三十七
 
「たまにはネット裏で見るか」
「いいですね」
「ネット裏は、バッテリー中心になっちゃって、野球の迫力が感じられないよ」
 小山田さんたちに逆らって、私は外野席を主張した。レフト側、ポールに近い中段のあたり。いちばんホームランが飛んでくる場所だ。巨人戦なら、長嶋の守備を観察できる三塁側内野席が絶好だけれど、ほかの試合はホームランだけを期待して、ぼんやり球場全体を眺めているほうがいい。
「外野のほうが、打球がきれいに見えるんだよ」
 ピッチャー出身の吉冨さんは、
「球種とかコースがわからないぞ」
「そんなものわかると、興味がピッチャーのことだけになっちゃうでしょ」
「なるほど」
 まだカクテル光線の灯らない黄昏のグランドは埃っぽく見えた。帽子もアンダーシャツも紺色の広島の選手たちが、のんびり動き回っている。バッティングケージから豪快なスイングでぽんぽん左中間に放りこんでいるのは四番の藤井だ。大和田、森永、古葉、阿南と順繰りに打っていく。すべてが明瞭で、すべてが単純で、世界が残酷に二つに分けられている場所―野球場。野球選手と野球選手でない人たち。野球選手でない人たちは風景にすぎない。
「握り飯、食うか」
「いらない。お腹いっぱい」
 二人の食欲は旺盛で、三人分の握り飯と茹で玉子を試合開始前に食べ尽くしてしまった。吉冨さんはスタンドボーイを呼びつけて、私にアイスクリームを買い与え、自分たちはビールと柿種ピーナッツを仕入れた。ウグイス嬢が柔らかい声でドラゴンズのラインナップを告げている。
「一番センター中(なか)、二番セカンド高木、三番レフト江藤、四番ライト森、五番ファースト井上、六番サード岡嶋……」
 九番ピッチャー権藤、というアナウンスに、ウオーッと歓声が上がる。
「広島はやっぱり長谷川良平だぜ。軟投をぶつけてきたな。二人ともコントロールがいいいから、投手戦になるぞ」
 小山田さんが分析をする。グランドにドラゴンズの選手が散った。森徹と中が遠投のキャッチボールをする。ボールがきっちりと胸もとに吸いこまれていく。すごいコントロールだ。森徹の白地のユニフォームの背中に貼りついた背番号7が、突っ張ったり弛んだりする。遠くから首筋がうっすら汗で光っているのが見える。
 スコアボードの旗がホームに向かって強くはためいている。高く打ち上げてしまうと風に押し戻されるかもしれない。巨人戦でないので、スタンドに空席が目立つ。かえってそれが目に涼しい。明るい夕暮れの空がだんだん蒼くなっていく。緑の芝生と焦茶色のグラウンドが、カクテル光線を吸って輝きはじめた。
 一回表、広島、三者凡退。
「三番の森永、アッパースィングしてたでしょ。長距離打者の証拠だね。低目をすくい上げる。上から叩きつけるバッターより、ベーブ・ルースや中西太みたいにすくい上げるバッターのほうが強打者なんだ」
「ほう、そりゃまたなんで? 腕っぷしが強いってことか?」
 小山田さんがピーナッツを噛みながら訊く。
「腕っぷしじゃなくて、手首。手首の強いバッターは、高目を叩いても伸びるけど、すくい上げても打球が伸びる。小坂や古葉みたいに力のないバッターは、叩きつけてヒットを狙うしかないんだ」
 口が勝手に動く。いつもより饒舌になっている。
「ヒットなんて打ちそこないだよ。いくらたくさん打ったって、つまらない。ちゃんとバットに当てて、肘で送り出してやれば、自然とホームランになるんだ」
 一回裏、中、ショートゴロ。高木、左中間を抜く二塁打。
「うわァ、見た? 高木守道の手首のかえし! 左手一本で左中間に持ってっちゃったよ」
 江藤、ライト前ヒット。一点先取。
「なんだい、森永って、肩が弱いね。二塁にツーバウンドで返したよ。バックホームもできないんだから、恥ずかしいよね」
 森、大きなレフトフライ。
「こすっちゃったね。タイミングは合ってたのに。やっぱりミートの正確さは、長嶋がいちばんだ」
 私は憑かれたようになって、目の前の一人ひとりの選手の得手不得手や、プレーの見どころをまくしたてた。二人は痛ましげな目で私を見ていた。
 いつも夢の中で私は、ホームランバッターという野球小僧を雲に届きそうなほど高いところへ押し上げてきた。実際に夢を実現するために雲に乗せようと押し上げてくれる人は、追い払われてしまった。
「狙って打つヒットもあるんじゃないかな」
 吉冨さんが遠慮がちに言った。
「狙って打てるなら、ホームランを狙えばいい。それでヒットになっちゃったら仕方ないけど。ソロの一点でも、満塁の四点でも、零点よりはずっといい」
 小山田さんがおもしろがり、
「大砲がほしくても、拳銃しかないときは? ホームランは狙えないぞ」
「ミートとタイミングさえよければ、拳銃も大砲になるよ。高校野球みたいに、何をやっても勝たなくちゃいけない野球と、みんながお金を出して観たい野球はちがうんじゃないかな。そりゃ負けるより勝つほうがいいけど、勝つにしても、みんな、心の底では、好きなチームが豪快に打ち勝つ試合を期待してるんだよ」
 小山田さんは私の意見をおもしろがり、たしかにな、と言った。野球経験者である吉冨さんの慎ましい微笑も、心の奥底の肯定を表していた。
「キョウちゃんの言うとおりだね。プロ野球は高校野球とはちがう。勝つことよりも派手さにウエイトがある。甲子園でさえ、奇跡の報徳は拍手喝采される。派手じゃないとおもしろくない。うん、たしかにプロは派手に打ち勝つのがいちばんいい」
 二人に何もかも受け入れられて、ふと、さびしい気持ちになった。
「強打者は、思ってもみなかったことを言うなあ。たしかに投手戦とか、ホームランのない乱打戦なんてのは、見終わったあとで、なんだか損した気になるもんな」
 もうじゅうぶんだと思った。虹を渡ってやってきた使者は帰っていった。親切な礼賛者だけが残った。私は悲しくてたまらなくなり、涙をこらえながらスコアボードに視線を戻した。
 三回表に広島は四番の藤井がスリーランを放って逆転し、その裏に中日は三塁打の中を置き、高木守道が長谷川からライトポールぎわへツーランを打ち返して同点になった。そのまま試合は膠着状態に入った。吉冨さんが凡打の山に退屈して、
「前半は〈派手〉だったのになあ」
「こういうときは、八回か九回にホームランが出て試合が決まるんだよ。それもたいてい四番が決めちゃう」
「ふうん、そういうもんかね」
 小山田さんは二杯目のビールを口に含みながら、感心したふうにうなずいた。きょう何杯目のビールだろう。吉冨さんが言う。
「キョウちゃん、どうもきょうは、権藤より長谷川のほうが調子いいみたいぞ。コントロール抜群だし、けっこうスピードもある。広島の勝ちってこともあるんじゃないの」 
「シーソーゲームにけりをつけるのはピッチャーじゃなくて、打者でしょ。長打がつづくことは長谷川のデキから考えられないから、ホームラン。きっと森が決めると思う。藤井は一本打ってるから、もう打たない」
 何の根拠もなく決めつける。
 九回裏ノーアウトから、一番バッターの中がフォアボールで出た。
「ぜったい、森のサヨナラホームランで決まるからね」
「高木や江藤じゃなく?」
「うん。森にまかせるつもりのはず」
「きょうの森は当たってないぞ」
「タイミングが合ってるから、だいじょうぶ」
 予想どおり、高木は送りバント、江藤はフォアボールで歩いた。長谷川はきわどいコースをボールと判定されたことに怒って、ものすごい勢いでマウンドを駆け下りると、グローブを振り上げて主審に殴りかかった。ジャンプして頭の上から振り下ろす。主審は右手をベンチへ振って退場を宣告した。
「おいおい、おかしな雲行きになったぜ。退場食らっちゃったよ」
 ピッチャー交代がアナウンスされる。
「大石だ。キョウちゃん、これでホームランはオジャンかもな。森は、速球はからっきしだから」
「ううん、ぜったい、打つ。見てて。ヒットじゃない、ホームランだよ」
 二人の大人は半信半疑の笑いを浮かべながら、
「ようし、一発いけ! 森!」
 とグランドに向かって叫んだ。森徹がするどい素振りを繰り返しながら、バッターボックスに入った。こちらに背中を向けた肩口から、きらきら象牙色のバットが光って見える。球場全体の中で、彼の立っている場所だけが特別な空間を作っていた。からだを深く沈ませて初球を待つ。高めのストレート。バックネットへファールチップ。内角に落ちるカーブ。ストライク。ツーナッシング。内角高目の速球。三球勝負にきた。森の大根切りが一閃した。ラインドライブのかかったライナーがレフトスタンドめがけて一直線に飛んでくる。私は目を凝らして、ボールの軌道を測った。正確に自分に向かってくる。私は立ち上がって構えた。観客が身を寄せ合ってボールをよけようとする。
「危ないぞ、キョウちゃん!」
「危ない!」
 私はぐいぐい迫ってくる白球めがけて伸び上がり、両掌を上空へ思い切り突き出した。ビシャッ、というするどい手応えがあった。いっせいにどよめきと拍手が起こる。手のひらがジンジンしている。小山田さんと吉冨さんの顔に、ひととおりでない感激があふれた。
「まったく! なんてこった、キョウちゃんは」
「すごいな、あんなライナーをよく素手で捕れるな」
 私は痺れている手で、油光りのするボールをカクテル光線にかざして眺めた。バットの打ち当たったところが薄くめくれていた。私はその小さな傷を見ているうちに、得体の知れない不安に冒され、頭がぼうっとなってきた。サヨナラホームランの興奮に、球場中が沸き立っている。私は、何の保証もなく彼らの中に一人の客として坐らされている現実に打ちのめされた。
 ―野球選手になれなかったらどうしよう! 大人になっても、やっぱりこの席に坐っていたらどうしよう。ただ見物するだけの人たちに混じっていたら! あのスカウトがもうやってこなかったらどうしよう。結局ぼくは、野球選手でないただの大人としてさびしく生きていく破目になるのかもしれない。
 ぼろぼろ涙が湧いてきた。野球に目覚めて以来、野球で成功することが私のただ一つの願いだった。野球以外のもので偉人になどなりたくなかった。好きな野球をしながら、大勢の人びとに抜きん出る幸せこそ、私の求めるものだった。
 ―野球選手になれないのなら、死んでしまおう!
 深い悲しみがとつぜんやってきた。燃える希望が、これまで打った何十本かのホームランといっしょに、スカウトの背中といっしょに、別れを告げながら去っていくようだった。吉冨さんが私のからだを強く抱きしめた。
「だいじょうぶだ、キョウちゃん、泣くんじゃない、だいじょうぶ。かならずチャンスがくる。それまで辛抱強く待ってよう」
「そうだよ、キョウちゃん、泣くことなんかあるもんか。くそ! 俺は何もしてやれないけどな」
 スタジアムを出て人混みにまぎれると、まるで明るい花園を出て、薄暗い穴倉へ入りこんだような感じがした。よいことはみんな過去のことで、これからはもう何も、それこそもう何もないのだと思った。沈みこんでいる私に小山田さんが声をかけた。
「あのスカウトは、ひょっとしたらもうこないかもしれん。でも、キョウちゃんがずっと野球をやりつづけてるかぎり、そんなこと関係ない。かならずどこかでまたスカウトが現れる。そうでなきゃ、あまりに悲しいだろ」
「そうだよ、世の中、そうそう理屈に合わないことは起こらないものさ。だいじょうぶ、キョウちゃんは将来、ぜったい野球選手になれる」
「めし食ってくか」
「いいよ」
 誓いの魔球を入れた紙袋の中に、ホームランボールをしまった。
「遠慮すんな。吉冨も腹へったろ」
「いや、酒なら入ります」
 彼らは、居酒屋とめし屋を兼ねたような店に入った。
「刺身の盛り合わせ三つ、一つ定食にして! 飯場じゃ、マグロやハマチなんて、めったにお目にかかれないからな」
 そう言って彼らは、刺身をつまみにビールを飲んだ。私はわさび醤油につけた刺身でめしを食った。味がしなかった。小山田さんは私の頭を撫でながらしみじみ言った。
「大選手になれよ。まだまだ先は長いぞ」
 私は悲しい気持ちのまま、
「ウン」
 と元気よくうなずいた。


         三十八

 夏休みが残り少なくなった。ときどき涼しい風が吹き、かなり陽射しが弱まってきた。名古屋というところは、夏は暑く冬寒い土地柄だと、地元の人たちはかならず言う。私はそんなふうに感じたことはない。どんな土地にいても、ごろりとした夏や冬が通り抜けていくだけだ。
 恒例でクラブ活動が一週間の休みに入った。炎暑を避けるためという名目だけれど、夏の盛りは過ぎているので、たぶん先生たちが夏休みをとりたいからだろう。
「毎日ゴロゴロしてないで、サイドさんのところへいってきなさい」
 寝転がってステレオを聴いていた私に、隣の部屋から母が声をかけた。いつもの追い出しだ。
「古間木なんて、遠すぎる。いきたくない」
「サイドさんはもう古間木にはいないよ。去年進駐軍を辞めて、埼玉の入間というところに引っ越した。法務省の通訳官に採用されたんだって」
「法務省?」
「国のえらい役人が集まってる役所。特務機関に就いたって言ってたから、国の機密事項を扱う仕事だろうね」
 何のことやらわからなかったけれど、母と話すのが面倒だった。聞き役に徹した。彼女が言うには、サイドさんは根っから語学に長けていて、地元の青森商業を出てから三沢の進駐軍に雑役夫として住み込み、ついに軍部付きの通訳にまで出世したということだった。一度も外国にいったことがないのに、五カ国語をあやつる天才だとも言った。岡三沢の小学校まで懸命に自転車を漕いで送ってくれた男の背中を思い出し、そんなにすごい人だったのかと思いを新たにした。
「どんどん出世する人だからねえ。ほんとに、芸は身を助ける、だね。おまえの場合、芸は身を滅ぼすだけどね」
 母のそばから少しでも離れていようと思った。天才の日常を観察しにいったほうがマシだ。土古(どんこ)競馬場の近くの田んぼにザリガニを捕りにいこうとか、内海(うつみ)か伊良湖岬へ泳ぎにいこうなどと、関たちと約束していたことが浮かんだ。もともと、どうでもいい約束だった。
「英語の基礎を教えてもらってきなさい。来年から中学なんだから」
「いってくるよ」
「椙子(しんこ)がこいと言ってるんだよ。ワイシャツを作ってやりたいんだって」
「ワイシャツ?」
「気が早いみたいだけど、中学に上がるお祝いだって。椙子は腕がいいから、そこらの既製品よりもバリッとしたものを作ってくれるよ。この冬には、アメリカの君子も里帰りするって手紙をよこしたし、夏冬二人に教われば、大した勉強になるんじゃないの」
 君子という人には会ったことがなかった。直観から、あまり会いたい気がしなかったので、冬にいくのはやめようと思った。
「サイドさんにはお世話になりっぱなしだから、重々お礼を言っとくんだよ」
 この春、サイドさんから黒革の手提げカバンが送られてきた。さっそく使った。子供っぽいランドセルから解放されてうれしかった。肩掛けのズックカバンは貧乏の象徴のように思われているところがあって、校内でもそれを肩にかけている生徒は数えるほどしかいない。ほとんどの生徒がランドセルだ。そういえば康男は、出会ったころから革カバンだった。彼がランドセルを背負っている姿を思い浮かべて、私は思わず笑った。
 私たちが古間木を去ってすぐ、善郎の下に弟が生まれたと母から聞いたけれど、今度もその子のおもりをやらされるんだろうか。
「善郎に弟が生まれたんだよね。またお守りをやらされるのかな」
「もう幼稚園だよ。そんな必要はないだろ」
 埼玉に出かける準備をしていた夜、遅くなって、豊田市の自動車工場で働いている善夫が飯場にやってきた。踵の減った靴に乾いた泥がこびりついていた。四年前とちがって意気軒昂とした雰囲気はほとんどなく、うらぶれた様子だった。勉強部屋の玄関から上がって私の机やステレオを眺め、
「贅沢してるな。小学生の部屋でねえでば」
 と言うと、板襖を開けて、猫くさい母の部屋に腰を下ろした。私も母の部屋にいった。
「サイドさんとごさ遊びにいぐってか」
「うん」
「送ってってける。アネから葉書もらって、ワも一週間の休み取ったじゃ。サイドさんに相談してことがあるすけ」 
 頬がこけてエラが目立ち、物言いもどこかぐにゃりとしている。
「なに相談するのよ」
 善夫は母に弱々しく笑いかけて、
「……男がいつまでもやる仕事でねじゃ」
 南部煎餅の袋をバッグから取り出した。
「あ、ピーナッツ煎餅」
「ばっちゃが送ってよごした」
 なつかしくて、私は早速パリパリやった。母も手で割って口に運ぶ。彼女は久しぶりに身内に会って、すっかりくつろいでいた。
「で、どうするつもり?」
 母は善夫に合わせて煙草を吸いつけた。
「この一年、こつこつ、ボイラーの勉強してんだ」
「じっちゃは特級の資格を持ってるからね」
「おおよ。ワもボイラーマンになろうと思ってよ。入間にしばらく厄介になって、まず二級から受けるつもりでいら」
 善夫は野辺地高校ではかなり成績がよかったらしく、オートメーション工場みたいなところで歯車になって働くのはプライドが許さないのだと言う。囲炉裏で鷹揚にくつろいでいるじっちゃが〈特級〉などという大それた資格の持ち主だとわかって、私はなぜかさびしい気持ちになった。特級を持っていなければ、ロシア行きの戦艦には乗れず、名代の機関手にもなれなかったのだろうか。そんなことを考えると、道端の草の名をことごとく知っていたばっちゃのほうが、ずっとえらい人間のように思えた。
「いいんじゃないの。ボイラーの資格を持ってれば、景気の風を気にしないで、腕一本で食べていけるでしょ」
 善夫は姉の賛同を得て、気分よく煙を吹き上げた。
「資格を取れば、背骨がビシッとするすけな」
「野辺地は、達者でいるの」
「二人ともぴんぴんしてら。十年は老けこまねべ」
 善夫が人生設計の模範にしようとしているらしいじっちゃは、私が預けられていたころはすでに六十の坂を越えていたけれども、腰も曲がらず、食欲も、目も確かだった。四年前の夏も矍鑠(かくしゃく)としていた。
「善夫はじっちゃを尊敬してるんだね。よく薪で頭殴られてたのに」
 じっちゃは私には気長に接したけれども、ほかの身内にはすぐに腹を立てた。特に善夫には、ことあるごとに制裁を与えた。
「ワは、英夫や善司と比べれば、デキが悪かったはんでな」
 善夫は恥ずかしそうに笑った。母がうつむきながら言った。
「お金は、送ってるの」
「書留だと、とっちゃがふところに入れてしまるすて、ふつうの手紙で二人に送ってら。たいした金でねけんど」
 ばっちゃにもよく聞かされたけれども、あの謹直なじっちゃが、一家へ送られてくる金をぜんぶ着服するほど欲たけた人だとはいまも信じられなかった。じっちゃのような年老いた人間がそういう品位を欠いた振舞いをするのを想像するのは、ひどくせつないものがあった。
 善夫は母のいろいろな質問に、かいつまんだ答えをしていた。秋田にいる善司の消息を伝えてみたり、アメリカの君子が二度目の家を買っただの、善太郎の嫁は相変わらず派手好きの悪妻だの、だれの受け売りなのか、
「将来は野辺地に帰るかもしれね。墓守しねばなんねすけな」
 などと、先祖代々という言葉をまじえてまことしやかにしゃべったりもした。とりわけ新興の豊田市に移ってからの職場話や身に起きたできごとは、面倒くさがらずに語った。おおよそが幻滅の物語だった。
 私はいつもこんなふうに、自分の心のことではなく、肩書きのことに対する関心で生活を固めている人たちの頭の中は、どんなふうに整頓されているのだろうと不思議な気がしていた。彼らを中心にして、自分の思っているよりはるかに現実的な、そして一生懸命な世の中というものを感じた。
 私はじっと耳を傾けながら、善夫の話とは関係なく、野辺地のネプタの笛太鼓のにぎやかさや、胴が赤く焼けたストーブや、つるつるに固まった道の上を吹き過ぎていく雪を思い出した。
「おまえが墓守する必要はないよ。私がいずれ帰るから。こういうことは順番だからね。心づもりはしてるけど、ずっと先の話だよ」
 善夫は両手を胡坐の膝に置き、ときどき頭を垂れて口をつぐんだり、また語りだしたりした。私は眠くて仕方がなかった。鼻の穴を広げて生あくびを噛みつぶしながら、ひたすら二人の話が終わるのを待っていた。
「ワ、将来、物書きになりたくてよ」
 ふと善夫は、小さい声で言った。
「物書き?」
「……てめの気持ち振り返りながらよ、小説、書きてんだ」
 真剣な目をしていた。〈気持ち〉という言葉が私の心の絃(いと)を鳴らした。
「自分のことばかり書いても、大したものは書けないよ。社会性がないとね。私だっていくらでも書きたいことがあるんだよ。波乱万丈の人生だったからね。だけど、そんなもの書いたって、なんにもならない。人間一人の気持ちなんてものは、世間の目にはあたりまえすぎて、面白くもなんともない」
 善夫は黙りこんだ。私は、母の言っていることはまちがっているような気がした。社会性にあふれたできごとなど、学校の教科書や新聞を開けばいくらでも載っている。だれも採りあげない個人の物語は、個人がしゃべるしかないのだ。フランダースの犬には、ネロとパトラシェの〈気持ち〉しか書いてないけれども、それでなんの不足も感じなかった。人が知りたいのは、きっと、社会の動きではなく、あるひとりの人間の身に起きたこととそれにたいする気持ちだ。自分の気持ちを振り返りながら、と言った善夫のほうが、きっと正しいのにちがいない。私は善夫が口にした、てめの気持ちという言葉に、どこかロマンチックで向こう見ずな心意気と、そして永遠の真実のにおいを嗅いだ。
「キョウ、鶴亀算でもやりながら寝るべ。おめ、たいした勉強できるんだツケ」
 善夫は煙草くさい息で言った。
 その夜私は、善夫と三畳間に敷いた銘仙の一枚蒲団にもぐって、彼の汗で湿ったランニングを腕に感じながら、夜中まで算数の応用問題を解いた。四年前の夏のにおいがした。 
 善夫は自分のほうから仕掛けたくせに、私よりもできが悪かった。野辺地の秀才もこの程度かと、私は八歳も年上の男をあなどる気持ちになった。それでも彼に感じた清新な思いは薄れることはなかった。


         三十九

 半日の旅でたどり着いたサイドさんの家は、周りをアラセイトウの庭に囲まれた一戸建ちの平屋で、古間木の官舎よりかなり大きい感じがした。柴垣の真ん中に折戸を切ってあった。押して入ると、土を踏み固めた道の両脇に色とりどりの草花が植わっている。それが家の裏手まで群がり生えていた。隣の敷地との仕切り塀の向こうに、窓の閉まった立派な二階家が建っていた。
 西洋風の二重の網戸を開けて善夫が呼びかけると、廊下の陰から椙子叔母の返事が聞こえた。掃除に忙しくしているらしく、クリーナーの音がした。大きくなった善郎が玄関に出てきて、生意気そうな目で二人を睨んだ。いらっしゃいともこんにちはとも言わない。母親そっくりの意地の強(こわ)そうなクワイ顔だ。どんな子供でも、親族とわかっている人間と顔を合わせたときは、少しくらいは愛想笑いをするものなのに、何が気に食わないのか無愛想にじっと善夫と私を見つめている。
「今年から小学校か」
 善夫の問いかけにも答えない。
「学校、おもしれか」
 善夫は頓着なく話しかけた。そしてごしごし善郎の頭を撫ぜると、私を促して家に上がった。さっそく台所にいき、叔母に茶漬けを所望している。叔母は掃除の手を止めて、やかんに湯を沸かすと、冷蔵庫からあり合せのおかずを出した。佃煮とタクアンだった。
「悪いな、椙子。キョウ、おめも食うか」
「うん」
 善夫は私のめしにも湯をかけた。椙子叔母はまた掃除に立っていった。入れ替わりに善郎が入ってきて、二人を睨みつけた。善郎がこういう態度をとるのは何か理由があるのではなく、人見知りする気質のせいらしかった。私はゆっくりタクアンを噛みながら、めしを掻きこんだ。
「善夫は、ここにきたことがあるの」
「なんも、初めてだ」
 笑いながら言う。
「ただいま!」
 小さな黄色いカバンを肩にかけた賢そうな目をした男の子が、満面に笑いを浮かべて玄関から走りこんできた。
「お、寛紀(ひろのり)か、お帰り」
 善夫が箸を握った手を挙げると、黄色い園児服を着た男の子が、えくぼのくぼんだ愛らしい丸顔をくしゃくしゃにして笑いかけた。脂肪のついたからだ全体がどことなくサイドさんに似ている。
「幼稚園には夏休みはねのが」
「ある! 終わっちゃった」
 と元気よく答える。掃除をすませた叔母さんが、
「八月の初めに、一週間な。始まってホッとしたでば。うるさくてかなわね」
 彼女は菓子盆を持たせて息子二人を子供部屋へ追いやり、私を畳部屋に呼んで、からだの寸法を測った。
「六年生にしては小せな。何センチある?」
「百五十九」
「半年もすれば、百六十二、三になるな。うん、少し大きめに作るべ。ポケットは二つほしが?」
「一つでいい」
「ペン差しの穴、開けとくど」
「うん」
 夕方遅く帰宅したサイドさんは、びっくりするほど白髪が増えていた。髪を七三に分けている。しゃきしゃきした身のこなしは相変わらずで、若い雰囲気を保っていた。厚い唇にちらりと八重歯を覗かせ、いらっしゃい、と言うと、カバンから缶詰をいくつか取り出してテーブルに置いた。
「また、うまいものでも見つけたんだか」
 善夫が愛想を使った。
「オイルサーディンと、コンビーフ、鯨の大和煮。椙子、オニオンスライスを作ってくれ。いい酒のつまみになる。いやあ、こっちにきてから買い物が趣味になってさ」
「なんも、古間木にいたときから、こうやって無駄なものばり買ってくるんだず」
 叔母さんが眉間に皺を寄せる。子供部屋から善郎と寛紀が出てきて、缶詰をめずらしそうにいじり回した。
「無駄なことがあるか。めしのおかずにだってなるんだぞ。缶詰というのは、外国じゃ高級品なんだ。そのわりに値段が安い」
 私は、うんしょ、うんしょ、と自転車を漕いだサイドさんの背中を思い出し、なつかしい気持ちで彼の顔を眺めた。
「キョウ、ひさしぶりだな」
「はい」
「来年は中学だって? 早いもんだ。母ちゃんは元気か」
「はい」
 食卓がいっときにぎやかになった。それでも、サイドさん一家に時分どきらしい和んだ風が吹くというわけでなく、めいめいが勝手に大皿に用意されたおかずを取ってちまちま食べるというふうだった。私は英夫兄さんの家にいたときと同じように、ごはんのお替わりができなかった。善郎の食は細くて、叔母はなかなか減らない彼の皿におかずを足してやったり、ようやく一膳食べ終わった茶碗の中に熱いほうじ茶をついでやったりした。
 サイドさんは、二十歳になったばかりの善夫とビールをつぎ合いながら、冷蔵庫から秘蔵のソーセージやチーズを引っぱりだしては、一人でかつかつ齧っていた。オイルサーディンやコンビーフも、サイドさんが一人でつまんでいた。ときおり思い出したように善夫に勧めるのだけれど、さすがの善夫も手を出せないようだった。
 古間木のころとちがい、役人となったサイドさんには相当な威圧感があった。めりはりの利いたしゃべりぶり、唐突な笑い、相手の言葉を一ひねりして知識をつけ加えみせる教養―どれもこれも、彼の新しい習慣のように思われた。
 善夫はサイドさんに、いまの会社を辞めようと思っていることを告げ、父親と同じボイラーマンになりたいと言った。
「二級でも取れば、企業や病院にラクに就職できるすけ」
 母に洩らした〈物書き〉になりたいという話はしなかった。私はあの真剣な目が見たくてうずうずした。
「ボイラーマンか。悪くない。勉強をしなくちゃな。日本橋の知り合いに布団屋がいるけど、どうだ、店員の仕事なら自動車工場よりは疲れないんじゃないか。しっかり勉強もできるし。口利いてやろうか?」
「お願いします」
 その場でサイドさんは電話口に立ち、話をどんどん進めた。結局善夫は、そこの店主の世話で四、五日したら中央線沿線の高円寺というところにアパートを借り、そこでじっくり勉強することになった。彼はうれしくてたまらないという顔で、サイドさんに何度も頭を下げた。
「寮の荷物はいつ取りにいく?」
「置いたまま、夜逃げでもするじゃ」
「だめだめ。立つ鳥、跡を濁さず。自分の希望と今後の計画を会社に伝えて、ちゃんと順序を踏んで辞めなさい。別に恥ずかしいことをするわけじゃないんだから」
「わがった」
 善夫の元気のいい返事は、何となくあてにならないような気がした。きっと彼は夜逃げをするにちがいない。彼はボイラーマンになりたいから仕事を辞めるのでなくて、今の仕事がプライドを傷つけるから辞めるのだ。布団屋だってボイラーマンだって同じことになるだろう。彼は物書きになりたいのだ。それ以外の仕事に満足するはずがない。
 ずっとあとで聞いた話だと、善夫はサイドさんの言いつけどおり円満退社して、わずかながら退職金までもらったということだった。私にしたら、そういう他人の心に波風を立てまいとするまじめさは、誇り高い人間としてはちっともまじめではなく、そんないい子でいては、物書きとしてきっと大成できないだろうと思った。なりふりかまわず真剣に生きていれば、人はかならず跡を濁すものだ。それは私の幼い直観が囁いたことだけれども、とにかく、〈いい子〉はぜったい芸術家にはなれないだろうと思ったのだった。
         †
 善郎と寛紀は性質が正反対の兄弟だったが、いっしょにトランプをしたり、キャッチボールをしたりして遊んでみると、どちらも同じように不器用で鈍くさく、ちっとも張り合いがなかった。おまけに善郎は徹底した怠け者で、七並べの途中で畳に寝そべってしまうし、自分が逸らしたボールは弟に拾いにいかせるし、学校の宿題もまったくやろうとしなかった。翌日から私は彼らに声をかけず、知らんぷりを決めこんで、夏休み帳の追いこみをかけるために文机に向かった。
 叔母にしても、ふだんはもの静かにしているけれど、いざ何かを口にするとなると決まって、丸眼鏡の奥からじっとこちらを見つめながら、親孝行とか、倹約とか、資格とか、むかしから大勢の人びとに大切なものと思われてきたことを、好人物を振舞いながらしゃべるのだ。しかも彼女は悪口屋だった。
「スミはわがまま女でせ。家の苦しいときに、オラも君子も、雪の中、センベかついで行商して歩ってるのに、野辺地コマチか何か知らねけんど、いい服(べべ)着て、いい靴履いて、わざわざ青森まで出て映画観てたんず。オラ、一生忘れね。じっちゃが猫っかわいがりに甘やかしたはんで、いい気になってしまったんだじゃ」
 とか、
「おめはたいした頭いいって話だども、大吉さんにはかなわねべおん。おめの父ちゃんは目から鼻さ抜ける人だった。見たとご、おめにはそこまでの頭はねェな。たぶん大吉さんは、スミのバカさかげんがいやになって出てったんだべ」
 などと言っては、縁なし眼鏡を押し上げて私をじっと見つめる。母の味方をする気持ちはとっくに私にはなかったけれども、それでも顔を合わせるたびにそんな話ばかり聞かされて、ひどく居心地が悪かった。彼女はサイドさんについてもこんなことを言った。
「十年も前、サイドが盲腸で入院したときよ、見舞いにおがしな女がきてせ、オラのこと無視して、ベッドカバー直したり、リンゴ剥いたりしてるのよ。サイドは黙ってそれをさせてるのせ。あとで訊いたら、会社の部下だと。あれがただの部下だってことがあるもんだってか」
 への字になった口の端にできた皺の中に、思いがけず野卑で不快なものが現れた。こんな話ぶりが叔母の話の基調だったとは知らなかった。
 彼女は子供たちのこともくどくどこぼした。私には、そういうことはすべて、満たされない気持ちからくる気まぐれや不貞腐れに思えた。彼女は家族のみんなから慕われているふうはなかった。きっと彼女は合船場で娘時代をすごしていたころ、報われない自分の立場がすっかりわかった瞬間があって、自分は不幸だと思いこんだのだろう。それでふさぎの虫にとりつかれ、やさしいサイドさんと結婚してからも、何ごとにつけ、疑いやそねみを深くして、守りの姿勢を固め、悪口でも言いながら辛抱していこうと決めたのだ。その悲しい覚悟は母の姿にも重なって、私は少し椙子叔母が気の毒になった。
「叔母さん、ワイシャツの胸ポケットは、やっぱり二つのほうが格好いいかな」
 二つにしたほうが叔母さんも持ち前の腕を揮う喜びが大きくて、張り切るのじゃないかと思った。
「ほんだな、GIシャツみてで、格好がいいかもな。ペン差しも、ちゃんと両方に開けてせ」
「叔母さんは洋裁の名人だって、かあちゃんが言ってたよ。いままで何着も素敵な服を作ってもらったって」
「作れ、作れってうるせすけ、腰抜かすみてなやつをジッパと作ってけだった。女学校時代から数えたら、もう何着になるべか。君子にもだいぶ作ってけだ」
 明るい表情になり、やさしい微笑さえ浮かべた。

         

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