七

 福田さんは、トシさんの背中に立っている大きな図体の私を見て、
「あら、そのかたは?」
「神無月郷さん。野球選手。あなたがいく予定の吉祥寺の」
「もしかして、あの……新聞に……ほんとだ! ……その神無月さんが、私におさんどんを?」
「そうよ」
 福田雅子ちゃん? とっさにそう思った。目と、ふくらんだ頬がよく似ている。百五十三、四センチ。私が驚いた顔をしていると彼女はみるみる頬を紅潮させ、
「なんて美しいかた―」
 と呟いて絶句した。
「美男子でしょう」
「え? はい」
「きょうは、あなたがお世話する人は、この神無月さんなのよって知らせにきたの」
「そうですか。わざわざすみませんでした。本来なら私のほうから伺うべきところを……さ、とにかく上がってゆっくりしてください」
 六畳の居間に上がり、茶を振舞われる。茶碗を差し出す手がかすかにふるえている。深呼吸までする。トシさんが、
「こちら、大のマスコミ嫌い」
「存じてます」
 頬の紅潮がますますひどくなった。無理に笑顔を作ろうとする。その笑顔にトシさんは、
「有名人はお世話するには気詰まりだって言う人が多くてね。わがままを言う人がほとんどだと思うみたい。だから前もって言わなかったの。でも、神無月さんはうるさくない人よ。食べるものだけ気をつけてあげてください。きちんと食事しないと、選手生活をちゃんと送れないから。外食ばかりだと栄養が偏っちゃう。あなたの長年の子育ての腕を活かして、面倒見てあげて」
 福田さんはうつむいている私の顔をじっと見つめ、
「お世話させていただきます。朝食と夕食ですね。具体的には―どうします? 神無月さん」
 私はトシさんの話ぶりに感心しながら、まぶたまで赤くしている福田さんの顔をあらためて見つめた。
「十一日からお願いします。朝九時に一食、夜七時ごろに一食、それを作っていただいたら、すぐ帰ってもらってけっこうです。昼間は外で食べます。もし九時と七時にぼくがいなかったら、そのまま帰ってください。そんな無駄足を踏ませないために前もって連絡するよう心がけますけど、それでも不可抗力ということがありますから、そういうときは遠慮なく引き揚げてください。調理道具などたいていのものは揃っています。食材調達に二万円、給料三万円、合わせて五万円、月初めにお渡しします。毎月、菊田さんから受け取ってください。アルバイトの税金計算等、ぼくには詳しいことがわかりませんので、菊田さんに一月までの分、十五万円を渡しておきます。お金のことはすべて彼女におまかせすることにします。あと三カ月もすれば、ぼくは名古屋へ戻ります」
「中日ドラゴンズに入団するためですね」
「はい。二月からのキャンプに参加しなくちゃいけないので。ご存知のように、この三日に入団の契約をすませました。……ところで、福田さんの姪ごさんに、雅子さんというかたはいませんか。優雅の雅です。少なくとも昭和三十一年の春から三十四年の秋までのあいだ、横浜神奈川区の青木小学校に在籍していました。いま十九歳です」
 福田さんは不思議なくらいにっこり笑い、
「私は東京生まれの東京育ちです。親戚もすべて東京在住で、横浜にはおりません。そのかたが何か私と関係でも?」
「いえ、よく似ていたもので。なつかしくて」
 福田さんはトシさんとホホホと声を合わせて笑った。それから私をまともに見つめ、
「じつは、私の名前が雅子なんです。心臓が跳ね上がりました」
 トシさんも驚き、
「そんな偶然があるんですかねえ。しみじみしちゃいます」
 私も心底驚き、次の言葉を思いつかなかった。
「じゃ、菊田さん、とりあえず今月分を立て替えておいてください。今週中に十五万円を持参します。福田さん、吉祥寺にくる前に菊田さんからお金を受け取ってください。ご存知でしょうが、吉祥寺の家は菊田さんから借りている家です。名古屋に戻ってからも、遠征で東京にきますから、その期間中、ホテルに泊まらないときだけ食事を作っていただければありがたいのですが」
 福田さんはトシさんを見て、
「来年も雇っていただけるんですか?」
「福田さんさえよければ、いつまでもお願いします」
「ありがとうございます! それでは、十一日月曜日の九時前にお伺いします。菊田さん、いいお仕事紹介していただいてありがとうございました」
「どういたしまして。じゃ、神無月さん、帰りましょう」
 丁寧な礼をし合って帰った。たった五軒先からの帰り道、トシさんが言った。
「十五万なんてお金、無理しないでいいんですよ。そんなもの、私にはハシタ金ですから」
「お金はだいじょうぶ。潤ってる。今度くるときに届けるね」
「わかりました。秘密もお金も吐き出す人なんですね。きのうだって何もかも払っちゃって」
 私は笑いながら、
「好きな人のために使ってこそ金だ。……むかし、ぼくの親友が言った言葉です」
「好きな人って、私のことですか?」
「もちろん」
「うれしい。じゃ、私から渡すって言ったのも、福田さんが私に恩を感じるように?……」
「そんなつもりはないよ。福田さんに条件を伝えて、支払い手段を言わないままにしておいたら、トシさんがぜんぶ払ってしまうと思ったからね。そうさせないように、釘を刺したんだ。あんな大きな家までプレゼントしてもらったうえに、それで足りずに甘えかかるなんて、ぼくの神経じゃ考えられないからね。できれば人からもらった金は、それを役立ててくれる人にぜんぶ吐き出したい。そのチャンスをいつも狙ってるんだけど、なかなかそうはさせてもらえないんだ」
「キョウちゃんには、お金を使う姿が似合わないからですよ。遠慮というより、そうさせるもんかって気持ち。あきらめて甘えなさい」
 居間に落ち着くと、トシさんは草加煎餅と茶を用意し、くつろいだ顔でノートや書類をめくりはじめた。
「仕事は?」
「キョウちゃんに合わせて出かけます」
「煎餅をかじるの、何年ぶりかなあ。ぼくはこういう乾き物をシケらせて食べるのが好きなんだ。柿の種でも何でも」
 トシさんは微笑しながら、
「柿の種はくっついちゃうけど、煎餅はうまくシケらせられるかも。今度そうしときますね。……福田さん、一目でキョウちゃんにまいっちゃったみたい。あんなに赤くなって。ほんとに、福田さんにしても、そういうことになったほうがいいようですね。私みたいに女を取り戻せるんだから、幸せになるでしょう」
「考えすぎじゃないかな。けっこう道徳観念が強そうだったし、モーションをかけてくることはないと思うよ」
「ホホホ、女って、そういうものじゃないんですよ。好きでもない人には、岩みたいにカチカチの道徳を通しますけど、好きとなったらまっしぐら。私のように。……冗談でなくもしそういうことなったら、あまり大儀に考えずにお受けしてあげてくださいね」
「……わかった。でも、福田さん、十七年もしてないんでしょう?」
「病気の旦那さんを三年看病なさってたから、少なくとも二十年は……でもすぐ回復しますよ。私を思い出してください。仲居をしていた最初のころは〈悪いこと〉をして生きてくために、チョコチョコ男と付き合いましたけど、もう二十年はそういうことから離れてましたから、どっこいどっこいですよ。とにかく福田さん、そうなったときは私みたいに感謝すると思います」
「話が進みすぎてる」
「ホホホ。お好きにしてください」
 うれしそうにパリパリ煎餅を齧る。
「ねえキョウちゃん、税金なんてかわいらしいこと言ってましたけど、アルバイトの税金なんか微々たるものなんですよ。福田さんの場合、二、三千円かな。でも、私から給料を払うということにして、きちんと申告しておきますね」
「ありがとう」
「お洗濯はどうするんですか?」
「自分でやるよ。洗濯機に放りこむだけだから」
「そうですね、洗濯物までは頼めないでしょうね。でも、頼むほうが堅苦しい関係にならずにすむと思いますけど。きょうはこれからどちらへ?」
「夕方から武蔵境にいく」
「ああ、節子さんですね。かわいらしい人。芯が強くて、愛情も深そうな感じ。お給料はきょうじゅうに福田さんに届けておきます。心配しないでね」
 私はトシさんの目をじっと見た。
「きょうは臨時休業してよかったの?」
「夕方キョウちゃんが出かけたら、ちょっと顔を出してみます。心配しないで。忙しい時期でもないし」
「忙しい時期は?」
「二月から四月。四月の中旬から少し落ち着きます」
 テーブルに向き合って、トシさんは書類仕事をし、私は海音寺潮五郎の田原坂を読んだ。西南戦争にテーマを絞った短編集なので読みやすかった。そのあいだも彼女はいそいそと茶をいれたり、ときどき私と顔を見合わせてうれしそうに笑ったりした。
「合気道はいつ?」
「日曜日。ちょっと待って。焼ソバ作ります」
 じっとしていない。立ち歩くたびに、タイトスカートの尻がなまめかしく揺れる。焼きソバが出る。
「だめだ、その尻。セクシーすぎて気が散る。しちゃおう」
「はい!」
 二人ともテーブルの作業を放り出して、蒲団に飛びこみ、快楽の津波に呑みこまれる。
 潮が引くとテーブルに戻る。冷めかかった焼きソバを食べる。トシさんはもぞもぞし、私は勃起が治まらない。
「もう一度」
「はい!」
 カズちゃんのように妖艶でもない、睦子や素子や千佳子のように若々しい激烈さもなく、自由闊達に快楽を貪るトシさんの素朴さの虜になったようだ。トシさんはうつ伏せになってぐったりし、大きな尻をひくつかせる。頬に貼りついた髪を指で梳いてやる。
「いつも待ってます。いつまでもキョウちゃんを待ってます」
 荻窪駅まで見送られた。トシさんは少女のように大きく笑いながら改札で手を振った。あのまま事務所に向かうのだろう。
 いまは節子だけが住んでいる武蔵境へ向かう。トシさんとすごした津波の時間を反芻しながら私が電車に座っているとき、いったい節子はどうしているだろう。牛巻病院にかよっていたころ、彼女の生活は謎めいていた。謎を振舞う人間はさびしさを抱えこまない。赤裸々に正体を曝してしまったいま、節子は毎日〈芯の強い〉心でさびしさに浸っているのだろうか。それとも、さびしさをじょうずに昇華させながら、かつて自分を追いつめた私の母や浅野の臆病さを笑っているのだろうか。
 武蔵境駅の南口に出て、ボーリング場のピンを見上げながら電話をかける。四時十五分。いなければ遅番だ。―いた。
「うそ! 四時に上がったばかりなの。ごはんを炊いて、おかずを考えてたとこ。うれしい!」
 糸杉のロータリーから、かえで通りに入る。武蔵境通りへ曲がり、一本道を歩きはじめる。北口よりも背高のオフィスビルが肩を接して立ち並んでいる。ビジネス街の趣だ。その街並もすぐにまばらになり、閑静な住宅地になる。聖徳学園高校を過ぎ、アパートやマンションや民家の入り混じった通りを抜けていく。十五分ほどひたすら進み、畑や菜園の広がる地帯に出る。散在するマンションの中に武蔵境小学校がある。正門の斜向かいの細道を入ると、武蔵野赤十字病院の広い敷地に突き当たる。敷地を臨む道路沿いに病院付属の大きな薬局があり、その両脇にアパートが何棟も建ち並んでいる。
 右端の上島荘の階段を上る。浮き廊下のいちばん奥の戸の前に立ち、ブザーを押す。明るい声がして、押し開けた戸から節子のはち切れるような笑顔が覗いた。エプロンをしている。
「いらっしゃい! 私が帰ってなかったら、キョウちゃんたいへんだったわね。法子さんは吉祥寺に引っ越しちゃったし」
「うん。この時間、法子はお店に出てるだろうから、二人ともいなかったら上板橋の吉永先生のところへいったかもね。いいにおいがする」
「入って入って。煮物をしてたのよ。筑前煮。電話があってすぐ決めたの。キョウちゃんの大好物だってキクエさんに聞いてたから」
「醤油加減がいいのかな。とってもいいにおいだ」


         八

 六畳に角テーブルが増えていた。節子はフィルターコーヒーをいれて、キッチンに戻った。背中が言う。
「おめでとう、中日ドラゴンズ入団!」
「ありがとう。あと四、五日、逃げ回り」
「和子さんから連絡があったわ。でもどうして?」
「他球団の横槍を避けるため。もうドラゴンズと本契約を結んじゃったから、横槍入れてもむだなのにね。たぶん仮契約を本契約と嘘の発表をしてるんだろうって誤解した球団がやってくる。本契約ってたいてい十二月だから」
 背中を屈めてとろ火にする。
「四十分くらい煮ます。ごはんは七時からぐらいにしましょう。契約金、すごい金額だったわね。病院のロビーの新聞で見たわ。お母さん、受け取ってビックリしたんじゃないかしら」
「アブク銭を使い切ってスッキリした。年棒は月給で分割払いなんだって。大金持ちになっちゃった。必要なときは言ってね」
「だれもキョウちゃんからもらおうなんて思わないわ」
「ねえ、節ちゃん」
「なあに」
「幸せ?」
「不幸になりたいくらい」
 ニッコリ笑う。
「どうしてぼくなんかを愛したの。こんなゴロゴロしてる与太者」
「そういうのがゴロゴロなら、毎日ゴロゴロしてて。そのまま寝たきりになってしまってもいいわ。でも、キョウちゃんはぜんぜんゴロゴロしてない。怠けてない。……ねえキョウちゃん、愛してるというのは、自分が幸せだって感じて喜ぶよりも、キョウちゃんが幸せであってほしいって思うときに、思わず口に出ちゃう言葉なの。暗号みたいなものね。キョウちゃんが幸せだと、もう、愛なんて言葉では言い表せないくらい満たされた気持ちになるの」
「世間のほとんどの人は、勉強して、働いて、結婚して、子供のある家庭を築いてこそ幸せになれるって大声で言いふらすくせに、学校を出て、働いて、結婚した挙句、他人といっしょに暮らす生活をトンネルのように暗いものだと言い出すんだ。その闇には尖った岩がたくさん転がっていて、どこかでぶつかってケガをするかもしれないって思うし、人生の墓場だなんて思ったりもする。つまり、自分の幸福しか考えてない。そんな人間に、他人が幸福になってほしいなどという気持ちが湧いてくるはずがない。だから、愛してるという言葉は信用できるんだ。世間の人がその言葉を本気で言えないのは、たぶん彼らは思いもよらない複雑な事情を抱えていて、それでいざというときに、わが身いとしさで弱気な常識に振り回されてしまうからだろうね」
「……むかしの私よ。複雑な事情なんか何もなかったのに」
「それがそっくり、ぼくが築き上げてきた〈大人〉というものに対する印象だ。節ちゃんは大人だった。いまはどこから見ても子供だ。節ちゃんが大人だったころの言葉や行動を思い出すたびに、ぼくは、ぼくに無償の恋をしているいまの節ちゃんの言葉しか信用しないという気持ちを新しくするんだ」
 エプロン姿の節子は輝くように笑って振り向き、
「その言葉をキョウちゃん以外の男が言ったら歯が浮いちゃうけど、キョウちゃんが言うとほんとうのことだって信じられる。命懸けの言葉だからよ。いっしょに生きてることがうれしくなるの。大人の時期が私にはあったのね。キョウちゃんにつらい思いをさせちゃった。どんなに償っても償いきれない」
「気持ちはわかるよ。節ちゃんがいまも大人だったら、償いの気持ちなんか湧かない。きっと節ちゃんの大人の時期は、気の迷いだったんじゃないかな。節ちゃんはもともと子供だったんだよ。だから、自分の気の迷いが口惜しくなって、償いたくなるんだね。でもぼくは、節ちゃんがいま子供になってくれたって感じるだけで、幸せな気持ちになる。じゅうぶん償ってもらった。もう二度と償いをしようなんて思わないでね。ただ、ぼくが子供であることを節ちゃんが幸福だと思っているかどうかわからない。たとえ節ちゃんが子供だとしても、愛する相手が子供であるより大人であることを望むかもしれない。それなら節ちゃんは不幸だ。もし不幸なら、いつでもぼくを捨てていいんだよ。悲しいけど、ぼくは悲しみを正常な状態だと思ってるから、そうなっても少しもうろたえない」
 節子は笑いを崩さず、
「キョウちゃんを捨てるもんですか。もったいない。私も大人嫌いだから、捨てる理由がないわ。それよりまた私が気の迷いで大人に戻ったら、今度こそたちまち捨てられちゃう。……キョウちゃんは、そんなパンクしそうな頭を抱えて野球をしてるのね。だからいつも顔が青白く燃えてるみたいなんだわ。―さあ、できました」
 大皿に筑前煮が盛られる。
「ちょっとつまむよ」
 熱いこんにゃくをつまんで口に放りこむ。
「うまい! よく味が滲みてる」
「少し冷めたぐらいがおいしいの。今夜のおかずだから、もうだめ」
 銀紙をかぶせる。 
「キクちゃんはキョウちゃんが入団発表した日曜日、ちょうど正看の模試だったの。上出来だったようよ。自信がついたって電話があったわ。十七日の日赤の面接、とても緊張するって怖がってたけど、本部の知り合いから聞いたところだと、書類審査だけでもう合格しちゃったみたい。そんなことキクエさんに前もって言えないから、面接は資格試験じゃないんだから、ゆったりした気持ちで受けてって励ましてあげた。黙ってうなずいてればいいって」
「それは心強かったろうね。あしたは先生に逢いにいく」
「そうしてあげて。私は九時からの早番で、ここを八時半に出るけど、キョウちゃん、ゆっくり寝てて」
「いや、いっしょに出て、そのまま上板橋にいく。留守だったら、喫茶店で待ってればいいから」
「そうね、看護婦って労働時間が不規則だから、訪ねるのがたいへんね」
「訪ねるほうは気楽だけど、訪ねられるほうは気苦労だろうね。睡眠、食事はもちろん、毎日の計画がスムーズに進まなくなる。だれを訪ねるときも、いつもそのことを考えるんだけど、エイヤッて図々しく訪ねちゃう。今回はちょっと事情があったけど」
「事情も何も関係ないわ。だれが訪ねてくると思ってるの。キョウちゃんよ。何を捨てても、キョウちゃんに訪ねてもらうほうを選ぶわ。それより、キクちゃんみたいなとても能力のある人が、少ない報酬で、人の嫌がる老人医療のほうにばかり回されてるのが気の毒」
「先生は生まじめな人間だから、そういう報われない苦労は慣れてるよ」
「つらくならない人だからえらいと思うの。すばらしい性格ね。まじめなだけじゃなく、ほんとに頭もいいから、正看の試験も一発で受かるでしょう。試験みたいなものであまり躓かない人。私のあげた問題集のほかにも、どんどん勉強を進めてるみたい。来年、正看の資格を取ったら給料が倍近くになるわ。いろいろな部署にも回されて、仕事の楽しさも覚えるでしょう。そのあとで、名古屋に転勤」
「あのバカでかい日赤か。文江さんが手術して、トモヨさんが出産した大病院。長く働ければいいね。とりあえず今回は、先生はどのへんに引っ越すつもりなのかな。三鷹にしよう、風呂付きがいい、なんて話し合ったこともあったけど」
「そうね。でも一駅かようのはむだよって私が言ったら、武蔵境の日赤口で、風呂付きの一戸建を探すって言ってた。私にお風呂に入りにきてほしいんですって。やさしい人」
「ほんとに、みんな一心同体だね。法子も吉祥寺のマンションに引っ越したみたいだけど、まだいってないんだ。店を盛り上げる大事な時期だと思ってね。いずれ顔を出そうと思ってる。節ちゃんも一度いってあげてね」
「うん。そのうちキクちゃんといってくる」
「少し散歩しようか。節ちゃんの外股の歩き方が見たい」
「そんなものが?」
「むかしから大好きなチャームポイントの一つだよ。足先を横へ撥ね飛ばすように歩くんだ。あまり見かけない歩き方だね」
 アパートの階段を降りると、すぐ右手に蕎麦屋がある。そこからはアパートと民家の雑ざった町並になる。T字路に突き当たって、右手も左手も畑なので引き返す。少し歩みを遅らせて、揺れるスカートと撥ねる足先を見つめる。なぜか目が潤んでくる。
「いやだ、キョウちゃん、そんなに見たら……。あら、泣いてる」
 たちまち節子も涙を浮かべる。
「牛巻の坂を思い出すわ。神宮の参道も。……いまは二人で、東京の道を歩いてるのね」
 緑の木立は日赤病院の前しかない。大玄関前のロータリーを右手に見て、上島荘の前を通り過ぎる。まだ歩いたことのない道だ。
「なんだ、この駐車場の広さは!」
「名古屋と同じ大病院なのよ」
 道沿いにさっきの薬局よりもさらに大きな薬局がある。
「どれも、病院付きの専門の薬局よ」
 駐車場が延々とつづく。畑、民家、二階建てアパート、畑、三階建てアパート、畑、看板のない正体不明の倉庫、アパート、畑、マンション、アパート。民家はほとんど目につかない。
「民家は数十軒に一軒だ。でも、ほら、ときどき無人の一戸建もある。先生が家を借りるのには事欠かないだろうね」
「このあたりは新興の開発地なの。そのうち、建売が増えるんじゃないかしら」
 日赤の分館、小学校、広大な敷地に何棟も平屋を並べている園芸植物店。黄昏の色が濃くなってくる。引き返す。
「蕎麦屋一軒。あとは何もない。風景もない。まったく散歩の種がないね。外出するなということだよ。部屋から空を見上げて静かに暮らすには最適だ。さあ、帰ってめしだ」
 腕を組んでくる。節子はアパートの沓脱ぎでこちらを向き直ってキスをしてきた。私の頬を撫ぜながら、
「大好きな人。かわいい人。初めからずっと、かわいい人」
 トシさんも同じ言葉を口にした。
「牛巻のロビーでそう言ってくれたね、いちばん最初。一生忘れない」
「思わず言ってしまったの。あんなきれいな男の子、見たことなかったから。……好きになっちゃいけないと思った。齢もずいぶん離れてたし、好きになるなんて大人の分別を忘れた行動だって。でも、どうしようもなかったの」
「年齢は関係ない。文江さんでわかっただろ?」
「わかった。遇ったとたんに一目惚れするのは、齢なんか関係ないって。二十五歳の和子さんが、十歳のキョウちゃんを愛したのは、ぜんぜん不思議なことじゃないって」
「ぼくも節ちゃんを初めて見たとき、一目惚れだったよ。ワゴンを押して病室に入ってきたとき、いっぺんに好きになったんだ」
 ボロッと節子が涙を落とした。
「心をガードしてたから、素直になれなかったのね。ほんとにキョウちゃんの周りは素直な人ばかり。キョウちゃんも、いっさいだれも差別しない。だから、みんな自分を開放して、立派に女をしてる。キョウちゃんは、分別のある大人以上にやさしくて、気持ちが濃やかだから……。和子さんが電話で教えてくれたわ。吉祥寺のお家をくれた人は六十二歳だって。それから、青森の寮監さんは五十歳、みんなキョウちゃんに身も心も捧げてるって。つくづく自分は、小さくて不自由な女だったんだなあって思った。いまの私がほんとうの私です。死ぬほど愛してます。もう何も不自由な気持ちはありません。……和子さんが、一度キョウちゃんと青森にいってらっしゃいと言ったの。キョウちゃんのぜんぶがわかるからって。いつか連れてってね」
「うん。雪の季節にいこう。雪を見せたい。節ちゃんは野辺地へいったことがなかったんだね」
「……はい。和子さんだけね、野辺地にいったのは」
「そばで暮らしてくれた」
「すてきな人。キョウちゃんがプロ野球選手になって、何年かして落ち着いたら、連れていってね。和子さんたちと」
「カズちゃんは、節ちゃんにいってこいと言ったんだろ? そんな大勢でいくなら、山口たちも、みんないっちまえばいいってことになる。……ぼくたちはもう大移動は無理かもしれない。受け入れ先が北村席みたいなところでないかぎりね。何年後でもいい、いつか二人でいこう」
「はい」
「節ちゃんに幼稚園を見せたいな。城内幼稚園。下駄箱に靴を入れて、裸足で広間に入るんだ。朝の太陽で明るくなった広間、床の油のにおい、掛地図と、絵本と、舞台と、そのほかいろいろなものがいっしょくたになったにおい。エプロンみたいな園児服、下は長ズボンや半ズボンやモンペ。ぜんぶ手の届かないところで、やさしく輝いてる。それを見せたいけど」
「小さなお城みたいね。少しニスのにおいのする」
「そうだね。そんな切れっぱしみたいな思い出でも、胸が痛くなる。こういう痛みを繰り返しながら生きていくことにぼくは執着してる。……でも幼稚園の中には入れてくれないだろうな」
 あのころ私は満足していたわけではかった。母を待っていた。いくら馴染もうと努力しても、どうしようもできない限界があった。感情を抑圧された生活の中で、感情が紡ぐ言葉を伝えるには、よほどの根気と、集中力を必要とする。感情を小出しにしながら、あてがわれた時間をつぶすというのも、けっこうつらいものなのだ。


         九         

「節ちゃんと出会ったころのことを小説に書きたいなって思ってる。思い出から卒業したいんじゃなくて、心に刻みたいんだ」
「……よくわかります。刻んだ思い出があるから生きてきたし、これからも生きていけるということね。コツコツ書いてください。さ、夕食のあと、お風呂へいきましょ。ここから一キロ、ゆっくり歩いて十五分ぐらいのところに、のぼり湯というのがあるの」
 テレビを点ける。お笑い頭の体操。自然に冷めた筑前煮、硬めに炊いためし、ナスとキュウリの漬物、ワカメと豆腐の味噌汁。うまかった。少ないおかずでめしが進んだ。三杯も食った。節子も下ぶくれの頬をふくらませて、おいしそうに食べた。
「ごちそうさん! 生き返った」
「私も! 朝はお茶漬け、昼はかけそばを食べたきりだったから」
「ひどい食生活だな」
「ふつうよ。患者さんのほうがいい食事をしてるかも」
 食べ残した煮物を別皿にとって銀紙をかぶせ、冷蔵庫にしまう。食卓を片づけ、台所に立つ。水音が涼しい。小さな背中が胸に迫る。私はこの女のおかげで人を愛することを知った。この女の未来に私は責任がある。
 節子はプラスチックの風呂桶を二つ持ってきた。石鹸とタオルが入っている。階段を降りて、とっぷりと暮れた道へ出る。直進し、T字に突き当たり、右折する。畑が拡がっている。畑の中に百メートルほどの間隔で飛び石のように五階建てのマンションが建っている。時おり、庭木に囲まれた豪壮な二階建ての民家もある。景色の単調な一本道は長い。五分が十分に感じる。
「この道、連雀通りっていうの。さっきの突き当りを左へずっといくと、太宰治の禅林寺までいけるのよ。……バッターボックスでキョウちゃんが静かに青白く発光してるように見えるのはなぜかしら」
 唐突に言う。
「再生、再着火の炎だね。壊されて、再生したから」
「スカウトのこと?」
「じつはちがう。押美スカウトの前で、子供に才能があると思うのは錯覚だと西松建設の所長が言ったとき、壊れた。無知な身内である母が言ったなら壊れない。知性と客観的な判断能力を持った他人が言ったので壊れた。ぼくにとって野球がすべてだった。心のすべてが野球で結晶してた。……だれの人生にも痛烈に胸痛む瞬間がある。それは、すべてが結晶してるのに、ヒビが入る瞬間だ。口をついて出る言葉がすべてを決定してしまう瞬間だ。将来をね。それがその瞬間だった。たとえ野球が遊びでも、それをするには才能が要る。それは野球をしたことのある者なら子供でも知ってる。それを〈ない〉と言われた。彼は野球を知らない人だった。野球の才能の何たるかを知らない人だった。ほかのスポーツでも彼は同じ否定的な批判をしただろうと思う。だからと言って油断できない。彼を代表とする人びとの意見だからね。彼らが言いたかったのは、学問や発明にしか〈才能〉というものを認めていないということ、たかが遊びに才能なんか持ち出すなということ、それだったんだ。野球の才能がないと言ったんじゃなく、野球に才能と呼べる要素はないと言ったんだ」
「……それで野球を虚しく感じたのね」
「そう、彼らの言う〈才能と関わりのない〉虚しい遊びの中でも、懸命に生きている人間がいることを、その懸命さを喜ぶ人びとがいることを見せつけてやるという、虚しさから充実への再生だ。その気持ちになっているとき、ぼくは青白く発光しているように見えるんだと思う」
「生活をする以外のことに没頭するのは、ぜんぶ自己満足の遊びよ。学問も、野球も、芸術もみんなそうでしょう。どんな遊びでも、じょうずに遊べる人には才能があるわ。それがその人にはわかってなかったのね」
 優勝会の一記者を思い出した。彼は東大に対して私のような頭脳は恥ずかしいと言い、野球の技芸を頭脳の下位に置いた。
「ぼくも、自分が天与の遊びの才能の持ち主だと信じてる。でも、所長のような人がこの世の多数派だ。―男はアタマだと叫びつづける多数派。知的権威。どんなにホームランを打っても、この世の知的権威には敵わない。敵わない知的権威には近づかないで立ち去るにかぎる。立ち去り、遠くから彼らを睨み据えて、もっと青白く燃えながら再生しつづけなければ、彼らは炎を認識しない。炎が彼らの目に届いたとき、アタマは遊びの才能と同等に均されて権威でなくなり、ぼくも再生を終えて発光する必要がなくなるだろうね」
 節子は呆れ顔をし、
「和子さんの言うとおりね。何かを考えているつもりになると、とつぜんしゃべり出すけど、しゃべったことを考えていたわけじゃないって。そんなことをぜんぜん考えずに、キョウちゃんはただホームランを打ってるだけの人。考えることが好きだけど、いざ考えようとすると億劫に思う人。……ほんとに、再生とか、知的権威とか、そんなことぜんぜん考えていないのよ。あの所長の野郎、ぼくに才能があることをわかってくれたかな? それだけでしょ」
 私はたまらず噴き出した。図星だった。節子もカラカラ笑った。
 煙突を目星に歩いてきたが、そんなものは見当たらず、とつぜん右手にのぼり湯という看板が現れた。広めの駐車場に桜の大木が立っている。
「遠いでしょう? 春先は湯冷めしてたいへんだったわ」
「そうだろうなあ。女の足だったら、軽く二十分はかかるね。吉永先生が越してきたら、もうこんなところまでこなくてすむよ」
 玄関の下足箱に下駄を入れ、板鍵を持ってガラス戸を開けると、板土間の正面に、いまどきめずらしいホテルのフロント式の番台があった。番台の左右に男湯女湯の暖簾が垂れている。フロントの前に大きな五脚のソファとマッサージ器が一機置いてあり、コーヒーテーブルまで用意されている。板土間の大ガラス戸の外のベランダにも木製の椅子が二脚置いてあった。清潔な造りのロビーだ。入浴料三十二円也。
 節子に三十二円をもらい、別れ別れに暖簾をくぐる。脱衣室も清潔で、ロッカーの脇棚の花瓶に、孔雀サボテンの白い大輪が活けてある。浴槽は三つ。七、八人の客が浸かっている。湯殿の戸を引いて外に出ると、板塀に囲まれた露天風呂があった。けっこう有名な銭湯なのかもしれない。ゆったり浸かる。上がって湯殿に戻り、頭を洗う。からだも洗いながら、仕切りの向こうへ呼びかける。
「節ちゃーん!」
「はーい!」
「露天風呂、気持ちいいよ。いってみて」
「はーい」
 オホホホ、と女たちの声がする。男どもは黙っている。風呂に浸かると、五十がらみの男が、
「新婚かい?」
 親しげに訊く。
「十五で結婚して四年目です」
「へええ!」
 ほかの男も寄ってきて、
「親が許したかい」
「いえ、許してくれなかったので、内縁のままずっと暮らしてから、去年ようやく籍を入れました。いまだに親とは絶縁状態です」
「奥さんも?」
「彼女は天涯孤独です。六つ年上の二十五歳、そこの日赤で看護婦さんをしています。ぼくは法政の経済学部、二年です」
「おもしれえなあ! 俺は、この通りで寿司源て店やってんだ。今度食いにきな。安くしてやる」
「はい、ありがとうございます。いずれ食べにいきます」
 ぺらぺらとでたらめをしゃべる。壁越しに呼びかけたのは失敗だった。そのせいで話しかけられた。話しかけられなければそれで終わったのだが、見知らぬ人間に話しかけられた以上は、彼の想像範囲の話を捏造しなければならず、生活の実態と野球を隠すことが至上命令になる。
「法政といやあ、今年の秋は東大にやられたなあ。三羽烏も形無しだ。いくら点を入れても、神無月というやつに取り返されちまう。この神無月ってのが、神がかりの天才でな、パカスカホームランを打つわけよ」
「あのう、ぼくはスポーツ音痴で、その方面はからっきし」
「そうかい、今度テレビ観てみな。ちょうどアンちゃんみたいな美男子でな、その振りの速いこと! ベーブルースかゲーリックかだ。ありゃ、巨人にいくなって思ってたら、中日にいきやがった。電撃入団だってよ」
 中年同士寄り合って、わいわいやりだした。私は水をかぶって、上がった。服を着て出ると、ちょうど節子も出たところだった。
「がやがや、やってたわね」
「ああ、ハハハハ」
 コーヒー牛乳を分け合って飲んで、表に出た。話の中身を話すと、
「まあ、嘘つき。よしのりさん二代目よ」
「仕方ないね。ほんとのことしゃべったら、つかんで離されなくなっちゃうよ」
「それもそうね。あら、寿司源て、ここじゃない。ご主人が抜け出して風呂に入りにいくなんて、怠けた店ね」
「店を任せられるほど腕のいい弟子がいるんだろう。今度、食べにこよう」
「結婚四年、法政の経済学部二年生ね。やめましょう。話が面倒になるわ」
「そうだね」
「これからは、ほんとのことを言っても何の反応もないところだけにいきましょう」
「そんなところあるかな」
「……ないわね。北村席だけかな」
 アハハ、ホホホ、と声を合わせて笑った。
「はい、三万円。フィルターコーヒーセット、電気のやつ買っておいて。簡単にいれられるから自分でも楽しめるよ」
「こんなに……」
「偶然ポケットに六万円入ってたから、折半。余ったら、吉永先生の家探しの日に、喫茶店に入ったときにでも使って。お金が必要なときはいつでも言ってね。何百万円も持ってるから」
「キョウちゃん……」
 少し風が出てきた道を早足で帰る。長い一本道にはネオンもなく、民家やアパートの灯りと、畑の暗がりと、群青の空しかない。アパートの階段まで帰り着くと、日赤の病棟の明かりが煌々と輝いていた。
 少し湯冷めしたからだをすぐに蒲団に入って温め合った。
「蒲団が重たくて気持ちがいい。ぼくは重い蒲団でないとだめなんだ」
「私も。知多の冬って、けっこう冷えるの」
 抱き合う。湯上りの冷たくしっとりとした肌が吸いつく。


         十

 目玉焼きと海苔と味噌汁の朝食をすませ、節子といっしょにアパートを出た。節子の背中が病院の玄関スロープのいただきからドアの中へ消えるまで見送り、武蔵境駅へ歩き出した。空に雨の気配がある。
 いつだったろう、詩を書きだして間もないころ、私にも鳥の嘴の先のような平凡な計画があった。口に出さない計画。それは、時代に勢いづく知性の一員になりたいということだった。国の中心にいる知識人たちと同じような思想を抱いて、知識にあふれた文字を書きたかった。知恵のある芸術家、あるいは文化人というやつになりたかった。知識人、文化人、芸術家―そんなやつは、是が非でも上流への階段を昇りたがり、その目的を遂げるためには、商人のような辣腕をふるって、うまく自分の技芸をやりくりするにちがいない。そう生きるべきだと思っていた時期があった!
 その欲望も、いつのころからか静かに撤退した。肩書ではなく、詩人であるための精神のありように価値があると思うようになった。ふるえるものにふるえ、愛情を覚えるものを愛し、本能を解放して生きる。肩書を得たい人間は、確実な名望欲、たぶん、正しい努力に基づいた名望欲を持っている者だけだろう。社会の枠組の中の成功は、大人つまり社会人の象徴で、軌道を逸した徒手空拳の輩は、子供つまり非社会人の象徴だと思うようになった。でも、きっとそういうことが、つまり、みんながバカにする非社会人という問題が、いつも私のアタマを悩ませてきたことなのだった。
 ある人間が社会人か非社会人かという問題は、ある人間が詩人であるかどうかという単純な問題に比べれば、じつに複雑な問題だ。社会に認識されるためのさまざまな要因が絡みつく。社会に爪弾きされる非社会人であることこそ、詩人であるための唯一の条件にちがいない。社会の枠の外で羽搏くというのは単純なことなのだ。枠の外なのだから。ただ単純ではあるけれども、容易なことではない。
 社会の枠の中で自分を非社会人だと公言して成功できる人間は、とんでもなく高度な人間だと言えるだろう。自分を非社会人だと公言しながら、社会的に成功することは至難だ。しっかり社会に寄生してそれを成し遂げるわけだから―。社会人とか非社会人とか、大人とか子供とか、だれもが勝手なことを言って悦に入っているが、独立独行という意味でなら、一人残らず寄生虫にすぎない。人はだれかに吸いついて養分をすすらなければ生きていけない。それが社会のありようだ。そうである以上、人間にとって重要なのは、社会人、非社会人、子供、大人、そんなもっともらしい区分けではなく、他に吸いついた謝礼ができるかどうかだ。他を救ったり、癒したりすることができるなら、その人間は依存を基本にする社会で大した成功を収めたということになる。
 私たち人間はあまねく寄生虫だという理屈は腑に落ちる。社会人も非社会人も、基本的にどちらも他に依存しなければ生きていけないという意味で寄生虫だとすると、他に一方的に寄生させるメシア的な人間だけが、人間社会に最大の貢献ができるということになるだろう。そんな人間は存在しない。寄生の謝礼としての救いと癒しの才能があれば、子供だろうと大人だろうと、社会人だろうと非社会人だろうと、ただの人を脱する。その理屈だけで、人は自分の存在理由を明るく考えられる。

         †
 上板橋で降り、吉永先生を訪ねる前に、サッちゃんのもとに向かう。たぶん最後の訪問になる。
「あらあ、キョウちゃん、大願成就おめでとう!」
「ありがとう」
「時間、あるの?」
「うん」
 暖簾のきれいなおでん割烹店に連れていかれた。園の目の前だ。昼近くに開けるらしい店に、客がすでに何人もいる。二人でビールをコップ一杯だけ乾杯した。じゃがいも、ガンモ、コンニャク、大根、袋、と食う。おでんがこんなにうまいものとは知らなかった。
「あまりお腹をふくらませないようにね。恋人のところにいって、お昼ごはんでしょ?」
「三時過ぎにいく。彼女の就職祝い」
「あら、どこに勤めたんですか?」
「武蔵境の日赤病院。ついに正看護婦になるんだ。試験は来年だけどね」
「じゃ、その人武蔵境へ引っ越しちゃうわけ?」
「今月の末にね。上板橋にはサッちゃんがいるだけになる」
「やだ。危険信号ね」
「関係ないよ。ちゃんとくる」
「でも、来年になったらキョウちゃん、名古屋にいってしまうんでしょう?」
「合計ひと月半くらいは東京に出てくる」
 店内は賑やかなので、二人の声は騒音に紛れる。それでもサッちゃんは小声になり、
「自分が背負えるだけ背負えなんて、お荷物の私が言うのはおこがましいけど、キョウちゃんがもうこれ以上背負えないって言ったら、いさぎよく退き下がるつもりなのよ。でもそう言われるまでは離れないでお荷物でいつづけるわ」
 おでんの盛り役の女将の後ろで調理にいそしんでいた主人が、客の入りを眺めようと店内を見回し、
「あれ? ひょっとして、あんた東大の神無月選手だろ!」
 目覚めたように店内が、なんだなんだという大騒ぎになった。
「金太郎!」
「三冠王!」
「ドラゴンズ入団おめでとう!」
 女将が、
「テレビに出てた、あの?……」
 主人が、
「色紙、書いていただけますか」
「獲ったタイトルを書き添えたいので、今度きたときにしてくれませんか」
「もちろんです。立派な色紙を用意しておきます」
 客たちが寄ってきて、腕や肩を触った。
「東大で、三冠王で、優勝か!」
「水もしたたるいい男だ!」
「もう東大じゃありません。中退しました」
「知ってるよ」
 ワハハハとみんな笑った。主人が、
「畏れ多いですな。これからのプロ野球を背負って立つ人に、こうしてお会いできるなんてね」
 サッちゃんが、
「あのう、マスコミに嗅ぎつけられると、上板橋に遊びにくるのが不自由になりますから、重々噂にならないようによろしくお願いします」
 客が、
「まかしとけ、マスコミ嫌い! べらべらしゃべらないよ。山の神にもな」
「これこれこういう店で見かけましたってテレビ局に電話しちまうやつがいるからな」
「口チャック、口チャック」
 主人が、
「園のマスターは、口が軽いよ。東大の神無月とも知らずに、河野さんにツバメがいるって吹聴してたの、あいつだからな」
「あのマスター、野球音痴だろ。スポーツ新聞読まねえもんな」
「電撃、朝日にも載ったぜ」
「じゃマスター、新聞見てびっくりしてんじゃないの。神無月だったのかって。こんな顔めったにないから」
「でも、なんで河野さんとこに神無月選手がくるの?」
 サッちゃんはにっこり笑って、
「ツバメならうれしいんだけどね。東大野球部の選手が上板に住んでるのよ。その人のところに神無月さんが遊びにきたとき、偶然、園にコーヒー飲みにきて、私、神無月さんの大ファンだったから、帰りぎわに店の外でサインもらったの。それがきっかけ」
「それ以来、園で待ち構えているわけだ」
「そういうわけじゃないけど、ときどきこういうラッキーがあるのよ」
 すらすらしゃべる。文江さんと同じだ。
 とうとう表に雨音がしだした。傘を差した客がどやどや入ってきたので、サッちゃんは勘定をすませた。店を出て二人雨の中を早足で帰る。
「すごいね、サッちゃんの口から出まかせは。その野球部の選手をだれにしようか考えて冷やひやしちゃったよ」
「ふふ、スリルあるでしょう?」
 籐椅子を二階のフードつきのベランダに二つ並べて、庭を見下ろす。少し寝そべる格好だが、首を上げると庭を見渡すことができる。いい雨が降っている。
「庭が荒れてるね。少しいじったほうがいいよ」
「職人さん、頼もうかしら」
「そうだね。一年じゅう咲く花がちがうから、全体に散らして、季節ごとに手入れしないと荒れた雰囲気になってしまう」
「花は詳しいんですか?」
「性質や育て方はあまり……。形と色と名前ぐらいなら。たとえば、あの濃いピンクの五弁花がオシロイバナ、白い小さな五弁花はアベリア、紫の六弁花はクレマチス。あ、あの白いふわふわした太陽みたいな十弁花はトケイソウだよ。立木はイチイと柿と寒桜。楠木もある。あれは夏蜜柑だな」
「すごい!」
「すごくないよ。単なる知識だから」
 サッちゃんは明るい顔で、
「ついこのあいだ、うちの人シンガポール勤務が決まりました。今度は五年以上の赴任です。おまえもいくかって形ばかりの電話がきたから、いかないって答えた。息子たちももちろんいかないって。何も心配ありません。結局この家は、息子たちがときどきお金をせびりにくるだけの場所だから。ほんとに私たち、いい時期に出会ったと思います。……名古屋……逢いにいくのが遠くなりますね」
「気持ちの問題だよ。新幹線か飛行機に乗れば、あっという間だ。……このあたり、周りに二階家がないね」
「そうね、庭の向こうに一軒あるけど、楠木に隠れてるますね。……あら、やだ!」
 サッちゃんは籐椅子を滑り降りて、私の股間を上半身で隠すようにひざまずいた。ズボンのチャックのあいだから突き立っているものを両手で握り、あたりにキョロキョロ目を配る。
「ほんとにもう、キョウちゃんはイタズラなんですから」
 思い切って口に含んだ。
「入れていい?……」
「いいよ。サッちゃんがこちらを向いて入れると、まんいち人に見えたら、してることが一目瞭然になっちゃうから、むこうを向いて入れて」
 私は雨の糸を見つめながら、ズボンを足もとに引き下ろした。籐椅子へ背を凭せる。サッちゃんはパンティを脱ぎ、私に背中を向けて膝に跨った。淡い紺色のスカートで二人の下半身をスッポリ隠す。少し腰を浮かせ、膣口で亀頭を探る。
「ハアア……入った! 私締まってます?」
「とても」
「ああ、うれしい、すっごく気持ちいい!」
 ブラウスの下に手を入れて乳房を揉む。
「あ、イキそう、胸をつかんでてください」
 グイと突き上げる。
「ああ、イッちゃう、イク!」
 サッちゃんは自分で口を押さえながら反り返り、脇腹を固く締め、ベランダの床に両脚を突っ張る。私は目隠しのスカートを剥ぎ取り、下半身を丸裸にして両脚を抱え上げ、小便をさせるような格好で激しく突き立てる。射精する。
「あー、キョウちゃん、愛してる、あああ、クウ!」
 一オクターブ声が上がる。痙攣するたびに小便のような愛液が迸り、雨に湿ったベランダの垣に当たる。振り返って唇を吸ってくる。吸いながら愛液を放射する。
「好きよ、好きよ、好きよ」
 深く舌を入れて絡める。膣がそれに合わせて強く収縮する。


         十一

「見られなかったかしら」
「ぼくが見たかったよ」
 セックスだけをしにくると、歯の浮くようなことも言う破目になる。そんなもの見たいはずがない。
「いや、あんな格好……見たら私も興奮する。フフフ」
 彼女の強い関心事から私はますます遠ざかっていく。〈言葉〉を聞きたい。三時にキツネ温メンのおやつ。ほどよいタレの濃さ。唐辛子をたっぷりふる。
「うまい!」
「シンプルなものが好きね。スポーツ選手はもっと身になるものを食べないとだめよ。今度きたときは、ちゃんこ鍋作ってあげる」
 キッチンに廊下越しに向かい合った居間のソファに二人落ち着き、初めてアルバムを見せられる。酒井リサちゃん以来だ。ロバのパン屋。ケロイドの脚。岐阜へいったと聞いたが、いまごろどうしているだろう。やさしくて頭のいい子だった。
「女ってこういうものをとっておくんだね。小四のとき、リサちゃんて子に見せられて以来だ。写真はしみじみと悲しい。主人公のむかしの美しさを置き去りにしてる」
「私もこんなにきれいだったのね。……女はきれいな時期があるのよ」
「いまもきれいだよ。アルバムって、置き去りにされた自分の美しさを確かめるために戻っていくものだね。いま美しい人にはそれほどなつかしいものじゃない。サッちゃんはため息なんかつかなくていいよ。これから置き去りにしていく美の持ち主だ」
「信じていい?」
「ぼくの目がそう判断するなら、それだけでいいんじゃない?」
「もちろんよ。うれしいわ。キョウちゃん以外の男なんて眼中にないもの」
 小学校、中学校、高校、大学。リサちゃんとちがって、写真の中のサッちゃんはいつも中央から逸れたところにいる。一人の写真、数人の写真、集合写真。
「この高校は?」
「浦和一女。キューポラのある街で、吉永小百合がフェンスのあいだから覗く高校」
「ああ、女子高生が校庭でブルマーダンスを踊ってたね。提灯ブルマーを穿くと、みんな短足のイモ姉ちゃんに見える。あれほど性欲を湧かせない格好もない。ブルマーを脱がす気にさせないんだから、女を冒涜してる。スクラム組んだ明るい未来の象徴として撮ったんだろうけど、滑稽だね。だいたい、暗いプロットからあんな明るい結論を導き出すのはへんだ。話が逸れてきたな。サッちゃんは屈指の名門校出身なんだね。あの映画は昭和三十七年だから、サッちゃんが卒業してから二十四年か。なつかしかったろうね」
「ええ、校庭が同じままだったからびっくりした。私も提灯ブルマーを穿いた世代よ。いまのショーツ型ブルマーなんか穿いたら、セクシーすぎて、強姦事件が絶えなかったでしょうね」
「サッちゃんはやられまくってたろうね」
 歯が浮いてくる。
「やだあ。そしたら、私、人格が変わってたかもしれないわ。いくらガードの堅い女でも強姦には敵わないもの」
「そりゃそうだ。提灯ブルマーでよかった。ふうん、これが東外大か。この校舎、平屋の中学校みたいだね」
「田舎の大学だから。駒込から三十分も歩いた西ヶ原というところにあるのよ。学生数も極端に少なくて、知る人ぞ知るの目立たない大学。でも、十年ぐらい先輩に、詩人の中原中也がいるわ」
「中也! 中也は東外大だったのか」
「フランス語学科。ふつうの成績で昭和八年に卒業してるわ」
「日本一の詩人だ。かつ奇人だね。小林秀雄に恋人を奪われたのに、その女の引越しの手伝いをしてやってる。女が小林と別れて、次の男に子供を産まされると、その子を猫っかわいがりにかわいがる。一日預かったりもするんだ」
「すっかり自分を捨ててたのね。キョウちゃんに通じるものがあるわ」
 頭を私の肩に預ける。
「……サッちゃんは、いつもカメラの中心を避けるように立ってるね」
「もともとスターの柄じゃないから。分を知ってるっていうか。スター的な人は中心に押し出されるものよ。キョウちゃんなんかいつも中心だったでしょ。そういう星のもとに生まれた人はどんな集団にもいるのよ」
「ぼくもいつも端っこだったよ」
「遠慮したのね。じゃなきゃ、嫉妬で端に追いやられたとか」
 私は写真を睨み、
「真ん中にいるやつ、そういうオーラを持ってるふうには見えないなあ。押しが強そうではあるけど。真ん中にいたがるやつを人は真ん中に置いてやるものだよ」
「スターでなくても?」
「それなら、なおさら」
「わかった! そう思われたくなくて、キョウちゃん、人の中心に飛び出さないのね。ほんとのスターがそんなふうに思われたら頭にくるものね。私たちとは、ぜんぜんちがう気持ち。自分の輝きを隠そうとする気持ちよ。でも、どこにいても光の圧力で押しのけちゃう。私たちは分相応の場所にいたがるの。キョウちゃん! 好き! 大好き」
 彼女は歯が浮かないのか。私の視線はアルバムから逸れる。サッちゃんはとつぜんソファに私を仰向けにしてズボンとパンツを引き下ろすと、思い切り咥え、舌を這わせる。すぐに可能になると彼女はわかっている。私の醜悪な習いだ。彼女は愛の象徴と思っている。
「ああ、うれしい。今度はイカないでね。恋人がかわいそう。とっといてあげて。私だけイク。すぐ終わるから」
 片脚を床に下ろし片脚をソファに残して跨る。いつもの慎ましさに似合わず、激しく陰阜を前後させる。
「あ、愛してる、あ、イク! 好き好き、ああ、イクー! やだやだ、気持ちいい、だめだめ、すぐイッちゃう、あ、 だめだめ、イク!」
 ひたいに汗の粒が噴き出て、あえぎで乾ききった喉から絞めつけられたような声を出しつづける。ついにグンと一度尻を落とし、飛び離れて、板床にうつ伏せにドウと倒れた。
「あ、イク、イクウウウ! と、止まらない、キョウちゃん、抱いて、抱き締めて!」
 私は裸の下半身を曝したまま、何度も跳ね上がる尻を押さえこむように覆いかぶさった。尻が何度も腹を突き上げる。たまらず後ろから、深々と挿入した。跳ねる尻と、緊縛してうごめく膣の往復でたまらない快感だ。
「ああー、だめよ、だめ、キョウちゃん、だめ、キョウちゃん、出しちゃだめよ、こ、恋人が、やだァァ、イク! 終わんない、終わんない、イクウ!」
 強く射精した。抜き取り、そのまま仰向けにする。サッちゃんは陰阜を何度も突き上げながら、愛液を前方に噴き出す。何度目かに腰を突き上げたとき、尻をぶるぶるふるわせて精液といっしょに明らかに小水だとわかる液体を高く、多量に噴き出した。
「ああ、恥ずかしい、恥ずかしい!」
 上半身と陰阜の痙攣が止まず、うう、うう、とうめきながら、小水を飛ばし、開脚して尻を持ち上げる。うーんと腹を縮め、太ももを小刻みに痙攣させながら尻を床に落とす。するとそれが刺激になってふたたびエビ反りになって全身の痙攣が始まる。小便が噴き出す。私は浴室にいき、バスタオルを持ってきて、床やソファの下、テーブルの下を拭き、精液と小便にまみれたサッちゃんを拭いた。そのあいだも彼女は痙攣しつづけている。自分で脚をよじってなんとか止めようとするのだが、止まらない。タオルが重くなったので、もう一本取りにいった。
「ごご、ごめんなさい、ごめんなさい! そんなことさせて」
 サッちゃんはぜいぜい呼吸しながら努力して起き上がろうとする。腹が収縮する。小便の量が少なくなってきた。安心する。床に散った分を拭き取り、かなり遠くまで飛んでいた小便も拭き取る。ビクンビクンと胸と陰阜だけの痙攣になった。ガニ股に開いていた脚が伸びる。
「よかったね、収まったようだね」
「ごめんなさい。たいへんな思いさせて。……嫌いにならないでね」
「敏感すぎるのは、女として名誉じゃないか。これからは、出そうもないときも、無理にオシッコしといたほうがいいよ」
「ええ、そうするわ。でも、痙攣が長くつづくのは止められないと思う。そういうからだになっちゃったみたい」
「女神がそうだよ。そのあいだ、抱き締めて、ときどき目と目を交わしながら、ずっと挿しこんどく」
「痙攣が五分じゃすまなくなっちゃう」
「ぼくは楽しいよ。いつまでも気持ちよくて」
「ありがとう!」
 渾身の力で抱き締めてくる。
「さあ、からだを洗おう。しばらく逢えないから、丁寧にね」
「はい」
 風呂にいって、どっしり尿と精液を吸ったタオルを湯殿に投げだす。念入りにシャワーでからだを洗い合う。サッちゃんはたび重なる快楽に疲れきっているけれども、数分前よりはずっと晴れ上がった表情で、
「顔さえ見せてくれれば、ほんとうは何もしなくても満足なのに、どうしてもこうなってしまいます。重い気持ちにならないでね」
「ぼくは女相手に重い気持ちというものを感じたことはないんだ。女が気をやると、ホームランを打ったときと同じような爽快感がある。遠慮しちゃだめだよ」
「ええ。……恋人にあげる分、残ってる? 心配だわ」
「だいじょうぶ、あと確実に一回はできる。心配しないで」
 風呂から上がって、バスタオルで私と自分のからだの水気を拭き取りながら、
「愛があるのに、からだが鈍感な女っているかしら」
 いっしょに箪笥の置いてある部屋にいき、おたがい新しい下着をつけた。
「ご主人に対する自分のこと?」
「ええ……」
「むかしは愛してたんだね。でもだんだん愛がなくなった。それだけのことだよ」
 サッちゃんは納得顔でうなずき、
「愛がなければセックスに嫌悪感が混じるし、子供を産むためと割り切って多少の快感を得ても後味が悪くなるでしょうね。私の結婚生活がそうだったわ。だから気が遠くなるほど長いあいだ、セックスをしなかったのね」
「そうだと思う。まず愛があって、からだが生理的に奇形でなければ、男と女はうまくいく。ぼくが幸運なのは、ぼくの愛する女が、みんな人並外れて敏感なことだ。それは愛情につけ加わったボーナスというだけのことで、愛情の本質とは関係ない」
 サッちゃんはニコニコして、
「聞いてるだけでホッとします。キョウちゃんの心の広さがわかるから。そして、キョウちゃんにボーナスを与えられるからだを持って生まれてきたことがうれしい。あんなふうにみっともなく乱れても、キョウちゃんにいやがられることがないって安心できますから。……ああ、生理があったらどんなにうれしいか」
 充実した肉体の関係に、サッちゃんの夢が割りこんできた。彼女はトモヨさんと同じように、いつもさびしい時間をすごしている。実際のところ、たとえ奇跡的に生理が訪れて妊娠したとしても、彼女の夢はたぶん悪夢になるだろう。彼女にはすでに築き上げた家庭がある。何も破壊せずにすんだトモヨさんとは事情がちがうのだ。しかし、懸命に生きていて、言葉のほとんどが信頼できる捨て身の人間に酬いがないのは悲しい。
        

         十二
         
 雨が大粒に変わったので、サッちゃんに男物の傘を借りた。
「愛してるわ、キョウちゃん。くれぐれもからだに気をつけてがんばってね」
 イチイの大木を見上げながら傘を差す。サッちゃんに手を振る。水色の小屋はきょうが最後だと思って、傘の陰から並木の梢を見上げながら歩く。梢の上に灰色の雨空がある。
 ふと、人びとの理想の単位である家庭というものを思った。妻と子と習慣に愛撫される人びとの孤立した人生。団欒の幸福。家庭を持たない人びとの人生が彼らに比べて不幸だと言えるだろうか。幸不幸の意識があろうとなかろうと、人生はそのどちらかの要素を適当に含む混合物だ。人生がそもそもその混合物でないと感じたら、人は不気味な思いに襲われるだろう。混合物で飽き足らず、人びとは人生を過剰な幸福と過剰な不幸に分類しようとする。まるで人生は、福の神か死神の賜物であるかのようだ。多過ぎもしなければ少な過ぎもしない。それが空しければ、率先して死ぬしかない。
 傘を閉じ、水色の家の戸を叩くと、さわやかな返事が返ってきた。ドアを開けると、吉永先生は卓袱台で大家とにこやかな顔で茶を飲んでいた。
「あ、キョウちゃん、おめでとう! いよいよプロ野球選手ね」
「ありがとう。あの水原監督がわざわざ契約に立ち会ってくれた」
 大家が眼鏡を押し上げ、
「むかし巨人軍の監督だった人ですね」
 いつもの冷たい雰囲気ではない。
「そうです。ジャイアンツを八回もリーグ優勝させた人です」
「神無月さん、あなた、東大奇跡の優勝の立役者だったのね。驚きました。単なる遊び人の東大生だと思っちゃって、いままで失礼をしたわ」
「遊び人ではありませんが、行動は似たようなものです」
 先生が、
「似てないわ。天と地ほどもちがいます」
「吉永さんの恋人が、そんなすごい人だなんてぜんぜん知らなかった。吉永さんは駆け落ち同然の気持ちで上京してきたようですよ。勇気があるわ。勇気が報われてほんとうによかった。うちの息子に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいですよ。これからもお二人、山あり谷ありでしょうけど、がんばって、手を取り合って生きていってね」
「はい」
 吉永先生の素朴な説明を大げさに潤色したようだ。吉永先生はもちろん、カズちゃんも、節子も、法子も、素子も、だれも私と駆け落ちなどしていない。私の上京に合わせて、彼女たちの自然な心に従って〈移住〉しただけだ。ただ、私と命運を共にするための覚悟の移住だと考えると、駆け落ちと似た感じを与えるかもしれない。
「こんなふうにひょこひょこ歩き回っててだいじょうぶですか」
「だいじょうぶです。マスコミがむやみに追いかけたり群がったりしないように、球団側が配慮してくれたようです。東大のときと同じです。しかし、どんな営利集団もマスコミと協力体制をとるのが基本方針です。ぼくの場合、その例外というわけではないんですが、多少方針を緩めていただいたわけです。芸能記者は防ぎ切れませんけど、野球選手は芸能人ほどツヤっぽいニュース種にはなりません。がんらい芸能人でないので安心でしょう」
「特別待遇ね」
「ドラゴンズでぼく一人特別な保護を受けることはできないとよくわかっています。しかし、野球に集中するために、自分なりに、報道と接するのは球場内のインタビューだけという姿勢を通すつもりです」
 面倒くさいので、当てずっぽうをしゃべる。
「そんなにマスコミが嫌いなんですね。ふつうは有名になったことを喜ぶものだけど」
 先生が、
「潔癖な人だから、駆け引きのある世界に近寄りたくないんです」
「孤独な野球選手なのね。野球一筋」
「ホームラン一筋です。十打席から二十打席に一本、理想的なホームランが打てれば最高です。その一本を追い求めて、また打つ。切りがない」
「あ、そうだ、キョウちゃん、日赤を受けるって話、履歴書一本で採用ですって。病院の事務局から合格の通知がきました。十七日の面接も、もうしなくていいんですって」
「よかったね、ホッとした。これで、いろいろな部署で働けるようになる。能力を最大限に発揮できるね」
「ええ、お仕事は十二月一日から。ほんとに節子さんの口添えのおかげ」
 大福が卓袱台に載っていたので、先生に並びかけてあぐらをかき、図々しく一個つまんだ。
「いちごが入ってる。めずらしい」
 先生が口の粉を指で拭ってくれた。
「仲のいいこと」
 大家があらためて頭を下げて立ち上がり、
「この家ではお二人の最後の夜でしょうから、大事にすごしてね。引越ししても、たまには遊びにきてちょうだい。それじゃ、おじゃま虫は退散します」
 丁寧な辞儀をして出ていく。大福をもう一個頬ばる。先生は茶をついだ。
「三カ月後に私も名古屋ね―」
「いよいよだね。新しい出発、おめでとう。花岡病院の人たち惜しまれただろう」
「ええ。私も少しさびしい。あと二週間お勤めするんですけど、二十二日の金曜日に婦長さんたちが送別会をしてくれることになって」
「半年以上、ほとんど孤軍奮闘で老人たちの世話をしたんだものね。病院側としては手離すのは残念この上ないだろう」
「少しお年寄りにガッカリしたこともあって、私としては早く去りたい気持ちになってたの。老人の医療費って、自己負担が少ない分、国の負担が大きいんです。病院のロビーが老人たちの井戸端になったり、病院は病院で過剰な薬の給付をして国に請求したりして、まるで設備の悪い養老院化してしまう。老人がふところを痛めない居場所を見つけちゃうと、家族はほったらかしにするし、病院もうるさがって、真剣に面倒を見なくなってきます。人間はもっともっと覚悟を持って、若いころから、自己負担に耐えていけるような資金と、人から尊敬されるような人格を築きあげないと、年とって病気をしたり動けなくなったとき、だれもまじめに面倒を見てくれないわ。老人は尊敬されないとだめ」
 私はただニコニコ聴いている。野球以外は、すべて〈わかる〉だけの不得意分野だ。
「あら、ボタンが取れかかってる」
 キクエは私のワイシャツの袖ボタンを指でつまんで引いた。すぐに取れた。ワイシャツを脱がせ、水屋の上の小物納れから取り出した鋏で糸屑を切り、縫いはじめる。端座した背中が愛らしい。
「武蔵野日赤ではどういう仕事をするの?」
「最初はこまごまとした雑用じゃないかしら。最初の何カ月かは仕方ないわ。二月の正看試験に通ったら主な部署が決まるでしょうけど、そのころには名古屋の日赤に異動してます。十七日は面接予定がなくなったので、節子さんと素子さんが武蔵境をいっしょに歩いてくれることになったの。引越しは二十四日」
「カズちゃんは?」
「キョウちゃんと十五日から十八日まで旅をしてくるって言ってました」
「そうだった。前から約束してたんだった」
「だめよ、そんな大切なこと忘れちゃ。二十四日は手伝ってくれるそうです。私たちも順繰り、一生に一度の旅をキョウちゃんにしてもらおうねって、節子さんと話したんです。そのときはお願いね」
「一生の猶予をもらったら、かならず実現するだろうな。約束するまでもないさ。いい一戸建があるといいね」
「慎重に見つけます。何も心配しないで」
「うん。ぼくも吉祥寺に移ったし、法子も吉祥寺に引っ越した。引越しラッシュだね」
 先生は糸を歯で食いちぎり、
「はいできました。しっかり縫いつけたわ」
 ワイシャツを鴨居の衣桁に掛ける。
「高円寺に三人、吉祥寺に二人、武蔵境に二人。七人。みんなで名古屋移住するのは壮観ですね。あ、睦子さんを入れると八人」
「トシさんのことも知ってるんだね」
「和子さんに聞きました」
「トシさんは移住しないよ」
「脚の悪い女の子、どうしてるかなあ。連絡あります?」
「電話があった。家族ぐるみで来年の春に逢う約束をした。キクエも会ったっけ?」
「大瀬子橋の家の前で、菅野さんの車が停まったときにチラッと。約束以来連絡してこないということは、きっと、キョウちゃんに煩わしい思いをさせないようにしてるのね」
「気丈だけど、神経のこまやかな女だからね」
「あの子のご両親の決断はすばらしいわ。キョウちゃんを心から認めたのね」
「娘の幸福を考える親だったというだけのことだよ。ふつうの親は、子供の幸福よりも体面を重んじる」
「そんなからだで、働いてるのも立派ね。大学にもいかずに……。ご両親に経済的な迷惑をかけないようにしてるんだわ」
「大学にいく気はなかったと思う。自分の生き方を人生効率の点から捉えてるんじゃないのかな。大学に入ったからって、自分を世間に売り出せるわけじゃないものね。働いたら売り出せる。つまり、自立できる。それは局部的な効率の話だけど、大局的には、彼女には深い諦念があるんだ。生まれた人間はすべて苦しみ、そして死ぬことに決まっています、私は喜んで苦しみます、そして喜んで死にます。そんなふうに考えるのは人生の最大効率と言えるね」
 先生の温かく湿った手が私の手を取った。
「ほんとに人の気持ちを細かく考えてあげる人ね。キョウちゃんは八面六臂の活躍をしてるけど、その活躍のせいで疲れてしまったら元も子もないわ。私たち女のことは、適当に放っておいたらどうかしら。きょうだって、こうしてきてくれたのは、とてもうれしいんだけど、なんだか胸が苦しくなるの。キョウちゃんには野球をするという大切な仕事があるのよ。それがいちばんだって、みんな知ってます。もちろん本も読まなければいけないし、文章も書かなくちゃいけない。でも、プロとなったからには、練習も試合もしなくちゃいけないし、鍛錬の仕方もちがってくるでしょう。毎年、契約や何やかやで、目の回る忙しさにもなるでしょう。私たち、電話でそんなことばかり話し合ってるの。そりゃキョウちゃんに抱いてほしいのはやまやまですけど、肉欲に負けてそんなわがまま言ってたら、キョウちゃんを護るどころか、殺すことになるって」
 彼女たちは不気味な素質を持って寄り集まった同一人物だ。私は彼女たちを群体としてイメージすることがときどきあるけれども、それはイメージだけに留まり、一人ひとりをこの上なく熱愛していて、けっして失いたくないと思っている。
「ぼくのことは心配してくれなくていいよ。島流しを食らっていたときでさえ、ぼくはちゃんと勉強したし、本を読んだし、詩を書いたし、もちろん野球もやった。律儀にセックスもした。一生こういう生活を送るつもりだ。自分を過信はしていない。疲れたときはきちんと自制する」
 私の手を握っている先生の小さなぷっくりした手をとった。頬へ持っていく。膝をさする。スカートの奥へ手を差し入れる。彼女はうれしそうに身をよじり、
「ね、逢えばこうなるでしょ。キョウちゃんの疲労がどんどん溜まっていくの。女なんてこうなった瞬間に、もうからだが自動的に快楽だけを求めちゃう。キョウちゃんの疲れなんか、考えられなくなっちゃうの。許してね」
「そうじゃないと、ぼくも逢いにきた甲斐がないし、いたたまれなくなる」
「待って、お蒲団敷く。あとでお鮨を食べにいきましょう」
 私はトシさんの作法を思い出しながら、大福を食べた口を茶で漱いだ。二人裸になり、枕を並べて話をつづけた。キクエは、
「際立った才能を持ってない人間は、肩書を整え、ホワイトカラーの暮らしをするしかないの。ブルーカラーでもいいんだけど、女には無理。ホワイトカラーでやっと自分も生きていけるし、キョウちゃんも見守れる」
「ぼくは結婚という慣行を斜に見ている人間だから、ぼくのそばで生きるにはそういう生き方をするしかないと思うけど、見守るなんて堅苦しく考えてくれなくていいよ。応えるという気持ちをおたがい持ち合えば、すべて滞りなく進む」
「そうね。堅苦しく考えてるわけじゃないけど、そう覚悟するおかげで、不安のない生き方ができるわ。キョウちゃんを見守りながら、自分も充実した仕事をし、ときどきうれしいご褒美をもらう。主婦では叶えられない夢よ。主婦の仕事は、家事と、子育て。旦那さんを支えると言っても、一途に愛情を注ぐということではなくて、彼の稼ぎをやりくりして、生活環境を整えることだけ。何もかも形式を強いられた結果よ」



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