三十四

 三時半過ぎに高円寺に帰り着いた。フジに寄って土産を渡す。みんなカズちゃんを見て目を瞠った。異様に美しくなっていたのだろう。マスターが、
「よほどかわいがってもらったな」
 とニヤけた。カズちゃんは素直に、ハイ、と言った。金城くんもにやにや笑いながら、おめでとうございます、と言った。マスターが、
「正式に水原監督の就任が決まりましたよ」
「電撃のときは、まだ監督じゃなかったんですね」
「高木守道が形だけの代行だったようだ。水原監督は、即戦力として神無月と浜野を考えている、五年以内に優勝する、とマスコミに断言してた。阪神にいった田淵が、インタビューで、最大の課題は、王さん、長嶋さん、神無月くんを押さえることですと言ってた。もう、日本じゅう神無月さんのことで大騒ぎだよ」
 金城くんが、
「いつか硬式のボールを買ってきますから、サインしてください」
 と言った。常連の客たちはマスターに止められているのか、相変わらず熱い目で見つめるだけで寄ってこなかった。
「早く帰ってあげなよ。二人、首を長くして待ってるよ」
「はい」
 大きなバッグを提げて早足でいくカズちゃんの背について商店街を歩く。玄関を入ったとたん、素子と千佳子が抱きついてきた。
「わーい、キョウちゃんだ。お姉さん、めちゃくちゃきれいやわ。うんと抱かれたんでしょ」
「もう、からだがバラバラ」
 うれしそうに笑う。千佳子が、
「二人の顔を見て、ほんとにホッとしました。ふだんの生活が戻ってきたって感じ。干物が届いてます。おやつで食べましょう」
「ぼくは三枚焼いて」
 換気扇が音を立てはじめる。干物のいいにおいがキッチンに拡がる。
「お土産買ってこなかったわ。フジにも同じものよ」
「そんなのいらんがな。二人が無事に帰ってくれば、それだけでええんよ」
 干物が出され、お茶が添えられる。
「どんな町でした?」
「だだっ広い温泉町。駅前だけゴチャゴチャしてるの。少し出歩いたけど、何も目ぼしいものがないから、ほとんどホテルのお部屋にいたわ」
 千佳子が赤くなる。若い想像を逞しくしているのだ。
「ヒラキ、うまいなあ!」
 少し醤油をたらして、三枚あっというまに平らげる。女三人も丁寧に身をほぐしながら食べる。カズちゃんが、
「おいしいわね、総菜屋さんで売ってるのと香ばしさがちがう」
「天日干しのやり方がちがうんでしょうか」
「お陽さまの強さかも」
「どこだったかなあ、うーん……大阪だ! 西松建設の高橋さんという眼鏡をかけた社員に、彼のふるさとの大阪に連れてってもらったことがあった」
「ああ、酒乱の高橋さん。そういえば、一度大阪にキョウちゃんを連れてったことがあったわ」
「うん、夜九時に彼の家に着いて、遅いめしを食わされた。こんなおかずしかありませんけどって、お母さんがなめこの味噌汁といっしょにイズノヒラキと言って出したのがこれだった。うまいうまいと言いながら食ってたら、次々に焼いて持ってきてくれた。舌の記憶ちがいじゃなかった。ほんとにうまい」
「……クマさんは長野へ連れてったし。みんなキョウちゃんがかわいくて仕方がなかったのね」
 素子が、
「きのう、キクちゃんと節ちゃんと三人で、武蔵境歩いたよ。ええ家見つかったが。二月の正看試験の発表見たら切り上げる予定やけど、念のために三月までの四カ月契約で入ったわ。住所と電話番号渡しとく」
 水屋の抽斗をごそごそやり、
「はい、これ、持っとって。うちらの分は持っとるで」
「素ちゃん、ほんとにご苦労さま。節子さんとキクエさんの名古屋の家は、日赤のそばになるわね。二人に北村に寝泊りしてもらって、自分たちで探してもらいましょう。あ、そうだ、写真屋さんで写真撮ってもらったんだった」
 見開きのアルバムふうのものをテーブルに広げる。
「わ、すご! ふたりともきれいすぎる! なんやの、オガミとメガミやわ。もう、ついていきます、命令してくださいって気になる」
「後ろの花はエリカ」
「ほんとに、ふつうの美しさじゃないですね。一生ライバルなんか現れない美しさ」
「干物以外出ないわよ。着替えしてくるわ」
 写真を大事そうに閉じて、自分の部屋に持っていった。千佳子が、
「素子さんと、名古屋にいったらどこにお家を借りようかって話してたんです」
「で、どうなった」
「うちはアイリスの二階、千佳ちゃんは北村席の空き部屋ってことになった」
 カズちゃんが戻ってきて、
「そうしなさい。おとうさんに電話してあげる」
 千佳子が、
「もうしました。おいでおいでって言ってくれました。どちらも無料だって」
 カズちゃんが、
「そうしてくれると安心。大学にかようのも便利だしね。睦子さんはどうするのかしら」
「名大のそばに借りるって言ってました」
「名古屋駅からでもすぐいけるのに。東山線で名大のそばの本山(もとやま)まで十五分よ」
「ムッちゃんは学者を目指してますから、あまり出歩かない環境で暮らしたいんだと思います」
「そうよねえ、キョウちゃんもほとんど野球場の人になっちゃうし」
「私は少しでも神無月くんのお家に近い場所で暮らしたかったから」
 カズちゃんは親身にうなずいた。
「私、先にお風呂入るから、二人はあとでキョウちゃんと入りなさい。四日間はつらかったでしょう」
 カズちゃんは風呂へいった。素子が、
「私はええから、千佳ちゃんいってきて」
 私は立ち上がり、下半身だけ裸になった。
「うわあ、グロテスク!」
 素子が声を上げる。千佳子がすぐに寄ってきて、ダラリと伸びかかった私のものを咥えた。それを見て素子は、
「お姉さんとお風呂入ってくる」
 千佳子が口を離すと真っすぐ天を向いていた。
「生理は終わったの?」
「はい、きのう」
 千佳子は下着を脱ぎ捨て、片脚を椅子に乗せて大きく股を開いた。私は突き入れ、何度か往復する。
「ああ、それ以上こするとイッちゃいます、もったいない、抜いてください」
 抜くと千佳子は下着を拾い上げてよろよろカズちゃんの寝室へいく。私は亀頭を突き立ててあとを追った。蒲団に転がった千佳子の股間に吸いつくと、
「あ、イッちゃう、イク!」
 たちまち跳ね上がり、両脚を硬直させる。片脚を折って股間を開いて吸う。もう片脚を折ってカエルのように開脚させた正常位で交わる。往復する陰茎の上にクリトリスがぽっこり突き出している。
「あ、だめ、和子さんみたいにがまんできません、気持ちよくて何も考えられない、イクウウウ!」
 引き抜いて後背位で責める。抜いたとき亀頭のふくらみが限界になっていた。
「う、好き、大好き神無月くん、ああ、中が拡がってきました、熱い、あああ、イク、イク!」
 射精した。グウッとうめいて千佳子は背中を丸めた。律動を思い切りする。
「ああああ、ウーン! あああ、イク!」
 膣口に引っかけるように抜いた。千佳子は一瞬静止したかと思うとゴロリと仰向けになり、烈しい痙攣を始めた。呼吸をしていない。ちょうどカズちゃんが全裸で風呂から上がってきて、
「だいじょうぶよ、キョウちゃん、見たらだめ。心配しないで。すぐ回復するから。もう出したのね」
 うなずくと、やさしく私を咥えて清潔にした。それから千佳子の背中に覆いかぶさるように寄り添い、そっと抱いた。カズちゃんの背中に素子が手を置く。すばらしい図だ。しばらくして千佳子は落ち着くと、シャワーを浴びにいった。
「さ、夕食の買物にいきましょ。キョウちゃんはこのまま帰るんでしょ」
「うん、少し休んでからね。書き出したんだ。ゼロ歳から八歳までの思い出をこつこつとね。自分が何を書きたいかわかるまで、途切れ途切れでもつづけようと思う」
「中三の冬に決意してから、四年目ね……とうとう。……あのとき立てた計画のほとんどに着手したわ。詩も書きつづけてるから、すべてに手を染めたと言っていいんだけど、やり遂げるのはこれからね。最後まで心にかかっていたのは小説だったから、これが最後の仕事。一生の仕事になると思う。書き出しを作っておけば、何年かかっても書きつづけられるわ。根を詰めないでやることよ」
「うん、チリも積もれば」
「キョウちゃんの書くものはチリじゃないわ。本格的に書き出すのは、野球を引退したあとね。ときどき書き足して、何年かけて創りあげていってもいいと思う。時間なんかいくらでも作れるから」
 カズちゃんと素子は服をつけて外出の支度をした。カズちゃんが私に玄米茶を入れた。
「一生忘れられない四日間になったわ。道端に咲いてた草の花も、小川の水の音も、海の色も、二人で話したことも、食べたごはんも、お月さまを見ながらしたセックスも、ぜんぶ心にしまった。……あの写真、鏡台に飾ったわ。いつも見守れるように。見守ってもらえるように。名古屋にいっても鏡台に飾るわ。インスタントカメラで撮った写真は、アルバムを作って永久保存。もちろんみんなに見せてあげるけど。―あと二カ月、ケガをしないように祈ってる。自主トレがんばってね」
「うん」
 千佳子がシャワーから上がってきて服をつけると、女三人はおいしそうに玄米茶を飲んで、一人ひとり私にキスをして買物に出かけていった。私はパジャマを着て、居間のテレビの前に座った。角テーブルが大型の炬燵に代わっている。いざ腰を据えたが、何を観たいというわけでもないので、テレビは点けずに、書棚の本に目をやる。素子が読んだというモーパッサンの文庫本が並んでいる。結局、むかし読んだ『脂肪の塊』を手に取る。内容は詳しく思い出せないが、数ページ読んでいくうちに、戦勝国から身代を守るために馬車で駐留地を逃げ出すろくでもない金持ち連中と、たまたま乗り合わせた気高い娼婦との対話だったとすっかり思い出し、文庫を閉じた。
         †
 七時前に吉祥寺に帰り着く。福田さんはいない。あしたの朝からくる。さっそく机に向かった。破傷風の項。ほんとにこつこつ。九時にやめ、すぐ蒲団に入った。
 十月末の中退寸前に、グランドの片隅で鈴下監督と交わした会話を思い出す。
「プロ入団志望書を出さないかぎり、プロ球団は勧誘してこない。それはいいんだが、即刻プロにいくには、中退して自由交渉という手しかないんだよ。中退して、ドラフトの二週間前までにプロ志望を表明しちゃうと、その年のドラフトを強いられる。二週間前を過ぎて志望届を出すと、翌年のドラフトにかけられる。ほとんどのプロ球団が一位指名するだろうから、籤引きの結果ドラゴンズが引き当てなければ、中日ドラゴンズ入団はオジャン。ドラゴンズの榊さんに尋いたところでは、籤を引き当てた球団の指名を拒否してドラゴンズと自由交渉をするという方法と、来年ドラフトを受けてドラゴンズの籤運に賭けるという方法と、二つあるようだ。指名拒否をして自由交渉の結果ドラゴンズに入団した場合、開幕後一カ月間は出場させてもらえないというのが慣行らしい。お茶濁しの慣行だろうけどね。最初からドラフトと無関係の自由交渉で入団するなら、そんな慣行はない。ほかにも、ドラフトでプロ入りを拒否して野球浪人をしたりすると、いろいろやっかいな問題があるらしい。社会人野球を二年間強いられるとかね。ま、プロ志望届も出さないで単独球団との自由交渉は、規約違反ではないけれども、快くは思われないだろうね」
「志望届を出したいずれの場合も、一年何カ月かはむだになるわけですから、とにかくこのまま学生でいて、ドラフトにかからないようにプロ志望届を出さずに、中退、かつ速攻でいくしかありませんね」
「だね」
 今回の入団がどれほど幸運だったかを噛みしめながら目をつぶる。


         三十五

 十一月十九日火曜日。七時起床。軟便、歯磨き、シャワー。福田さんが朝と夕方しかこないことに思い当たり、あしたあたりから昼のうちは東大グランドの練習に出てみようかと言う気になる。睦子に電話して、それが可能かどうかを訊く。
「まだ中退届受理の連絡は吉祥寺にいってないですよね」
「うん、きてない。住所変更届はちゃんと学生課に提出したんだけどね」
「私もきてません。お母さんの承諾も得たわけだし、とっくに受理されて、大学本部のほうにも連絡がいってるはずなんです。だから入団も可能だったわけですけど、当人への連絡に関しては大学側の仕事が遅いんです。それで、中退が完了してたことを知らなかったとトボケて練習に出る手もありますけど、もう神無月さんがプロ野球人だということは周知の事実ですから、学生の身分を主張するよりは、遊びにきたという形をとればいいんじゃないでしょうか。入団前のひとときを母校ですごしている、からだをなまらせないように基礎訓練をしながら、というような雰囲気を出せばいいんです。野球部広報班から情報がマスコミに発信されますので、報道関係者が押し寄せると思いますけど、写真を撮るくらいで、インタビューはしないと思います。鈴下監督は毎日、金太郎に会いたいと言ってるそうです。詩織さんが電話でそう言ってました。レギュラーで出てこれる人に監督を通じて召集をかけるように、詩織さんに言ってみます。今夜そちらへ連絡します」
 電話し終わると、耳鳴りが回復している。耳鳴りが心臓の高鳴りの代理をする。
 いつもより遅く八時に福田さんがやってきた。薄茶の襟の大きい毛織の半オーバーを着、黒いピッチリしたスラックスを穿いている。短髪をパーマでまとめ、淡く化粧して、唇にはピンクの紅を引いていた。美形だ。
「おかえりなさい! 温泉はいかがでした?」
 オーバーを脱ぎ、腕に抱える。
「ふつうの風呂みたいに毎日入った。それより、四日間、野球なしでのんびりしたというところかな」
「きのうの午前、伊東からアジの開きが届きました。朝晩、寒くなりましたね。伊豆も寒かったでしょう?」
「うん、冷えた。だから閉じこもってのんびりするしかなかった。からだがナマっちゃった。土曜日にジムへいくだけじゃ物足りないから、ときどき東大グランドで練習することにした。いま、練習させてもらえるかどうか諮ってる。うまくいきそうだ。教育機関というのはオールオアナッシングでね、機関を利用したいならば所属せよ、所属したくないならばどんな一部でも利用するな、という考え方なんだ。ぼくはもう学生でなくなったから厳しい」
「心が狭いんですね」
「狭くするのが規則というものなんだ。もし許可されれば、私用のないときは出てみるよ」
「わかりました。夜きてもいらっしゃらないときは、食事の用意をして帰ります」
「朝も夜もいると思うよ。出るのは昼だけ。まず、ひとっ走りしてくる」
「いってらっしゃい。帰ってきたらごはんにします」
 紅と黄と緑に染まった井之頭公園を五周して帰る。シャワー。清潔な下着が用意してある。
 アジの開き、焼きたらこ、めざし、納豆、たまねぎとじゃがいもの味噌汁。福田さんは私にめしをよそいながら、
「おいしそう。私もいただきます」
 いっしょに食卓につき、開きの身をほどいてうまそうに食べる。
「おいしい! ふつうのおいしさじゃないですね」
「でしょ? 菊田さんにも持ってってあげて」
「はい」
 食事を終えると福田さんが風呂掃除にかかったので、私は庭に出て素振りをする。左手首の添えを意識して内角外角高目を百本、プロは浮き上がる球が多いから真ん中高目をかぶせるように百本。すごい汗だ。やりすぎたか。
「雅子、音楽部屋で背筋手伝って」
「はーい」
 足首に乗ってもらって、背筋百回。裏返って、同じように足首に乗ってもらって、腹筋百回。
「ありがとう、きょうはこれでオッケーだ。じゃ、机に向かうから、適当に帰っていいよ」
 両足を壁につけて、倒立の腕立て五回。肩と肘を鍛えるために、とっさに思いついた方法だが、ビックリするほど疲れる。十回やるのは骨だ。しかし、少なくとも一月まではつづけよう。私の何倍もプロ選手たちが練習していることは知っている。しかし私に必要なのは筋力ではなくバネだ。からだの大きくなったいま、百メートルを何秒で走れるか、東大グランドで測ってみよう。ダンベル十キロ、左右同時に蝶々の形で三十回。倒立腕立てのあとなので、ダンベルを上下させている感覚がなくなるほど両腕が疲れた。からだじゅうに汗がまとわりつく。じっと見ていた福田さんが、
「掃除と洗濯をして帰ります」
「ちょっと待って。熟れはじめたからだに四日間はつらい禁欲だ」
 汗を吸ったジャージと下着を脱いで全裸になる。条件反射のようにそそり立つ。
「え? ま、どうしましょう」
 抱き締めて長いキスをする。スラックスの腹から手を差し入れると、こうなるとは思っていなかったようで、小陰唇にぬめりがなかったが、指が大きなクリトリスに触れたとたん、たちまち潤ってきてしっかり準備が整った。
「どこでしたい?」
「お蒲団で……」
 福田さんの腰が不安定になっている。ようやく蒲団のある部屋まで歩く。
「こんなにいつもしていただいて、申しわけありません……」
 離れの蒲団に押し倒して、スラックスの腰のチャックに手をやると、自分で進んでパンティもろとも脱ぎしさった。ブイネックの黒のセーターを着た下半身が丸裸だ。少女のようなクレバスから大きな陰核が覗いている。たまらなく官能的だ。思わず口全体を吸盤のように押し当て舌を動かした。素直な反応が返ってくる。尻を左右によじりながら高潮を迎えようとする。
「もう、神無月さん……」
「いいよ、イッて」
「うー、イク!」
 クリトリスがさらに大きくふくらむ。唇に挟みこみ、舌先に味わう。舌の先で隆起したり引っこんだりする。
「ああ、うれしい、毎日神無月さんのことばかり考えてました」
「何を?」
「目、お唇、笑顔」
「顔ばかりだね」
「……大きなカリ、イクときの気持ちよさそうに目をつぶったお顔」
「やっぱり顔だ」
「ください……」
 ヌルリと入れる。
「ああ、これ、あああ、ほんとに気持ちいい! 信じられない、どうしてでしょう、どうしてこんなに気持ちいいんでしょう」
 動きを開始した。先回よりは緊縛を強めはじめたように思われる膣に満足を覚えながら、高速の往復をする。
「あ、うう、いい気持ち、うう、気持ち、あ、あ、気持ちいい!」
「雅子、イクよ!」
「はい! あ、あ、気持ちいい! あ、すごく気持ちいい!」
 尻を引き寄せ、大きなクリトリスを見下ろしながら、全力で律動する。
「好き好き好き、ああ、いい気持ち!」
 多少の進歩はあったと満足して、カズちゃんと同じようにながく抜かないでいる。唇を塞ぎ、かすかな脈動を楽しむ。もうすぐ女になる気配がある。しかし、このまま聖女でいてほしい気もする。落ち着いてしばらくすると、福田さんは身も軽く上半身を起こして亀頭にかぶりつき、舌で茎の半ばまで舐め取り、口を外して付け根を左右から舐め、袋を含んで丁寧に舌を使う。明るい笑顔になって、天を向いている性器を見つめる。
「ほんとに元気ですね。困ってしまいます」
「困るの?」
「いいえ、困りません。まだ元気ですね。もう一度しましょうか?」
「雅子はもうできる状態?」
「いつでもビッショリです」
「気持ちよすぎたら、無理しないで抜いちゃっていいんだよ。入れてたらいつまでも気持ちよさが治まらなくなるからね」
「はい、そうしたいんですけど、最後まで神無月さんを感じていたくて、離れられないんです」
「バックでしよう」
「はい、どんなふうにしてもらっても、とても気持ちいいですから、好きなときに出してください」
「途中で抜いて正常位にするよ。大きなクリトリスを見ながら出したいんだ」
「はい、こんなものでよければ」
 今度は全裸になって、蒲団に膝を立てて尻を向け、ふっくらしとた毛のない大陰唇を曝す。茶色い小陰唇が濡れて開いている。挿しこむと、ああと息を吐き出し、ガクンと尻が引っこんだ。腹が縮み上がる。ひょっとしてと思った。
「イッたの?」
「はい、電気が」
 手を回してクリトリスを指で押しながら、深浅を考えずにひたすら往復する。発声を長くこらえていた福田さんが、
「……もう、だめです! ビリビリしっぱなし!」
 そう叫ぶと、あわただしく膝を移動し、蒲団の外にいざり出た。腰をつかみながらついていく。ふたたび挿入する。
「ああああーん、出るうウウ!」
 不気味な締まり方をして、仰向けに返す暇もなく射精を誘った。疼痛のある放出をする。
「ひー! 出るー!」
 畳に太い条の小便が飛んだ。一度は受ける洗礼だ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ああ気持ちいい! あ、あ、ごめんなさい、とと、オシッコ止まらない、止まらない、あああ、電気ィ!」
 四つん這いになったまま、両手で畳を掻いたり叩いたりしている。腹が何度も硬直する。完全なアクメに達したのだ。やがて小便は止まったが、痙攣が止まず愛液をするどく飛ばす。出る、と叫んだのはこの感覚だったのだろう。小便は予期せず出てしまったのだ。
「とうとう女になったね!」
「はい!」
 痙攣するからだを表に返して股を広げる。目を固くつぶり、眉をしかめながら腹を何度もひくつかせる。大きなクリトリスの下からリズミカルに愛液が低く飛び出し、畳の上にかかる。思わず挿入する。
「あああ、だめええ、神無月さん、しし、死ぬ死ぬ、うううう、ゲッ!」
 抜き去り、サッちゃんのときと同じように風呂場からバスタオルを二枚持ってきて、畳に散ったおびただしい小便を拭き取る。二枚では足りなかった。福田さんは畳にうつぶせになってブルブルふるえている。ときどき嘔吐するような口の格好をする。もう一枚バスタオルを持ってきて畳を拭く。福田さんは息も絶えだえに言う。
「もう、後ろはしません。かならずこうなってしまうと思います。きっと……」
「かなり冷えたんだね。これからはだいじょうぶだよ、する前にオシッコをしておけばだいじょうぶ。トシさんだってジョージョー出しちゃったんだから」
 福田さんはようやく起き上がり、ゆっくり正座の格好になった。私の手から濡れそぼったバスタオルを受け取り、情けなさそうに微笑んだ。
「やさしくて、泣きたくなります」
「あわてて畳にいざっていたのは感心だったよ。いつもとはちがう感じがしたんだね」
 ようやくきちんとした笑顔が戻ってきた。
「信じられない力でからだが雁字搦めになって、空に放り上げられました」
「今度から、そういうときは、イクって言ってね」
「はい、イク……」
 口の中で何度も呟く。たぶん聖母よりはかわいらしい。聖母を卒業してくれてよかった。福田さんは私の屹立したものに気づき、
「もうきょうは舐めません。覚悟がいります。シャワーを浴びましょう」
「うん」


         三十六

 福田さんは三枚のバスタオルを持って風呂場へ急いだ。空の湯船に落とし、蛇口をひねる。もう一枚タオルを持つと最後の後始末に部屋へ戻っていった。頭を洗っていると、裸のからだが横に並び、
「すっかりきれいにしてきました。ほんとにごめんなさい」
 と言った。頭のシャボンを落とし終わるのを待ち、手にシャボンを立て、背中や尻や腹を洗う。陰茎には触れようとしない。私はシャワーでぬめりを洗い落とした。
「お風呂の後始末をしていきますから、どうぞ上がってください」
 清潔な下着と清潔なジャージに着替え、居間のガスストーブを点けた。
 ―こういう生活からも、あと二カ月もすれば遠ざかる。ひたすら習慣的に野球を思い、ときどき習慣のノルマから外れて文学を想う生活になる。こういう淫蕩な生活が悪いと言うのではない。肉体の快楽を第一義にする生活が空しいのだ。肉体の耽溺を二義、三義にすれば、すばらしい生活のアクセントになり、習慣的な日常を彩る励みにもなるだろう。
「六時にまいります。それから夕食の支度をして、いっしょに食べ、お風呂を立てたらすぐ帰ります」
「そんなに焦らなくても」
「……ゆっくり菊田さんに報告したいんです。いますぐは報告できません。自分の身に起きたできごとに戸惑ってますから。菊田さんの神無月さんへの気持ちがほんとうにわかりました。苦しいほど愛してる気持ちが。いまの私がそうです」
 福田さんは居間の襖からピンクに染まった顔を出してそう告げると、大きな笑みを浮かべて帰っていった。
 深夜、机に向かっていると、睦子から電話があった。
「遅くなりました。喜んでください。いつでも練習しにきてくれということでした。ただ十二月からは室内練習だけになるので、それでもよければということでした。十一月いっぱいウィークデイは、レギュラーたちも出てくるそうです」
「わかった! ありがとう。土曜日は一月下旬まで近所のジムにかようことになったから本郷へはいかない。今週は木金、来週は月曜から金曜までいく。合計七日。十二月の室内練習は顔を出さない。使い古しでいいからストッキングとアンダーシャツ、それから、グローブも用意してほしい。バットは適当にそのへんに転がってるのを使う」
「はい、私は今月末のオープン戦一試合だけ出て、あとは受験勉強なので、上野さんにそう伝えます」
「うん、張り切って勉強してね」
「はい。和子さんからきょう電話があって、来年の受験のときは、北村席に泊まってゆっくりアパート探しをするようにって言っていただきました。とにかくがんばって受かります」
「合格を祈ってる」
 すぐに蒲団に入った。十分もしないうちに眠りについた。
         †
 翌二十日水曜日、朝食のとき、福田さんに今月のスケジュールを伝えた。
「よかったですね。きょうから現場復帰ですね」
「二週間だけ。来月から東大の練習は室内だけになるから出ない」
「菊田さんとはよく話ができた?」
「はい。これからは快楽は快楽として素直に愉しみ、それと切り離して心を磨くことと言われました」
 半袖の下着にパンツ、そこへワイシャツ、灰色のブレザーを着た。足もとは伊東で買った下駄。
「いってきます!」
「いってらっしゃい。夕食はしばらく鍋物にしますね」
「わかった。じゃ」
 荻窪へ出、丸ノ内線で本郷三丁目へ。カラコロ下駄の音を立てて、ひさしぶりに赤門までの本郷通りを歩く。秋晴れ。大学の生垣が目にやさしい。朝の冷えこみが厳しくなってきたけれども、日中は十五度以上あるので寒さは感じない。
 なつかしい農正門。守衛に頭を下げ、直進して淡青色の球場玄関を入り、オンボロの階段からスタンドへ昇る。グランドを眺め下ろしたとたん、
「金太郎さん!」
 ホームプレートのあたりにいた鈴下監督が手を上げた。ネット裏と三塁側のスタンドからすごい数のフラッシュの矢が飛んでくる。克己たちや詩織や黒屋が走ってきた。スタンドを下りてグランドへ出る。
「新人戦三位、おめでとうございます」
 鈴下監督が、
「三位じゃおめでたくもないが、二軍同士で法政を破ったのは褒めてつかわす。実際のところ、那智一人で勝ったみたいなもんだけどね。相変わらずいい男だなあ。涙が出るよ」
 ほんとうに目を潤ませている。
「その後どうしてる。相変わらず波風を立ててるんだろう。金太郎さんにはそんなつもりはないんだろうけどさ。ドラゴンズから後楽園のネット裏の年間優待券が送られてきた。こんなワイロをもらえるのも金太郎さんのおかげだ。今回はどうしたの? 球団の秋キャンプの新人自主トレを断ってまでやりたいことが、これ?」
「野球殿堂博物館めぐりなんてくだらないことをしなくてすみますから」
 克己が、
「なんだ、プロの新人てそんな悠長なことをやってるのか」
「新人研修という名目らしいです。先輩選手によるプロの心構えなんて授業も受けるようですよ」
 臼山が、
「そんなもの断るのがあたりまえだ。よくやった」
 黒屋が、
「そんなわがままして、選手寿命、縮まらないわよね」
「縮まったら身から出たサビということで」
 中介が、
「おいおい、それじゃ困る。もう金太郎後援会を発足させたんだよ。メンバー十人、年会費一万二千円。主な行事は、シーズンオフに金太郎さんを呼んで激励会を開くこと、年間十試合の観戦ツアー。これは金太郎さんを追っかけて全国を廻る試みだ。金太郎さんへのお中元やお歳暮の送付。いまのところ、その三つだ。いずれ会員を増やして、ファン懇親会もやろうと思ってる」
「お中元やお歳暮はぜったいやめてください。中介先輩の就職先はマツダ自動車でしたね。いずれ車のサプライズプレゼント、期待してます」
「ええー!」
「冗談です。ほんとにお中元もお歳暮もいりません。その観戦ツアーが最高のプレゼントです」
 そう言って、私はグランドを眺めた。内外野、ブルペン、五十人に余る選手たちが、キャッチボールをしたり、走ったり、ストレッチをしたりしている。六大学の野球部員は一年じゅう練習をしている。雪と豪雨の日以外は一日も休まない。むろんマネージャー陣も自由参加する。監督、助監督はほとんど毎日顔を出すが、部長以下コーチスタッフは休みが多い。新人戦やオープン戦には全員出てくる。詩織がウィンクして、
「〈遊び〉にきたんですよね」
「そう」
 黒屋が監督に、
「神無月くんが〈遊び〉にきてくれました!」
 と叫んだ。
「そうか! 〈お客さん〉を丁重にもてなせ! 金太郎さん、好きなように〈遊んで〉いけ。インタビューなし、ビデオ録画なし、写真だけ。安心しろ。新聞に載っちゃうのはあきらめてくれ」
 白川マネージャーが、
「金太郎さん、ユニフォーム一式揃えておいたよ。ストッキングとアンダーシャツは予備の新品だ」
「ありがとうございます。ユニフォームは無番をお願いします」
「それしかないんだ。8番は部室の壁に、ガラスケースに入れて展示した。お客さんは無番だ。スパイクは?」
「古いのを置いてあります」
 みんなでぞろぞろ部室に入る。横平が、
「金太郎さん、プロで好き勝手してるな。新人スケジュールをぜんぶ断ってるそうじゃないか」
「契約のとき、念を押しました」
「そうしてくれなきゃ、署名しないってか」
「いえ、そうしなければ抵抗の姿勢を見せると言いました。で、十一月から一月までの完全休暇を勝ち取りました」
 克己が、
「やることがすべてプロ初になるな。俺たちもひさしぶりに一週間ばかり、からだをいじめるか!」
 ウォース! と全員で応えた。野添が、
「ぼくのバットでよかったら使ってください。神無月さんのバットとそっくりに、ミズノに注文出して作らせたやつです」
「一本借りるよ。グローブは余ってる?」
「去年退部した藤山右翼手のグローブがあります」
 聞き覚えのない名前だ。一度聞いたかもしれないが憶えていない。無番のユニフォームを着る。晴れがましい気分になる。水壁も磐崎も臼山も中介も、私が着終わるまで待っている。有宮と台坂はブルペンで肩慣らしをしているようだ。背番号8が平べったいガラスケースに納められて、がっしりと壁に固定してある。報道関係者が入ってくる気配がないので、横平が伸びのびした口調で、
「出てこいって監督から召集命令がかかったときは驚いたぜ。金太郎さん、客として見学訪問する分にはいいが、公式の選手としてプレイしちゃいかんと、上からのお達しが出たそうだ。下旬のオープン戦にも出られないぞ」
「当然です。そこまで図々しいことは考えてません。練習させてくれればいいんです」
 中介が、
「それなんだよ。練習は在籍者の行なうべきもので、客の行なうものではないときた。監督、泣きそうになってた」
「どうすればいいんでしょうね」
 磐崎が、
「どうもしなくていいよ。とにかく思う存分やれ。練習と訪問見学の区別なんてわかりゃしないんだから。箱根の寄木細工工場なんか訪ねると、あなたもやってみませんかなんてのがあるだろ。社員じゃないから近寄るなとは言わない。あれだよ」
「なるほど。体験ツアーみたいなものですね」
「ツアーじゃないけどさ。上野が考えた手だ」
 野添がグローブを持ってきた。手に馴染まないが、エラーすることはないだろう。
「サンキュー。さあ、やりますか。ちょっと、七十キロを二回挙げてから」
 みんなでベンチプレスの周りに集まる。臼山がそばにつく。
「よし、二回。筋肉が動きはじめました!」
 マネージャーたちが入ってきた。黒屋が、
「みなさん、適当にはじめてください」
「あの、白川さん、百メートル走のタイムを計ってほしいんですが」
「よし」
「俺も測ってくれ」
「俺も」
 俊足の中介と磐崎が手を挙げた。
「肉離れを起こしたらまずいので、ちょっとダッシュをしてからにします」
 水壁が、
「白川、両翼九十一メートルだから、テープメジャーで、ホームプレートからセンターへ百メートル測れ。センターは百十六メートルだ。十六メートルあれば激突はないだろう」
 監督や報道陣が見ている前で、ホームから一塁までダッシュを二回。フラッシュ。百メートルのメジャー計測が終わり、マネージャー三人がその地点に立つ。
「じゃ、いきます!」
 バシャ、バシャとストロボが焚かれる。岩田が赤旗を目の前で振り下ろす。ホームプレートの端を蹴り、飛び出す。五十メートルまで加速する。体感で五秒八から六秒二。さらに加速する。三人の中へ飛びこむ。三人がいっせいにストップウォッチのボタンを押す。
「十一秒一!」
「十一秒フラット!」
「十秒九!」
 センターの塀を一押しして駆け戻り、
「ありがとう。十一秒だね。プロで鍛えたらもう少し速くなるだろう。陸上選手じゃないんだから、これでじゅうぶんだ」
「もう二人いくぞう!」
 岩田の叫びが届く。赤旗が振り下ろされる。磐崎と中介が走ってくる。七十メートル近辺で中介がわずかにリードする。二十二歳の男たちが全力で走ってくる。駆け抜けた。
「十一秒五!」
「十一秒九!」
 杉山四郎は中三のとき、十二秒四だった。快速だったのだ。もう彼の名前はどこからも聞こえてこない。
「金太郎は?」
 中介が尋く。詩織が答える。
「十秒九から十一秒一です」
「速え!」
 磐崎が、
「俺たちみたいにドタドタしてなかったな」
 中介が、
「おまえみたいにだろ。俺はドタドタしてないぞ。俺の足は国体級だ」
「二人ともやっぱり俊足ですよ。来年度の選手にそんな早いやつがいてくれるかなあ」
 白川が、
「野球は、足の速さよりベーランの技術だけどね」


         三十七

 克己が走ってきて、
「金太郎さん、そろそろ〈見学訪問〉に入るぞ」
「はい!」
 みんなでホームベースに駆け戻る。フラッシュが光る中、レギュラーと準レギュラーが守備に散り、残りの選手は外野フェンスへ回る。有宮を初めとする投手陣がマウンドにたむろする。台坂も那智もいる。那智は私に深々と最敬礼した。
「ひさしぶりに神無月さんに会えて、緊張します。きょうは百球投げこんだからいけると思います」
「ぼくもマシーンでないほうが緊張する」  
「フリーバッティング!」
 監督の号令一下、横長のバッティングケージが補欠たちに押されてホームベースの後ろに移動してくる。監督が、
「金太郎さんに何本か打ってもらって、きみたちの士気を高めたい。見慣れた光景だろうが、あらためて感激することで自分を鼓舞してほしい。まず、那智いけ!」
 那智が軽く手首を利かせて膝もとへ伸びのある速球を投げこんできた。百四十キロちょい。素直にバットを投げ出し、芯を食わせる。
「オー!」
「ウワー!」
 両側のベンチがどよめく。ストロボやフラッシュの閃光が連続する。グンとボールは反り上がるように伸びていき、ネットの上部に柔らかく突き刺さった。監督が、
「おみごと! 金太郎さん、那智はあと二本でいいよ。金太郎さん、センターへ一本、レフトへ一本頼む」
「那智くん、真ん中高目と、外角低目を」
 少し外角へ流れる高目球を、手首を絞って叩き、しっかりかぶせる。これまた浮揚するように伸びていき、センター上方のネットに吸いこまれる。全員が息を呑んでネットを見つめている。外角低目の直球に向かって振り子のようにバットの先を放り出し、ギュッと絞りこむ。低く打ち出されたボールがラインドライブしながら上昇する。
「ウオー!」
「すげえ!」
「伸びる、伸びる! ゴルフボールだ!」
 ポールまぎわのネットの上縁に当たった。
「よーし! 手品は終わりだ。次はふつうに打ってもらう。有坂、いけ。五球、変化球だけいけ」
 初球、外角へするどく落ちるカーブ。百三十七、八キロ。流すか引っ張るか躊躇し、方向を定めず叩きつける。野添の真正面のショートライナー。
「オー」
 という別の種類の喚声。二球目、同じくするどく落ちる内角カーブ。両腕をしっかり伸ばし掬い上げる。高く舞い上がり、スコアボードのないセンターのネットを直撃する。
「ひぇー!」
 三球目、外角高めのシュート。かぶせるタイミングが早く、ライナーで左中間を抜いていく。四球目、真ん中高目から内角へ落ちてくるゆるいカーブ。踏みこみ、思い切り掬い上げる。ストロボの音とフラッシュの光。ライトの金網を越えて、黒々とした森へ消えていく。喚声はいつもの沈黙に変わった。五球目、外角へ渾身のスピードを乗せたシュート。百四十二、三キロ。真っすぐ踏みこみ、押し出さずに引っ張る。センターの十二メートルのネットを越えて、灰色に枯れた林に飛びこんだ。球場じゅうが大拍手になった。
「どうする、台坂、いくか」
「やめときます!」
 爆笑がスタンドから上がる。監督の大声が重なる。
「いいか! これほどの天才でも、全打席、ホームランは打てん。だいたい五打席二ホームラン。プロにいったら、七、八打席に一ホームランになるだろう。大学野球では、五打席に三本から四本のこともあったがな。ゼロだったことは、金太郎さん?」
「中学校のころはありましたが、高校に入ってからはありません。一本ということはありました」
「聞いたか、リーグ戦で最低十本は打つということだ。金太郎さんは、春、秋、ともに二十六本打った。田淵でさえ六本だ。打率はどうだ?」
 詩織が、
「十試合で、五十三打席四十三打数二十九安打、六割七分四厘、四球六個。犠打四。凡打が四回」
 鈴下監督が、
「二十九安打のうち二十六本がホームランだ。凡打にしても、ほとんどが目の覚めるようなライナーだった。打点ときたら五十九! まるで漫画だ。こんな人間に対してあこがれを抱くならまだいいが、ライバル意識や反感を持ったら命取りだ。ひたすら崇め、讃え、金太郎ファンであることの恩恵をいただこう。恩恵は大げさな言い方だな。精神的に助けてもらおう。助けてもらっているうちに、われわれも発奮して自発的に実力をつけていくようになる。われわれ東大野球部の話にかぎって言えば、金太郎さんが去ったあとも、優勝を争えるチームになることこそ、金太郎さんに対する恩返しだ」
 二年生、三年生が私に礼をした。
「好きにやってきただけなのに、精神的な助けになるというのは、ちょっと申しわけない気がします。これまでわがままを許され、支えてもらってきたのはぼくのほうですよ。今回の〈訪問〉もそうです。とつぜんのわがままを監督はじめ、先輩がた受け入れてくださり、大学側の横槍を押し切るために苦肉の策を弄して、お客さんの体験訪問として好きなだけ東大球場で練習できる計らいをしてくれました。ぼくは、自分のホームランを愛してくれる人たちのために努力を絶やしちゃいけないと、寝転がりながらぼんやり思っただけのことなんです」
 鈴下監督は苦笑いした。私はしゃべりつづける。
「入団契約後、まともな練習をしていないことに思い当たって、寝転がっていられなくなり、現在裏方に回っている元マネージャーの鈴木睦子さんに、胸の内を電話で吐露したわけです。彼女は上野さんを介して監督に諮ってくれ、めでたくこの一週間、東大球場で〈見学〉できることになりました。来年へのステップとして、この球場でボールを手に馴染ませ、選手たちの練習に打ちこむ気概を見習い、みずからもその気概を回復してから、プロのきびしいキャンプに臨みたいと思います。どうかよろしくお願いいたします」
 拍手になった。鈴下監督が、
「名残惜しい金太郎さんをしばらく引き留め、拝ませてくれた功労者は、じつはマネージャーの鈴木と上野と黒屋だ。惚れてるもんだから、どうのこうの理屈をつけて俺に訴えかけてきた。根負けしたよ」
 詩織が、
「嘘です。監督が金太郎に会いたいって泣いたんです」
 拍手の入り混じった大笑いになった。詩織が黒屋と寄ってきて、
「神無月くん、なに格好いいこと言ってるんですか。やっぱり体力が落ちるのが怖くなったんでしょう」
「正解! 入団契約からこちら、気まぐれな生活になっちゃってるからね。行き当たりばったり。計画性ゼロ。この一年、そんなことがいつも許されてきたけど、許されなくなったらと考えると、ソラ恐ろしくなって、野球をしているかぎり精いっぱい努力して燃え尽きたくなった」
 選手たちが真剣な顔で聴いている。横平がにやりと笑い、
「殊勝なことを言うなあ。みんな、わかったか? 金太郎さんの露悪趣味。ちょっと聞くと、だれよりもサボってきたみたいだが、じつはいちばん努力してチームに貢献してきたのは金太郎さんだったんだぜ」
 水壁が、
「わかる、わかる。言い草がヤクザタイプ。格好いいんだよ。小憎らしいくらい」
「十一月末まで〈体験訪問〉します。十二月、一月は出てこれません。正式な入団式やキャンプ前の名古屋移転がありますから」
 克己が、
「そうか、まだ優勝したときの気持ちでいた。金太郎さんはプロ野球選手になって、東大をやめたんだった。だから、ドラゴンズの本拠地の名古屋に引っ越すわけだ」
 こぶしで目を拭った。中介が、
「十二月、一月は、下級生の冬期練習以外は、だれも出てこないと思うぞ。新レギュラーたちは、十二月は二十日の納会だけ出てきて、一月九日の全体練習までお休みだ。練習開始の日は、部員みんなで近くの根津神社に参拝するんだが、金太郎さん、出てくるか?」
「納会って何ですか?」
「プロ野球のゲストがくる食事会だ」
「遠慮します」
 詩織が、
「そうよ、くる必要なんかありませんよ。納会と言っても、卒業するキャプテンに記念品を贈呈するくらいのことしかしないんですから。克己さんだっていやがってるのに」
「納会も参拝も出ません。野球と無縁なことには参加しません。野球は、だらだら必死でやってればいいんで、区切りなんかいらないんですよ」
「おっしゃるとおり!」
 鈴下監督の高らかな声が上がった。
「あんなくだらん会合、出てこなくていいぞ。今月いっぱい金太郎さんに会えるわけだから、俺たちはもう何もいらん。今年の納会のゲストは、阪急の長池徳二だそうだ。東大のライバルの法政出身だ。何もヘーコラする義理はない。根津神社のお参りは、俺が代わりにしてやる」
 長池と聞いて少し胸が鳴ったが、すぐ静まった。遠い人に思えた。長池ばかりでなくプロ野球そのものが、少年のころのように遠いものに思われた。長嶋や金田や尾崎や山内や張本―彼らは、親しく話し合うこともなく、いっしょに食事をすることもなく、ただベンチ裏やグランドの通りすがりに挨拶をして、それを繰り返して、ついには別れていく人たちだろうと思った。
「ま、みんな、あぐらをかけ」
 鈴下監督はグランドの土に腰を下ろし、みんなを眺め回して言った。
「卒業していく克己主将に、来季の準レギュラーを発表してもらおう。顔と名前を金太郎さんに知ってもらうんだ。今月の練習で目をかけてくれるかもしれんし、貴重な指導をしてくれるかもしれん。周知のとおり、来年の東大の入試は中止になった。そのせいで野球部の新人が入ってこないので、控え選手の成長は重要だ。じゃ、キャプテン」
 克己は姓名だけを呼び上げていった。私は挙手する彼らの顔とからだつきをじっと眺めた。顔もからだも〈できて〉いなかった。すべて、試合経験などほとんどないか、皆無の連中だ。私は監督に訊いた。
「来季のレギュラーが戦った秋季新人戦の結果は知ってますが、オープン戦どういう結果だったんですか?」
「いま発表した準レギュラーをメインにして戦わせた。三日の立正大学戦は零対九、十七日の横浜商科大学戦も四対十で負けた。まだまだ、毛も生えてない赤ちゃんだからな。この二十四日日曜日の神奈川大戦は、今年最後のオープン戦だ。この東大球場でやる。せめてもの救いは、ここで練習し慣れてるということだけだな。じゃ、来季四年のレギュラーはだいたい決まっているし、金太郎もよく知っているからいい。いま克己に来季準レギュラーに指名された選手、三年になるやつから自己紹介いけ」
 みんな私に遠慮がちな視線を向けながら、元気に声を出す。白川と詩織と黒屋がきちんと立って聴いている。
「理Ⅱ、多田、セカンド、洛星高校。野球は中学校までです。右投げ右打ち。東大開闢以来の優勝を目撃できて、自分のツキに感謝しました。胴上げの写真には、手しか写ってませんが、一生大切にしようと思っています。神無月さんがぼくと同じ百八十一センチなのに、二回り大きく見えるのが不思議です。体重は何キロですか」
 私より年上の連中が敬意を表してデスマス体で語りかける。居心地が悪かった。
「八十一キロか八十二キロ」
「やっぱり五キロもちがう」
「理Ⅰ、斉藤です。左投げ左打ち、センター、桐朋高校。高校では三年までセンターでした。目標は在学中に一本ホームランを打つこと」
「文Ⅲ、入来、できれば捕手、熊本高校。野球経験はありません。神無月選手が熊本生まれだと新聞で知り、入部することにしました」
「文Ⅰ、古田、センター、岐阜高校。ライトもやります。軟式野球までしかしたことがありません。中学は補欠でしたが、ピンチランナーで何度か出場しました。がんばります」
「理Ⅰ、山田、ショートまたはセカンド、桐朋高校。この斉藤と同期で、三番を打ってました。ホームランは三年間で二本。神無月さんの電光石火のスイングスピードをマスターしようと思ってますが、ちょっとその方法がわかりません」
 監督が、
「金太郎さんのバッティングを学ぶのは至難だぞ。よし、次、来季二年、いけ」
「理Ⅱ、杉下、ライト、金沢泉丘高校。軟式野球。高校時代は中断しましたが、東大で野球をやるのが夢でした。まさか優勝するとは―」
「文Ⅰ、小貝、捕手、時習館高校。県予選でホームランを打ったことがあります。打順は七番でした。目標はクリーンアップを打つことです」
「文Ⅲ、大室、未定、国立(くにたち)高校。野球未経験。オープン戦で実践してみて、野球の難しさに驚きました」
「理Ⅰ、千々岩、レフトかサード、学芸大付属高校。野球まったく経験なし。神無月さんといっしょに、二度目の優勝に貢献したいという不遜な考えを持っていました。はかない夢と消えました。神無月さん、どうかプロでホームラン王になってください。来年六月の全日本大学野球選手権大会には、春季リーグ優勝校しか出場できませんが、いつかぜひそれに選手として出てみたいです」
「文Ⅱ、鬼龍院、左利き。百八十センチあるので、ファースト志望、都立西高校。硬式野球部の四番でした。ホームランは打ったことありません」


         三十八 

 克己が立ち上がり、
「以上十名、控えとして決定した選手だ。未経験者でも肩がよかったり、グラブさばきがよかったりするやつを拾った。そのほかの選手も鋭意努力して、せめて準レギュラーへ昇っていけるようにがんばれ」
「オース!」
 円陣の外縁を囲んで坐っていた二十名ほどの連中が声を張る。全員で五十人はいるだろう。十数人は今年の十月以降に増えた選手たちだ。鈴下監督が、
「来季のレギュラーをあらためて発表しておく。いろいろ考えた結果、次のようになった。まずピッチャー、台坂、那智、村入、三井、森磯。キャッチャーは控えの小貝と入来、おまえたちを鍛えようと思ってる。いつもブルペンでボールを受けてろ」
「はい!」
「ファースト、川星。控えの鬼龍院は、臼山のようにホームランを打てるようにならないと、レギュラーは取れんぞ」
「打ちます!」
「セカンド、田宮、多田。野球は体重じゃない。センスだ。センスが磨かれると自信がつく。それで大きく見える」
「はい」
「ショート、野添、熊田。野添の壁は厚い。ケガでもしないと、打撃力のある山田はおろか、熊田もなかなかチャンスがめぐってこないな。サード、宇佐。千々岩はまず守備の基本を身につけろ。バッティングはそれからだ。レフトは風馬で不動。控えはない。風馬はオープン戦で、かなり卓越した打撃センスを見せた。七帝戦や国公立大戦で、金太郎さんがいないときの主力打者だったからな。ライト、佐田、やはり控えなし。センター、岩田、杉友。控えは斉藤と吉田。しばらく球拾い生活になるが、辛抱しろ」
「はい!」
 克己が、
「来季は、石井監督のもと、早稲田がとんでもない全盛時代を迎えるだろう。打撃陣は矢沢、荒川、千藤、阿野、小田、投手陣は小坂、安田、小笠原。これを打ち負かすのは、そんじょそこらのチーム力ではどうもならんぞ。じゃ、きょうはこれで解散。ちなみに、俺たち四年生は今月いっぱい、金太郎さんに合わせてウイークデーに出てくる。最終オープン戦は、金太郎さんは欠けるが、俺たちはほとんど出る。今年の東大がどれほど強かったかをしっかり後輩に見せてやる。金太郎さん、ひとことアドバイスをしてやってくれ」
 円陣が立ち上がって整列した。
「これから一週間ばかり出てくるので、いろいろアドバイスをするチャンスもあると思いますが、たぶん自分の練習にかまけてしまうので、きょう、ひとこと、バッティングに関してだけ申し上げておきます。低目の球のとき、バットはピッチャーに対する側の手でコントロールし、効き手で押してやります。強く押しながら、ボールに向かってバットを投げ出して〈腕が延び切る〉ようにするんです」
 立ち上がってジェスチャーをする。
「腰より上のボールは、こんなふうにきっちり両手首を絞りこんで投げ出し、レベルスイングで振り切ります。スイングスピードは腰のタメと回転でつけます」
 しゃべったとおり、低目と高目、五回ずつスイングして見せた。ひとしきり、みんな打ち揃って素振りの練習になった。卒業組レギュラーが希望に燃える目で見ていた。
         † 
 二十一日の木曜日も練習に出、ダッシュと三種の神器のあと、もっぱら台坂の球を打った。彼のような回転の少ない球を投げるピッチャーはプロに多い。縦に落ちるカーブやスライダー、ドロップ、シンカー、フォークを投げるピッチャーだ。そういうピッチャーのボールは重いと言われるが、腕を伸ばしてバットを振り切れば、ボールに重い軽いはないと私のからだが知っている。いちばん厄介なのは、スピードや変化や投法のせいでボールを捉えにくいピッチャーだ。つまりピッチャーの良し悪しは、タイミングをとりやすいかどうか、芯を食いやすいかどうかの二つで決まるのだ。
 報道陣は倍にふくれあがっていた。木曜日の代表的なスポーツ新聞の見出しは『怪物こっそり秋季練習』というものだった。練習という見出しを見て、ドラゴンズ首脳部は大いに安堵するだろう。しかし、東大側がどういう態度に出てくるか心配だった。監督に言うと、
「いま大学は、金太郎にかかずらっておれない時期にある。鬼の居ぬ間だ。しっかり体力をつけろ」
 横平が相変わらずいい打球を飛ばしていた。彼がどこかの球団の下位のドラフトにも引っかからなかったのが不思議だ。
「横平さんは、どこからもお呼びがなかったんですか」
「おいおい、冗談はヨシコさん。俺なんか、ちょっとマシな素人という程度だよ。とてもじゃないがプロではやってけない。プロはやっぱりプロだよ。素人の時代から根本的に素人じゃない。光ってるんだよ」
 あっけらかんと笑った。
         †
 同じ日の夕方、福田さんが食事の用意にやってくる少し前、若い男の声で電話があった。
「お忙しい中、とつぜん申しわけございません。私、岐阜のミズノ養老工場に勤めるクボタイソカズと申す者ですが、中日ドラゴンズの村迫氏から神無月選手にバットを作ってほしいという依頼があり、そのことでお電話をさしあげました」
「はあ……」
「ドラゴンズの撮影スタッフや、テレビスタッフなどが撮影したフィルム等の映像から判断いたしますと、握りの位置、握り方、スイング、フォロースルーは独特のもので、ただ単に振り回すというのではなく、コースによって打法を変える驚異的なものであることがわかりました。バットを選ばないという打法なので、たしかに既成のものでこと足れりとなさってきたのでしょうが、それでも、少しでも手にシックリくるバットを作ってさしあげたいと思いまして。握り、重心、太さ、重さなどを考え、五本ほど試作いたしました」
「はあ、それはおもしろいですね。重さはどうなってます?」
「試作品はすべて九百グラムに統一してありますが、それはどうにでもなります。プロの選手はおおむね八百八十から九百五十のあいだのものを使用しています」
「ぼくは九百二十グラムです」
「なるほど。シックリ手に合うものが見つかりましたら、それを九百二十にして作製いたします。ちなみに王選手のバットは九百三十グラムです」
「王選手のバットも作ってるんですか」
「いえ、王選手や長嶋選手のバットは、東京の石井順一さんが作っておられます。古稀になんなんとするバット作りの名人です。私はまだ二十五歳の若造ですが、十六歳でミズノに入社以来、ひたすらバット作りに専念してまいった自負がございます。昭和四十年からプロ野球選手のバットを作らせていただくようになったばかりで、まだまだ一人前と言うのには程遠いですし、先人がたを凌いだという意識も持っておりません。ただただものごとをまじめに丁寧に継続することのみが、どんな粗悪な命をも輝かせるものと信じております」
 そのひとことに心が動いた。
「あなたに作っていただきます!」
「ありがとうございます。オーダーで注文する場合、相場の二千二百円よりも割高になりまして、三千五百円ほどになります。年間百本は必要になると思います。神無月さんが気に入ったら、今後引きつづき作ってくれということでしたので、かなりのご出費を覚悟していただかなければなりません」
「唯一の商売道具と言っていいものです。いくら金がかかってもかまいません」
「安心しました。精魂こめて作らせていただきます。なお、バットの材は青ダモとアメリカ楓(ふう)です。実際に日本やアメリカの山に入って、植生に関する知識と、目と、勘で木を選びます」
「すごいかたですね。村迫さんがあなたに依頼した理由がよくわかりました。さっそくバットを送ってください」
「はい、土曜の午後までには届くと思います。握りの底に番号を打っておきました。気に入った番号をお教えください。日曜の午前にお電話いたします。細かな要望もそのときにお聞きします」
         †
 二十二日金曜日の練習帰り、詩織と黒屋と三人で本郷三丁目の駅まで歩いた。よくジャージを着て闊歩していた睦子とちがって、二人ともセーターとスカートの普段着に、冬物のコートをはおっていた。私は黒屋に、
「バトンて、黒屋さんがほとんど桜蔭高校から引っ張ってきたの?」
「四人ね。詩織ちゃんが山形東からも二人連れてきてくれた。服装が悩みの種なの。水着みたいなものにするか、短パンにするか、スカートの丈をどうするか」
「服装より、揃い踏みが重要だね。集団は揃うと美しい。優勝行進はバトンもブラバンも美しかった」
 詩織が、
「猛訓練しかありませんね。選手と同じ」
「監督や助監督、すごい張り切りようだわ。神無月くんばかり目で追ってる。恋人を見るみたいな目」
「初めて人間に恋をしたって感じですね。レギュラーたちもみんなそう」
 黒屋は地下鉄駅の階段口で立ち止まり、
「神無月くん―」
 と私を見上げた。
「何?」
「あと一週間で、みんな神無月くんを月の世界へ見送ることになると思うの。それで……私……ああ、ドキドキして、胸が破れそう」
 詩織が察してうなずいた。黒屋は決然とした目で、
「抱いてもらえませんか」
「やめておこう」
 即答した。黒屋はガックリと音が聞こえるようなうなだれ方をした。初めてまともに黒屋の顔を見た。記憶の中に似た顔を探す。好まない美人系の女優の中にはいない。と言っても、かわいらしいけいこちゃんタイプでもない。パーツは整っているが、目を引く調和がない。つまり関心を惹かない目鼻立ちだ。ヒデさんではないが、人間は顔だ。吉永先生でさえ、そこはかとなく精神的な調和があった。
「心から愛し合うまでは、セックスは単なる性処理だと思う。根本的に味気ない。愛し合うまでの時間はじゅうぶんにとるべきだ。そこから始めるセックスは、身も心も育ててくれる。心が育ち切り、肉体も育ち切って、セックスを愛情の確認作業にしたいと思うとき初めて、セックスをほんとうに愛の行為だと感じる。……愛を知らない人間は、セックスは単なる生殖器の快感を求めるための交接だと感じる。セックスは、愛し合う心とは一義的に関係しないと心から思うんだ。それはまちがってる。心が愛に満たされて、初めてセックスの快楽が充実したものになる。もし黒屋さんに愛がないなら、ぼくとセックスしても意味がない。それは快楽を所有したいだけで、愛じゃないから。その種の所有欲は、結婚などの形式で満たすべきだ。……もったいをつけてるわけじゃないんだ。もったいをつけるほどぼくの肉体そのものは大したものじゃないし、男なんてやりたいだけのやつが多いからね。相手を愛しいと思わないかぎり、ぼくはセックスできない」
 三人で階段を降りる。黒屋はうなだれながら改札までついてきた。
「吉祥寺の家で晩めしを食うけど、二人、くる?」
「いきます!」
 切符を買い、荻窪方面の地下鉄に乗る。黒屋がつづける。
「もっと早く、詩織ちゃんやムッちゃんに相談すればよかったんだけど、二人はぜったい許してくれないと思ったんです」
 私は話を変えた。
「黒屋さんて、江戸っ子だよね」
「はい、水道橋の生まれです。家は壱岐坂(いきざか)の真ん中へんにあります。本郷三丁目から歩いて十五分くらいです」
 よくわからないので、私はただうなずいた。詩織が、
「恋愛って人に許してもらうことじゃないと思う」
「もう一つためらった理由があるの。神無月くんに大勢の女がいるということ。その中の一人になりたくなかった」
「独占欲ですね。それと不潔感。私もムッちゃんも、神無月くんにどれだけ女の人がいても何とも思わないし、不潔だとも思わない」
「どうして?」
「神無月くんしか見てないから、ほかの女の人との関係なんか目に入らないんです。神無月くんが女の人を受け入れればそれでよし、受け入れなくてもそれでよし。すべて神無月くんの気持ちどおり。理由はそれが神無月くんだから」
「そういうのって、神無月くんに隷属してるってことでしょう?」
「ちがいます。神無月くんは人を従わせようとしません。ただ好きに生きてるだけ。こちらは手を出す必要がないのに勝手に手を出してるだけ。隷属じゃないんです」
「生理的に気にならない? 気持ち悪いとか、不道徳だとか、悔しいとか、嫉妬するとか、イライラするとか、いろいろな気持ちが湧いてきて苦しいんじゃないかしら」
 詩織は眉をひそめ、
「そういう気持ちでいると、人は不満だらけになって、黙っていられなくなるわ」
「確かめてみたかっただけ。じつは私も、そういうマイナスの気持ちがほとんど湧かない女なの。だから神無月くんを好きになれたの。そのたぐいの話は神無月くんがみんなの前でチラッとしゃべったこともあったけど、だれも気にしてなかったわ。そこは神無月くんのいちばん神秘的な部分だから、あらためてわかっても圧倒されちゃう。かぐや姫のことを考えてみればわかる。自分が男で、かぐや姫の周りに男がたくさんいて彼女と関係があるとするわね。でも自分がかぐや姫のことを深く愛していて、彼女と親しくなれたとしたら大感激するわ。ほかの男がいることなんか気にならない。生理的には気になるでしょうね。男は精液を出してかぐや姫を汚すから。やっぱり男がたくさんより、女がたくさんのほうがマシね。女は濡れるくらいのことですむもの。愛する男があまり汚された気はしない」
 詩織が座席でうつむいて、ククと笑った。黒屋が訊いた。
「どうして笑ったの、詩織ちゃん」
「濡れるくらいじゃすまないこともあります。並外れて敏感な女は汚すんです」
 黒屋は真っ赤になった。
「汚すって意味は想像がつくわ」
「たぶんその想像はちがってます」
「何を聞いても私は平気よ。……詩織ちゃんて、恥ずかしいことをズケズケ言うのね」
「恥ずかしいことだと思いません。これでも将来スポーツ科学専攻の学者になるつもりですから。生理学的なことをごくあたりまえに言ってるだけです」


         三十九

 私は黒屋がいろいろな男と付き合ったことのない初心な二十一歳であると確信した。詩織も同じことを思ったようだった。
 荻窪から東西線に乗り換えて吉祥寺へ。公園口へ出て、夕暮れの道を歩く。
「吉祥寺に初めてきたわ。新宿や池袋よりも狭苦しい感じ」
「同感。……ね、黒屋先輩」
「ん?」
「神無月くんは十五歳から大勢の女の人と根気よく付き合ってきたんです。ぜったい別れないって覚悟で。心中という強い哲学を持ってるから」
 私は、
「でも、わがままな都合に振り回される無理心中はゴメンだ。ぼくにはやりたいことがあるから。……ぼくは、愛する人の背後にいつも死の影を見る。それは風を受けたカーテンみたいに揺れてる。ぼくはそれを感じ取るんだ。心の奥底でね。もっと強く愛さなければいけないと思う。するとやがてその影は薄れて徐々に消えていく。不安な気持ちが、五年後か、二十年後か、死がその人を奪う最悪の日まで、もう少しいっしょに生きられるという確信に変わる。ひとことで言うと、それがほんとうの心中だ」
 詩織が深いため息をつき、
「あんなに熱心に野球をしたり、本を読んだり、たくさんの女の人と付き合ったりする時間がよくあるなあと思ってたけど、死を感じながら行動していたからなんですね」
 黒屋がうなずきながら、
「死を感じちゃったら放っておけないから、何人もの女性をいっぺんに愛さなくちゃいけないってことも当然起こるわけね。でも、それを許す女の人たちの寛容さには感心する。神無月くんの特殊な心とは関係なく、たくさんの女の人と同時に付き合ってることは事実だから不道徳だと思われちゃう。私は頭でわかるけど」
「私も頭でわかった口よ。たくさんの異性を相手にすることが、人の道、人の徳に外れているかいないか、問題はそこじゃないと思います。一人を相手にしようと、大勢を相手にしようと、愛がなければおたがいに不幸なので、人間としては不道徳でしょう。神無月くんは好色から大勢を相手にしたくてしてるんじゃなく、結果的にそうなってしまっただけのことです。もともと何の躊躇もなく、相手が幸福になるようにと願って誠実に実践しているので、世間相場の気まずさはあっても、神無月くんに罪の意識はありません。問題は道徳を超えた愛情だとわかってるからです。一人でも、千人でも、いえゼロ人でも、まったく変わらないでしょうね。人から求められないかぎり動かない。そうですよね、神無月くん」
「うん―」
 無理やり定義づけられた格好になったが、不愉快ではなかった。
「神無月くんといると、自分が経験主義で生きていることが空しくなるんです。きっと黒屋さんもこれからは、積み重ねてきた経験から学んだことを考え直して、よい点はちゃんと残し、いけない点は思い切り捨てないと、まか不思議な神無月くんを追いかけることはできないと思う」
 詩織と黒屋は御殿山の家の玄関先から、しばらく夕暮れの淡い光に浮き上がる新居のシルエットを眺めていた。
「すてき!」
「なんてお家!」
 広い土間から、きれいに片づいたキッチンに入る。詩織が、
「わあ、なに、この片づきよう。食器棚の茶碗の並び方、見て!」
 二人は居間を見にいき、その清潔さに絶句する。音楽部屋にいき、床に散らばっているレコードの多さに驚嘆する。離れへ連れていった。黒屋が、
「作家の部屋みたい!」
 玄関で声がした。三人で出ていく。買い物籠を提げた福田さんが土間に入ってきた。
「きれいな人!」
 黒屋が思わず声を上げた。
「いらっしゃいませ。お二人もすてきですよ」
「東大生を二人連れてきた」
「おやまあ、先日の鈴木さんも東大生でしたね。初めまして、お手伝いの福田雅子です」
「上野詩織です」
「黒屋あかりです」
「二人とも野球部のマネージャー。上野さんは十九歳。黒屋さんは二十一歳」
「お若いこと。私は五十三です」
「信じられない!」
 二人同時に言う。福田さんはうれしそうに、
「きょうのお鍋はチゲ鍋です。それと、唐揚げと春雨のピリ辛煮です」
 黒屋が、
「手伝います」
「いいんですよ、お嬢さんがたはくつろいでいてください。これが私の仕事ですから。楽しい食事にしましょう」
 私はさっそく仕度にかかった福田さんの背中に、
「チゲ鍋って何?」
「キムチ鍋です。お水にキムチを入れて、そこへ中華のだしや、味噌、酒、砂糖、ニンニク、生姜、ごま油、鷹の爪を入れ、豚肉、豆腐、油揚げ、白菜、ネギ、大根、エノキを煮こんで、最後にニラを載せます」
「おいしそう!」
 客人二人が叫んだ。たしかにうまそうだった。
「五人前ある?」
「たっぷりあります。ごはんも五合炊きました。お腹いっぱい食べてください」
 福田さんは三人にコーヒーをいれて出し、すぐに料理にかかった。
「お二人は神無月さんの恋人ですか」
 詩織が、
「私だけです。黒屋先輩は、きょう神無月くんにお願いしたんですけど、断られました」
「神無月さんが断った……」
「はい。思い出にしたいと言ったら、ますます」
「そうでしょうね、ものごとを思い出にしたくない人ですから」
 福田さんは土鍋を載せたガスレンジから振り向き、大きく笑って、
「神無月さんにはいまの瞬間の愛情しか価値がないんです」
「……詩織ちゃん、敏感な女は汚すことがあるってどういうこと? 私の想像はまちがってるって言ったけど」
 福田さんが手で口を押さえて、
「まあ、そんなお話までしながらここにきたんですか? 現代の女性は開けっぴろげなんですね。ホッとします」
 黒屋が、
「福田さんも知ってるみたいですね。教えてください」
「はい、女は快感が強すぎると、オシッコしたり、射精したりしますよ。私も粗相してしまったことがあります」
「うそ! 私の想像したのは、濡れすぎて蒲団を汚すということだったわ。オシッコはなんだかわかる気がするけど、でも、射精って?」
 福田さんは土鍋にさまざまな具を入れながら、
「強くイクときに、精液に似たようなものを出すんです。チュッとか、ピュッて。男の人の陰毛やお腹にかかるし、後ろからすると敷布団にかかります」
 イクという言葉をきちんと使えるようになっている。福田さんはうれしそうにつづけて、
「オシッコはイクときに排尿を抑える筋肉がゆるんで出てしまうオモラシです。射精は少ししか出ませんが、オモラシはたくさん出てしまいます。セックスの前にトイレにいっておくことが大切です。どちらも濡れすぎとは関係ありません」
「そうなんですか! 詩織ちゃんが言ってた汚すって、そういうこと……」
 いいにおいの湯気がキッチンにただよう。詩織の顔を見る。
「そうなの。女性の射精は、尿道の両脇にあるスキーン腺からわずかな量の愛液が出るの。よほど敏感な人の場合だけど」
「よく言う潮吹き?」
「それとはちがうわ。伝説みたいに言われてる潮吹きは、福田さんの言ったオーガズムに伴うオモラシよ。ほとんどオシッコだから、ただの黄色い水。スキーン液は精液ほど粘ついてないんだけど、水とちがってトロッとしてる。シーツに付いて乾くと、精液みたいにゴワゴワするわ。どちらも強く感じないかぎり出ないから、わざと出せないの」
 福田さんが口を押さえて笑いながら、
「よくご存知ですね。私が五十三歳になってやっと経験して知ったことを十九歳で知ってるなんて、うらやましい」
「ぼくもそういう詳しいことは初めて知ったよ」
「神無月くんは理屈なんか知らなくていいんです。私たちをそんなふうにして幸せにしてくれる人ですから。黒屋先輩はふだんの雰囲気とちがって、セックスをあまり知らないようなの。……処女ですか?」
「……ちがうわよ。高三の秋、担任の先生と付き合ってた。三回ぐらい彼とホテルにいったわ」
「スキンつけて?」
「もちろん。それがたしなみでしょ」
「一人の人とゴムをつけて三回なんて、それに安全日も知らなかったわけでしょう? 案外開けてないんですね。東大の女子って、みんなそう。私も神無月くんとそうなるまでは開けてませんでした」
「神無月さんとすると、とても強く感じますよ。……からだだけに関心のある人は、それだけで離れられなくなります。私も菊田さんも、神無月さんとして生まれて初めてからだに別のスイッチが入ったんです。でもほんとうに特別なスイッチが入ったのは心です。からだはスイッチが入ったと言っても、いつかは慣れてしまうものですけど、心は慣れません。あまりにも新鮮なので」
 詩織が、
「私も初体験でいろいろ驚きましたが、心の驚きが最高のものです。ほんとにいつまでも慣れないですね」
「未熟な女も成熟した女も、みんなそういう気持ちになります。黒屋さんは、安全日というのを知っておいたほうがいいですよ」
 黒屋が、
「え? よくわからない」
 詩織が、
「今度の生理の予定は?」
「二十五日くらい」
 福田さんが、
「いちばん安全な期間ですね。生理前一週間は、ほとんど妊娠しません。……生理の遅れなんか考えると断言できませんけど」
 どんどん話が具体的になっていく。黒屋が、
「妊娠を心配するってことは、コンドームをつけないでするということですか?」
「当然です。ゴムが男性のオチンチンを締めつけちゃうでしょう? 男性も苦しいし、せっかくのものをただの金太郎飴にしてしまいます。ゴムののっぺらぼうなんか、おたがい何の悦びもありません」
 ゴムののっぺらぼうという言い回しがおもしろかった。福田さんは鶏の唐揚げにかかり、春雨も煮はじめる。よく煮えた土鍋をテーブルの上の簡易ガスコンロに移した。詩織が、
「福田さん、菊田さんてだれですか?」
「このお家の大家さんです」
「お二人とも、神無月くんと?」
「はい。かわいがっていただいてます」
「まあ!」
 黒屋が、
「……菊田さんておいくつの人ですか?」
「六十二歳です」
「…………」
 福田さんはめしを四人分盛る。
「年齢なんて関係ないんですよ。からだはあなたたちと同じです。さ、できましたよ。小皿に取って召し上がってください」
 みんなで箸をとる。
「おいしい!」
 二人の女が同時に声を上げる。福田さんは得意そうに微笑む。




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