百九十三

「じつは、心の底に労働へのあこがれみたいなものがあって―労働といっても、ホワイトカラー的なものじゃなくて、純粋な肉体労働なんだ。ぼくは小さいころからずっと飯場で育ったから、生理的な好みがそっちのほうへ傾くんだね」
「肉体労働? 人には似合うことと、似合わないことがあるんです。キョウちゃんは……ごめんなさい、悪い意味じゃないのよ、キョウちゃんは永遠の子供です。いざとなったらきっと一所懸命働くんでしょうけど、肉体労働は似合わないわ。キョウちゃんに会う人はみんなそう思うはずですよ」
「永遠の子供」
 と言って、私は下腹を見下ろした。
「……それは、子供じゃないけど」
 サッちゃんはそう言って、湯船の中で私のものを握った。張り詰めている。尻を持ち上げて挿入した。
「ああ、〈これ〉を待ってたんです。子宮に触ってます」
 脇をすぼめて戦慄をこらえる動作を二度ほどすると、たちまち高潮がやってきて、尻が跳ねた。細かい前後運動がしばらくつづいた。情熱的に唇を合わせてきて、声を上げる。
「ああー、いい! だめ、動かないで」
 サッちゃんはにこやかに笑いながら静止していたが、それも長くつづかず、
「あ、いやだ、また、ああ、イク!」
 ザアッと湯船から立ち上がって、私の肩に両手をつかえた。うなだれ、尻を後ろに突き出しては痙攣している。私はその尻を抱きしめた。サッちゃんは私の頭をしっかり抱えた。ふっくらとした陰丘に鼻を押しつける。二度、三度と反射が鼻を打つ。
「ああ、なんて気持ちいいの。……好きです、大好き」
 重いサッちゃんに肩を貸して湯船を出る。そのまま寝室の蒲団まで歩き、濡れたからだを重ねて倒れこんだ。弾むような乳房の上に胸を預け、唇を合わせる。何のにおいも立ち昇らない。この歳でこれほどからだじゅうが清潔なのに驚く。私は上気しているふくよかな顔に急にいとしさを覚えた。
         † 
 陰毛の上に、交接のときにしぶいた淫水が玉のように光っている。トモヨさんと同じ体質だ。気丈なのは中年女の特徴のようだ。サッちゃんはそのまま寝入らずに、懸命に起き上がると股間を拭い、服をつけて台所に立った。
 キムチとシソ納豆とアサリの味噌汁でどんぶり一膳のめしを食った。サッちゃんもきっちり一膳食べた。
「映画を観にいかない?」
 きょうは映画のはしごだ。
「わあ、いきましょ! 向こう口に映画館があるわ」
 涼しい風の中を、反対口の映画館へに出かけていった。中村登監督のオールナイト五本立てをやっていた。
「二本ぐらい観たら帰るよ。中村登か。知らないな」
「東大の英文科を出た人よ。置屋さんの息子です。いま五十代半ばのはず。文芸ものが多くて、教科書的にきちんとした映画を作ることで有名よ。どういう五本立てかしら。どれどれ」
 立看板を見つめる。
「智恵子抄、集金旅行、愛染かつら、古都、女の一生、か。集金旅行がおもしろそうですね。智恵子抄がそろそろ終わるから、ちょうどいいわね。集金旅行が終わるのが十時十五分。私もそれを観たら帰ります」
 ポップコーンとコーラを買って、空席の目立つ館内に入る。最後列の真ん中に並んで腰を下ろす。岩下志麻が病床に駆けつけた丹波哲郎の手を握って死んでいくところだった。幕が閉じ、館内が明るくなった。
「光太郎の放蕩を鎮めるために、友人夫婦が画学生の智恵子と見合いさせたんですよ。智恵子は自分の出品した絵が落選したり、実家が倒産したりしたことが原因で服毒自殺したんだけど、未遂に終わって……自分のことしか考えていない女ね……とうとう狂っちゃったの。漁色家の光太郎に愛されたわけだから、そっちは激しかったはずです。それなりに満足してれば狂わなかったでしょうに。智恵子はセックスが嫌いだったのかもしれませんね。きっと感じない体質だったんだと思います」
「だとすると、セックスを不潔なものに感じてただろうね」
「ええ。逆に、光太郎はそれがかえって愛しかった」
 集金旅行の幕が開き、明るい雰囲気が館内の暗闇に満ちた。借金の取立てをめぐる不条理な喜劇だが、佐田啓二、岡田茉莉子、アチャコのドタバタは愉快だった。観客に合わせて私たちも大いに笑った。腕を組んで映画館を出た。
 大衆酒場のような店で、焼鳥、煮こみ、肉じゃがを食い、ビールを二人で一本飲んだ。一時間ほど話した。
「……キョウちゃんと私、これからどうなるのかしら。私はこのまま年とってく。キョウちゃんは野球選手。それとも学者か芸術家になるのかもしれない。さびしいけど……楽しみです」
 酒場の開け放たれた引き戸の外に公園が見える。民家のかたまりから遠い細路に四方を囲まれた公園なので、ときおり区画の向こうの幹線道路を車のライトが通り過ぎるだけだ。さびしい。
「そういうふうに考えないほうがいいと思う。ああなったら、こうなったらと計画を立てるように頭を働かせないことだね。さびしくなるだけだ。まだ見ぬ未来はさびしい。明るく楽しくハッキリ見えるのは現在だけ」
「そうね、未来なんてどうにもならないことだものね」
「うん。過去や未来を考えて楽しかったことなんて一度もない。過去も未来も忘れさせるのは現在だけだ。現在バンザイだね」
 サッちゃんは潤んだ目で天井の梁を見上げた。
「……キョウちゃんは世界を救える人ね」
「世界を救おう、か。……世界には関心がない。世界に属してるというだけで、相当な重荷になる。でも世界には愛する人もいるからね。世界というスローガンには影響を受けないけど、愛する人間が強いることなら、世界に属しながら何でもやってやらなくちゃね」
「すばらしい生き方。愛する人以外の人間なんて幻ですものね。そういうキョウちゃんといつもいっしょにいられて幸せ」
 店の壁の時計を見た。
「そろそろ、いくの?」
「うん、ダッフル持って終電に乗る」
「十二時十八分のがあります。でもそれだと乗継が遅くなるわ。十一時台だと六本ぐらいある」
「新宿の中央線下りの最終は十二時ちょいかな。上板橋を十一時ちょい……。あわただしいな。やっぱり恋人のところに寄ってく」
「そうですね。そうしたほうがいいわ。もう一度お風呂に入ってね。下着を替えなくちゃ」
「そうか……」
 吉永先生が急に恋しくなってきた。電話ボックスから電話を入れる。不在。十二時までの深夜番だ。
「今週は十二時までの夜勤だね。家に帰ってくるのは十二時十分くらいだ。その時間に合わせて十二時ぐらいにいってみる」
「あと一時間半あります。かならずお風呂に入って。きれいにしておかないとたいへん」
「うん」
         †
 吉永先生はダッフルを一帖の板の間に置くと、パジャマに着替えて、小さな流しに立った。山芋をすり、すき焼きの用意をする。肉は買ったばかりの冷蔵庫に入れてあった豚肉だった。
「ビックリしたわ、真夜中にくるんだもの。でも、うれしい。……キョウちゃん、大好きよ。毎日毎日、大好きって思いながら、仕事をしたり、道を歩いたり、買物したり、勉強したりしてるの。キョウちゃんがいなければ、私の人生なんてゼロよ。……キョウちゃんのことを思うだけで、胸がいっぱいになるの。出会ってから二年にしかならないけど、ずっといっしょに生きてきたんだなって感じるわ。でも、あと何年かしたら、きっと遠くへいってしまう」
「そんなことないよ。名古屋から動かない」
「いいえ、距離の話じゃないの。私も名古屋へいくから。たとえそばにいても、忙しくて思い出してもらえなくなるということ。キョウちゃんは、私たち何人かの女だけじゃなく、大勢の人のものになっていくから」
「愛する女たち以外、だれのものにもならないよ。愛する人たちに所有されるというのがいちばん安らぐ。極端なことを言うと、ぼくは自分をモノだと思ってるんだ。愛する人たちへの捧げもの。愛していない者に捧げるわけにはいかない」
「そうね。愛する人の前では、だれでも〈もの〉になるわ。いつまでも私をキョウちゃんのものにしておいてね」
 少し袖丈のダブついたパジャマを着た後ろ姿に魅かれる。悲しく感じるけれども、侘しさは感じない。この想いが肌に合っている。この想いを捨てるはずがない。
「いいにおいだ。腹が減った」
「もうすぐよ」
 サッちゃんと一膳のめしを食い、居酒屋でつまみを食ったが、腹はくちていない。先生は卓上ガスコンロを用意して、狭い流しで半煮えになったすき焼きの鍋を載せる。皿に追加の肉を、ザルに野菜を用意する。
「シュンギクは入れないでね」
「私が食べる。においがきらいなんでしょ?」
「うん、ツンとくる」
 しっかり煮えた肉と、豆腐とネギと、エノキ、シイタケ、シラタキを取り皿に盛ってくれる。
「冷蔵庫を買って買い溜めできるようになったから、今夜は役に立ったわ」
 やさしい笑顔。
「今度きたときは、筑前煮を作っておくわね」
「筑前煮?」
「ほら、八坂荘で一度作ったら、キョウちゃんがおいしい、おいしいって」
「ああ、あの煮物か。あれはうまかった。鶏肉、サトイモ、にんじん、しいたけ、たけのこ、こんにゃく、ちくわ、がんもどき……あんなうまいものはちょっとないね」
「ありがとう。和子さんやおトキさんみたいな味つけは無理だけど、精いっぱい作るからがまんして食べてね」
「がまんなんか一度もしたことないよ。みんなおトキさん並の料理上手だよ」
「やさしいんだから」
「きょうは練習の帰りにふらっときちゃった。電話したらいなかったから、遅番だと思って時間を潰した。映画を観た」
「時間潰すのたいへんだったでしょう。どんな映画を観てきたの」
「向こう口の上板東映で、中村登という監督の五本立て。集金旅行という井伏鱒二の原作の映画が笑えた。文芸ものはあまり好きじゃない。裕次郎も、乳母車や陽のあたる坂道は気に入らなかった。二本目で出て、居酒屋で煮こみをつまみにビールを飲んできた」
 サッちゃんのことを話す機会はないだろう。その必要もない。深夜の鍋をつつきながら映画の話が始まった。キクエは、自分はあまり映画を観ないけれども、五年生のころに学校で連れていってもらった『女中ッ子』という映画が、いまも印象に残っていると言った。
「左幸子だね。ハッちゃん、ハッちゃん……あの場面はよかった」
「ハッちゃん?」
「ほら、ハツが女中をしている家の子供が家出して、里帰りしているハツを尋ねて吹雪の中を歩いていく場面。ハーツ、ハッちゃんって呼びかけながら」
「ああ! 思い出した。あの子、死んじゃうんじゃないかってドキドキした。ハツが馬橇(ばそり)で捜し回るのよね。気が気じゃなかったのを憶えてる」
「泣いた。ハツと結婚すればいいって思った。ただ、結末がひどい。あんな性質のいい女中が盗みの疑いをかけられて追い出されるというのがリアルじゃない。ハツがお別れに小学校に会いにいったとき、女中っ子って言われるから学校にくるなよ、って、つれなくした子供の気持ちも現実離れしてる。吹雪の中を恋い慕いながら尋ねていった女に、いくらなんでもあんな仕打ちをするはずがない。もう、あの映画は二度と観ないことにしてる」
 吉永先生は箸を止めて微笑みながら、
「キョウちゃん……男と女の年の差は、ふつう人には重大なことなのよ。キョウちゃんは眼中にないのね。結婚すればいいなんて。監督は恋愛感情を頭に置いて映画を作ったわけじゃないわ。その子が恋い慕ってハツに会いにいったわけでもないの。女中と少年との心の交流―映画が描けるのはそこまでよ。観客もそういう目で見てる。キョウちゃんはふつうじゃない人だから、和子さんやトモヨさんや文江さんとの恋愛も成し遂げられたのね。素子さんにしても十も年上だし、私や節子さんにしたって、五つも六つも年上。……心に垣根がないことぐらい偉大なことはないわ」
 先生が卓袱台に涙を落とした。涙は私の心を動かす。明るく楽しいものごとには大きく心が動かない。涙という絆ですべての人とつながっていることにいちばん心が動く。
「ぼくみたいな人間にいつも泣いてくれるんだね。先生だけじゃない。山口も、カズちゃんたちもみんな」
 先生は鼻をすすりながら、
「キョウちゃんにはわからないでしょうね。どう言えばいいかしら。心臓から滴ってくる言葉っていうのかな。キョウちゃんの言葉って、そういう言葉なの。頭から出てきた言葉じゃないの。そういう言葉って、生まれてから一度も聞いたことがなかったし、これからもキョウちゃん以外の人からは聞けないでしょうね。……キョウちゃんが生きてるかぎり、私、ずっとそばにいます」
 先生は手のひらで頬を拭った。いつも人を自家製の慈愛の栄養液に浸して見守る心。しかもその液体には、もっと栄養のある感謝の気持ちが溶けこんでいる。それだけではない。これほどまでの手厚い世話を焼く胸の底には、慈愛や感謝以上の何ものかがなければならない。
 ―勇気。
「ぼくたち、出会ったとたんにお風呂にいったっけね」
「そう。帰りに花屋に寄って。……なつかしい。私にとってぜんぶが起きて、ぜんぶが始まったとき」
「すべてが終わったときでなくてよかった」
「いい意味で、そうでもあるわ」
 私も先生もめしを二膳食った。鍋はすっかり空になった。
「リーグ戦のあいだも、月に一回ぐらい逢いにくるからね」
「はい。いつもカギを開けておきますから、いなかったら横になるなりして、適当に時間を潰しててね。年が明けたら、もう少し広い家に引っ越そうと思ってるの。お便所も水洗でないとやっぱり日によってにおうし、台所も狭すぎて料理に不便。せっかく大家さんと仲良くなったけど、仕方ないわ」
「家財道具も自然に増えるだろうから、二間以上ある家じゃないとね。狭苦しいと落ち着いて勉強もできない。引越し代は心配しないで」
「平気です。だいぶ貯金ができたから。毎週土日、うまく非番に当たったら応援にいきます。風邪をひかないようにしてくださいね」
「花岡病院の人たちとは、うまくいってる?」
「まだ准看だから便利に使われてるけど、婦長さんにはやさしくしてもらってます。正看になったら少しは楽になるわ」
「受験前に引越ししたほうがいいよ」
「そのつもりです。節子さんに問題集をたっぷり送ってもらったから、どしどし勉強しなくちゃ」
 先生は食器を下げに流しに立った。


        百九十四

 九月十九日木曜日。晴。二十四・七度。午前遅く起きて、先生と晴れ上がった昼の道を歩く。初秋のぬるい風。
「キクエは小さくてかわいいね。何センチ」
「百五十二です。私の次は節子さんで百五十六、次が素子さんで百五十九。法子さんが百六十一。大きいのは和子さんと千佳子さん。百六十三か四ぐらいあります」
「そう言えば、小学校のころ、カズちゃんをなかなか追い越せなかった記憶がある。胸はキクエが一番だよ」
 先生はうれしそうに笑った。
 園のカウンターでミックスサンドを食べた。店内にサッちゃんの姿はなかった。マスターが、
「懲りずにきていただいて、ありがとうございます。こちら、ハニーですか?」
 気取って言う。頭のネットが気色悪い。
「はい、ひと月ぶりのデートです」
「ああ、あれからそのくらい経ちますね。上板橋は散歩するにも目ぼしい名所がありませんから、やっぱり、都心のほうへお出かけですか」
「はあ。しかし、映画を観るといっても、クレージーと、若大将と、ケンさんぐらいしかないから、洋画を選んで観なくちゃ」
「座頭市もありますけどね。洋画となると、卒業か、華麗なる賭けか」
 先生が、
「卒業にしましょう。ダスティン・ホフマン」
「そうしようか」
 その男優は嫌いだったが、快くうなずいた。吉永先生が国家試験の合格証書の額を端から端へ眺める。
「すごいですね―」
「コーヒー以外は、これしか趣味がありませんので」
 少し先生の口もとが歪んだ。
「私も来年、正看護婦の試験です。励みになりました。ご馳走さま。さ、いきましょ。デートの時間がなくなっちゃう」
 さっさと腰を上げた。
「試験がんばってください。根性で受かりますよ。ありがとうございました!」
 急いで駅の階段を上る。急いで切符を買う。急いでホームに降りる。
「ああ、気持ち悪かった。あんなもの貯めこんで、何がおもしろいのかしら。根性か何か知らないけど、一つも役立ててない。片手間に、薄くて酸っぱいコーヒー立てて、お金取って、失礼だわ」
「この世には頭の体操が好きな連中がけっこういるんだよ。クイズマニアなんて最たるものだ。受験勉強も似たようなものだね。人のために役立てる看護婦試験とは別物だ」
「キョウちゃんがあんな人でなくてよかった」
「あんな人だったら、惚れてないだろう?」
「うん。試験て、多かれ少なかれああいう趣味的な要素があるから、心しないと。キョウちゃんのように、人間は情熱や才能を活かして、試験のない専門職に就くべきだと思うけど、国が許さないから仕方ないわね」
 私は先生の手を取り、
「煩わしい付帯条件は情熱の余熱で吹き飛ばすんだよ。手続だと思って気楽に試験を受けてね」
「はい」
 新宿に出て、ミラノ座で卒業を観る。ウィークデイの昼下がりなので、客は五分の一も入っていない。幕が開いてみると、母娘と大学を卒業したての若者との、何と言うこともない三角関係の物語。性の歓びが描写されていないので、濃密になるはずの関係に迫真性がない。先生の膝をさすりはじめる。一時間五十分の映画が半ばに差しかかったところで、二人で立って女子トイレにいく。阿佐ヶ谷で一度経験があるので、先生は慣れた様子だ。密室の洋式トイレに入り、小便をして拭わずに陰部を濡らしたまま便器の円座に手を突いて尻を向け、
「入れて……」
 小便で潤った小陰唇のあいだに亀頭を入れる。
「あ、いや、気持ちいい!」
 かすれ声で囁く。奥まで入れ切ると、グーと腹が縮んだ。
「イク!」
 尻のえくぼが激しく痙攣し、膣が柔らかく収縮する。動いていないのにツーンとした刺激が尿道にきて、たちまち射精しそうになった。
「あああ、キョウちゃん! そのままイッて!」
「イク!」
「うううー、イークウウ!」
 キクエの腹を支え、存分に痙攣をさせてやりながら私も律動する。
「あ、キョウちゃん、愛してます、愛してる、イク!」
 抜いて、あちら向きに便器に坐らせ、両乳房を握って痙攣をさせ切る。少し落ち着いたところでキクエの顔をこちらに向けてキスをする。
「興奮しちゃって、ごめんなさい。あ、オシッコ!」
 小便がほとばしって水音を立てた。
「あああ、イク!」
 放尿しながら背中を丸くして快感を堪能しようとする。上半身が痙攣のせいで跳ねる。静かなトイレに人の気配はまったくない。もう一度顔をねじってキスをする。私の剥き出しの性器に気づき、立ち上がってこちら向きに便器に坐り直した。まだ肩がときどき跳ねる。
「ありがとう。こんなに感じさせてくれて」
 性器に向かって言い、トイレットペーパーを巻き取って、付け根を丁寧に拭く。それから口を大きく開けて含んだ。私が下着を上げてズボンのベルトを締めると、胸を抱いてしばらくぼんやりしていた先生も脚を開いたままよろりと立ち上がり、股間を拭った紙を流し、パンティを引き上げた。長いキスをする。
「射精までの最短不倒だ。十秒かからなかった」
「私は一時間もしてもらったよう。苦しいぐらい感じました」
 トイレの鍵を外そうとすると、
「ちょっと、見てみます」
 ドアを開けて、首を出す。
「だいじょうぶ。いきましょう」
 人気のない廊下へ出て、分厚いドアを開け、座席に戻る。手をつなぐとキクエは頭を私の肩に預けた。下腹を押さえて目をつぶっている。
 画面の中で三角関係が進展していた。娘に本気になった青年がストーカー行為を始める、娘はほかの男との結婚に逃げる、男は結婚式場にまで押しかけ略奪する。昨夜の集金旅行とはちがってまったくすがすがしさのない、ネバネバしたドタバタ劇。最後の花嫁の強奪シーンも、何の真剣味も感じられない、動物的な男女の行き当たりばったりの破廉恥行為にしか見えなかった。主題歌の垢抜けた曲がかえってネトネト俗っぽく聞こえた。裕次郎映画がなつかしかった。
 眠りこんでいた吉永先生を起こし、あのトンカツ屋へいく。二日間ダッフルを担いだままだ。四時を回っていた。焼肉定食と豚汁を食う。うまかった。
「ごめんなさい、眠っちゃった」
「観なくてよかったよ。疲れがたまってたんだね。スッキリした?」
「とっても。おいしいごはんも食べたし、しばらくがんばれそう」
 キクエは新宿駅の中央線ホームまで送ってきた。
「じゃ、土曜日、神宮のスタンドで。インスタントカメラ買っていきます。夜は冷えこみますから、風邪に気をつけて。さよなら」
 手を振って山手線のホームへ降りていった。
         †
 五時半。阿佐ヶ谷駅に途中下車して、公衆ボックスから睦子に電話した。彼女に深い愛情を感じるけれども、いまは性欲が湧きそうにない。ただ声を聞くつもりだった。
「よかった! いま帰ってきたばかりです。きてくれるんですね!」
「あ、うん……」
 たしかに訪ねる意思もないのに電話をする道理はない。訪ねる以上は、愛情を強引に性欲に結びつけなければならない。たった十人くらいのものではないか。時間の許すかぎり励むのがあたりまえだ。妻帯者の男でさえ、この程度の精勤には努めている。
「いまからいく。睦子はあしたがあるから、二、三時間、話をしたら帰る」
「はい―」
「したい?」
「はい。……でも、ちょっと」
「危ないんだね。わかった。睦子が危ないの、初めてだね。外に出すけど不満に思わないでね」
「神無月さんこそ。私、飲みます。下着脱いで待ってますから、玄関でしてください」
「わかった。睦子がイッてる最中に抜くから、無理して飲まなくていいよ」
「飲みます」
 私は恋人の中で最も素朴で寛容な女のもとへ足を急がせた。福寿ハイツに着き、鉄階段を上る。玄関ドアを開けると、睦子は下着を脱ぐどころか、全裸で待っていた。私も沓脱ぎで全裸になった。睦子は飛びついてきて、むしゃぶるようにキスをする。長いキスのあいだに、私は左指をあわただしく使って彼女の性器を愛液まみれにした。柱に凭れさせ片脚を抱えて挿入する。達しかかったので、挿入したままクリトリスを刺激して一度果てさせた。うねり締めつけてきたところで動きはじめる。さっきのいまなので、少し亀頭の感覚が鈍くなっている。そのせいで睦子は連続で達しはじめた。歓喜の声を発しながら、自分を支えている一本の足が危うくなる。私は両腿を抱えて彼女の背中を壁に押しつけた。
「神無月さん……からだが勝手に……あ、だめ、またイク! う、う、う、ああ、イク! あ、イク!」
「もうすぐだよ、もうすぐ」
「は、うん、は、うん、ははあ、イク! うんうん、いや、またイク! あああ、神無月さん、わかります、もうすぐですね、あああ、イク!」
 サッと抜いて、抱えていたからだを廊下に横たえると、睦子はバネのように跳ねる自分の下腹の動きを両手で懸命に抑えながら、突き出した私の性器にかぶりつく。
 吐き出した私の律動にあわせて自分も痙攣しながら精液を飲みこむ。睦子の全身の汗が光る。唇の端から白濁したものが少しずつ流れ出て鎖骨の窪に溜まる。痙攣が激しく、嘔吐の気配がしたので抜こうとすると、ガッシリ尻を押さえて離さない。まろやかな喉仏が動く。涙を流している。口が外れ、廊下に長々と横たわった。鎖骨の窪の精液が肩先を伝って床板に流れる。下腹が細かくふるえ、ときおり強く縮む。
「愛してます。甘くて、おいしかった。どれほど神無月さんのことを好きか、こうしているとよくわかります。……うれしい」
 薄っすらと目を開けた。妖しいほど美しい。睦子は唇に垂れている精液を指の背で掬って口に入れた。
「どこまでもいっしょにいきます。神無月さんが死んだら、その日に死にます」
 きょうも同じことを言う。抱き起こし、腕を肩に回して風呂場へいく。張ってある湯の中へ横たえる。私は掌で睦子の顔や肩の精液を撫で落とした。
「愛してるよ、睦子」
「はい、私も、死ぬほど」
 添いかけて、狭い浴槽に入る。しっかりと抱き合う。
「千佳ちゃんも、神無月さんが死んだら死ぬと言ってました。二人で泣きました」
「死なないから安心して。さ、からだを洗おう」
 睦子はからだにシャボンを立て、私は頭にシャボンを立てた。たがいに湯をかけて流し合う。
「最近、命って、原始的な本能のことだと思うようになった。食べたり、寝たり、排泄したり……」
 睦子は笑って、
「セックスも命ですか?」
「それなんだ。セックスは命とはちがうと気づいて、命とは掛け値なしの原始的な本能のことだと思うようになった。セックスは、十年でも、三十年でも、一生でも、チャンスがなければ、あるいはしたくなければ、しなくても命に関わらないからね。純粋な本能とは言えない。セックスは命ではなく、愛情という条件つきの衝動だと思う。―愛欲。それから、笑ったり、泣いたり、悲しんだり、悩んだり、怒ったり、嫌ったりするのも、命じゃない。条件つきの衝動。学校、家庭、会社、結婚などのしきたりの中に安住するのも命じゃないと思う。それがなくても命に関わらないから。でも、命に関わらないものこそ人生と呼べるものじゃないかな。命と人生をしっかり弁別しないと、命こそ人生だと見誤ってしまう。どちらも混合して人生と見るのは雑な考えだ。命のほうを軽視していないと人生を重視できない。延命は本能にまかせ、人生は思考にまかせる。人間という生きものにとって、本能のほうが思考よりも重要なはずがない。……セックスは思考だと考えることができるようになって、そのことに気づいた」
 睦子は私の肩に湯を掬ってかけた。目が潤んでいる。
「神無月さん、楽しそう。何百年生きたって、そんなことには気づけません―」
「本能は思考で捉えられないけど、死は思考でしか捉えられない。命より上位のものが死だと考えているから、死ぬほどとか、死んでもいいとか、あなたが死んだら私も死ぬと口に出して、愛を死と同等のものにしようとするんだろうね。大仰な考え方じゃない。まっとうな考え方だ。だからぼくは、死ぬほどという言葉を聞くたびに、深く感動する」
 また固く抱き合った。
「理屈はよくわからないけど、神無月さんに二度と会えなくなるくらいなら、命はいりません。ただそう言いたいだけなの」
 コーヒーを一杯飲んで、ダッフル担いで夜の道へ出ると、路灯だけの美しい街になっていた。睦子が自転車を牽いて阿佐ヶ谷駅まで送ってくる。秋用の白いセーターにタンポポ色のスラックスを穿き、かわいらしい黒のローファを履いている。
「夜道は怖いですから。自転車でピューッと帰ります」
「そんな格好で東大にいったら、男たちが群がってきそうだ」
「そうですね。トレパンでいきます。神無月さん以外の男に寄ってきてほしくないから」
「家族は元気?」
「あ、らしくない質問。元気です。いろいろ食べ物を送って寄こすので、自炊の材料にこと欠きません。高校生の弟も、家の手伝いをしながらバリバリやってるみたいです。六大学野球の歴史的事件に立ち会えることができて、ねえさんは幸せ者だと手紙を寄こしました。春の神宮のベンチ風景をつかまえたテレビカメラに、私が神無月さんに抱きついている姿が写っていたんだそうです。その背中に磐崎さんが抱きついていたんですけど」
 クスクス笑った。
「いよいよ法政戦だね」
「はい。みんなじたばたしても仕方ないって腹をくくったようです」
「勝ち点は四分六のチャンスだ」
「はい。打線が爆発すれば」
「八分二分になるね。ピッチャーは、那智がキーポイントかな」
「だれとは言えないと思います。みんなすごく進歩してますから。……わくわくします」
 駅前で手を振って別れ、自転車の背中が見えなくなるのを確かめてから、切符を買う。


         百九十五

 アパートに帰り着いて、ジャージに着替えると、夜のランニングに出た。まだ十時を回ったばかりだ。一日は長い。天沼陸橋から引き返し、アパート裏の空地でいつもの筋トレと素振り。
 机に向かってノートを開き、二歳ごろの記憶を書きつけていく。記憶がふくらむ項目も素直に書きつける。突き飛ばした女の子。坂道。公園に置き忘れた三輪車。母の吐息。
 やるせない気分になり、近所のスナックにアルコールを入れに出た。面倒がないように眼鏡をかけた。石手荘のそばの十字路にブルーのスタンド看板を出した『はる子』という店がある。そこで少しビールを飲んだあと、早めに蒲団にもぐってぐっすり眠るつもりだ。  
 ドアの鈴を鳴らして入ると、L字型のカウンターだけの狭い店だ。ノラに毛が生えた程度の広さだ。椅子が都合八脚。六脚の長いほうのカウンターの端に客が一人いる。彼から離れて坐り、ビールを頼んだ。短いカウンターにも客が二人いて、そのうちの一人がいやに馴れなれしくカウンターの中の女にしゃべりかけている。女は黙殺している。三十そこそこ、頬骨のあたりがいじりすぎのせいでテラテラ光っている。ひろゆきちゃんのママに似ていた。彼女の脇に、着物にエプロン掛けの老女がひっそり立っている。絶えずニコニコして、三十女と客のやり取りにうなずいている。その男は老女にママさんと呼びかけていた。男は蛙のような顔に眼鏡をかけていた。そいつに遠くから乾杯の格好をされたので、グラスを上げた。老女は女に仕事を命じるとき、はる子と名前を呼び捨てにしていた。母親だろうと察した。
「トヨタからマークツーって車が売り出されたけど、マークワンてのはあるの?」
 乾杯を強いた男が、答えなど期待していない顔で三十女に語りかけた。女は黙っている。代わりに隣の男が答えた。
「コロナのワングレード上ってことで発売された車だろ。マークワンてコロナのことじゃないの」
「そうなのか。いや、父親に尋かれたもんでさ、ワンがあるのかって」
 私のカウンターの男が聞きつけて注釈を入れた。
「コロナを高級化した二次的車種ってことで、そういう名前をつけたらしいですよ。おっしゃるとおりマークワンはコロナのことですね」
 世間通のようだ。同じ世間通でも山口やよしのりとは雰囲気がまったくちがう。その程度の知識を得意顔でしゃべっている。苦手なタイプだ。二人の男がこちらのカウンターの男を黙って見つめたので、
「あ、どうも。私、イスズ自動車に勤めてまして」
 男が二人に頭を下げる。頭を下げられた饒舌男は挨拶を返して女に顔を戻し、
「こないだ、サッポロ一番みそラーメンてのを食ってみたんだけどね、けっこういけたよ」
 ようやく女が口を利いた。
「ふうん、しょうゆラーメンは食べたことあるけど、まずかったわ。ラーメンは、むかしの中華そば屋のが最高だった。あれ以来、どんなラーメンを食べてもおいしくない」
 私も思わず同意して、
「ぼくも、子供のころ、横浜で食ったラーメンの味が忘れられない」
「横浜?」
「小学生のときに暮らした町です」
 女がチラリとこちらを見た。少し表情があった。
「古きよき時代か」
 と饒舌男が言うと、女が、
「そう、私もこちらのお客さんも、澆季(ぎょうき)思想ね」
 と私に向かって応えた。
「ギョウキ……?」
「末世思想のことよ。澆というのは軽薄、季は末という意味。むかしはよかった、いまどきは何でも軽薄で見るべきものがない、という考え方ね」
 離れたカウンターの男が、
「知識人ですね、あなたは。……澆季思想か。快適な考え方だ。心が狭いけど、嫌いじゃない」
 女が、
「狭いわよ。だからこそ、普遍的な流行を避けて、本物を見分ける集中力があるんじゃないの」
「……おもしろいこと言うね」
 饒舌が口を挟んだ。私に向かって、
「おたく、モテるだろう。すごい美男子だ。……どこかで見たことがあるなあ」
「よくある顔ですよ」
「いや、めったにいない顔だ。きれいなのに、味がある。俺の顔なんかでこぼこしてるだけで、味がないんだな。脳みそがそのまま顔に出るからね。大学生?」
「いえ、浪人です」
 ママが興味を示し、
「浪人がお酒なんか飲んでちゃだめじゃないの。お腹すいてここにきたのね。何か作りましょうか」
「いえ、いいです」
 饒舌が私に、
「俺たち早稲田政経の四年生。二人とも二浪。当年二十四歳。どこを受けるつもり?」
 松尾のことを思い出し、
「玉川大」
 二人の男は黙った。ママさんが、
「まあ! 玉川大学。全人教育で有名ね」
 と言い、女は何も言わない。早稲田の饒舌が、
「全人?」
 三十女が、
「完全で調和のある人格」
 離れたカウンターの男が、
「人は個性を発現して、学者、道徳家、芸術家、宗教家、スポーツマン、生活人になりますが、その発現に真・善・美・聖・健・富という価値がともなえば、完全で調和のある人格ということになります。これらの価値が個人的にどう実現されるかは定かでありません。発現の仕方は個性しだいだというただの理念ですよ」
 饒舌が、
「全人教育か何か知らないけど、玉大はレベル低いぜ。イスズさんは、どこの大学?」
「高卒です」
「それにしちゃ知識があるなあ」
「単なる雑学ですよ。雑学は重要です。学問的な知識がなくても、どうにか雑学のおかげで不自由なくやってます。うちの会社の大卒も、学術知識はあるんだろうけど、まったく使えない」
 私の目に大きく見えていたイスズの人格が、政経の饒舌と同じ小ささに縮んだ。早稲田のもう一人が、
「知識人というのは、浮世じゃ使い物にならないと決まってるんです。たしかにお説の通りだけど、大学には雑学じゃカバーできない深い知識の悦びがある。知識の喜びを知らないのに、大学批判はできませんよ」
 三人が同じ大きさに縮まった。くだらない打々発止が始まる気配に笑える。帰りたくなった。
「もちろん雑学以外も鍛えてますよ。ひと月に三冊は新書も読みますから」 
「まあ、そうムキにならないで。大学を馬鹿にされたような気がして、こっちも、ついね」
 イスズは、謝罪されたと勘ちがいして図に乗り、
「馬鹿にして当然ですよ。大学は馬鹿ばかり集まってるんだから」
 三十女が、
「そういう空しい口を利くのが、知識崇拝の正体よ。知識なんて垢を身にまとったところで、不潔なだけね。こすり落とさなくちゃ」
 饒舌男が頭を掻きながら、
「そういう言い方したら、どんな権威もかたなしになっちゃうよ。はる子ちゃんにかかったら、大学者も風の前の塵だ。まいりました」
「大学者は別よ。あなたたちみたいなエセ知識人に言ってるの」
 イスズがまぶしい目で女を見て、
「あなたのようなかたがいると、安心して高卒でいられます」
「なに安心してるの。人に守られて安心したってますます空しいでしょ」
 イスズは苦々しく笑った。饒舌が私に向かって、
「きみはほんとに何もしゃべらないね。俺たちのことを観察してばかりいるじゃない。浪人にしては余裕ありすぎだ。浪人じゃないだろ? 玉川大なんておかしいもの」
 女が、
「だいじょうぶですよ、神無月さん。さっき、表を見てきたけど、マスコミはいませんでしたから。東大の神無月さんでしょ?」
 ええ! と全員で注目した。
「眼鏡をかけてたけど、すぐわかったわ。このあいだ、石手荘のあたりでパシャパシャ撮られてたでしょう。たいへんね、こんなところまで追いかけられて」
 イスズが、
「ああ! たしかに神無月だ。光栄だなあ、こんな間近でお会いできて。握手……」
 寄ってきて手を差し出す。私が前を向いたままなので、差し出した手を引っこめた。もとの椅子に戻る。女が、
「大のマスコミ嫌いで、秘密主義だというのは記事で読んで知ってます。安心してください。言い触らさないから」
 ママが、
「このかたはそんなに有名な人なの?」
 イスズが、
「有名どころじゃない。いま日本でいちばん騒がれてる人ですよ。しかし、びっくりしたなあ」
 少し座が白けたふうになり、私が立ち上がりかけると、早稲田の片割れが飛んできて肩を押さえ、
「まま、いいじゃないですか。少しは俺たちにも観察させてくださいよ」
 女が、
「失礼な言い方しないの。すみません。ここ二時までなんですよ。せっかくの記念ですから、もう少しゆっくりしていってください」
 腰を下ろすと、饒舌が無理に話しかけてくる。
「あのですね、いま真っ盛りの東大闘争で、なんで東大と日大が手を組んだんですか。 安田講堂正面の頑丈なバリケードは、日大全共闘が作ったって言うじゃないですか」
 言葉つきまで変わった。
「さあ、ぼくはまったく知りませんし、関心もありません」
 女の私に対する注視が熱いものになった。私はその視線を避けた。こんな理屈屋の口汚い女とお近づきになりたくない。饒舌はシラケたふうに、ママに水割りの追加を注文した。女が機械的な手つきでタンブラーの氷を掻き混ぜる。イスズが、私の代わりに答える。
「戦う者たちの関心は党派にあるんじゃなくて、戦うことそのものにあるんですよ。彼らが安田講堂という場所で一体化したということですね。小腹がへったな。ママさん、焼ソバある?」
「すみません、焼うどんなら」
「じゃ、それお願いします」
「神無月さんも、水割りお替りします?」
 女が尋いた。
「いえ、もうすぐ引き揚げます」
 一時間足らずのあいだに早稲田のボトルがほとんど空になっているのを見て、私はびっくりした。松尾や御池は酒豪だが、こんな下品ながぶ飲みをしない。女がプレーヤーに寄ってフォークソングをかけた。
「はい! 悲しくてやりきれない!」
 饒舌が音頭をとって、片割れと歌いだすと、イスズも声を張り上げて合わせた。一刻も早く帰りたかった。しかし、私はそれができないタチなのだ。カシワ手は酒席の礼儀なのだろうか、みんなでしきりに両手を拍ち合わせている。


         百九十六

 歌の最中に年輩の新客が二人入ってきて、それで店がいっぱいになった。女がお替りのグラスを私の前に置いたとき、あらためてその顔を見た。さびしそうな眼をした、背の高い、美しさのかけらもない中年女だった。人を押しこめる理屈を言うだけで終わっていく人生。新しい客がさっそく世辞を使いだした。
「いつもはるちゃんはきれいだねえ。山本陽子にそっくりだ」
 上の空で聞こえなかったのか、それとも素っ気なさを示すつもりだったのか、彼女は天井をじっと見つめながら軽く髪をなぜただけだった。そしてカウンターの隅のレコード棚のほうへいった。次にかけるレコードを物色している。代わりにママがカウンターについた。じっと私を見つめ、
「苦労なさってるのね。悲しそうな目」
 と言った。ママは笑いを収めると、女優のようなキツい化粧顔だとわかった。もうさんざん飲んでいた饒舌学生は、三十女を目で追いかけながら、何とか言葉を交わしたいそぶりを見せた。
「はる子ちゃん、こっちにきなよ。レコードなんかいいから」
 女は無表情に男を見返ったが、返事もせずに、今度はレコードを戻して、鍋もフライパンも載っていないガスレンジに向かった。ママが気遣わしげな様子をした。饒舌は指先でカウンターを叩きながら、急に大声を上げた。
「愉快にやろうぜ! ね、東大の神無月さん、そんなに無口に構えられると、にっちもさっちもいかない。これ以上早稲田をいじめないでよ、ホームラン王。シモネタいきますか」
 女が唇に指を当ててたしなめるのもかまわず、まあまかせとけとでもいうふうに、
「ビール瓶どころか、一升瓶まで入る女も実際にいるらしい。まあ、理屈ではそこから赤ん坊が出てくるんだからあたりまえか」
 新しい客の一人が、
「俺のはマッチ棒だから、そんなのに入れたら浮かんじまう」
 と湿った笑い声を上げた。イスズが、
「どうも、グロですね。手触りのない人たちだ」
「何だい、手触りって。高級そうな言葉使いやがって」
 私は今度こそ腰を上げた。
「勘定、お願いします」
「二千五百円です」
 女が応えた。一万円札を差し出すと、女は無意味にスピードのある手さばきでツリをよこした。
「まだ一時を過ぎたばかりだよ」
 と饒舌が言い、片割れが、
「じゃ、また、お会いしましょう。ほんとに来年は早稲田をいじめないでね」
 イスズが、
「お会いできて感激でした。秋季リーグの優勝を祈ってます」
 二人の新客が、不思議そうに私の横顔を見た。鈴の鳴る扉から表へ出た。意味もなく五杯も飲んだ水割りのせいで、足もとがふらふらする。かろうじて歩調をとりながら石手荘まで歩いた。商家や事務所の看板も、民家の垣根も庭も、揺れて入り混じり、ふわふわ目の脇を過ぎる。ようやく部屋にたどり着いて、蒲団に倒れこんだ。二度とアルコールのある場所に近づくまいと思った。
         † 
 二十日金曜日。明け方の六時半に目覚めた。五時間ほどの睡眠でまぶたが軽い。酔って熟睡したことで、数日の疲れがすっかり取り払われたようだ。もう一眠りするか、ランニングに出るか、本を読むか、それとも小説の腹案を練るか思案した。練習はきょうまで出ないことを仲間に告げてある。しかし、きのうと同様きょうも出る。起床。
 激しい下痢。尻が拭きやすい。歯を磨く。水道の水で頭を洗う。ジャージを着てランニングに出る。快晴。青梅街道を善福寺一丁目の交差点まで走り、右折して登記所通りの閑静な町並みへ入る。日産荻窪工場の脇の広い公園を右に見て直進。都道に出て右折。四面道の交差点に戻ってきた。はる子母子がパン屋の石橋亭に入る背中を目撃する。胸が悪くなる。
 部屋で腹筋をしていると、紙袋を提げたよしのりがきた。ラムネ三本と握りめしとポットを取り出した。差し出されたラムネを一本一気に飲んだ。炭酸が心地よく喉に沁みた。
「ああ、生き返った。サンキュー」
 よしのりは私に握りめしを手渡し、ポットのふたにお茶を注ぐ。
「アサリの佃煮だ。うまいだろ」
「うまい!」
「俺が握ったんだ」
「なんでまた」
「おまえの日ごろのがんばりに対する慰労だ。そういえば、部長、なかなか神無月さんに会えませんねって、ぼやいてたぞ」
「いろいろと忙しいからね」
「月に一回くらいはきてくれよ。女といっしょでもいいからさ」
「山口は土曜日にきてるんだろ」
「ああ。グリーンハウスも週一にしちゃったみたいだな。来年イタリアのコンクールに出るらしい。入賞したら、東大やめて、ギター一筋に打ちこむってさ」
「知ってるよ。まちがいなくそうするだろう。山口は有言実行の人間だからね。秋のリーグ戦が十一月の初旬に終わるから、そのあと飲みにいく」
「その前に、一回ぐらいこいよ」
「わかった。きょうは最近の世間情報を教えてくれ。くどくなるなよ、ザッとでいい」
「相変わらず仙人だな。三菱重工と八幡製鉄が世界百大企業にランクイン、飛騨川のバスの転落事故」
「それ、知ってる」
「百四人も死んだ。よっぽどついてないやつらだ。札幌医大の心臓移植、拒絶反応とかいうやつで、結局死ぬんだろう。じゃ、俺、きょうは真っ昼間からミーティングだからいくわ」
「ぼくはいまから風呂だ」
 青梅街道沿いの日産工場脇の広い公園の手前に小さな銭湯があったことを思い出し、アテをつける。
「いよいよ法政戦だな」
「野球には興味がないんじゃないのか」
「ない。おまえのスケジュールに興味があるだけ。宮中で見たバッティングは目に鮮やかに残ってるけどな。これからは、おまえが飲みにきたときは、ツマミをうんと食わせて栄養をつけるようにしないといかんな」
 紙袋を提げて帰っていった。
 銭湯へいって汗を流し、安全カミソリでヒゲを剃った。ほとんど生えないので二、三カ月に一度でOKだとわかる。
 七時を回って、カズちゃんがきれいなユニフォーム二着、一週間分のパンツとランニングシャツ、ユニフォームのアンダーシャツ五枚、ストッキング五足を持って石手荘にやってきた。詩織の用意した分と合わせて十組になった。
「いよいよあしたから法政戦ね。がんばって。ごはんは?」
「まだ」
「そのへんで食べましょう」
「豚汁が食いたい」
「私はふつうの定食。車できたから、道沿いで大衆食堂を探してみましょう」
 西荻方向へボルボを走らせていると、和田屋という大きな食堂が見つかった。看板のメニューを見ると、豚汁定食がある。
「入ってみましょう」
 店の中にいいにおいが充満していた。目立たないようにテーブル席につき、カズちゃんが豚汁定食と焼きサンマ定食を注文する。カウンターの客はこちらを見ない。人から注目されないことに安らぐ。
「西松の飯場じゃ、豚汁は年に一回ぐらいだったかな」
「そう、お母さんのメニューがとても少なかったから」
「カレーとシチューが月に半分。オシンコが新鮮に感じられるくらいじゃ、社員たちも物足りなかったろうな」
「肉は、三日に一度の豚肉ソテーって決まってたわね。私は、同じくらいの食費ですむステーキとか、すき焼きとか、肉じゃがとか、いろいろやりたかったんだけど、お母さんには口出せなかったから」
「カズちゃんほど頭が回らなかったんだよ。それにしても、なんだかうれしそうだね」
「わかる? 主任になったのよ。店長、主任、副主任、キャプテン、平店員。上から二番目よ。小さなお店だけど、たった半年でこの出世はうれしいわ。キョウちゃんに遇ってなかったら、こんなうれしいこと起こらなかった」
「おめでとう。これで来年コーディネーターの資格を取ったら、言うことなしだね。カズちゃんのがんばりが実を結んだんだ。ぼくのせいじゃない」
「ううん、キョウちゃんのおかげ。あのままだったら、結局、北村席の跡取りで一生終わってたわ」
「いや、栄養士としてモノになってたよ。ぼくとは関係ない」
「そうしときましょ。もっともっと勉強しなくちゃ。二、三年なんて、あっという間に経っちゃう」
「泊まってく?」
「リーグ戦が終わるまではだめ。でも、したくなったら電話してね。飛んでくるわ。きょうあすは、ゆっくり休息をとって」
「うん。急に詩が書きたくなった」
「食事が終わったら、戻って書きましょう。忘れないように記憶して」
         †  
 机に向かって詩を書いた。カズちゃんが傍らに立って寄り添った。

  ひととき
  ぼくがあなたを恋し
  あなたは ぼくにほほえむ
  陽のひかりは 大気に融けこみ
  ときの流れは 思い出のダイアになる
  ぼくたちは いつの日にか
  死の世界へ拉致され 腐食し
  白骨となって 風化される
  それゆえぼくは
  あなたを恋さずにはいられず
  両腕にいだかずにはいられない
  身二つ 祈るべき存在に映ったら
  じゅうぶんな収穫として
  愚衷(ぐちゅう)にひたろう


 カズちゃんが肩口から覗きこみ、低く呟きながら、唇に活字を写し取る。私の首筋に涙が落ちた。彼女は背中から私を包みこむように抱擁した。二人の愛がすべての人間関係を破壊するほど強いものだとするなら、その愛の中に何か恐ろしい決意があるからだ。でもそんなことはとっくに気づいていたことだ。私はじっとカズちゃんの顔を見つめた。カズちゃんは、私の目の中に見える決意の閃きを不安に感じたようだった。彼女は私に口づけし、頬を撫でた。
「私にこだわらなくていいのよ。私はただの同伴者」
 カズちゃんはそう言って、渇きをいやすようにもう一度唇を寄せた。耐えていた禁欲がすべて、指や手のひらに沈黙の言葉となって流れ出た。乳房をまさぐり、スカートの下の湿りを丁寧に確かめる。私は高まってくる欲望をもてあましはじめた。そして、生暖かく体積を増してくる自分のものを下腹に感じながら、彼女への透明な愛と、現実的な生理とのあいだをさまよった。
「しましょう……。そのあと帰るわね」
「愛してる」
「その百倍も」


         百九十七
 
 九月二十一日土曜日。朝方の強い雨のあと、霧雨に変わり、早いうちに上がる。気温は二十五度前後。
 七時。ダッフルを担ぎ、ブレザーに革靴でアパートを出る。フジに寄り、モーニングサービスつきのコーヒー。新聞は見ないようにする。客たちのサインは断り、握手だけをする。カズちゃんは、私がレジで勘定をすますときも、責任者らしい真剣な顔つきでカウンターに入りっきりだった。緑色の制服の下に同じ緑色のベストを着ていた。主任というのは、いつも目立たずカウンターの隅のほうにいて、カップや皿を拭いたり、サイフォン装置を洗ったり、豆の分量を測ったりしているもののようだった。キャプテンはカウンター助手、副主任はレジ係、平社員はウェイトレスだろう。富沢マスターが、
「実質、優勝戦だね。がんばって」
「はい、いってきます」
 カズちゃんと金城くんが、いってらっしゃい、と頭を下げる。
 店を出て、一路本郷へ。九時少し前に本郷三丁目に着いたので、通りがかりの床屋で髪を刈った。一番客。慎太郎刈りにしてもらう。十五分で仕上がる。
「優勝を祈ってます」
 帰りがけに店主に声をかけられる。
「がんばります」
 東大球場に数十人の報道陣が詰めかけている。フラッシュが光る。部室に入り、無番のユニフォームに着替える。詩織から帽子を渡される。
「きれいに汗染みが取れました。やっぱりクリーニング屋さんて技術がちがうんですね」
「ありがとう。これからは、高円寺の知り合いのクリーニング屋に出すよ。いままでありがとう」
 その帽子をかぶり、マシンでフリーバッティングだけを二十本やって、あとはひたすら球拾いをした。
 十時、バックネット前に集合。部長以下、助手、マネージャーにいたるまで、全員で監督を取り囲む。
「それではきょうの試合に向けて、監督からひとこと」
 克己が言うと、鈴下が穏やかな顔で、
「早稲田戦をものにしたから調子づいて言うわけじゃないが、贔屓目じゃなく、うちの戦力は春の二倍、三倍になっている。基本に忠実に守備をし、勇気をもって攻撃すれば、おのずと得るところも大きいだろう。とにかく精いっぱいやってくれ。愉しくやるのはうちの方針だけれども、苦しいときには苦しい顔をしてプレイしてほしい。そのほうが結果いかんに関わらず、喜びが大きい。ゲンなんか担がなくていい。なるべく新品のユニフォームに着替えて、お気に入りのバットを持って、いざ出発だ。十時四十五分からバッティング練習二十分、五分置いて、法政も同じバッティング練習。それから守備練習十分ずつ。後攻。ベンチは三塁側。十二時試合開始だ。この秋の最有力優勝候補は東大だぞ。私は心からそう信じてる。終わり」
 拍手。フラッシュ。円陣を組み、
「フレー、フレー、東大、フレ、フレ、東大!」
 こういうことは常に芸がない。しかしそのシンプルさが快適だ。解散。部室に戻り、背番号つきの新しいユニフォームに着替える。着替えたのは私のほかに、中介と那智だけだ。ほとんど茶色く乾いた泥のこびりついたユニフォームを着た。
 赤門の路肩に四台の中型バスが駐車している。一台目、監督助監督部長以下レギュラーと準レギュラー、マネージャー。二台目、補欠、助手、雑役スタッフ。三台目、応援団および用具、バトンおよび用具。四台目、ブラバンおよび用具。どのバスにも記者たちが同乗しないのがうれしい。
 また霧雨が降りはじめた。顔が濡れる程度。それより、風が冷たくなってきた。横平はじめほとんどのメンバーが、泥で汚れたユニフォームを着ている。泥んこのユニフォーム。関! デブシ! 太田! 御手洗! あふれるような感傷がおそってきた。あのころ私は何も見ていなかった。人や景観とは関係なく、自分の覚悟だけを見ていた。自分の本来の矮小性だけを見ていた。心はかぎりなく周囲の人や景観に対して醒めていた。その私が汗まみれになってグランドを走り回り、一途に野球を愛する情熱的な人間になったことがうれしい。これから先、私がしなくてはいけないことは、あの希薄な一時間を、一分を、一秒をひたすら忘れていくことだけだ。その毎時間、毎分、毎秒に、どんなふうに私が呼吸し、動き回ったか、それを忘れていくことだ。 
 バスの座席に収まったとたん詩織が、
「ちょっとやりすぎかなと思いましたけど、カラオケを用意しました。歌詞本にあるだけの曲しかありませんけど、唄いたい人がいたらどうぞ」
 オオ、と仁部長が手を上げた。
「人間の本質は、たゆまぬ努力と献身であーる。協力し合って地固めをする。ヨイッと巻け、ヨイッと巻け、ヨイトマケの歌!」
 詩織がテープを用意する。

  父ちゃんのためなら エンヤコラ
  母ちゃんのためなら エンヤコラ
  もひとつおまけに エンヤコラ
  いまも聞こえる ヨイトマケの唄
  いまも聞こえる あの子守唄
  ヨイトマケの子供 きたない子供と
  いじめぬかれて はやされて
  くやし涙にくれながら
  泣いて帰った 道すがら
  母ちゃんの働くとこを見た
  母ちゃんの働くとこを見た
 
 部長は二番もつづけて唄う。聖母に対する幻の歌だ。高校も出たし、大学も出た、母ちゃん見てくれこの姿、という短絡的な歌詞にまとめたのがさびしかった。母ちゃんは子供のためではなく、生活のために働いていたのだ。子供は腐れ縁だ。生活に忙しい中で、どれほど彼女が子供を愛したかが問題だ。肉体の疲れは悲惨ではない。心地よい疲労を抱えながら、土方はもっと明るく生きている。
 私はみんなに混じって薄っぺらなエレジーに拍手をした。女子マネージャー三人が交互に唄いだした。睦子、好きになった人、詩織、天使の誘惑、黒屋、ブルー・ライト・ヨコハマ。男たちがやんやの喝采をした。白川が氷の詰まったクーラーボックスを持って立ち上がった。
「さあ、神宮球場に到着しました。いよいよ法政戦です。妙に色っぽい東大三人娘の美声で肩の力を抜いたところで、のびのびと、思い切ったプレーをしてください。用事があれば、何なりと申しつけてください。タバコを買いにも、トルコの予約にも走りますよ」
 大笑いの中、監督が大声で、
「山中のスクリューはなるべく捨てろ! 三振を取られそうになったら、しょうがないから振っていけ」
「ウース!」
 克己が、
「金太郎さんは全打席ホームランを狙え。頼んだぞ!」
「オッケー!」
 監督が、
「一回戦は法政の先攻だ。台坂、何やったってむだだ。好きなように投げろ。五本以上連打されたら代えてやる」
「オーシ!」
 一塁側ベンチに入る。六大学野球では、先攻は三塁ベンチと決まっている。残り二戦の東大は先攻で三塁ベンチ、後攻で一塁ベンチとなる。ベンチ温度、二十五・三度。センターに向かってかなりの風がある。ホームラン風だ。
 あっという間に両チームのバッティング練習と守備練習が終わった。内外野のスタンドは鈴なりの満員。六大学野球で外野スタンドが満杯に埋まることはまずない。中継テレビがゆっくりレンズを巡らせている。ネット裏の関係者席、記者席もぎっしりだ。彼らのだれもかれもが、この東大―法政三連戦が実質的な優勝決定戦だと囁き合っているにちがいない。
 バックネット最前列に村迫がいる。片手に手帳を携えている両脇の二人は、ドラゴンズのスカウト関係者だろう。カズちゃんたちの所定の位置はあえて見ないようにする。女たちを気にするなと彼女に言われている。ホームランを打ったときだけ見ることにしよう。
 東大一塁側の演壇に応援団員四人が後ろ手にスックと立ち、演壇の下に黄色いフリルつきのミドルスカートを穿いて紅白のバトンを持ったバトンガールが四人、観客席を見上げている。客席の通路に十人ほどの応援団員と白手袋のバトンガールが散らばる。ブラバンが三十人余り。彼らの背後の客席を一般学生やOBや教授連が埋め尽くしている。三千人近くいる。これまでで最高の入りだ。ときおり大太鼓の音が轟き、応援団長が叫ぶ。金管の響きが流れ出し、足音を高めよの斉唱。
 つづけて法政スタンドにも耳慣れない寮歌らしきものの斉唱が湧き上がる。演壇に応援団員が三人、赤いロングスカートに黒セーターのバトンガールが三人いる。客席にそれぞれ二十人ばかりが散らばる。ブラバンは東大に倍する人数がいる。
 両チームのスターティングメンバー発表。ウグイス嬢の声が球場にこだまする。一人発表するごとに盛大な拍手と喚声。私の名前のところで轟音が立ち昇る。
 十二時。甲高いサイレンが鳴り響く中で整列。霧雨のスタンドに礼、選手同士礼。鈴下監督が怒声を発する。
「台坂、打ちのめされてこい! 内外野、締まっていけ。エラーを恐れるな。ただし気を抜いたエラーはするなよ!」
 一塁側ベンチから全員フィールドへ飛び出していく。先発は四年生のスタミナ男台坂。早稲田の第二戦を投げ切って調子に乗っている。法政打線が相手でなければ五回はもつだろうが、きょうは一回でノックアウトかもしれない。百三十五、六キロの重そうな球を投げている。敵の山中と同じくらいのスピードだ。担ぎ投法がかなり改善され、肘をきれいに使えるようになった。
 センターの中介とキャッチボール。彼もマシな肩になった。強い球を投げ合い、気合を入れる。中介から横平へやはり強いボールが渡る。スタンドの静かなざわめきが快い。横平がボールをベンチへ投げ返す。中介が内野に向かって叫ぶ。
「ヘイヘイヘイ、しまっていこーぜー!」
「ウォース!」
 センターのスコアボードを見やって、法政の打順と守備位置を確認する。一番、ライト苑田。二番、ショート山田。三番、サード富田。四番、キャッチャー田淵。五番、センター山本。六番、セカンド佐藤。七番、ファースト桑原。八番、レフト堀井。九番、ピッチャー山中。法政のバトンガールが踊りだす。少年ジェットのマーチ。心地よく腹にくる大太鼓の響き。声援、太鼓、声援、太鼓、バトンの回転。苑田がバッターボックスに立った。
「プレイ!」
 三人の応援団員の突き、チアが入れ替わって握ったバトンで突き、入れ替わって応援団の突き、バトンのラインダンス。学生総立ちで手拍子。
「かっ飛ばせー、苑田、かっ飛ばせー、苑田」
 春は彼のレフト前ヒットを二本捕った。ヒット打ちの名人と踏んだ。私は爪先立って構える。初球、真ん中低目、台坂渾身のストレート。いい音がして低い打球がセンターへ伸びていく。いや、左中間か。私は届かない。それでも走る、走る。
「オーライ、オーライ!」
 中介が追いついた。キャッチ。
「ナイスラン!」
 ワンアウト。このアウトは大きい。緊張が一挙にほぐれた。二番、山田。首位打者を狙える男だと克己が言っていた。
「金太郎さんがいなくなったらな。金太郎さんがいるうちは、だれもどの一つの冠も取れない」
 春の第一打席は、たしか私へのレフトライナーだった。引っぱり屋の印象が強い。ラインぎわに構える。霧雨が上がり、雲の色が薄くなる。ワンスリーから外角球をライト前へクリーンヒット。流してきた。台坂のボールに思った以上の力があるということだ。チャンス法政のコンバットマーチ。太鼓と歓声が激しくなる。団長一人演壇に飛び上がり美しい型を披露する。他の団員とバトンがつづく。壇上とは衣装のちがうバトンガールたちが観客席で懸命に踊る。外野三人声をかけ合う。 
「ヘイ、ヘイ、ヘイ、ヘイ!」
「イグゼ、イグゼー!」
「オイース!」
 三番富田。プロ野球選手まがいの風格がある。バットを少し寝かせて構える。パンチショットを得意にするバッターの特徴だ。阪神の吉田義男、巨人の森昌彦。例外はバットを立てるスラッガー野村克也。彼のパンチショットは芸術品だ。
 台坂セットポジションから第一球。外角に高く外してランナーの様子を見る。動きはない。二球目、胸もと、ストレート。ファールチップ。するどい振りだ。太鼓ドンドン、ドドドン、ドン。バトンの腰振りダンス。三球目、外角カーブ。ハッシと打つ。火の出るような臼山へのファーストライナー。片手取りして、ベースに飛びついてタッチ。山田手から戻って、間一髪セーフ。今度は東大ベンチの歓声。一塁スタンドの拍手。詩織と睦子が跳びはねている。すばらしい守備だ。東大チームとは思えない。


         百九十八

 田淵登場。もやしのように痩せた百八十六センチの大男。法政チームでただ一人ヘルメットをかぶっている。それがよく似合う。球場の音量が一気に増大した。
「ブーチ!」
「ブーチ!」
 フラッシュ、フラッシュ。チャンス法政戦闘マーチ。早稲田の『総力の大進撃』、慶應の『ダッシュ慶應』、法政の『チャンス法政』といったような正式なコンバットマーチが東大にはない。明治にもない。たしかに東大は鉄腕アトムを、立教はポパイをビクトリーマーチに転用しているが、いまひとつ迫力に欠ける。さっそく睦子たちに諮ってみよう。
 田淵はバットのグリップを腰に引き寄せ、低目の振り出しに手首を利かせようとする構えだ。春に彼のバッティングフォームを見たとき素人くさい感じがしたのは、振り出すときに上体が反り返って、手首をこねる手打ちになるからだ。子供によく見かけるフォームだ。フォロースルーに切れを感じない。手首が強いので、うまく当たればピンポン球のように飛んでいく。からだを常に反り返らせてインパクトするので、手首だけのバットコントロールをどこまでできるかで打率が決まる。三割を打てないバッターだろう。低目が大好きなので、とにかく低目を投げてはいけない。私は少し前進して、
「台坂さん、高目、高目ェ!」
 と叫んだ。田淵に聞こえたっていい。かえって考えこむだろう。高目をこねて打つことは難しいのだ。とつぜん霧雨が完全に晴れ上がり、さわやかな風がフィールドを吹き抜けた。私は深呼吸し、踵を上げて構えた。台坂は律義に胸のあたりにボール球を連投した。じれた田淵がふんぞり返ってこねた。高いレフトフライ。滞空時間が長い。定位置でしっかり捕球した。チェンジなのに、わざとサードへ速いボールを返す。水窪のグローブがするどい捕球音を立てる。このパフォーマンスに一塁側東大スタンドがお祭り騒ぎになった。ダッシュしてベンチへ。千年小学校の固い校庭を走り戻っていく錯覚に陥る。思わずバックネットを見る。五人の笑顔! 村迫の笑顔!
 法政のエース山中がゆっくりマウンドに上がる。投球練習はストレートのみ。克己を中心に円陣を組む。
「右バッターのシンカー、シュート、スクリュー、左バッターのカーブ、スライダー、それで打ち取ろうとしてくる。とにかく打ちにくい。狙い球をしぼるな。手が届くところはぜんぶ振っていけ。エー、イグゼ!」
「エー、イグゼ! イグゼ! イグゼ!」
 一番中介がバッターボックスに向かう。マネージャーたちの黄色い声。ブラバンがハナから天使の誘惑を演奏しだした。それに合わせた応援団の突きがユーモラスだ。バトンの腰振りの踊りがマッチしているのも楽しい。すぐに甲子園の高校野球のコンバットマーチに替わった。肌寒いほどの風が吹きはじめ、視界が鮮やかになる。
「プレイ!」
 山中が飄々と投げこんできた初球は内角のスライダーだった。
「ストライーク!」
 中介はバットを担いで考える。
「考えるな!」
 監督の怒声。山中の組み立てはわからない。
「コースを決めるな! バットの届くところを打て!」
 克己の怒鳴り声。二球目、外角へスクリュー。浮き上がって落ちる。ストライク。中介は、次は何がきても打つという毅然とした表情になった。三球目、内角高めにストレートがきた。外すつもりなのでストライクではない。中介は上からかぶせて思い切りひっぱたいた。痛烈な打球がジャンプしたサード富田のグローブを弾いた。コロコロとファールグランドへ転がる。足の速い中介は大股で一塁を蹴り、スピードを上げて足から二塁へ滑りこんだ。颯爽と立ち上がり、切腹スタイルのようなガッツポーズをとる。
 ワッショイ、ワッショイ、ブガブガドンチャン、ブガブガドンチャン。
「カットバセー、イーワサキ! カットバセー、イーワサキ!」
 鉄腕アトム。すでに磐崎がボックスの前で屈伸運動をしている。田淵が一歩前に出て、外野前進のサインを出す。
「磐崎さん、ぶん回し! 外野のアタマ、外野のアタマ!」
 初球からスクリュー、見逃し、ストライク。シンカーは直球軌道でそのままふわりと落ち、スクリューはシュート軌道で浮き上がって落ちる。どちらもぶん回しではなかなか当たらない。ドン、ドンドン、ドン。バトンのきらめき。二球目、正確なコントロールで外角へストレート。空振り。届かない。三球目、真ん中低目直球、ぐっとこらえて、ボール。四球目、外角低目へ釣り球直球。これもこらえて、ボール。
「ナイスセン、ナイスセン!」
 ベンチが唱和する。次のボールは何だ。皆目見当がつかない。
「内角スクリュー!」
 適当に叫んだ。山中の耳に届けばスクリューボールは投げてこないだろう。五球目、山中はすまし顔で内角にスクリューを投げてきた。磐崎は一拍踏み留まって強振した。まともに当たった。あっというまにゴロで三塁線を抜けていく。大きくファールグランドに逸れてフェンスに打ち当たる。中介ホームイン。ゼロ対一。連続二塁打。太鼓ドンドン、ドンドン、バトン娘たちの跳躍、突き、突き、鉄腕アトム。
 長打力のある横平には、外角のカーブと外角ストレートの二本立てだろう。山中が両手を腰に当てて空を見た。内角のシュートかストレートかもしれない。いずれにしても、横平はミートさえすれば遠くへ飛んでいく。田淵が外野にバックの指示を出した。私はネクストバッターズサークルでゆるいアッパーの素振りをした。遠い日の長嶋を思い出している。
 初球、予想どおり外角低目のカーブ。強振! 芯を食った。キャー! とマネージャーたちが悲鳴を上げた。鈴下監督が叫ぶ。
「よっしゃ! 走れ! 走れ!」
 ラインドライブのかかった打球がレフトのファールライン目指して飛んでいく。フェアグランドで芝生を抉り、弾み、コンクリート塀に突き当たって、大きく跳ね上がった。磐崎がバンザイをしながらホームイン。三者連続二塁打。ゼロ対二。敵味方なく内外野スタンドが立ち上がって歓呼している。もはや万年最下位だったチームに対する声援ではない。伝統的な強豪チームに対する声援だ。童謡の金太郎が演奏される。
「おお、足柄山の金太郎か!」
 仁部長の声に、ベンチの全員が耳を澄ます格好をする。詩織と睦子が照れ笑いをする。
「俺たちにも作ってくれよ」
「あだ名がないので無理です」
 バトンガールたちがマサカリに見立てたバトンを担いだ格好で、園児のようなダンスをする。金太郎コールの声援の中でスタンドが波のように大きく揺れる。フラッシュのきらめき、シャッターの音。ネット裏を振り返り、帽子のひさしに手をやる。三塁スタンドを見つめる。山口を探すが見当たらない。
「カッセー、カッセー、金太郎! カッセー、カッセー、金太郎!」
 横平の広いスタンスのとおりに足跡が掘れている。スパイクで地面を均(なら)す。霧雨が上がったせいで手に湿りがない。雨を吸っているユニフォームの腿に掌をすりつける。山中がセットポジションに入る。構える。
 初球、山なりのスローボール。落ちていく先は遠い外角だ。ボール。気の抜けたような投球に呆れて、笑い声の混じった喚声が上がる。考えるな。緩急か、コースか、それともその両方かなどと考えるな。とにかく打てるところにきたら打つ。そのほかはぜんぶ捨てる。二球目、外角低目へ速球。ストライク。外角で押し切るつもりだ。
 ―緩急とコース?
 思わず刮目した。のろい、速い、中くらい。内角、外角、真ん中。高い、低い、適度。三掛ける三掛ける三。ピッチャーが投げるボールはこの二十七通りある。二十七通りのヤマなどかけられるはずがない。当てずっぽうか、さもなければ打てそうな球を打つしかない。まず当てずっぽうでいく。外角へスクリューと読む。クローズドに構え、掬い上げる体勢をとる。スピードボールが内角高めにきた。ボール。すべての予想はだしぬけに裏切られる。やっぱり、打てる球を打つに切り替える。四球目、外角に速いカーブが落ちてきた。打てる。踏みこみ、手首を絞ってバットを振り抜く。踏みこんだ分少し詰まったが確かな手応えがある。ドッと歓声が上がり、ネクストバッターズサークルから、
「ヨッシャー! 四号!」
 という水壁の声が聞こえた。山中が左中間の上空を振り返り、失意の背中を曝している。詰まっていたが中段まで飛んだ。スピードを乗せずにダイヤモンドを回る。フラッシュとシャッター音の共鳴。実際には、ストロボを焚く音やシャッターの音など喚声の中で聞こえるはずがない。観客の少ない静かな校庭や野球場で間近に聞いて記憶した音が、私の耳にはいつも聞こえる。雲間に青空が覗き、歓声に背を押されて移動する影がスローモーションのように地面に映る。じつに形のいい影だ。青木小学校から旧東海道を通って浅間下の三畳間へ帰る石畳の舗道。楠町の煎餅屋の前を通るとき道に映った私の影。半ズボンの足から伸びた上半身と頭の形。私はその美しさにうっとりしたものだった。
 レフトの堀井がボールの飛びこんだ左中間スタンドをじっと見つめている。センターの山本は両手を腰に当て、私の走る姿を注視していた。バトンガールたちの金太郎ダンスが始まり、応援団員の一人が学生服に〈金〉の字を染め出した赤い腹掛をつけて正拳突きをしている。総立ちのスタンドが闘魂はの合唱を始める。ベンチに飛びこみ、チームメイトたちに揉みしだかれる。木田ッサーや、関や、デブシや、太田の顔が浮かんでくる至福のときだ。氷水を一杯飲み干す。睦子が泣いている。ゼロ対四。まだノーアウトだ。黒屋が言った。
「これって、ほんとうのことよね」
 那智が、
「ほんとうって何ですか。嘘にしたいんですか」
 台坂が、
「嘘だったらホッとするけど、うれしくないな」
 克己が、
「ほんとうにしてくるわ。金太郎さんが打つと、いつまでも夢を見てるみたいだけど、俺が打てば現実だと信じるだろ」
 松永監督がピッチャー交代を告げる。小林が走って出てくる。これまた小柄の、ストレートとカーブだけのピッチャーだ。田淵と同期の法政一高出身だと鈴下監督が言う。
「嘘でもほんとうでもいい。取れるだけ取っておけ! いちばん嘘っぽい〈優勝〉に向かって、ゴー!」
 現実の連打が始まった。克己、センター前ヒット、水壁センター前ヒット、臼山センターフライ、大桐右中間ツーベース、一点、台坂三遊間ヒット、二点、中介サードフライ、磐崎センターオーバーのスリーベース、一点、横平右中間テキサスヒット、一点、私ライト上段へ五号ツーラン、二点、克己ショートゴロ。合計十一点をもぎ取って一回の攻撃を終了した。打者十四人の猛攻。ゼロ対十一。西樹助監督が、
「これだけつづけば、もう〈ほんとう〉だな」
 二回から法政がつぎこんできた一年生の横山は、噂とちがってノーコンではなかった。シュートが切れ、スピードも百四十七、八キロ出ていた。東大チームは二回以降を彼に散発五安打に零封された。私も三打数一安打に抑えられた。シュートを引っかけてファーストゴロ、セカンドライナー、一安打は外角シュートを打ったレフトオーバーの二塁打だった。残り四安打の内わけは、克己がシングル二本、大桐と臼山がそれぞれシングル一本だった。
 法政は、七回のエール交換が終わったとたんに飛び出した田淵のスリーランのみ。台坂は案の定、田淵に低目を打たれた。田淵のほかはまったく打棒ふるわず、八回、九回の三井、村入の継投にも易々と押さえこまれた。十一対三。試合時間はたった二時間二分だった。
 ベンチ横のインタビューは台坂が受け、私はいつもの癖が出て、報道陣を逃れてロッカールームで時間をつぶした。早稲田戦のときと同様、ドラゴンズの関係者が単独でやってきて労いの言葉をかけた。スカウトの榊と名乗った。
「渉外課長という役職も兼ねております」
 私のことは小学生のころから中商の押美に聞いて知っていたと言った。みんなぞろぞろ戻ってきたが、ロッカールームがある意味密談の場所であるにも関わらず、榊は村迫とちがってロッカールームに居残り、選手たちがやってきても頓着なく私と話した。自分は神無月郷と正対して話をする立場の人間であり、利権屋の回し者としてコソコソ訪れているではないという姿勢を強調したいようだった。村迫麾下(きか)の男たちは、私の入団の最大受益者である中日ドラゴンズの実行部隊だという誇りがあるので、そういう毅然とした態度をとるのは当然といえば当然なのだけれども、基本的にはマスコミに知れてはならない隠密行動である以上、態度には出さないが、こうして私の慰労に駆けつけるのはひどく気骨の折れる仕事であることはまちがいなかった。
「村迫は試合後、球団本部の定例会議に急遽戻りました。神無月さんに会えないのがひどく残念だと言っておりました。押美は中京大学以来の私の友人です。小四のころからあなたに執心していて、常々報告をくれていました。あなたがドラゴンズを意中の球団としてこよなく愛していると聞き、中商から入団してくださることを球団経営陣ともども期待しておりました。しかし、あのような顛末となりまして……。今後われわれは、精魂こめてあなたの入団に尽力しようと決意しております」
「押美さんは、わざわざ青森にまできてくれました。彼のアドバイスのおかげで、いまこうして野球をやっていられると言っても過言ではありません。お会いになったら、どうかよろしくお伝えください」
「はい。神無月さんに対する彼の功績を上層部に伝えて、いずれ礼を尽くしてドラゴンズのスカウトに招くつもりでおります。彼はいま、初志を貫くために各種スポーツの斡旋人みたいなことをやって糊口を凌いでおりますからね。あの勧誘の辣腕と情熱をプロ球界で発揮してほしいと思っています。あした以降は、村迫球団代表ともども関西と九州の大学野球を見て回りますので、しばらく無沙汰をいたします」
「わかりました。村迫さんによろしく」
「はい。優勝に一歩でも近づくよう祈っております。その折にはまた東京に戻ってまいります」
 しっかり握手し合った。



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