第一部


一章 城内幼稚園





         一

 見上げると、天窓の開いた天井に太い梁が渡り、じっちゃの寝間の鴨居の上で柱時計の振り子が揺れていた。床一面に黒光りする板が敷きつめてあって、一帖ほどの細長い囲炉裏が目の前にある。自在鉤に吊るした鉄瓶が、シュンシュン鳴っていた。
 ばっちゃの寝間と子供部屋を仕切る柱に、日めくりの暦がぶら下がり、一九五二年と読み取れる。暦の下にダルマ印の薬袋が垂れ下がっている。板間の隅の仏壇とは別に、その上方の天井近くに紙(かみ)垂(しで)を下げた神棚が打ちつけてある。
 板間は十八畳、じっちゃの寝間は六畳、客間を兼ねたばっちゃの寝間は十畳、子供部屋は六畳だ。じっちゃの寝間の脇戸から土間まで縁側が通っている。縁側の雨戸はたいてい閉められていた。
 板間から一段低く土間が走っていて、板間とは六枚の戸障子で仕切られている。土間の上に天板が渡され、スキーや、大工道具や、ストーブの煙突や、用途の知れない大小のガラクタが置いてある。そこへはハシゴをかけて上る。土間の途中に跨げるほどの高さに、板間の縁側から渡し板が架けられ、薄明るい台所に通じている。台所の袖には、水を溜める大甕が置いてある。甕の脇が勝手口になっている。
 架け板の向こうに土クドがあり、突き当りの仕切り戸を開けると、薪を積んだ納屋になる。納屋の出口近くに落とし便所がある。じっちゃはこの距離を厭(いと)い、たいがい縁側で小用をすませる。納屋の戸の外は、広い畑だ。トウモロコシとジャガイモとニンジンを栽培している。肥料は人糞だけだ。
 畑の外れに背の高いスモモの樹が立っている。畑はスグリの生垣で仕切られ、その外に細道が走り、道の一段下は草地だ。ところどころに肥溜めが掘られているので、虫取りなどで踏みこむのはひどく危険だ。草地の向こうは、鉄条網で仕切られた見渡すかぎりのリンゴ園になっている。
 土間を戻ってもう一方の外れの突き当たったところが出入り口で、玄関はない。戸の外がすぐ道だ。新道という名がついている。向かいの数軒は平伏した古い藁葺き屋根の家が並んでいて、それぞれに洞穴のような戸口が開いている。合船場と付き合いはない。その並びと杉山商店とのあいだに葱坊主の生えた空地があり、そこに切られた私道を通り抜けると野辺地中学校に出る。杉山商店は野菜、果物、干し魚、清涼飲料水などを売っている。
 商店の左は、ばっちゃの友だちのハナちゃんのいる横山家、その並びはこんもり庭木の植わった名も知れぬ旧家、その家の塀に沿った辻を曲がって突き抜けると、やはり野辺地中学校に出る。旧家の先は、大通りの郵便局に出るまで一軒の家も知らない。目を戻して右手を見る。平伏した藁葺きの群れの右は、和田電気、その右に水を汲んだり洗濯したりする井戸がある。踏切までの向かい筋はこれだけ。和田電気のガラス戸はいつも閉まっていて、商売をしているふうはない。本店は新町にあると聞いたことがある。
 合船場の右隣の大造りの二軒の名は知らない。その向こう隣は、井戸に向かい合う田島鉄工だ。豚を飼っている。ばっちゃと淡い付き合いがある。この先が踏切。合船場の左隣は杉山という家で、名前しか知らない。それに隣接する数軒は家の前を通り過ぎたことしかない。その隣は大ガラス四枚戸の山田畳店、空地、ヤジ煙草店とつづく。ヤジには駄菓子やメンコも売っている。痩せた婆さんが店番をしている。小道を挟んで角(つの)鹿(か)精米店。この店の二階で、毎年祭囃子の練習をする。その先は大通りまで殺風景なトタン家がつづく。もちろん名も知らないし、付き合いもない。
 右の踏切を越えると、浜坂が野辺地湾へ下っていく。左の郵便局を越えると新町の繁華街になる。どちらも未知の領域で、三歳の私の生活環境は、踏切から郵便局までの、じつに狭い範囲だ。ばっちゃといっしょに人を訪ねたこともない。私の安住の地は、じっちゃの膝だ。私は彼のたくましいあぐらの中にすっぽり収まり、頭のてっぺんにチクチク髭を感じながら、彼といっしょに新聞を眺めている。煙草のにおい。
「ばかやろう解散か―」
 とじっちゃが言った。私はじっちゃの指示を辛抱強く待っている。彼の太い指の命じるままに平仮名だけを拾い読みするのだ。
「だば、これは?」
「める」
「よし。これは?」
「なくなった」
「よし。だば、これは?」
「について」
「よし」
 上機嫌な息づかいが私の頭をやさしく包む。
 私はじっちゃの自分に対する愛情の強さに喜びを覚えながらも、こっそり気がとがめている。私と同じような事情でここに預けられている従兄の義一(よしかず)が、横座にうずくまって耳をそばだてている。彼は人がしゃべっていることなら何でも聴きたい、見ているものなら何でも見たいという性質なので、ときどきわざとらしいあくびはするけれど、気を逸らしているわけではない。彼はどこであくびをするのも同じだと思っているから、ほんとうに眠いときでも、仔細らしく耳を立てているときでも、自然の要求にしたがっているという格好をする。
 義一は、二つ年下の私がじっちゃに対してなにか馴れなれしすぎるところがあると感じながらも、黙っているのがいちばんだと心得ているらしく、あくびをしないときには、ただ恨めしそうな目つきで私を見つめている。じっちゃの寝部屋に勝手に入って、箪笥の上の真空管ラジオを聴く特権も、私だけに与えられている。善夫も善司も、もちろん義一も許されていない。私はよくそのラジオで、『笛吹童子』や『オテナの塔』を聴いた。
 いつか義一と二人で縁側の拭き掃除をしていたとき、
「ウガ、早すぎるじゃ。もっとゆったとやねば、ワが叱られるべに」
 肘で突いて責められた。私は義一を嫌いではなかったけれど、そばにいると得体の知れない緊張を強いられるという意味で、ひどく煙たい存在だった。
「じっちゃ、ワも」
 しびれをきらした義一がじっちゃの腕に甘えかかり、私を押しのけてあぐらの中心に移ってこようとする。じっちゃは義一が垂らしている青洟(ばな)を見て、眉根に深い皺を寄せた。
 じっちゃは潔癖症なのだ。たとえば、彼の頭は地肌の透けた白髪でかろうじて覆われているけれど、十日に一度は新町へ散髪に出かけ、朝夕、馬毛のブラシで歯を心ゆくまで磨きたて、けっして自分の箸や食器をばっちゃに洗わせない。齢をとるとともに飲食についてはとても気難しくなり、自分専用の食器でなければ飲み食いしなくなった、とばっちゃが教えてくれた。
 じっちゃには癇癖もある。一度だけ、じっちゃのベッドでいっしょに寝たことがあったけれど、彼の脚に足を挟みこもうとしたら、グイと荒く蹴られた。生理的な拒絶は、理屈がないだけに恐ろしかった。人肌に接触することが生来嫌いなのか、それとも、昼間遊び回って汚れている子供の足などに触れたくないということだったのか。そんなわけだから、じっちゃは、義一が洟を拭ってビロードのようなツヤを出しているドテラの袖口や、年じゅうその顔に飼っている疥(はたけ)が気に入らないのだった。
 とはいえ、じっちゃには、ほんとうに清潔好きなのか疑わしいところもあって、かならず夜中に起きだして、縁側から庭に向かって小便をする習慣があった。滲みこんだ小便のしずくで板が腐食して、そこだけ掘れてささくれていた。小便の落ちかかる庭先に、藪イチゴが自生していた。ときどき食欲に負けて大粒のをもいで食べると、信じられないほど甘かった。
 裏の畑は私の唯一の遊び場だ。甘酸っぱいスモモの実を拾って食い、高い幹に止まった蝉を竹ざおに塗った鳥モチで獲り、にんじんを引き抜いて泥をズボンで拭いぬぐい食った。そのせいで寄生虫が湧き、ある日、便所でしゃがんでいたとき、肛門のあたりでうごめく虫を新聞紙でつまんで引きずり出したら、ストンと便壷に落ちて、猛烈な勢いでのたうった。二十センチほどもある不気味に大きな虫だった。
「ワも、字、覚えてじゃ」
 義一にそんな意欲のないことは、一家のだれもが知っている。じっちゃはキザミを一かけ煙管に詰めると、
「おめのほうが郷(きょう)より二つも上だたて、なんぼ教えても覚えねべに。どたらにカボチャ悪いんだか」
 と、にべもない。ばっちゃが鼻水をすすりながら囲炉裏の灰を掻いた。義一は上がりかけたじっちゃの膝からにじり下りると、心にもないお愛想を使った恥ずかしさから、むずかしい顔をして頑なに押し黙ってしまう。ふだんの彼はなかなか小才の利いた頭の回るやつだということを、私はよく知っている。カボチャは悪いどころではなく、目端が利いて、物を作るのも、絵を描くのもうまかった。
 ばっちゃに聞いたことだけれど、じっちゃはシベリアから引き揚げてきてから長いこと蒸気機関車の罐(かま)焚きをしていたが、四十の坂を越えたころ、だれにも相談しないで仕事を辞め、囲炉裏の上座に根を生やしてしまった。以来、新聞と、時事雑誌と、ときおり漢詩に目を落としながら、日がな自在鈎の前で暮らしている。彼が立ち上がってする大事な仕事は、柱時計のネジを巻くことと、ストーブの煙突掃除ぐらいだ。それでも近所の人たちからは知恵者として持ち上げられ、わずかな礼金を取って代書屋のようなこともしていた。士族の出であることを彼がとりわけ自慢にしていたからだ。
 浜の商家から下働きに入ってすぐ、じっちゃのお手がついたばっちゃは、小さなからだで次々と八人の子を産んだ。ざっくばらんで、とても陽気な、多少愚痴っぽいけれども、浮ついたところのない、辛抱のきく女だった。じっちゃが仕事を辞めたあと、仕方なく道に面した十畳の寝間を出店に改造して、煎餅屋を始めた。それでコツコツ貯めてきたへそくりが底をついた。育ち盛りの子供たちが、順繰りに南部煎餅の荷商いに出された。善太郎、英夫、善司、君子、椙(しん)子―。長女である私の母だけは、体裁が悪いと言って頑として拒否しつづけた。彼女が華美好きで怠け者だったという話は、すべてばっちゃから聞いたし、長じて他の兄弟姉妹から聞いた。結局煎餅屋はうまくいかず、三年もしないうちにやめた。出店は板塀を打ち直されてもとの寝間に戻り、じっちゃは相変わらず炉端に坐ったままだった。それからというもの、ばっちゃの心向きは一変し、夫婦のあいだに何か根深い敵対関係といったものができあがった。
 そのころに、私も義一もこの家に預けられた。私の記憶は、三輪車からじっちゃの膝へ飛んでしまったので、預けられたという事実を知らず、年の近い人びとを兄弟だと思って育った。義一は、長男の善太郎に置き捨てられた子だと知ったのも、ずっとのちのことだった。
「金曲(かなまがり)からきた嫁でせ、亭主の世話もしねで贅沢ばりして、東京さいきて、東京さいきてって、いっつもへってらった。なしてあったら女を追っかけていったもんだか。肝(きま)焼げる」
 と、ばっちゃが近所の茶飲み友だちに語っていたことがあった。下北(しもきた)の実家に帰った嫁を追って出ていった善太郎からは、もう五年のあまりも消息がなかった。
 私の母はいわゆる出戻りで、嫁入り先の熊本から、あの三輪車の東京を経て、息子といっしょに野辺地に帰ると、すぐに職を求めて外へ出ていってしまった。十三湖あたりで小学校の教師をしていると聞かされていた。十三湖がどこにあるか見当もつかなかった。
 義一と私が預けられている佐藤家は、じっちゃの自慢どおり、町でたった四軒しかない士族の家系だった。ばっちゃの話だと、合船場という屋号は、南部藩の師範代をしていたじっちゃの父親が、明治維新後に造船所を営んだ名残だということだった。その話は、士族の商法という言葉とともに何度も聞かされた。
「酒飲みでせ。酒ばりくらって、なんもかもなぐしてしまったんだ」
 佐藤家には、私たち二人の孫のほかに、還暦を迎えてまもないじっちゃ、彼よりは六つ七つ年下のばっちゃ、高校二年生になる三男の善司、小学五年の末っ子の善夫がいた。野球部で忙しい善司の姿は時分どきにしか見かけなかったし、遊び盛りの善夫もたいてい表へ出ていて、私の周りには義一と祖父母がいるきりだった。
 佐藤家のほかの兄弟姉妹については、顔も知らなかったし、大して耳に親しくもなかった。次男の英夫(英夫兄さんと呼ばれていた)は、名古屋の建設会社で機械科の主任をしていて、三女の椙(しん)子は斉(サイ)藤(ド)さんという進駐軍の通訳官に嫁いで古間木の官舎にいて、四女の君子もこれまた進駐軍の軍人と知り合って結婚しアメリカのユタ州にいる、という話だった。
 外に出ていった人たちの消息は、ほんのときおり話題になるだけだったけれども、佐藤家の生計のほとんどすべてが彼らの送金で成り立っていることは子供心にもわかった。君子叔母さんは去年、善司に蓄音機を、私にブリキの飛行機を送ってよこした。善夫と義一の分は忘れたようだった。善夫は善司と共有で蓄音機を使わせてもらい、私は飛行機など興味がなかったので義一にくれてやった。じっちゃのベッドの枕もとにある真空管ラジオも、君子叔母さんからの贈り物だった。
 善夫は私より八つ上、善司でさえ十四しかちがわなかった。だから私は、義一を含めた彼らを血を分けた兄弟だと思って育ったのだった。じっちゃが自分をかわいがるのは、たとえば、一月に一回ぐらい大きな丸いビスケットを買ってきて自分だけに与えるのは、いちばん年下だからだと納得していた。ところが私や義一が祖父母のことを、じっちゃ、ばっちゃと呼ぶのに、善司や善夫は、とっちゃ、かっちゃと呼ぶので、やがて自分と義一の置かれている立場がうっすらとわかってきた。
 善司はよく、私と義一に命じて相撲をとらせた。義一はいまいましいほど真剣な様子で、目をギラギラさせて飛びかかってきた。善司は脇から半畳を入れながら、しごく満悦の体だった。私は善司の周囲の者に感染するような明るい笑顔が大好きだったので、全力を出して義一と闘った。そして一度も負けたことがなかった。
 いつも近所の連中と遊び回っている善夫は、たまに、自分の都合から、モチ竿持たせて蝉獲りに連れていったり、竹籠を担がせて林檎盗りに従わせたりすることはあっても、めったに二人の甥に声をかけようとしなかった。声をかけたとしても、懐中電灯を持って便所へついていき、彼が排便しているあいだ少し離れたところから便器のあたりを照らす役目を仰せつけるだけだった。目を光らせながら、
「人のクソ見たら、カラスになるど」
 とわけのわからないことを言うのも、癇に障った。
 義一は、善夫が土間の天井に隠しているメンコやビーダマをこっそり持ち出し、私を誘って遊んだ。それが度重なるうちに、義一の顔に何か気がかりな表情を見て取ったこともあったけれど、私は頓着しなかった。おそらく善夫は、いたずらの責めを義一ひとりにかぶせて、陰でいじめていたのにちがいない。義一がこれっぽっちもそのことを私に告げ口しなかったのは、きっと口に出すのがシャクなほど善夫のことを嫌っていたか、それとも、私に対する一家ぐるみの贔屓を考えると、私に洩らすことで危うい目に遇うことを恐れたかのどちらかだったろう。私は口の軽い子ではなかったので、彼にそう思われるのは悲しかった。

(次へ)