣いにメリハリがある。大瀬子橋のたもとの、ひどく平べったいトタン屋根の家に住んでいる。橋を渡り切ると、真正面に彼の家が見えてくる。把手のない板戸の黒い穴ぼこから、太い引き紐が垂れ下がっている。ランニングが遠出になるときは、いつもその家の前を通り過ぎて、大瀬子公園から白鳥橋の停留所を目指す。
「どうしたの」
 木田の顔が、仔細ありげに曇った。
「うん、ちょこっとな、神無月くんに教えてほしくてさ」
 分厚い唇を尖らせる。
「何を?」
「バッティング―。まあ、いわゆるひとつの、外角のアウトコースとか、まっすぐなストレートの打ち方なんかを教えてくれへん?」
 甲高い声で長嶋茂雄の口まねをする。彼は物まねも得意で、呼び出しのコテツ、ヒゲの式守伊之助、犬や猫はもちろん、馬、豚、ライオン、鳥や蛙の鳴きまねもする。先生たちの形態模写なども得意にしていて、しょっちゅう仲間を笑わせている。
「長嶋を馬鹿にするなよ」
「ごめん、ごめん」
 私が長嶋の大ファンであることを思い出したようだ。盛んに敬礼をする。夏に入って長嶋は、春の絶好調から一転してスランプに陥り、ヒットもホームランもストップしてしまった。ネクストバッターズサークルで、彼がバットをじっと見つめていたりすると、私もつらい気分になる。
 木田は、とりわけ私には一歩下がった尊敬の気持ちを抱いているらしく、グランドにいるときはたいてい、私のプレーにばかり熱い視線を凝らしている。野球部に入ってきたときからそうだった。教室や廊下ですり寄ってくる雰囲気には、どこか犬の忠実さを思わせるところもあって、つい私は主人風を吹かせてしまう。
 きのう早めに更衣室に入ったら、木田が壁に向かって両手の指をへんなふうに組み合わせ、何やらぶつぶつ唱えていた。
「アブランケンソワカ、アブランケンソワカ、おーれ、アブランケンソワカ、どうかエイトマンに変身できますように。長嶋なんて贅沢は言いません。エイトマンでお願いします。アブランケンソワカ、アブランケンソワカ……」
 私は気軽に声をかけた。
「何してるんだ、木田ッサー」
 木田はびっくりしてこちらを振り向き、たちまちスッと背筋を伸ばして敬礼した。
「神無月くんか。人が悪いや」
「着替えをしにきたのが、どうして人が悪いんだ」
「だれかが入ってくるなんて、思わんかったから」
「勝手なこと言うなよ。ここは部室だぜ」
「うん。人がくるとわかっとったら、こんなみっともないまねせんかったよ」
「なんだい、エイトマンて」
「大洋ホエールズの桑田」
 その一言でぜんぶ事情がわかり、私はそれ以上追及しなかった。そうして、きのうのきょうだ。
「……どうしてもエイトマンになりたいわけか」
「いじめんでよ。後悔しとるんやから」
 木田はかわいそうなくらい野球の素質がなく、バットの振り方にも、グローブさばきにも、ベースの回り方やスライディングにも、つまり野球に関するすべてのことにまったくセンスが感じられない。だから、練習では立派なユニフォームを着て、得意そうに捕球したり、トスバッティングなんかしたりしているけれども、試合になるともっぱらベンチを暖めながら野次を飛ばす係になる。でも、入部以来ずっと補欠の彼は野球部のムードメーカーを務めていて、彼の姿が見えないと、何か物足りないような気分になるほどだ。
「木田ッサーはムードメーカーだろ。バッティングなんか覚えなくたっていいよ」
 私は氷のようにひんやり言った。残酷な言葉だとすぐに気づいた。
「たしかにそうなんやけど。……このまま補欠で終わるのかと思うとせつなくてさ。港楽にも勝って、とうとう決勝まできたやろ。一試合しかあれせん。卒業するまで一度ぐらいピンチヒッターで出て、ピッチャーゴロでもいいから打ってみたいんよ」
 熱のある表情を崩さないで言う。でも、情熱だけではどうにもならない。素質というものがあるのだ。
 ―いちばん守備のヘタな五年生の友近でさえ、ミートだけは抜群にうまい。あいつの流し打ちは一級品だ。
「秋には練習試合があるし、それに出られるかもしれないよ」
「公式戦に出たいんや」
 木田の差し迫った顔つきを見ても、私の心は動かなかった。こと野球に関するかぎり、下手の横好きなど同情に値しない。でも、木田のことは嫌いじゃないので、少しだけ教えてやろう、という気になった。
「じゃ、振ってみなよ。見ててあげるから」
 木田は私の重たいバットを受け取り、恥ずかしそうに一回スイングした。なよなよした女みたいな振り方を見て、すぐにあきらめがきた。一応、指導の言葉をかける。
「だめだ、腰が落ちてる。腰が上下に動いちゃだめだよ。同じ高さに保つように回転させるんだ」
 木田は力をこめて振った。私からバッティングを教えてもらえるのがよほどうれしいらしく、ますます真剣な表情で、言われたとおりに上半身を水平に回そうとした。今度は腰が回転せず、バットの重さに負けて上半身だけの手振りになった。しかもへっぴり腰だ。
「ぜんぜんダメだ。腰を先に回転させる気持ちになってごらん」
「でも、腰は動かさないんだろう?」
「だれが動かさないって言った! 上下に動かないように、って言ったんだ。腰を同じ高さに保つというのは、からだの軸を同じ高さで移動させながら、ちゃんとその軸を回すということだ! 回転はしっかりさせなくちゃ」
 私はきつくたしなめた。
「なんだか、よくわからんが……」
「考えたってわからないよ。はい、もう一回!」
 今度は腰とバットがいっしょにひょろひょろ回った。類のないぶきっちょだ。
「バットが揺れてるじゃないか!」
 私は思わず大声をあげた。どうしてうまく振れないのだろう。
「このバット、重すぎる。もっと軽いのないの」
「ない! ぼくは小学生用のバットは持ってない。木田ッサー、バットの重さのせいにしちゃだめだよ。重さなんて、腰をちゃんと回すだけでカバーできる。ほら、こういうふうに」
 私はいらいらと木田からバットを奪い取り、思い切り振って見せた。ブン、ブンと腰を入れて振る。
「ワ! すげえ音がするがや」
 彼はおどおどした微笑を浮かべながら、感心して眺めている。
「バット二本で振ったって音がするさ。腰を中心に、風車みたいに回してるんだから。腰を回転させたあとで、手首の返しを意識するんだよ」
 バットの握り方から教えてみる。
「木田ッサーは右利きだから、右手を軽く添えるようにして、左手一本で振ることを考えればいい。ほら、やってみて」
 木田ッサーは顔を引き締め、一度、二度、三度と振った。どうやっても肩と腰の回転のバランスが直らないので、私は平手で木田の腰や肩をぴしゃりと叩いた。バットをあまり強く握るせいで、肩が前へ突き出てしまい、肝心の腰が回らないでへなへなと砕けるのだ。私は憂鬱になってきた。
「ちがうったら! 握るのは左手一本と言っただろ。右手はただ添える感じで、腰を回転させながら、前にスウェイしないようにして、もう一回!」
 木田はもう居どころのない顔つきをする。からっきし私の言うことが飲みこめないようだ。おそるおそる、もう一度振ってみる。ボールにバットを当てようとイメージして、どうしてもからだが突っ立ったまま、棒杭(ぼっくい)が倒れるみたいに前のめりになってしまうのだ。
「ボールじゃなくコースをイメージするんだよ。きちんと腰を残して回しさえすれば、振り出したバットにボールのほうから当たってくれるんだ。じゃ、もう一度だけ! ハイ!」
 もう叫ぶようなきつい語調になった。木田は必死の形相でバットを振った。手がつけられないほど不様だった。どうにもならないことがはっきりした。
「……木田ッサー、きみに教えるのは、ぼくには無理だ。ぜんぜん才能がない」
 そう言って、冷たく嗤った。木田の目が潤んだ。彼は静かに私の均整のとれたからだを見つめた。
「すごいなあ、神無月くんて。その振り方、人間技じゃないよ。そういう振り方じゃなくて、もっと基本みたいなものを教えてほしかったんだ……」
 手のつけられない不器用な男、スポーツにも、勉強にも無縁の男。彼は単に貧しい彼としてある。木田ッサーとして。彼の目に私は、青い才能の雲にからだを包まれているように見えるのにちがいない。
「勉強に基本はあるかもしれないけど、野球にそんなものはない。学校の勉強とちがうんだ。基本から鍛えてどうにかなるようなものじゃない。ぜんぶか、ゼロだよ。せいぜい筋肉しか鍛えられないんだ。バッティングも守備も鍛えるものじゃない。もともとできることを、しっかり積み上げていくだけなんだ」
 木田ッサーは無言のまま、怯えたような目で私を見た。どうしてそういう身もふたもない言い方をしてしまうのか、自分でもわからなかった。きっと、単純で、明快で、そのくせ華やかな野球の世界、その中に自分の暮らすべき未来がある世界を、このいかにも不器用な男に軽んじられているように感じて、むしゃくしゃしたのかもしれない。
 木田ッサーはしょんぼりと肩を落とし、
「神無月くんにそう言われると、何も言えんわ。すごすぎるもん。服部先生も、金太郎さんは天才だっていつも褒めとる。……きょう教えてもらったことを守って、自分で練習してみるわ。少しマシになったら、また見てもらいにきてええ?」
 黄色い顔に無理やり微笑を浮かべる。
 ―マシになるはずがない。タイミングと、勘と、全体の調和―それは最初からできてしまうことで、ぜったい学べないものだ。
「いいよ。見てあげる。練習はもともと自分で工夫してやるしかないんだ。でも、毎日二百回はバットを振らないとね」
「二百回!」
「あたりまえさ。積み上げていくものだって言っただろ」
 木田ッサーの顔に静かな感動の色が拡がった。
「えらいなァ、神無月くんは。一つずつ、ちゃんと決まりをつけて生きとるんやね。やっぱり、ぼく、ベンチでヤジってるほうがずっとラクだわ」
 木田は持ち前の素朴さに、少しだけ洞察力を加えたようだった。ただその声はかすかにふるえて、泣き声のように聞こえた。
「たとえ才能があったって、野球はラクじゃないんだ」
 木田は何も応えず、うつむいて息を殺していた。彼の表情は見えなかった。ふと私は、木田ッサーが鏡になって、自分の才能のなさが映し出されているように感じた。
 ―ぼくのバッティングだって、プロ野球の選手から見れば、木田ッサーと同じよう見えるのかもしれない。ぼくもきっと、これじゃいけないと思う気持ちがあるから、いきおい熱心にバットを振っているんだ。
「……神無月くんは、いいなあ」
 木田はバットを私に返すと、ゆっくり顔を上げ、またいつもの笑顔に戻った。こんなふうに、だれにも愛想よく、思ったことを言わないでニコニコしている人間になるのは、私にはできない。木田ッサーはなかなかのやつだと思った。
「じゃ、神無月くん、また学校でね」
「うん、二百回だよ」
 私はもう一度ブンとバットを振って見せた。木田はふっきれたような明るい表情で私のスイングを見つめ直したけれど、そのまま足早に夜の道へ帰っていった。
         

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