二百四十二

 雨が強くなっていた。私が差しかけた傘に護られて、先生はしっかりと背筋を伸ばして歩いた。私はたまらず笑い出した。先生も笑い、
「ごめんなさい、不愉快な思いさせちゃって。あんなへんな人だって見抜けなかった」
「そこが先生のいいところだよ。しかし、まいったね、あの素っ頓狂さに凶暴さが加わったら危ないところだったけど、ただ素っ頓狂なだけだったから助かった」
「でもいい経験だった。もしキョウちゃんに会ってなかったら、私、ああいう人たちの中でがまんしながら一生暮らさなければいけなかったのね」
「かもね。見知らぬ人に、それとも、見知っていても愛情を感じない人に、興味や同情で近づく人間は要注意だ。近づかれると、そいつの意見の奴隷になってしまう。人間は愛する人間に属してるんだよ。それ以外のだれにも、だれの考えにも属しようがないんだ」
「わかってます。きょうだってキョウちゃんを見せびらかしたいって気持ちが少しあったせいで、しっぺ返しを食らっちゃった。私にちょっと浮ついたところがあったからね。ああいうのがキョウちゃんの言う、嫉妬ですね」
「うん。おまけに頭のおかしいやつだった。ちょっとした災難だったね。二十六日の立教戦で大ホームランを打って、先生の憂さを晴らさなくちゃ」
 キクエはにっこり笑って私を見上げた。
「八坂荘のころ、私に焦りがあったのかしら」
「何の焦り? ぼくのことが好きだっただけだよ。自然の要求じゃないか。先生はもともと独立独歩だよ。最初、ゼリーを持ってぼくの部屋にきただろ。自分の心に従う強さがなければ、あんなことはできない。さあ、厄払いだ。早く部屋に帰って抱き合おう」
 人通りの少ない道で先生を抱き寄せ、唇を重ねた。すぐに先生の唇が応えてきた。
「ああ、早くキョウちゃんに入ってきてほしい」
 先生は私を所有するために、繰り返し私を〈中に取りこむ〉作業をしようとする。快楽はきっとその付属物にちがいない。私との交わりは、ほんのひととき、彼女に所有の幻覚を与えるのだ。そして彼女は、いつもそのあとにきまって深い喪失感に満たされる。そうなることを知りながら、取りこまずにはいられないのだ。しかし、私を失う不安に襲われるのは、やさしい彼女の杞憂だ。先生は肉体を越えて、私の魂を所有している。私の中には彼女と道ゆく決意がしっかりとでき上がっている。唇を離して見つめると、小さな目が安心したように輝いた。
 六畳の部屋から大家の屋敷を臨む窓を開けた。ねっとり湿った風が入ってきた。蒲団に戻り、すり寄ってきた先生の頭に腕を貸して、短髪をなぜ、頬にキスをした。燃えるように熱い頬だ。
「寒い―」
 先生が鼻をすすった。私はまた立っていって窓を閉めた。
「……優勝できるかしら」
「見通しは明るいけど、ぎりぎりだと思う」
「練習のじゃまばかりして……ごめんなさいね」
 決まり文句には食傷気味だ。
「だれにもじゃまされてないよ。水木金はかならず練習に出ることにしてるんだ。きょうも出ようと思ったけど、雨模様だったから出なかった。……いまはとにかく、一所懸命勉強して正看の資格を取ってね」
「はい」
         †  
 雨が止んだ十時を過ぎて、閉じるまぎわの銭湯にいった。かけ湯をして、熱い湯に沈むとき、女といっしょに入らない風呂というのはさびしいものだと感じた。もの心ついて以来、私はめったに一人で風呂に入ったことがない。小さいころは母と、少年のころは飯場の社員たちと、長じては女たちと。
 風呂を出て道の角の喫茶店に入る。微笑み合いながらコーヒーを飲む。
「ぼくたち出会ったころから銭湯にばかりいってるけど、いっしょにお風呂に入ったのは一度だけだよね」
「ええ、高円寺でみんなと」
「今度借りる家は、ユニットバスじゃない内風呂のある家にしよう。いっしょに入りたい」
「私も! どのへんがいいかなあ」
「カズちゃんと素子が高円寺、節子と法子が武蔵境。阿佐ヶ谷にはよしのり、西荻窪には山口。今度ぼくが越す家は吉祥寺。法子は吉祥寺に越してくると言ってる。だれも住んでいない中央線沿線となると、三鷹が候補だね」
「日赤にかようには、三鷹ね」
「三鷹だ。吉祥寺まで二駅だ。十一月下旬に三鷹駅のそばの一戸建てを探そう」
 小屋に戻った。
「ズボン、でき上がってるわ。ほら、このあいだの……」
 と言って、先生はうつむいた。チャックのところにべっとり白い体液がついたズボンを思い出した。ファンシーケースからズボンを取り出す。
「きれいになってる」
「汚れを手洗いで落としてから、クリーニングに出したの。新しい家ではちゃんと洋ダンスを買わないと。そして、キョウちゃんの服をもっと揃えるわ」
 先生はその場でスルスルと全裸になり、抱きついてきた。きつく抱き締め、唇を吸った。先生は膝を突いて、風呂上りの私のものを含んだ。
「どんどん大きくなる。いつも信じられない。……ドキドキする」
 蒲団の上にあぐらをかき、膝に先生を乗せて挿入し、唇を吸う。呼吸が私の口に荒く吹きこまれる。痙攣しはじめた尻を強く抱きしめる。快味に耐え切れず先生が立ち上がって離れる。私の肩に手を置いた格好でグンと達し、立っていられずに、畳に横たわった。私は赤ん坊を抱くように小さな先生を抱えた。腕の中で愛らしく痙攣している。キスをする。
「気持ちよかった?」
「はい、気持ちよかった! 今度はキョウちゃんがイッて」
「うん。新しい家は、ぜったい風呂付きじゃないとね」
「ぜったい!」
 肩を抱いて蒲団へ倒す。脚を割って、温かい腿を撫ぜる。すべすべとしたふくよかな感触だ。大きな大人の下半身。大人の腹の奥へ子供の性器を差し入れる。大人が打ちふるえる。それが不思議で、私は深い不安に陥る。大人は大人にまかせたほうがいいという倫理をいつも感じてきた。その倫理がそのとおりに私の周りで実現するなら、喜んで従うつもりでいる。ところが―柔らかな言葉とからだで包みこんでくれる女は大人ばかりだ。ヒデさんも、法子も、詩織も、睦子も、千佳子も、西高の金原も、私の年齢までくだってきた大人だ。彼女たちは暖かい言葉を吐き、温かいからだで包みこむ。カズちゃんやトモヨさんや素子はむろんのこと、私にとって子供だった女は一人もいない。けいこちゃん、ようこちゃん、京子ちゃん、福田雅子ちゃん、内田由紀子ちゃん、彼女たちでさえ、考えてみれば、微妙に私の胸を温める大人だった。
 どうして、私を取り囲む女たちは大人の男を求めないのだろう。どうしてやさしい道徳に従って生きようとしないのだろう。幼児である私には、おためごかしの芝居を演じて彼女たちを去らせるような大人のまねはとうていできない。このままじっと、やわらかな暖色の言葉とからだの海に浮かんでいるしかない。
         †
 私は裸のままテーブルに着いた。
「先月の九日で、二十五になりました」
「忘れてた―」
「いいの、他人の誕生日なんて、いちいち覚えていられるものじゃないもの」
「覚えてはいるんだけど、いざというときに思い出さないんだ。いつかも同じことを言ったけど、キクエは重陽の節句、九月九日、カズちゃんは桃の節句、三月三日、トモヨさんは十一月十一日、素子は一月一日、重なった数字はそこまで。節子は建国記念日の二月十一日、法子は八月二十五日。思い出すのはかならずその日が過ぎてからだ。文江さんもほかの女も年齢しかわからない。その年齢もこの九月までに一歳増えているかもしれない。あ! 山口やよしのりの誕生日すら知らないぞ」
「私は、キョウちゃんと、和子さんと、直人くんのしか知らない」
 キクエは茶をいれた。
「高知のお姉さん、どうしてるだろうね」
「そうそう、このあいだ手紙がきたんだけど、おねえさん、とうとう魚屋を閉じて、いつか話した地主さんの後妻に入ったんですって。先妻さんが亡くなって二年後。その地主さんもキッチリした人だったのね。ほんとうによかったわ。とうとう願いが叶って。信じられないほど幸せに暮らしてるみたい。これで、大きな心配ごとがなくなったわ。私もとても幸せに暮らしてるって返事を出したの。キョウちゃんの新聞記事を同封してね」
 先生の目にじわじわと涙があふれてきた。
「どうしたの?」
「私みたいな女のところに、こうやって、いつも忘れずきてくれて。……おねえさんのことまで気にかけてくれて」
 私は、泉がゆっくり水面へ盛り上がってくるような涙をじっと見ていた。竜飛―山口と二人で見つめた湧き水。胸の中でうめき声が上がり、心が先生のほうに靡くままにした。
「ぼく、暗い顔をしてた?」
「いいえ、ただお礼を言いたかったの」
「感謝するのはぼくの専売特許だよ。侵害されたくないな」
         †
 十月十六日水曜日。窓の外は霧雨。シンプルな朝食をとる。吉永先生と二人で食べるのでおいしい。
「来週はいよいよ決戦ね」
「うん。おととい勝って八勝零敗になった。来週の、たぶん土曜日に決まる。試合は一時半から」
「観にいくわ。来週は土日がお休みだから、日曜日もいく。新聞もテレビも、毎日東大のことばかり」
「入試が中止になりそうだって話だろ」
「それもだけど、六大学史上初の東大優勝のこと」
「今月末の二十八日に中退届を出す」
「とうとう!」
「そう、とうとう。ただ薄ボンヤリ中退してもドラフトは来年の秋だから、一年浪人をすることになってしまう。そんなことをしてからだを鈍らすよりは、このままドラフトを拒否しつづけて、きっちりドラフト直前に中退してドラゴンズと自由交渉する。来年の春からプロでプレーしたいんだ」
「だいぶ勉強したからわかります。……武蔵野日赤に合格したら、なるべく早いうちに中村日赤のほうに転勤を申し出ないと。節子さんも」
「どういう方法をとるかは二人で決めて」
「はい。春に名古屋に戻るなら、武蔵野日赤のために引越しの必要は―」
「あるよ。武蔵境の日赤にかようには、ここからじゃ遠すぎる。とにかく引越ししておいたほうがいい。家風呂は名古屋まで持ち越してもいいさ。カズちゃんが、家探しの日程が決まったら知らせてって言ってた」
「面接がうまくいけば、十一月二十五日から初仕事だから、引越しは十一月二十四日の日曜日あたりになると思います。上京するのはいちばん早かったけど、名古屋に戻るのはいちばん遅くなりそう。正看の試験が二月ですから、それに合格したあと、転勤の申請がうまく通れば、遅くとも四月までには戻れます」
「時間はないようで、じゅうぶんあるよ。その逆はまちがってる。何かの強迫観念だね」
「そうね。予定がしっかり立つまでそういう気持ちで暮らすことにします。とにかくキョウちゃん、優勝戦まで健康に気をつけて乗り切ってね」
「うん」
 キクエは上板橋駅の改札まで送ってきた。傘を振って別れの挨拶をする。チラとサッちゃんのことを思い浮かべた。


         二百四十三

 池袋から荻窪へ帰った。ジャージに下駄を履き、ダッフル担いで、きょうも本郷へ向かう。野球という孤独で奇妙な宗教。
 部室で筋トレに打ちこんだ。監督や助監督、部長、マネージャーたちの私服で閑談する姿はあったが、二日つづけて降ったり止んだりの天気なので、準レギュラーに比べてレギュラーの数が少なく、バーベルをやっているバッテリー数名くらいしか目につかない。二十分ほど那智を介添えにダンベルとバーベルをやり、壁に手を突いてストレッチをしていると、克己が寄ってきて、
「きのうはほとんどのやつが二日酔いだった。祝杯を上げるのが早すぎるんだよ。まあ、おとといきのうと湿った天気だったし、やつらにとっていい休日になったろう」
 鈴下監督に、中退届の提出日を教えた。なぜか監督の眉が翳った。不安になった。詩織が、
「ドラゴンズへの入団が成功したあと、二月に春季キャンプが控えてますよね」
「うん」
「それまでの練習はどうします?」
 黒屋が、
「別に東大球場でやってもいいんでしょう?」
「どういうふうに球団に引き回されるのかわからないけど、基本的にここで練習する。よろしいですか、監督」
「大歓迎だ。とことん最後まで学習させてもらう」
 眉の曇りを解かないまま言った。西樹助監督が、
「自由交渉になれば、札びら切って十二球団が押し寄せますよ。お母さんが懐柔されないよう気をつけたほうがいいですね。厄介な御仁だと聞いていますんで」
「懐柔も何も、野球選手を与太者のように思ってる人ですから、まともには彼女に近づけないでしょう。ぼくとは縁切り状態なので、その点も主張するんじゃないですか。カネよりも、東大中退のほうに目くじら立てるでしょう。ぼくの中退を妨害すれば、プロ入りも妨害できる。それがいちばん怖いです。じゃ、きょうはこれで失礼します」
 鈴下監督が、
「中退の件、承知しました。今月末を期限と見て諸方連絡を密にし、しっかり下準備をします。……すでにお母さんからは、退部を大学側から勧告するよう強い訴えが学生課に入っています。……中退の書類にはおいそれと判を捺さないでしょう。しかし、なんとか方策を考えます」
 彼の心配顔の理由がわかった。
「よろしくお願いいたします」
 かならずどうにかなるという確信があった。岡島副部長が、
「神無月くんのご恩には、とうてい報いることはできませんよ。最後まであなたの将来に関して万般の尽力をし、しっかり見届けようと思っています」
「ありがとうございます」
 睦子が微笑しながら目に涙を浮かべていた。仁部長が、
「あしたも雨みたいですよ。あさってあたりから練習にきなさい」
「はい。あしたもくるかもしれません」
 克己が、
「無理するなよ」
 と笑った。昼前に東大球場をあとにした。
 東京の街を歩くのもあと数カ月で終わりかと思うと、あてもなく人なかをぶらつきたくなった。池袋東口に出る。二酸化炭素の数値標識が分離帯に立っている。ppmとは何のことやらわからない。信号のこちらもあちらもビルばかりだ。どこをぶらぶらすればいいのだろう。文芸坐で映画でも観て帰ろうか。やはり、あてを求めることになる。下駄を引きずりながらホテル街の路地を歩いて文芸坐に向かう。
「お兄さん」
 声をかけられた。アロハ柄の長袖シャツを着た五十くらいの小男が寄ってきて、
「頭陀袋担いで、トレーナーに下駄履きなんてめずらしいね。スポーツ系の学生さん?」
「いえ、労働者です。ボクシングクラブの帰りです」
「そりゃタマるわ。レズビアンショー、見ていかない? 憂さ晴らしになるよ」
 遊び心から、
「いくら?」
 と尋いた。あれもこれも経験だ。何でも通過しておく。
「いくら持ってるの」
 ポケットから金を取り出すと、三万数千円と小銭があった。
「そんなに高くないよ。一万円」
 高すぎると思ったが一万円を渡した。歩きながら話しかけてくる。
「いい男だねえ。仕事は、何やってんの」
「川口の鋳物工場」
 キューポラのある街という映画を思い出して言った。
「ああ、荒川のゼロメートル地帯か。工場がごちゃごちゃ立ち並んでるあたりね。工員にしちゃ色が白いなあ。北のほうから出てきたの」
「そう、青森」
 寒い外から帰ってきたばかりの、ばっちゃの赤鼻の顔がとつぜん浮かんだ。屈みながら笑う顔。佐藤家にほかにあんなふうに屈託なく笑う人はいるだろうか。いない。親族には? いない。いや、だいたいああいう屈んだ笑い方をする人間は世間にめったにいない。
「金の玉子か。苦労してクニに仕送りしてるんだな。その合間にボクシングを習いにくると。ほんとに、たまには息抜きしないと滅入っちゃうよ」
 文芸坐の並びの新聞配達店ふうの家にきた。桑原の顔が浮かぶ。大きな引き戸を開けて中へ導く。入るとすぐにコンクリートの床に折畳み椅子を五、六脚並べた空間があり、前面を蛍光灯で照らしただけの低い舞台があった。舞台には一応カーテンが引いてあり、両袖は生活空間につづいているようだった。客は私一人。早々と石油ストーブが焚かれている。こんなコンクリート床の室内で裸になれば、たしかに寒い思いをするだろう。客席の後方の窓は外気との寒暖差のせいで白く曇っている。
 男が紐を引っぱってカーテンを開けると、パンティの上にパンストを穿き、上半身が裸の二人の中年女が出てきてお辞儀をした。
「せっせっせー、ぱらりこせー」
 二人向き合って手を突き合う。夏も近づく八十八夜、と歌いはじめ、乳房を押しつけ合ったり、クルリと回って尻を押しつけ合ったりしながら一番を歌い切った。レズビアンショーのマクラかと思って、じっと目を凝らしていると、二人は辞儀をして、
「ありがとうございました」
 並んで舞台の袖に引っこんだ。
「え? これだけ?」
「文句あるか!」
 とつぜん男がすごんだ。
「文句はない。もともと、興味もないことにくれてやった一万円だからね。しかし敵わないなあ、朴念仁の小物には。ただ、ものの理屈として、千円ぐらいにしてくれる?」
「帰れ、帰れ! つべこべ言うとぶっ殺すぞ!」
「バックに怖い人がついてるの? だとすると、このまま盾突いて犬死するのはイヤだな。せめて死にもの狂いで喧嘩をして、一人二人殺さないと気がすまない。何人助っ人がくるか知らないけど、表へ出ましょう。あなたたちといっしょにぼくも死にますよ。暴れさせてくれるのなら、一万円ぐらい払っても惜しくない」
 かつての自分らしい強気な発言にわれながらうれしくなって、私は思わずニヤニヤした。そして死ぬことに決めた。
「ニイちゃん、でかい口叩いてると、取り返しのつかんことになるで」
「そうなりたいんですよ。生き延びたら九千円のおつりをもらうし、負けて死んだら、浅草の松葉会の寺田という男に死体を引き取りにきてもらってください。ご同業なら、ツーカーで連絡できるでしょう。それが面倒なら、東京湾にでも捨ててください」
「松葉ァ?」
「気にしないでください。ぼくはその筋の人間じゃありません。堅気の人間です。死んだらそうしてくれと言ってるだけです。そこに親友がいるので、引き取ってくれるでしょう。じゃ、やりますか。刃物でも何でも持ってかかってきてください」 
「ちょ、ちょっと待てや。あんただれや」
「堅気の一市民です。ただ、いつでも死ぬ気でいるので、こういうチャンスはうれしい」
 私は室内を見回し、ストーブの傍らにあった角材を手に取った。
「女の人たちが連絡に走った様子がないですね。となると、あなた、ヤクザじゃないな。ケチ臭い商売をしてる素人チンピラか。わかりました。殺す必要もないし、ぼくが死んで見せるまでもないでしょう。ひと暴れして、こんなシモタ屋、すぐ潰してあげますよ。一万円分にしとこうかな」
 ガラス戸に近づいて、角材を振り上げる。
「ちょっとちょっと、落ち着いて!」
「素手にしますか。とにかく店を潰されたくないなら、表に出てください」
 男はあわててポケットから一万円札をつかみ出すと、私の手に押しつけた。私は角材を床に放り、替わりに千円札を出して渡した。男は思いがけない事態に直面し、戸惑いと恐怖に打ちひしがれている。
「まあ、怖がらないで。人は、こつこつと分相応にできることをやればいいんですよ。こういう千円を積み重ねてね」
「すまんこってした。このあたりは、山口組系の山健さんと、松葉会さんのシマなんですわ。私らはミカジメを払ってるだけのトウシロでな。松葉会さんにナシ打たれたら危ないことになります。かつがつの商売なんですわ。どうかよしなに。いまから、ちゃんとしたショーを観ますか? しっかり悶えさせますよ」
「いや、もういい。だいたい、シロシロは好きじゃない。こんなチンケなショー、ふだんはいくら取ってるの?」
「三千円です。この千円もお返ししますよ」
「取っといて。年増にしては肌がきれいで、いいオッパイしてた。千円の価値はあった。あんたのコレ?」
 小指を立てる。
「妹ですよ。ふだんはきちんとやらせてるんですが、つい……」
「ぼくをナメちゃったわけね」
 ―この言葉を吐いているのは自分じゃない。いや、自分そのものだ。
「おい、おまえたちもお詫びして」
 舞台の袖からきちんと服を着て出てきた女たちに、舞台に額づかれながら、ダッフルを担ぎ直して表に出る。男が道に出て低頭する。私はひどく疲れた気分になり、ため息をつくと、のろのろ映画館へ向かった。彼の助っ人が二人ぐらい駆けつけても、あの角材で殴り殺すことができたなと思った。それ以上の人数だと自分も死んでいたにちがいない。ふとカズちゃんの顔が浮かんだ。
 ―どれほど悲しむだろう。たいへんなことになるところだった。一万円をくれてやって、静かに引き下がるべきだった。いっときの嫌悪感と怒りから、人を殺すところだった。ひょっとしたら自分が殺されて、路上に転がるところだった。
 ぼんやり幸運に浸って生きようと決まりかけていた気持ちが、いきずりの荒ごとで一瞬のうちに覆されたのは予想もしないことだった。それにしても、あの中年女たちの捨て鉢を哀れに思った瞬間、私を取り囲む女たちの行く末が垣間見えたような気がしたのはどういう心持ちだったか。もちろんカズちゃんたちが、あんな舞台に立つことなどあるはずがない。でも全霊こめて愛している私と別れでもしたら、彼女たちはどう人生を打っちゃっていくかわからない。そんな女たちから離れるわけにはいかない。ましてや死ぬなどもってのほかだ。
 まだ午後の一時を回ったばかりだ。鬱陶しい空から雨が落ちてきた。傘を差して池袋文芸坐の前に立つ。百五十円の雨宿り。裕次郎のリバイバル映画二本立て。日本の映画界がピンクとヤクザ路線に切り替わったいまどきではめずらしい演目だ。『敗れざるもの』と『乳母車』。乳母車(父に愛人があることに悩む堅い娘の話。退屈だった)は保土ヶ谷で観たが、敗れざるものというのは知らなかった。
 敗れざるものだけ観て帰ることにする。開始時間を合わせて狭いロビーで待つ。館内にただよう期待に満ちた雰囲気。何度味わってもいいものだ。 
 暗がりの中で泣いた。東京オリンピックの年にこんな名作が撮られていたとは知らなかった。昭和三十四年の秋に名古屋へ転校して以来、タフガイ裕次郎の映画はほとんど観なくなった。と言っても三十七年くらいまでは年に一、二本観ていた。世界を賭ける恋、鉄火場の風、あじさいの歌、青年の樹、天下を取る、喧嘩太郎。その後はまったく観なくなった。三十九年のこの傑作を見逃したのは、流謫のせいもある。
 裕次郎が素封家のお抱え運転手の役をやっていた。荒唐無稽なアクションはいっさいない。主家の坊ちゃんが脳腫瘍を発症してから死ぬまでの哀切な人生を見守る役だ。橋本という名の運転手は、一人っ子の俊夫と仲がよかった。だから俊夫のからだの変調にすぐ気づいた。橋本に連れられて診察を受けた俊夫は、脳腫瘍と診断された。難手術は腫瘍の一部を切除するだけに終わった。橋本は毎日見舞いにいった。やがて俊夫は退院を許され、ふたたび学校にかよいはじめる。しかし病は進行しつづけ、再手術することになる。俊夫は橋本に、自分は助からないことを知っている、と話す。
「生きているうちに、何でも見ておきたいんだ」
 橋本は少年の諦観に言い知れぬ感動を覚える。彼は俊夫の望むまま、いろいろな場所を車で連れ歩くようになった。やがて俊夫は死の床に就く。昏睡と覚醒を繰り返す。回復する意識の切れぎれに、必死で蒲団の周囲を眺め回す。そして目に映る一人ひとりの名を呼ぶ。最期に視線が橋本に停まり、
「ハシモトォ……」
 と呟いて息を引き取った。涙が噴き出した。裕次郎も端座したまま大粒の涙を流した。裕次郎が泣いたのを初めて見た。
 傘を差して池袋駅へ向かう道でも、涙が乾かなかった。


         二百四十四

 ―トシさん!
 水曜日だ。とつぜん思い出した。私は荻窪のホームに降りるなり、下駄を摺って小走りになった。何の心向きか、どうしても彼女に逢いたくなった。駅前のロータリーに出、不動産屋へいった。閉まっている。やっぱり休みだ!
 青梅街道の信号を早足で渡り、八幡通りを進み、左折して、キチキチの斜向かいにあるトシさんの家を目指した。予定された命の短さ! まずそれが頭にあった。あと十年生きられるだろうか。
 生垣の外まで枝をさびしそうに伸ばしている大きな傘型の松の木が見えてくる。勢いこんで折り戸を入り、玄関戸の前に立ち止まった。戸口から、L字形の庭の角が見通せた。膝丈の黒いフレアスカートを穿いて、ビニールの合羽を着たトシさんの背中が見えた。
 ―生きていた!
 それはそうだ。カズちゃんの母親と大差のない年齢だ。ピンピンしていてあたりまえだ。
 トシさんは脚立(きゃたつ)の上に乗り、窓の格子に沿って這い上がっている牡丹のツルと、カボチャの花に似たキンレンカのツルを細竹に絡めて壁柵を編もうとしているところだった。駆け寄りトシさんの尻に呼びかけた。
「トシさん!」
「キャ!」
 トシさんは思わず声を上げて振り返った。ダッフルを担いだ私の姿が目に入ると、彼女はからだをふるわせ、顔色を蒼ざめさせて脚立にしがみついた。
「どうしたの、蒼くなっちゃって。目まいがした?」
「そうじゃないの。キョウちゃんがまさかくるとは思わなかったから。びっくりするやら、うれしいやら、おばさん、このまま死にそう」
 私はトシさんの感激に打たれて言った。
「だいじょうぶ、うれしいことは障りにならないって言うよ。ぼくもうれしい。どうしても逢いたくなって、それで、前触れもなくきちゃった。……きのうこれなかったから」
「まごころのある人ね。水曜日がお休みって憶えててくれたのね」
「うん、さあ、笑って。そんなビックリしたような目で見ないで。わあ、スイカズラがまだきれいに咲いてる。きょうは雨だからよけいきれいだ」
 トシさんはやっとにっこり笑って、
「キョウちゃんは、花に詳しいのね」
 脚立を降りた。あらためて私の全身を眺める。
「なんてきれいな子なんでしょう。すらりと背が高くて、眼が涼しくて、髪は真っ黒。私の毛染めの色とはぜんぜんちがう黒。こうしてじっくり見ると、キョウちゃんがいままでどれほど危い目に遭ってきたかわかるわ。危険と戦うのに慣れてきた男らしいゆったりとして、決然とした様子が見えるの。男の中の男ね―」
 私は抱き締めてキスをした。
「キョウちゃん、どうしよ……」
「濡れちゃったの?」
「はい」
「すぐ、しよう!」
 トシさんは困ったような微笑を浮かべながら、ペンチと針金を脚立の下の道具箱に入れ、私の手を引いて玄関へ急いだ。
「ああ、キョウちゃん、困ったわ、どんどん」
 私は玄関戸を閉め、ダッフルを式台に投げ出すと、合羽を脱ぎ捨てたトシさんの尻を抱えて框に両手を突かせた。スカートをまくり上げて下着を下ろす。下駄を脱ぎ、ズボンとパンツを脱ぐとすぐに突き入れた。先回とちがって、トシさんは最初から激しく尻を動かした。
「あああ、キョウちゃん、いい気持ち! すぐイク、ああ、キョウちゃん、イクッ、イックッ、イックウウ!」
 グイッと尻を突き出して、激しいアクメに達した。踏ん張った両脚がぶるぶる痙攣している。突き立てる。
「あ、あ、いや、またイク! ウ!」
 独特の前後運動が強烈に亀頭の腹を刺激する。
「イクよ、トシさん!」
 私が放出したとたん、トシさんの放尿が始まった。愛液ではなく明らかに小便だ。痙攣のせいで止まらない。彼女の戸惑いが痛いほどわかる。
「ああ、いやあ、オシッコ止まらない、気持ちいいィ!」
 私が律動するたびに腹を縮め、小便を搾り出す。薄黄色の湯が三和土に拡がり、二人の足もとを舐めていく。トシさんのサンダルが濡れ、私の足裏が濡れる。私は、もっと出ろとばかり、彼女の収縮する腹を揉みながら律動した。
「ああ、キョウちゃん、イク!」
 尿の放射に愛液が混じったような気がした。その証拠に太い尿が止んでも、腹と尻の収縮のたびに式台の根方に細い液体が何筋も飛ぶ。痙攣は止まらず、えも言えない快感を与える。尻の前後運動に合わせて、私は最後の律動をした。
「いやああん、イクウウ!」
 私は痙攣の最中に抜き取ると、開脚したままのトシさんを式台にうつ伏せにし、白い尻に口づけをした。ひくひくうごめく小陰唇のあいだから、白く濃い液体がどろりと式台の上に流れ落ちるのを見つめる。土間のパンティと、下駄とズボンが小便に濡れている。スカートの裾をブラジャーにたくしこんでやり、腋を抱き上げて、小便に濡れた素足で風呂場へいった。服をぜんぶ脱がせ、トシさんの全身をシャワーで洗った。私はブレザーのジャケットを着たままだった。ようやく快楽から解放されたトシさんが、
「ああ、死ぬかと思いました。あとで服を買いにいきましょう。ちょうどオシッコをがまんしてたところだったの。ガッカリしたでしょう」
「ふつうのことだから、何とも思わない」
 そのひとことで、トシさんの気持ちはよほど落ち着いたようだった。
「生身なんだ。気持ちよすぎてオシッコしちゃったって、何の不思議もない」
「ありがとう。やさしい人……」
 トシさんは新しい服をまとうと、玄関へいって、濡れたパンティとズボンを拾い上げ、風呂場へ戻って湯殿で手洗いし、洗面所に渡したロープに干した。
「上も脱いで。……ほんとにまたきてくれるなんて」
 ジャケットとワイシャツを衣桁に掛け、ランニングシャツはロープに吊るした。それから私の下半身に石鹸を塗りたくり、シャワーで流した。バスタオルで全身を拭い、蒲団に寝かしつける。
「キョウちゃんに似合った高級品を買わないと。あとで洋服屋さんへいきましょう」
「あれが半乾きになったら、アイロンをかけてくれるだけでいい。余分なお金は使わないで。さ、服を脱いで。しばらく抱き合って話をしよう」
「はい。その前に」
 トシさんは廊下の汚れをせっせと雑巾で拭いた。
         †
 カズちゃんから聞いたとおりのトシさんの身の上話を、蒲団の中で、もっと詳しく、夕刻までかけて聞いた。ほとんど彼女は明るく笑いながら話した。象牙のようにきれいな歯並が見えた。トモヨさんといい、サッちゃんといい、歯の汚い女が一人もいない。
「それ、自分の歯?」
「そうよ。歯が丈夫なおかげで、きちんとものを食べて、いままでがんばれたんです。お客さんの前に出る仲居の仕事が長かったから、よく磨いたの」
 口を開けて見せた奥歯まで虫食い一つなかった。
「あくどいこともたくさんしたって聞いたけど」
「男絡みよ。お金を貢がせるだけで、ぜったい抱かせないの。……おばさん、きれいだったから、そういうことができたのよ」
「いまもきれいだよ」
「ありがとう」
「でも、ぼくには、すぐさせてくれたね」
「夢みたいだったから。入れて―」
 奥深くに入りこむと、トシさんは性懲りもなく何度もアクメの声を発しながら激しく気をやった。私が射精した瞬間、トシさんはそうしようと決めていたように、快楽の真っただ中で懸命に離れ、私のものを含んだ。ほとばしる精液を飲みこむ。この家に駆けつけるまで私を冒していた哀切な気分は、彼女の若やいだアクメの声を聴き、頬をふくらませて私の体液を飲みこむ真剣な顔を見つめることで、すっかり晴れ上がった。亀頭にかぶりついているトシさんのふるえる背中を、やさしくさすった。いつまでもトシさんは口を離さなかった。私の最後の律動が止むと、トシさんはようやく口を離し、ティシューで自分の性器を拭った。
「名古屋へは、いつ?」
「中日ドラゴンズと入団交渉がスムーズに進めば、一月の末。長引けば、二月のキャンプまでには間に合わないかもしれない。その場合は、四月の開幕に合わせて三月の末かな」
「どちらにしても、半年もないんですね」
「暇を見つけてくるからね」
「いつでもいいんです。生きてるかぎり、かならず逢えますから」
「立教戦が終わったら、いよいよ三十一日に御殿山へ引越しだ」
「来週の初めぐらいにすっかりできあがりますよ。お風呂場には水色のタイルを敷きました。浴槽は跨がなくてもいいように、低い仕切り材をはめただけのものにしました。四人は入れます。ガスなので追い焚きもできますよ。お庭に頑丈な物干しをしつらえておきました。竿はステンレス。庭の様子だけはときどき見にいかせてもらいますね。定期的に職人さんを入れますから顔を出さないといけないんです。借家人の賃貸契約はしません。あくまでも私の持ち家に知人が住んでる形なので、家賃はいりません。正式に家賃をいただいてる形をとると、所得税がかかってきて面倒なんです。ただ、無料で一軒家に住んでるというのは外聞が悪いでしょうから、人に訊かれたらいくばくかのお金を払ってることにしてください」
 慣れない快楽の疲れから、トシさんは少し眠った。寝顔に少し年齢が出た。目尻に薄く消えない皺がある。六十二歳なのだ。当然のことだ。私も少し眠った。
         †
 トシさんが買ってきた下着をトシさんの手で穿かされた。丁寧にアイロンがけしたシャツとズボンを身につけた。ブレザーを着せられる。
「今度くるのは―」
「キョウちゃんは約束をしちゃいけません。おばさんわかるのよ。キョウちゃんを愛してる女の人たちって、時間に関係なくキョウちゃんを待ってるの。待たせておけばいいんです。どうして待てるかっていうとね、キョウちゃんが不実でないからよ。野球、がんばってね。いつも応援してます」
 トシさんは下駄を雑巾で拭いた。ダッフルを担ぎ、トシさんに玄関で手を振る。傘を差して道へ歩み出す。日がとっぷり暮れている。キチキチのマスターに出会った。彼はたちまち破顔し、
「新聞でわかりましたよ、神無月選手だったんだね。トシさん、無理やりスポンサーになるのを申し出て受け入れてもらったって、大喜びしてたよ。ファンクラブ、最高年齢だろうって言ってた」
「ファンに年齢は関係ありません。むかしは二十歳過ぎれば、みんな年増と呼ばれたんですよ。ねえ、マスター、いま思ったんだけど、アゴヒゲ生やしたら似合いますよ」
「そう? 生やしてみるかな」
 青梅街道から線路沿いへ出て、下駄を鳴らして軽いジョギングで帰る。下りの通勤快速が猛スピードで通り過ぎる。都会の電車は蒸気機関車のような温もりがない。野や森の熱の滲みた温かい地面を走る感じがしない。
 石手荘に戻ると、ジャージに着替え、空地で入念に素振りと筋トレをする。薄闇の中でフラッシュが光る。きょうは気にならない。なぜいつも不快に思っていたのかわからなくなる。あと二週間で私がこのアパートを出ていくことを彼らは知らない。せいぜい素振りでも筋トレでも見せてやろう。
 腹時計が晩めしの時間を告げている。カツ丼が食いたい。そのままバットを持って四面道へ走り出す。上京してから三足目の運動靴が古びている。一足二カ月強。そろそろ買い換えなくてはいけない。
 カズちゃんと一度豚汁を食いにいった和田屋へいく。新聞社の車がゆっくりついてくる。フラッシュをシャッターカメラに切り替えて、私を刺激しないようにしている。
 バットを持って入口の戸を引いたジャージ姿に、和田屋の店員や客たちが一瞬箸の動きを止めたが、表にカメラマンが四、五人群れて、ガラス戸から店内をパシャパシャやっているのに気づき、時期的にドラフトの注目新人か何かなのだろうという目で見直した。
「おい、東大の……」
「神無月か?」
「だろ」
 ひそひそと声が立つ。表のガラス窓にカメラが覗く。こんなところを撮って、いったいどんな記事を書くつもりだろう。カツ丼は調理に時間がかかると踏み、手早いものに変更する。
「豚汁、ライス大盛り」
「はーい」
「神無月選手ですね」
 客の一人が思い切って話しかける。
「はい」
 オーと数人立ち上がり、
「東大優勝!」
「ミラクル!」
 と叫んだ。拍手がつづく。私も立ち上がって頭を下げる。思ったとおり五分もしないうちに豚汁ライスが出てきた。飲みこむようにして瞬く間に山盛りのどんぶりを平らげる。四百五十円也。五百円玉を出して五十円玉を受け取る。
「失礼します。また走りますので」
 頭を下げる。オー! 拍手。バットを手に表に出て駆け出す。車が追ってくる。振り返って彼らに呼びかける。
「あしたから一週間、東大グランドのほうで練習です。いまから銭湯へいって、本を読んで寝ます。ご苦労さまでした!」
「がんばってください!」
「完全優勝!」
 温かい声援が車から飛んできた。


         二百四十五 

 石手荘に戻ると八時半を回っていた。
 ふと、山口と交わした酔族館見参の約束を思い出して、ブレザーを着こみ革靴を履いた。荻窪駅まで傘を差して自転車を駆り、線路沿いの路に停めて鍵をかる。南口へ出、駅前のボックスから電話して山口と待ち合わせる。
 ―私の命を蘇生させた男。命に真正の意味を与えた男。
 胸が苦しくなるような思いを飲みこんで、私はロータリーの糸杉を見上げた。山口は二十分もしないうちにやってきた。
「お、めかしこんでるな」
「おまえこそ」
 山口もブレザーに革靴だった。私は笑いながら本音を言った。
「山口、おまえを女のように愛してる」 
「どうした? 気持ち悪いな。そりゃ、俺の科白だろ」
「一人の人間が、一人の人間の運命を変えるというのは、たいへんなことだ。きょうはそのことばかり考えてる」
「ははーん、そういう精神状態か。運命を変えられるのもまた、運命だ。人生なんて、運命の糸の絡み合いだ。バカは、知性とやらの見え透いた小技で、なんとかその糸をほぐそうとしやがる。ほぐす必要なんかないんだ」
「……ほぐれない糸をほぐそうとするから、苛立ちを凝り固めたような顔つきになるんだね」
「そのとおりだ。自責の念はだれにでもある。しかしな、罪の意識にかまけて、おまえを信頼している人たちを裏切ることのほうがよっぽど悪質だ。それに気づかないと、取り返しのつかない過ちを犯すことになるぞ」
「愛していればいいんだね」
「黙って愛されてればいいんだ。あと十日か。二十六日の立教戦は何時からだ」
「一時半。二十八日に中退届を出す」
「中日と直接交渉だな。来年のドラフトを待たなくてすむな」
「うん」
「一年待ったって、中日に籤運がなければ一巻の終わりだもんな」
「よくわかってるね。三十一日の木曜は、吉祥寺へ引越しだ」
「三十一日は、ラビエンで祝杯を挙げよう」
 五階建ての雑居ビルを見上げる。
「法子さん、しばらく東京に残るのかな」
「そうなるだろうね」
 一階の酔族館のドアに通じる短い階段を昇る。
「いらっしゃいませ!」
 ビチッとしたワイシャツを着た黒蝶タイの男が頭を下げる。チーフの古沢が早足でやってきた。
「いらっしゃいませ、神無月さん、テレビ拝見しました。あと一勝で念願の優勝ですね。今季も二十本打てそうじゃないですか」
「なんとかね。こいつ、親友の山口、よろしくね」
「こちらこそ」
 古沢は山口に深く頭を下げた。
「あら、山口さん、ひさしぶり!」
 着物姿の法子の実のこもった声がどこかのボックスから飛んできた。閉店後にきた先回とはちがって、薄明るい光に照らされた店内が広い。客は九分ほどの入りで、ジュークボックスから静かなポップスが流れている。山口は小走りに寄ってきた法子に、
「法子さん、すっかり垢抜けたね。貫禄じゅうぶんじゃないか。客もすごい入りだ」
「おかげさまで、繁盛してます」
 法子は私の肩にそっと手を置く。私はうなずき、
「いい店だ。円卓のカウンター一つ、六人がけのボックスが十卓か。ラビエンやグリーンハウスより広い。ステージは?」
「設けない方針なの。女の子との会話を楽しんでほしいから」
 山口が、
「だよな。グリーンハウスは飲み食いする店だもんな」
 サブチーフらしきスーツ姿の男に奥のコーナーの席へ案内されると、山口と私に一人ずつ女がついた。客の声にすぐ立っていけるように法子は端の席に座る。
「いい男二人。上がっちゃうな」
 山口の隣に座った女は二十代前半、ミニのワンピースから黒いストッキングの脚を惜しげもなく曝している。私についた女は二十歳そこそこ、豹柄のツーピースを着て、やや困惑気味だ。ツーピースが、
「東大の神無月さんですよね。怪物金太郎」
「はい、お見知りおきを」
「すごい美男子。野球選手じゃないみたい。握手してください」
 握手する。
「わ、硬い!」
 法子が蝶ネクタイのボーイを呼びつけて、生ビールと乾き物を持ってくるように言った。
「はい。あの、サインもらっていいですか」
 ボーイはテーブルの脇に片膝を突き、固くなっている。
「いま落ち着いたところなのよ。あとにしなさい。早くビールと乾き物持ってきて。それからサラミとチーズの盛り合わせもね」
「はい」
 なるほど貫禄じゅうぶんだ。中年客の多い客席がざわつきはじめた。
「え、東大の金太郎?」
「優勝請負人か」
「ほんとに足柄山から降りてきたんじゃないの。ありゃ人間じゃないよ」
 悪意のない純粋な賞賛だ。私は、
「どんな場所でも、新聞やテレビに出たやつの天下だね。山口のような偉大な芸術的才能が見向きもされない。野球ごとき、何だっていうんだ」
「おいおい、素直に喜べよ。その手の悪謙虚はやめろ。みんなおまえの野球に騒いでるんじゃない。存在感だ。業績は偶発事だけど、存在感は宿命だ」
 法子が山口の腕に抱きつく。その気持ちがよくわかる。黒ストッキングが、
「山口さんの偉大な才能って?」
「彼はギターの天才なんだ」
「うわあ、聴きたい!」
「いいからいいから、主役は神無月だぜ。俺は放っておきなよ」
 ビールとつまみが運ばれてくる。法子が、
「神無月くん、ごめんなさいね、応援にいけなくて。お店がこんな状態だから、手を離せないの」
「いまは土台作りのときだ。せっかく繁盛してるのに、サボってられないよ。それにしても、女の子がけっこういるね」
「全員出ると十五人。適当にお休みをとることになってるから、たいてい十人くらい」
 あちこちのボックスから上がる男女の笑い声。タバコの煙。豹柄が、
「そばにいるだけで、緊張しちゃう。ママの恋人?」
「そんなわけないでしょ。中学時代からの親友よ」
「親友! すてき!」
 女たちは一定の時間が経つと、テーブルを渡り歩く。たわいもない冗談や世間話に嬌声を上げ、ビールをつぎ、タバコに火を点けてやり、しばらくすると呼ばれたテーブルへと移っていく。法子といっしょに黒いストッキングが立っていき、入れ替わりに白いスーツを着た、これまた二十歳くらいの女が、煙草のケースを持って山口の隣に座った。
「こんにちは!」
「あれ?」
 どこかで見た顔だ。思い出せない。
「千夏でーす。神無月くんとは中三のときの同級生よ」
「へえ!」
 私が驚くと、
「柴田千夏です。いつも教室の後ろのほうに座ってました」
「あ、そうだ! と言っても、見覚えがあっただけで、すっかり思い出したわけじゃないんだけどね」
「私、法子ママみたいに美人じゃないから、目立たなかったでしょ。ママと雅江さんと私は友だちよ。連絡もらって、九月に上京したんです」
 豹柄が立っていき、法子が戻ってきた。白スーツが自分の煙草に火を点ける。
「ちなっちゃんよ。驚いたでしょ」
「そうだね、いっぺんにあのころの名古屋が押し寄せてきたみたいだ」
「やっぱり憶えてなかったわよ、神無月さん」
「そう? あのころの神無月くんは、自分のことで手いっぱいだったから、だれのことも憶えていないのよ」
「さっぱりわからない話だな」
 山口はチーズを頬張り、グラスを傾けた。法子がつぎ足す。気にせず千夏はしゃべりつづける。
「私、雅江さんといっしょに熱田高校へいったんだけど、三年生の秋に中退して、ぶらぶら遊び回ってたんです。そのころ、神宮の商店街で、法子ママとばったり遇って、春に東京へ出るって聞いたから、いっしょに連れてって頼んだんです。格好がついたら呼ぶって約束してくれて。今年の春からノラでときどき修行してたんですよ」
 法子が笑って、
「ごめんなさい、山口さん、内輪話なんかしちゃって。私とちなっちゃんは、名古屋の宮中の同級生なの」
 千夏が山口をじっと見つめて、
「山口さんて、私の好み。送り狼してくれる?」
「だめだめ。好きな女の人がいるから」
「残念!」
 ビールをつぐ。私にもつごうとすると山口が、
「神無月は下戸だから、食い物でも出してやってよ」
 法子が、
「神無月くん、何がいい?」
「何ができる?」
「うーん、サンドイッチ、ホットドッグ、焼きそば、焼きうどん、お茶漬け」
「ソース焼きそば」
「俺も」
「厨房をもう一人増やして、ちゃんとお腹に溜まる料理を出せるようにしようと思ってるの。お酒を飲むとお腹がすく人も多いから。じゃ、焼きそばで小腹を作って、お店を閉めたあと、四人でちゃんと食事して帰りましょ」
 法子が注文に立っていく。さっきのボーイがやってきて、
「サイン、お願いします」
 色紙とマジックペンを差し出した。楷書で丁寧に書く。名前を訊き、××さんへ。年月日。字を書くたびに、中一のときの書道の青山先生を思い出す。結局一度も合格できなかった。
「へたな字ですみません。サイン用の崩し字を知らないもので」
「とんでもない。一生大切にします。ママが言うには、壁に有名人のサインを貼ると、店の格が落ちるんだそうです」
「そのとおりです。下品もいいところだ」
 山口が、
「サインもいいけど、実際の試合を見にいきなよ。あのホームランには感動するぞ」
「いきたいのはやまやまなんですけど、定休日が火曜日なのでいけないんですよ。ママなんかいつも歯ぎしりしてますよ」
 千夏が山口に、〈好きな女〉のことについて訊くと、山口はおトキさんとの出会いを諄々と語りはじめた。千夏はまじめな顔で耳を傾けた。法子が女二人を連れて戻ってきた。二人とも三十あとさきの分別顔。特徴のない顔なので記憶できない。ボーイが焼きそばを運んでくる。
「じゃ、タマミさん、オリエさん、お願いね。ボックスを一回りしてくるから」
 法子は千夏を連れていった。
「初めまして、タマミです」
「オリエです。一挙に年寄りになっちゃってすみません」
「この店はママの趣味で、ホステスさんは三十から四十の人が多いんですよ。半分以上はそう。それが気に入ってきてくれるお客さんが多いんです」
「五十から上はいないの」
 焼きそばをすすりながら山口がまじめな顔で訊く。
「男ならいますけど。厨房さん」
 タマミが、
「ママのご友人が、あの有名な神無月選手だと聞いてびっくりしました。きょうくるって知ってたら、花束でも用意したのに」
「そんな大げさなことしないでください。気を使われるのが煩わしくなって、心安く飲みにこれなくなる」
 焼きそばをすすりながら言う。ちらほら客が帰っていく。山口がオリエに、
「ここは落ち着いちゃう店だから、満員になると回転率が悪くなるんじゃない?」
「いいえ、たいていのお客さんが一時間、長くても二時間ぐらいで腰を上げてくれますから、二、三人でいらっしゃるかたも含めて、毎日百人は入ります。清潔な接客がモットーで、女の子のアフターは禁止ですし、誘う人もめったにいません。いま、この店は中央線沿線でナンバーワンだという評判なんですよ」
「居心地? 売り上げ?」
「どちらもです」
 法子の列車がしっかり加速したとわかった。彼女は名古屋にいかずに、ここに根を下ろすかもしれない。


         二百四十六

「山口、メキシコオリンピック、どうなってる」
「さあな、観てない。始まったばかりだろう。二週間もあるんだ。いずれハイライトでも観るよ」
 タマミが、
「ソテロという女の人が、史上初の聖火最終ランナーだったらしいですよ」
 山口は、
「へえ、さすがホステスさん、話題にこと欠かないな。そんなことより、東京オリンピックの名花チャスラフスカが、なんとか出場できてよかったよ」
「ああ、テレビで言ってました。ニュース聞いても、よくわからなかった。なんとか出場できたってどういうことですか?」
 女二人が腰を据えて聞く姿勢になった。
「十二月七日には名古屋の愛知県体育館でチェコ・日本体操選抜大会をやるんで、それがフィナーレ公演になる。五日に中日新聞社を訪ねて挨拶するらしい。中日ドラゴンズの親会社だよ。神無月、おまえの苦手な政治話をするけど、勘弁しろよ」
「ああ、半分聞き流しながら聴く。あの束ねた髪と、二十六歳の女盛りのからだを思い浮かべながらね」
「顕微鏡的なところは知ってやがるな」
「何かの雑誌で一九四二年生まれだとわかって、カズちゃんより八歳年下、節子より一歳年上だって思った覚えがある」
「なるほど、いつもそういう目で見れば、どんな女も身近な存在になるな。見習おう。それでな、チャスラフスカというのチェコの選手だ。チェコの民主化運動、簡単に言うとソ連との喧嘩だな」
「プラハの春。よしのりに教えてもらったことがあるけど、内容はすっかり忘れた」
「それを支持する市民が自発的に、ソ連の軍事介入に屈しないという文書を起草して公表した。いわゆる二千語宣言だ。それに三万人以上が署名したが、その中にザトペックやチャスラフスカも混じってた。チェコ政府はソ連寄りの共産党体制だから、市民と考えがちがう。チャスラフスカは政府から精神的弾圧を受けた。ソ連中心の軍隊がチェコに侵攻してプラハの春を鎮圧した直後に、メキシコ五輪だ。チャスラフスカはやっと出国が許されて出場した。ロクに練習もしてないだろうが、神無月みたいな天才だから、バンバン金メダルを獲るだろう」
「わかりやすーい」
 女たちが手を叩いた。じつに明解だ。よしのりの話はもっと入り組んでいて、紋切り型でわかりにくい。
 オリンピックや東大紛争や映画の話をしているうちに、女が四回入れ替わって、最後に法子と千夏がついた。十二時前にはほとんどの客が引き揚げていった。そのつど戸口にスタッフが勢揃いして客に挨拶する。どの客も心から満足している顔だ。ボーイが五人いることがわかった。
「あっという間に二時間経ったね」
「ああ、しゃべりっぱなしだった。ちょっとしゃべりすぎた」
 閉店後、店の端の大テーブルに法子と従業員が集まり、ミーティングが行なわれた。法子の声が聞こえてくる。
「お客さまにお電話するときは、飲みにきてくださいと直接的な言い方をするんじゃなくて、お仕事の様子はいかがですか、とか、最近趣味の釣りのほうはどうなってますか、というふうに、やんわりとした会話をしてください。もっとお話がしたいと、お客さまが思うことが重要なんです。そうなればかならずご来店いただけます。話を仕掛けるのでなく聴いてあげるということが、お客さまが癒されるいちばん大切な要素です。そして、ご来店いただいたら、心から感謝の気持ちを持っておもてなしすることがホステスの仕事です。それから黒服さん、何よりも掃除です。大切なお客さまをいつでもお迎えできるような環境を作ってください。汚いから掃除をするんじゃありません。いつも清潔であるために掃除をするんです。床、棚、テーブル、座席、ボトル、置き飾り、換気扇、とにかく五分でも手が空いたら磨くんです。トイレは私が掃除します。ホステスさんや黒服さんに必要なものは、仕事をさせてもらっていることに感謝する気持ちです。働いてあげるなんて気持ちの人は花と咲きません。お店にとってあなたたちは、お客さまに勝るとも劣らず大切な存在です。自分の存在価値を認識してください」
「はい!」
 厨房の料理人まで真剣な顔で耳を傾けている。
「きょういらしてくださった神無月さんも山口さんも、自分の価値に無頓着な人たちですが、先天的に細やかな情で人をもてなす人たちなので、いま言った基本が生まれつきできているんです。お二人とお話をしていて、自分のほうが癒された気分になったでしょう?」
 さざめくように肯定の笑い声が上がる。
「中央線沿線のこの業界のお給料の平均を私なりに調べて、酔族館は十五パーセントほど上をいっていることがわかりました。みなさんのおかげで当店も繁盛し、開店二カ月にして高い評価を受ける店になりました。オーナーとの話し合いがつきましたので、来月から相場の二割アップの給料を支給いたします。どうかこのお店を、みなさんの努力で、もっともっと盛り上げていってください。おしまい」
 盛大な拍手が上がった。思わず私たちも拍手をした。
 法子はホステスを帰したあと、古沢、サブ主任、カウンターチーフ、料理人にねぎらいの言葉をかけ、何やら細かい指示を出してから、銘々にタクシー代と言って千円を渡して戸口に見送った。それから千夏と二人で更衣室にいってスカートの平服に着替えて出てきた。レジの売上金と伝票を布袋に入れて手に持つと、
「毎日、夜のうちに伝票合わせをしてから、翌日の午前中に銀行に持っていくのよ。三割はオーナーに振込み、七割は私。その七割から給料を払ったり、運転資金を捻出したりするの」
 と言って、私と山口と千夏を連れて短い階段を降りた。法子のふくらはぎがセクシーに躍動するのを見ても、さっきのミーティングからつづいている強い印象のせいで、そのふくらはぎにつづくからだが不可侵のものに思われる。
 ロータリーでタクシーを拾い、二時まで営業しているという三鷹の焼肉屋へいった。深夜だというのにけっこう混んでいる。広い庶民的な雰囲気の店だ。上カルビと上ロースを四人前、ホルモンを二人前、テクダンスープを四人前とった。半ライスとキムチとナムルも注文する。私はライスをビビンバにした。鉄箸で肉を焼きながら山口が法子に訊いた。
「赤字は出ないの?」
「いまのところ、だいじょうぶ」
 千夏が、
「お店は適正料金。私たちには二十万円以上の給料を出してくれてるんです。ホステス十五人でしょう、黒服さん七人、チーフ、サブチーフ、カウンターチーフ、厨房二人、合わせて二十七人。来月からもっとアップするわけでしょ。それで赤字出さないんだもの、感心しちゃう」
「一日、百五、六十万売り上げたとして、そのうちの七割だと百万くらい。毎週火曜日を休みにしてるから、だいたい二十五日で二千五百万、スタッフに八百五十から九百万、人件費以外に、備品やらお絞りやら酒類の購入に六百万、リースの機械や観葉植物に二十万、不定期の内装修理に三十万の予備金、スタッフの交通費がだいたい八十万、自分の生活費と交通費と雑費、それから税金にザッと百万、源泉徴収税や事業税はオーナーが払うので、結局、私の手もとには月に八百万円くらい残るわ。税金を払ったオーナーと同じくらいの収入じゃないかしら。ひと月でも多くこの仕事をつづけて、神無月くんが名古屋に戻ったときのために貯金をしなくちゃ。和子さんに聞いたけど、一年生が終わったら、神無月くん、名古屋へ帰るんでしょ」
 私はかぶりを振り、
「今年が終わったらになった。この二十八日に中退届を出す」
「あら! 半年早くなっちゃったのね。たいへん。私、それから一年近く遅れるかも」
「当然だよ。焦る必要ないさ」
「そうね、お金を貯めて名古屋で商売する方針は変えられないから。ただ、一年後の受け継ぎをしっかり考えておかないと。男のスタッフは問題ないとして、だれにママをやってもらうかね。……ゆっくり考えて計画を立てます」
 私はめしに肉を載せて頬張りながら、
「でももったいないなあ、法子が名古屋に帰るなんて。このまま、どんどん成功していけるのに。ずっと東京にいるべきだと思うけどな」
 法子の眉が曇った。
「悲しいこと言わないで。本末転倒した話をしないでね。何のために私が東京に出てきたかわかってるはずよ。神無月くんのそばで暮らすためだったでしょ。このお仕事だってそのためにしてるだけで、自分が成功するためじゃないわ。神無月くんが名古屋に戻ったら、名古屋でお店を出します。その準備資金をできるだけたくさん貯めようと思ってるの。来年いっぱいあれば、目標の額まで貯まるわ」
 山口が笑いながら、
「神無月、甘かったぞ。おまえの女はみんな、おまえのそばにいたくて、根性据えてがんばってるんだ。どんな都合でおまえが転々としたって、とにかくおまえのそばにいて、おまえのそばで暮らしたいんだよ。俺も同じだ。いつかも言ったと思うが、きっちりとギターで生活できるようになったら、生活の場はおまえのそばに移すつもりだ。おまえがそばにいないと、人生つまんないんだよ。こればかりはどうしようもない」
 千夏が涙を浮かべて、
「法ちゃんのそんな真剣な顔、初めて見たわ。どうして東京に出てまで水商売するのかなって不思議だったけど、よくわかった。大好きな人が、たまたま東京に出て、たまたま野球をやってたということだったのね。羨ましいわ。法ちゃんが名古屋に戻ったら、私も戻る。法ちゃんの店で働かせて」
「あなたの自由よ。それまで東京に毒されないことを祈ってるわ」
 法子はやさしく微笑んだ。毒されるだろうと見越している微笑だった。
 テクダンスープで汗をかいた。ビビンバも平らげ、動けないほど腹がくちた。山口はだめ押しのようにカルビとホルモンのお替りを頼み、法子はオイキムチを頼んだ。
 三鷹駅前のロータリーに微風が吹いている。四人でいい風に吹かれた。千夏は山口に、
「お腹、触って見て。コチコチ」
 山口は困ったふうに千夏のみぞおちに掌を当てた。
「……山口さん、いつでも私と浮気してくれていいわよ。名古屋にいる愛する女の人のことは、たっぷり聞かせてもらいました。その人が心の大らかな人だってことも。最愛の人を困らせるような面倒なことはぜったい言わないし、しませんから」
「俺の牙城は堅いよ。素人はその一人としか寝ない。ところで、どこに住んでるの」
「荻窪高校の裏。南口から歩いて六分。八畳一間、トイレ、台所、タブの風呂つき。どうして?」
「いや、別に。一人暮らしかなと思って。女の一人暮らしはさびしいだろうなって思ったぐらいで、他意はない」
「わあ、意味深」
 山口が知らんぷりしていると、法子が山口の横顔にニッコリ笑いかけた。
 千夏と山口が高架橋にある改札口へ昇っていくのを見送ってから、私たちはタクシーに乗った。
「操の堅い人ね、山口さんて」
「山口は男の鑑だよ。頭が下がる。ホームや電車の中でもモーションかけられるだろうけど、びくともしないよ。山口には言いそびれちゃったんだけど……」
 菊田トシさんと関係を結んだ話をした。
「ぜんぜん驚かない。前々から和子さん、そうしてあげるのが人間として当然だって言ってたわ。私もそう思うし、きっと山口さんも同じよ」
 樹海荘の部屋が見ちがえるほど整っていた。台所は清潔に片づき、書棚が増え、部屋の隅々まで掃除が行き届いていた。ミーティングで掃除を主張したのも、根拠のないことではなかったようだ。指導者の位置に立って自分の行動を律しようとする精神が萌したのだろう。一目見て才能と呼べるほどの、毅然としたリーダーシップだった。ふと机の上を見ると、寸暇を見つけて読んでいるらしい、読み挿しの漱石の小説が伏せてあった。
「吉祥寺の北口に、十一月からマンションを借りたわ。八畳、八畳、六畳の三LDK。一つの八畳には小さなステレオを入れるつもり。六畳の居間にはテレビ。もう頼んだの。お風呂は大きな一人用のタブ。トイレも広いわよ。引越しが片づいたころに見にきてね」
「うん。吉永先生も来月末に引越しだ。ぼくもこの三十一日に引っ越す。ようやく、みんな落ち着いたという感じだね」
「私は再来年の一月まで東京ね。一年三カ月。ときどき、名古屋に逢いにいこうと思うし、こちらに遠征してきたら、うまく逢えることもあるかもしれないわね」
「どうかな。遠征のスケジュールって、隙間がないような気がするんだ。シーズン中のちょっとした休暇か、シーズンオフに、法子が逢いにくるしかないだろうな」
「それもしょうがないかも。とにかく、しばらく東京でしっかり稼ぎます。少しでも早く神無月くんのそばにいくためにね」
 するすると裸になり、その姿で蒲団を敷く。シーツをかぶせる四つん這いの尻の前で私も全裸になり、膝を突いて尻をさする。きれいなふくらはぎが目立たなくなり、大きな尻が視界を占領する。不可侵の感覚が消えていく。法子はシーツを敷き終わるまで尻を悶えさせながらがまんする。みずから少しずつ脚を広げ、
「……少し汚れてるけどいい?」
「うん」
「ください……」
 とかすれ声で言う。背中に手を置いてゆっくり挿入する。
「ああ、神無月くん、愛してる。死ぬまでいっしょよ。ああ、そのまま動かないで、神無月くんを感じたい」
         †
 法子は裸のまま、売上金と伝票を入れた布袋を持って机に向かった。じっと見つめている私を振り返り、
「寝てください。私も伝票整理が終わったら、すぐ寝ますから。気を使って起きてないで」
「いまここにいるのは、宮中の正門に立っていた山本法子だよね―」
「そうよ、そしてそこにいるのは、宮中のグランドを颯爽と駆け回っていた神無月くん。一生離れないわ」
 私は尻の下のひやひやする精液をティシュでめくら捜しに拭った。涙があふれそうになり、目をつぶった。


         二百四十七
  
 十月十七日木曜日。薄暗いうちに目を覚ました。雨音がする。法子が私の手をつかみ自分の頬に当てて眠っている。薄いカーテンを梳(す)いた光が、布袋を置いた机の隅によどんでいる。
 ―康男のベッドに射していた光だ。
 大切なものを失う恐怖。胸の内に沁みこんでくる冷えびえとした恐怖。きのうの池袋の男に仕掛けた行為は、何かを失う恐怖に打ちのめされてのものではなかった。母を失う恐怖、父を失う恐怖、左腕を失う恐怖、野球を失う恐怖、人生を失う恐怖……。喪失の恐怖に支配されなくなってから久しい。生命の支柱を失うような烈しい恐怖に浸されていなければ、胸に沁みわたる冷気に耐えられそうもない。共感の寄り道をせずに、愛しいものを失う危険を冒すような鬼畜の心で生きなければ、あの恐怖は甦らない。いまは寄り道が本道になった。私はもうあえて恐怖を作り出すことはできない。
 なんと愛らしい寝顔だろう。むかしニキビの噴いていた額にキスをする。法子が少し身じろぎする。鏡台の置時計が五時半を指している。三時間しか寝ていない。起きだして机に向かう。書棚の中段から分厚い『中原中也全集全一巻』を引き出す。八坂荘で法子に与えたものだ。目次の諸所に赤鉛筆で印が打ってある。雪の中の私のバイブル。未完詩篇を開く。幼なかりし日。

  在りし日よ、幼なかりし日よ!
  春の日は、苜蓿(うまごやし)踏み
  青空を、追ひてゆきしにあらざるか?


 ものの数分と経たないうちに、はるかな時間を越えて、詩人の戦慄をからだの空洞に共鳴させる。喪失の恐怖の戦慄ではない。そんなくだらないものに対する沈思など、この詩人には微塵もない。すべてのものに道草を食い、青空を見上げ、すべてのものに靡いて生きよと主張する。そうすれば喪失の恐怖に悩まされる必要などないのだと慰める。
 もう一度蒲団に戻り、法子の腰を抱きながら眠りにつく。
         †
「何時?」
「十時半過ぎ。早く起きて中也を読んでたのね」
 台所の背中が応える。エプロンをしている。
「うん。おかげで安眠できた」
「八坂荘の神無月くんの部屋にあったこの本をもらってから、こつこつほかの本を買っていったの」
「買うだけでなく、よく読んでる」
「時間ができたときだけね」
「売上金の振込みは?」
「もういってきたわ。キャベツと豆腐のおいしいお味噌汁作ってあげる。あとはスクランブルエッグとウィンナー」
 枕もとに用意してある下着をつけ、広いシンクに並びかけて歯を磨く。康男が深く前屈みになって磨く姿が甦る。長いあいだに私にもその癖がついた。
「変わった磨き方」
「寺田康男の磨き方だ」
 口を漱ぐ。スクランブルエッグとウィンナーの香りがただよう。
「胡椒効かせて」
「はい」
 向かい合って食卓に着く。醤油をたっぷりかける。
「寺田くん、神無月くんにぞっこんだったわね」
「いまも惚れ合ってる。カズちゃんや節子たちといっしょに、浅草に会いにいった。会うとおたがい、どうしても泣いてしまう」
「元気だった?」
「うん。背は少し伸びたけど、相変わらず痩せてた。松葉会の幹部候補だ。あと十年も経てば、独立して分家するだろう。ぼくの立場が危うくなっちゃいけないから、あまり近づかないようにって釘を刺すんだ。友情にじゃまが入らないようにね」
「それと社会的な心配ね。節子さん、責められたんじゃない?」
「神無月のところに結局戻ってきたなら、まあいいだろうって感じだった。切り離せない縁だと考えてくれたようだ。節子は反省しきりという態度だった。ぼくを北へ送ったのは彼女じゃないのに、いつまでも責められるのはかわいそうだね」
「大事件だったのに、人の記憶って親切ね」
 めしのお替りをする。キャベツの味噌汁がうまい。法子もうまそうにめしを噛む。
「会ってみるまでは、私も節子さんを恨んでた。神無月くんの島流しのきっかけを作った人だから。でも、どうしようもなく神無月くんのことが好きでそうなったってわかって、かわいそうな人だと思うようになった。とてもいい人よ。ここにも十日にいっぺんぐらい遊びにくるの。よく神無月くんのことを二人で話すわ。毎日学校帰りに、カバンを提げて牛巻病院に駆けこんできたころの神無月くんを思い出すと、からだがふるえるくらい泣けるんですって」
 私は箸を持つ腕に粟を立てた。いま私が節子に対して、好奇心から〈女〉を嗅いでいるにせよ、純愛から〈人間〉にこだわっているにせよ、彼女は気に病んでいない。愛される者から愛する者になり、支配者からひれ伏す者になった。あやまちとか、責任とか、気に病むなどと言っているうちは、まだ支配者の考えの中で生きている。ひれ伏してひたすら奉仕するだけになったとき、純愛が完成する。完成した純愛は破壊されない。愛する者の心の持ちようや推移は関係しない。―奉仕の人になりたい。
「青森にいかなければ、たぶんぼくは野球に打ちこめなかった」
「神無月くんが東大へいかなかったら、私たちみんな東京へこなかったし、いまの仕事もしてない。ぜんぶ、タラレバの積み重ね」
「しかも、たいていよい方向へね」
「タラレバはもうやめましょう。もうそんな反省をしなくてもいい人生に踏み出したんだから。よい方向へも悪い方向へも、とにかく進みましょう」
 荒っぽい思考だ。でも、正しい気がする。法子は食器を片づけながら、
「吉祥寺の丸井で、神無月くんの冬服を作るわよ。ローファももう一足買わないと」
「ありがとう。でも、オーバーは要らないよ。どんなに寒くても着ないから。ジャケットや靴は、買うのはきょうでなくていい。きょうはいまから走りこみをする」
「そう? 残念。いつも断られる」
「断ってるつもりはないんだ。要らないものを要らないと言ってるだけ」
「どうして要らないのかしら」
「厚着も薄着も、身を守ってる感じがして腑甲斐ないんだ」
「美学なのね。じゃ、仕方ないわ。私もきょうは三時から、厨房のスタッフ一人と女の子二人の面接だから、少し時間をかけて質問の準備をしていくわ」
 武蔵境の駅まで法子と歩く。上天気だ。
「名古屋では、どのへんで店をやるつもり?」
「神宮小路のノラは小さすぎるから、取り壊して、小路の入口の空地を買おうと思ってるの。ノラの四、五倍の大きさで、従業員五、六人でやっていけるようなバー。カラオケは下品になるからやりたくない」
「一年先の話だね。生活が充実してると、すべての時間が印象に留まるので、なかなか時間が経たないものだよ。一年は長く感じるだろうね」
「そんなものなの?」
「うん。縁側で日向ぼっこをしている老人は何の充実も感じてないから、次の印象が訪れるまで時間があっという間に経ってしまう。習慣的に机に向かっているサラリーマンや受験生もそうだ。印象をたくさん作って時間を長く感じないと、人生は充実しない。忙しい法子には必要ないことかもしれないけど……たまに飲みにいくよ。どうも、酒は強くなりそうもないけど」
「いいのよ、無理して飲みにこなくて。付き合い酒で暮らすような生活をしてるわけじゃないんだから。走りこみって、東大で?」
「いや、石手荘と天沼陸橋を往復して、あとはアパート裏の空地で筋トレ」
 法子のもとの勤め場所の『群』の前を過ぎる。法子はチラリと階段を見たきり、何の感慨もないようだった。南口のボーリングビルに、明治百年の垂れ幕が掛かっている。黄金の六十年代と書き添えられている。政治がにおうものには何の興味も湧かない。
「じゃ、吉祥寺のマンションの電話決まったら知らせるわね。それからゆっくり会いましょ」
 そっと抱き合う。改札のこちらとあちらで手を振って別れた。法子はさびしそうな顔で手を振った。そう見えるのは私の心の反映だろう。私と関わる女はみな根深い不安を抱えているにちがいない。
 電車の車輌のいちばん前に乗る。運転席の窓から線路を眺めるのが好きだ。運転手の後頭部と線路を交互に見つめる。えらの張った運転手が進行状況や安全をいちいち白手袋で指呼しながら、律儀に低い声を繰り返している。選ばれた人間が安住する技能の世界。私には永遠に訪れない世界。どこに目をやっても専門家がいる。
 小雨に傘を差し、自転車を漕いで石手荘に戻る。ブレザーをジャージに着替え、ダッフルを担ぎ、十二時ぴったりに下駄履きで荻窪駅に向かう。
 東大球場の芝生が濡れて光っている。大学の機能が完全停止したので、雨にもかかわらずほぼ全員練習に出てきている。背番号付きのユニフォームを着ることにする。立教戦用に一着新しいユニフォームを残して、濡れてもいいように二着のうち多少汚れているほうを着た。
 ホームプレートからライトポールまで、戻りを徒歩にして、ダッシュを三本。そのまま外野のフェンスに両手を突き、腕立てを百回。肘と肩の力を落とさないために、どんな形でも腕立ては欠かさない。スイングの一瞬の反応は鍛えようがないけれども、振りの強さで回転のスピードは鍛えられる。常に腰を意識して振る。芝の上で素振り百回。フリーバッティングは、マシーンを百四十キロに設定し、ボックスの立ち位置を三回変えながら六十本。内角低目のボールはすべて強振して、ホームランにした。もうだれも私のホームランをめずらしがらない。ネット裏の記者たちのシャッター音がせわしい。台坂が私を手招きする。
「金太郎さん、ブルペンでちょっと投げてみてほしいんだ」
「ピッチャーはぜったいやりません。肘ではえらい目を見てるんです」
「そうじゃなく、ステップしながら外野から返球するやり方で投げてみて。コントロール無視。手首の返し方を見たいんだ」
「わかりました」
 ルーフつきのブルペンへいく。六人のピッチャーが全員私の背中につく。みんなの提案だったようだ。まずノーステップで、棚下に山なりのボールを何球か投げる。少しずつ手首をしならせるようにしていく。ストロボが激しく焚かれる。
「速えェ!」
 次にワンステップして、二塁へ返球するのと同じ力をこめる。棚下のミットが激しい音を立てた。
「百五十キロはいってるぞ!」
 棚下が叫ぶ。監督や助手たちが走ってきた。
「返しが早くて見えませんよ」
 那智が当惑した声を上げる。
「じゃ、バックホームの力で、一球だけいきます。棚下さん、立ってください。胸もとへいきます」
 キャッチャーの後方にバックネットを想定して、ツーステップして投げる。
「ウヒョー!」
 見物の嘆声と同時に、棚下が腰を引いて拝み取りする。
「百六十を越えてます! たぶん!」
 台坂が、
「勉強にならん。先天的に手首が強いんだ」
「懸垂は四、五十回程度ですよ」
 鈴下監督が、
「それがヒントだ。手首そのものに力を入れずに二の腕を鞭にするということだろう。力瘤なんかいらないということだよ。腕を振って手首を少し利かすわけだ」
 有宮が、
「わかってますよ、監督。何のヒントにもなってません。俺は肩の回し方と見たな。ふつうじゃない」
「右投げに替えたときに、自己流で身につけたものです」
「やっぱりな。金太郎さんを学習することは無理か」
 監督の吐息に雷同して、無理、無理と言いながら、みんなグランドへ散っていく。
「おーい、記者さん、ピッチャー転向じゃないからね。おかしなこと書かないでよ」
 鈴下監督の警告を言葉どおりに受け留める記者は少ない。みな真剣な顔で手帳になにやら書きこんでいる。
「ぼくはバッターですからね。ピッチャーは速いだけじゃ使い物にならない」
 私もスタンドへ声を投げた。
 ノックが始まると、部室へ戻り、バーベルとダンベルの訓練に入る。睦子と詩織が傍らに付き添う。
「ジャマなだけだよ」
 睦子が、
「いいえ、この種の訓練は人がついてないといけないことになってるんです」
 詩織が、
「鉄棒が胸に落ちたらたいへんでしょう? そうならないように見張る人がいないと」
 八十キロを三回でやめる。ダンベルは五キロを、右三十回、左二十回。睦子が、
「神無月さんて、へんな筋肉はつかないんですね。格好いい」
 詩織が悲しげな顔で、
「神無月くんも睦子さんも、来年は名古屋へいっちゃうのね。さびしいわ」
「会いにくればいいじゃないの。私のアパートに泊まってください」
「睦子さん、中退届は出したの?」
「名古屋大学の願書締め切りひと月前までに出します。一月の初旬。受験は三月三日。大学のそばのホテルに予約することにしたの。まだまだ先の話」
「何学部?」
「文学部。万葉以降の和歌を研究する道を進みます。それなら詩織さんと同じように、大学に長くいられそうでしょ?」
「そうね。ときどき遊びにいくことにする」
「いつでもどうぞ」



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