二十八

 ロータリーを見回す。左端の細道に銀座商店街と看板が架かっている。おのずとみんなの足がそちらへ向く。看板をくぐると、あたりまえの商店街だ。薬局、お茶屋、銀行、スーパー、靴屋、雑貨店、洋品店、酒店、パチンコ屋、食堂、不動産屋、花屋、居酒屋、喫茶店、パン屋、シャッターを下ろしかけている店もある。焼肉屋に突き当たって右手へ進む。ごみごみと繁華になる。軒並みにつづく商店の中に、アパートや民家や私塾やクリニックが建ち混じる。道なりに進んで、ロータリーから高架に戻る。ガードをくぐると、名古屋の駅裏のような界隈になる。中央ゼミナール。
「戻ったね」
「一廻り、賑やかだったわね。何不自由なく暮らしていけるだけの店は、ぜんぶあったんじゃない?」
「人はよくあれだけの商売を思いつけるね。便利なのに印象に残らない。縁日の夜店みたいに雑然としてるからだね。これじゃ行き当たりばったりの買物しかできない。どこかの店を目指してくることは不可能だな」
「フジやポートなら目指してこれるのにね。百貨店が流行るはずだわ」
 カズちゃんが愉快そうに笑った。私は、
「映画館もね。高円寺には映画館が一軒もない」
「銀座商店街のずっと向こうに、高円寺平和劇場って日活館があるみたいよ。いったことないけど」
 素子が、
「今度、うちが調べとくわ」
「いや、いい。いかないから」
 ガード沿いの店を見やりながら駅のほうへ進む。素子は、
「どんな大きな町も、ちょっと外れるとさびしいもんやなあ」
「発見は、ポエムだけか。神社もただの雑木林だったし」
 カズちゃんが、
「名古屋の椿神社は大学の敷地ぐらい大きいわよ。ああ、名古屋へ帰りたくなっちゃったな」
「私も早く名古屋を見てみたいです」
「ここもあと二カ月あまりか。十カ月、あっという間だったね。中央線沿線に暮らしてよかった。適当に賑やかで、適当に閑静で」
 カズちゃんが、
「南口駅前にトリアノン、北口駅前にレコード屋一軒、ガード沿いには都丸書店と焼肉順天苑と寿司孝、フジの前と更科蕎麦秀月の斜向かいにパチンコ屋、お寺の真ん前にキャバレー・ハワイ、一軒も入ったことのない中通り商店街、いえ、入ったわ、ハンバーグのニューバーグ」
 素子が、
「あそこ、おいしいね」
「うん、S字の長いカウンターがいいわよね。フジの通りの高円寺商店街は洋服屋と古着屋ばかり。見るものなし」
 千佳子が、
「商店街の裏通りは、クラブ・カジノ、バー・パンドラ、キャバレー・パンチ、割烹鴨川、麻雀南風荘、日本料理七面鳥、ロック喫茶キーボード、ジャズ喫茶棗(なつめ)、名曲喫茶ネルケン、バー巧(たくみ)、スナック我楽多、えへ、〈横山さん〉してみました」
 私は、
「それだけ憶えてたら、高円寺は思い出の街になるよ」
「高円寺というお寺はあるけど、吉祥寺というお寺はないのよね」
「そうなんですか、おもしろいですね」
「ほら、キョウちゃん、横浜にいたころ、保土ヶ谷というところに住んでいたお父さんを訪ねていったことがあったでしょう。そのとき―」
「ああ、あの話ね。コウフクジってお寺を目指して歩いていったら、なかなか見つからなくて、ちょうど通りかかったおばさんに訊いたんだ。そしたら、コウフクジというのはお寺の名前じゃなくて、町の名前なのよって教えられた」
「その話自体は微笑ましいけど、ふっとさびしくなるわ。夜風に吹かれてるキョウちゃんの横顔や背中が浮かぶの」
「うち、抱き締める!」
 素子が抱きついてギュッと背中に腕を回した。
 十時閉店のフジに九時半に寄って、ホットココア。マスターが、
「神無月さん、今年はいい年でしたね」
「はい、信じられないほどうまくいった年でした」
「とうとう、プロになりましたね。しかも念願のドラゴンズに。おめでとうございます」
「みなさんのおかげです。いろいろご援助ありがとうございました」
「スパイクくらい、援助もクソもないでしょ」
「最高級のスパイクです」
「ホームランばかり打ってるから、大して傷みませんよ。二月からキャンプですね。一月の末には名古屋に帰っちゃうんだなあ。たまらん。さびしい」
「遠征で東京にきたらかならず寄ります。毎年会えます」
「きっとですよ」
 シンちゃんがやってきた。
「キョウちゃん! おめでとう。俺、来年から中日ファンになったから。暇を見つけて後楽園に観にいくよ。今度くるときは、ドラゴンズの名前で色紙書いてね」
「わかりました。フジにも、マスターにも、金城くんにも」
 カウンターに手を振った。金城くんは頭を掻きながらお辞儀をして、
「今度いらっしゃったら、友人に大っぴらに、店の客に神無月がいるって言えます」
 マスターが、
「いや、だめだ、やっぱりマスコミが押し寄せる。いままでだってうちだけの幸運が後ろめたくて秘密にしてたんじゃないんだよ。マスコミ攻勢を避けるためだったんだ。知る人ぞ知るというのがいちばんいいんだ」
「はい、わかりました、たしかにそうですね」
 私は、
「ほとんどの人は野球に興味がありませんし、スポーツ新聞も読んでません。東大優勝など知らない人が国民の七割でしょう。それを許すまいとするのがマスコミです。彼らは有名人とやらを作り上げたいんです。マスコミさえ群がらなければ、かなり穏やかに暮らせます」
 シンちゃんがバンバンと私の肩を叩いた。
「覆面レスラーと同じ心境だね。趣味人のあいだでは有名だけど、マスクを取れば、つまりユニフォームを脱げば、一般人にはぜったい気づかれない、と。マスコミが素顔を発表したらたいへんだ」
 マスターが、
「うまいこと言うじゃないの、シンちゃん」
「へへ、俺、キョウちゃん思いだから。金城くん、わかった?」
「でも、新聞が腐るほど素顔を発表してますよ」
「そうだった!」
 店内に和やかな笑いが湧く。私は、
「シンちゃん、心配無用です。帽子を取ってユニフォームを脱いだら、だいたい気づかれません。これに眼鏡をかけたら、きっちりコソコソできます」
 金城くんが、
「ぼくも来年からドラゴンズファンになります。熱烈な神無月ファンになります。そのことは友人に言います」
「じゃ、キョウちゃん、そろそろ引き揚げよ」
「あしたからカズちゃんと伊豆にいってくるんだって? いつまでも仲がいいね。素ちゃん、千佳ちゃん、当てられっぱなしだな」
 名古屋以来カズちゃんの〈妹分〉と触れている素子は、千佳子といっしょににっこりうなずいてみせる。
「うれしいがね。お姉さんとキョウちゃんは運命の恋人やから。あしたから千佳ちゃんとお留守番。さみしいで、日曜も出勤にしたわ。四日間、自炊でお料理研究。モーニングだけは三人で食べにくるでね。もう一人ムッちゃんゆう子連れてな。昼間は千佳ちゃんとムッちゃんがポートに食べにきて、夜は三人で自炊や」
 富沢マスターが、
「朝昼、喫茶店のめしだけでいいのか。栄養が偏らんか。たまには倶知安で定食を食ったらどうだ」
「ああ、おいで。素ちゃんと千佳ちゃんからは代金は取らないよ」
「シンちゃん、それはだめったら。たまにおごられる楽しみがなくなるでしょ」
 カズちゃんが言う。
「ほうよ、おごられるときは高いもの注文するで」
「こら、素ちゃん!」
「へーい」
 シンちゃんは、
「おごるときは大盤振舞いするよ。カズちゃん、伊豆急には車内販売がないんだよ。あした出かけるとき寄ってって。幕の内弁当作るからさ。素ちゃんと千佳ちゃんもね。いっしょに取りにきて」
「ありがとう!」
「じゃ、火曜の朝から出勤します」
「ほいよ」
 灯りがほとんど落ちた商店街を帰る。
「お姉さん、あした何時?」
「東京駅九時、伊豆急踊り子号。伊東に十時四十四分。夜、宿から電話入れるわ。さびしいでしょうけど、四日間がまんしてね」
「勉強して、本読んどる」
「私はきょうと同じ毎日です」
 素子は頬を輝かせ、
「今夜のこと考えると、興奮しすぎておかしくなりそうやわ」
 千佳子がうなずき、
「すごく興奮してるときとか、イッたあとは、もう一突きされるとイッちゃいます」
「うちも同じやわ」
「キョウちゃんに抱かれると、みんなそうなってしまうのよ。私たちはうれしいけど、キョウちゃんが私たちの苦しむのを見て焦るようになっちゃう。だから、なるべくイクのをこらえて、キョウちゃんに長く楽しんでもらうようにしないと」
 二人ともそれは難しいという顔をした。
「でもイクとオマンコ締まって、キョウちゃんも気持ちよくなるんやないの?」
「ふつうの男はそれでイッちゃうでしょうけど、キョウちゃんはそうなってもこすりつづけるから、私たちは死にそうになるの」
「そうなんですよね。死にそうになります。最後に強くイッたあと、信じられないくらい気持ちいいですけど」
 睦子とまったく同じことを言う。素子が、
「伊東へはなんでボルボでいかんの?」
「温泉地は案外、車は不便。伊香保がそうだったでしょう? 公園とか港とか、ごろんとした目的地へいくのはいいけど」
 帰り着いて、みんなでボルボを見つめる。
「うち、名古屋にいったら、免許とるわ」
「私もとります。ムッちゃんはとらないって言ってました」
「ムッちゃんはおっとりだから、運転は似合わないわね。名古屋で免許とったら、ボルボはみんなで使いなさい。どんどんぶつけていいわよ。外車はボコボコ凹んでるくらいが格が上がるんだから」
 だれもいない玄関に、みんなで、
「ただいまァ」
 と声をかけた。カズちゃんが、
「よしのりさんと女の人が、きのう遅くここにきたのよ」
「へえ、どんな女?」
「このあいだ別れた人」
「復縁話?」
「その逆。もう籍を抜いたって」
「そんなことを言いに? そもそも、入籍したなんて話あったっけ」
「聞いてなかったの? キョウちゃんはよしのりさんに情が薄いんだから」
「ツンツンして、いやな感じの女やったわ」
 千佳子が、
「嘘つきを子供の親にするわけにはいかない、大学をやめてクニで子供を産んで育てる、子連れでもいいという人が現れたら結婚する……って言ってましたね」
「妊娠させたのか」
「そういう話には耳が塞がってるのね。便利ィ」
 カズちゃんが愉快そうに笑う。
「その女こそ悪質な嘘つきだね。嘘というものは善悪の基準からは判断できないんだ。他人を庇う好意的な嘘はもちろん人間関係を円滑に保つし、悪意のこもった嘘は恥知らずな行為だけど、いろんな種類の人間の存在を教えてくれる教訓になる。よしのりみたいな自分を等身大に打ち出さない嘘は、ちっちゃくても大きくても、わが身を守るためのものなんだよ。いずれにせよ、嘘というのは人間関係を衝突なく円満に保つための必要悪だ。それでも、できるかぎり正直であろうとする人間がかならずいる」
「よしのりさんね」
「うん。よしのりは嘘をつくまいと努力したんだ。わが身を守ることを捨てて、女に誠心誠意ぶつかったんだ。そういう倫理的な努力は胸を打つし、称賛に値する。ぼくはつい彼に嘘をつけって言っちゃうけど、彼の正直さに周りがどう反応するかを危ぶむからなんだ。とにかく、その正直さに感動しなかったということは、その女が無意識の嘘つきで、自分が意識していない恥部を刺激されたから、よしのりに邪険に当たったと考えられるね。自分を潔癖だと信じこむという嘘だ。精神的な潔癖なんて、本来、嘘の骨頂だからね。そいつはいろんな嘘を隠し持ってるぞ。それがばれないうちに先手を打って逃げたんだろう。よしのりは運よく厄介払いができたよ」
 三人が私の頭や腕を抱き締めた。
「よしのりさんは未練たっぷりだったから、子供が生まれたあとも、ずっと追いかけるんじゃないかしら」
「ほっとくんだね。よしのりがバカでなければ、いずれあきらめる」


         二十九

 カズちゃんと千佳子は居間のテレビの前に座った。素子が、
「じゃ、千佳ちゃん、ちょっと部屋借りるね」
「どうぞ。あとでいっしょに夜食食べましょ」
 いっとき空けてもらった千佳子の離れにいって、二人裸身を横たえる。
「うちの部屋の蒲団、二、三日干しとらんかったから」
 机や書棚が整い、すっかり勉強部屋の体裁になっている。
「この部屋は東南の角部屋で、陽射しがどえりゃあ明るうて暖かいんよ」
「千佳子は感謝してるだろ」
「ほうよ。いちばんええ部屋くれたってうれしがっとった。でもお姉さんが言うには、生活にはもってこいでも勉強には向いとらんて。北向きのほうが落ち着いてて勉強には最適やと。吉祥寺のキョウちゃんの離れの窓は北に向いとる。あれがええらしいよ」
「女は寒いのが苦手だからね。でも、カーテン閉めてエアコンかけたら、どんな部屋も同じだよ」
 シックスナインになって股間を愛撫し合う。二人ともすぐに可能になる。滑りと締りのいい素子の膣を深く、浅く往復する。たちまち素子は昇りつめ、ハアッとうめいて一度気をやると、つづけて三度、四度と気をやる。抜き取って、一分ほど時間を置く。ふたたび挿入する。いつものように激烈なアクメに何度も達する。ついに私を押しのけようとしたので、すぐに抜き、もう一度待機する。一分待ち、尻を向けさせて挿し入れ、素早く動いて射精を引き寄せる。射精する。
「あああ、愛しとる、死ぬうぅ!」
 素子は自分から尻を引いて離れ、ごろりと丸く横たわる。腹を押さえながら激しく痙攣する。ビクビク跳ねる腹に掌を置くと、深々とした安堵がやってくる。キスをし、私も丸く横たわる。素子の掌が私の掌に重ねて置かれる。回復の早い素子はやがてウンと腕に力を入れて上半身を起こし、私の亀頭を含んで舐める。素子の胸のふくらみを下から握りながら、
「腹がへった」
 と言う。素子は微笑してうなずき、
「レタスともやしの餡かけラーメン作るね」
 よろよろトイレにいって戻り、私にパジャマを着せると、自分もパジャマを着る。二人でテレビの音のする居間にいく。特別機動捜査隊を観ている。
「餡かけラーメン作るよ。食べるやろ」
「食べる、食べる」
「素ちゃん、あなた腰にきてるじゃないの。ここに座ってなさい。私と千佳ちゃんで作るから。ちょっと待っててね」
「お姉さん、ごめんね」
「いいのよ、休んでなさい。ほんとに敏感すぎるんだから」
 カズちゃんと千佳子が大きな尻を振りながら、渡り廊下へ出ていった。
「ごめんね。まだお腹の中がビクビクしとるんよ。お乳握られて、トドメ刺されてまった。お姉さん、よう気づいたねェ」
 私は、
「うまいイキ方を覚えないとね。本気で気をやろうとしたら、だめだよ」
「ウソ気って、どうやるんやろ」
「難問だ。ぼくは女じゃないから」
 十分もして、カズちゃんが両手に二つのラーメンの鉢を持ってきた。
「お待ちどう。ちゃんとコショウ振ってあるわよ。先に食べてて。いま千佳ちゃんと私の分を作ってるから。素ちゃん、もう具合だいじょうぶ?」
「だいじょうぶ」
「キョウちゃん、終わったあとで何かおいたした?」
「乳を握った」
「だめよ、イッたあとはそっとしといてあげないと。耳も、唇も、お乳も、ぜんぶオマンコとつながってるんだから」
「カズちゃんでわかってたんだけど、忘れちゃった」
「いけない子ね。だいじょうぶよ、あと十分もすれば落ち着くから。先に食べてて」
 怖くなり、素子から少しからだを離して、ラーメンをすすりはじめる。うまい。素子の呼吸が安定してきた。
「落ち着いたね。立ちん坊をしてた時代にそんなふうだったら、とっくに死んでたね」
「うん。でも、キョウちゃんに遇うまで、ぜったいこんなふうにならんように、神さまが見張っとったんやね。いま仕事しても、こんなふうにならんよ。キョウちゃんを好きだという気持ちと、キョウちゃんとしとるゆううれしさでこうなるんやも。自分で指入れてみたことが何度もあったけど、何ともなかった。立ちん坊のころも二人ぐらいのお客として確かめたけど、やっぱりどうもならんかった。お姉さんも自分の指や大人のおもちゃで確かめたことあるんやて。イカんてわかったとき、うれして泣いた言うとった」
 鉢を持ってカズちゃんと千佳子が入ってきた。
「はーい、餡かけラーメン。食べましょ」
 四人で餡かけ麺をすする。
「うまい!」
 千佳子が、
「おいしい!」
 元気になった素子が、
「めちゃくちゃおいしいが!」
「そう、よかった。レタスって、いくら火を通してもシャキシャキしてておいしいのよね」
 ひとしきり四人でズルズル食べる。素子が泣いている。
「どうしたの?」
「うれして」
 つられて千佳子も泣き出した。
「あらあら、二人にキャベツ炒めを作ってあげたときも泣いたわね。やさしい子たちね。いつまでもいっしょよ」
 千佳子が満面の笑みを浮かべて、
「はい!」
 素子が、
「……来年名古屋に帰ったら、西高の周りを歩きたいわァ。思い出がぎっしりやもん」
 千佳子が、
「私も、名古屋西高を見たいです」
「春にいきましょ」
「うん! みんないっしょやね」
「ぼくは二月から野球にかかりきる。来年は、すべての練習や公式戦に出ようと思ってるんだ。山口もギターコンクールのための大事な一年になる。男どもが名古屋を楽しむのは先の話だな」
「そうね。キョウちゃんは、いくら距離や時間が空いても、大切な人を疎かにしない人だから、無理を言っちゃだめね。いずれ暇ができたらいっしょに動き回りましょう」
「キョウちゃんがそこまで言うのは、よほどプロでやる腹が決まったということやよ。むちゃくちゃ応援するわ」
         †
 踊り子号の車中で何紙かスポーツ新聞を読んだ。新人たちの体力測定や、野球記念堂訪問のことなどが載っている。彼らはニュースバリューのない行動をとっている。始動、という活字が目立った。プロに向けてという意味なら遅すぎるし、公式戦に向けてという意味なら、彼らのほとんどはレギュラーに食いこめないので架空の話になる。
 あるスポーツ紙は、一面を使って、私の打撃フォームの十二コマの連続写真を載せていた。自分のものとは思えないほど美しいフォームだった。飯場に入ったばかりのころ、週刊ベースボールで見た長嶋茂雄のフォームを思い出した。それよりも静かなフォームだった。別の新聞には、くだんの《雲隠れ》記事が載っていた。電撃入団発表後行方不明、ドラゴンズ首脳部に緘口令と書いてあった。
 十二日から三日間行なわれた六大学秋季新人戦は、明治、立教、東大が上位三チームだったと知った。三位決定戦で東大が法政に勝ったというのだから頼もしい。頼もしいなどと他人事のような感想を言えるのは、私が破格のわがままを全面的に受け入れてもらえた幸運児だったからだ。悠長な人間には他人のどんな苦行も対岸の火事に見える。わがままを言わず、正規のレギュラーの一員として日々猛訓練をしている選手だったら、だらしない、と苦々しい呟きを漏らしただろう。
 東大の新人選手は、ふだんは朝八時から夜七時までの《一日練習》の半分ほどに参加しなければならないし、レギュラー候補として選ばれれば、春夏の合宿にも参加しなければならない。春季と夏季の新人戦に出場し、オープン戦にも補欠として控えなければならない。新人戦が終わってからも、十一月半ばに立正大や横浜商科大といった傍系大学とのオープン戦が残っているし、二月三月には数週間にわたる合宿が待っている。そこまでビッシリ野球をするのが彼らの日程だから、三位とはだらしない、ということになる。彼らが暇になるのは、十一月の末から二月の上旬までだ。およそ二カ月強。二月中旬の春季キャンプ以降は一年じゅう野球漬け。つまり、有望な新人はレギュラーにくっついて歩かなければならないということだ。それ以外の新人は入部半年もしないうちにこっそりやめていく。
 私はそれらの義務をすべてオミットした。それが東大野球部に提示した私の入部条件だった。私は野球以外のことで自分をよんどころなく忙しくしていたし、机の自由も欲しかった。いい気なものだ。これからはそういうわがままは許されない。キャンプに突入すれば、中日ドラゴンズという営利企業体上層部の命じるままに行動しなければならない。企業体の一員になったからには、それが当然だろう。しかし私は、期間条件付きで休養の約束をした。条件をつけたのは、個人的なよんどころなさや机の自由のためではない。過剰な訓練を拒否するためだ。いくら企業の一員であるとは言え、会社が操業中でない期間にむだな研修の〈お付き合い〉をして、野球選手としての唯一の資本である肉体を磨り減らすなどまっぴらだと思ったからだ。
 高校や大学よりもグレードの上がったプロでは、競争の激しさはさらに苛烈なものになるだろう。勝ち負けに関心はない。しかし私は勝ち抜いて、野球をやりつづけなければならない。野球の世界に属し、技量を讃えられながら生活することを夢見て、きょうまで生きてきたからだ。勝ち抜かなければ、野球をやめることになる。競争のレベルがはるかに高い集団に属したからといって、競争の目標を同期の新人たちに向けるのではなく、すでにプロ野球界に地位を確立したベテランたちに向けなければならない。身が引き締まる。
「武者ぶるいしてるのね」
「うん。新聞に新しく名前が出てくる同期の仲間たちに対してじゃなく、ベテランたちに対してね」
「たとえば?」
「バッターは、王、ピッチャーは、江夏。カズちゃんも憶えておいてね。まず、王の五十五本の記録を破ること。阪神の江夏から五割を打つこと。彼の剛速球にはしばらく悩まされるだろうな」
「ホームラン王は獲れるわね」
「うん。二試合に一本打ったとして、百三十試合で六十五本は打てると思う。だから八十本の公約をした。プロでは六割も打たせてくれない。だから打率は五割を公約した。昭和二十六年に大下弘が三割八分を打ってる。これを抜けるかどうか。百回打って四十本ヒットにできれば四割。毎試合、二本のヒットを打てればなんとかなる。問題は打点だ。打点は走者がいるときに適時打を打てないと挙げられない。走者が適時いるかどうかは不確定だ。ホームランについてくる打点で稼ぐしかない。敬遠くさいことをかなりされると思う。そうなると、ホームランが危うくなる。王の記録に近づいたときは、全チームで阻止にかかってくるだろうね。五打席連続敬遠とか。でも満塁なら敬遠されない。シーズンの後半は満塁ホームランが増えると思う」
「ずっとそんなことを考えてたのね。目が燃えてた」
「まず第一号ホームランを打つこと。カズちゃんたちはいつ名古屋へいくの?」
「キクエさんの受験を待たずに一足先にいくわ。一月の下旬。私と素ちゃんと千佳ちゃんの三人。節子さんとキクエさんは二月の下旬、法子さんは再来年の一月と言ってたわ。睦子さんが名古屋に落ち着くのは合格発表のあとだから、三月下旬ね」
「ヒデさんは再来年、ミヨちゃんは四年後だ。詩織は東大に残る」
「名古屋でのセックスライフは万全ね」
「―シーズン中は性欲が湧かなくなる気がする」
「性欲がなくなると、気分が沈んでしまうわ。私もそのことを考えてたんだけど、食べ物に工夫しなくちゃいけないと思うの。納豆とか、ヤマイモとか、オクラ、豆腐、玄米、雑穀類を常食にして、ニンニク、めざし、丸干しなんかもよく摂るようにするの。乳製品は栄養がないのでだめ。牛肉、鶏肉、貝類、高麗人参はとてもいいみたい。でもそういうことはぜんぶ、北村席の厨房にまかせるつもり。あそこのものを食べてればまちがいないわ。セックスは男の根本的な自信につながるから、性欲減退はぜったいだめ。女をかわいがって、女から愛されることこそ男の自信の源だもの。愛されないとキョウちゃんはファイトが湧かない。ファイトが湧かないと、ホームランが打てない」
「うん、プラトニックな愛情だけじゃ、実際のモチベーションは上がらないね」
「女も同じよ。プラトニックに愛するのは簡単。逃げ道があるから。プラトニックな愛情に肉体の愛情が加わって初めて、逃げ道のない、高い〈愛〉になるの。私は隙だらけの小便くさいプラトニックなんか信じてない。完璧でないものは信じられない」
「ぼくの愛はカズちゃんで完成したんだね」
「そうね、私もキョウちゃんで完成したの。自信に満ちた女になったわ。キョウちゃんを愛する女はみんな完成してる。だからこそ、おたがい嫉妬を焼くことがないので連帯感を持てるのよ。キョウちゃんとなら、いつでも、どこでも、何のためらいもなく心とからだを解放できる。ほかの男とはいっさいだめ」
「いまここでしたら……」
「捕まっちゃうわね」
 ホホホホと笑う。抱き寄せたくなったが、こらえた。


         三十

 簡素で平べったい伊東駅に降りて、飛行機雲の浮かぶ真っ青な空の下を歩いた。カズちゃんが深呼吸する。
「空の高さが東京とぜんぜんちがう」
 風が潮の香りを運んできた。広いアスファルト道に並ぶ軒は低かった。
「伊東にいくならハトヤの歌でイメージしてた町とはちがうなあ。素朴というのか、質素というのか、賑わってないね」
「そうね、行先を決めていないと、どこにもたどり着けない感じ。ノッペリした空地をウロウロするだけで、寄り道する場所もないしね」
「店はけっこう派手な感じで出てるんだけどなあ。入りにくそうだ」
 平たい山並を見やりながら、伊豆急の線路沿いの細道を海とおぼしきほうへ歩く。鰹節森安と書かれた土蔵と店舗を過ぎる。石垣の家並がつづく。なかなか海がやってこないので引き返す。駅前から直進し直す。鉛筆のように立っているまばらなビルの群れを抜けると、唐突に海に出た。↓熱海↑東伊豆、と標識が掲げられている。標識の下が海岸へ出る階段になっていた。オレンジビーチと文字看板が出ている。下りていって見渡すと何もない砂浜だ。遊歩道が整備され、フェニックスが揺れている。駅前へ引き返す。オレンジの意味するところが気にかかった。
「このむだな時間が何とも言えずいいな。カズちゃんといるからだね。一人きりだとやりきれない。……オレンジってどういう意味かな」
「さっきフッと思い出したの。みかんの花咲く丘。あの歌の歌詞に、はるかに見える青い海というところがあるでしょう? あれ、伊東から眺めた海のことなの。伊東は蜜柑の産地なのよ」
「さすが、博士!」
 私は拍手してカズちゃんの唇にキスをした。
 伊東駅へ戻る。駅前の商店は土産物屋か食い物屋か喫茶店だ。土産物屋は、ほとんど特産まんじゅうと干物の二種類。小路の食い物屋は蕎麦屋が圧倒的に多い。うろうろ小路を抜けると、すぐに寂れた民家の群れになる。気まぐれに老舗ふうの写真館に入り、エリカの活け花を背に、カップル写真を撮った。できあがった写真は帰りがけに受け取ることにした。
「名古屋の新しい家に飾りましょう」
「いつもそのつもりで撮るけど、忘れちゃうね」
「そう言えばそうね。たいてい水屋の引き出しに入ったまま眠っちゃう」
「記念写真を撮るという行為そのものに胸躍るから、それでいいんだろうね」
「ええ、キョウちゃんとの記念写真は、ぜんぶ頭の中のアルバムに貼ってあるわ」
 五千円の写真代を払う。なんと高い写真だ。
 カズちゃんは道端の干物店で酒盗を一瓶、私は好物のアジの開きを三十枚買い、火曜日指定で高円寺に十枚、吉祥寺に十枚、西荻窪に十枚の宅配を頼んだ。
「シュトウって、なに?」
「青森でも訊いたわよ。カツオの内臓の塩辛。お父さんの好物なの。お酒のご相伴しているうちに、私も好きになっちゃった。さっきの酒盗は名古屋に送ってあげた。ヒラキ三十枚とは奮発したわね」
「山口、喜ぶぞ。帰ったら、めしのおかずではなく、まず三枚はいっぺんに食う。三日で十枚は食う。大好きなんだ」
「ふうん、覚えとこ」
「さ、宿探しだ」
「飛びこみは冒険ね」
「たしかに冒険だ。宿そのものが見つからなかったり、飛びこみを断られたり」
「そう。この世に二人きりって感じになるわ。とにかく町を見て歩いてもしょうがないから、宿を探しましょう」
 ピッタリ腕を組んでくる。最愛の女の滑らかな肌。顔を見る。髪、額、目、鼻、頬、あご、唇、首、肩、胸、背中、尻、脚、なんと美しい! この美しさがいつか灰になって消えることが信じられない。信じているあいだの確認だ。
「宿に落ち着いて、さっそく―」
「ウフフ……」
「もう、ギンギン」
「私もビショビショ。下着をたくさん持ってきてよかった」
 もう一度オレンジ海岸に出る。カズちゃんが、
「伊豆急でした性欲の話だけど」
「うん」
「食べものよりも何よりも、キョウちゃんが女のからだに興奮しなくなったら、キョウちゃんの第一ステージはオシマイでしょ?」
「うん。あとどのくらいかな」
「出発が早かったから、二十年か二十五年くらいだと思う。私が還暦くらいかな。そのときにキョウちゃんをシラケさせないようにすることが大事ね。キョウちゃんはどういう女にシラける?」
「痩せた女。頭の悪い女。インテリぶった女。見栄っ張りな女。物質欲の強い女。気弱な女。意地悪な女。ヒステリーの女。家事を嫌う女。イカない女」
「じゃ、私たちの中にはいないわね」
「一人もいない」
「何を見て興奮する?」
「きれいな手、真っ直ぐで豊かななふくら脛、後ろから見た背中とお尻、緩すぎないスカート」
「胸は?」
「必須条件じゃない。小さすぎなければいい」
「あら?」
 カズちゃんが指差す。冒険心が少しも満たされないうちに、すぐに見つかった。国道沿いに六階建てのビルがそびえている。かめや楽寛(らっかん)という変わった名前のホテルだ。細かく探せばもっとあるのだろうが、最初の行きがかりを大事にしてそこにきめた。
 飛びこみなのに、すぐ和室の十畳がとれた。露天風呂つき。一泊一人四千円。高いのか安いのかわからない。写真は高いと感じたのに、ここの宿泊代はそう感じない。海に面した最上階の611号室。畳が新しい。籐椅子が置いてある短い入側縁の窓に、明るく透けたカーテンが引いてある。二人で向き合って腰を下ろす。カズちゃんはスカートと下着を下ろして下半身を丸裸にし、椅子を私の脇に持ってきて座り、股を拡げて、いつでもいじれるように私の左指を濡れそぼった襞に持っていく。私は中指をクリトリスに触れるように置いてしゃべりだす。
「西松の勉強小屋―」
「え?」
「カズちゃんが初めてオマンコを見せてくれた日、自分の存在が許されたと感じた。痴漢を仕掛けた夜道の女の抵抗は当然の反応だとしても、ふつうは正面切ってのお願いというものはニベもなく斥けられるものだよ。それを自分から言い出して、隅々まで見せてくれた。愛されてると感じたし、生まれる前からカズちゃんを愛してたとも感じた。さっきのカズちゃんの、逃げ道のない完璧な愛の話がよくわかるんだ」
 柔らかく、強く、指を動かす。
「あ、あ、がまんする、イカない」
 カズちゃんは懸命に快感をこらえる顔つきになり、
「自分が斥けられる人間だと思いこんで生きてきたのね。かわいそうに。ああ、もうだめかも……斥けられる子供時代をすごしてきたんだもの。お母さんに、悪ガキたちに、それからお父さんに。あああ、キョウちゃん、動かさないで、あと三秒だから……信じられないほど美しい男の子に何かお願いされたら、どんな女だってハイって言うわ。でも、お願いされないうちにしてあげるのが愛情というものよ。脚を見せた雅江さんも、お店に連れていった法子さんも、病院の廊下でキスをした節子さんも、部屋に忍んできた健児荘の管理人さんも、道で待っていた上板橋の河野さんも、みんなみんなそうでしょ? 恋をして、そうなって、愛したの。逃げのきかない、プラトニックでない愛情を感じたの……ああもうだめ、限界」
 口を吸い、指を入れる。
「カズちゃん……」
「だめ! イク!」
 指を抜いて抱き締め、存分に痙攣させる。カズちゃんはふるえながら背もたれのへりをつかみ、促すように裸の尻を向ける。後ろ手を伸ばして私と手を握り合う。挿入する。
「あー、いい気持ち、すぐイクわ、あ、イク、キョウちゃんは焦らなくていいのよ、好きなだけ私のオマンコを感じてからイッて、あああ、イク!」
 手が離れ、椅子のへりを両手で握り締める。すぐに脈動が始まり、壁の緊縛がうねりに変わる。
「ま、またイク!」
 アクメの連続に入った。うねりがしごきに変わるので、もう十秒とがまんできなくなる。
「もう、だめだ、カズちゃん!」
「す、すごく大きい! たまらない! 何度もイク、またイク!」
「カズちゃん、出る!」
「あ、あ、あ、イク! く、苦しい、またイク! イク! またイク、もうだめええ、イックウ!」
 ふだんに数倍する激しいアクメだ。腹を抱えて律動を与える。
「しし、死ぬ! イググウウ!」
 抱きかかえて耳もとに言う。
「抜く?」
 ぶるんぶるん首を振る。
「が、が、がまんする、あああ、またイク!」
 律動を終え、ひたすら膣の脈動を亀頭で聴く。うねりが少しずつ引いていき、止まっていた呼吸が荒く回復してくる。
「幸せ。死ぬほど愛してる!」
 手が伸びてきて私の手を握る。
「最後までがまんしてくれるのはカズちゃんだけだ」
「抜くと悲しくなるから。死にそうだけど……死ねたら本望よ」
 脈動が止んだ。肩にキスをし、
「抜くよ」
「あと一分。動かさないでね。まだキョウちゃん固いから、すぐイッちゃう」
 肩や後ろ髪にキスしながら、陰茎が縮むのを待つ。
「気持ちよすぎたから縮まない」
「じゃ、そうっとよ、そうっと抜いて。イカないように……そうっと。イクとせっかくの精液を吐き出しちゃう」
 せっかくの精液と聞いて、四戸末子を思い出した。
 ―もったいね。こごさしばらくしまっておきてんだ。神無月くんを感じる。
 ミリ単位でゆっくり抜いた。膣口がふくらみ亀頭が出切った瞬間、
「ああん、イッちゃう!」
 尻の窪を緊張させて痙攣した。精液が大量に押し出されてくる。私は手のひらに受けた。カズちゃんは椅子にしがみつき、柔らかい痙攣に身をまかせている。掌の上で透明になりかけていく精液を見下ろす。きついにおいだ。本郷のイチョウ並木のにおい。カズちゃんの背中に垂らし、塗りつける。脇腹から乳房まで伸ばす。
「うれしい。塗ってくれたのね。初めて」
 カズちゃんは椅子に座り直して、手を取り、手のひらを舐める。
「おいしい。私の味もする」
 私を椅子に預け、少し小さくなった亀頭を含んで吸うようにする。
「キョウちゃんだけのを味わいたいの。……ああ、おいしい」
 シャワーを浴び、身なりを整えた。フロントに鍵を預け、遅い昼めしを食いに出る。さっきうろついたとき、小路で見かけた七福神蕎麦というのが気にかかっていた。
「信州戸隠(とがくし)そばっていうのでしょ?」
「うん。七福神も戸隠も正体不明だ」
「長野の戸隠村のそばのことよ。岩手のわんこそば、島根の出雲そば」
「それで、三大そば?」
「そう」
「三冠王、御三家、三権分立、三原色、三界に家なし、七不思議、七つの誓い、七つの顔を持つ男、雪の丞七変化、七人の侍……」
「日本人は三と七が好きね。ほかに何か思いつく? ほかの数字で競争しましょう」
「十人十色」
「悪事千里を走る」
「五十歩百歩」
「板子一枚下地獄」
「風邪は万病のもと」
「岡目八目」
「九死に一生を得る」
「五臓六腑に滲みわたる」
「人の噂も七十五日」
「武士に二言はない」
「六十の手習い」
「四面楚歌。きりがないわね。あ、ここね」


         三十一

 成木屋という蕎麦屋に入る。適当に混んでいるが、店内が広くて、厚板のテーブルが多いので気分がくつろぐ。空いている席について、七福神蕎麦を頼む。カズちゃんは戸隠そばのもり。出てきたものを見ると、何のことはない、エビ、鶏肉、蒲鉾、筍、うずらの玉子、白いキノコ、板海苔。七種類の具がふつうのかけそばに載っただけのものだった。カズちゃんが、
「この白くて小粒の茸、フクロタケって言うんだけど、世界三大栽培キノコの一つよ。あとはマッシュルームとシイタケ」
「また三大か。ほんとに人間て順位づけが好きだな」
「私たちはそういう世界で暮らしてるのよ。特にプロスポーツの世界はそう」
「うん、数字と順位づけ。人びとが大好きな世界。数字と順位がすぐれていれば喜んでもらえる世界。集中して生きられそうだ」
「がんばってね」
「うん、頑張る理由が単純だから長つづきする」
 カズちゃんの戸隠そばは、円いザルに七、八束の馬蹄形に巻いた色黒のそばが重ねてある。ボッチ盛りと言うらしい。薬味は辛味大根とネギ。半分ずつ分け合って食べる。うまくもまずくもない。
 ホテルへ戻る。向かい合って籐椅子に座る。カズちゃんはパックの緑茶をいれた。
「逃げのきかない愛の話のつづきをしよう」
「はい」
「ぼくは、たぶん、プラトニックな恋をしたことがない。けいこちゃんのオシッコから始まったせいだと思う。女と言えば、心以前に肉体だった。それどころか、肉体以前にオマンコそのものだった。二種類の女にときを同じくして遇った。心から喜んで脚を拡げてオシッコをして見せたけいこちゃん、彼女には逃げはきかない。心は愛一色だ。一瞬、縦一文字だけを見せてスケベと言いふらしたようこちゃん。彼女には逃げがきく。この二種類だ。幸いなことに、その後の人生すべてを通じて、女はけいこちゃんだけだった。逃げ回るようこちゃんのような女が男の恋心を操るんじゃないのかな。……けいこちゃんにしか遇ったことがないから、いまもって恋とはどんなものか知らない。恋というのはたぶん人生を危うくする現実的なものだと思う。ようこちゃんのような女たちがするセックスは一瞬の縦一文字だ。恋をしなくてよかったと思う。けいこちゃんとカズちゃんのオマンコを通して、一足飛びに愛を知ることができたから。だからぼくは、恋じゃなく愛は知ってるし、どこまでも自由に、いっさいを肯定して人を愛することができる。愛の中に逃げこんで、そこでかろうじて呼吸すればいいだけだから。現実的な恋は知らない。……文章は書けないかもしれない」
 カズちゃんは、
「キョウちゃんのような人しか文章は書けないわ」
 一呼吸置き、
「自分を振り返らせようとする気持ちに、駆け引きや手練手管はあっても、人を思う心に手練手管はないのよ。駆け引きや手練手管にまみれた気持ちは、恋でも愛でもないの。それはただの欲望。恋は一目惚れ、愛は永遠の一目惚れ。キョウちゃんは、けいこちゃんにも、ようこちゃんにも、私にも、節子さんにも一目惚れしたはずよ。だから、キョウちゃんも恋をしたことがあるの。だからこそ永遠の愛を知ることができたのよ。キョウちゃんがほんとうに望んでいることは、欲深い人の一時の駆け引きの煩わしさに巻きこまれないで、何の下心もなく人を永遠に愛すること。ようこちゃんには、恋も愛もないけど、けいこちゃんには恋も愛もあるわ。恋を悪者にしないでね。たしかにキョウちゃんの幼い恋がけいこちゃんのオシッコで始まっていなければ、大らかに自分を曝け出して初めて手に入る愛にたどり着けなかったかもしれない。勇気を出してオマンコを拡げなければ、オシッコをして見せられないものね。オマンコを勇敢に拡げることを心から喜ぶけいこちゃんの表情を愛情として記憶に焼きつけて、キョウちゃんはきょうまで生きてきたのね。そして、けいこちゃんの愛の表情をなんとか表現したくて、文章を書いてきたんだわ。けいこちゃんは、幼稚園の片隅でキョウちゃんを見つめていたのよ。加藤雅江さんや私や千佳ちゃんやムッちゃんみたいに恋をしていたの。とつぜんオマンコを拡げたわけじゃないの。恋に励まされて勇気を奮ってオシッコをしたの。そのまま生きていれば二人は深い恋愛関係になったでしょう。キョウちゃんは一目惚れしたけいこちゃんを永遠に忘れない深い恋と愛の人よ。そういう人しか文章は書けないわ。キョウちゃんは表現の人。恋も愛も無理に考えなくていいの。理想的な恋と愛の人だから。私たちがキョウちゃんに恋して、愛してることを観察して表現して、放っておいてくれるだけでいいのよ。キョウちゃんは恋と愛の中にいるだけでじゅうぶん。……キョウちゃんの中に放っておかれる自分を感じるとホッとする。寄り添ってるだけで幸福になれるなんて、これほどすばらしいことはないわ」
 しだいに輝きを増していく昼下がりの光の中で、カズちゃんの整った美しい顔がくっきりと際立って心に焼きつく。
「キョウちゃんの最初の恋人はけいこちゃん、二人目の恋人は野球よ」
「野球……」
「過酷な経験をして一度はあきらめてしまった〈恋人〉だから、執着したのね。やっと取り戻して永遠の〈愛人〉にしたわ。過酷な経験はもうやってこない。日本一の強打者になったキョウちゃんには、きっと二度と最初のころの恋心は湧いてこないでしょうし、恋を得たいというファイトも湧かないでしょう。それでもいつも野球に恋していてね。心から愛するためよ」
「心から恋して愛さないと、無気力というバイ菌でやられちゃう」
「そう、恋して愛するものを栄養にできるのは才能よ。気力を振り絞って熱中する情熱は才能そのものなの。いったん取りかかれば深く愛することができると知ってたから、キョウちゃんは安心して野球を一度あきらめたのよ。あきらめさせないために、私はキョウちゃんを追いかけていったわ」
「野球をあきらめさせないために―」
「ええ。それと女という生きものもね。野球と女は、キョウちゃんの最高の恋愛の対象だからよ。微妙にキョウちゃんの中では捉え方がちがうんでしょうけど、私の目にはそんなふうにしか見えない。……だから、将来、詩や小説を書くようになっても、熱中できる一生の恋愛対象として、野球と女を残しておかなくちゃだめ。キョウちゃんがいつまでも飽きずに恋して愛するたった二つの心の栄養だから」
 私は一瞬ゾッとし、
「野球も女も愛せない、そんなふうになったらどうしよう!」
 ホテルのロビーを子供たちが走り回っている。母親がたしなめる。私たちの脇を走り抜けていく。
「なるわけないでしょう。もの心ついて以来キョウちゃんはその二つだけに拘って生きてきたんだから。ねえ、キョウちゃん、キョウちゃんのそばで暮らすことのできる女は、キョウちゃんの大事な人生を自分の手で犠牲にしたいなんて思っていないのよ。キョウちゃんを愛する女でありたいと思ってるだけ。そんな女を愛せないなんてことは起こらない。この世には男を手玉に取ることが自分の存在証明だと信じてる女もたしかにいるわ。同じ女なのに、深い川で隔てられてるみたい。キョウちゃんの周りには、そういう女は一人もいない。トモヨさんにしても、自分の存在証明のために子供を産んだんじゃないのよ。キョウちゃんを愛する証拠がほしかったの。そばで暮らせなかったから。彼女は子供を産むべきだったわ。キョウちゃんのミニチュアを一人でも二人でもそばに置いておかないと、遠く離れてる彼女は生きていけない。そばにいる私たちも遠く離れている彼女も、キョウちゃんにすがりたいんじゃないの。愛して生きていきたいの。オシッコやウンコを垂れ流す老人になっても、キョウちゃんでありさえすればいいの」
「ぼくは人のために役立ってるんだね」
「そうよ、怖がらないで。みんなそばにきたのはなぜ? そばにいたいからでしょう。一生そばにいますって、私もみんなも言うでしょう? 顔や肌のそばにいることは、愛の集約的な行動よ。そばにいれば、形見に愛を転嫁する必要もないわ。それから、野球もできなくなったらどうするですって? からだが老化するってことね。観ることが残ってるじゃないの。頭が老化してなければ、人のプレイを観ながらイメージを湧かせて自分もプレイすることができるでしょう?」
 カズちゃんの膝枕で窓の外の銀紙のような相模灘を眺める。海そのものには、色と光と波のほかに何もない。海を縁取るのは常に市街だ。その市街にほのかな魅力がある。
「野辺地もそうだけど、海や山をなつかしく思い出させるのは、町のたたずまいだね。そうでなければ、こんな灰色の殺風景な海、何のなつかしみもない。青森の堤川も、あの町の雰囲気がなければ、怖いだけの川だ」
「なつかしい、明るい世界……幼いころからキョウちゃんが見たこともない世界。キョウちゃんはきっと、自分のさびしい世界をそういう世界に変えようとして野球を始めたのね。野球をすることで手に入るなつかしく明るい世界、それを自分の理想にしたのね。最初は順調に進んでいたわね。それからとつぜん野球を奪われ、絶望して、もとのさびしい憂鬱な人に戻っちゃった。でもその経験はむだじゃなかったわ。キョウちゃんはよく考える強い人。しっかり考えて、理想は抱くだけでは実現できないとわかったの。実現するには一途な信念が必要で、絶望は理想の敵で、実現には協力者が必要で、何よりも希望を失わないことが重要だと思い知ったはずよ。権威ある人が真実を曲げても、たとえ座れと言われ黙れと命じられても、希望があれば立ち上がれる、前へ踏み出せる、そしてよりよい世界が作れる、って。とうとう自分の世界が実現したわ。絶望を捨て、一途な信念を持ち、高い希望を持ちつづけながら立ち上がり、進み、強い味方を得て、とうとう理想にたどり着いたからよ。でも、いまもキョウちゃんは絶望とさびしさでいっぱい。さびしく、絶望した、みんなを赦す正義の人。それでいいの。もし人が自分自身を謙虚に見つめれば、絶望とさびしさが理想の実現のために必要だとわかるはずだから。たぶん、分け隔てのない赦しのためにもね。……キョウちゃん、生まれてきてくれてありがとう」
 カズちゃんは真綿のように私を抱き締めた。私は言葉を発する必要がなかった。
         †
 ガラス戸の外のベランダにある露天風呂に入る。ぬるい。カズちゃんの大きな腰に自分の腰を寄せる。昼の月が出ている。
「……走りこみだけでなく、からだ全体を鍛えようと思ってる。この十二月、一月に、肉体労働のアルバイトをするのなんかどうかなあ。建設現場かどこかで」
「そんな現場が都合よくあるかしら」
「新聞で探してみる」
「そういうことじゃないの……。やめて。からだなら、どうやったって鍛えられるじゃないの。せっかく福田さんに食生活を整えてもらって、あとは入団式とキャンプを待つだけでしょう。理想の世界で順調に暮らすことは罪じゃないのよ。どうしてキョウちゃんはそうなのかしら。自分に極端な苦しみを与えるのって、おかしな美学だわ。もちろんキョウちゃんがそんなつもりじゃないってことはよくわかってる。怒りとか、悲しみとか、そういう熱のあるものから卒業してしまった自分に、引け目を感じてるのね。むかしからキョウちゃんは肉体労働にあこがれてきたかもしれないけど、まんいちそんなアルバイトをしても、西松の飯場の人たちと築いたような人間関係を期待するのは無理だと思うわ。あの人たちは土方じゃなく、エリート社員だったのよ。あの食堂のあった建物全体も、正確には飯場じゃなく、社員寮つき事務所。ほんとうの土方は一人もいなかったのよ。キョウちゃんはホンモノの土方とはうまくやっていけないわ。酒井頭領とも一度も話をしたことがなかったでしょう? 去年の冬の枇杷島市場は、どうだったかしら? 仲買の商人に雇われたんでしょ? 荒くれた建設労務者じゃない。飛島建設もそう。みんなエリート社員だったでしょう? キョウちゃんは荒くれた人たちとはぜったいうまくやっていけない。ギクシャクした関係のまま働いていたら、ぐったり疲れてしまうわ。無意味な疲労。からだなんか鍛えるどころじゃない。でも本心は、芸術のための経験がしたいんでしょ? 一度やってみればいい。すばらしい芸術作品は肉体労働からじゃなく、想像から生まれるということを思い知るはずよ」
 カズちゃんが、大きくひとつ、ため息をついた。とたんに肩が下がり、五つも老けこんだように感じた。背中にかすかに戦慄が走った。私はカズちゃんの胸にすがった。
「ごめんね。ぼくが浅はかだった。カズちゃんの言うとおりにする。カズちゃんは、酒井さんの飯場でも働いたんだね。だからよくわかってるんだ」
「飛びとびに二カ月ほどね。酒井さんの奥さんに手を貸してくれって頼まれて。ほんものの労務者は、人間的な完成度はとっても低いってわかった。指のない後藤さんや、宮本さんは例外ね。ほとんどの人たちは、金と娯楽とセックスのことしか考えていない。クニに仕送りするためにまじめに働いている人は、十人に一人もいない。あの人たちにキョウちゃんの人間性を受け入れる心の余裕なんかないし、しゃらくさく思っていじめ殺そうとするかもしれない」
「カズちゃんはいつもそうやってぼくを守って、いっしょにいてくれる。子供のときも、大人になってからも。ほんとうにごめんね」
「からだを鍛えるためなら、いままでどおり走ったり、筋肉鍛錬したりすればいいことだし、そこらへんにスポーツジムもスィミングスクールもあるし、いくらでも簡単にできるわ」
「じつは、来週の土曜日から、週一で二カ月、近所のジムにかようことにしたんだ」
「そう、それでいいのよ。キョウちゃんはもう、じゅうぶん野球で〈肉体労働〉をしてるのよ。からだを鍛えるためじゃなく、大勢の人にキョウちゃんの才能を楽しんでもらうためにね。土方をやって、だれに感動を与えようって言うの。私がいくらこと細かに話しても、キョウちゃんの身に起こった不幸の何分の一も人に伝えられないわ。キョウちゃん本人は、もちろん伝えられない。当事者は語らないものだから。実際、語っている私自身キョウちゃんのそばにいようとして夢中だったから、あの悲劇の中にいた実感がないの。ただわかっていることは、キョウちゃんが心にひどい傷を負ったということ」


         三十二

 抱き寄せ、乳首を吸う。指を襞にあてがう。
「気持ちいい……そうよ、いつもそうやって私たちを幸せにしてくれればいいの。私たちが幸せになれば、キョウちゃんも幸せになるわ。よく食べ、よく眠り、心とからだのエネルギーを取り戻し、だれにも恥じない才能を大勢の人に喜んでもらうのよ。一つの才能がしっかり開けば、いつか芸術のためにきちんと机に座る準備ができるわ。そのもう一つの才能の開花こそキョウちゃんの目指すものでしょ。青森でそう話し合ったじゃない。……キョウちゃん、イキそうよ。抱いて、強く抱いて」
 指を止めずに、しっかりと抱き寄せる。
「ああ、愛してる、キョウちゃん、死ぬほど愛してる。イクわね、イク、イク!」
 痙攣する腰を抱き寄せ、唇を吸う。彼女は舌を吸いこむような激しいキスをする。私のものを握る。跨り、胸を合わせてくる。私の肩にあごを載せ自分で動きだす。やがて岩造りの風呂の縁に片手を突いて腹を反り上げ、私が抜け落ちたのにも気づかず、心ゆくまで痙攣する。
         †
 三泊した。ひたすら食べて、セックスをして、話をしながら寝て、起きて、朝風呂に浸かった。爪を切られ、耳垢を取られた。一日じゅうカズちゃんの肌から離れなかった。
 散歩と言えるほどの距離を出歩いたのは、二日目の一度だけだった。民家に混じって異国風の建物がちらほら見える川沿いの遊歩道を歩いた。枝垂れ柳が連なり、彼岸桜や山藤の咲く一キロほどの道を散策しながら、温泉町の情緒とやらに浸った。都会ふうにブランコと砂場がしつらえられているのをめずらしく感じて、思わず入りこんだ小さな公園に、木下杢太郎という作家の詩碑があり、その上に寒桜の枝が広がっていた。開花の季節の美しさをありありと思い浮かべることができた。道の途中の神社に立ち寄った。
「音無神社。流人頼朝と八重姫か。いつの世も、恋愛は事件なんだね」
「キョウちゃん……」
「なに?」
「死んじゃだめよ」
「どうしたの、とつぜん」
「ときどきキョウちゃん、心臓が止まりそうな表情をするの。キョウちゃんは私の心臓だということ、忘れてないわね」
「いつも思い出してる。そんな表情に見えたとしたら、長年やり慣れたハッタリだよ」
「いいえ、目でわかる。死を恐れてない目よ」
「……ね、カズちゃん」
「なに?」
「年とったら、いっしょに暮らそう」
「いつもいっしょに暮らしてるじゃないの。名古屋でもいっしょの家に暮らすのよ」
「四六時中、いっしょに暮らすんだよ。おたがいに思い出して暮らすんじゃなく、空気みたいに混ざり合って。爺さん婆さんになって、夕方になったら、二人で空地の紙芝居屋を捜して歩くんだ」
「いまどき紙芝居屋さんなんていないわ」
「だから探して歩くんだ。冬は家に閉じこもって炬燵にあたりながら、嘘をつき合うんだ。読んだ本や、映画や、流行歌のことをしゃべりながらね」
「嘘って?」
「愛し合うこと以外は、ぜんぶ作り話だよ」
 カズちゃんの顔がゆがみ、涙がこぼれ落ちた。
「……もっともっとキョウちゃんを幸せにしてあげたい。生まれっぱなしで、ボーッと幸せでいられた人を、寄ってたかっていじめて―。あれから四年しか経っていないのによくここまでこれたわ。もうだいじょうぶ。私たちがいるし、いじめた人たちもキョウちゃんが自分から遠い人だと思い知ったから。もうだれもキョウちゃんを自分に近い存在だと思ってない。自分から遠い存在は、眺めるしかないのよ」
「……カズちゃんは、最初から本気でぼくのことを愛したんだね?」
「そうよ、最初から。美しくて、エロチックな人だもの。でもそれだけなら、だれにでも起こるあたりまえの感激ね。その二つの要素を持っていても、光のない男は愛せない。身近でない強い光。小学生のころ、キョウちゃんのような輝きを持ってる小学生に道で一度も出会ったことがなかった。当然、いまのキョウちゃんのように育った大人もいない。そのころから遠い強烈な光のようなキョウちゃんのもっとそばにいきたいって思った。そんなふうに思ったのは、きっと私一人ね。遠くで熱く光り輝く人。その遠い暖かい光でみんなを平等に温める人。強い光だとわかっていて近づかなかったのは……お母さん」
「おふくろ?」
「そう。あまりにも自分から遠い輝きに思えたから、キョウちゃんに背を向けるしかなかったの。遠く輝く人を尊敬して愛することなどできないもの。自分から近づいて触れないかぎり愛せない。もしキョウちゃんを身近に引き寄せて愛していたら、せいぜい―父親と同じように好きに生きられては困る、好きに生きて人に認められては困る、父親と自分の歴史が繰り返されるから―そんな程度の悩みですんだでしょう。でも、お父さんより遠く輝く人だとわかったとき、引き寄せて愛せなくなった。ヤッカミや嫉妬が芽生え、とうとう恐怖するようにまでなったのね。自分に実害なんか及ぼさないのに、キョウちゃんをお父さんに見立てて徹底的に遠ざけようとしたのね。お父さんもキョウちゃんも何の害もない人。二十歳のころの節子さんも、お母さんと似たようなものね。思いのままに生きてるキョウちゃんが、自分に害を及ぼすと錯覚して遠ざけたの。節子さんはあるとき恐怖を捨て、強い光に近づいて愛することに目覚めたけど、お母さんは目覚めなかった。これからも目覚めないでしょう。自分しか愛せない人が愛に目覚めることは奇跡よ。節子さんはほんとうにラッキーだった。目覚めなければ、まちがいなく自己愛にまみれたまま不幸になってたでしょう」
 あのころの母との対話を思い出した。
 ―世間がどう見ると思ってるの!
 ―ぼくは世間のために生きてるんじゃない。だれにどう思われようと関係ない。
 ―みっともないって言ってるのよ! わからないのか、自分のしてることがみっともないことだってわからないのか。
 私は母にくっついて合船場を出ていった日から、ほど経ずして、彼女に求愛してもむだだと肌で悟った。五歳だった。
 ―わからないよ! 何とでも思いたいように思えばいい。だれもぼくの人生を肩代わりしてくれるわけじゃないんだから。
 ―そんな屁理屈、本気で通用すると思ってるのか!
 その挙句、私はふたたび合船場へ戻されたのだった。
「ぼくはカズちゃんに甘えながら安心して生きていくよ」
「うんと甘えてね」
 途中の靴屋で黒鼻緒の下駄を買う。真新しくて鼻緒がまだ足指に馴染まない下駄がうれしい。朴歯を痛めないように慎重に歩く。背筋が伸びる。
「大きな足。格好いいわ。男の小さな足はみっともない」
「そんなこと言われたの、初めてだ」
「私も言ったの初めて。フフフ」
 長くゆるやかにウェイブのかかる髪を背中に垂らし、前髪は上げて白いおでこを出している。三十代の半ばの女。嫌味な若作りに見えない。丸襟の白いブラウスの上に淡紅色のカーディガン、ゆるくフレアがついた紺のロングスカート、黒いパンストに焦げ茶のローヒール。いっさい化粧をしない、百六十三センチのカズちゃんの美しさが人目を引く。素封家の娘か女優のいでたちだ。これがカズちゃんの普段着だけれども、ミニスカートが大流行する世の中では、大正か昭和初期の清楚な服装に見える。この着衣の下に、服と同じように清楚で美しいからだがある。
「人に見せようという演出をしないからこそ、ここまで素(す)の美しさが引き立つんだね。男でも女でも、常に自分が人の目にどう映るかを気にして、他人の評価を基準に行動するやつが多い。そういうやつの気に障(さわ)らないように生きるのなんてまっぴらだから、人断ちの程度が激しくなる」
「人を断つには自分を恃(たの)むという気力が必要よ。ちょっと油断すると、自動的に集団へ流れるから。直ちゃんもキョウちゃんみたいな男に育ってほしい。トモヨさんとも話したことがあるんだけど、名門、名門と通過して、最後に東大に入るような子にしちゃいけないって。気取った学校で背伸びをして、生活環境も価値観もちがう子供たちの中で気を使って生きるよりも、ふつうの幼稚園、ふつうの小学校、ふつうの中学校と身の丈に合った場所で遊びながら、しっかり勉強もし、スポーツもし、自分の好む進路を決めていくのが直ちゃんの幸せだろうって」
「集団の力で性格を卑しく捻じ曲げない配慮だね。実際それが万人の幸せなんだけど、なぜかみんな幸せになりたがらない。あえて不幸の中で肩肘張って生きるのを、まっとうな人生だと思ってる。そうやって性格を捻じ曲げてしまった不幸なやつらが、国の権力構造のカナメの地位に就く。ぼくは不幸なやつが苦手だ。みんな彼らの不幸を尊敬し、好もうとする。不幸というやつは、幸福にかまけない大人のにおいがするからだよ。ぼくは敬さず、遠ざける。直人が不幸な人間になって、〈ぼくに〉嫌われないように祈ってる」
 戸隠そばの向かいの、学生街にありそうな古めかしい喫茶店に入る。エリーゼ。有線のイージーリスニングがかかっている。広い店内、ゆったりした座席。
「すてき」
「いい店に入ったね」
 座って見回すと、人びとや彼らを囲んでいる調度のたたずまいが目に快適に迫る。カメラを肩に吊るした観光帰りのカップル、習慣的に立ち寄っているふうの老人夫婦、子供を何人か連れた普段着の青年夫婦。アイスコーヒーを飲む。濃い味ですばらしい。
「ホテルのロビーのコーヒーよりもうまい。クリームあんみつも食べてみよう」
 注文する。オーソドックスな盛りつけで、お茶もついてきた。美味。
「おとうさんが設計士まで雇って、キョウちゃんの家造りに夢中みたい。リクエストどおりに設計図を引くつもりだが変更はないかって電話がきたわ」
「どうせ長く暮らす家なんだから、この際お父さんに甘えてしっかりしたものを造ってもらおうかな。先回は大雑把なことを言っちゃったから。まず、五台くらい駐車できるような屋根つきのカーポートがあること」
「ちょっと待って、メモを取るわ」
 手帳を取り出す。
「門柱を立て、板引戸の門扉をつけ……ぐるりの生垣はキンモクセイ、門から家の玄関まで飛び石を埋めた砂利畳を敷く。……庭は柿の木とモクレンと竹をかならず植え、低木の植樹や花の種類はお父さんの趣味にまかせる。……池はいらない。……玄関戸を入って片側に大きな下駄箱、片側には小物収納を兼ねた長い物置台、そこに花瓶や電話を載せる。一階に、庭を眺める食堂兼居間の十二畳の和室、いつかカズちゃんの言ってた東南角。隣に十二畳の音楽部屋の洋室。その奥に二人の寝室。……広い廊下を挟んで、居間の向かいに数人で立ち働けるような北村席ふうの台所。食事もできるようにキッチンテーブルを置く。……音楽部屋の向かいに、四、五人は湯船に入れる湯殿の大きい風呂と、引戸で仕切った洗濯場。それから、寝室の向かいに、できるだけ広い和室の書斎、奥の壁の一面をすべて造りつけの書棚にして、カズちゃんの机とぼくの机を並べて二つ置く。……廊下の奥に造りつけの書棚のある広めのトイレ、その前の廊下から庭の中へ渡り廊下でつながった離れの八畳小屋、トイレつき。母屋と同じ間取りで二階の空間が乗る。いや、離れに二階はいらないな。お父さんにまかせよう。……台所と風呂の上に、二間に区切った和室の客間。居間と音楽室の上には、庭を眺め下ろすテラス付きの、襖で開放できる適当な広さの和室二つ。二階の廊下側の戸はすべて障子。二階の残った帖数で納戸部屋二つ。どの部屋の窓も大きく。和室には家具らしい家具は入れない。洋室には造りつけの衣装戸棚。電話は玄関と勉強部屋に置く。二階の和室は客部屋にする」
「うわあ、たいへん! でも楽しそう。音楽部屋は二階へ持っていって、一階はトレーニングルームにしたらどうかしら。ジム器機を置いて」
「なるほど。やっぱりもっとゆっくり考えないとだめだね」
「とにかくわかったわ。まずこの案を基本に家を造るよう、造りかけの部屋や廊下は変更を加えるよう、今夜おとうさんにアウトラインを電話しとく。細かいことは喫茶店のほうといっしょに手紙を書くわ」
「ぺらぺらしゃべったけど、結局のところ、大きい家のイメージが湧かないんだよ」
「どうにかなるわ。三月の初旬には私のお店といっしょに完成する予定。延びても中旬ぐらいかな。キョウちゃんが入るのはキャンプが終わった三月末からだから、それまでは風を入れるために、週に一回はおかあさんが掃除しがてら細かい点検をするって。むかしの私のマンションみたいに」
「カズちゃんも店で忙しいし、お手伝いを一人雇おうと思うんだけど」
「そうね、私一人だと毎日の家事が手薄になるわね。おトキさんに頼んで、北村の台所から一人入ってもらいましょう」
 ふと気になって尋いた。
「トモヨさんと直人、お城のマンションと北村席を毎日いききしてるんだろうか」
「三日にいっぺんぐらいね。汚れた子供服はあっというまに貯まるし、自分の汚れ物もあるから。直人は席に住みついちゃったみたい。このあいだトモヨさんが上京したとき、代わりにお乳をあげてた女の人が、トモヨさんの離れが完成するまで賄いという名目で北村に母子でしばらく住むことになったみたいよ。トモヨさんが北村席に住みついたら、お役御免。トモヨさんは三日に一度、マンションへ掃除に帰るんですって。蒲団も干さなきゃいけないしね」
「みんなでスクラム組んで直人を育ててくれてるんだね」
「持って生まれた直人の人徳ね。キョウちゃんと同じ。もの心つかないころに幸せでないと、もの心ついてからまともな人間にならないそうよ」
「……カズちゃん、トモヨさんによくしてくれて、ありがとう」
「マンションのこと? 使わなくなったのを譲ってあげただけよ。塙席や北村席の従業員部屋に、キョウちゃんの恋人を住まわせておけると思う? ちゃんと役立ててくれてよかったわ。いまはかえってじゃまくさくなっちゃったわね。千佳ちゃんかムッちゃんに住んでもらいましょう。山口さんが名古屋にくるのはずっと先の話でしょうから」
「マンションだけじゃない。養子のことや、出産のことや……」
「くどいこと言わないの。一心同体って言ったでしょう」


         三十三

 カズちゃんは自分のあごに指をつけて、
「二人目の子供を妊娠したんだから、もう席とマンションを往復なんかしてられない。ほんとにトモヨさんたらマジメなんだから。賄いなんかやめて、デンとすればいいのに。彼女、北村家のちゃんとした娘なのよ。私のおねえさんでもあるし。おトキさんがいくら言ってもだめなんですって」
「彼女は甘えない人なんだ。でも二人目はじっくり育てたほうがいいな。いままでのマンションは人に譲って、北村に住みつくべきだ」
「ぜったいそう思う。今度は強くお願いしなくてもだいじょうぶでしょう。親子の棲み家ができるんだから。マンションは人に譲るというより、みんながいつでも泊まれる部屋にしたらどうかしら」
「いいアイデアだね。直人も席に親しんでるんだし、トモヨさんも未練はないだろう」
「トモヨさんがあのマンションを気持ちの拠りどころにしてるなら仕方ないけど」
「それはないと思う」
 その夜カズちゃんは、長いことホテルの電話で父親と話していた。
 三日目の日曜日の昼に、カズちゃんはインスタントカメラを買ってきて、かめや楽寛の館内の写真を撮ったり、私のスナップ写真を撮ったりした。二人のカップル写真もフロント係に撮ってもらった。手紙といっしょに北村席宛てに送るのだと言う。そう聞いて、私も何枚か彼女のスナップ写真を撮ってやった。
「トモヨさんが喜ぶわ。直ちゃんにも、おかあさんの〈双子〉の顔と、父親の顔を覚えてもらわないと」
 毎夜の食事は豪華だった。ホテルにはめずらしく、毎日品を代えながら、でき合いのものを一度も出さなかった。あわび、キンキの煮付け、大鯵の干物、大振りのベーコン、イカ釜飯、どれもこれもうまかった。それもカズちゃんは写真に撮った。
 深夜に二人で露天風呂に浸かりながら、真っ黒い海面に白い月が光の条を長く伸ばしている様子を眺めた。いつまでも見惚れた。風呂から上がると、旅館の浴衣を着、カメラを持って入側縁に戻ってくる。ため息をつきながら何度かシャッターを押した。それからカズちゃんは素子と千佳子に電話した。
「寝てた? こんなに遅く電話してごめんね……うん……うん……楽しいわよ、申しわけないほど。いつか素ちゃんもキョウちゃんとね。……吉永さん? あ、きょういっしょに歩いてあげたのね、節子さんもいっしょに……決まったの、そう、よかった、帰ったらゆっくり聞くわね……露天風呂から月がね、とっても……」
 月光の説明をする。私も上がって浴衣を着た。
「キョウちゃんの声聞きたい? いまお風呂から上がってきたところ、代わるね」
 カズちゃんに差し出されて電話を代わる。
「素子、元気にしてる? さびしくない?」
「さびしいよ。こんなにさびしいの、初めてや。あたし、キョウちゃんがおらんようになったら死ぬわ。三日間、ずっと思っとった、キョウちゃんのおらん生活がどんなにさびしいか思っとった。愛しとるよ、死ぬほど好きやよ、キョウちゃん。あしたの二時には店上がって帰っとるでね」
「愛してるよ。素子が思ってる以上にね。ちゃんと食べてる? 千佳子と毎日いっしょに料理作ってるんだろ。こっちは毎日ご馳走だよ」
「朝は千佳ちゃんとフジのモーニング、昼はポート、夜は千佳ちゃんと自炊。ちゃんと食べとる。倶知安でも一度食べた。千佳ちゃんは、よう勉強しとるわ。あたし、モーパッサンの短編集もだいぶ読んだよ。ちょっと、千佳ちゃん呼んでくる」
 パタパタとスリッパの音がして、やがて、ドンドンという足音を連れて戻ってきた。
「神無月くん? ああ、声聞けてよかった! さびしかった。とってもさびしかった」
「勉強がんばってるって」
「それしかすることがないもの。自分の将来のためだし。伊東はどうですか? 楽しいですか」
「うん、楽しい。一日カズちゃんと歩き回ったり、抱き合ったりしてる。町自体は寂れてるけど、のんびりしてて、時間を忘れる」
「素子さんと旅をしたあと、暇ができたら今度は私と」
「うん、約束する。とにかくいまは受かることが先決」
「はい! 和子さんの声を聞かせてください」
 電話を代わる。
「……うん……そう?……鯵のひらき、もう着いたの? それをおやつにして、それから夕食の買物にいこうか。鍋にする? うん……うん……わかった。三時には着くと思う。あ、素ちゃん……え? 浜中さん? ……シーズンオフの……うん、うん、……即答はできないわね。とにかく、帰ってから、青森に電話入れる。じゃね、すぐ寝てちょうだい。おやすみ。じゃ、キョウちゃん、おやすみなさい言ってあげて」
「おやすみ」
「おやすみ!」
 二人の声がカズちゃんの握った受話器から聞こえた。電話を切って、カズちゃんは私に微笑みかける。
「素ちゃんも千佳子さんも、とてもさびしがってた」
「素子は東京にきてから、一日もカズちゃんと離れたことがなかったからね」
「私より、キョウちゃんと離れたからよ。トモヨさんや文江さんがどれほどさびしいか考えてしまうわね。あ、それから、東奥日報の浜中さんが、今度は東京の生活を一週間ぐらい取材させてほしいって。一月の中ごろ。どうする?」
「受けるよ。あの人たちはぼくのことが好きなんだ。ぼくも気に入ってる。いっしょにいて安心感がある。山口と行動する。千佳子のじゃまをしないように、高円寺の取材はサッと切り上げてもらおう」
「ほかの新聞社はどうなってるのかしら」
「吉祥寺の家はジャイアンツがきたくらいだから、とっくに知れてる。高円寺はだいじょうぶだ。吉祥寺に主立った新聞がこないのは、今回の電撃契約のことでぼくのことをいやなやつだと思ってるか、人間的に苦手だと感じてるからだね。優勝会のときに一人の記者に揶揄された。簡単に言うと、思い上がった低能児という野次だ。そんなのは氷山の一角だね。企業体の利益を損なうことはぜんぜん頭になくて、個人的な嫌悪感から取材にこないなんて、ふつうは信じられないだろうけど、そんなもんだと思うよ。そうそう、いま思い出した。春季シーズンが終わってすぐのころだったな、ある民放のテレビ局が電話してきたんだ。バッティングセンターで子供たちの前で何本か打って見せたあと、子供たちに技術指導をしてほしい、そのあとで未来の野球少年に希望を与えるようなコメントもしてほしい、と依頼してきた。子供に教えるほど慈善家でもないし、暇人でもない、ぼくの能天気な話や特殊な技術指導など、ふつうの野球少年に何の参考にもならない、と応えたら、舌打ちして電話を切った。叩きつけるようにね。説得して出演させれば、相当な視聴率を稼げたろうし、大きな企業利益も出たはずだ。それなのに舌打ちして受話器を叩きつけたということは、六大学の三冠王より、自分の個人的な機嫌を尊重したということだ。集団の利益よりも、自分の機嫌が大事だったんだ。そういう人間の集合体がマスコミの正体だ。勢力のある権力者と同じ心の動きだ。彼らは常に機嫌をとられたがる。だから、半年間機嫌を損じつづけたぼくの取材にはこないし、もし世間道徳に悖(もと)る行動を嗅ぎ当てたら、あっという間に野球界から葬り去るだろうな」
「ふうん、そっか、だからどんな有名人も、マスコミにペコペコしてるのね」
「うん、現代の芸術家が評論家にペコペコするのと同じだ。自分を助平ったらしく売り出したいやつや、どうにか売り出した名前を葬られたくないやつは、どいつもこいつもみんなペコペコする。だから、無能者がつけあがって、気弱な外道になった有能者を蹂躙するんだ。まったくあべこべのことをして、その矛盾がまかり通ってる。マスコミの正体というより、社会の正体だね。せっかく有能に生まれた者の関心が、有能な命を燃え尽きさせることじゃなく、無能者に媚びて細々と命の火種を守ることに移っちゃったからだ」
「やっとキョウちゃん、自分のことを有能者と言ったわね!」
「口が滑った」
「ほんとうのことなんだから、これからもそれを通してね。胸を張って。でも、そういう仕組みなら、プロでうまくやっていくのたいへんそうね。一年もつかしら」
「もたせるよ。西松の人たちと再会を果たすまではやめない」
「ホームラン王を一度獲るまでもね。長もちは、私たちの心がけしだい。康男さんがあそこまで神経質になった理由がよくわかるわ。暴力団と関係があると知れたら、キョウちゃん、即死だものね」
「快適な死だけど、少なくとも二年は長もちさせたいな」
「かわいがってくれるマスコミは大切にしなくちゃ。東奥日報さん、一週間どんな予定なのかしら」
「こちらまかせだろう。……禅林寺、グリーンハウス、駒場、三四郎池、ラビエン、高円寺、これで六つ。そういう景色の中にぼくが写っていればいいだけだ。林や御池たちにも会わせる。上板橋のサッちゃんと、荻窪のトシさんと、福田さんには会わせない。記者たちの驚きの範囲を超えてる。驚かないほうが異常だ。ぼくを好む人間を驚かせたくない。会わせるとしても名古屋に同行するメンバーだけにする。これからも東奥日報以外の取材は受けない。受けたら、ぼくは野球と関係のない人格的非難を浴びて、数年の燃焼も難しくなる」
 カズちゃんは小さくうなずいて、
「そういう可能性が出てきたら、こっそり康男さんや若頭さんの力を借りましょう。松葉会は政界ともコンタクトが強いはずだから」
「そういうのは極力避けたいな。数年居直って、撤退しよう」
「そうね。でも、最大限の努力をしましょうね。撤退はそのあと」
         †
 靴をカズちゃんのバッグにしまい、下駄を履いた。チェックアウトをし、賑やかな商店街を歩く。フジにだけ土産を買った。マスターに鯵とキンメの干物の四枚セット、金城くんたちには、わさびこんぶの瓶詰めを買った。
 駅へいく前に、写真館で記念写真を受け取った。私は色の白さが目立ち、カズちゃんは胸の大きさが目立った。二人とも非の打ちどころのない目鼻立ちで写っていた。
「お二人とも、におい立つような美しさですね。余分に現像して店のウィンドウに飾ることにしました。よろしいでしょうか」
 私たちは二つ返事で、
「どうぞ」
 と言った。もともと名前を伏せて申しこんだので、二人の正体は気づかれていない。遠い土地の温泉街のつましい写真屋のウィンドウに、美しいカズちゃんと私がある一日のある一瞬を生きた証拠が残されていると思うとうれしかった。
 売店で祇園の幕の内弁当とお茶を買って、一時三分、特急踊り子号に乗りこんだ。東京駅に到着予定時間は二時四十九分。海側の座席を取ったが、景色よりもカズちゃんの美しさを眺めるのに忙しかった。飽きない顔というのがこの世にあるのだ。
「年齢って、何だろうね」
「もう、キョウちゃんたら、恥ずかしい。そのうち〈くる〉わよ」
「こないな。ぼくは陽に曝されてるから、くるよ。スポーツ選手は仕方ない」
「人間はみんなね」
 きょうも私に合わせた幼い会話が始まる。弁当の包みを開く。鶏の唐揚げ、ホタテの唐揚げ、エビの具足煮、レンコンの天麩羅、小粒なチキンボール、卵焼き、蒲鉾、煮豆。白米の真ん中に梅干が埋まっている。食べながら、ついでに海を眺める。カズちゃんが、
「野辺地の寒そうな海、忘れられない。あの海をぼんやり眺めてたキョウちゃんがかわいそうでしょうがなかった」
「カズちゃんは旅館で働いたね。幼稚園でも。苦労かけた」
「何の苦労? 幸せいっぱいだったわ。いまも……ずっと」
 梅干を箸でつまんでカズちゃんの弁当に載せる。
「だめよ、食べなくちゃ。からだにいいんだから。風邪や癌の予防にもなるのよ。高血圧や糖尿病にも……」
「わかった、わかった、食べる」
 つまみ返して口に放りこむ。
「ゲー、最悪」
 カズちゃんが箸を持った手で口を押さえ、からだを屈めて笑う。女が心から笑うと、みんなばっちゃの笑い方になる。あたりを見回しながら、唇を突き出し合ってキスをする。




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