十三

「トモヨさんはどうなんだろう」
「トモヨさんは、家事と子育ての意識をあえて持つ必要のない例外よ。直ちゃんは、ある意味、集団で育てられてるようなものだから、キョウちゃんの子供のころとまったく同じ環境にいると言えるわ。おまけにトモヨさんにはキョウちゃんという通い夫しかいないから、生活環境を整える必要もない。だから、トモヨさんは料理という趣味に没頭できるだけじゃなくて、読書も、勉強に挑戦することも、有意義な遊山もできる。つまり、家庭人じゃないってこと」
「社会的な中傷を浴びることもないしね」
「もちろんふつうの主婦も社会的な非難は浴びないけど、非難を浴びて主婦業をしないでいるほうがずっとマシ。非難を浴びると言ったって、不倫をして他人の家庭を壊してるわけじゃないから、非難できるのは、いかず後家という点だけ。それだっていわれのない中傷よ。独身暮らしは個人の自由だもの。子供を産んでも、ふつうの主婦なら何も褒められないけど、独身女なら健気な母親と言って褒められることのほうが多いわ。旦那さんがいないのに、よくやってるって。キョウちゃんと遇ってなかったら、私は一生保健婦さんだった。そして、いずれ家庭に納まる女だった。……怖くなるわ」
 事情を知っている者同士は、たがいにたがいの〈言葉〉を聞くことができる。私は安心して胸を吸い、形のいい陰毛を撫ぜる。腹の筋肉がこまかく動き、反応が始まる。小さなからだに大きな乳房と大きな尻。大切に愛撫する。
「愛してます」
「ぼくも」
 キスをすると先生はかならず、伸ばした手で亀頭をつまむように撫ぜる。そして起き上がり、亀頭を含む。私は後ろ向きの先生の尻を抱えて顔の上に持ってくる。やがて私のものに対する彼女の集中力が薄らぎ、唇が関心の中心から離れ、膝を踏ん張る。尻がふるえ、一瞬止まり、腹の筋肉といっしょにまた激しくふるえる。小さなからだを仰向け、唇を合わせながら挿入する。先生の顔が笑っているような泣き顔になる。
「私たち、死ぬまでいっしょよ。ああ、愛してる、キョウちゃん!」
 男と女は肉体という仕切り窓のこちらとあちらに住んでいる。窓のこちらに永遠があり、窓のあちらにも永遠がある。窓が開き、永遠と永遠が連なり、果てしない悠久になる。
         †
 相合傘で出た。
「寿司屋は会話がうるさい。トンカツ屋でもいこう」
「駅前にあるわ。かつよしって小ぎれいなお店。味は保証できないけど」
「いっしょに食べることができれば、味なんかどうでもいい。憶えてないと思うけど、職員会議で遅く帰ってきた先生の部屋で、味噌汁をすすりながら、ぼそぼそコロッケだけの晩めしを食べたことがあった。うまかった」
「憶えてるわ。キョウちゃん、キャベツの千切りとコロッケに醤油をたっぷりかけて、おいしいおいしいって。私の分もあげたの」
「先生、味噌汁かけごはんを食べてたね。……こんなこともあったよ。夜の十時くらいだったかな、セックスし終わって、先生が下着をつけようとしたとき、廊下に足音が近づいてきて、コンコンてやったんだ」
「ああ、あれ、怖かった!」
「先生は首をクッと挙げて、こっちへくる、学校の人かもしれない、て言うんだよ。まさか、こんな時間に? てぼくが言ったとたん、吉永さん、て加藤先生の声がしたね」
 先生の腕に力が入った。
「その場で私、居留守を決めこむ覚悟をしたの。キョウちゃんにぴったり胸を合わせて呼吸を止めたの」
「忘れない。だって、鼓動が穏やかだったから。肝の据わった女だと思った。留守か……そう言って、足音が遠ざかっていって、先生がぼくから離れたとき、胸に冷たい汗をかいてたのはぼくのほうだった。あのとき、加藤先生は何の話があってきたのかな」
「わからない。きっと、私たちのことが知れたのかもしれないって思った。それならそれで、学校を辞めればいいだけのこと、どうやったって生きていける、何も恐くないって覚悟を決めてたから」
「それで先攻策をとった」
「そう」
 名残の景色を目に収めながら、傘を差し、腕を組んで歩く。上板橋駅を目の前にした横丁を少し入りこんだあたり、園の通りを一つ隔てた道筋に、老舗ふうのトンカツ屋があった。大甕に水仙が活けてあり、黒い格子のガラス戸が涼しげだ。
「いらっしゃいませ!」
 太い声で迎えられる。手前に六席のカウンター。奥が六畳の座敷になっている。八時前の夕食どき、店内は賑わっている。元気な声のわりには人嫌いなふうの主人が黙々とカツを揚げている。彼とは好対照に愛想のいい女将に、私はヒレカツ定食、吉永先生はカツ重を注文した。茶をすすって待つ。
「ああいう無口な店主は好きだよ。上板橋最後の思い出の店になった」
「よかった」
「常連が多そうだね。いい店なんだろう。武蔵境でも、こういう落ち着いた食べ物屋を開拓しよう」
「ええ、節子さんと探しとく」
「節ちゃんにお風呂に入りにくるように誘ったんだって? やさしいね」
「お風呂屋が遠いらしくて」
「いっしょにいった。遠いなんてもんじゃない。不便すぎる。……節ちゃんとキクエがこんなに仲良くなって、いっしょの病院で看護婦するなんて、すばらしい巡り合わせだね」
「ほんと。何もかも不思議」
「ドラゴンズ以外の球団の横槍を避けるには雲隠れするしかないって、中日の球団代表に言われてたから、一人ひとり廻って、先生で廻り終えた。金曜の夜には吉祥寺に戻る」
 よくダシの出ている味噌汁がいちばんうまかった。ヒレカツはキャベツを少し盛った脇にトマトを一切れ添えただけのシンプルなもので、店特製のタレはなく、ふつうのウースターソースをかけた。先生のカツ重と半分ずつ分け合って食う。カウンターに置いてあったスポーツ新聞の見出しがチラと目に入った。

  
巨人神無月を突撃訪問肩すかし

 手に取らなかった。
 雑然とした商店街を相合傘で歩く。新刊書を置いてある書店があったので入る。子供向けの月刊誌、大人向け週刊誌、二、三のベストセラー本、漫画、文房具、塗り絵帖などが置いてある。出る。先生は青果店でリンゴとオレンジを買った。
「今夜のおやつにするわ」
 クリーニング店で白衣を受け取る。
「病院に返す服。長いあいだお世話になった制服よ」
 靴修理店に寄って、二足のローヒールを受け取る。
「引越しまぎわに直すつもりだったけど、早いうちにやっておいたほうがいいと思って」
「ほしいものない?」
「ないわ。ほしいのはキョウちゃんだけ」
「紋切り型だけど、うれしい。あ、肉屋! 夜のおやつにコロッケとメンチも入れよう」
 洋服屋が多い。先生は目もくれない。もともと着飾らない女だ。
「あの白いオーバー買おう。小さな兎ちゃんみたいで似合うよ。断らないでね」
「断らないで、はキョウちゃんの口癖ね」
 安売りの古物を吊るしてある店先から奥へ入り、ショーケースの中のマネキンが着ている新品を眺める。襟もとのふわふわした白いオーバーを指差す。店主がマネキンから剥いで吉永先生に着せかける。
「似合いますなあ」
 実際似合う。先生の目が潤みはじめる。
「二万八千円……」
「オーバーにしては安いほうだよ。これ、ください」
「ありがとうございます」
 きちんと畳み、箱に納れ、紙袋に収める。
「さ、いこう。八坂荘のゼリーのお礼だよ。だいぶお礼が遅れちゃったけど、憶えていた誠意だけは受け取ってね」
 紙袋を手に提げるとき、先生の目から溜まっていた涙がボロリと流れ落ちた。片手で涙を拭った。
 ネオンを抜けると夜が濃くなり、鬱陶しい雨空がなつかしいものに感じられる。
「この商店街、花屋の通りに似てるなあ」
 キクエはいつもの溌溂とした足どりを取り戻しながら、
「ほんと、そっくり。……八坂荘と言えば、真っ先に横山さんを思い出すわ」
「どうなるんだろうね、よしのりは」
「どうなるって?」
「いつも遠くでさびしい思いをしてるんじゃないかな。彼がどこに住んでいるか知らないし、訪ねていったことも一度もない。誘えば出かけてくるし、いっしょに旅もする……」
「八坂荘で会った横山さんて、もっと大らかで、無骨な人の印象があった。不器用に努力をするような感じもあった。でもそうじゃなかった。口先だけ。あの人は隠し芸を身につけて人の目を引きたいだけ。それなのにキョウちゃんのまねをしてクールぶってる。キョウちゃんはクールじゃなく、静かなの。ぜんぜんちがう環境や経験をしながら生きてきたことも忘れて、表面的なことばかりまねしようとする。すごい詩の才能だ、世の中に出さなきゃ埋もれてしまうなんて言って、涙まで流したりするけど、世の中に出た野球のほうはちっとも関心がない。一流のバーテンとキョウちゃんは言うけど、シェーカーを振る姿に品がないわ。仕事に打ちこんでない。腕を磨こうとしてない。自分を平凡だと見切れないから、未来ばかり見て、目の前のことに精を出せないのね。バーテン以外に何ができると言うの? キョウちゃんのまねをして、エロ話を臆面もなくするけど、スケベったらしくて、さわやかさがないわ。セックスの歓びを楽しくて明るいものに捉えてないことが一目瞭然。あの人はさびしいままよ」
「クソミソだね」
「キョウちゃんの周りは、山口さんを除いたら、女しかいないわ。それも和子さんをお師匠さんと仰ぐ飛び切り上等な女ばかり。そういう女に相手にされないということは、横山さんに回ってくる女は下等な女ばかりということになるわね。そんな女は冷酷に男を見かぎるわ。人を愛する才能がないからよ。でもそれは、横山さんの人を愛せない才能に見合ってる。中卒と居直って見得を切ってみたり、かと思えば学歴を偽ったりして、いったい自分をどう見せたいのかしら。そんな男を女は愛せないわ。……キョウちゃんへの友情もほんものとは思えない。虎の威を借るキツネ。利用してるだけ。口は上手だけど、山口さんのように、キョウちゃんのために死ねる人じゃない」
 家が近づいてきた。私は無性によしのりが憐れになってきた。
「人間的に信用できないということだね」
「できないわ。キョウちゃんに本質的な関心がないのよ。関心があるのは、キョウちゃんの冴えた言動と雰囲気。それをなんとか身につけようとしてる。キョウちゃんが書いたものをいくら褒めても、文章を作り出すことがどれほどたいへんか、そこまで考えたら感動で口が利けなくなるはずよ。でもそんなことを考えるのは二の次。ただできあがった活字を暗記して終わり。キョウちゃんは一生懸命彼のことを気にかけて、もっと人格を磨きながら技術の奥義を追究して、日本一のバーテンになれと言ってあげた。乗りかかった舟をしっかり漕がない男なんて、最低」
 チラリと横顔を見ると、それほど厳しい表情ではない。それどころか少し微笑している。悪意で非難しているのでないことがわかる。
「やさしい気持ちで言ってるね。笑ってる」
「……キョウちゃんを愛してる人は、悪い人じゃないわ。でも、少なくともキョウちゃんの十分の一くらいは努力して生きてほしいの。そこに神秘的な雰囲気がともなうかどうかはもう生まれたときから決まってることで、どうしようもないのよ。そこをしっかりあきらめてないと、人間としての品がついてこないわ。山口さんなんか、才能があるのにきちんとあきらめてる。だからあんなに上品なのよ。横山さんがキョウちゃんの親友だと宣言するなら、もっと人格を磨いてほしい。横山さんて、キョウちゃんのこと全肯定よね。親友って、それがほんとうだと思う。でも一方通行の肯定はおべっかにすぎないわ。自分も全肯定されるように努力しなくちゃ親友関係は成り立たない。キョウちゃんを好きな女の人は、みんな、山口さんと同じ気持ちよ。そして、その気持ちに見合った努力をしてる」
 さらに吉永先生は言った。
「女を真剣に愛すれば、女が原因で破綻したら心から傷つくわ。横山さんは傷ついたことがないってすぐわかる。それは男として致命傷かもしれない。女に護ってあげたいという気持ちを起こさせないから。……もう、やめましょ」
 よしのりのことは、だれもが好感を抱きながらも、どこかで不満を抱いている。それが軽んじられることにつながる。だれも集中して彼のことを考えることはない。おおらかな人間だけれども、敬愛されない。ちぐはぐな人格なのだ。
「よしのりのことは温かく見守ってやろう。ぼくを生甲斐にしてるし、これから長い付き合いになると思うから」
「それはもちろんよ。いまの印象が変わることを願ってるわ。あの、嘘くさい印象」
「すべて、社会的な劣等感から出たものだ。社会を忘れられればいいけど、彼にとって社会の設けた基準は絶対なんだ」
「自分が基準じゃないから、自分を鍛えないし、嘘くさくなるのね」
 とても明るく笑った。笑顔の奥の、正直で苛烈な一面を見た。しかしそれは、まぎれもない〈言葉〉だった。


         十四

 予定を一日早めて、七日木曜日の朝、吉永先生のもとから吉祥寺に戻った。家の周囲は閑散としていて、マスコミや野球関係者の気配はなかった。緘という一字で封をされた分厚い手紙がポストに入っていた。村迫球団代表からのものだった。

 先日は、つつがなく中日ドラゴンズ入団の契約を完了させていただき、まことにありがとうございました。首脳部ならびに監督・コーチ・スタッフ一同、心より安堵いたしました。記者会見等のご心労、たいへんなものであったとお察しします。感謝の念に耐えません。
 中部東海地方および関東のラジオ・テレビ等から早速出演以来がドラゴンズ事務所に殺到しておりますが、神無月くんの性格や、ドラゴンズ側の神無月くんに対する待遇などつまびらかに説明して、すべてお断りしました。公式戦の運行と関係しない報道行為は遠慮していただくことにしましたので、どうぞご安心ください。
 吉祥寺近辺の動きもそろそろ鎮静化するころではないでしょうか。月曜日に南海ホークスと読売ジャイアンツが吉祥寺宅を訪れたが留守であった、という情報が関係筋から入ってきました。入団後ただちにトレードをもちかける巨人軍の常套を防ぐことができたとなると、もうだいじょうぶです。世間の反応も、数日にしてかなり好意的なものに変わってきました。十二月の入団発表と春季キャンプの際には、相当数の報道陣が押し寄せるでしょうが、神無月くんの実力および人気の証として甘受されるようお願いいたします。
 火曜日の夕方に飛島寮のご母堂にも単身挨拶にいって参りました。大沼所長はじめ社員のかたがたも交え歓談させていただきました。すばらしい気質のかたがたばかりであることに驚くとともに、神無月くんに対する愛情の深さに感銘いたしました。ご母堂は終始静かにしておられました。契約金はたしかにお受け取りになられたとのこと。野辺地のほうの祖父母様への手続も、現地に赴き、つつがなく完了いたしました。大沼所長いわく、
「ケガあるいは人間関係の躓きで引退したら、飛島建設に幹部社員として迎える。何も恐れず、全力でがんばれ」
 ご母堂の、
「野球のせいで私は捨てられましたよ」
 というひとことに解せぬ思いを抱きましたが、
「人はどの道に進み、何をするのか選択します。もし誤った選択をすれば、もたらされる結果に打ちのめされることになります。お母さんには自分勝手な行動に見えるでしょうが、神無月くんが自分を生かすにはこの選択しかありません」
 と申し上げ、それから神無月くんの才能の偉大さについて口をきわめて説明して、どうにか機嫌を取り結びました。しかし、子供の出世を喜ばぬ親というものを実際目の当たりにして、奇異な思いを禁じ得ませんでした。神無月くんの哀切な心の一端を覗いた思いでした。これまでの諸紙・諸誌・メディアの風説の真実性を、あらためて深く噛みしめたしだいです。にも拘らず、今日かくまで大成なされた神無月くんの情熱と心意気に感服いたすとともに、心から尊敬の念を覚えます。諸氏の言う〈神がかり〉の嘆息を胸の内に率直に納めることができました。
 新人たちは一月上旬の研修会に出席しますが、無論、神無月くんは在宅待機してくださってけっこうです。社の主幹や先輩選手との懇親会もオミットする予定表を提出いたしました。定例行事のボイコットは、コーチ陣には不評ですが、きみという人間に直接会えば、彼らもガラリと考えを変えるでしょう。営利的な勧誘行為や、人間関係の軋轢が神無月くんの最大の鬼門であると了解しておりますので、極力問題の生じないよう全力を尽くす所存です。なお、テレビコマーシャル出演の依頼も遠近を問わずあまた舞いこんでおりますが、すべてお断りしました。貴君はただ、ドラゴンズのために野球をしてくださればよろしいのです。ひいてはそれがファンのためにもなり、球団のためにもなるのです。来年貴君は嵐を呼ぶでしょう。
 なお、中日新聞社および中日ドラゴンズの役員表を同封いたしました。一瞥したら捨ててくださってけっこうです。貴君にはまったく興味のないものでしょう。初めて八坂荘で貴君と対面したときの、緊張感をともなったふるえを忘れられません。吸いこまれるようだとはああいうことを言うのでしょう。これまで出会った貴君の周囲の人びとの行動の清浄さが納得されます。彼らは常に神無月郷に感動して清潔に行動していたのです。長い選手生命を保たれるようご自愛なさることを祈っております。
 ではいずれ。十二月の再会を心待ちにしております。入団式の式次第は十二月初旬に送付させていただきます。
 親愛なる神無月郷さま        中日ドラゴンズ球団代表  村迫晋 拝
    昭和四十三年十一月五日


 母に憎まれてもいない人間が母の機嫌を取り結べるわけがない。憎む相手が直接手の出せない人手に渡って、母は落胆し、心が萎えたのだ。憎しみが彼女の栄養であり、活力の素だった。私は人手になど渡らずにここにいる。あなたはもっと憎しみを増し、私のように抵抗しつづけるべきだ。何らかの形でだれもが罪の報いを受ける。私がプロ野球選手になることがそれだとしたら、あまりにも幸福な報いだ。私はそれですますわけにはいかない。親でも子でもない―その言葉をあなたに返すことを最後の報いにしたい。
 音楽部屋に入り、森山良子の二枚組フォークアルバムを聴く。一枚目のオーブル街がすばらしい。二度聴く。二枚目はさとうきび畑。十一分の長い曲。さとうきび畑の暑い風を感じながら聴く。喪った父―歌詞のとおり、悲しみに胸がざわめく。
 電話が鳴った。ソファから起き上がって、よろよろ廊下を玄関まで歩きながら、下足棚の上の受話器をとる。
「あ、やっとつかまった! 遊びにいっていい?」
 法子からだった。吉永先生で終点ではなかった。
「いいよ、すぐおいで。いや、いまからまずぼくがいく。あとでこっちにくればいい。法子は北口だよね」
「そう、神無月くんと反対口。吉祥寺図書館の裏手の細い道を入って少し歩いたところ。コーポ矢島っていうマンションの三階よ。突き当たりの五号室。二LDK。リビングキッチンがゆったり十帖もあるの。十二帖の洋間には私の机と本棚、それからベッドとテレビとソファを置いて、六畳の和室には神無月くん用の机と本棚を置いたわ。畳以外はぜんぶ焦げ茶色のフローリング。ピカピカ。ベランダは北向きなんだけど、最上階の角部屋だからとっても明るいの。家賃二万五千円。掘り出し物よ」
「先のことだけど、名古屋への引越しがたいへんそうだね」
「引越しはプロがやるからたいへんじゃないわ」
 私は引越しを一人でやる手間を考えると体調が悪くなるほどの苦行だけれども、引越しのプロというのは力持ちで手品師なのだろう。この世のさまざまな難行苦行は、金を払ってそれなりの手続を踏めば、お助け人がつつがなく完了してくれるようになっているらしい。そのほとんどの手続きはだれもが知っていることで、たとえば引越し程度のことなら、これまで転々としてきた私も幾度となく経験してきたはずなのに、学習していない。事情に疎い人間には説明するのも面倒だという顔をされたくないので、私も世事のことはあまり訊かないようにしている。
「まだ店に出ないよね?」
「まだまだ、たっぷり五時間以上あるわ」
 シャワーを浴びながら、歯を磨く。新しい下着をつけ、清潔なワイシャツと厚手のセーターを着る。ブレザーに下駄をつっかけて出たが、さすがに足が冷たいので、戻って靴下と革靴を履く。
 青森高校を受けにいったときの、少し獣(けもの)のにおいのするじっちゃの半オーバーはどこにいってしまったのだろう。葛西さんの下宿からの登下校にしばらく着ていたが、引越しを繰り返すうちにどこかへいってしまった。カズちゃんも法子もオーバーを買ってくれたけど、大きなものなのにやっぱりどこかへいってしまった。
 井之頭通りをぶらぶらいくと、老舗ふうの洋品店に、じっちゃの半オーバーに似たようなものがぶら下がっていた。遠目には黒一色に見えたが、近づくと、茶と紺の格子縞が溶け合った高級品だった。獣皮ではなかったが、なつかしくて思わず買ってしまった。一万二千二百円。もちろん獣のにおいはしない。あれはじっちゃの体臭だったのかもしれない。ばっちゃの部屋の炬燵から小便のにおいがしたことまで思い出した。いまでもあのにおいが嗅ぎたくて、女の性器に鼻を寄せることがある。しかしあの独特な饐(す)えたにおいはしない。風呂に十日もいかなければ、ああいうにおいになるのだろうか。原始時代には女はみんな、ああいうにおいをさせていたのかもしれない。
 北口から二百メートルも歩かないうちに大きな図書館があった。その裏通りの二軒目の三階建てマンションの軒壁に、コーポ矢島という看板が埋めこんである。階段で三階へ昇った。いちばん奥の部屋のブザーを押す。チャイムが音楽のように鳴っている。
「いらっしゃい!」
 法子がドアを開けて飛びついてきた。
「あら、すてきなオーバー」
「いま、そこの洋服屋で買った。防寒のためじゃなく、むかしじっちゃにもらったオーバーに似てたから」
「よく似合うわよ。黒のロングも似合うと思うから、今度買っとくね」
「いいよ。前に買ってもらったのはなくしちゃった」
「あら、私、買ってあげるって約束したことはあったけど、買わなかったわよ。相変わらずオトボケ屋さんね。和子さんに買ってもらったんじゃないの? きっと高円寺にあるわよ。見て見て、ほら、神無月くんの机」
「ちゃんと左から光を採ってるね。いい机だ。これ、おそろいの本棚?」
 六畳の壁に同じ焦げ茶色の材質の本棚が立ててある。まだ一冊も本は立ててない。
「そう。アイヌの手造りですって。ちゃんとした家具屋さんで買ったの。一組しかなかったのよ。こっちきて」
 十二帖の洋間へ連れていく。大きな窓がまず目に入った。樹海荘で見慣れた机が窓辺に置いてある。机の右の壁際に新品のセミダブルのベッドを据え、ベッドの足もとに長めの黒いソファを、机の背側の壁に接してテレビが置いてある。センスのいい配置だ。テレビの隣の自分用の書棚には、読書家になりつつある彼女が買い集めた本が立ててある。いっとき見ないうちに一段と冊数が増えている。入口の脇壁には一間幅の造りつけの衣装箪笥が穿(うが)たれていて、それが尽きたところに鏡台が置いてあった。
「テレビは、ビクターのビクトロンていう最新式のにしたわ。白がきれいなんですって。ほかのこまごました家具はおかあさんが送ってくれることになってる。このあいだは服をたくさん送ってもらったから、今度は家具。来週、おねさんとまた出てくるって。よしえさんもいっしょよ」
「へえ、あの人が。なつかしいな。年とったろうな」
「そりゃそうよ。女は三十過ぎたらお婆ちゃん」
「じゃ、あのころから、お姉さんも、よしえさんもお婆さんじゃないか。お姉さんはいま三十六、七、よしえさんは四十くらいかな」
「すごい記憶力ね。お姉さんは今年三十六、よしえさんが三十九、お母さんが五十四。東京にきたら、みんなで神無月くんのお家にいっていい?」
「もちろん、いつでも」
「電話していくから」
「気を使わなくていいよ。今月は十五日からカズちゃんと二、三泊の旅をするだけで、ほかに何の予定もないから」
「いいなあ。いつか私ともお願いね」
「もちろん。素子とも約束してるからあっちが先だ」
「素ちゃんといっしょにいってもいいわよ」
「素子が了承すればね。ところで、風呂はどうなってるの」
「それなのよ。ユニットバスなの。湯船に二人入れないわ」
「そうか、残念だな。二人で入りたいときは、ぼくの家にくればいい」
「うん」
 ベッドに乗って大きなガラス戸を引き、北向きのベランダを覗く。簀子(すのこ)を敷いた床に丸テーブルと籐椅子が三脚置いてあり、ベランダ全体を透明なプラスチックの波屋根が覆っている。
「広いなあ。夏は涼しそうだ」
「遠征でこっちにきたら寄ってみてね。蚊取り線香でも焚いて、ビールを飲みましょ」
「―そんな暇はないだろうな」
「そうよね、ちょっと残念」


         十五

「お店の調子は?」
「こわいぐらい順調。来年の一月から十二月までの一年間、毎月売り上げの三割を入れるという条件で、お店の権利を三百万で譲ってもいいって」
「オーナーに言われたの」
「そう」
「どうするの」
「電話で相談したら、おかあさん、荻窪の一等地でそこまでやれるならだいじょうぶだろう、権利買いなさいって、すぐ二百万送ってくれた。私も貯金から百万出して、弁護士さん交えて、来週手続することになってる。向こう一年間というのがミソだけど、たとえ売り上げが少なくても、三割渡せばいいだけだから。諸経費がこちらの持ち出しになっちゃったら、店を売ってしまえばいいのよ。いまの調子だと、そういうことにはならないと思う。おかあさんの財産からすれば、三百万や五百万は痛くも痒くもないお金だから、あの固いお姉さんまで賛成してくれたの」
「ほんとによかったね。まだ十九歳なのに、すごいものだ」
「これからどんどん儲けるわ。神無月くんの将来のために」
「……寄ってたかって面倒見られてるという感じだな。神さまがぼくに褒美を無理やり押しつけてる。いつか反動がくるんじゃないか」
「こないわよ。そういう月並みなことは神無月くんには起こらない。いまが不幸だったころの反動なのよ。足して引いて、ゼロ。それに、反動がもう一度きたとしても、神無月くん、ぜんぜん恐くないくせに」
 ベランダから冷気が入ってくるので、窓を閉める。
「再来年の一月には、三千万円くらいで権利を売ろうと思ってる。一流の店にして渡すわけだから、もっと高く売れるかもしれない。どう? 新しい家は」
「うん、いい住み心地だ。東京の終の棲家ができた。名古屋にもカズちゃんのお父さんが終の棲家を建ててくれるし」
「終の棲家だらけじゃないの」
「ジプシーのぼくらしいよ。どこも終の棲家だ」
「神さまにはみんなでお家を建ててあげなくちゃ。お寺や神社は神さまのお家でしょ。お腹すいてきちゃった。引越して一週間だから、インスタントラーメンしかないけど、食べる?」
「食べる」
 法子はいそいそとキッチンに立った。
「この次は冷蔵庫をぎっしりにしておくわ。素ラーメンよ。野菜もないの」
「いいよ。じゅうぶんだ」
 粉スープに入っているネギのかけらまで噛みしめて麺をすすった。残ったスープは、法子が冷やめしを入れて茶漬けのようにして食った。
「お店に出たら、食べられないから」
 肩をすくめて笑う。
「じゃ、ぼくの家を見にいこう」
 黒い半オーバーをはおった私に比べて、どっしりした赤いオーバーを着こんだ法子はとてもゴージャスに見える。化粧を落とした素顔が少女のようだ。小脇に赤いバッグを抱えている。
「このあたり、ホテルが多いね」
「そう、少し怪しい場所よね。だからあのマンション掘り出し物になったの。でも、ぜんぜん気にならない。ほとんど人通りがないから」
「どのホテルもギラギラして、セックスだけって感じだね。どんな人が入るんだろう。連れこみにしては高そうだ」
「一度見たことがあるけど、年とったお爺さんと化粧の濃い女が入っていったわ」
「侘びしいね。そんなお爺さんもセックスだけはやりたいんだと思うと」
「考えただけで気持ち悪くなる」
 吉祥寺の駅前から御殿山の区域に入る。緑が多い。
「法子はきれいだね。山口が、神無月の女はみんな天女だと言ってた。ほんとにそうだ。輝いてる」
「神無月くんのおかげよ。このあたり、高級住宅地? なんだか近寄りがたい雰囲気ね」
 あそこだ、と私は指を差した。
「なにこれ! その不動産屋さん、すごいお金持ちなの」
「この家をくれてもビクともしないくらいね」
 法子は家の中を、ため息を洩らしながら、玄関から離れまでひととおり見て回った。
「家具もめちゃくちゃ揃ってる。ふうん、冷蔵庫は和子さんが詰めてくれたのね。今度きたとき、この食材で何か作ってあげる。ほっといたら、神無月くん、賞味期限を切らしちゃうもの。一応洗濯機に洗い物が入ってるわね。感心、感心。中身、もう一度水洗いしてから干してね。においがつくから。そういうことも毎日の楽しみにしてしまいなさい。いくら女がたくさんいるからって、毎日きてもらうわけにはいかないでしょ」
「法子以外は、みんな遠いしね。大家さんが女中を雇ってくれた。来週の月曜日からくる」
「主婦?」
「独身の四十八歳」
「惚れられるわね。神無月くんが気に入ったら、たぶんそういう関係になると思う。遠慮しないほうがいいわよ」
「法子もそう言うんだね。みんな心が広い」
「神無月くんはドロドロ嫉妬されるのは似合わない。好きな人に似合わないことはさせたくないでしょ。これ、マンションの合鍵、渡しとくね。私がいないときはこれで開けて入って、本を読むなり、寝るなり、適当に。こっちの家の机に飽きたら、気分転換にマンションのほうのアイヌの机で勉強すればいいわ」
 ポップスを何曲か聴かせた。シェリー、恋を教えて、想い出の東京、ドント・ウォリー・ベイビー。馬鹿の一つ覚え。
「音楽っていいわね。私も小さなステレオ買おうっと」
「JBLの小型スピーカーと、サンスイのアンプを買うといい。ぼくも聴いてみたい」
 オーバーを脱ぎ、肩を寄せてきたので、唇を吸う。
「……きょうはアレだからがまんする。好きよ、死ぬほど愛してる」
「いつもそう言っててね。生きる支えだから」
 ステレオのラジオを点けにいく。胸をえぐるメロディが流れ出した。
「いい曲だな!」
「フォーク・クルセダーズのイムジン河。酔族館のジュークボックスにも入ってるわ。今度レコード買ってきてあげる」
「歌声に魅力はないけど、すばらしいメロディだ。いま買いにいこう。LPにいい曲が入ってるかもしれない」
「じゃ、いきましょ。ちょっとトイレに寄ってく」
 バッグを持って恥ずかしそうに廊下へ出ていった。
 暮れかかる吉祥寺通りから繁華街へ。出店を出しているレコード店があった。クルセダーズのLPはなく、イムジン河のシングル盤だけを置いてあった。三百七十円。買う。圓生が九枚組のボックスで売られていたので、それも買った。二万円。
「神無月くんの根っこを覗いた感じ。上品な教養のもとね」
「小さいころからラジオで育ったから、文化の表面を嘗めてきた感じかな。浪曲や講談もときどき聴く」
「休まないアンテナね。小腹がすいたわ。インスタントラーメンだけじゃ、からだがもたないわね。ちゃんと食事していきましょ」
「知ってるのは、オリーブの樹だけだな」
 オリーブの樹にいく。私はボンゴレ。法子にはミートソースを勧める。
「おいしい! なにこれ。こんなおいしいスパゲティ食べたことない」
 ボンゴレはいまひとつだった。ミートソースだけがうまい店だとあらためてわかった。フランスパンを三切れずつ。
「ああ、おいしかった。これで一晩もつわ。神無月くんもだいじょうぶね」
「あしのたの晩までだいじょうぶ」
「だめよ、朝も昼も食べないと」
 井之頭公園に入る。しばらく走っていないことを思い出す。犬を連れている女が多い。右手の小径へ入り、湧水のお茶の水を眺め下ろして引き返し、七井橋から弁天堂を見やる。樹木や草のほかに見るものはない。
「紅葉が始まったね。しっとりしてる。モミジ、桜、イチョウ、ケヤキ。春は池に桜がなだれかかるように咲くんだ。夏はしたたる緑、冬は樹木がつるっ禿げになる。法子は東京に残って、それをぜんぶ見てきてね」
「うん、目に焼きつけてく」
 公園通りに戻る。階段の上りハナの焼き鳥いせやで、皮(シロ)を三本ずつ食べる。
「宮中の正門で待ってたニキビ顔の女の子が、こんな美人に変身して、ぼくといっしょに焼き鳥を食べてる」
「同じことばっかり言ってる。あのお蕎麦屋さんで遇えたのがすべてよ」
「法子も同じことばかり言う」
「千年小学校や宮中のグランドのユニフォーム姿を思い出すわ。光を振り撒いて走り回ってた。キラキラ砂金のような光。いまはダイヤモンド。光が強くて、じっと見つめられない。―とうとうプロ野球の選手になったのね。中日ドラゴンズ。夢みたい」
 丸井のほうへ歩きだす。
「お昼ごはんをいつも作ってあげたいけど、毎日は無理かもしれない」
「いいんだよ。来週からくる女中さんが作ってくれるよ」
「そうだったわね。不動産屋のお婆さんはいくつ?」
「六十二」
「私たちのように幸せにしてあげてね。女は幸せでないとギスギスしちゃう。ときどき洗濯物を調べに顔を出すわ。じゃ私、ここから帰るね。お店に出るために化けなくちゃいけないから。セックスしたくなったらすぐ電話ちょうだい。いっしょにお食事したくなったときもね。お昼ごろならほとんど毎日だいじょうぶ。これ、電話番号。私もしたくなったらなるべく電話を入れるね。電話しないで駆けつけるかもしれない」
「来年から、名古屋へはどのくらいの間隔でくる?」
「三カ月に一度はかならずいきます。名古屋に着いたら電話するね。神無月くんの都合が悪いときは、北村席のみなさんとお話して帰るわ。新幹線だから、いき帰りはあっという間よ。……一年だってあっという間よ」
 法子は丸井百貨店の前から手を振って信号を渡っていった。カズちゃんやトモヨさんにそっくりな後ろ姿に貫禄があった。
 駅前の飲み屋街を避け、ネオンの灯が少なくなるほうへ歩く。かすかにギターの音が聞こえたような気がした。道を渡って薄暗い小路へ入る。背の低いビル街だ。三軒に一軒の割合でレストランやスナックが混じる。やっぱりギターの音がしている。山口の繊細なタッチとちがって、荒い弾き方だ。女の歌声も聞こえる。声のほうへ歩いていく。知らない外国の歌。英語ではない。
 スナックふうの一軒の店のドアが開け放してある。覗きこむと、手入れの悪い長い髪を肩に垂らした女が、カウンターの椅子に坐ってフォークギターを弾いていた。客の一人かと思ったが、カウンターの中にだれもいないので、ここのホステスかママさんだと見当がついた。私はドアの外に立ったまま聴いた。ハスキーないい声だ。息継ぎがすばらしい。女の顔に目を凝らした。頬の皮膚のたるみから、かなりの年配だとわかった。悲しくて魅力的な顔だ。唄い終わって、彼女はチラッとこちらを向いたが、関心もなさそうにすぐ目を逸らした。私は少し声を高めて訊いた。
「すみません、いまのは何という曲ですか」
「アドロ」
 ぶっきらぼうに答える。
「どういう意味ですか」
「アドーア、愛する」
「だれの歌ですか」
「アルマンド・マンサネーロ。スペイン」
「レコードは出ていますか」
「出てない。うるさいわね」
「もう一度聴かせてください」
 女は返事もせずに歌にとりかかった。思いやりのある女だ。さっきよりも丁寧に唄っている。曲もドラマチックだが、声のメリハリがすごい。青江三奈に似ている。私は目をつぶって聴いた。絶えず首に粟が立ち、涙が流れた。彼女が唄い終わると、私は深く礼をして立ち去った。路地を抜ける。いろいろな看板を暗記しようとする。涙で見えない。風が出てきた。足もとに冷たい風を感じるまま新居に帰り着く。離れの机に向かった。
 ―ほんとうに腰を据えて書きだそう! 土の道。風の囁き。私がまだ愛していたころの母。幼いころに見たことのすべて、耳にしたことのすべて、そして目にも耳にも経験したことがないのに幼年時代から夢見てきたすべて。
 目をつぶると、むかし見たものを何から何まで思い出すことができた。目の記憶にはふた色あって、一つは肉体の目、もう一つは心の目の記憶だ。肉体の目はときどき忘れるけれども、心の目はいつも憶えている。まだやっと歩けるか歩けないころから十歳にかけての原始的な記憶を、恐れることなく彫琢しよう。浜辺の砂のように、一度は瞑(くら)い海の底へ波に連れられて沈んでいった記憶。これまで後生大事に段ボール箱に入れて保存していた覚え書きや原稿用紙を机の上に積んだ。中三以来書き溜めてきたものだ。思った以上の嵩(かさ)があった。
 庭に出て、山に積み、紙と紙のあいだに隙間を空け、何枚かを縒(よ)って差しこんだ。あの歌一曲にも値しないゴミの山だ。鉛筆や万年筆の活字が見える。まるで脳味噌が何層にもスライスされ、その切断面にむさくるしいハエたちが這いずり回っているみたいだ。マッチをすった。炎が紙の束を持ち上げて振り動かすと、紙はまるで生きもののように苦痛に悶えた。よじれ、一部分が開いた。皺が伸びて、一瞬活字が見えたりする。薄赤い光の中から二つ三つの言葉が飛び出した。次の瞬間、炎がその滑らかな面も捉えて、数分かけて白と黒の灰にしてしまった。そのあいだ私はずっと炎を見つめていた。稚拙で汚らしい遺骸のそばに身を屈め、激しい喪失感でいまにも涙が出そうになりながら、じっと耐えた。
 五百野(いおの)という題名で、二時過ぎまで原稿用紙を二枚書いた。極端に疲労して、蒲団に倒れこんだ。


         十六

 十一月八日金曜日。七時起床。快晴。気温十四・八度。歯磨きを終えて、フィルターに入れた粉にドリップケトルで湯の先を回していると、居間の硝子戸の向こうの庭を福田さんが横切った。私はケトルをレンジに戻し、居間にいって縁の戸を開け、
「福田さーん!」
 と呼びかけた。
「あら、お帰りになってたんですか。十一日からと言われてましたので、おうちの周りを少し見ておこうと思いまして」
「きのう帰りました。まだ三日も早いですよ。雲隠れは終了しました。どうぞ上がってください。コーヒーをいれてるところですから」
「でも、お客さんがきたら―」
「一、二の球団がここまでやってきたみたいですが、むだ足でした。もうどの球団もあきらめるでしょう」
「新聞にもそう書いてありました。それじゃ、ちょっとおじゃまします」
 庭の戸からサンダルを脱いで上がってきた。
「あら、おヒゲが」
「ヒゲ?」
「ええ、薄っすらと、産毛みたいに」
 私は鼻の下とあごを撫ぜた。少しサラッと感じた。福田さんは台所に入り、私は中断していたドリップのつづきにかかった。
「ついにヒゲが目立つようになったか」
「え? いままで生えてなかったんですか?」
「産毛の赤ちゃんみたいなものは多少……。そうか、この一週間で生えたんだな。きちんとヒゲ剃りをあてないといけないな」
 私はコーヒーカップを二つの受け皿に載せてキッチンテーブルに置き、椅子に腰を下ろす。一口すすった。
「お、苦くてうまい」
 福田さんは立ったまま、
「肌がとても薄くて繊細そうですから、カミソリはだめですね」
「高級な電気髭剃りがあるんです。とうとうぼくもヒゲ剃りが必要になったか。なんだか身が引き締まるな」
「愉快な人。でもこんな年までヒゲが生えなかったなんて不思議ですね」
「プロになったのを機に、体質が変わったかな」
「まさか。……電撃入団の日から、神無月さんのことを書いてある新聞は、ぜんぶ買うようにしてます」
「きょうはどんなことが載ってましたか」
 福田さんは椅子に腰を下ろし、
「悪口めいたこと」
「どんなは」
「慢心・神無月秋季キャンプ回避か。高木守道選手コメント―今後いい方向に進むようにする」
「なるほど、キャンプにも研修会にも出席しませんからね。いい方向って何だろうな。先輩として、足並揃えるように指導するってことかな。ほかには何か書いてありましたか」
「東大のころの神無月さんの遠投力、背筋、握力、それから五十メートル走の数値が書いてありました」
「え? 東大では計ってないよ。推測で書いたな。その数字憶えてます?」
「はい。遠投百二十五メートル、背筋二百五十キロ、握力左右七十五キロ、五十メートル走五秒五」
「末尾がオール五だな。握力がオーバーに書いてあるけど、だいたい当たってる。クサしてるわけじゃないということだね。じつは自分の背筋力は知らないんです。二百というのが多いのか少ないのかわからない。福田さん、コーヒーおいしいよ」
「ありがとうございます。じゃ、この近所の様子も、家の外周りもだいたいわかりましたので、きょうはこれで失礼します」
「そうですか。きょうからやってもらったほうがありがたいんですが」
 パッと顔が赤くなった。
「ですよね。それじゃ、いろいろ一週間分の買い物をして、お昼に参ります」
「日曜日は朝から外出しますのでけっこうです」
「わかりました」
 福田さんは居間の硝子戸から庭へ降りて、いそいそと帰っていった。
 ヒゲを電気シェーバーで慎重にあたったあと、ステレオで圓生の落語を二席聴いた。人情話の『紺屋高尾』と滑稽話の『百川』。非の打ちどころのない天才。
 どの世界にもすぐれた人がいる。うれしい。ここまでの人生にありがた味が出る。しかし、これからの人生の未練にはならない。ゲーテは死の床で、モーツァルトが聴けなくなるのが残念だ、と言った。私は圓生にもモーツァルトにもそこまでの未練はない。カズちゃんと山口と素子と睦子に未練がある。康男にもトモヨさん母子にも法子にも千佳子にも詩織にもヒデさんにも、かれにもだれにも未練はない。野球……野球にも未練はない。四人の喜びのためだけに生きる。
 新しいランニングコースを探りに散歩に出る。錆が噴きはじめた自転車をサイクルショップに牽いていき、ふつうの自転車を二千円引きで買う。
 新車に乗って吉祥寺通りを南下する。すぐに玉川上水に突き当たった。そのまま川沿いを井之頭公園から遠ざかるように進む。人影もさほど多くなく、閑静な家並の中に適度な緑もある。毎朝走るにはなかなかいい道だ。
 小橋のたもとを右折。御殿山通りの標示板。やがて左手の立ち木あいだに白亜の山本有三記念館が見えてくる。電柱に三鷹下連雀とあるので、このまま直進すればたぶん三鷹駅だろう。むらさき橋の信号を右折。橋の名前の由来を福田さんに訊いてみよう。
 成蹊通りという標示がある。中央線のガードまで走る。ガードをくぐり、平沼園前と標示のある信号を右へ曲がる。八丁通りの標示。民家の建てこんだ細くなつかしい道。涼しげな雲と青空を見上げる。人や自転車が多くなる。左手に武蔵野税務署。ふたたびガードをくぐって八丁通りをそのまま進む。井之頭自然文化園の広大な敷地。走りつづけて、吉祥寺通りにぶつかる。戻ってきた。目の前に井之頭公園の森。
 自転車を置いて公園に入りこみ、井之頭池の周囲を走る。周囲が一・五キロだと知っている。一周してふたたび自転車に戻り、のろのろ牽いて御殿山の家に帰り着く。自転車で走った体感は六キロ弱。朝のひとっ走りにはちょうどいい。
 下痢、シャワー。厚手のパジャマを着る。昨夜から五時間も寝ていなかったので、音楽部屋のソファへいって横たわった。すぐに眠りこんだ。
         †
 時計を見ると昼の十二時半。熟睡した。玄関のブザーを鳴らして福田さんがやってきた。清楚な空色のカーディガンを着て、手に大きな布製の買物袋を提げている。薄化粧をして、朝よりも明るく冴えた表情だ。花柄のサンダルを履いているのが愛らしい。
「あ、福田さん、さっそくすみません。きょうは出かけませんから、ゆっくり作ってください」
「はい」
 サンダルを脱ぎ揃え、カーディガンに合ったネイビーブルーのゆるいスカートを揺らして台所に入った。
「立派なキッチンですね。さっきも見て驚きましたけど」
 福田さんはエプロンをしてシンクの前に立ち、調理道具を見回す。大袋から食材を取り出して、キッチンテーブルとシンクの脇に置く。冷蔵庫の中身を確かめる。
「瓶詰め以外のものは捨てますね。傷んでます」
「はい、適当にやってください」
「あの、お使いになって快適かどうかわかりませんけど、フィリップスの電気カミソリを買ってきました」
「買ったんですか! 散財させましたね」
「いいえ。二つあってもじゃまじゃないと思って」
「さっきちょっと剃ったんですけどね」
 福田さんに差し出された箱を開けて、スリーヘッドのヒゲ剃りをあごに当てた。ピリッと痛みが走った。
「ツ!」
「痛いですか? 初めてだから肌に慣れないんですね。しばらくはチョンチョンと押すように剃ったらどうでしょう」
 そのとおりにする。痛まない。
「まだ産毛のようですから、唇のあたりは剃りずらいでしょうね。一週間に一度くらい剃ればだいじょうぶそうですよ」
 私はなんだか、ようやく成熟しはじめたオクテの肉体を興味深く観察されているような気がして、たまらなく恥ずかしくなった。
「一応、部屋を見て回ってください。こちらへどうぞ」
 居間、客部屋、音楽部屋、離れと見せて回る。
「どの部屋も、すごい本の量。あとでお片づけします」
「や、そのまま放っておいてください。散らかしてる配置を憶えてますから。ぼくがいなくて退屈なときは、書棚の本でも読んで時間を潰してください。テレビを観たり、昼寝ををしたり、好きにすごしてください。菊田さんが新築同然にしてくれましたから快適ですよ。あなたのおかげでこの家に命が吹きこまれる」
 福田さんは台所に戻り、食事の支度にかかった。私はキッチンテーブルで二人分のコーヒーをいれた。福田さんは冷蔵庫を空け、捨てるべきものをゴミ袋に捨て、買ってきた食材を詰めていく。
「こつこつ買物をしないといけませんね。……お給料、あの翌日のうちに菊田さんからいただきました。届けてくださったんです。菊田さん、神無月さんのお役に立てることで老後の生甲斐を見つけられたと言ってました」
 手を休めずしゃべる。
「ぼくの母は大正十一年生まれの四十六歳です。田舎の女学校しか出てません。福田さんのお歳で大学出というのは、当時のトップエリートじゃないですか」
「私学ですから、それほどでも。ただ、英語が好きで、専門に教えてくれる大学へいきたくて」
「通訳なんてすごいなあ。ぼくのオジも法務省の通訳官をしてますが、五、六カ国語をしゃべるというとんでもない人です。ところで、下連雀の玉川上水に架かってるむらさき橋というのがありますが、名前の由来を知ってますか」
「御殿山と下連雀の境に架かってる石橋ですね。石橋ですけど、木橋のイメージで作ってます。ムラサキという野草をご存知ですか」
「はい、白い可憐な花。万葉集のムラサキ野行きシメ野行き、ですね」
「ええ。紫式部という名前もそこからとってます。武蔵野は紫草(むらさき)がたくさん生えることや、それで染めたむらさき染で有名です」
「なるほど」
 目玉焼きの油が立てる音、キャベツを刻む音、味噌汁のにおい、塩鮭の焼けるにおい。
「私は英語だけです。難しい本を読むには多少不自由があるんですよ。語学もたしかにその叔父さんやシュリーマンくらいになれば才能と言えるんでしょうけど、私程度の語学力はけっこう見かける技能じゃないでしょうか。ほんとうに才能と呼べるようなものは、天才と呼ばれる人しか持っていないものです。たとえば神無月さんの野球のような、アインシュタインの理論物理学のような、モーツァルトやショパンの作曲のような、バルザックの文学のような、そういうものだと思います」
 澱みなくしゃべる。ときどき、シンクからテーブルに戻って、私のいれたコーヒーに口をつける。それが洒落た感じでなんとなくうれしい。
「福田さんの名前は雅子というんですね」
「その雅子ちゃんという女の子にどういう思い出があるんですか」
 テーブルにできあがったおかずを並べる。私は雅子ちゃんの思い出を手短に話した。
「微笑ましいですね、揺り椅子だなんて。私も小さいころオカッパにしてました」
「かわいかったろうな。男の子にリボンを引っ張られました?」
「いいえ。学級委員をしてたので、敬遠されてました。さあ、食べましょう」
 味噌汁を出し、電気釜からめしを盛る。
「お釜が高級品なので、おいしく炊けたみたいですよ」
 そのとおりだった。
「うまい! めしだけでうまい。目玉焼きが半熟でないのがいい。鮭はこのくらいしょっぱくないとね。ワカメと豆腐の味噌汁が絶品だ!」
 福田さんはうれしそうに、いちいちうなずいた。
「あとで買物してきますね。冷蔵庫を適当にいっぱいにしておかないと、電気が不経済です。甘味飲料は足りてるみたいですから、牛乳、ケチャップ、マヨネーズ、洋辛子……」
「福田さんも食べないの?」
「私は料理をするだけです」
「だめだよ、いっしょに食べよう。一人めしはまずい。食費が足りないなら、もう一万円余分に渡す」
「一人分増えたくらいでは、食費は大して変わらないんです。わかりました。これからはいっしょに食べます。きょうの夕食からそうします。毎日お掃除とお洗濯もします。朝食のあと、二時間ぐらいでできますから。私の用事といえば、月曜の昼、ドライフラワーの集まりがあるだけなので、一週間、ぜんぜん差し障りはありません」


         十七

 お替りのめしを食っているあいだ、福田さんは私の様子を見つめながらぬるくなったコーヒーを飲んでいた。
「ごっそさん。うまかった! 夜はトンカツを揚げてください。いっしょに食べてね」
「はい。私もトンカツ大好きです。お風呂入れましょうか。朝風呂に入るって菊田さんから聞きましたから」
「もう昼風呂ですね。朝シャワーを浴びましたから、机に向かいます」
「それじゃ、私、もう少し買物をして、それから台所を整理して、お掃除と洗濯をしてから帰ります」
「洗濯物は一日分の下着くらいしかないですよ」
「そうですか。でも男のかたなので、汚れ物をどこかに放りこんだまま忘れてしまうことがあるんですよ。押入れなんかも調べて、きちんとしておきます。じゃ、また六時過ぎにきて、お食事の用意をしますね。朝は八時にきます」
「わかりました。下着や衣類は客部屋の箪笥に入ってます。掃除機は風呂の更衣室の納戸。汚れものは洗濯籠に放りこんであります」
「あのう……」
「はい」
「女の人が大勢いらっしゃるとか聞きましたが」
「はい、います。ふしだらなつもりはいっさいなくて、いつのまにかそうなってしまったんです。でも、ここには、ほとんどきません。ぼくのほうから出かけていきます。まんいち女が訪ねてきたら、適当に話でもしてやってください。いい人間ばかりですよ。きっと楽しいと思います」
「菊田さんを見てるだけで、それはわかります」
 ヒゲ剃りのまねごとをしたせいか、少し顔がヒリヒリした。堅そうな女でよかったと思った。危惧していたことは起こりそうもない。
 福田さんが去ると、私は五人分のコーヒーをいれ、ポットに詰めて離れへいった。廊下や部屋に掃除機の音がし、洗濯機の回る音がした。鉛筆を握る。すぐに心が横浜の町並に入りこんだ。
 きのうほどは疲れずに、三枚ばかり書き進んだ。窓に昼下がりの気配が濃くなるころ、足音が渡り廊下をやってきて、ドアがノックされた。
「すみません、このお部屋も掃除しておきたいんですが」
「あ、どうぞ」
 掃除機を持って入ってくる。カーテンを開ける。万年布団を戸の外に出す。私は机を離れ、戸口に放り出された蒲団を福田さんといっしょに渡り廊下の手すりに掛けた。
「やっぱり汚れてますね。机の下がフケや綿ぼこりでいっぱい」
「たった十日のあいだに……」
「引越し前の埃もありますから」
 窓を開け、敷居にも掃除機をかける。
「夕食の後、家じゅうぜんぶ拭き掃除をします。お雑巾持ってきましたから」
 福田さんは渡り廊下に出て、蒲団を手のひらで叩いた。それから部屋に抱えて入り、もう一度万年布団に敷き直して出ていった。私は彼女の明るさを喜びながら、また机に向かった。
 福田さんがトンカツを作っているあいだ、私は五百野をさらに一枚書き進んだ。満足して、台所に出ていく。小盛りのカツ丼も作ってくれるようリクエストし、彼女の料理姿を眺めながらすごした。
 福田さんはどんぶりに小さく盛ったカツ丼にゆっくり箸をつけ、トンカツも私の半分の量しか食べなかった。ほかの女たちとちがって大食いではなかった。
「うまいなあ。蕎麦屋のカツ丼と同じ味だ」
 彼女はカズちゃんと同様料理名人だった。
「ありがとうございます。お料理を作ってあげられるかたができてうれしいです」
「また、あしたもお願いします」
「はい、喜んで」
 私はもう一度ポットにコーヒーを詰めて離れへ去った。福田さんが去ってから、電車で荻窪へいき、トシさんに封筒に入れた十五万円を渡した。客が二組ほどいたので、くどい話をせずに立ち去ることができた。
         †
 十一月九日土曜日。熟睡して六時起床。曇。朝冷えを感じる。ジャージを着、きのう下調べをしたコースをウォーキングからジョギングへと速めていく。どこの沿道もすばらしい紅葉、黄葉。とりわけ井之頭公園が美しい。
 二十五分で戻り、庭で三種の神器、素振り。排便、歯を磨きながらシャワー。下着を替え、新しいジャージを着る。
「おはようございます!」
 七時四十分を少し回ったころ、福田さんがスポーツ新聞を持ってやってきて、朝食の支度にかかる。その間私は新聞に目を通す。ドラフト一色だ。
「きょうはドラフトですね」
「そうですね。あまり興味を持てないけど、どんなやつがチームメイトになるか知っておかないと」
「そうですよ。夕方、新聞買ってきます」
 食後、私にコーヒーを出すと、さっそくバケツに水を汲み、拭き掃除にかかった。ついでに洗濯機を回している。シーツや枕カバーを洗っているようだ。私はポットを持ち、離れに引っこんで、五百野のつづきにかかった。十枚を超えた。しばらくすると、福田さんは離れにも拭き掃除にやってきた。私は椅子から立ち上がり、場所を空ける。屈んで雑巾をかける大きな尻を見ていて、おのずと声をかけた。
「働きながら子供を三人も育てるのって、たいへんだったでしょうね」
 トモヨさんの顔を浮かべながら言う。一人育てるのもたいへんな苦労にちがいない。三人ともなると、苦労を越えて、カオスでないだろうか。彼女は振り向いて言った。
「一人ひとり大切な宝物だと思えば、どうにか毎日の生活は乗り切れます」
「ご主人を愛してたんですね」
「はい」
「だからずっと、孤閨を守ってたんですね」
「はい」
 操も堅い人だ。
「すばらしい。ぼくのような男を軽蔑しないでくださいね。軽蔑されるのはつらいから」
「軽蔑なんかしません。神無月さんは信じられないほどのオーラを発してます。初めて神無月さんのような人を見ました。オーラを発する男も、オーラに近寄る女も軽蔑できません」
 言葉が澱んだ。
「……神無月さん、つまらないことをお訊きしますが、どうして東大にいこうと思ったんですか? 神無月さんの野球はだれが見ても天賦の才能です。あれほどの才能なら、どんな大学からでも、いいえ、どんな高校からでもプロ野球へいけたでしょうに。……多少のことは菊田さんから聞いてますけど」
「母の妨害を受けずに野球をやるには、東大にいくしかなかったからなんです。たとえその強迫観念がぼくの思いこみだとしてもね。もうだれかれにこのことを説明するのは飽きたから、何かのきっかけがあったらカズちゃんたちから聞いてください。三カ月もあればその機会はあると思います」
「だれからも間接的に聞きたくありません。神無月さんの口から話してください。私、黙って聞きます」
「結論だけ言うと、東大合格も、いま野球をやることができるのも、神さまのエコヒイキだということです」
「贔屓の内容を大雑把でいいですから話してください」
 私は中学三年の秋からの一部始終を、誇張も省略もなくありのままに、できるだけゆっくりと話した。山口のギターの絃の響きを耳の中で鳴り響かせながら話した。私の言葉に韜晦も誇張も泣きごとも、一つもなかった。話し終わると、福田さんは涙を流した。
「……一月までの短い期間ですけど、どうかよろしくお願いいたします」  
 私は笑いながら、
「いつまでもお願いするって、ぼくは言ったはずですよ」
「はい、そうでした。うれしいです!」
「ところで、週休は何曜日にしますか」
「え? そんなものはいりません」
「そりゃ、だめです。一日まるまる休むことのできる日があると思うことで、微妙に気持ちが安定するし、いろいろと動き回るうえで役に立つことも多いんです。自然とそれに合わせて用事を足すようにもなります」
「そうですね。じゃ、土曜日にします。翌日が日曜日なので、たまに人が遊びにきたり、食事を誘われたりすることがありますから。でも、ご用があるときは呼び出してくださいね」
「了解」
「じゃ、来週から土曜日はお休みということにします」
「はい。あしたの日曜は、ソフトボール大会なのでお休みにしてください」
 福田さんはうなずき、
「ほかの曜日も、神無月さんがお留守のときは、お掃除とお洗濯だけして帰ります」
「ぼくは気ままに飛び回ることもあれば、何日も籠もることもあるから、やってきても調子が合わないことが多いと思うけど、よろしく」
 福田さんは愛想よく笑うと、そしてバケツを持って部屋を出ていった。
 その夜は、二時まで五百野を書いた。合船場の家の造りや家族の詳しい説明から、城内幼稚園のけいこちゃんの死にまつわる思い出まで、一気に四十三枚。生者は死者に慰められよ、という明るい気持ちで書いた。
 目ヤニのせいでまばたきが不自由になりだしたので、タオルで冷やしながら寝た。翌日の九時まで、まったく目覚めなかった。
         †
 十一月十日日曜日。目覚めると、角天井に光の焔がゆらゆら動いていた。列車が力強く動き出すときの蒸気のように見えた。命が沸騰している。
 九時。蒲団を出ずに、墓のことを考えた。どうして墓のことなんか考えたのかわからない。死のことは思わなかった。ただ、たとえ灰になった身でも、自分の魂のテリトリーをあんな切り石で区画されるのはまっぴらだと思った。
 風呂を入れ、湯船の中で歯を磨いた。湯から上がり、ガラス戸を開け、庭の空気を胸いっぱい吸いこんだ。秋晴れ。いつまでもこの空気の中で生きていたいと思った。山口から電話。
「東西線の最後尾に乗ってくれ。西荻のホームから乗りこむから。十時半くらいな。中から手を振ってくれ」
「オッケー」
 ランニング中止。ジャージの上下を着る。睦子だけに連絡する。秋季新人戦の直前だったけれども、しばらく私に会えなくてさびしい思いをしているにちがいないと思ったからだ。ついでに引越しのことも伝えた。
「忙しい?」
「ぜんぜん忙しくありません。ドラゴンズ入団おめでとうございます! 部室で監督囲んでビールを飲んだんですよ。金太郎がんばれって、みんな泣きました」
「ありがとう。あ、そうか。睦子も中退しちゃったんだ。受験勉強の日々だね」
「はい。でも、秋季新人戦は裏方で駆り出されちゃったんです。レギュラーが一人もいない練習試合のようなものだから、連盟もうるさくないからって。十二日からの新人戦三試合のベンチ裏に入ります」
「精いっぱいがんばってね。吉祥寺に引っ越したよ」
「和子さんから連絡もらいました。きょうソフトボール大会の帰りに寄ります」
 睦子は直接東伏見のグランドにくることになった。
 山口と私はジャージに運動靴、首にタオルといういでたちで、西荻窪で合流し、馬場に向かった。
「ドラゴンズ電撃入団契約か。あの千年小学校の校庭が目に浮かぶ。とうとうたどり着いたなって感激したよ。この一週間、テレビや新聞が騒ぎっぱなしだったが、鎮まったか」
「うん、雲隠れしてるあいだに一、二の球団が訪ねてきたみたいだけど、だれもいないんじゃ対処のしようがないものね。クソと思っても、悪態ついてあきらめるしかない」
「いろいろな球団行事にも参加しない予定みたいじゃないか。しばらくいじめられるな」
「四月になれば一挙に逆転だよ。しかし東大とちがって、プロはうるさいね」
「モラトリアムのない世界だからな。ちょっと心配だ」
 山口の横顔を見ると、薄い唇の上を不安な微笑の影がちらりとよぎった。
「心配してくれてありがとう。一年でも長くやるようがんばる。けさもすごい生命力を感じたんだ。やっていけそうな気がする。きょうは睦子が応援にくるよ」
「鈴木も和子さんに雰囲気が似てきたな。トモヨさんは瓜二つだし、菊田のおばさんもけっこう似てる。酔族館の法ちゃんもこのごろ似てきた」
「……結局ぼくは、一人の女を追いかけてるだけだね。素朴なけいこちゃんとヒデさん」
「それから派生して、美しさの頂点に君臨する和子さん、トモヨさん、鈴木睦子。この三人は似すぎてる。ま、そのほうがおまえも罪悪感がなくていいだろう。俺も安心だ。不思議に節子さんタイプは一人もいないと思わないか」
「いない。いや、いる。今度きた福田雅子さん」
「だれだ、それ」
「菊田さんが雇ってくれたお手伝いさん。金曜からきてる。横浜の青木小学校の福田雅子ちゃんにそっくりなんで、福田という苗字からもしやと思って名前を訊いてみたら同名だった。親族ではないらしい」
「そっちの福田雅子も初耳だ」
「青木小学校に転校したその日に好きになった子だ。節子のように頬がプックリしてるのが特徴でね」
「あとは素子さんタイプ、おまえの言う岩下志麻タイプがほぼ全員だ。千佳ちゃん、ミヨちゃん、加藤雅江さん、文江さん。実の親の文江さんが節子さんに似てるかというと、そうでもないのがおもしろい。まったく別系統は吉永さんだろ」
「うん。上野詩織もあまり見かけないタイプ」
「それと健児荘のおばさんな」
「そうだね」


         十八

 全員高田馬場で十一時に待ち合わせ、西武新宿線に乗った。東武東上線より少しゆったりとした電車だった。中井駅を過ぎるとき、水野が私の知能を測りたいと言っていた話を思い出した。あれ以来連絡してこないところをみると、論文のテーマが変更されたんだろうと思った。頭髪の薄い前田が一人余分に仲間を連れてきていて、十人のメンバーになっている。みんな上下をトレパンかジャージで決めていたが、松尾一人、黒帯を締めた空手衣に下駄を履いていた。新宿線の車中で御池が、
「野球用具一式は現地で支給されます。更衣室はありまっせん。試合は五回の表裏で終わりです。神無月さん、念願のドラゴンズ入団おめでとうございます。こうなったら、正体ばらして、一打席でけっこうですけん、一発どでかいホームランば敵チームに見せてやってください」
 御池が愛くるしい笑顔で言った。田中が、
「契約金六千万円もどうすっとですか」
「ぜんぶおふくろと祖父母にあげた」
「へえ!」
「新聞に書いてあったろが。名古屋に戻るとや?」
 松尾が訊く。
「ああ、来年の一月末にね。二月からキャンプだ。ガンジ搦めになる」
「なんやら、さびしなるの。六大学にもおらんし。神無月のおらん東大なんか応援せんぞ」
 中尾が、
「しかしすごかなあ。人の三倍、四倍の人生を生きよる」
 堤が、
「存在自体がシュールだな」
 御池が、
「そうまとめますか。尊敬して生きる励みにせんとですか」
「ロール・モデルにならないだろう。価値体系から外れてる」
「尊敬することはでくるっしょ」
「そのとおり」
 山口がうなずいた。堤は、
「一方通行に満足できるならな」
「お返しを願っとったら、尊敬とは呼ばんですばい」
 和歌山市長の息子の宇治田はポカンと窓の外を見ていた。前田がその横顔にしきりに話しかけている。
「宇治田省三和歌山市長の善政と言ったら、全国に聞こえてるぞ。具体的にどういうことをしたんだ」
 宇治田は横を向きながら暗誦するように答える。
「長期総合開発計画のもと、保育園、小中高全校にプールの設置、各地に市民体育館およびスポーツ広場の建設、市民会館、市民図書館、市民博物館の増設、市立こども科学館の完成、都市環境整備として浄水場を完成させることにより上水道の安定供給を図り、ゴミ処理施設の拡充、処理余熱による発電、土地区画整理事業、東和歌山駅の拡張、人口増加にともなう住宅難を解消するため市営住宅の建設、以上」
 松尾が、
「おまえ、暗記しとるんか」
「おやじを尊敬してるからな」
 御池の話をちゃんと聞いていたようだ。中尾が、
「こいつ、おやじが当選したときの新聞写真を下宿の机の前に貼ってあるんぞ。アホやろ」
 だれも意見を言わない。言う気にならないのだ。やさしい松尾が、
「宇治田も市長になるとや?」
「なる」
「空手もっと強ならんば。おやじは師範やろが。カラテ市長て呼ばれとる。格好よかのう」
 三十分ほどで東伏見駅に着いた。三百メートルも歩かずに、早稲田大学東伏見キャンパスのグランドに到着。松尾はグランドに入るなり下駄を脱いで裸足になった。前田の連れてきた二十代半ばの男は、石ベンチの前で服を脱ぎ、ふくらはぎのたるんだ不恰好なユニフォームを着た。背番号は3だった。田中が呆れてそいつに出場権を譲った。御池はと見ると、屈伸運動をしたり、気持ちよさそうにバットを振ったりしている。松尾が中尾に大声で訊いた。
「早稲田祭の今年のゲストはだれやったと?」
「ザ・リガニーズでなかったね。現場にいかんかったけん、知らん」
「海は恋してる、か。もともと早稲田のフォークソングクラブやったけんな。手間かけとらんのう。ベンチャーズでんくるかと思っとった。天下の早稲田やけんの」
「天地がひっくり返っても、こん」
「慶應はだれやったか」
「知らん」
 敵チームが勢揃いした。敵味方交錯しながらの守備練習。御池はその百八十センチに近いガタイを見こまれ、前田から主将に任じられた。とたんに御池は、打順や守備位置を決めるのに忙しくなった。
「神無月さんはレフト、堤さんはピッチャー、山口さんはセカンド、宇治田さんはキャッチャー、ワシはファースト、あとはめいめい好みの守備位置についてください」
 松尾は素手でショートに走り、前田はライト、中尾はサードに向かった。
「サードを守らせてほしい」
 背番号3が言う。中尾がケケケと笑い、
「勝手にせい。長嶋気取りたい。打順も四番にせんか」
「わしゃ、九番でよかぞ」
 正拳突きをしながら松尾が言う。中尾は空いていたセンターへ走っていった。堤が、
「神無月を四番にして、あとは好きに打てばいいだろう」
 御池が、
「神無月さんの四番は目立つばい」
 堤が目を剥いて、
「目立つとかそんなレベルじゃない。体育の教授が、プロでもホームラン王を獲れると確言した男だぞ。来年から実際そうなることは目に見えている。六大学の二季連続三冠王だぜ。とにかくもうすぐプロにいくバッターだ」
「だからこそ、四番は目立ちますって。一番に置いて一本ホームランを打ってもらいましょう。あとは見学。田中を入れればよか。あの扇形に石灰引いてある区画ラインのところが百メートルです。二百メートル四方のグランドでゆったり四チームやれます。十字に切ってある百メートルラインがホームランゾーンです。ふつうソフトボールは八十メートル飛びまっせん。あれをノーバウンドで越えるのを見たら、もう神無月さんには休んどってもらってよかでしょ。二打席目からは疑われますけん。一応クラス対抗ということになっとるもんで―」
 山口が大笑いしながら、
「ほとんど助っ人みたいなもので、疑われるも何もあったもんじゃないだろう。たぶんどのチームも助っ人だらけだぜ。御池くんは律義だなあ」
 松尾が、
「前田と背番号3が疑われるくらいやろ。齢食っとるけん」
「ちょっと、ジャンケンしてきます」
 御池がホームプレートへ走っていく。
「ほんとに打てるの、この人」
 背番号3が言う。すかさず山口が、せせら笑いながら、
「神無月郷を知らないのか。ものを知らないというのは恐ろしいな。六大学野球のホームラン王だぞ。ソフトボールなら、全打席ホームランだ」
「まさか!」
「帰りのメシを賭けるか。十人以上いるぞ。一万円はかかるな。金持ってるか」
「なければ俺が貸してやる」
 堤がにやにや顔で言う。
「よし、賭ける」
 ジャンケンをして御池が戻ってきた。
「負けました。先攻ですばい」
「よかったね!」
 私が大声を上げると全員が怪訝(けげん)な顔をした。
 味方ベンチのいちばん端に、いつのまにか睦子が座っていた。四角い竹籠を膝の上に抱えている。白のワンピースに、薄紫の透き通ったスカーフを巻いている。私は走り寄って手を握った。しっとり握り返してくる。
「いつきたの?」
「いまきたばかりです。四つも試合をやってるから迷ったけど、神無月さんの姿が見えたのですぐわかりました」
 私のあとを追ってきた御池に、
「この人、鈴木睦子さん。来年名古屋へいくために中退したばかりの東大生。ぼくの恋人」
「これで三人目ですね! 美しかァ。十四、五にしか見えん」
 睦子がうれしそうに頭を下げた。
「このあいだのカズちゃんが三十四だよ」
「あの人も、いいとこ二十五ぐらいにしか見えんかったばい」
 田中が言う。山口もやってきて、
「先天的なものだな。神無月の恋人には年齢がない」
「妖怪ですね」
「帰りに、いっしょにメシを食おう」
 山口が睦子に笑いかけた。
「はい」
「俺たち三人は、青森高校の同級生なんだよ。神無月に引っ張られて東大にきた」
 なんだなんだと松尾たちも寄ってくる。
「神無月の恋人てか。何人もおるんやのう。うらやましかのう。ピカピカしとるが」
「鈴木睦子です。どうぞよろしく」
 田中が照れたふうに頭を掻いた。中尾がたしなめる。
「なに照れとるんか。おまえと関係なかぞ」
 私は彼らに、
「ぼくが中日ドラゴンズに入団できたのは、ぜんぶ彼女のお膳立てのおかげなんだ。おふくろという関門を突破するためのすべての手続をスムーズにやってくれた。こんなことを言ってもそのすごさはわからないだろうけど、とにかく大恩人だ。単刀直入に言うと、ぼくの周りには男や女がいるんじゃなく、恩人ばかりがいるということだ」
 学生審判員がプレイボールを告げたので、御池に借りた野球帽を目深にかぶり、固い土の打席に立った。止まったようなボールがきた。思い切りスイングすると、ボールはピンポン球のように飛んでいって、試合中の別チームの内野と外野のあいだに落ちた。背番号3が、
「ゲッ! 百十メートルは越えてるぜ!」
 敵チームの選手たちは何が起こったのかと、ベースを回る私の姿を唖然として見つめている。睦子が手を叩いて跳びはねる。ホームインすると、御池が声をかけた。
「神無月さん、もう引っこんでよかですよ」
「いや、最後まで出場させてくれ。おもしろくなってきた」
「そうですか! そのほうがわしらも楽しいですが」
 私は山口と話をしていた睦子の隣に坐った。
「すごかったです。あの大きなソフトボールがヒューッて飛んでいっちゃいました」
 山口が、
「みんな生まれて初めてあんな打球を見ただろう。この一打席で退場すれば、全打席ホームランの賭けは俺の勝ちだな」
「それはずるいぞ」
 私たちが笑い合っていると、松尾と中尾が駆け寄ってきて、
「神宮でもスタンドに入っとるぞ。これが見たかったんや。目の前で見ると、えらい迫力やのう。よかものば見た!」
 御池が彼らと顔を見合わせて笑う。堤は三塁コーチボックスで得意そうに腕組みをしていた。山口が、
「おい背番号3、賭けを撤回してもいいぞ。ほんとに全打席ホームラン打っちまうからな」
「全打席はないでしょう。続行します」
 中尾が苦笑し、
「アホやな、こいつ。ほんとにおごらせたるわ」
 宇治田、御池、背番号3は、すべて内野ゴロに終わった。野球が不得手の人間はここまで打てないものなのか。曲がりなりにも東大のチームメイトたちは〈ひとかど〉の選手たちだったのだと思った。
 守備は、初回から惨憺たるありさまになった。打球の三本に二本は背番号3の前に転がり、〈長嶋〉はじつにうまく捕球するのだが、肩が弱いので送球がことごとく一塁に届かない。グローブなどはめたことのない御池が、そのすべてを後ろへ逸らした。たまにライトやショートにボールが飛ぶと、前田や松尾がみごとに後ろへ逸らした。まともなのは中尾だけだった。ラグビーしかしたことがないとは言っても、センターを守るグラブ捌きも内野へ返す送球の正確さも、野球を初めてやる者のそれとは思えなかった。彼だけでアウトを二つ取った。私には一本ライナーのフライが飛んできた。それでも、敵に六点を返され、一対六。八点差コールドの取り決めにあと三点だった。ここで一点ぐらい入れただけでは、おそらく二回の裏でコールド負けだろう。
 チェンジになって、私は石のベンチに坐っている睦子目指して走っていった。
「みんなへたくそですね。漫才見てるみたい。アイスコーヒー飲みます?」
「うん」
 籠からポットを取り出して二つの紙コップに注いでいると、みんな寄ってきた。
「みなさん、アイスコーヒーどうぞ」
「いただきます!」


         十九

 二回表、堤がセンター前に抜いて一塁に出、山口がショートへの詰まったライナー、怪力中尾のレフトオーバーの三塁打で一点、前田がピッチャーライナー。ツーアウト三塁で九番バッター松尾。ぼてぼてのセカンドゴロ。二塁手がもたつく間に三塁ランナー中尾生還。三対六。一塁上の松尾がへんなふうに胸をさすっている。
「振りすぎて肉離れでも起こしよったかな」
 田中が言い、走っていった。何でもないと追い返される。
「やっぱり神無月さん。打ってください。コールドで負けたくなかです」
「わかった」
 松尾を一塁に残して、ライトのライン越しに私が特大のホームランを打って計五点。宇治田が三塁線をボテボテ抜く二塁打、御池がレフト前に打って六対六の同点。背番号3までがマグレのセンターオーバーで御池を迎え入れ、これで逆点。全員雄叫びを上げて沸き立ち、睦子は頬を真っ赤にして拍手した。堤ファーストフライでチェンジ。守備に散る前に、
「次の回もホームラン打つからね」
 と睦子に約束する。中尾が、
「神無月一人だけ、ふつうでなかばい」
「ふつうじゃないほど、野球をやってきたからね」
 御池が、
「神無月さん、ソフトボールはふつう、あげん飛ばんでっしょ。ゴルフボールのごたる」
 堤は背番号3に向かって、
「異常な話は、信じたほうがいいぞ。まともな話よりはな。異常な話は作り出せるものじゃない。根拠がある」
「賭けは、全打席ですからね」
「わからんやつだな。早い回でコールドになったら、全打席はたった三度か四度だぞ」
 ファーストから御池が大声で、
「次の回で決めますけん、堤さん、高目ぎり投げて、フライを上げさせてください」
「オッケー」
 御池の作戦がみごとに当たった。堤は痩せたからだから渾身の速球を繰り出し、ピッチャーフライ一本、山口へのセカンドフライ二本に打ち取り、二回裏をあっというまに終わらせた。
「さあ、あと七点。決めますばい!」
 事件が起きた。九番打者の松尾がショートゴロを打った。ショートがハンブルするのを見て、松尾の道衣姿が懸命に一塁を駆け抜けようとした。間一髪アウト。そのとたん、妙に足をもつれさせてゆっくりよろめき、崩れ落ちるように前へ倒れた。ベースに躓いたという格好ではなかった。睦子が立ち上がる。
「何か、へんですよ。起き上がってこないわ」
 たしかに松尾はからだをくの字に折り曲げたまま、起き上がろうとしない。
「おかしかぞ! ふざけとるんやろか」
 中尾が笑おうとする。
「いや、ちがう。心臓だ!」
 ベンチに座っていた山口が跳び上がり、一目散に松尾目がけて走った。睦子も走っていく。背番号3を残して、みんなで走り寄った。松尾は空手衣の胸もとを両手で掻きむしるようにしてもがいていた。私たちは松尾をベンチに運んで寝かせ、御池はグランドの外の公衆電話に駆けこんだ。脂汗を浮かべた松尾の顔から血の気が失せている。蝋人形のように白い。睦子が水飲み場でハンカチを濡らしてきて、額に載せた。堤が試合放棄を相手チームに伝え、御池の帰りを待った。私は松尾の黒帯をゆるめた。中尾や宇治田や田中はなすすべもなく、松尾の手の甲をさすったり、濡らしたタオルを胸に載せたり、口に耳を寄せて呼吸を確かめたりしていた。
「真っ白い顔……。救急車遅いわ」
 睦子がベンチの周りをうろうろ歩き回っている。
「まちがいなく心臓だな、心臓―」
 ことの重大さに山口が目を充血させている。御池が駆け戻ってきた。
「すぐ救急車がくるけん、松尾さん、がんばってください!」
 御池は松尾の手を握り締めた。睦子が涙を流している。田中や中尾が泣いている。御池も号泣せんばかりになっている。この場の松尾の様子を見て、彼の死を予測する者は一人もいなかったけれども、だれものがその可能性を恐れていた。
 けたたましいサイレンを鳴らして救急車が到着し、前田が駆けていって二人の隊員を連れてきた。彼らは松尾の様子を険しい表情で窺い、しゃがみこんで胸に耳を当て、すぐさま直接胸板にカンフル剤のようなものを打った。
「急性心筋症です。心臓の筋肉が弱ってるんですね。不整脈があり、心拍も弱いです。応急手当のまま放置すると、命に関わることもありますので、病院へ搬送します。どなたか付き添われますか」
 こぞって手を上げたが、二人だけということで、結局、御池と中尾がついていくことになった。堤と宇治田と田中はタクシーであとを追った。前田と背番号3はどこへともなく姿を消した。
 山口と睦子と三人で、東伏見の駅まで歩いた。山口が、
「……松尾という男のことはよく知らないが、心臓が悪そうな体格はしてなかったな」
「彼は酒の飲みすぎだ。人一倍飲む。ペースも尋常じゃない。心臓を傷めるほど飲むなんてね。きょうまできっと自覚症状があったはずなのに」
「こんなことで、好きな酒をやめるような男には見えんな。死ぬなら、酒で死ぬだろう」
「助かったかな」
「だいじょうぶだろう。あとで西荻から御池くんに電話してみる。空手で鍛えた一流のからだだ。そう簡単にはくたばらん。あの背番号3、賭けのことを忘れてたみたいだが、放棄試合でなければ、大金を失ってたところだ」
「たぶんね。でも、みんなに二本見てもらったから満足だよ」
「何度見てもすごいです。あんなにボールが飛ぶなんて」
 山口は得意げに笑いながら、
「神無月の野球は、ソフトボール大会のホームランなんてレベルのものじゃない。ハナからプロ野球レベルなんだな。神無月にはむかし野球を断ち切られた時期がある。中三の十月から高一の五月までの八カ月だ。自分の力を発揮する場所はプロ野球だと直観でわかっていたから、その道を断たれたとき、後腐れなく沈黙したんだな。いずれプロ野球に単独挑戦するしかないってね。本人がきちんとそう考えたかどうかわからないけど、たぶんそういうぼんやりとした希望の肌触りがあって、八カ月間野球をやめたんだな」
 睦子は興味深げに聴いていた。
「でも、青高で野球を再開したのは、きょうのソフトボールみたいに、野球そのものをやるチャンスがあるならとにかくやろうと決意したんですね。プロ野球よりも、野球そのものが好きだったから。その決意のおかげで、昭和四十三年十一月三日までたどりついたんですね」
「そのとおりだ」
 睦子は片手にランチボックスを提げ、片方の肩に振り分け荷物ふうにビニール袋を垂らしている。私と山口は埃っぽいジャージ姿だった。
「何、その袋」
 山口に訊かれて睦子は、
「……このあいだ、ブレザーを一式買いました。神無月さんには、濃紺がいちばん合うんです」
「やれやれ、神無月は着せ替え人形だな。着せてみたくなるんだろうなあ」
 西武新宿線に乗る。車中で山口と睦子はよくしゃべった。
「出会いがドラマチックすぎると、出会った人間そのものがドラマチックだということを忘れてしまう。何よりも、神無月という男が目覚ましいんだよ。たとえば、きょうの松尾くんの痛ましい一件も、神無月のホームランのせいでかすんでしまうくらいだ」
「はい。二度と会えない人だってことを一日も忘れたことはありません。生きてるかぎり私は、神無月さんが幸せでいられるよう努めます。神無月さんの言葉や行動のぜんぶを受け入れます。ぜったい離れません。あと何十年かしたら、どちらかが死んでしまって、会えなくなるのが悲しいですけど、神無月さんが先に死んだときは、すぐ死のうと思ってます」
「神無月との関係は、青森の両親には言ってないんだろう」
「中退届を出したときに言いました。いずれ大学側から、両親の了承を確認する電話がいきますから、そのとき大騒ぎにならないように前もって打ち明けたんです。神無月さんと人生を共にすると言いました。このまま神無月さんのそばにずっといて、大勢の女の人の一人として暮らしたとしてもぜんぜん悔いはないんです。神無月さんを愛する人以外はみんな、結局は常識的な人たちです。そんな人たちといっしょにいても、充実して生きられません。両親はそれほど常識的な人たちでなかったようで、私の行動を言語道断だと思ったにちがいありませんけど、おまえが幸せだと思うなら、そう思ってるあいだは好きにしろと言ってくれました。私は別に家族というものに未練はないんです。家庭というものの雰囲気には多少愛着がありますけど、まんいち家族が原因で神無月さんに迷惑がかかるようなことになったら、心置きなく捨てるつもりです」
「ほかの女たちも、似たような気持ちでいると思うよ。鈴木とちがって、捨てるような家族をもともと持ってないやつもいるしね。ま、神無月に対する鈴木の愛情がゆるぎないものなら、いずれ彼らも温かく見守るようになるだろうし、家族が分解するなんてことにはならないよ」
 終点の西武新宿まで乗った。西口に出て、菊川という店で鰻を食った。ビールも注文する。山口は竹、私も竹、睦子は梅を注文した。睦子が笑いながら私に尋く。
「カツ丼とちがって、鰻の松竹梅って、量がちがうだけなんですよ。知ってました?」
「熱田神宮のうなぎ屋で食ったとき、だれかが言ってた覚えがある」
「俺はおやじに教えてもらった。うちじゃ、おやじと妹が食い道楽なんで、いつも松を腹いっぱい食いやがる。俺とおふくろは竹だ」
「特上、上、中、並も、量のちがいなのかな」
「そうです」
 ウマキ(鰻を卵で巻いたもの)と、ウザク(塩揉みキュウリと鰻の酢の物)と、肝焼きも食べた。ビールのあとの酒は、三人で四合。食いながらなので適度な酔い心地だ。
「うまいなあ、たまに食う鰻は。……山口と風呂上りに食ったラーメンもうまかった。あの一年間の思い出の量は〈松〉だね」
「ああ、〈特上〉だ。なつかしい。もう三年になる。……俺たちはいつもこの話をするな」
「ときどき思い出して、泣くことがあるんだ」
「俺も同じだ……」
 鼻をすすっている。睦子も目の縁を指で拭いながら、
「あのころの二人の関係に、友情以上のものを感じてました。私が詩を読んでいる最中に神無月さんが教室で倒れたとき、神無月に触るなって、千佳ちゃんを突き飛ばした顔がとても怖かった」
「ヒメネスの詩だったね」
「はい。男の人が女の人を捨てて故郷から出ていく詩です。私、神無月さんが私の前からいなくなってしまうって感じて、思わず泣いてしまったんです。そしたらとつぜん神無月さんが立ち上がって倒れたんです。私の詩の読み方が原因だったんだってわかって、いたたまれなくなって、私、あの日一日、生きた心地がしませんでした。お見舞にいきたかったんですけど、歯が……。とにかく神無月さんと山口さんの関係は、教室中のだれの目から見ても恋人同士でした。みんな、恋心を抱いて神無月さんとすごした思い出がいっぱいなんですね」
 私は二人の猪口に徳利を差し出した。
「神無月がいなかったら、俺の人生はカラッポだ」
「そうでもないさ。音楽があり、書物があり、女がいる」
「そんなものは逃げていかない。あしたにでも思い出に化けてしまいそうな人間といっしょにいるからこそ充実してるんだ」
「じつはぼくも、みんなが逃げていくのが怖い。だから、懸命に記憶しようとする」
「鈴木もそうか」
「ええ。思い出にしないように努力しながら記憶しようとします。それだけじゃなく、つかまえようとします。一度きりの人生ですから」
「安心した。そういう気持ちが女にもあるんだと確認できてうれしい」
「男と女ならわかりますけど、男同士がそういう気持ちを持ってるほうがすごいです」
「男は精神的な喜びを与えられることには敏感だ。女はにぶい。鈴木は、俺たち以上に気持ちが男だ」
「ありがとう、そう言ってもらうと、自分が心は男で、肉体はしっかりした女に生まれたことがうれしくなります。私たちの、正確には、私の、神無月さんとの出会いのきっかけを聞いてもらえますか」
「入学式の講堂か教室に決まってんだろ。青高の連中はみんなそうだよ。俺は健児荘だったけどな。それまでは、さびしそうな野郎だ、あんなに野球で騒がれてるのにちっともうれしそうじゃない、それにしてもすげえ美男子だなって感じてた程度だ」
 睦子はうれしそうに微笑み、
「講堂や教室じゃなく、入試の会場だったんです。私の受験番号は八百二十二番、神無月さんは八百三十番でした。私の斜め後ろの席でした。神無月さんはいまと同じように、周りをぼんやり眺め回してました。ふっと私と目が合ったんです。そのまま神無月さんの目は通り過ぎましたけど、それで私の一生は決まったんです」
「一目惚れってやつか」
「そんないいかげんなものじゃなく、私の感情なんか関係なく、神無月さんという崖に転落したという感じです。落ちこんで、からだじゅうケガをしてしまって、もう、身動きがとれないという感じでした」
「……わかるなあ」
 と言って山口は眉をこすった。
「神無月には、出会いのきっかけなんてものは、あってもなくてもいいんだよ。気に入った身近のものには手を出すし、いくら身近でも気に入らなければいつまでも手を出さない。それだけのことなんだ」



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