百八十一

 私は財布を出した男に、
「あのう、お二人は建設会社の社員か何か……」
「そ、中杉通りのマンションを二、三軒手がけてる」
「飯場暮らしですね。ぼくも飯場育ちです。事故にお気をつけて」
 男はキョトンとして、
「サンキュー。あんたもがんばんなよ。応援してるからさ」
「ありがとうございます」
 やあ、すごいやつに遇っちゃったな、ほんとほんと、すげえオーラだ、などとしゃべり合いながら男たちがドアを出ていった。ママがミドリと私のグラスにビールをつぐ。
「で、ママ、ボーナスって、カラオケ?」
「ちゃんとバンドがいるわよ。男の歌手が一人しかいなくて、演歌専門らしいの。ニューミュージックを唄えないから若い客を呼べないって嘆いてた。あんたドンピシャじゃない。三十過ぎてから芽が出たってぜんぜん遅くないわ。ちょっと待って」
 受話器をとり、電話をかける。愛想のいい声色に変え、話をうまく持ちかけている。
「あ、そう、ありがと、わかった、そう伝えとく」
 受話器を置いて、にっこり笑い、
「あした三時にオーディションにきてくれって。採用が決まったら、ワンステージ三千円出すって。よかったわね」
「ありがとう、ママ! でも受かるかしら」
「ぜったいよ」
 ミドリはうまそうにビールを飲み干し、
「じゃ、ママ、私帰る。からだを休めとかなくちゃ」
「いい声出ないものね」
「そう!」
 金も払わず出ていった。ツケで飲ませる親しい客のようだ。
「ほんとに神無月さん、福の神だったわ。きょうはありがとう」
「どういたしまして。ぼくもいい息抜きになりました。ここが混むのは、九時、十時ぐらいですか」
「そういうこともたまにあるわね。七時に開けて二時くらいまで、だいたい、ずっとこんなもの。一日三十人がいいとこよ」
「もう長いんですか」
「三十二のときからやってるから、十四年」
「すごいな。いい店ですからね。長つづきするのもあたりまえです」
「おじょうずね。でもありがとう。六十になったら、お客さんたちが還暦祝いしてくれるって言ってたわ。七十歳まではやるつもり」
「がんばってください」
「もちろんよ。……神無月さん、もうこないんでしょう?」
「いえ、きます。ただ、来年は名古屋のプロ球団に入る予定ですから、めったにこれなくなるでしょうね。じゃ、そろそろぼくも引き揚げます」
「ありがとうございました。……神無月さん、ほんとにまたきてね。待ってます」
「はい、また」
         † 
 翌日火曜日の午前遅く、カズちゃんが浮きうきと荻窪のアパートにやってきた。あいにくの雨。ランニングにも本郷の練習にも出ていけないので、机に向かってドストエフスキーの白痴を読んでいた。
「あれ、休み?」
「ひさしぶりに有給とったの。はい、ユニフォーム。溜まった洗濯物持ってくわ」
 カズちゃんは濡れた傘を狭い流しに寝かせる。
「雨の中、たいへんだったね」
「きのうあんなに天気よかったのに。今週の土日も危ないらしいわよ」
「来月のお父さんたち、月曜まで延びてもだいじょうぶだよね」
「その予定のはずよ」
 畳に坐る。化粧ッ気はなく、ジーパンを穿いている。とても似合う。荻窪ではセックスを遠慮したほうがいいと思っているらしく、万年蒲団を見ても、カズちゃんはそんなそぶりはおくびにも出さない。狭い部屋でカーペンターズの『ワン・ラブ』を聴かせた。
「防音が効いてるからね」
「音楽っていいわね。フジでいろいろな曲が有線で流れるけど、つくづくいいものだなって思う。キョウちゃんに会うまでは知らなかった。よく西松の勉強小屋でステレオ鳴らしてたわね」
「あのころの音楽からいまも離れられない」
「六十年代ポップスって、ある種の完成形ね。ああいう時代はもうこないでしょう。じつはね、区画整理の立ち退き料の一部を、おとうさんが送ってよこしたの。これで貯金が五百万円を超えたわ。あたし、もう、とんでもないお金持ちになっちゃった」
「その顔は、何かに使うつもりだね」
「いいえ、喫茶店をやるのは、まだまだ先の話。キョウちゃんの口座を作ったの。三百万円入れといた。はいこれ、通帳」
 通帳と判子を差し出す。
「いらないよ。それでなくてもお父さんが毎月学費と生活費を送ってくれてるんだし、ときどきカズちゃんがくれるお金や、飛島の人たちが送ってくれるお金が抽斗にあふれてるよ。本とレコードをいくら買っても減らない」
「そう。じゃ、預かっとくわね。必要なときはいつでも遠慮なく言って」
「プロの契約金が入ったら、みんなに還元しないと」
「よしなさい。だれもほしがらないから。ぜんぶお母さんにあげればいい。きっと受け取るわよ。お祖父さんとお祖母さんは受け取らないと思う。きょうはいっしょに歩きたくなってわざわざきたの」
 傘二つ並べ、裏道を通って荻窪駅に出た。長いさびしい道を歩く。カズちゃんといっしょにいるとどんなときも充実した気分になる。目についたケーキ屋ふうレストランでミートソースを食べる。デザートにサバラン。ヒデさんと青森のホテルで食べたケーキ。甘いものの苦手な私が、かろうじて食べられるウィスキー入りのケーキだ。ヒデさんはどうしているだろうか。
 天沼陸橋から雨の線路を眺める。
「鶴田荘に追いかけてきた雅江さんのこと思い出すたびに、キョウちゃんに抱いてもらえてほんとうによかったと思う。あたしもキョウちゃんに遇うまでは、雅江さんと似たようなものだったもの」
「ぼくの不道徳は先天的なものだ。それでもかまわないって、このごろでは思ってる。道徳家なら振り切るしがらみを、ぼくはぜったい振り切らない。捨てられたくない人間をぼくは捨てない。別れというのは、人目にはドラマチックに見えるかも知れないけど、ぼくの目には不細工なものに見える。たとえば、なんだかみすぼらしい野良犬が、通りかかった人を慕って足にまとわりついてきたとするね。それを振り切るのは、振り切る側に都合があるからだ。家で飼ってはいけないことになっているとか、親兄弟が犬嫌いだとか、本人が面倒くさいとか、いずれにしても人間の側の都合から振り切る。そういう姿は、どんな理屈をつけてみても不細工に見える。そんなときに犬があきらめて去っていったら、道徳家はホッとしてさよならを言う。それで何もなかったということになる。すがりつかれる道徳家本人だってみすぼらしい犬なのに、わが身を振り返ることができない」
 もうカズちゃんの目が充血している。
「キョウちゃんの言葉って、人の口から出てくるものじゃないみたい。耳じゃなく、胸にくるの」
「考えたとおり、しゃべってるだけだよ」
「考えたとおりにしゃべれるものじゃないわ」
「……捨てる者も、捨てられる者も、おたがい野良犬だ。庇い合い、愛し合わないと」
「ええ、野良犬同士、これからの一秒一秒を大切に生きていきましょう。いっしょに生きていきましょう。私、いつまでもキョウちゃんのそばにいるわ。あと十年もすれば、お婆ちゃんだけど」
「いつ生まれて、いつ死ぬかなんて、どうでもいいことだよ。出発点と終着点のあいだの一瞬だけが大事だ。……散歩のできる街じゃないね。アパートに戻ろう」
「ええ」
 表通りのアーケードを通って家路につく。カズちゃんの手を握って振りながら歩く。傘がぶつかる。
「いまが大事なら、生まれたことも、老いることも、死ぬことも、人生に何の影響も与えない。もう何の影響もないような過去を引きずったり、未来にあこがれたりするのはよそうと思う」
「過去も大事にしてね。一瞬一瞬のすばらしい過去と向き合うべきよ。一日一日積み重ねた大切な過去があるから、よくも悪くも、キョウちゃんはいまを生きていられるの。過去を引きずって生きなければ、すてきないまはないわ。私たちも同じよ」
 アパートに帰りつくと、すぐに口づけをし合う。
「抱いて」
「うん、この部屋では初めてだね。何回もしていい?」
「いいわ。うんと出して」
 夢見心地のセックスになるとわかっている。カズちゃんがきちんと万年蒲団を敷き直して裸身を横たえると、私は丁寧な愛撫を始める。カズちゃんはすぐに昇りつめ、愛らしく痙攣する。陶磁器の肌に穿たれた膣が私を受け入れ、私をあふれる愛で包みこみ、強く揉みしだく。悶え、あえぎ、声を上げて果てるカズちゃんの何もかもが美しい。私は腹を絞って射精し、カズちゃんは腹を絞って打ちふるえる。
「カズちゃんを失ったら、もう女は抱かない」
「キョウちゃん!」
         †
 四時過ぎ。高円寺のホームに立つカズちゃんに東西線の車内から手を振る。カズちゃんも畳んだ傘を振った。五時少し前、門前仲町着。
 多少日が短くなっているので、川面にもう夕方の気配がある。四国屋に着くと女房がへんに愛想よく出迎えた。私の事情を主人に教えられたのだろう。主人は私に気づかず電器店にこもっている。
「次のお仕事見つからなければ、ご紹介しましょうか」
「いえ、だいじょうぶです。野球で忙しくなりますから、もう仕事はしてられません。いい経験でした」
 私の声を聞きつけて、笑顔のマーくんがグローブを持って駆け下りてきた。
「先生、約束だったよ!」
「お、キャッチボールか」
「うん、先生のグローブはないよ」
「いらないよ。どうせ軟球だろ。力いっぱい投げていいよ」
 父親が電器店からやってきた。
「名残惜しいです。たった二週間でしたが、楽しかったな。神無月さんが店先に現れたとたんに、なんか、こう、世界がパーッと明るくなったんですよ」
 母親はホホホと笑い、
「さ、遊んでらっしゃい」
「じゃいこうか、マーくん」
 大横川のコンクリート堤の下でキャッチボールをする。十五メートルほどの距離をとる。防護壁が高いので、暴投してもボールが川に落ちる心配がない。左利きのマーくんは投手らしい格好をつけ、わざわざワインドアップして投げてくる。山なりのボールに情熱がこもる。受けてみると、なつかしいDSボールだった。ときどきショートバウンドがきて、掌で軽く掬い上げると、
「先生、キャッチボールうまいね! やっぱり野球選手だ」
 と全身で喜びを表現する。うれしくなり、つい手首を返して投げ返す。マーくんが目をつぶって差し出したグローブにビシッとはまる。
「ヒャ!」
 驚いてマーくんがグローブごと地面に横たわる。
「先生、速すぎるよ!」
「ごめん、ごめん、最近軟式でキャッチボールなんてしたことがないから、力加減がわからなかったんだ」
 マーくんも意地になって強いボールを投げ返そうとする。かわいらしい。
「いいぞ、いい球だ! 将来はジャイアンツの大エースだ。よーし、投げてこい。もう五メートル前からだ」
 私はしゃがんでキャッチャーの姿勢をとる。投げこんでくる球を片手で捕っても両手で捕っても、わずかに掌を引くので、ピンポン球のような手触りだ。二十球ほどやりとりをして、
「じゃ、そろそろ切り上げて、最後の勉強をしようか」
「もっと!」
「しょうがないな」
 あと十球ほどやった。素手で何気なくボールを処理している私を見て、
「先生、ほんとに野球じょうずだったんだね」
「小さいころからやってたからね。マーくんぐらいのときから。さあ、いこう」
 マーくんのグローブを借りて右手にはめ、DSボールをポンポンと叩きこみながら帰る。左利きだったころの感触がなつかしい。肘を屈伸してみる。まったく痛まないことはわかっている。痛みの恐怖は長年腕立てのときにあった。しかし、恐怖を圧(お)して思い切ってやってみると、痛まないどころか、十二、三歳のころとは比較できないくらい腕力がついているとわかってうれしかった。握力は左も右もかなりある。どちらも野球選手の平均をはるかに超えている。バットコントロールも両腕を使って自在になった。しかし、肘の奥の爆弾を恐れる気持ちは消えない。
「近所の子と野球はするの?」
「やるよ、ゴムボールで」
「五年生から、学校の野球部に入れるね」
「うん!」
「もっと走って、からだを引き締める努力をしなくちゃだめだよ」
「うん。いいピッチャーになるためにね」
「そうだ」


         百八十二

 父親の電器店に寄り、
「もうやり残したことはありません。いらぬお節介ですが、マーくんが野球をやりたいと言い出したら、成功や挫折のことなど考えずに、思う存分やらせてやってください。好きこそもののじょうずですから」
「はい、もちろん。神無月さんの事情は女房に話しました。腰を抜かしてましたよ。息子は大喜びです。忙しい中、よくぞ二週間もきてくださいました。感謝します。きょうもよろしくお願いします」
「今月の二十四日に、マーくんを東京スタジアムに連れてってあげたいんですが」
 母親が愛想笑いで階段の下に私を迎えにきた。
「それはお世話さまです。時間外のお手当は?」
「そんなものはいりません。今月分の給料を使わせていただきます」
「変わった人ですね。いままでそんな先生いませんでしたよ。マーくん、上にいってて」
 母親は私の腕を引いて、階段の陰に引いていき、
「……娘がほんとにご迷惑をおかけました。これまでの先生方にも危ない遊びを仕掛けて、いろいろ苦情はあったんです。神無月さんにもモーションをかけたけどフラレた、と平気な顔で言ってました。ほんとうに申しわけありませんでした。もう家庭教師を雇わないというのは、そういう意味もあるんです」
 私は笑って、
「これといった迷惑はこうむってませんよ。ぼくはこう見えても、小さいころから雑な環境に育ったおかげで、多少のハプニングの一つや二つ、適当に処理できます。彼女を責めないでやってください。まだ中学生です。無邪気なものですよ」
「ありがとうございます。よく叱っておきましたので、きょうは勉強のおじゃまはしないと思います」
「お母さんも、休憩時間以外はマーくんを呼ばないでください。一時間後に十五分休憩です。それから三十分やって帰ります」
「はい、ほんとうにありがとうございます」
 マーくんはまじめに勉強した。漢字書き取りも、算数のドリルも、社会科の研究帳も、私がよしと言うまで熱心にやった。十五分の休憩のときには、母親が紅茶を持ってきて、そっと出ていった。
「この根性があれば、すばらしい野球選手になれるぞ。東京スタジアムにいったらきっと感動する。感動を忘れちゃいけないよ。感動を忘れなければ、とことん努力できる。きょうはキャッチボールも勉強もよくがんばった。褒めてあげる」
「東京スタジアムにいったあとは、もう先生に会えないの?」
 マーくんの切ない声を聞いて、姉が隣の部屋から出てきた。
「会えるわよ。会いにいけばいいじゃない」
「こられるのは、正直、ありがたくない。……これまで面倒くさくて言わなかったけど、じつはぼくは、とても期待されてる野球選手なんだ。毎日野球野球で忙しい」
「やっぱり、ほんとうだったんだ!」
「そう、お父さんは気づいてたけど、ぼくが黙ってもらってたんだ。マスコミがうるさいからね。これからは、テレビやラジオで応援してね」
「テレビにでるの?」
「ときどきね。じゃ、帰るよ。野球、がんばるんだよ」
「うん、先生もね」
 階段の下に父親と母親が待っていた。二人で律義に辞儀をする。父親が、
「友人から頼まれたこととは言え、かの有名な東大の神無月選手が、一般の家庭で家庭教師をするなんて、だれも信じませんよ。感服しました。林さんも人が悪い。ひとことも言ってくれないんだもの。よほど神無月さんを信頼してたんですね。ほかのだれにも頼みたくなかったわけですから」
 マーくんが私の手を握って振り、
「すごいや、すごいや、ホームラン王で三冠王!」
 女房が、
「最初知らなくてよかったです。知ってたら、気が気でなくて、あれこれお世話しちゃったでしょうね」
 壁女が、
「先生、ごめんなさい! これからは中学生らしくします。ちゃんと勉強もします。それで許してください」
「林もぼくも手軽に見えたんだね。そう見えたのは、こちらの責任だろうけど、とにかく手軽に見えるものに手を出しちゃいけないよ。遠く、得がたく見えるものに手を出すんだ。どんなときもね」
「たとえばどんなもの?」
「虎の威を借りられないもの、自分の力を超えてるように感じるもの、それでもどうしても手に入れたいもの。もちろん勉強の成績もその一つだろうけど、すぐれた技術も、愛情もそうだ。何でもじっくり考えること―それもなかなか手に入れられない大事な一つだろうね」
 三人に辞儀をし、手を振った。見納めのつもりで夜の川を見下ろしながら渡った。
         †
 九月十一日水曜日。晴。六時起床。十七・二度。ダンベル持って草原の公園までランニング。裏の空地で筋トレと素振りをし、近所の喫茶店でモーニングサービス。カズちゃんの持ってきたユニフォームを入れたダッフルを担いで本郷に向かう。
 補欠たちが部室を掃除している。ボールの縫い目を縫っている補欠もいる。マネージャー四人が用具をグランドへ運び出す。補欠とマネージャーがトンボを持っていっせいにグランド整備。私も混じる。楽しい。
 十時。鈴下監督以下スタッフがやってきて、トレーニング開始。グランド周回、ダッシュ、バック走。白川がタイムを連呼する。鈴下監督、コーチ、助手が付きっ切りで練習の様子を見て回る。西樹助監督、仁部長、岡島副部長はネット裏で全体監視。律儀にいつもの三種の神器。
 カメラマンが増えてきた。黒屋が報道陣のために球場内アナウンスを入れて、練習の種類と一人ひとりのレギュラー選手を紹介する。詩織と睦子がゴミ袋に小石を拾って回っている。記者たちとすれちがうときも礼儀正しい。襟の立った白いジャージの左胸にくっきりと《東京》のロゴ。すがすがしい。
 昼の休憩。マネージャー、レギュラー一同で、第二生協食堂で昼めし。私はカツ丼。詩織と睦子がお茶を酌(く)む。みんな口数が少ない。緊張が高まってきている。私は黒屋に、
「どうしてマネージャーになったんですか」
「野球経験というものはないんですけど、家族が野球好きだった影響で、野球を観るのが好きになって、小学生のころからテレビで高校野球を観たり、プロ野球に連れてってもらったりしてました。スタンドに入る瞬間の視界が開ける感じがとても好き。でも、東大野球部に入ってみたら、九十パーセントがマネージャー室での事務仕事。部のスケジュール作成、お金や道具の管理、広報、渉外活動といった仕事ばかり。男子マネージャーとちがって、オープン戦の日程を組んだり、合宿に帯同するみたいな、現場近くの仕事はしないんです。どちらかと言えば、ファンの目線で遠くから眺めてるだけです。もちろん合宿には自主帯同しますし、差し入れの受付係もやりますけど」
 部員たちの手前だろうか、いやにまじめな応え方をする。
「とにかく雑務なんだね。つづけられる理由は?」
「野球だからです。ほかのスポーツは楽しく感じられません。野球部以外だったら絶対にマネージャーはできない。六大学野球というきびしい戦場で、東大の選手がプレーヤーとしてやりつづけることと、ほかの大学に勝つということが、どれほど困難で、ものすごい挑戦か、子供のころからたくさん野球を観てきたからこそ、想像もつかないことだってわかるんです。サポートするスタッフも含めて、チームメイトのことを心の底から尊敬しています。その気持ちがあるのでがんばれます。……そこへ神無月くんが舞いこんできたんです。これまで観てきたどんな野球ともちがうものをいまこの目にしています。尊敬を超えて、感謝の気持ちでいっぱいです」
 そうだそうだ、という声が上がる。
「マネージャーはみんなスコアブックがつけられるの?」
「はい、みんな。選手の人たちはつけられないと思います」
 白川が、
「選手はスコアをつける習慣がないからね。プロ野球選手もほとんどつけられないと聞いてる」
「国立大学の部費は、個人的に徴収するの?」
 詩織が、
「月五百円ですけど、支払いは強制じゃありません。遠征費用も大学から補助金が出るので、一人三千円くらいです。これも強制じゃありません。各所からたっぷり賛助金が出るおかげで、困ることはありません。キャンプのときの各所からの差し入れの量は尋常じゃありません」
 白川が、
「払う払わないの差が出ると不公平感が高まるから、ほとんど徴収しないな。コーヒー飲みにいったりする分は自分たちで出し合うしね」
 黒屋が、
「補欠の人たちは、進んで払う人が多いですよ。レギュラーか控えになって払わなくてもよくなるのを出世と思ってるようですから」
 グランドに戻り、有宮、台坂のブルペンにバッターとして立つ。二人ともスリークォーター気味に腕の振りが定まり、百四十キロ近いスピードになっている。
 一年生の那智を相手にフリーバッティング十本。百四十二、三キロ出ている。速いが打ちやすい。ストライク球をほとんどホームランにする。三井、村入、森磯を相手に十本ずつ。三人ともまだ百三十キロそこそこ。ボール球も含めてほとんどホームラン。助手とマネージャー連が塀際で球拾いに忙しい。女たちはするどい打球をじつにうまく避ける。レギュラー連のフリーバッティング。横平が絶好調。臼山に当たりが出てきた。ただ那智相手だとファールが多い。林に入ったファールボールは十数人の補欠たちが捜す。
 マシンバッティング。私は参加せず。臼山についてもらってバーベル八十キロ十回。十五分休憩して、さらに三時まで内外野守備練習。ノッカーはコーチ二名。内野はゲッツープレイのしつこい練習。野添、磐崎のコンビはサマになってきた。外野はそれぞれ二塁送球十本、三塁送球十本、バックホーム三本。
 走塁。レギュラー全員二塁スチール十本、ベーラン全速三周。終わり。
 実戦を想定した、バトンガール二十名余りとブラバン五十名ほどのパフォーマンス、応援団のパフォーマンスを見る。管楽器の響きが素晴しい。白川が写真を撮りまくる。
         †
 荻窪に帰り着き、ドストエフスキーの『白痴』第三篇、七まで。イッポリートの長い告白を読み終わってから、数カ月ぶりにいのちの記録を開く。

 街なかを歩いていて、難なくあの人形たちを見分ける。この世に生命体として存在しているのは見せかけで、実際には防腐を施され、生活の台座に据えられて模範的な晴れがましい見世物になっている人形。その人形たちの頭の中には、もうずっと前からどんな思考もなく、あるのはただ八方からの視線に備える習性と、空しい生存を人目に曝しつづける惰性ばかりで、それだけがようやく彼らを支える力だ。しかし、そんなこともどうでもいい。いつか自分を戒めたはずだ。私は意見を言ってはならない。
 カズちゃんを求心点にして、ゆったりと構えて曲線を描くように生きている。曲線上でぶつかる人事は、常に心の中でカズちゃんに報告しながら対処する。そうやって彼女についてゆくこと以外、私にできることも、したいこともない。きらめくような学習能力がなく、ものを覚えられず、世の知恵者の言うことも皆目わからないからだ。おまけに、この世の仕組みも通念も憎んでいないので、イボ男のように社会構造をなじる妄言すら吐けない。大がかりなものを憎むほどの想像力がないのだ。だから、集団を指揮することも、責任を持つことも、威張ることも、能力以上の活動として避けるべき項目になる。権威者を憎みはしないが、生理的に苦手で、得体の知れない劣等感すら覚えるので、権威のない者しか愛せない仕儀になっている。これを要するに、私は人の上に立つほどの大望もなく、大望を抱くほどの頭の切れもなく、他人を搾取するほど神経が強靭でもないということになる。
 プロ野球でうまくやっていけるとするなら、それはまちがいなく幸福なことだ。しかし、幸福を願っても、願いが叶うかどうかわからない。バッターボックスに立ち、ピッチャーを見つめ、全力でボールをつかまえる。その結果の積み重ねが、人との関係性にどんな影響を与えるのかまったくわからない。万事なるようになっていけばいいと思っている。ホームランを打つときの感覚のささやかな満足、それさえあればいい。
 人には、長かろうと短かろうと、生まれてから死ぬまでの時間しかなく、どれほど不幸でも、どれほど幸福でも、一秒一秒が流れていって、生涯が尽きる。そのはかなさを物足りないと言う人もいるかもしれないが、私は何も感じない。ありとあらゆる連関があったりなかったりするすべての事柄に対して、わざわざ思索の義理を果たさなければならない理由はないし、果たさなくていい理由なら腐るほどある。
 どうでもいいと思っているわけではない。考えるのが、面倒くさいだけだ。日々の形のない混乱の中にも、私なりの選択の調和が隠されていて、何百何千もの選択肢の中から、一瞬一瞬、自分の心に合った必要な一つのものだけを選び取っている。これだけが大切なのだ、これこそが奇跡だ、と考えながら生きている。その一瞬の数が減って、ついにまったくなくなってしまったとき、選択肢がすべて消え、行動の円環がしっかり閉じようとするとき、私は求心点を見据える。その見据えたものこそ、私が追い求めてきたほんとうの目的だ。―カズちゃんを求心点にたった一つの惑星となること。



         百八十三

 九時を回って、閑散とした高円寺駅に降りる。ダッフルを肩に歩く。風が出てきた。永遠にこの風の中に留まって舞いただよう。いつだったろう、こんな気持ちになったことがたしかにあった。そうだ、牛巻病院の暗い廊下、青高のグランドを見渡す金網、青森港の売春宿の火鉢―。
 カズちゃんの家の前に立つ。コスモスの生垣が玄関灯に照らし出されている。ルーフ付きのガレージに赤いボルボが鎮座している。おとないをしないで玄関の戸を開けると、奥の部屋からレコードの音がした。襖から三人の首が伸びた。
「わあ、キョウちゃんや!」
「どうしたの? こんなに遅く。もうすぐリーグ戦でしょう」
「うん。さびしくて。コーヒー飲んだら寝る」
 千佳子が、
「素子さんが有線でいい曲見つけて、さっそく買ってきたんです」
 上がりこんで居間を覗くと、次の間でステレオがかかっている。居間のテーブルに向かい合うように問題集らしき小冊子が三冊広がっていた。三人とも試験勉強をしていたようだ。胸にいい風が吹く。
「スティービー・ワンダーの『太陽のあたる場所』か。いい耳してる。何気なく名曲を探し当てるんだね」
 カズちゃんは私に短い一瞥で応え、たちまち明るい笑いをその美しい顔に広げた。笑顔のまま立ち上がって、敷居の前で私を抱き締めた。口づけをする。あらためて顔を見る。近くから見る彼女の美しさはひときわだ。カズちゃんと交代で、素子も長いキスをする。そして遠慮がちな千佳子のキス。四人くつろいでテーブルにつく。カズちゃんがコーヒーをいれてくる。
「直人が高熱出して、トモヨさん、付きっ切りですって」
「またか」
「二歳ぐらいまではしょうがないわ。男の子の持病みたいなものだから」
「心配ですね」
 千佳子がカズちゃんの横顔を見つめる。素子が、
「心配あれせん。男の子って、ほんとに二、三歳までよう熱出すんよ。四十度なんか、しょっちゅうらしいで。小さいころ、近所のおばさんたちに何度も聞いたわ」
「ケガが原因の高熱でないかぎり、だいじょうぶだ。破傷風から生還したような男が父親だ。何も心配ない」
 私はテーブルの問題集を取り上げ、素子に尋いた。
「試験は来月だっけ」
「うん。お姉さんにときどき手伝ってもらうんよ」
 カズちゃんが笑いながら、
「同じ問題集買わされちゃった」
「働いて、勉強して、たいへんだね。でも、資格を身につけるのはいいことだよ。生活に芯ができる感じだ。人に芯張り棒が通るのを見ると、晴ればれとした気分になる」
「キョウちゃんがおらんかったら、いらん芯張り棒やわ」
 千佳子が、うん、うん、とうなずき、
「わかります。私の受験も神無月くんがいなければ、いらないものです。和子さんが私たちに生甲斐を与えて、それを神無月くんが喜ぶようにしてくれてるんです」
「そのとおりよ。キョウちゃんは、試験は嫌いだけど、試験に勝ち抜く人間が大好きなの」
「試験とか、マラソンとか、世間のくだらない競争にはきちんと勝っておかないと、勝ち負けのない愛情の世界で安心して休息できなくなる」
 千佳子が、
「……人間同士愛し合うのに勝ち負けなんかないですものね。世間の競争に敗北してたら、安心して愛し合えません。このごろそれがよくわかります」
「ビリー・ホリデイ買っておいたわ。三人で聴いて、なんだか悲しくなって、みんなで泣いちゃった」
「さっきの曲の歌詞の意味、わかる?」
 私が尋くと、カズちゃんは、
「わからないけど、やっぱり悲しくなる」
「ちょっと聞き取ってみよう」
 素子がもう一度かけにいく。私はステレオの前にいって耳をすました。黒人特有のこぶしがきついので、正確に聞き取るのは苦労だったけれども、意外と発音が澄んでいて、どうにか部分的に意味がつながった。
「……人生が終わる前に、太陽の当たる場所を見つけなくちゃ、落ち着かない心を捨てて希望を持つために」
「抽象的だけど、やっぱり悲しい詞ね」
「テレビは? 姿がないけど」
「納戸に入れちゃった。千佳ちゃんの受験が終わるまで。どうせ、ハレンチ学園とか、メキシコオリンピックみたいなことしかやってないもの」
「大晦日と正月には出してね。流しっぱなしでいい。雰囲気のものだから」
 三人で問題集に向かった。
「じゃ、寝る。六時に起こして」
「了解。用具、ユニフォームはオッケーね」
「だいじょうぶ」
「ゆっくり寝てね」
「うん」 
         †
 木金と練習に出る。報道関係者の多さに辟易する。しかしこれは、東大野球部が喜ぶべき世間的な勝利だろう。その一員である私は―世間では勝利できない馬鹿な人間だと教えこまれ、やがて勝利できないことが気質に合うと覚醒し、以来世間的な勝利など思いのほかに暮らしてきたのに、中毒者のように一芸にこだわりつづけたせいで、とつぜん世間的勝利を彼らと共有する破目になっている。
 まちがいなく私は、一芸に秀でた馬鹿な男だ。馬鹿に生れついたくせに一芸に秀でたということがどういう意味なのかを確かめるためには、このまま流れに身をまかせて追跡してみるしかない。馬鹿である恐ろしさはよく知っている。自分を囲む環境を理解できないということだ。いつもだれかに導かれていなければならない。一人で生きられない。その恐怖が自分の業であるなら、あくまでその業のいく末をこの目で見てやるしかない。生きていたいのだから。
 この先、何の挫折も経験しなければ、馬鹿を隠蔽する一芸は天与の祝福ということになるだろうし、挫折して非業の人生を歩むことになったならば、一芸は馬鹿に下された天罰ということになるだろう。それまでの私の奮闘は、一芸に頼りながら馬鹿を押し隠すための窮余のあがきだったということになるだろう。この先は? 馬鹿であることからもたらされる恐怖を甘受し、これまでどおり流れのままに、馬鹿を曝け出し、まっとうな戦いをまっとうに戦い、祝福と罰に素直に浴するしかない。
 レギュラー投手陣はブルペンで軽めの調整。ただし、入念にコースピッチングをしている。いよいよだという感じがする。レギュラーのバッティング練習に力が入っている。低目を意識して振っている。ただ、二軍連中は、エラーや、力んだ空振りばかりしている気のない選手が目についた。
         †
 金曜日の練習後に鈴下監督がベンチ前に円陣を作り、
「この秋で弱小東大の汚名をしっかり返上しないと、春の準優勝が〈参加賞〉だと思われてしまうぞ。春季はたしかにできすぎだった。しかし〈敢闘賞〉ぐらいには思っておいたほうがいい。敵五チームとも、うちが百五十パーセントの力を出してようやく互角のチームばかりだ。五十パーセントのミラクルパワーを出しても勝てないということだ。二百パーセントの力を出してくれ」
 と理屈の通らない檄を飛ばし、克己主将は、
「レギュラーはバッティングの調子がいいだけに、どんなボールでも強く振りにいっている。いい傾向だ。振るだけでなく、どんどん見逃して選球の感覚も作り上げろ。マシンは疲れないから遠慮するな」
 大桐副将は、
「ウォーミングアップのときにもっと声を出せ」
 中介副将は、
「この秋季リーグが、四年生は最後の最後になる。その惜別の気持ちを一戦一戦のエネルギーにして戦ってほしい」
 白川マネージャーは、
「全力で戦えば、観客も応援してくれます。もちろんわがチームのスタンドの応援はまかせてください。グンと雰囲気を高めていきます」
 と意気ごんだ。鈴下監督が、
「金太郎さん、何かひとことないか」
「二百パーセントの力を出すために、もっと舞い上がりましょう。ジャンプするんじゃなく、舞い上がるんです。野球は楽しいものだということを徹底して感じればそうなります。三振しても、エラーしても、勝っても、負けても、どんなときも野球は楽しいと思ってください」
「オース!」
         †
 九月十四日土曜日。カズちゃんの家の客間で六時起床。十八・六度。静かな耳鳴り、軟便、シャワー、歯磨き。
 窓の外に小粒の雨。試合が中止になるほどの雨脚ではない。飯場以来の鮭の大きな握りめし一つ。玉ポンの味噌汁。
 ブレザーに着替え、ダッフルの中身を確認し、気分を引き締めるために革靴を履いた。
「バックネットの上のほうに、みんなでいるわ。がんばって」
「うん。いってきます」
 三人に玄関に見送られ、傘を差して出る。肌寒い。しかし私には野球日和だ。
 本郷グランドに七時四十分に入る。もちろんだれもいない。詩織がクリーニングに出してあった真新しいユニフォームがロッカーに下がっている。ダッフルから出すアンダーシャツも、白いソックスも、ブルーのローカット・ストッキングもすべて洗濯したてだ。丁寧に着替える。先日押し洗いしてから何日か使いこんだ帽子に、新品の帽子が二つ重ねてある。新しい帽子をかぶる。バットが八本。古めの三本を取る。野添が手入れして置いていったグローブをあらためて乾拭きしていると、氷を詰めたビニール袋を両手に提げてマネージャー四人がやってきた。
「早いですね!」
 睦子がびっくりする。
「三十分もすればみんな集まってくるんだろう? 初戦だし、気が張り詰めちゃってね」
 練習時とちがって、四人ともライトブルーのジャージを着ている。胸に TOKYO とロゴが染め出してある。
「スッキリしてる。セクシーさはない。さすが東大」
 黒屋が、
「セクシーじゃないんですか? なんだかつまんない」
 白川が、
「セクシーはバトンにまかせとけばいいさ。脱げば、バトンも女子マネージャーも同じだよ」
 過激なことを言う。私は笑いながら、
「脱ぐ気があればね」
「あるわよ。神無月くんが誘ってくれれば」
 黒屋が言う。詩織から聞いていたとおり、本領発揮だ。
「皮かむりの租チンを脱したときにね」
「それ、嘘くさいわね。どう見ても、神無月くん、プレイボーイだもの。それも筋金入りじゃないんですか」
「ふうん……。上野さん、樽は?」
「部長さんたちがきのうのうちに神宮球場のベンチに運びこんでます。ブラバンとバトンと応援団は、八時に別のミニバスで出発します。氷は解けないようにクーラーボックスで運びます。早めに支度しなくてはいけませんから、私たちもいっしょにいきます」
「それから、鈴木さん、ときどき帽子、クリーニング屋に出してください」 
「はい。ああ、沁みこんだ汗って、なかなか取れないんですよ。繊維の奥で結晶化するんですって。クリーニング屋さんならなんとかなるんじゃないかしら」
「うん、なんとかなるって確かめた」
「わかりました。適当に持って帰ります」
「ありがとう、四試合ぐらい終わってからでいいです」
 マネージャーたちと入れ替わりに、レギュラーが大挙してやってきた。
「オー、早いな、金太郎さん」
 克己が大声で言う。
「一番乗りでした。先輩たちも、気合が入ってますね。先攻を活かしましょう。初戦は勝ちますよ」
「あしたもな。早稲田で勝ち点を挙げないと、優勝が遠ざかる」
「ぼくを抑えるために、安田でくるでしょう」
「抑えられたらいいけど、たぶん金太郎さんに打たれて、しばらく中継ぎでがまんしてから、一回か二回、小坂が投げるだろう」
「そのとき五点差ぐらいじゃ危ないですね」
「ああ、取れるだけ取ろう」


         百八十四

 何人もの男たちがユニフォームに着替える姿は壮観だ。一人ひとりの筋肉を確かめる。特に克己と水壁が隆々としている。横平は私と似たような凹凸のない肉のつき方をしている。総じて同年輩の男たちよりはるかに力強そうな筋肉になってきた。
 初戦を外された中介と大桐に沈んだ様子はなく、緊張を保ちながら、気持ちを明るく弾ませている。
「磐崎さん、英文科の大学院に進まれると克己キャプテンから聞きました。これ、春に気まぐれに買ったP・G・ハマトンの『ジ・インテレクチュアル・ライフ』の原書です。どうぞもらってください。ぼくは読む暇もないし、読んでも太刀打ちできませんから」
「おお、百年前の名著。遠慮なくいただこう。新品だな。ゲ! 七千円。いいのか?」
「はい。ツンドクは趣味じゃないので」
 私はダンベルの翼運動を始めた。横平、水壁、野添が倣う。大桐が、
「野添、活躍しすぎるなよ。法政の第一戦には出場したいからな」
「生まれて初めて神宮のグランドに立つんです。舞い上がる前に上がっちゃって、活躍なんかできませんよ」
「補欠だったとはいえ、中商だからな」
 中商という大桐の発言を気にして、部室が不気味なほど静かになった。詩織と睦子が熱い目で私を見つめている。野添が私の横顔に、
「……中商が何だって言うんですか。名古屋で神無月さんのことを知らない人間はいませんよ。尊敬してます」
 私は笑い返し、
「何も気にしてないよ。中商に蹴られたんじゃなく、母親に蹴られたんだから。野球名門校も甲子園も永遠にぼくの話題じゃない。ちょっとハイキン手伝ってくれる」
「はい!」
 私に倣って、めいめい床に寝そべり、腹筋背筋をやりだした。私はみんなより少なめに十回ずつやり、その代わり七十キロのバーベルを五回上げる。マネージャーたちがじっと見ている。
 グローブとバットを持ってみんなとグランドに出る。鈴下監督と部長たちがユニフォーム姿で待っていた。その場で西樹助監督が先発メンバーの発表をする。
「一番、ショート野添、背番号4」
 ウォーという声が上がった。野添は右投げ左打ちだ。これで左バッターの先発が三人になった。
「二番、セカンド磐崎、背番号1、三番、ライト横平、背番号7、四番、レフト神無月、背番号8、五番、センター岩田、背番号10」
 さらに大きな喚声が上がった。
「ただし、野添と岩田は、早稲田初戦だけの試運転だ。結果がよければそれからの各第一戦に使う。だめなら今年はこれっきりだ。六番、キャッチャー克己、背番号2、七番、サード水壁、背番号24、八番、ファースト臼山、背番号22、先発ピッチャー、那智、背番号14」
 喚声が大喝采に変わった。
「那智も試運転だ。大桐と中介は、各第二戦は先発で全出となる。以上」
 部長が、
「バトンが十三人入る。七人はバトンなしの白手袋。各回の攻撃のとき、出ずっぱりでパフォーマンスをする。気を散らさないように」
 ワハハハという、東大生らしくない高笑いが上がった。青高生の開放的な笑いが思い出された。周囲を窺わない明るい表情の男たちを見て、黒屋が苦い顔をする。睦子と詩織はニコニコしている。悦びを知っている人間はいつも上機嫌だ。
 八時半、バス三台で赤門前出発。二台は八時に出発している。本郷三丁目を過ぎ、順天堂前を右折。
「白川さん、洗濯洗剤ありますか」
「あるよ、平べったい洗濯石鹸が部室の備品ロッカーに転がってる。どうして」
「一試合ごとに、帽子の塩っけを落とそうと思って。頭に尋常でなく汗をかくんです」
「変わったことを気にするんだな。みんな四年間塩漬けだぜ」
 俺も、俺も、とレギュラーたちが脱いで見せる。彼らの帽子の縁がびっしり塩で固まっている。
 水道橋、後楽園、飯田橋と過ぎる。外堀通りに入り、市ヶ谷、四ツ谷、東宮御所のへりをなぞって走り、青山一丁目から外苑前へ。秩父宮ラグビー場の緑を右手に見ながら、霧雨の神宮球場にバスが到着した。
 ひさしぶりの明治神宮野球場。明治神宮を囲む公園の中に、じゃまものに視界を遮られることなくそびえている。明治神宮の鎮守の森であるこの一帯は、空気の汚れた過密都市東京の緑のオアシスと言われている。鈴下監督が、
「大戦直後の神宮球場は、物売りの屋台からスルメを焼くにおいがただよってくるような、見るからに老朽化した建造物だった。それでも甲子園と同じくらいの収容人数があって、四万八千人も客が入った。いまは三万二千人で満員だ」
 古色を帯びた途方もなく大きな看板を見上げる。四階建の最上層のスタンドの上端に何本もの旗が翻っている。球場の周囲に黒い傘の花がチラホラ咲いている。傘を差していない人のほうが多い。
「イレギュラーバウンドは少なくなるけど、ユニフォームは泥んこになりそうだ」
 水壁が言った。彼はヘッドスライディングを極端に嫌う。きょうはふつうの滑りこみでも尻が泥まみれになる。
 スパイクをやかましく鳴らしながら、監督やスタッフについて指定ゲートをぞろぞろ通り抜ける。応援の補欠たちがスタンドにつながる通路へ去り、レギュラー二十数人、三塁側通路からロッカールームに入る。シャドースィング用の大鏡が壁に貼りついた見慣れた部屋だ。これまでここからベンチへの隘路を通り抜けただけの経験しかなかったので、野添と那智を誘ってロッカールームの周囲を少し歩いてみる。
「那智くん、ピッチングの基本はストレートだ。ストレートのコースどりだけで一試合投げ切るつもりでいくんだ。ただ速いだけでの甘いコースは打たれる。剛速球を投げられないかぎり、無理に押さえこもうとしないほうが賢明だ。打たせて取るという小細工もよくない。虚心に、狙ったコースへ自信のある球を投げる。五点や六点はくれてやるという気持ちでね」
「はい。がんばります」
「野添くん、これまでグローブとバットの管理ありがとう。この先は自分でやるからいいよ。きょうは一本ホームランを打つつもりでいってね」
「はい!」
 ロッカールームに面した廊下の反対側は雨天投球練習場になっている。四人投げられる。ロッカールームからベンチ入口までのあいだに、分岐した隘路が二つほどあって、一つには、両側に向かい合って白いビニールのカーテンを垂らしたコンパートマントが四つずつ並んでいる。
「黒柳徹子様? こんな楽屋があるのか。ん? 造りつけのテーブルと椅子しか置いてない」
「チンケですね」
 ほかにもいくつか、歌手や俳優の〈様〉づけの表札がはめこまれた柱があるところを見ると、芸能人用の待機部屋だとわかる。もう一本の廊下の両側には、やはり大部屋や小房がいくつかあって、長テーブルと黒板を備えた会議室や、コーチ室、選手用のサロンや食堂、物置部屋などがある。物置にはダンボールが無雑作に積んである。ベンチのすぐ裏は洗面室になっていた。
「見てもしょうのない空間だったな。ぜんぶ草むらでいいくらいだ。すばらしいのはグランドだけだ」
「同感です」
 三段の階段を上ると、十六人がけの青い長ベンチが二列あるダッグアウト。かなり広い。グランドとの仕切りに、鉄枠つきの背の低い頑丈な金網。左脇に氷水を入れた大樽が置いてあった。フタ代わりにバスタオルがかぶせてある。そのそばでマネージャーたちがグランドを眺めながら立っていた。
「あ、神無月くん、がんばって!」
「ファイト!」
 睦子と詩織の声。ベンチの右袖と背後の壁沿いに、助監督や部長や副部長、コーチの小原や兼が立っている。西樹助監督が、
「初回にすべてを賭けろ。大量得点よろしく」
「オー!」
「イージー、イージー!」
「いくぜー!」
 十時、練習開始。鈴下のかけ声で、グランドへ跳ねて出る。帽子を脱いでグランドに一礼。ワー! という喚声。目覚ましいほどのフラッシュの瞬き。ブラバンの響き。応援団の怒鳴り声。白スカートのバトンガールが客席の通路と演壇上で足踏みしながらバトンを回す。そのあいだに挟まるように短パンの白手袋たちも跳ねる。三塁側の東大スタンドに一般客も含めて二千人はいる。春の初戦は二百人もいなかった。万年最下位がダークホースでさえなくなった奇跡を目の当たりに見る。
 ネット裏の中段からNHKのテレビカメラがフィールドを睥睨している。最も高い所にいくつか並んでいるラジオ中継席に、それぞれの局のアナウンサーと解説者の姿が見える。カズちゃんたち五人の姿が目に飛びこんできた。そこだけが華やかな空気に包まれている。全員立ち上がって手を振るのでグローブを振り返した。
「神無月!」
 三塁ベンチ斜め上方の指定席から大声が飛んできた。山口と林が手を振っている。笑いながら帽子を振った。レギュラーと準レギュラーが打ち揃って、外野塀沿いにランニング開始。二周。ものすごい歓声。
「金太郎さん!」
「金太郎!」
「怪物ゥ!」
 バッティング練習開始。森磯をバッティングピッチャーに一人二球ずつ打って交代。手の内を見せないために、全員内野ゴロを打つかバントをする。監督命令だ。私はベンチに退がって彼らを見守るだけで参加しなかった。
 早稲田チームのバッティング練習。三塁側のファールグランドから眺める。彼らも二回りで、サッと切り上げた。荒川と谷沢が一本ずつ低いライナーでスタンドに叩きこんだ。
 霧雨に黒く湿った土の上で、十分間の守備練習が始まる。グローブを手に守備位置へ走っていく。雨に光る芝生がスパイクを濡らす。観客席を見回す。内野の端と外野の上段を除いてほぼ満員だ。一塁側ブルペンで安田が投球練習をしている。
 めずらしく鈴下監督直々、細長いバットで内外野に二球ずつ打ってくる。内野は一球目にファーストへ送球し、二球目にゲッツーを演じると、二塁手を残してベンチへ引き揚げる。外野ノック。水しぶきを上げてレフト前にゴロが飛んでくる。掬い上げ、素早くセカンドへ。指先が滑り大暴投。笑いがどよめく。岩田も横平も私が故意にやったと誤解したらしく、暴投をしてみせる。どよめきが伝染していく。二本目はバックホーム。まず横平から。すばらしい送球だ。肩がますます強くなっている。滑るようなワンバウンドでキャッチャーミットに突き刺さる。百メートル級の肩だ。次は三年生の岩田。彼はもともと強肩だとわかっている。私がいなければ東大ナンバーワンだろう。多少山なりでノーバウンドのバックホーム。じっと早稲田の連中が見つめている。最後に鈴下監督は左中間の塀際まで打ってきた。百十メートルほど。ツーステップして手首を効かせた低い送球をする。地を這うように伸びていって、両膝突いた克己のミットに地をかすめるワンバウンドで納まった。
「ホオオオー!」
 ため息混じりの歓声が球場に満ちる。アトラクションに喜んで声を上げたのではなく、純粋な賞讃の嘆息だ。ネット裏の野球関係者が何人か身じろぎした。
 つづけて早稲田のメンバーが守備練習に散った。今回も荒川と谷沢の強肩が目についたが、内外野ともども選手の肩も並ではなく、コントロールも抜群だ。霧雨が上がりかけては、また落ちてくる。両チーム全員、ベンチに落ち着いた。スコアラーをやる白川は学生服を着ている。これは規則だ。大学野球では女子マネージャーはベンチ入りできる。高校野球はできないが、青森高校ではベンチの陰に隠れるようにして入っていた。それもほんの一時期で、私が転校すると同時に睦子も千佳子も退部した。
 試合開始前の一瞬の安らぎ。ウグイス嬢の柔らかい声が流れる。
「本日の第一試合は東京大学対早稲田大学一回戦でございます。両チームのスターティングメンバーの発表をいたします。先攻、東京大学、一番ショート野添くん、××高校、背番号4……」
 闘魂はの演奏と斉唱。何度聴いても印象に残らない。この大学には音楽がないのだ。東大につづいて、早稲田のスターティングメンバーが発表される。大太鼓と校歌斉唱が重なる。応援団の指先が凛々しく揃う。早稲田には伝統的にバトンガールはいない。ブラバンと応援団のみだ。
 一番ショート荒川くん、××高校、背番号××、二番レフト木下くん、××高校、背番号××、三番キャッチャー阿野くん、××高校、背番号××……。出身高校と背番号もアナウンスされるが、耳に入ってこない。四番ライト谷沢。喚声。五番ファースト小田。強度の近眼らしく分厚い丸眼鏡をかけている。六番センター千藤。七番サード金子。八番セカンド中村。九番ピッチャー安田。ドーッと喚声が上がり、しばらく止まない。


         百八十五

 十一時。サイレンが鳴り、ホームベースを挟んで両チーム整列。シャッターの音が激しくなる。フラッシュが立てつづけに光る。まず両チームとも応援スタンドに向かって深々と礼。次に正対すると、審判の声が轟く。
「礼!」
「お願いしまーす!」
 軽い会釈。安田がマウンドに上がって投球練習を始める。一球目に超スローボールを投げてスタンドを沸かせる。
「ナメとるんか!」
 横平が怒鳴った。東大のバトンガールが登場し、フラダンスふうの踊りを始める。物慣れない妙な動きだ。応援団が空手の突きの格好をすると、それを真似たりもする。いずれ風物詩にでもなりそうな奇妙さだ。監督は選手交代のとき以外、ベンチ周辺から動いてはならないので、一塁コーチャーズボックスにコーチの小田が、三塁コーチャーズボックスにコーチの兼が立つ。高校野球では選手交代のときも監督はベンチ近辺にいて伝令を送らなければならない。
 霧雨に風が混じりはじめた。先頭打者の野添がバッターズサークルに入る。克己が叫ぶ。
「野添、好きにいけ!」
 右投げ左打ちの野添は強くうなずき、三度ほど素振りをくれると、バッターボックスに向かった。三塁側スタンドの応援パフォーマンスがいっせいに始まる。フラダンスが美しいラインダンスに変わる。応援団の手旗。『天使の誘惑』の演奏。審判の右手が上がる。
「プレイ!」
 初球真ん中高目ストレート。空振り。スタンドが沸く。タイミングが合っている。百三十四、五キロ。これが安田の最速だ。二球目、高目のスローカーブ。左のサイドスローなので、首のあたりへ落ちてくる。空振り。ふたたびスタンドが沸く。安田の得意げな顔。ライトの谷沢がするどい直観でラインぎわに動いた。三球目、内角シュート。強振。一塁線を抜いた!
「よーし、二塁打!」
 ベンチ組に回った中介の大声。たしかに二塁打コースだったが、もともとラインぎわに寄っていた谷沢に抑えられシングルヒットになった。谷沢がピッチャーの感謝に手を上げて応える。東大スタンドの割れんばかりの歓声、太鼓、応援団の突き、バトンガールの激しいジャンプ、天使の誘惑。レギュラーたちがベンチの鉄枠にしがみつく。
「イケ、イケ、イケー!」
「決めちまえー!」
「ヒット、お願い!」
 マネージャーたちが声を合わせる。十点は無理かもしれないが、早いうちに打ち崩せそうだ。鈴下監督が、
「引っ掻き回せ!」
 磐崎はバッターボックスへ向かって歩きながらベンチを振り返り、ニヤケ顔でピースサインを出す。狙いは一つだ。彼は私や中介に次いで足が速い。初球、スローボール。飛んで火に入る何とやらだ。磐崎は、トリャー! と叫びを上げながらセーフティバントを敢行した。ボールは湿った土に勢いを殺されて、サード金子のはるか前で止まった。悠々セーフ。野添は用心して動かない。三塁側スタンドで気の早い紙吹雪が舞う。金色のバトンがきらめく。彼女たちの足踏みのかすかな地響き。早くも闘魂はを唄いはじめる。黒屋の甲高い声。
「横平さーん、打ってェ!」
「スリーランいきましょう! ぼくはソロでいきます!」
「よっしゃー!」
 早稲田の内野があわててマウンドに寄り集まった。年配のコーチがマウンドに走っていく。安田の横顔に何やら話しかける。チビデブの安田はふてぶてしい態度でバックネットを見上げる。スローボールを使いすぎだとでも言われたのだろうか。セカンドの中村がギョロ目でこちらを睨む。ベンチ脇に立っている石井監督が悠然とうなずく。みんなで安田の肩を叩き守備位置に散っていく。鈴下監督が、
「ここだ、ここだ、一挙にいけえ!」
 安田がセットポジションに構えたとたん、野添が走る格好をした。安田はあわてて二塁へ振り向き、送球しようとしてやめた。これでスローボールが投げられなくなった。野添の頭脳プレーだ。あらためてセットポジションに入る。初球、外角低目へ逃げていく速いカーブ。
「ボー!」
 横平はピクリともせずに見逃した。二球目、真ん中高目ストレート。見逃し。ぎりぎりストライク。踏み出しのタイミングが球速にぴったり合っている。横平は真剣にホームランを狙っている。三球目、内角のシュート。ストライク。どう見てもボールだ。横平は低い低いと審判に掌で示しながら、ボックスの外へ出て、ブン、ブンと二度素振りをした。ツーワン。腰を低くした応援団の奇妙な突き、大太鼓の連打、バトンの乱舞、ブラバンの演奏がアップテンポの受験生ブルースに変わった。ネクストバッターズサークルからネット裏のカズちゃんたちと三塁スタンドの山口と林を見つめる。吉永先生と節子が手を取り合って立っていた。四球目、内角低目、カーブ。バシッと叩いた。
「いったかァ!」
 監督が身を乗り出す。ベンチ全員がライトへ首を伸ばした。低いライナーが右中間へ伸びていく。入らないが、たぶん抜ける。走者、バッターとも全力疾走。ボールは谷沢のグローブの先をかすめてフェンスに打ち当たり、芝生を転々とする。ランナーが次々と生還し、横平は三塁へ頭からスライディングした。フラッシュ、フラッシュ。嵐のような歓声。横平の腹は泥で真っ黒だ。あごまで泥んこだ。二点先取。
 三度に一度ぐらいしかかぶらなかったヘルメットを、今シーズンから毎打席かぶることにする。空色のヘルメットの雨滴を胸で拭い、しっかりかぶりなおす。ホームランしかない。ホームランを打てば、安田は中継ぎに代わる。金太郎コールが始まる。フラッシュが目を刺激するのでうつむく。ネクストバッターズサークルを歩み出て、カズちゃんたちに向かって手を振り、山口と林に向かっても振った。ネット裏と三塁側スタンドの観客が手を振り返してくる。
「ホームラン、ホームラン、金太郎!」
 霧雨が間断なく降る。腋の下でバットの握りをこそぐ。ベンチに視線をやり、大声を上げている仲間たちにうなずく。スローボールはぜったいこない。私が目先をくらまされないバッターだとわかっているからだ。白手袋のバトンガールたちが肩を組んでラインダンスを始めた。ブラバンが月光仮面の前奏を高らかに鳴らし、リズミカルに主旋律を演奏する。
 構える。外角へ速いスライダー。見逃し。ストライク。サードが前進してきた。セオリーどおりスクイズを警戒している。私がスクイズをするはずがない。想像力に欠けている。バットをこそぐ。構える。安田は素早いセットポジションから二球目を投げこんできた。タイミングを外すつもりの内角低目の速球。膝もとのボールをしっかり捕える。左手首を押し出し、しっかり返す。舞い上がる。フラッシュ、フラッシュ。
「よっしゃ、いった!」
 鈴下監督の声。ベンチの歓声。
「やったァー!」
「いただきー!」
 スタンドの怒号を貫いてネット裏から、
「キャー!」
 という叫び声が上がる。素子か千佳子の声だ。どこまで飛ぶか見定めながら走る。一塁を回る寸前、最上段の場外仕切り板の裾に打ち当たったことを確認する。鈴下監督が飛び上がって喜んでいる。全力で回る。二塁を回りながら三塁側スタンド全体に手を振る。観客が総立ちになって叫喚している。紙吹雪が舞っている。三塁を回るときに山口と林が頭上で手を叩いている姿がちらりと見えた。兼コーチとタッチ。ホームベースで横平が待ち構えている。抱き合う。四対ゼロ。
「ナイス、ホームラン!」
「サンキュウです!」
 カズちゃんたちに手を振り、もう一度山口たちに手を振る。ネット裏最前列の連中が傘の下で盛んに手帳に書きこんでいる。ストロボが爆竹のように連続して光る。ベンチ前に勢揃いしている選手たちの掌を平手で殴るようにタッチしていく。睦子が柄杓で差し出した氷水を一口流しこむ。詩織が抱きついてくる。助監督や部長たちが、
「ナイスホームラン!」
 を連発する。ベンチじゅう割れんばかりの拍手になる。那智と野添が握手してくる。白川も平手で尻をどやし、
「金太郎さんの一発で秋が始まったぞ。しっかり撮った。幸先いいなァ!」
「初回で決めましょう!」
 西樹助監督が、
「オシ! 岩田、ぜったい出ろよ」
「はい!」
 岩田が大学生活で初めての打席に入る。早稲田の石井監督がベンチから飛び出してきて、ピッチャー交代を告げる。
「小笠原!」
 という声が聞こえた。スタンドが静まる。まだテルヨシは全国区でないのだ。ブルペンではなくベンチの奥から小笠原が走り出してきた。背番号18。春の背番号と同じだったか思い出せない。マウンド上の姿が一回り大きくなっている。練習球のスピードは百四十二、三キロ。プロ並だ。もったいない中継ぎだ。しかし、球筋の単調さは改善されていない。フォームも美しく、素人くさい。
 岩田が緊張をほぐそうと膝の屈伸をする。彼は阪神の吉田義男に似たレベルスイングしかしない。それが小笠原の素直な速球には功を奏するはずだ。そのとおりになった。岩田はテルヨシの投げ下ろした初球の外角速球をセンター前に弾き返した。三塁側スタンドからスタンディングオベイションの波が始まって、左中間スタンドまで総立ちになる。鉄腕アトム。タッタータッタータター、タッタータッタータター、応援団の連続の突き。バトンガールたちがバラバラに脚を跳ね上げて舞いはじめた。私が叫ぶ。
「克己キャプテン、つないでいきましょう!」
 黒屋が叫ぶ。
「ホームラン!」
 麗しきバカの一つ覚えだ。阿野がマウンドへ走った。テルヨシはまじめにうなずく。春のデジャブだ。初球、ワンバウンド。かろうじて阿野が止める。泥をズボンで拭い取って返球。雨が止みかかっている。小笠原はロジンバッグで指の滑りを止めると、セットポジションから美しいフォームで二球目を投げ下ろした。百五十キロ近いスピードボールが胸のあたりに浮き上がってくる。空振り。三球目外角へストレート。ストライク。安田でも小坂でもなく、テルヨシが次期エースだと示す剛速球だ。四球目、顔のあたりから落ちる鋭角的なカーブ。空振り。三振。すばらしい! 思わず拍手しようとしたが思い留まった。克己はしばらく天を仰ぐと、走って戻ってきた。私は監督に、
「簡単には打てませんね。ここからは正しいスイングのメクラ振りでいきましょう。当たれば儲けものです。ぼくは彼のボールを見慣れているので、全打席ホームランを狙います」
「オッケー、それでいこう。みんな、小笠原が疲れてくるまでブン回しだ!」
「ヨッシャー!」
 ブン回し。青高以来ひさしぶりに聞く言葉だ。七番水壁。手首の強い男。
「カーブを捨てて!」
 私は彼の背中に叫んだ。三百六十五歩のマーチ、正拳突き、ライトブルーの短パン、喚声。カーブ、カーブ、ストレート。ぶん回し。当たった! ショートライナー。
「惜しい、惜しい! 臼山、ブン回せ!」
 鈴下監督の怒声。八番ノッポの臼山。初球、胸もとストレート、見る。ストライク。二球目、膝もとストレート、見る。ストライク。三球目、外角カーブ、見る。ストライク。三球三振。三球とも手の出ないボールだった。チェンジ。
「臼山さん、ドンマイ、ドンマイ。あんなボール、だれも打てませんよ」


         百八十六

 守備位置へ走り出す。顔に当たる風の感触。青森市営球場と重なる。ミヨちゃん親子と好人物の亭主のいた場所。バックネット裏。そこにいまカズちゃんと素子と節子と吉永先生と千佳子が坐っている。最前列で男がひらひら手を振っているのに気づいた。中日ドラゴンズの村迫代表だ! ひさしぶりに見るガッシリした姿に胸がときめいた。グローブを振り返す。
 先発那智のできは? 低目のボールが走っている。外角からナチュラルシュートが右バッターの真ん中高目に入っていかないかぎりだいじょうぶだ。外角シュートは左には有効だ。左バッターは谷沢と千藤。この二人は那智で抑えられる。
 バトンガールのいない早稲田の応援スタンド―独特の間断ない戦闘マーチと、応援団のパフォーマンスと、学生たちの声援が渾然と美しい統一体を作りあげている。シンプルで荘重この上ない。主審の右手が挙がる。
「プレイ!」
 一本足打法の荒川が右打席に入った。横平が早稲田のバッティング練習中に言っていた。
「去年の立教一回戦で、三打席連続本塁打を放ったやつだ」
「えー! それじゃ四番を打ってもいいくらいのスラッガーですよね。なぜ一番を打ってるんですか」
「さあな、とにかく六大学最強の一番バッターだ」
 初球外角ストレート、ストライク。太鼓の連打。戦闘マーチ。
「アーラカワ!」
「アーラカワ!」
 荒川、谷沢、千藤、小田、すべて百八十センチに近い長身の選手だ。東大で百八十センチ前後の選手は、横平と臼山と私だけ。百七十五センチ前後が、水壁と、野添と、ピッチャー陣全員だ。岩田や磐崎、克己となると百六十五センチ前後、準レギュラーには、百六十ぐらいの選手もいる。
 内角低目にきびしい直球がいった。一本足の荒川が掬い上げた。長距離打者はこのコースが得意なのだ。高く舞い上がる。危ない。ツマっていてくれ! 私は塀ぎわまで全速力で走った。グローブが届くかもしれない。ジャンプ!
 ―引っかかった。
 着地。歓声の波が押し寄せる。チーム全員がグローブを振っている。私はボールを高く差し上げると、ワンステップしてセカンドに一直線に投げ返した。ベンチから身を乗り出して打球の行方を見守っていた早稲田チームや、一塁側スタンドの観客が声を失っているのがわかる。出鼻は挫いた。あとは谷沢と小田だ。コンバットマーチと正拳突きが復活する。ダッダダー、ダダダ、ワセダ! ダッダダー、ダダダ、ワセダ! ダーダ、ダーダ、ダッダダッダ、ダッダダッダ、東大、倒せ、オー! 美しいリフレインが胸にくる。このコンバットマーチを聞きながら打席に立ちたかった。
 二番木下が打席に入る。ツーワンから外角のストレートを打ってセカンドゴロ。二ちょう上がり。三番キャッチャー阿野。ベストナインに選ばれた正捕手長倉に代わって、この春から出場チャンスを増やし、いまでは押しも押されもしない正捕手だ。キン! という金属音がして、阿野の打球がセンター前に転がっていった。那智に動揺はない。落ち着いてロジンバッグをいじっている。いよいよ春の首位打者谷沢だ。
 ―ひたすら外角高目を投げておけ。外角低目は、芯を食われるとレフトオーバーの可能性がある。
 初球内角低目のカーブ、ファール。私は少し前進してショートの背中に、
「外角高目! 外角高目!」
 と叫ぶ。野添がマウンドへ走っていって那智に伝達する。那智は私の伝言どおり、ワンナッシングから外角高目に速球を投げた。みごとなミートで私の正面に猛ライナーが飛んできた。流し打ちのラインドライブ。拝み取り。チェンジ。
 ベンチに戻ると、部長の仁が私に訊いた。
「神無月くん、これまでの一シーズン最多ホームラン記録を知ってるかね」
 副部長の岡島が、
「無論、神無月くんの二十六本という記録はないものとしてでだよ」
「十五、六本ですか」
「十二、三試合でそれは無理だよ。今年の春の田淵の六本だ。きみはそれを二十本も超えた。つまり、きみはバケモノなんだよ。それだけ打てば、当然三冠王にもなるさ。打率は七割近くて、打点は六十以上。バケモノの中のバケモノとしか言いようがない。田淵がこの秋五、六本打ったとしても、四年間で三十本は超えない。きみはそれを八分の一の期間で達成した。バケモノは常軌を逸してるので、いろいろと疑われる。反撥のいいバットを使ってるんじゃないか、一時的な燃え尽き現象ではないか、等々、荒唐無稽な詮索は尽きない。バットのことは、マスコミに購入先を知らせて、ほかの選手といっしょだと伝えておいた。燃え尽きるかどうかなんて、そんなことはだれにもわからない。このうえ、きみの練習量がほかの選手の五分の一もないなんてことを暴露しようものなら、彼らはパニック状態になってしまう。庶民にしても、こうありたいと願うあこがれの的や、励みのもとにできなくなる。彼らはきみを癒しの目標にしたいんだ。だから、彼らには猛練習の成果だと言っておいた。天才の陰に努力ありと思わなくちゃ、庶民は納得しない。少なくともそのことは、くれぐれも口裏を合わせておいてほしい」
「はい。しかし、ぼくは自分なりに猛練習してますよ」
「いいから、いいから。私たち身近の人間だけが、きみが本物のバケモノだということを知ってる。楽しい秘密なんだよ」
 ベンチじゅうが拍手をした。バッターボックスに向かっていた那智が、何ごとかとベンチの喧騒に振り向いて、まかせておけというふうに力瘤を作った。
 かつて私は、自分には〈ほんとう〉の人生が待っている、グランドなどでうろうろしていられないと思ったことがあった。いまはそんな人生などないとわかる。だから良心的な人びとの諫言を聞き入れて、できるだけ長くうろうろしていたいと願う。
 那智が三振を食らって戻ってきた。野添のブン回しも功を奏せず三振、磐崎も見逃し三振だった。
「楽しいですね!」
「おう、楽しいな!」
 鈴下監督が叫んだ。選手たちがにっこり笑って、楽しい! と声を揃えた。守備位置へダッシュ。
 二回裏、眼鏡の小田が外角低目のストレートを掬い上げて右中間を抜いた。反撃開始と見えたが、六番千藤は真ん中高目を打ち損なって浅いライトフライに倒れ、七番金子は犠打でランナーを三塁に進めようとしてスリーバントに失敗した。極端にバットを短く持った中村はライト前ヒットを狙ったようだが、強いセカンドゴロに終わった。フェアグランドを走り戻りながら、ベンチのすぐ上方の山口に、
「おおい、あいつ、テルヨシだぜ!」
 と叫んだ。山口は指で丸を作って、とっくに知っていたという合図をした。
 三回表も東大は凡退だった。横平三振。私はテルヨシの内角高目に詰まって、生まれて初めてファーストフライを打ち上げた。岩田サードゴロ。
 三回の裏、先頭打者の荒川が真ん中低目の速球をレフトへライナーでソロを打ちこんだ。木下ファーストライナー。阿野、二打席連続でセンター前ヒット。しかし谷沢が那智に手こずってショートゴロゲッツーで凡退。四対一。
 四回の表、克己センターフライ。ワンアウトから水壁がライト前ヒットで出たが、臼山は深いセンターフライ、那智はキャッチャーフライに終わった。両チームにホームランが一本ずつ出たきり、四対一のまま試合は七回まで膠着状態になった。スタンドの賑やかさだけが耳につく。東大ベンチは終始上機嫌だった。克己が、
「あの小笠原ってやつ、来年から六大学ナンバーワンピッチャーになるぞ。金太郎さんとプロで戦うんだろうな」
「ぜひ、そうなりたいですね。青森高校の同級生ですから」
 八回の表、テルヨシのボールにキレがなくなってきた。七回から那智と交代した有宮がボテボテのセンター前ヒットで出ると、野添が律義にバントで送った。磐崎が三遊間を抜いてワンアウト一、三塁。横平振り遅れて深いレフトフライ。有宮生還。五対一。ツーアウト一塁。私はここまで、ホームラン、ファーストフライ、センターフライで、いまひとつ当たっていない。阿野がマウンドに走って、何やら小笠原と相談をする。敬遠かもしれない。テルヨシが首を横に振った。抑えられると主張したのだろう。片チンバの目がこちらを睨んだ。少し臆した色がある。打てると感じた。ベンチから金太郎、金太郎のシュプレヒコール、三塁側スタンドのバカ騒ぎ。期待をこめたフラッシュが二発、三発。
 初球、小笠原はスピードの乗った浮き上がるストレートを内角高目に投げてきた。二打席目にファーストフライに打ち取った球だ。見逃す。ストライク。疲れてはいても私にだけは全力で放ってくる。私の低目好きをよく知っているので、低目にはけっして投げてこない。失投を待つわけにはいかない。チラリと山口と林を見、それからネット裏を振り返った。村迫たちがすごい眼力で注視している。カズちゃんたちの席をチラリと見ると、全員立ち上がって祈るようにこぶしを握り合わせていた。
 二球目外角高目へ切れのいいスライダー。思わずのめって見逃し。ストライク。ツーナッシング。頭をめまぐるしく回転させる。テルヨシも外野を向いてボールをこねながら考えている。また細かい霧雨が落ちはじめる。
 ―テルヨシ、次はどうくる? 振ってくれれば儲けものと踏んで外角へ外す速球か? 空振りを狙って、真ん中高目か内角高目へ外すボール球のストレートか? どちらにしてもストレートだな。
 たぶんそうだ。バットを高く構える。上から叩こう。三球目、内角高目へボールになるカーブ! 外れた。しかし高目のボール球は読みどおりだ。振ったほうがいい。叩きつける。一塁スタンドへの詰まったファール。またテルヨシがボールをこねている。長考している。三振を取りたいのだ。私はバットの握りを股間で拭って構え直した。意表を突きたいはずだ。ど真ん中高目。反射的に振ってしまうコース。決めた。空振りか、打ち損なって外野フライ。ふたたびバットを高く構える。
 セットポジションから四球目。きた! 真ん中高目。まずい! 落ちてくる。速いフォークだ。腰を低く下ろし、めくら振りに掬い上げる。当たった! 芯を食ったかどうかわからない。バットの重心の内側で捉えた。この感触はスタンドに入らない。全力で走りだす。喚声が耳にくる。
「オオオー!」
「磐崎、回れ、回れ!」
 低いライナーが右中間へ伸びていく。抜けた。フェンスにショートバウンドで当たる。谷沢がうまく処理して強肩でセカンドベースへ投げ返す。磐崎三塁へ足から滑りこむ。私は一塁ストップ。磐崎の尻が真っ黒だ。
 ―してやられた!
 スタンドは大騒ぎだが、私は浮かない気分だった。村迫が拍手している。プロの目に訴えるものがあったのだろう。一塁上に立つ私を見つめるテルヨシの頬が苦痛にゆがんでいる。負けた気でいるのだ。私は帽子を取り、降参の印の辞儀をした。テルヨシは一瞬泣きそうな顔になった。
 長身の石井監督がとぼとぼマウンドにやってきて、小笠原に何ごとか言っている。テルヨシは、こくり、こくり、とうなずき、胸を張った。続投。岩田がバッターボックスに入った。太鼓の響きを連れた鉄腕アトムのマーチが流れてくる。取れてもあと一点だ。外野へヒットを打ってくれ。一転して小笠原は低目ばかりを投げてきた。気を取り直したボールにスピードが乗っている。これは打てない。飛跳ねるようなフォロースルーで投げるボールにかすりもせず、岩田三振。チェンジ。
 八回裏、また五番の小田からだ。四点差。百三十七、八キロの有宮のボールが頼りなく見える。痛烈な当たりがサードを襲った。水壁が弾いた。ボールがラインぎわへ転がってくる。私はダッシュした勢いのまま尻でスライディングして押さえ、二塁へ送球する。セーフ。美しいコンバットマーチ、太鼓の連打、応援団の突き。有宮はマウンドの板にスパイクを叩きつけてこびりついた土を落とした。水壁がすまないといった様子で近づいていく。有宮は、ドンマイ、ドンマイと肩を叩いている。
 六番千藤。横平に体形が似ているので、つい長打を予測してしまう。バット一閃、痛烈なライナーが一、二塁間に飛んだ。磐崎がジャンプして跳びつく。捕った!
「セカンド、セカンド!」
 有宮が叫ぶ。磐崎は寝転がったまま、二塁へ山なりの送球をする。野添、帰塁しようとした小田のスパイクにタッチ、セーフ! 轟々たる喚声と拍手が内外野のスタンドから湧き上がる。二塁ランナー小田釘づけ。
 七番金子。粘って、粘って、フォアボール。ワンアウト一、二塁。八番中村。一年生ながらその守備力を買われて出場している選手だ。身長は私とほとんど同じだが、線が細い。これも粘って、六球目をショートゴロ。野添から磐崎、臼山へ6・4・3のダブルプレー。凌ぎ切った! 山口と林にグローブを差し上げながら走り戻る。二人が手を振り返す。味方スタンドの大歓声。上を向いて歩こうのマーチ。バトンが何本もクルクル回る。



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