五十八 

 係員に桂の間の会場入口に導かれてドアを入ったとたん、大拍手の中、四方のスピーカーから、

  あおぐも高く 翔けのぼり
  竜は 希望の旭(ひ)におどる

 という歌声が流れた。進行係が会場の隅のスタンドマイクの前に立ち、
「古関裕而作曲、伊藤久男歌、中日ドラゴンズ球団歌『ドラゴンズの歌』のメロディーに鼓舞されて、士気高らかに今年度新人選手七名の登場です!」

  おお溌溂と 青春の
  きみは闘志に 燃えて起つ
  晴れの門出の 血はたぎる
  いざゆけ われらの ドラゴンズ

 目もつぶれるほどのフラッシュが光る。目の中に星が瞬く。白布で覆った長机に名標が置かれ、マイクがいくつも並べられている。真ん中に水原監督が座り、その右隣に中日ドラゴンズ球団オーナー小山武夫、村迫球団代表、左隣に中日新聞社社主白井文吾、中日ドラゴンズ渉外部長榊竜二が座っている。
 マイクの声が、ドラフト一位の浜野から順に、出席していない入団辞退者の名も含めてドラフト外の私までの姓名を呼び上げていく。最初の二人が村迫の右隣に座り、次の二人が榊スカウト部長の左隣に座るというふうにしながら、最後に呼ばれた私は監督の左側の端の席に着いた。総勢十二人が座った。列の真ん中の隘路にテレビ中継のカメラが据えられ、長机の左からゆっくりとパンしていく。目の前の二百脚に余る折畳み椅子にギッシリ報道関係者が座っている。
 ついにここまできた。道を見失いながら、目的地だけを見据え、ただ前へやみくもに歩いてここまできた。ときどき後ろを振り返り、一歩ずつが選択だったと知った。だれでもそうかもしれないが、とりわけ私の場合、熟考を許されない選択の積み重ねが人生になった。胸がいっぱいだ。
 音楽が止み、進行係が何か言いはじめるが、私は聞く耳になっていない。振り返ると、壁に赤いバラに縁取られた大きな横断幕がかかり、

  
中日ドラゴンズ 祝 第22期入団式

 と墨字で書いてある。
「それでは、中日ドラゴンズ球団代表の村迫晋さまより、開式の言葉をいただきます」
 村迫が立ち上がり、
「中日ドラゴンズの村迫でございます。本日十二月十五日、ただいまより、昭和四十三年年度ドラフト指名選手、ドラフト外交渉選手の入団発表式を執り行います。ごらんのとおり、新たに七名の新戦力がドラゴンズの一員として加わりました。ドラゴンズの未来の戦力の担い手です。どうぞ末永くご支援のほどよろしくお願いいたします」
 大きな力強い拍手。村迫が席につく。
「では次に、中日ドラゴンズ球団オーナー小山武夫さまにご挨拶をお願いいたします」
 初めて見る男だ。小山は立ち上がって後ろ手を組み、
「こういう場の挨拶ってのは、こんにちは、さようなら、じゃ、すまんわけでしょ」
 大らかで剽軽な人間だとすぐにわかった。
「だれに向かっての挨拶なのかも見当がつかないんですよ。選手を差し置いて記者諸君に向かっての機嫌取りか、威張り腐ってる首脳陣に向かっての機嫌取りか。私は人の機嫌を取りたくないタチだが、初々しい成長株に対して機嫌を取ってやることは、太陽や水や空気のように貴重だと認識しております。ドラゴンズにとってありがたいのは、選手そのものなんだからね。これからしゃべるご機嫌伺いが厳しい言葉に聞こえたら、これでも機嫌をとっているつもりだと納得してほしい。まず、根性男浜野くん、根性一本で十勝することを期待してるよ。課題は二十勝ピッチャーになることだ。根性だけでは十勝止まりだ。水谷くん、きみはまだちょっと非力だね、まずウェスタンリーグで勝率を上げることが先決だ。そのあと一軍で一勝できるようがんばりなさい。太田くん、ドラゴンズはきみの打力を買ってるんだ。そうだね、水原監督」
 水原はかすかにうなずいた。小山オーナーはうなずき返し、
「それじゃピッチャーなんかやらずに打撃に専念したまえ。第二の江藤慎一を目指すんだよ。三好くん、きみは神無月くんより少し小柄なスラッガーだ。高校三年間でホームラン二十一本は立派だ。しかしいかんせん打率が低い。それでは一軍に登用されない。アベレージヒッターとして一軍に貢献できるよう、確実なヒットの打ち方を先輩たちから学びたまえ。竹田くん、きみはスタミナがない。無理をして周りと競争すると故障するよ。マイペースでじっくり体力をつけたまえ。勝利うんぬんはそれからだ。島谷くん、きみはシュアなバッターだ。即戦力になる。水原監督を尊敬しているらしいが、きょう、とくと見ておきなさい。彼の厳しさに耐えられたら、きみは大成する。神無月くん、きみはだれを目指さなくてもいい。きみはきみでありつづけなさい。来年、あるいは再来年、中日ドラゴンズ史上初めて三冠王が誕生するのは確実だと見ている。以上、挨拶終わり」
 ものすごい拍手だ。その拍手の中で進行係が、
「スカウト部長、榊竜二さまご挨拶!」
 と叫んだ。
「すばらしいお言葉のあとでこれ以上申しあげることはございません。ただ、神無月くんに関してひとこと申し上げておきたいことがございます。幼い子供のように純粋な人格を有する神無月郷くんは、中日ドラゴンズにとって掌中の珠でございます。その珠を傷つけてほしくないのです。彼はある種、自閉的な青年でありまして、高度の知性が備わっているにもかかわらず、表現が単純なせいで、まあ端的に言えば『馬鹿じゃないか』とみなしているマスコミ関係者が多いのでございます。東大優勝祝勝会での一記者の発言のごときがその好例でございます。神無月くんは東大に次席で入学した大秀才です。馬鹿ではないどころか、いったんしゃべりだすと立て板に水、論理構築も厳密で、周囲はたじたじとなるという証言をほうぼうから得ています。言行ともに天才的だということです。このような人物が曲解され傷つけられるいわれはありません。球団社長もおっしゃったように、彼を彼のままありつづけさせ、ひたすらその野球の才能だけを発揮しつづけるよう、心やさしく見守ってやっていただきたい。以上」
 これまた盛大な拍手になった。拍手が静まり、フラッシュの光とストロボの音だけになると、
「あらためて今年度新人選手の紹介をいたします! 浜野百三・明治大学・背番号22、水谷則博・愛知中京高校・背番号45、太田安治・大分中津工業高校・背番号40、三好真一・愛媛南宇和高校・背番号54、竹田和史(まさふみ)・兵庫育英高校・背番号46、島谷金二・四国電力・背番号30、神無月郷・東京大学・背番号8。それでは、新人選手、自己紹介をお願いいたします。右端、島谷選手から順にどうぞ」
「島谷金二です。ドラフト最下位。サラリーマン時代に覚えた競馬用語で言うと、自分は追込み馬です。そのつもりでひたすら追込みの努力をつづけようと思います」
「竹田和史、小山オーナーのおっしゃったとおり、スタミナをつけるべくゼロからのスタートのつもりでがんばります」
「浜野百三。一球入魂。ほかになし」
 笑いたかったが抑えた。
「水谷則博。中学時代に小柄な神無月選手に馬鹿でかいホームランを打たれました。信じられない距離でした。いま、彼のからだを見ると、七人の中で一、二番目の大きさです。十センチは大きくなっています。ますます恐ろしくなりました。こんな偉大な人間と同じプロ野球人として同席していることが信じられません。彼を励みにしてがんばります」
「太田安治。中学時代は一番バッターでした。四番が神無月さんでした。奇しくも同じ中学校だったんです。ぼくはとっくに気づいていましたが、神無月さんはきょうぼくが話しかけてようやく気づいたらしく、きみはタコか、と尋きました。ぼくのあだ名はタコでした。神無月さんは、からだが小さいのにパカスカホームランを打つので、スポーツマン金太郎という漫画から取って、金太郎さんと呼ばれていました。野球の神さまです。神さまを励みにすることはできません。ひたすら自分を信じて精進します」
「三好真一。尊敬する選手は広島の衣笠選手。彼のような豪快なバットスイングを心がけたいと思います」
 球団オーナーに逆らう意図がありありとわかる。小山オーナーは表情ひとつ変えなかった。私の番になった。
「森徹のホームランボールをこの手に受けて以来、ドラゴンズを一途に慕いつづけてきた神無月郷です。浮気はしませんでした。権藤、権藤、雨、権藤の昭和三十六年、その当時の選手一人ひとりの姿を思い出しながら、中日球場のウグイス嬢のまねをします」
 私はあのころのスタンドに響くウグイス嬢のこだまを耳に甦らせ、そして、小山田さんや吉冨さんの顔を目の裏に甦らせて、まぶたを閉じた。そのまぶたを透かしてフラッシュが何度も灯る。
「つづきまして後攻の中日ドラゴンズのスターティングメンバーを発表いたします。一番、センター中、センター中、背番号3……二番、ショート河野、ショート河野、背番号12……三番、ファースト井上、ファースト井上、背番号51……四番、レフト江藤、レフト江藤、背番号8……五番、ライト森、ライト森、背番号7……六番、サード前田、サード前田、背番号2……七番、セカンド高木、セカンド高木、背番号41……八番、キャッチャー吉沢、キャッチャー吉沢、背番号9……九番、ピッチャー権藤、ピッチャー権藤、背番号20。球審は、主審円城寺、塁審は、一塁筒井、二塁富澤、三塁滝野、線審は、ライト津田、レフト岡田、以上でございます」
 怒号のような拍手喝采になった。泣いている記者たちがいる。太田が泣き、水原監督も首脳陣四人も泣いていた。榊は号泣に近かった。
「あの年は権藤が新人で、三十五勝をあげたんでしたね」
「高木は、昭和三十六年はまだ背番号1になってなかったの?」
「吉沢は最後の年でしたな」
「近鉄へいったんだよ。インサイドワークのいいキャッチャーだった。濃人監督とうまく噛み合っていればもっと長くやれたのに。でも来年帰ってくるよ」
「日本シリーズの円城寺のスタンカ事件、なつかしいです。円城寺あれがボールか秋の空」
 横のテーブルで男たちが興奮した声で話し合っている。進行係が、
「みなさん、とんでもなく感動なさったようですね。若輩者の私はそのあたりのことはあまり記憶に残っておりませんので、みなさんのように感涙にむせぶというわけにはまいりませんでしたが、グッと胸にくるものがありました。それにしても、とんでもない記憶力ですねえ。だれですか、神無月選手を馬鹿と罵った記者は。もしここにいたら、即刻退場してください」
 会場がドッと湧く。
「それでは、名古屋を代表する美女連に花束を贈呈していただきましょう。いずれもいろいろなコンテストで優勝されたかたばかりです」
 着物姿やスカート姿の十二人のあでやかな女たちが進み出て、立ち上がった七人の選手と五人の首脳に花束を贈呈する。
「選手のかた、笑ってください!」
 フラッシュ、フラッシュ、フラッシュ。
「水原監督、わがドラゴンズのために勇躍ミコシを上げてくださってまことにありがとうございました。ドラゴンズの新生を期し、どうかカツを入れるひとことをお願いいたします」
「はったりやごまかしのない新人たちを迎えることができて、感無量です。真っすぐな心というのは勝負事には大切な要素です。戦う以上は優勝を目指します」
 静かな声で言った。
「心強いお言葉、ありがとうございます。では、閉式の言葉を村迫代表から」
「例年にないすばらしい入団式となりました。フロント陣、選手諸君、それぞれ感慨の尽きないところでしょうが、中日ドラゴンズのさらなる隆盛に対するみなさまのご助力を願いながら、このあたりで閉会といたします」
 どやどやと会場がほぐれはじめる。壁の時計が二時半を指している。私はユニフォームを脱いで腕にかけ、戸口へ向かおうとした。マイクを高く突き出した記者たちが押し寄せてきた。司会者が、
「質問は控えてください。控えてください!」
 かまったことではない。彼らは出口を塞ぎ、
「神無月選手、目標のホームラン数は」
「百三十、割る、二です。あくまでも目標です。分母が大きくならないよう励みます」
「浜野選手。ライバルは」
「巨人の堀内」
「小山オーナー、名将水原監督を新たに迎えて、コーチ陣を一新する予定だとか」
「それは村迫くんから」
 村迫は、
「ヘッドコーチに巨人の宇野光雄を迎えます。そのほかには、一軍投手コーチに、もとドラゴンズのピッチャー、現在野球解説者の太田信雄、二軍コーチに、南海から森下整鎮(のぶやす)を迎えます」
「榊さん、その無礼な記者はどこの新聞でしたか」
「忘れました」
「そのあたりで! そのあたりで!」
 進行係の声が轟く。水原監督が、
「じゃ、神無月くん、懇親会でね。心が洗われました」


         五十九 

 宇賀神が風のようにやってきて、私を廊下へ連れ出した。
「ユニフォームを返さないと!」
「そんなものは、球団が五着も六着も用意してますよ。記念に持ってお帰りなさい。次の予定は?」
「七時から、新人懇親会。いったん帰らないと」
「北村席さんですね。お連れします」
「知ってるんですか」
「もちろん」
「上着を取ってきます」
 控え室にはウェイターのほかにはだれもいなかった。ユニフォームをテーブルの上に置くと、ブレザーをはおった。
「さ、北村席へまいりましょう」
 玄関前から黒塗りのセダンに乗った。助手席に乗ろうとすると、無理やり後部座席に乗せられた。
「これからは、公の車では助手席に乗ってはいけませんよ。もう、身分がちがうんですからね。事故にでも遭って、あなたが亡くなったら日本中が悲しみます」
「なぜ北村席を知ってるんですか」
「あなたを全力で擁護している牧原若頭は、秋月先生とご昵懇の関係です。牧原さんがおっしゃるには、名古屋でのあなたの行動の根城は北村席さんであり、あなたと同じレベルでお護りしなければならないとおっしゃっています。今回の警護の依頼も、北村席さんを含めてのものです」
 十分ほどで北村席の数寄屋門に着いた。
「それではまた。私は七時からホテルのほうに詰めております」
 すみやかに走り去った。格子戸を開けると、庭の小池を眺めながらトモヨさんと遊んでいた直人が、
「おちょうちゃん!」
 と愛らしい声を上げた。
「お帰りなさい! みんなで泣きながらテレビを観ました。さ、早くくつろいでください」
 直人を抱き上げ、玄関へ小走りでいく。
「郷くんが帰ってきました!」
 おお! と喚声が上がり、一家の者たちが走り出てきた。店の女たちが午前のメンバーとちがっている。主人が、
「すばらしい入団式でしたな!」
「泣けて、泣けて」
 まぶたをこする女将の背後に立っている女たちのまぶたも赤かった。菅野が、
「一人だけの入団式みたいなものでしたね。自分がえらくなった気分でしたよ」
「おトキさん、今度こそ腹がへりました」
「はいはい、すぐ用意します。六時から晩ごはんですよ」
「おっと、それ、食えないんだ。懇親会で多少は食わなくちゃいけないから」
「あらあ、そうですか。じゃ、軽くスタミナのつく小丼を作りましょう」
 十六畳の長テーブルにつく。直人が、おちょうちゃん、と呼びながら寄ってくる。じっちゃのように膝に抱く。主人が、
「さすが水原監督、貫禄ありましたなあ。ほとんどしゃべらん。すごい存在感だ」
「ときどき、チラチラ神無月さんを見る目がやさしかったわ」
 トモヨさんの言葉に、女たちが反応して、
「そ、そ、ほかの選手たちを見ようともせんの」
 主人が、
「榊さんの演説は、きたな」
 菅野が、
「きました。その記者を叩ッ殺してやりたくなったもんなあ」
 私は、
「東大野球部の克己キャプテンが、ぶっ殺してやると詰め寄りました。それだけでスッキリしました」
 主人が、
「そのキャプテンの気持ち、痛いほどわかりますよ。榊さんはよく神無月さんのこと理解してるなあ。よほどかよい詰めたんでしょう」
「はい、何度かきました。村迫代表といっしょに。契約書にサインしたのも彼の目の前でした」
 女の一人が、
「よくあんなふうに、選手の名前が言えますね」
 女将が、
「一番、センター、中、背番号3、二番……。だめやわ、もう終わり。審判の名前まですらすらと、まあ、ほんとに」
「焼きついてたんですね。飯場の人によく連れてってもらいましたから。ドラゴンズを長年慕いつづけてきた証拠を見せたくて。……ほかのチームのアナウンスは言えません」
 私だけに小盛りのすき焼丼が出る。掻きこむ。菅野が、
「太田という選手は、宮中で同期だったんですか」
「ドラフト指名発表のとき新聞で見て、あれっと思ったんだけど、まさかと思ってね。控え室で、俺を覚えてますかって言われて、やっぱりと」
 あっという間に食い終わる。
「ああ、腹へってたんだなあ」
 女将が、
「その懇親会、お腹に溜まるものが出るやろか」
 トモヨさんが、
「お肉が出ても、しっかり食べてくださいね」
「おいしければね」
「お酒は控えて」
「うん。控えたいほど強くないからだいじょうぶ」
「神無月さん、浜野という男、自信満々やが、どうなんやろ」
 主人に訊かれて、
「明治大学を一人で背負ってきた男です。その自信でしょう」
「神無月さんにホームラン打たれてましたよね」
「はあ。でもぼく以外には打たれてません。あのオーナーの言ったとおり、十勝はするんじゃないですか」
 付き合いに危惧はあるが、当たらず触らずのことを言う。
「今年は中日球場がよいがたいへんだぞ」
 玄関におとないの声がして、文江さんが現れた。
「あらあ、お師匠さん、上がって上がって」
 廊下へ顔を突き出して女将が呼んだ。いそいそと入ってきて、私の前に深々と額づいた。
「たいへんなご出世で、ほんとにおめでとうございます。ご立派な受け応え、あらためて頭のよさが偲ばれました」
「なに堅いこと言っとるの。こっちへきて、お茶飲んで」
「はい」
 女将のそばにきて、茶をつがれる。トモヨさんが、
「文江さんは、一年前に中野蘭疇(らんちゅう)さんが理事をしてる中部日本書道会の会員になって、辛抱強く勉強して、先月六段準師範の免状をいただいたのよ」
「本部が那古野(なこの)のすぐそばにあったんで、歩いてかよえましたから」
「それだけじゃないの。中日書道展の公募二科に応募して、今月の一日に二科賞という最高の賞をいただいたの。もう一度二科に応募して奨励賞でもいただくと、公募一科に応募できるようになって、それで一科賞を受賞したら、いよいよ中央の日展、読売展、毎日展に出品できるようになるんですって。二科賞だけでもすごいことだから、いまでもお弟子さんは引きも切らないんだけど、そのうち文江さん、書道の大家になっちゃうんじゃないかしら」
「いい話だね! 大家になって、百までも長生きしてほしい」
「ありがとうございます。がんばります」
 女将は、
「あっちのほうもがんばりや」
 主人と菅野が大笑いすると、ほかのテーブルの女たちもケラケラ笑った。主人が、
「塙さんの店な、入りが悪くて、畳んでほかの商売するかなんて相談受けたから、そりゃあかん、この一踏ん張りが大事やと説得してな、おたがいの店の共通サービス券を売ることにしたら、塙さん、盛り返してくれたわ。もうほとんど共同経営やな」
「客の入りは女の人で決まるでしょう」
「それは大差ないんですよ。きれいどころの割合はね。要は、みかじめ料の問題なんですわ。この種の営業にはかならずヤクザが絡んでくる。営業を認める代わりに、挨拶料、守(もり)料、ショバ代、用心棒代、いろいろな名目で金品を要求してくる。特にこのあたりの青線地域は、むかしから大小の暴力団の資金源になっとるんです。うちの場合は、神無月さんのおかげで、名古屋の最大組織の松葉さんが乗り出してくれて、そいつらを〈締め〉てもらったうえに、ミカジメは売り上げの一パーセントということにしてくれたんです。ふつうは十パーセント以上で、二十パーセントというのまであります。三つ四つの暴力団が重なったら、ふつうの店はひとたまりもありませんわ。人件費やら、設備費やら、税金までありますからね。そんなわけで、塙さんのことを牧原さんに相談したら、まったくうちと同じようにしてやると言ってくれて、実際そのとおりになったんですわ」
「それで盛り返したわけだ。よかったですね。トモヨさんの古巣が助かって」
「牧原さんが神無月さんを見こんでこういうことになっとらんかったら、もうとっくにうちの店も危なかったですわ。塙は和子もよう遊びにいって、かわいがってもらった店ですからね。義理もあります。いやあ、それにしても、ヤクザと政治家の力はすごいもんですなあ。今回も、入団式の十日も前から、民社党の秋月さんの秘書と名乗る宇賀神ゆう人から、神無月さんが名古屋にいるあいだの安全確保をまかせてほしいという電話がありましてね。秋月さんは中央大学の法科を出た名古屋出身の政治家で、牧原さんとはえにしがあるんでしょうな。たしか若頭さんも中央の法科出身と聞いたおぼえがありますから」
「中学生のころ、そう聞きました。その宇賀神という秘書のかたは、ホテルでもぼくをマスコミ攻勢から救い出して会場へ連れてってくれましたし、会が終わったあともやっぱり人混みから要領よく連れ出して、車でここまで乗せてきてくれたんです。秋月さんの警護もしてるそうです。まるでギャング映画の世界ですね。若頭から秋月さんへ、秋月さんからその秘書へという流れでしょう。そんなことをしてくれなくても、ぼくはいつも安全なんですけどね。社会的に何の貢献もしてないから、競合する相手がいない」
 菅野が、
「きょうから、百回襲われても不思議でないくらいの重要人物になりましたよ。神無月さんのせいで、貢献される度合いが低くなる連中がしこたま出てきましたからね。妬まれる」
 トモヨさんが、
「郷くんは眺めてるだけで楽しい人間なんだから、ただ眺めてればいいのに」
 文江さんが、
「ほんとやわ。世の中にはわけのわからん人が多いでかん。心のどこかで張り合うつもりがあるからやね。きょうのテレビで、何とかさんが、キョウちゃんを励みにすることはできないって言ったでしょう? そのとおりやと思う。張り合おうなんてとんでもない。ただ慰められて、生甲斐にするだけです。何かをするための励みにするというのは、目標にするということでしょ。他人の目標にはならん人ですよ」
 夕食の仕度をする音が台所から心地よく聞こえてくる。気になっていってみた。中央のテーブルに山と積まれた食材の周囲を賄いたちが忙しそうに動き回り、大きなガスレンジでは煮立てたいくつかの大鍋から湯気が上がっている。


         六十

 私の行動を訝しく感じたのか菅野とトモヨさんがやってきた。菅野が、
「神無月さん、どうかしたんですか?」
「野辺地のむかしの台所に似ているのかなって思ってね。うん、飯炊き場は板の間より低い土間に作ってあるけど、さすがに土くどのカマドじゃないね。でもカマドに似た形にして、カネ釜で炊いてる」
 おトキさんが、
「ガスなんですよ。二升炊きを一つ、一升炊きを一つ、合わせて三升を一日に二回、合計六升炊きます。それで賄いの分も入れてぴったりです」
「うへえ! すごい米代になるだろうね」
 質素な着物に襷がけをした七、八人の賄い女たちが、食材を処理しながら私たちの話を聞いている。若い女もスカートは穿いていない。着物の色がめいめいちがうところを見ると、お仕着せでもないようだ。
「お米代は一日千円から千三百円です。まとめ買いしてるので安くしてもらえますから。ひと月三万円から四万円。おかず代が十万円くらい。おうち全体の光熱費、水道代も入れて、二十万円ですね。思ったほどではないでしょう?」
「そうだね……それがこの家のエネルギー源だと思うと、安く感じる。こっちは調理場か。レンジが八つもある」
「このくらいないと間に合いません」
「調理台だけで七、八メートル。大きな換気扇が三つ、お櫃も保温器もすごい数だ! 大型冷蔵庫が三つか。この上の納戸やら下の納戸には、ぜんぶ漬物や調味料の類が入ってるんだね。食器棚の数、食器の数、調理道具の数。ここは北村席兵站部の大格納庫だね! 真ん中に置いてあるのは準備テーブルか。でっかいテーブルだなあ。いったいこの台所、どのくらいの広さなの?」
「釜場も入れて四十帖です」
「四十帖! そんなに広いのに、くつろぐ場所が見当たらないね」
「料理中にくつろいでなんかいられません。隣の部屋が十畳の賄いたちの休憩所です」
「ちょっと見てくる」
 トモヨはさんは勝手知ったる部屋なのでついてこなかったが、菅野は興味津々の顔でついてきた。分厚い板の引き戸を開けると、整然とした部屋だった。右手の明るい大ガラスの四枚戸が主人夫婦の離れがある裏庭に面して立ち、レースのカーテンが引かれている。その右手のガラス戸の外れが押入になっている。窓を切った正面の壁の下に、二十枚ほどの座布団がきちんと積まれている。レースのカーテンを引き開けて窓の外を覗くと、二メートル幅の隘路を隔てて、母屋の廊下(窓をたくさん切った横塀と屋根つき廊下)と繋がっている離れの窓が見えた。休憩部屋の正面の大窓のカーテンを引くと、やはり二メートルほどの土の隘路を隔てて、同じ廊下が渡っていて、その先の主人夫婦の離れへ分岐するT字の突き当たりを左へ折れると、完成間近のトモヨさん母子の離れがデンと建っていた。たがいの離れは四角い植えこみの庭で隔てられていた。屋根つきの廊下は、浴場に沿って中央廊下のT字とつながっていた。
 休憩所の左手の漆喰壁の前に大きなカラーテレビが置いてある。壁の向こうは北村席の浴場だ。部屋の真ん中には、旅館で見かけるような大テーブルがツヤツヤと輝いていた。
「ふむ、暮らしたくなるような部屋ですね」
「ほしいですね、こういう部屋が」
「新居が楽しみになってきた。近いんだからちょくちょく遊びにきてね。菅野さんを見てると、クマさんを思い出すんだ」
「いきますよ、言われなくたって。……クマさんをね……光栄だなあ」
 座敷も含めて、これでまだ一階の一部を見たことにしかならない。玄関土間と厨房のあいだには、帳場と居間がある。その二部屋は飯炊きの土間まで少し張り出している。
 休憩部屋から厨房へ出ていくと、おトキさんが、
「山口さんが二時ごろお電話くださって、CBCの中継が東京にも流れてる、ウグイス嬢のものまねには大泣きした、神無月の命の根を感じたと伝えてくれって」
「おトキさんには、愛してるって?」
「いやですよ、神無月さん」
 トモヨさんがおトキさんにやさしく笑いかけた。菅野が、
「ほら、おトキさんがふだんと別人になった。ほんとに神無月さんは痺れ薬だわ」
 座敷に戻る。
         †
 主人夫婦や女たちとわいわい話している私たちに、厨房からおトキさんが声をかけた。
「そろそろ夕飯ですよ」
「お、神無月さんには悪いが、俺たちでいただくか。菅ちゃんも食っとけ。おい、五時半のニュースかけろ」
 トモヨさんが、
「遅番でお出かけの人は三人? 戻りは十一時くらいね。冷蔵庫に味噌おにぎり入れときますから、コンロの網で炙っておやつにして。文江さん、そろそろお仕事でしょう? 軽くお茶漬けでも食べていって」
「いいえ、きのう作ったカレーを片づけてまうわ。じゃ、私、失礼します。またあしたの午前にでも寄らせてもらいます」
 女将が文江さんに、
「トモヨといっしょに、アイリスと神無月さんの家のでき上がり具合を見てったらええがね」
「はい」
 フーミ、フーミと言いながら、直人が文江さんに甘えかかった。文江さんはチュッと直人の唇にキスをして、トモヨさんといっしょに玄関へいった。女たちがポツポツ食卓につき、ヨダレの出そうなおかずが食卓に並びはじめる。おトキさんは私にコーヒーをいれた。女の一人が、
「神無月さん、きょうは歌ってくれるの?」
 と尋いた。
「ここにいるあいだに何曲か歌いますよ。山口がいないから、独唱(ソロ)でね」
 キャプテン・ジェネラルのテーマに乗ってCBCニュースが流れ出した。フラッシュを当てられる男たちの緊張した顔、首脳陣の満足そうな顔、浜野の決意に満ちた自己紹介の顔。そのほかの場面はほとんど私一人に集中していた。ウグイス嬢のアナウンスも一部流れた。ほかに、私が連れ帰られたあとで、廊下を去っていく小山オーナーがインタビューされている一コマがあった。
「選手たちにきびしいことをおっしゃってましたね」
「足りないやつを足りるようにハッパをかけただけだ。選手の力が高まれば、楽しい野球ができるようになるからね。神無月くんがやったウグイスの嬢の時代は、野球が楽しかったんだよ。それ以降は、派手にはなってきたけど、野武士的な豪快さがなくなった。野球バカがいなくなったからだな。楽しくない野球を楽しい野球に戻してくれるために、神無月くんはバットを提げてプロ球界に乗りこんできたんだ。生きているうちにまた野武士に会えてよかった」
 みんな箸を止めて粛然となった。主人があらためて、
「おめでとうございます」
 と頭を下げた。みんなもいっせいに、おめでとうございます、と頭を下げた。私も、がんばります、と頭を下げた。直人がトモヨさんの膝から菅野の膝へ渡り歩きながら、
「おめじぇちょうごじゃいます」
 と口まねをした。
         †
 クラウンの助手席にいて、私はまだ集中しない気分のままいた。
「菅野さん、ホームラン以外のものはぜんぶニセモノのように感じるんだ。千年小学校から神宮球場まで、ホームランだけがホンモノで、あとはぜんぶ……」
「偽物ですか? いいえ、ほんものですよ。何もかもほんものです。あのホームランだけが夢のように思えます。……わかりますよ、ずっとホームランを打ってきたせいでいまここにいるわけですからね。夢の産物がほかのぜんぶですからね。でも、考えてごらんなさい。父親を失ったり、島流しを喰らったり、名門高校や名門大学に受かったり、親と疎遠になったりといったことは、まあ、だれにでもとは言いませんが、人の身に現実に起こり得ることでしょう。でもね、さっきの球団オーナーのような言葉を他人の口から吐かせるような人間になることは、だれの身にも起こることではありませんよ。神無月さんにしか起こり得ないことで、たしかにニセモノに感じられるかもしれません。しかしホームランを打つ打たないに関わらず、神無月郷というほんものの人間が引き起こしたほんとうのことことです。……生きているうちに、伝説という偽物ではなく、ほんものの神無月さんにお会いできてよかった」
「ありがとう。偽物なら偽物でいいや。ホームラン以外のものとも、とことん付き合ってやろう」
 名古屋観光ホテルに着いた。
「何はさておき、神無月さんそのものがほんものだから、ぜんぶほんものの同志の付き合いになりますよ。だいじょうぶです。好きなように、野球以外のものを嘘くさいと感じながらお付き合いなさい。すぐにほんものと感じるようになりますよ。じゃ、この玄関の右端で待ってますからね」
 ロビーに入ると、やはり宇賀神がいて、報道陣を押しのけながら三階の桜の間まで誘導した。会場の入口に記者団がたむろしていた。どきなさい、どきなさいと宇賀神に威圧され、道が開いた。煌々と明るい広間に、一脚の長テーブルと六脚の丸テーブルがほどよい間隔で置かれ、最前部の長テーブルに水原監督を真ん中に、左に小山球団オーナー、右に中日新聞社の白井社主と村迫球団代表が座っていた。こういう環境の中で、ほんものの言葉を失わないようにと一瞬願った。
 ウエイターに導かれて、長テーブルのすぐ近くの、名札の置かれた丸テーブルについた。榊が座っていた。そこから背後の出入口のドアに向かって、浜野と水谷のテーブルに一軍コーチが一人、太田と三好のテーブルに一軍コーチが一人、竹田と島谷の大テーブルに一軍コーチが二人、最後のテーブルに二軍コーチだけが五人座っていた。
 すべての出入口のドアが閉められ、室内に立つことを許可された四人のカメラマンが持ち場に控えた。ウエイターとウエイトレスが五人ずつ、いちばん前の長テーブルの脇に、昼とはちがう進行係が立っていた。
「では、ただいまより新人歓迎懇親会を始めることにいたします。新人七名のみなさまがた、本日はつつがなく中日ドラゴンズへの入団式を終えられ、まことにおめでとうございます。ドラゴンズ首脳陣、水原監督はじめ十四名、新人七名による豪華な懇親会でございます。中日ドラゴンズ入団式は、当名古屋観光ホテルの恒例行事ではございますが、とりわけ今年度は、式会場にテレビ中継のカメラを入れ、全国放送までするという力の入れようで、ホテル側といたしましても緊張至極でございました。つつがなく終了してホッとしております。新人選手のかたがたもさぞかし緊張なさったことでしょう。どうぞ、もう肩の力をお抜きください。表向きアルコールを禁じられている未成年者がほとんどなので、無礼講とまではいかないでしょうが、どうか和気藹々と会食をお進めくださいませ。係りの者が順次お食事をお運びいたします」
 私は近くのウエイトレスに手を挙げ、
「あのう、コーヒーをいただけますか」
 と声をかけた。
「はい、ただいま」
「ワシにもくれ」
 と小山オーナーが言う。
「はい、みなさまにお持ちします」
 私のコーヒーの注文で、場の雰囲気がほぐれたようだった。司会が、
「どうぞご自由にお飲み物を注文なさってください。食べて帰るだけの会ですから、みなさま、くつろいだ気分でお食事し、随時お引き揚げくださってけっこうです。そのように小山球団オーナーより仰せつかっております。二次会を予定しているかたがたは、一階か十八階のバーをご利用くださいませ。ただいま手を挙げてコーヒーを注文なさったおふたかたは、神無月選手と小山球団オーナーでございますが、あらためて各テーブルのかたがたをご紹介してまいりましょう。こちら、左のテーブルから小山球団オーナー、水原茂新監督、白井中日新聞社社長、村迫球団代表のかたがたでございます」
 コーヒーが何人もの手で続々と運ばれてきた。
「お隣のテーブルは榊渉外部長と神無月選手、右の窓側のテーブルは宇野光雄一軍ヘッドコーチと浜野、水谷の両選手、その後ろのテーブルは太田信雄一軍コーチと太田、三好の両選手、その右側のテーブルは田宮謙次郎、半田春男各一軍コーチと竹田、島谷の両選手が座っておられます」
 スープも次々と運ばれてくる。
「いちばん奥の大テーブルに、本多逸郎二軍ヘッドコーチ以下、長谷川良平、岩本信一、森下整鎮(のぶしげ)、塚田直和、各二軍コーチが着席なされています。私のこのマイクはフリーで空けておきます。ご用がございましたら、会場をウロウロしている私や、会場係の者にお申しつけくださいませ。なお、お食事の各品は、当ホテルの日本料理、中国料理、フランス料理各店の料理長が腕によりをかけてお作りしたものでございます。どうかご賞味くださいませ」
 ウエイターが前菜を運び、ウエイトレスが各テーブルに丁寧にビールを次いで回る。にぎり鮨が前菜だった。エビ、赤貝、トロ、イカ、ウニ。私は赤貝を頬ばった。榊に声をかける。
「榊さん、入団式の親身なお言葉、ありがとうございました」
「礼を言われるほどのことはしておりません。名古屋の八坂荘に村迫代表がお訪ねして以来、ついにここまできたという思いで胸がいっぱいになりました」
 そう言ってビールに口をつけた。私は隣のテーブルの村迫を見た。私をにこやかな顔で見つめながらうなずいている。水原監督と小山オーナーと白井社主は笑い合いながら、遠くのテーブルを眺めたり、鮨をつまんだりしている。いちばん奥のテーブルのコーチ連が新人たちのテーブルに出かけ、挨拶を交わしたり、ビールをついだりする。たぶんきょうだけのサービスだろう。二列目のテーブルにいた一軍コーチの一人が近づいてきて、
「田宮謙次郎です。一軍の打撃コーチを担当させていただきます。神無月くんはいじらないようにと言われています。私もそのとおりだと思う。まんいちスランプなどに陥ったら遠慮なく相談してください」
「田宮コーチのことを存じています。藤村富美男さんと並ぶ阪神の看板打者。昭和二十五年に、藤村さんのミスで完全試合を逃がした大エースでもありましたね。それは活字で知った知識で、ぼくが田宮さんを目にしたり耳にしたりしはじめたのは、大毎オリオンズのころからです」
 彼はにこやかな顔で空いている席に腰を下ろした。四十前後、どことなく英夫兄さんに似ている。フカヒレスープが出る。生まれて初めて食う。柔らかくプチプチした食感のフカヒレ、シャキシャキのタケノコ、とろりとした溶き卵。うまいものだった。私は、
「昭和三十五年にオリオンズがリーグ優勝したとき、田宮コーチは一番か二番を打っていました。三番榎本、四番山内、五番葛城、ミサイル打線。それからも三割を打ちつづけていたのに、オリンピックの年には春から見かけませんでした。ぼくもその秋に島流しを喰らって、ほとんどプロ野球は見なくなっていたんですが。何かあったんですか」
「その何かがきみの身に起こらないように、しっかり見張っていようと思うよ。水原監督に気に入られてほんとによかった」
「……なるほど、そういうことですか。監督とうまくいかなくて引退したんですね。そのころの監督はたしか、本堂保次……」
「むかしのことだよ。細かいことは忘れた。しかし、ウグイス嬢だけじゃないんだな、記憶力がいいのは」
 榊と二人で愉快そうに笑った。


         六十一

 小ぶりで厚いステーキが出てきた。トモヨさんに言われたとおり、一切れ口に放りこんだ。動物くさくなかった。田宮と入れ替わりに浜野が赤い顔でやってきて、
「だめだぞ、新人は先輩にビールをつがなくちゃ。それが礼儀というものだろ。島岡さんだったら鉄拳を食らわすぞ」
 と言って、畏まるように榊にビール瓶を差し出した。〈夢〉の場で〈現実〉の言葉にホッとした。現実が始まったのだ。集中しなかった気分が引き締まった。榊はコップを握ったきり、つがれるビールをだまって見ていた。浜野が別のテーブルに去ると、ビール瓶を手に取った私の肩に手を置き、
「神無月さん、そんなことをする必要はないですよ」
「でも、ちょっといってきます」
 私は隣のテーブルにいって、ビール瓶を首脳たちに傾けた。水原監督についだきり足りなくなったので、その場にあったビール瓶を握ろうとすると、
「おお、いつ見ても美しい男だ。野球なんかやらなくても生きていけるな」
 と白井社主が言った。村迫が、
「野球をしてもらうために、かどわかしてきたんですよ。色事のためじゃありません。へんなことは言わないでください。それでなくても、女を振り払うのにたいへんなことになると踏んでるんですから」
 水原監督が、
「それも男の苦労の一つだ。いいことだ。卑怯でなければ、きれいに振り払えるし、振り払う必要がないこともある。とにかく色のことには口出ししないことだね」
 また四人豪快に笑った。私は頭を下げ、ウエイターから二本の瓶を受け取ると、宇野一軍ヘッドコーチのいる浜野のテーブルにビールをつぎにいった。
「あ、神無月くん、恐縮。宇野です。巨人から招聘されました。歓送会のときみんなに言われましたよ。神無月に何をコーチするんだってね。人間をコーチするって言っときました。その人間も、こっちがコーチされそうになってきましたよ。今年は、三番の千原、五番の葛城、七番の徳武をベンチに下げて、三番江藤、四番神無月、五番葛城か千原か島谷のクリーンアップを組むつもりです。得点力を上げないことには勝てない。牽引のカナメとしてがんばってください」
「はい」
 浜野がコップを差し出し、
「俺が投げたときに打たなかったら喰らわすぞ。俺は投球フォームがどうのこうのとよく言われるが、俺の高校時代に広島のエースだった池田というのがいた。そいつの投げ方を写真で研究して徹底的にマスターした形だ。文句はつけさせん」
 宇野が、
「反り返るフォームのことだね」
 私が思っていただけではなく、一般に知られていたことだったのだ。私は、
「池田って、浜野さんよりふた回りも小さいピッチャーじゃなかったですか。小さいからだなら星飛雄馬のように反り返って反動をつける必要があると思いますけど、浜野さんは百八十センチですよ。スピードも百四十キロ以上出ますし、反り返らなくても体重移動だけでいいと思いますけど」
「チェ! まあ、おまえは俺がホームランを打たれたバッターだ。その意見は参考のために聞いておくが、フォームを改造するつもりはない」
 ビールつぎをやめたくなった。榊を振り返ると戻ってくるように手招きしていた。なぜか楽しい気分で〈礼儀〉を続行することにした。
 同姓の太田信雄コーチのいる太田安治と三好のテーブルにいった。太田安治がすぐに立ち上がって深くからだを折った。彼を座らせるために、私も腰を下ろした。私にビールをつがれた眼鏡をかけた中年が、
「浜野くんには手を焼きそうだな。あ、私、このあいだまで中日スポーツで野球評論家をやってた太田信雄です。この新人選手の太田くんとは関係ありません。昭和十八年のいわゆる最後の早慶戦で、慶応大学の五番ライトで出場してたんですよ。昭和二十年代後半の中日で四年間投げて、六十四勝しました。慶應の先輩の水原さんに呼ばれちゃってね」
 まったく知らない男だった。物腰が柔らかく、五十そこそこなのに、好々爺という雰囲気だ。礼をして去るとき、三好はうつむいていたが、太田はまた立ち上がって上体を折った。
 竹田と島谷の大テーブルにいった。さっき顔を出した田宮コーチと、小柄な半田コーチのいるテーブルで、いちばん賑やかだった。イセエビとホタテを煮合わせたような料理が出るところだった。島谷が、
「なんで大物が酒ついでるの。だれの命令?」
「命令ではありません。浜野さんに薫陶を受けて目が覚めました」
 島谷は立ち上がり、
「おい、浜野! おまえも酒ついで歩かんか! それが島岡仕こみの礼儀だろ。そんな礼儀をいったいだれに教えるつもりなんだ」
 浜野はフンという表情で無視した。代わりにタコがビール瓶を持って立ち上がり、水原監督のテーブルへ早足でいった。
「子供みたいな顔して、気の毒になあ。腹へったでしょう、食べなさい」
 と島谷は言って、ステーキの皿を押してよこした。
「肉は苦手です」
ンダです」
 外人面をした日本語のぎこちない男が頭を下げた。
「あ、南海の」
「はい、ショワ三十三年から三十六年まで海に在籍しました。去年から中日さんのコーチしてます。ビールかけ発明したの、ぼくです。モリミチックトス教えたね。南海のヒグチにドッグバントを教えたのもぼく」
 ビールをつごうとすると、田宮が、
「神無月くん、もうここでストップ。自分のテーブルに戻って食事しなさい」
「はい。もう一テーブルなので」
 田宮はもう一度しつこく、
「もうあっちのテーブルにはいかなくていいから、戻りなさい」
 私は笑顔でうなずいただけで、つづけていちばん奥のテーブルへいった。本多が語りかけてきた。
「去年まで杉下監督の代行だった本多です。今年は二軍ヘッドなので、神無月くんとはお目にかかれそうもないな。関西遠征にはたいてい帯同しますから、そのときにお会いできますね。杉下さんも、大洋から小野正一を獲ったり、西鉄に広野を出して田中勉を獲ったり、サンケイの徳武と河村をトレードしたりして、やるだけのことはやったんだけど、最下位に甘んじました。今年はスタッフを一新して水原監督のもと、少なくともAクラスを目指さなくてはね。活躍を期待してます」
「はい」
 島谷が立ち上がり、
「おーい、新人ども、全員で先輩にビールをつげ。浜野の礼儀だそうだ。浜野、おまえが率先しろ!」
 これまた彼は黙殺し、代わりにほかの新人が立ち上がった。水原監督が椅子を鳴らして立ち、
「新人はビールなどつがなくてよろしい。これは新人の歓迎会だ。私たちがついで回るのが筋です。そういう儀礼的な行為こそ私たちが恐れていた体質の濫觴だ。榊くん、新人全員をテーブルに戻しなさい。浜野くん、神無月くんに遺恨があるのなら、別の形で晴らしたまえ。なぜ、神無月くんだけに命じたのかね」
 ウエイターやウエイトレスがおろおろしている。浜野は憮然とした顔で、
「ちやほやされていい気になってるからですよ。きょうだって控室にいちばん遅くきたんですよ。礼儀がなってない。こういうことは、のちのち全体の歩調に響いてきます。早いうちに矯(た)め直しておかないと」
 いつの間にかフラッシュが止んでいる。カメラが手帳やデンスケに変わった。榊が叫ぶ。
「記事はだめだ! オフレコ、オフレコ」
 小山オーナーが、
「全体というのは中日ドラゴンズ全体かね、新人諸君全体かね。たしかにわれわれには神無月くんを愛でている意識はある。優遇しているという意識もあるかもしれない。しかし神無月くん本人はそういったことを何も意識していないんだよ。いい気になんかなっておらんのだ。きょうだって遅れてきたわけではない。こんなふうに陰湿に扱われたら、次回は、神無月くんはだれよりも早く、どんな場所にでもやってくるぞ。文句をつけられるのを極端に恐れる人間だからね。どうするんだ、そうなったら? きみは神無月くんよりも早くこなくちゃと、毎回びくびくすることになるぞ。入団式のときにも榊くんが言ってたろう。放っておけって。彼はだれにも迷惑かけやしないよ。心配しなくていい。神無月くんはきみの野球人生を傷つけやしないから。さあみんな、ゆっくりやってください。食って、飲んで、ゆっくり休養して、二月のキャンプに備えてください。料理はもう終わりかな? 若いんだから、食い残しがないように平らげなさい。じゃ、三十分もしたら、デザートと飲み物を持ってきて」
 村迫が立ち上がり、
「食事をなさりながら聞いてください。―きみたちは一人ひとりがすぐれた選手だ。ドラゴンズにとって貴重な選手だ。だからこそわれわれは指名したんです。いがみ合わずにやっていこうじゃないか。浜野くん、実際のところ、きみだって神無月くんのことを特殊に思っているからそういう態度に出たんだろう。どうだろう、ドラゴンズの神無月という目で見ないで、日本プロ野球界の神無月として眺めてみたら。礼儀等の人格教育は彼に必要はない。きみの百倍の辛酸を舐めてきた男だからね。アウシュビッツになぞらえた極論をするつもりはないが、彼の人生のどの一部をとっても、精神的なアウシュビッツのようなもので、きみやほかの新人選手ばかりでなく、われわれみたいな年寄りにもまねのできないものだ。人間を怖がるのはそのせいだ。そのうえ神無月くんは、アウシュビッツで喜んで死ぬタイプの人間だ。集団的な慣習や儀礼はいざ知らず、対人的な礼儀は完璧だ。こういう人間を社会的に責め殺すのは簡単だから、殺さないように扱うのが難しいよ。ひたすら無視して、アウシュビッツに入れるような積極的なことをしなければ、彼は獅子奮迅の活躍をしてくれる。放っておきたまえ。村八分にしてもいいから、放っておきたまえ」
 いちばん奥のテーブルにいた二軍コーチの一人が、つかつかと進行係のマイクにやってきて、
「二軍コーチをさせていただくことになった長谷川良平です。どうぞ会食をおつづけになって聞いてください。私も孤独な人間で、広島で投げていたころは、チームメイトから村八分にされておりました。ごらんのとおりのチビで、百六十七センチ、五十六キロしかありません。満二十歳から広島一本で十四年間も投げつづけたおかげで、百九十七勝も挙げることができました。おっと、失礼。こんな自慢めいた話をしたくて出てきたわけではありません。その後三年間広島の監督をさせていただき、昨年、中日さんに一軍投手コーチとして誘われ、今年から二軍投手コーチを仰せつかりました。現在三十八歳、チビのからだがさらに小さくしぼんでしまいました。こんな私がどうしてそれだけ長く投げつづけられ、監督までさせてもらえたか、それは私が、むろん神無月くんには比ぶべくもありませんが、チビのくせにするどいシュートを投げるささやかな才能を発揮できたことと、社交が不得手だったせいで〈放っておかれた〉ということがあります。体質的に酒が飲めなかったという不可抗力に加えて、人付き合いがとりわけ苦痛だったんです。それで放っておかれました。それが活躍できた直接の原因です。―そういった中でなぜか、金田正一というたった一人の友人や、大勢のファンから愛されました。彼らは愛するまま放っておいてくれました。それで私は伸びのびと野球ができたわけです。神無月くんの人間嫌い、マスコミ嫌いはとみに有名です。きみたち新人の中にマスコミ嫌いは一人もいないはずです。自分を売り出してくれる人びとを嫌ったら、致命傷ですからね。まさにアウシュビッツ状態でしょう。村迫代表が言った、アウシュビッツで喜んで死ぬというのはそういう意味です。わかっていただけましたか。神無月くんは、ふつうの叱咤や、揶揄や、からかいでどうにかなるというたぐいの人間ではない。奇人です。われわれのように長く人間を見てきた古参にはそのことが一発でわかりました。浜野くんが心配したような礼儀にも欠けていない。ロハでもいいから中日ドラゴンズに入りたいという人間が、無礼のはずがないでしょう。とにかく私たちだけでも放っておきましょうや。村八分にしてもいいから放っておきましょう。ちなみに私は、いまも放っておかれてます」
 満場の笑いになった。私は二本のビール瓶を持ったまま立ち尽くしていた。タコが立ち上がった。
「神無月さんの中学時代のエピソードをどうしても一つ、語らせてください。神無月さんはグランドでは翼を好きなだけ伸ばして軽やかに羽ばたく人で、仲間の俺たちにも親切だったし、よくアドバイスをしてくれる人でしたが、グランドの外では口数の少ない孤独な人でした。一度野球部連中といっしょにタコ焼きを食ったことぐらいしか記憶がありません。その孤独な人が、大ヤケドをして入院した親友の見舞いに、一日も休まず、八カ月間かよいつづけたんです。その親友はいわゆる番長と呼ばれる評判の悪い人でした。野球部を終えてからかよったので、帰りは遅くなります。それが有名な島流しの原因になったんです。長谷川コーチのおっしゃったように、たった一人の友人に愛され、誠実に愛し返したせいで野球を奪われたんです。つまり命を失ったんです。それでも神無月さんはあきらめずに不死鳥のように復活しました。野球の名門校ではなく青森高校という受験校で。北の怪物という小さな記事を発見したとき、俺は泣きました。たしかに彼は奇人で、俺たちの常識にはかからない孤独な人間かもしれません。しかし、筋金入りの義俠の人です。義俠というのは、野球をするうえでは欠かせない情熱だし、多くのファンの心をつかむ真髄でもあると思います。俺は神無月さんを目標にしません。ただ愛して、ついていきます」
 田宮が立ち上がった。
「よーし、わかった! 唄い締めさせてください。見上げてごらん夜の星を」
 進行係があわてて、
「ちょっとお待ちください。予定の時間までまだ三十分もありますし、食べ終わっていない人もだいぶいます。デザートも出ておりません」
「じゃ、歌ってデザートを待つ。俺の次に歌いたいやつは歌ってくれ」
 田宮は朗々と歌った。調子の外れていない美声だった。みんなのナイフやフォークが進みはじめた。田宮コーチにつづいて半田コーチが出てきて、得体の知れないハワイの歌を唄った。


         六十二

 半田コーチの歌が終わると、気詰まりな様子をしていた浜野が私の傍らにやってきて手を差し出した。私は力弱く握手した。榊が険しい目で見ている。
「気を悪くするな。俺はおまえに何の遺恨もないよ。ホームランだってスカーンとやられて、悔いのある配球じゃなかったしな。おまえ、いつか試合後、長いこと飯場の人たちに呼びかけたことがあったろ。じつはな、俺も岡山は水島の三菱重工の飯場で育ったんだよ。母一人子一人でな。おまえと同じように社員たちからかわいがられた。中学、高校と順調に野球をやりながら進んで明治に入った。おまえが臆面もなく、自分の今日は飯場の人たちのおかげだと言うのを聞いて、そんなはずねえだろ、自分の能力でそこまできたんだろ、なにいい子ぶってんだよ、と思ったわけだ。さっき太田に聞いたよ。おまえ、中一のとき左の肘の手術がうまくいかなくて、右投げに替えたんだって?」
「そうです」
 榊が目を細めてうなずいた。
「そのときに、飯場の人たちが何カ月も手伝ってくれたというじゃないか」
「テレビカメラの前で言いましたよ」
「そんな奇跡みたいな話、聞き逃しちゃったんだよ。でな、ついさっきな、おまえが本気で感謝してたことがわかったんだ。欺瞞野郎でないってことが、太田の怒りでわかったんだよ。つまりだ、たとえわかったとしてもだぞ、そんな奇跡を起こしたのはおまえの天才であって、飯場の社員たちのおかげじゃない、そう言いたいんだよ、俺は」
「そう思えないタチなんですよ、ぼくは」
 語調を合わせた。浜野は歯を見せて笑い、
「ただの馬鹿だ。威張り方を知らない、人がいいだけの馬鹿だ。榊さん、天才って、こんなもんですか」
「ほんとうの天才はね、自分の才能はうれしいだけのもので、誇るものじゃないんだよ」
「ふう! まいった。よくわかった。わかった以上は、これからは同期の桜だ。同じように咲いて、同じように散ってやる」
「散ることはありませんよ」
「強力な賛同者になるということだよ。おまえは特殊な馬鹿だから、保護者にもなってやる。当然いっしょに散ることになるだろ」
「……ありがとうございます」
「バカヤロウ」
 浜野は水原監督たちの前に走っていき、
「申しわけありませんでした!」
 と一礼し、また奥のテーブルへ走っていき、長谷川コーチに、大声で詫びて一礼した。それから、半田コーチが去ったマイクの前にいって、あごを上げて同期の桜を一番だけ歌った。新人たちが声を合わせた。こいつ、うまく逃げたな、と思った。水原監督ら四人が私と榊のテーブルにやってきて座った。白井社主が、
「ああ、ほんとにきみは美しい男だ。浜野もこの美しさにやられたな」
 水原監督が、
「根本的に誤解はされない男ですよ。しかし、まだまだ一難去って、ですな。マスコミに神無月くんの私生活を壊されないようにするという、先の長い努力をしないとね」
 村迫が、
「お母さんと絶縁しているわけですから、神無月くんの私生活が成立しているのは、大勢の人びとの賛助あってのものでしょう。その賛助者との関係を探るのは、われわれもしてはならないことです。どんな類の人間でも、たとえ政治家でもヤクザでも、神無月くんには無償で惚れますからね。その分、けっして正体を現さないようにするはずです。彼らの気持ちはわれわれと同じですよ。われわれの使命は、ただ公的生活をする際の神無月くんを守り、支持し、延命させることだけです」
 小山オーナーが、
「そのとおりだ。私は主に、この無欲な神無月くんの経済を支えるよ。彼はいま個人的にふところがスッカンピンだからね。給料は来月からだろ」
「はい」
 村迫がうなずくと、水原監督が、
「神無月くん、だれかに手伝ってもらって、銀行口座を作っておきなさい。その銀行名と口座番号を代表に知らせなさい。給料の手渡しは面倒だからね」
「はい」
 村迫が、
「もう一度、名刺を渡しておきます。東大のユニフォームとスパイクをその名刺の住所に送っておいてください。それに合わせてユニフォーム三式と、スパイク三足作っておきますからね。キャンプ初日にお渡しします」
「はい。スパイクはけっこうです」
「一応送ります。東京に戻ったら、今月中の都合のいいときに、名刺の番号に電話をください。契約金六千万はご存知のとおりです。年俸は三千六百万、税金を引いて十二分割の月給制ですから、来月の給料は二百万強です。数年もすれば億のプレーヤーになる身です。初年度は慎ましくいきなさい」
「はい。それって、慎ましいんですか」
「ハハハハ、東大とちがって、プロは野球用具はじめ、もろもろが自前ですよ。だとしても二百万は慎ましくはないね。最高給料の中西太くんでさえ現在月給三百四十万だ。来年は長嶋くんがいまの三百万から六百万になると囁かれている。きみは一、二年でそれを抜くだろう。王くんは今年二百八十万、来年は三百二十万だと予想されている。一年後はきみが彼を凌ぐ。それじゃそろそろお開きにしようか。榊くん、閉会の辞を頼むよ」
         †
 帰りぎわ、会場のドアを出たところで、本多コーチから一人ひとり、二枚組の紙を渡された。チラッと目を落とすと、キャンプの練習メニューと、オープン戦の日程表だった。
 廊下の目覚ましいフラッシュの中、玄関へ降りた。どこにも宇賀神の姿はなかった。マイクやデンスケはいたけれども、室内の異変に気づいたせいか、私に押し寄せることはなくもっぱら様子伺いのために首脳陣に集中した。宇賀神はこのことを察知して去ったのかもしれない。私は悠々菅野のクラウンに乗りこんだ。九時を少し回っていた。
「だいぶ待たせちゃいましたね」
「いいえ、のんびり楽しんでました。さっきの話ではないですが、私もニセモノと言うか幻の中で生きてるような気分になりましてね。神無月さんとタクシーで出会ったころのことをずっと思い出してました。徳川園へいった日ですよ。山口さんもいらっしゃいましたね」
「転校の下調べのときだったね。春休みで、山口が初めて遊びにきた。ユキさんて女の人がいて……。あのおとなしそうな人、どうしてるんだろう」
「さあ、もう北村席の界隈にはおりません。身請けされたという話でしたね」
「なんだかさびしいね」
「そうですね。私はこの数年、そういうことは見慣れてますから。……神無月さんに言われると、さびしくなります。どうでした、懇親会は」
「ひとことも口を利かない選手もいた。ぼくは、コーチや首脳たちとよく口を利いた」
「そうですか、それはよかった。神無月さんは、見ただけでその選手の将来性というのがわかりますか」
「わかる。太田と島谷と、それから水谷則博だけだね。あとは化けもしないですぼむ。そういう選手とは、きょうの懇親会が最後の顔合わせだと思う。ただ、太田たちも相当努力しないと一流にはなれない」
「きびしいもんですね。何万人から選ばれて、それだけですものね」
「スポーツの世界は、有能無能がハッキリしていて気持ちがいい」
 浜野の無礼や太田の義憤のことを話すのは億劫だから言わない。
「用心棒は現れましたか」
「はい。でも帰りには姿を見せませんでした。……さあ、あとはキャンプまで体力づくりをするだけ。一月の二十六日が日曜日です。二十七日に東京を引き揚げて名古屋に戻り、キャンプに出かける準備をします。カズちゃんに、銀行口座を作ってこの名刺の人に振込口座番号を手紙で知らせるように、それから名刺の住所に東大のユニフォーム一着とスパイク一足を送るように、それから一月二十七日までにバットとグローブを北村席に送っておくよう電話しといてください。ドラゴンズのユニフォームはキャンプ地で受け取ることになってます」
 菅野は車を停め、手帳を出し、
「ちょっと待ってください。……と……と……と。よっしゃ、了解」
 澱みなく書いた。タクシーで鍛えた彼の記憶力は人とちがっているのだろう。すぐ別の話題に移る。
「家と店ができ上がるのは三月の上旬から中旬でしょうね。雨の日数にもよるでしょうけど」
 クラウンが北村席の門に着いた。
「私はここで失礼します。またあした午前中にきます。アイリスも神無月さんの家も、車で二、三分のところですが、最初は迷わないようにお連れします」
「ありがとう、それじゃ」
 車が走り去り、私は数奇屋門の格子戸を開けた。小暗い木立を抜け、広々とした芝庭の中を玄関へ歩いていく。庭の途中の小池でさざ波が光った。何だろうと芝を歩いて寄っていくと、大きな金魚が三匹泳いでいた。庭石へ戻る。車が去る気配を察してか、主人夫婦とトモヨさんとおトキさんが玄関灯の下に立っている。
「ただいま」
「お帰りなさい」
 トモヨさんが腕をとった。
「赤貝と、ステーキ一切れと、アイスクリームを食べた」
 母親が、
「やっぱり! うちの人も言っとったんよ。神無月さんは何も食ってこん、て」
 おトキさんがにこにこして、
「ちゃんとご用意してますよ。トモヨさんもいっしょに食べると言って、夕食とらなかったんです」
「直人は?」
「とっくにワシらの部屋で寝とる。めし食ったら、ゆっくり風呂入って、二階で寝てください。トモヨもあしたはゆっくり起きてくればええで。お腹に響かんようにな」
「はい」
 主人夫婦が廊下の奥の離れへ引っこんだ。賄い部屋の窓から見えた建物だ。おトキさんが玄関前の八畳の居間に食事を運んでくる。廊下越しに座敷から女たちの声が聞こえてくる。
「花札?」
 トモヨさんが、
「はい、中番でトルコから上がった人たち。ここの女の人はミニ穿いたりして若作りですけど、三十過ぎてる人が多いから、遊びもちょっと古めなんです。お義父さんが古参の人を大切にするんです」
 鰻の蒲焼、肝吸い、野菜サラダ。
「妊娠初期はふつうにセックスしてもいいんだったよね」
「そうお嬢さんに教えていただきました。後期はだめだって」
 おトキさんが、口を手で押さえて笑った。
「でも、無理をなさっちゃだめですよ」
「おトキさんは、山口が出すまで、何回くらいイケる?」
「一回です。二回のときもあります」
「すてきだね」
 おトキさんは真っ赤になった。トモヨさんが、
「きょうの懇親会で、お友だちになれそうな人はいましたか?」
「呼び捨てできそうなのは、太田だけかな」
「ああ、宮中でいっしょだったかた」
「うん。あとはみんな、サンづけだ。首脳陣とは友だちになれそうだけど」
「そこがふつうの人とはちがうところですね。いつでもここにもお連れしてくださいね」
「榊さんはきてくれるだろう。ほかの人はえらすぎる」
「いいえ、そういうかたがかえってよくいらっしゃるようになりますよ」
 山椒の効いたうなぎを腹いっぱい食べ、サラダのキュウリだけを拾って齧る。玄米茶。おトキさんが、
「お風呂入ってますよ。私は遅く帰る女の人たちの夜食を作ったら寝ます。きょうも味噌おにぎりを作っといてあげましょう。あしたは二人ゆっくりなさっててくださいね」
「ありがとう」


         六十三
 
 十人も入れる木枠の浴槽は、二人浸かったくらいでは湯があふれない。のんびり脚を伸ばす。
「きょうはお疲れのところを、ほんとうにごめんなさい」
「ダメ押しの疲れは気持ちいいんだ。あしたの夜は文江さん」
「私はもうきょうでじゅうぶん満足しますから、あとはごちそうさまにします」
「ぼくも。文江さんも一度訪ねるだけにして、自重しないと」
「キャンプは二月の一日からでしょう?」
「うん。兵庫県の明石。三月からのオープン戦は、アウェイにホームにと忙しく飛び回ることになる」
「オープン戦は、三月のいつからですか」
「一日の土曜日から。十四試合か十五試合、下旬までつづくみたい」
「体力勝負ですね」
「それほどでもない気がする。一試合一試合そのものは、練習とちがって、走りつづけたり動きつづけたりすることはないから、机に向かってるようなものだね。じゃないと、とても百三十試合はこなせない。ほんとうは一月初旬から、新人合同自主トレとか、選手会合同自主トレというのがあるらしいんだけど、参加したところで、いらない疲れが溜まるだけだし、先輩との初顔合わせを早めにやったところで、大した意味もない。先輩たちとは試合で連帯できればいいんで、余計な場所で交友を深めてもしょうがない」
「そういうものでしょうか」
「そういうものじゃないから、あえてね」
「―練習一つするのも、みんなで寄り合うんですね」
「そう。でも、ぼくは孤独にやる。キャンプまでは吉祥寺の家のあたりでなんとかうまくやるさ」
         †
 翌朝トモヨさんは早起きしたが、私は九時過ぎまで寝ていた。早出の女たちが玄関でパンプスやブーツを履いている。すでに菅野が居間にきていて、直人を抱きながら北村夫婦やトモヨさんとコーヒーを飲んでいた。台所のおトキさんと賄いたちに声をかける。
「おはよう」
「おはようございます。よく眠れたようですね。お顔を洗ってきてください。朝ごはんですよ。スズキの一夜干しの塩焼き、納豆、だし巻き卵、ナスの浅漬け、板海苔、豆腐とワカメの味噌汁です」
「ありがとう。ごはん、どんぶりでお願いします」
「はい。洗面所に歯ブラシと歯磨き粉を用意しておきました」
「ありがとう」
 歯を磨いて居間に戻ると、北村夫婦がおはようございますと言う。菅野が直人の手を握って私に振る。
「お嬢さんに連絡しときました。ちゃんとやっておくので心配しないようにと言ってましたよ」
「すみません。そういうこと、自分じゃなかなか処理できなくて」
「それでいいんですよ。人には持ち分があります。それから、千佳子さんと睦子さんという子が、国公立模試で二人とも全国の百番に入ったそうです。伝えてくれと言われました」
 直人が、じいじ、ばあばと言いながら、主人夫婦の唇をいじる。父親が、
「中日スポーツに、水原監督天馬イジメを一喝、とありますけど、だれかが神無月さんにビールをついで回れと言ったようですな。そのだれかが書いてないんですよ、新人の一人とありますが」
「浜野です。首脳やコーチたちにビールをつがないのは礼儀知らずだと言うので、言われたとおりにテーブルをついで回ったんです。けっこう楽しかったんですが、田宮コーチからもうやめなさいと言われたら、なんだか意地になっちゃって。神無月にビールをつがせるな、何の遺恨があってそんなことを彼だけに命じたのか、遺恨は別の形で晴らせって、水原監督が浜野を叱ったんです」
「そんなことがあったの!」
 トモヨさんが叫ぶと、直人がびっくりして母親の膝に乗った。おトキさんまでしゃもじを持って出てきて、
「なんできのうおっしゃってくれなかったんですか」
「浜野はあとでぼくに謝ってきた。謝られたときに、ぜんぶ忘れちゃった」
 女将が、
「忘れたなんて、ひとが好すぎるがね。菅野ちゃん、これ謝ってすむ問題やないよね」
「はあ、とんでもないことですね。身の程知らずというか、ノータリンと言うか。懲罰ものでしょう」
「場が騒然となったので、首脳陣のみんなが、口をきわめてぼくのことを弁護しだしたんです。特に長谷川コーチがね。あんまり大ごとになったんで、肝がつぶれました」
「自分の才能以上に自惚れる人間がいるものです。自己陶酔して、身勝手で、人には手きびしい。浜野はその手の人間でしょう。でも、それだけのハナシですよ。やっぱり忘れたほうがいいです」
 主人が、
「みなさん何と弁護したんですか」
「神無月は奇人だが人間的な礼儀はできている、プロ野球界に貢献させたければ放っておけって。榊というスカウト部長が記者たちにオフレコだって叫んでました。浜野はぼくに謝ったあと、監督や社長や代表たちに、それからコーチたちにも頭を下げて謝ってました。とにかくぼくは、放っておかれることになったので安心です」
「くやしい……」
 トモヨさんが頬をふるわせた。直人がその頬をなぜる。
「初日からそうきましたか。前途多難ですな」
 主人が深刻そうにうなずく。
「キャンプでしこたまホームランを打てば、だれも何も言わなくなります。きちんと礼儀を守りながらね。ぼくはこういうことをおもしろがるタチなので心配いりません。おもしろくないと感じるようになったときが潮時ですね」
 菅野が、
「潮時はホームラン王を獲ってからにしてください」
「一年目で獲ります」
 言ってしまって十字架を背負う。それも私のタチだ。ナスの浅漬けがうまい。味の素と醤油をたっぷりかけ、どんぶりめしといっしょに食う。おトキさんがもう一鉢ナスを持ってくる。その一鉢を残りのめしで平らげ、
「ああ、満腹」
 と畳に両手を突いた。こんにちは、と玄関に文江さんが現れた。直人が走っていく。
「ちょうどいいわ。郷くん、文江さんといっしょに気分直しに出かけましょ。でも、ほんとにくやしい」
 トモヨさんが言うと女将が、
「トモヨは和子と顔も同じなら、気持ちも同じになってきよったが」
「何かあったんですか」
 直人を抱いて文江さんが居間に入ってきて、きょとんとした顔で訊く。トモヨさんが、
「郷くんが、新人仲間にいじめられたの。酒ついで歩けって」
「まあ! キョウちゃんにそんなことを。狂ってんでにゃあの」
「話が大げさになってますよ」
 私が言うと主人が笑いだした。
「水原監督がそいつを叱ったと、ここに書いてある。新聞には載っとらんかったが、首脳部もこぞって神無月さんの肩を持ってくれたそうだ。神無月さんがそういうことをおもしろがるタチだと言うんで、ホッとしたわ。前途多難やと思っとったけど、人間関係はだいじょうぶそうやな。長い付き合いは、初日が肝心やでな。水原さんもよう言ってくれた」
 直人を抱き取る。
 女二人と菅野の車でアイリスを見にいく。北村席の門を出て五百メートルもいかないうちに椿神社に出た。神社の外れにある裏門に接するように、ブルーシートの覆いをされた建設途中の建物が見えてきた。
「大きいなあ!」
「六十坪、鉄筋の二階建て、ゆったり八十席ぐらい置けますからね。店舗併用住宅で、二階に三世帯住めます。店の横手と裏手は、二十台は停められる駐車場です」
 菅野が得意そうに言う。椿神社の豊かな緑を見やりながら、みんなで車を降り、ブルーの遮蔽ビニールを分けて壁沿いに立つ。ドームの庇をつけた大きなドア空間はまるでマンションのようだ。それにつづいて店幅いっぱいの庇のついた窓枠が、五つに区切られて優に十メートルもつづいている。ここに一枚ガラスが五枚嵌まるのだろう。
「ドアは自動ドアになりますよ」
 仮の陸(ろく)屋根を張っただけの二階で大道具の機械音がする。ドアを入ると、一階の店部分だけで百帖もあるだろうか。高田牧舎の五倍はある。それに付属して調理区画、コーヒーを入れる区画、ケーキ棚、皿や食器やカップを洗う区画があり、天井には二十もの明かり穴が空いている。テーブルもソファも椅子もまだ置いていない。洗い部屋の奥に、かなり広めの階段が昇っている。
「一階がこの広さだと、上は五家族も住めそうな空間になるね。素子が使わない部屋は人に貸せるんじゃない?」
 トモヨさんが、
「一所帯三部屋とるそうですから、三家族ですね。千佳ちゃんに貸したらどうかしら」
「千佳子は北村に住むことになってる。一人で三部屋は持て余す」
 文江さんが、
「だれですか、千佳ちゃんて……」
「東京でお嬢さんと素ちゃんといっしょに暮らしてる子。すてきな子よ」
「千佳子はおトキさんやトモヨさんについて、料理を覚えたいそうだ。もう一人、東大をやめて名大を受ける睦子って子がいる。さっき菅野さんが模擬試験どうのこうのって言ってた子だよ。彼女は名大のそばにアパートを借りるって言ってる。大学院にいって学者になるつもりなんだって」
 トモヨさんが、
「郷くんに迷惑をかけないためですね。みんなすごい。私もがんばります」
 菅野が、
「トモヨ奥さんはがんばってますよ。これ以上どうがんばるって言うんですか。文江さんもがんばり屋さんだし、だれも神無月さんに迷惑かけてませんよ」
 文江さんがうれしそうに私の手を握った。トモヨさんが、
「文江さん、きょうの夜、オッケーね」
「ええ」
「ひさしぶりだと、感じすぎて、二度もすると死にそうになるわ。気をつけてね」
「はい」
 菅野が苦笑いして、
「二人ともバケモノだな。四十、五十の婆さんには見えない」
 トモヨさんが、
「婆さんて言うのは二十年後にして」
「三十年後にしますよ。十五歳ぐらいずつ若いんじゃないの。旦那さんも女将さんもシワひとつないし、自分は同じ国に暮らしてるのかなって思っちゃいますよ」
 文江さんが、
「菅野さんの奥さんも、最近、若返りましたよ。かわいがってあげてるんでしょ」
「東京にいって、神無月さんや山口さんに刺激受けちゃって。おかげで、夫婦円満です」
「ご馳走さま!」
 二人で菅野の背中を叩く。
 アイリスの角地の先の短い横断歩道を渡って、コメダ珈琲という大きな喫茶店と駐車場に挟まれた細道を左折する。三十メートルほどいくと、右手に、生垣を縦横二十メートルも回した一角があり、その中にやはりブルーのシートをたらした二階家が建設中だった。
「こりゃ、また、大した建物やがね」
 文江さんが早足になる。近づいて見ると、生垣は注文どおりのキンモクセイで、門は北村席と同じ数寄屋門になっている。門の脇に放りこみ式の郵便受けがついている。リクエストした板塀の門よりこっちのほうがずっとよかった。生垣の途切れた右手に、車が五台も収納できそうな駐車空間があり、スレートの波屋根が設えてあった。ガレージの隣はむかしよく見かけたような小石混じりの空地だった。生垣の左手に回ると、二十メートル四方もある空地で、草がすべてきれいに刈ってある。他人の土地だろう。家の裏手も同じような空地だったが、樹木のまばらな林になっていて、遠くに高層の建物がいくつか望見できた。門前の通りを挟んだ向かいは、ブロック塀で囲んだ三軒並びの民家と、二階建てアパートと、八階建てマンションだった。数寄屋門の前がかなり広いので、遮蔽物として気にならなかった。
「この土地を売ってくれた地主さんが言うには、神無月さんの敷地以外の空地は、いずれこの区域の人たちに貸す月極め駐車場にするそうです。家が建てこむことはありません」
 格子戸をカラリと開けて門を入る。いびつな円形の平石を混ぜた砂利畳が玄関まで五メートルほど敷いてある。平石は固めた小砂利に埋めこむように敷いてあるので目に柔らかい。家とガレージのあいだは、生垣に沿った通り抜けの隘路にしてあり、ガレージの裏につづく道にやはり平石を埋めた砂利畳が敷いてある。その奥は広い庭で、さまざまな幼木が植えてある。玄関の右手前にはモクレンの幼木が植えてあった。左の生垣と一階の濡れ縁とのあいだはこれまた広い庭で、奥の生垣沿いにまだ丈の低い孟宗竹が植えられ、角地には柿の幼木が植えられていた。あとはのっぺりとした土の平地で、これから離れを建てたり、練習の空間を作ったり、樹木や花を整えていくための余剰地がたっぷりあった。
「ほとんどリクエストしたとおりだ」
 菅野がうなずき、
「旦那さんが何度も、大工や植木屋たちとまじめに相談してましたからね。あとは離れを造り、家の周囲にもっと密に庭石を入れて、低木を植えるだけだと言ってました」



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