三十 

 八月に入って、夏風邪をひいた。道を歩くときも、グランドを走るときも、足もとの感覚がつかめなくて、何度もよろけた。からだが熱く、どんどん汗が出る。そのくせ突然寒気が襲ってきたりした。喉がひりひりし、やがてものを飲みこむのも辛くなった。
 朝上げた蒲団をもう一度敷き直し、母に言って学校に電話をしてもらった。
「もともとスポーツなんか向いてないんだよ。生まれたときから小っちゃくて生白い子だったし、よく病気をしたからね。いい加減に野球なんかやめちゃいなさい」
「病気って? ぼく、いままで病気なんかしたことないよ。青梅の叔父さんの家で風邪ひいたことあったけど」
「野辺地に預ける前だよ。中耳炎、はしか、トラコーマ、おたふく風邪。熱なんかしょっちゅう出したし、高島台じゃ破傷風もやったろ」
「あれはケガでしょ?」
「とにかく、赤ん坊のころから病院にばかりかかってたよ。いまだって健康診断のたびにかならず、不整脈とか、頻脈とか、青いハンコ捺されてくるじゃないか」
 たしかにそのとおりなので、私は何も言えなかった。夏がくるたび、首の下に汗をかいて、赤ん坊のように汗(あせ)疹(も)ができるのもいやだった。
「心臓が弱いんだね。大吉もそうだったけど」
「とうちゃんが?」
 初耳だった。
「そう。神無月家は循環器系の病気でみんな死んでるって、爺さんが言ってたよ。朝礼で吐いたのもそのせいじゃないの?」
「でも、心臓が強いから、破傷風も助かったんでしょ。そう言ってたじゃない」
「助かったから、そう思っただけだよ。あれは奇跡だね」
 ときどき、カズちゃんと畠中女史が交替で額のタオルを換えにきた。何やら煎じた茶色い薬も飲まされた。
 母の言うとおり、私は小さいころからあまり丈夫なほうではなかった。いまでもほとんど毎日下痢気味の便をするので、尻を拭くときは紙が破れないように慎重にやらなくてはいけないし、風呂から上がったときや、校庭で走ったあとなどはめまいがして、一瞬気が遠くなることがある。ベーランも三塁を廻るあたりでいつも苦しくなる。でも、からだが弱いと大病にかからないと聞いたことがある。丈夫なからだではないかもしれないけれど、きっと長持ちのするからだなのだ。
 煎じ薬を飲んだあと、一日じゅう眠った。浅間下の鉄工場へ母を迎えにいったときのことを夢に見た。工場の中にはあっちにもこっちにも、鉄のかたまりや、ぴかぴか光る小さい真鍮の輪や、奇妙な形の工具が置いてあった。壁に沿ってフライス盤が並び、棚には油を拭くためのボロ布や、いろいろな種類の酸の瓶、小箒、やすり、油差し、金鋸(のこ)などが雑然と載っていた。夢の中でなければ思い出せないほど細かい道具類だった。工場の敷地にはさまざまな男が出入りし、段車とベルトはいつも同じ調子で回りつづけていた。大がかりな機械から遠い広場の一画で、母と仲間がボルトやナットをテレビン油で洗っていた。母の顔はほかの女たちに比べて不思議なほど白々と目立った。よく見ると、色白の顔に薄くススがかかり、手や爪もすっかり黒ずんでいて、ひどく悲しかった。
 ときどき目覚めると、窓の外を、学校の義務と関わりのなくすごす大人たちの和やかな声が通り過ぎ、彼らと同じように学校へいかずに、袋みたいに寝そべっている身が何となくうれしかった。
「どう? だいじょうぶ?」
 翌朝、髪を切ってこざっぱりとしたカズちゃんが、味噌の香りのする土鍋を盆に載せてやってきた。
「味噌がゆ作ってきたわよ。食べんと治らんよ。熱いうちに食べると、どんな薬よりもよく効くから」
 そう言ってカズちゃんは、赤カブや小茄子の漬物をこまかく刻んだ上に、豆腐と油揚げの味噌汁をかけた粥を盛って、レンゲといっしょに差し出した。
「どうしたの、髪」
 うっすらとウェーブがかかっている。
「食べもの仕事なんだから、髪ぐらいきちんとしなさいって、お母さんに言われて」
「ふうん、ぼくは前の髪のほうが好きだな」
「また、殺し文句を言う」
 カズちゃんは大きな胸を揺すって笑いながら、髪の表面をそっと押さえた。
「ほんとにキョウちゃんは、女殺しね。女には気をつけなさい。女ごときで人生台なしにしちゃうことだってあるのよ。ま、男ごときってのもあるか」
 ひとりで笑っている。ふと表通りから、ハーモニカの音に合わせた幼い子供たちの甲高い歌声が聞こえてきて、私はじっと耳を傾けた。

 いくとせふるさと きてみれば
 咲く花 鳴く鳥 そよぐ風
 かどべの小川のささやきも
 なれにしむかしに かわらねど
 荒れたるわが家(いえ)に
 住む人 絶えてなく

 涙があふれてきた。
「まあ、キョウちゃんて、すてきな子ね」
 カズちゃんはそう言うと、二番を歌った。

  むかしを語るか そよぐ風
  むかしを映すか 澄める水
  朝夕かたみに 手をとりて
  遊びし友びと いまいずこ
  さびしきふるさとや
  さびしきわが家(いえ)や

 ふっくらしたアルトの声だった。涙が止まらなくなった。カズちゃんが固く抱きしめた。柔らかい胸だった。いったい何が起きているのかわからなかったけれど、とても気持ちがよかった。
 カズちゃんが土鍋を持って帰ったあとで、畠中女史が入れ代わりにやってきて、熱いコーヒーをいれてくれた。
「コーヒーはからだにいいのよ」
 彼女は私がコーヒーをすする顔をじっと見ていた。カズちゃんといい、女史といい、女らしさを包み隠さずに親切にしてくれるので、なんだか自分が色男になったような気がした。
 夕方、関と加藤雅江が見舞いにきた。驚いたことに、ゲゲッの杉山啓子もいっしょだった。私は寝床から上半身だけ起き上がって、彼らを迎えた。母がコーヒーと南部煎餅を持ってきて、頭を下げるとすぐ戻っていった。関は煎餅をパリパリやりながら、
「金太郎さんがおらんで、練習つまらん。岩間はくだらんことばっかしゃべるし、一週間もせんうちに決勝やいうのに、五年生もチンタラしとって、服部先生、張り合いがなさそうや。六試合もつづけて勝ってきたもんで、調子乗っとるんだわ。ぜんぶ神無月が打って勝っとるのによ」
「関だってよく打ったじゃないか。この前の試合も、六回におまえがセンター前ヒット打たなかったら、あれで終わってた」
「サンキュー。初めての手柄だで、褒められると舞い上がってまうわ。それより、神無月が帰ってきたら勝てると思っとるところが甘いんでにゃあか。いくら金太郎さんだって十割は打てんやろ。頼りすぎや。とにかく、サボっとると、負けてまうで」
「チーム打力は一週間ぐらいじゃ落ちないよ。ただ、気のゆるみから出るエラーは怖いよね。それさえなければ、あとは敵の投手力しだいだ。よすぎたら、負ける」
「杉山さん―」
 加藤雅江が杉山啓子の膝を指で押して促すようにすると、内気そうにうなずき、
「これ、よく効くから」
 と言って、風邪薬の小箱を差し出した。雅江は、
「ちゃんと飲まんとあかんよ。せっかく杉山さんが、お父さんに頼んでもらってきたんやから」
 と偉そうに言った。いわくありげに微笑を交わし合う。笑顔の杉山啓子は、黙っているときよりも愛らしかった。青梅のビーバーのような歯をしていた。
「杉山さん、神無月くんの大ファンなんやて」
 私は恥ずかしくなり、関に話しかけた。
「決勝は旗屋か」
「うん、去年、簡単に負けてるからなあ。でも、おまえがふつうに打てば、楽勝やろ」
「千年は、去年とはちがうからね」
「打線がちがうわ。去年は金太郎さん一人におんぶしてたもんな。そういえば、オールスター観にいったって? どうやった」
「つまんなかった」
「稲尾と杉浦がおるもんで、セは勝てん」
「セリーグにも金田や村山がいるし、秋山も権藤もいるけど、最初から投げさせないんだもの」
「お祭りだかんな。客が観たい選手を出すんや。まぐれで完全試合をやった森滝を出してくるやろ。当然打たれちゃうよな」
「打つほうも、長嶋、桑田、森徹とそろってたんだけど、パリーグのピッチャーは手ごわいからね」
「王や江藤や近藤和彦が束になってかかっても、杉浦と稲尾は打てんし、土橋もミケンズも打てん。パはすごいなあ。二連勝やもん。野村、張本、山内、榎本、中西、豊田、田宮やろ。かなわんて」
 加藤雅江は退屈顔で、
「帰るわ。いこ、杉山さん」
 と言って腰を上げた。玄関を出ていく二人の背中を見送っていた関が、
「加藤はおまえのことが好きなんやで。一人でくるのが恥ずかしいから、おまえのファンの杉山を連れてきたんや」
 と言った。私はもう一度寝床に横たわった。
「杉山さん、鼻が高くなければ、すごい美人なんだけど」
「ほうかなあ、俺は鼻が高いほうが美人やと思うけどな。ただ、あのゲゲッがどうもならん。オ、これ、寝とるときの退屈しのぎになるで」
 関は机の本立てにあった地図帳を枕もとで開いた。
「首都を暗記しよまい」
 彼はひとしきり、国と首都の名前を適当に拾い出しては、横になっている私に暗記を強いた。私はなぜか興味が湧き、目をつぶって真剣に暗記した。
「憶えたか」
「だいたい、半分以上は」
「じゃ、いくぞ。スーダン」
「ハルツーム」
「モンゴル」
「ウランバートル」
「チュニジア」
「チュニス」
「さすがやな。トルコ」
「アンカラ」
「チリ」
「サンチャゴ」
「ホンジュラス」
「…………」
「これは覚えられんやろ。テグシガルパや」
 そんなことを小一時間もやった。
「今度、空気銃、撃たしたろか?」
「いいよ。だれかにあたったら危ないから。ここの社員にクマさんという人がいるんだけど、空気銃のタマがいまでも腕に入ったままになってて、力を入れるとコリコリ動くんだ」
「ほんとか? やばいで、鉛の毒が出るから」
「そんなもの、クマさんなら、とっくに解毒しちゃったよ。何を撃つの? 空き缶とか、マッチ箱?」
「スズメ。二階の窓から、遠くの屋根に止まっとるのを狙うんや。あたらん。弾がカーブしてまう。何ヶ月か前、ツバメが電線に並んで止まっとったもんで、どうせ中(あた)らんやろ思って一発撃ったんや。ビチッてへんな音がして一羽落ちたみたいやったから、見にいったら、地面で死んどったわ。目閉じてよ。まだ温かくて、赤い喉しとった。かわいそうなことした。……庭に埋めたった」
 と言って、うつむいた。私が応答に困っていると、
「決勝も、ホームラン頼むで」
 笑いながら、私が飲み差した冷たいコーヒーを飲んで帰っていった。
 夜にはまたカズちゃんが、わざわざ自宅からヨーグルトや牛乳を持ってきた。その牛乳で、杉山啓子の風邪薬を飲んだ。そんなふうに人が出入りしているあいだ、母が何度か顔を出した。
「どうだい、具合は」
「うん、だいぶいい」
 夢のことを思い出し、何か気詰まりだった。


         三十一

 白い雑種の仔犬が食堂によろよろ現れた。生まれて一、二週間くらいのオスだった。不器用にからだを摺り寄せては鼻で鳴いた。白くて丸いふるえる頭、モグラのように開いた脚、そして何とも言えない手ざわりのいい毛並みをしていた。彼は鼻を鳴らしながら四六時中社員たちのあとを追いかけた。だれにでも甘える気立てのようだった。私は彼の潤んだ利口そうな目が気に入り、母に飼ってくれるように頼みこんだ。それが岡本所長の耳に入り、事務所にぜったい入れないこと、という厳命のもとにお許しが出た。犬はシロと名づけられた。母はけっこうこの犬が気に入っていて、いつも小皿に心がけて牛乳を足していた。
 まだ乳のにおいをただよわせている神秘的な命の切れはしを観察することは、私にかぎりない喜びをもたらした。太い無邪気な脚、蹠(あしうら)にはバラ色の疣がついていた。彼は牛乳の小皿へ這っていき、赤いちっぽけな舌で舐め、満足するとあごに牛乳をつけたまま、よちよち後じさりした。
 シロは食堂の隅で深い眠りを何日か繰り返したあと、だんだん足腰がしっかりし、ふつうの犬らしくなっていった。ひと月もすると、遠くから全速力で駆けてきて、胸や顔に跳びつくようになった。彼は放し飼いにされ、社員たちが一杯機嫌でどやどやと寮部屋へ引き揚げる踵についていったり、だれかれの靴やサンダルを裏庭へ持ち出したり、夜中に遠吠えをして安眠を妨げたりした。
 やがて、やんちゃな時期も過ぎると、みんなが出払っているあいだは、飯場を根城にかなり広い範囲を遊び回るようになった。ときどき小学校の裏門のあたりで、道端のにおいを嗅いでいる彼の姿を見かけた。一人遊びが性に合っているらしく、岡本所長の危惧をよそに事務所へ近づくこともなく、勝手に遊んでは時分どきに帰ってくるので、だれも彼の存在を気にかけなくなった。
 シロは事務所ではなく食堂をねぐらに定めた。彼は涼しいコンクリートの床や、食べもののにおいのするゴミバケツのかたわらが気に入っていたし、母やカズちゃんがサンダルを鳴らす音、騒がしく食器が鳴る音も気に入っていた。彼は食堂そのものをふるさとだと思っているようだった。彼を見つめながらよく、目玉を刳り抜かれてスグリの垣に吊るされていたミー助を思い浮かべた。犬と暮らすことは初めてだったけれども、私には自分の身に起きていることが、新奇に見えながら、そのじつ果てしなく何度もあった何かであるような気がした。
 シロを飼うのと時を合わせるように、母は八百清から生後半年ほどのメス猫をもらってきて、自分の部屋で飼いはじめた。これにもミーという簡単な名前がついた。母は仕事が退けたあとや、公休日の午前などに、万年炬燵の膝に乗せて指で毛を梳きながら、もう一方の手で、相変わらず高島易断の本とか会社四季報などを開け閉(た)てしていた。そうして、ときどき隣部屋の私に、
「××株は、上がるよ。所長さんのお墨つきなんだから」
 と声を投げたりした。もともと金銭に慎重な母は、べつに欲心が強いというわけでもないのに、このごろでは自分の臨時収入(洗濯屋や八百清から得たリベート)と毎月の給料を安全な株に投資するという方法で、秘密の雪だるまを太らせて楽しんでいるようだった。私のお年玉もその資金の一部になっているのだろう。彼女の話では、
「二十万円のおカネを、五分の利息がつく電力株に投資してるのよ」
 ということだった。その元金と、ときどきの買い足しで増える利を合わせると、十年後にはだいたい二百万円になるだろうと、うれしそうな笑みを漏らした。
 しばらくすると、犬も猫も急に大きくなりはじめた。シロは遊び上手なので気にならなかったけれど、部屋にばかりいるミーのほうは、板襖や柱に爪を立てたり、畳を小便で汚したりする厄介者になった。母はようやくミーを表に放してやった。それでもミーの癖は治らず、部屋に戻るとかならず畳に粗相をした。
 やがて、襖越しに母の部屋から絶えず煙草のいがらっぽいにおいと、猫の排泄物のにおいの入り混じった空気が、昼となく夜となく私の部屋に忍びこんでくるようになった。私はあらためて、母の法外なだらしなさに驚いた。彼女の立ち居や、雑な片付けの習慣もみんな不潔らしく感じはじめた。煙草を途中で消して火鉢や灰皿に並べておく癖や、風呂上りに髪をだらしなく肩に垂らしている姿なども嫌悪の種になってきた。
「ヘッシ! ヘッシ!」
 と一日に何回か聞こえる奇妙なくしゃみも憎々しかった。
 あるとき、いつもと種類のちがう魚が腐ったようなにおいに辟易して、母が食堂に詰めている午後に、板襖を開けて入りこんだ。部屋は乱雑そのもので、新聞や、週刊誌や、いつ洗うとも知れない洗濯物がとり散らかされた中に、布団を敷きこんだ夏冬兼用の炬燵が据えっ放しにしてあった。悪臭の正体はそこにはなかった。
 押入れを開けてみた。強い樟脳(しょうのう)のにおいがした。驚いたことに、雑然と放りこまれた衣類の上に、子を産んだばかりのミーが長まっていた。敷布を積み重ねたにわか仕立ての産褥から、眼を光らせてこちらを見るミーの腹に、濡れそぼった小さな子猫が四、五匹絡みついている。
 裏庭にいって、洗濯紐にかかっている古そうなタオルを何枚か引き外し、バケツの水に浸して固く絞った。六畳に戻ると、ミーを刺激しないようにそっと子猫を引き離し、一匹一匹タオルで拭いた。ミーは押入れからよろよろ出てきて、子供たちのそばで狂ったように鳴いていたが、畳の上にくるりとからだを丸めて乳を与える格好になった。目のふさがった子猫どもが彼女の腹に吸いついた。そのあいだに、しとねにこびりついた毛を爪でこそぎ取ったり、血で汚れた敷布を剥がして押入れの床を拭いたりした。悪臭のもとが敷布だとわかったので、そっくり新聞紙に包みこんで縁側に放り出した。そして押入れの蒲団のあいだから要らなさそうな古シーツを引っ張り出して、新しいしとねを作ってやった。
 そんなことをしているとき、押入れの奥の隅に、新品のビニールケースがいくつも積んであるのが目についた。手をつけた気配もない。薄い箱に『肥後芋茎』と書かれたリング状の乾燥した太紐がぎっしり詰まっている。
 ―ヒゴ、イモクキ?
 食いものにしては固く乾燥しすぎているし、といって子供の遊び道具というのでもなく、リングの脇には怪しげなヒモ縒(よ)りの棒も並んでいる。正体のわからないまま見つめているうちに、何やら秘密の香りがしてきた。そこには何か本能的に好奇心を刺激するものがあって、私はそれに促されるままに、貴重な宝が姿を現すことを期待しながら、箱を包んでいるビニールを破った。底まで探っても、ヒモ縒り棒以外のものは現れなかった。がっかりして、そのぴかぴか光る箱を、もとどおりの暗がりにきちんと積み直しておいた。それから、丸めて放り出した新聞紙のかたまりを裏のゴミ箱へ捨てにいった。
 その後何日経っても母は、私が押入を清潔に掃除して、ついでに汚い敷布を始末したことについては、一言も問いたださなかった。
         †
 夏もそろそろ盛りを過ぎ、平畑の街路樹が葉を落としはじめた。
「キョウ、一歩、二歩、散歩」
 日曜日、いつものようにクマさんに誘われて表に出たとき、電柱のスピーカーから流れてきた曲に惹きつけられた。そのメロディは、フランク永井や美空ひばりの歌謡曲とはちがう、力強くて、リズミカルで、そのくせ胸に沁みるような切ない響きを持っていた。
「この歌、だれ?」
 と訊いた。
「ジョー・スタッフォード」
 クマさんはすぐ答えた。これまでもニール・セダカやポール・アンカなどは、彼のポータブルプレーヤーで聴いたことがあったけれども、こんなに心を打つ曲は初めてだった。
「いい曲だね」
「ああ。霧のロンドンブリッジ。四、五年前の歌だ。気に入ったのか」
「うん」
「じゃ、キョウはハスキーボイスが好きなんだな」
「ハスキーボイスって?」
「しゃがれ声。ミスティボイスとも言ってな、百万ドルの声ってやつだ。ティミ・ユーローだろ、ダスティ・スプリングフィールドだろ、ジュリー・ロンドン、コニー・スティーブンス、そうだ、泣き節のコニー・フランシスもちょっとハスキーだな。男もけっこう多いけど、女のハスキーにはかなわない。澄んだ声ってのは、インパクトが弱いんだよな。ケーキ食いにいくか。『オレンジ』にはステレオがある」
「うん!」
 クマさんがオレンジの鈴を鳴らしてドアを開けると、客は一人もいなかった。店内はどこもかしこも磨きたてられていて、とても清潔な感じがした。店の奥でステレオがピカピカ輝いている。
「何食う」
「アップルパイ」
 アップルパイとコーヒー。クマさんはアサヒゴールドと、つまみのピーナッツ。
「マスター、何曲か聴かせてくれや」
 クマさんが言うと、前掛けをした店主がにこにこ笑いながらカウンターから出てきて、リサちゃんの家のやつとそっくりなステレオにドーナツ盤を載せた。コニー・フランシスのボーイ・ハントだった。このあいだザ・ヒットパレードの高崎一郎が、ニール・セダカが作曲してコニー・フランシスに贈った曲だと紹介していた。クマさんが言ったとおりコニー・フランシスは泣いているような声で、どこまでも高らかに歌い上げる。
「これはどうですか。レイ・チャールズの旅立てジャック」
 単純で、泥臭い感じ。あんまり好きじゃない。黙っていた。
「子供の耳には、この曲のよさはわからないんじゃないの」
「そうですか。これならいけるでしょ」
 軽快な音楽がかかった。子供みたいな声だ。たちまち心臓が心地よく拍ちはじめ、気分が浮き浮きしてきた。

アムゴナ、ノッコオンナ、ドー
リンゴ、オンニャ、ベー
タッポ、オンナ、ウィンドー、トゥー

「これ、だれ?」 
「エディ・ホッジス。恋の売りこみ。まだ十四歳の男の子ですよ」
「男! 女の子かと思った」
 ステレオの前に立っていた店主が笑顔でうなずく。次にヘレン・シャピロの悲しき片思いがかかった。イギリスポップスのさびしい雰囲気。太い声。好きな曲だ。
「彼女もまだ十四歳なんですよ」
「うそ! 三十歳ぐらいの声だよね」
「俺も知らなかったわ」
 店主はニコニコしながら、
「イギリスのヒットチャートで一位になった曲です」
「しかし、けっこうなコレクションだね。どれくらいあるの?」
「LPも入れると二千枚くらいですか。かなり散財しました」
「こんなにレコード揃えてる喫茶店はないよ。選曲もいい」
「ありがとうございます」
 頭を下げながら、次のレコードに大切に針を落とす。クマさんが耳を立てる。
「ティミ・ユーローの涙の思い出か。これもイギリス人だぞ」
 と私に言う。
「知ってる。ぼくもこの曲大好きなんだ」
「ハスキーボイスの大御所だな」
 深みがあって、パンチが効いていて、すばらしい声だ。店主は私たちの反応に気をよくしたのか、次から次へとドーナツ盤をかけていく。
「貸し切りだな。悪いね」
「いえ、私も楽しいですよ」
 リッキー・ネルソンのハロー・メリー・ルー。なんと太くて、柔らかくて、透明な声だろう! クリフ・リチャードのサマー・ホリデイ。変わった鼻声だけど魅力たっぷりのメロディだ。
「ほらきた、キョウ。これがコニー・スティーブンスのシックスティーン・リーズンズだ。名曲中の名曲だな」
 悲しさがまっすぐ心臓に突き刺さってくるような曲だった。
「こんな曲を人間が作ったなんて……」
「信じられないだろ? 音楽家って、そういうもんだよ」
 耳に親しんできたカレンダー・ガールや、悲しき十六歳や、あなたの肩に頬をうめてがターンテーブルに載せられていく。こんなふうに立派なステレオで、しかも大きな音で聴くと、あらためて、どれもこれも複雑な楽器音の入り混じった美しい曲だとわかる。ステレオが欲しいと心から思った。
 客が入ってきて、店主がターンテーブルを小休止させるまで、私は歌声にじっと耳を傾けながら、大人っぽくコーヒーをすすり、アップルパイにフォークを突き立てた。ステレオをじっと見つめる私の顔を見ていたクマさんが、
「ステレオ、欲しいか―」
 と尋いた。私はうなずいた。クマさんは煙草の煙を吐き出しながら、天井を見上げた。私は、うなずいてしまったことに気を差しながら煙を見ていた。
         

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