六十四

 一周して玄関戸の前に戻ってきた。砂利畳がTの字に広がって黒タイルになる。遠くからは目立たなかったが、左手前の芝生に、モクレンと向かい合うように石灯籠が立ててあった。家守のつもりかもしれない。玄関の右上方に箱で覆った玄関灯。
 縦格子のガラス戸を開ける。土間は六帖もあり、灰青色のタイルが貼ってある。右側の壁を穿ち、下半分が四枚簀子(すのこ)戸の下駄箱になっていて、その棚にすでに黒い胴長の空花瓶が置かれていた。花瓶と並べた黒い平鉢の剣山に、何やら見知らぬ葉の生えた枝と二輪の桔梗が挿してあった。左の壁前は五十センチ幅の物納れの納戸で、きちんと平台が玄関の尽きるところまでつづいていた。平台の上に大工道具の類が材木屑の中に乱雑に置かれている。かすかに傾けた天井から、和紙を貼った立方体の灯りが下がっている。簀子戸と納戸の外れから式台が始まり、広い廊下になって左右へ延び、土間の前でT字の形に合流している。北村席と同じ造りだ。納戸の側の式台には、電話を載せるようにこしらえた本箱形の台架が置いてあり、きちんと受話器が載っていた。
 玄関の左廊下のすべて、つまり納戸の裏側の最初から最後までが、北村席の厨房をミニチュアにした造りの台所になっていた。戸はすべて磨りガラス障子だった。飯釜を炊くかまどの設備はなく、大型のレンジが四つ、シンク棚は北村席の半分の長さだった。ここにも電話が置いてある。台所の隣が左の庭を眺める十帖ほどの浴室になっている。ガス式の浴槽は、トモヨさんが言うには日光杉だった。洗濯場を完備し、温泉の家族風呂のようなカランとシャワーが三対しつらえてある。
 厨房前の廊下の奥は三帖のトイレになっている。廊下を跨いだ向かいの部屋が十二畳の食堂兼居間で、まだ畳は敷いていない。その隣の十二帖の音楽部屋には、ニス塗りを待つ白木の板が床貼りしてあった。アコーデオンのように開閉できる衣装戸棚が右奥の壁に穿ってある。その隣に床張りもしていない十帖ほどの部屋がある。たぶん寝室になるのだろう。居間にも音楽部屋にも障子が渡してあり、障子の裏に二重に接したガラス戸の外が手すりつきの縁側になっていた。庭が見渡せた。縁側の外れは音楽部屋の裏の廊下と繋がっていて、そこから分かれた渡り廊下の端に、建築途中の離れの土台が見えた。土台の向こうが孟宗竹だった。この庭のどこでもバットを振れると思った。トモヨさんが、
「中央の廊下の右側も見てみましょう」
 と言った。菅野と文江さんはとっくにそっちへ移動していた。式台からすぐ右手の部屋は、向かいの十二畳の居間と同様、障子を廊下に向けてL字形に渡した十畳の和室だった。書院のある本格的な部屋で、客用の寝室として造ったものと思われた。菅野が、
「立派だなあ。このへこみは床の間というんでしょう? 掛軸を垂らすんですよね。違い棚って何を置くのかなあ」
「もともと身近に置きたい愛読書のための移動本棚だったんですよ。いまでもそういう小ぶりなやつがあるでしょう? 机に載せるやつ。いつのころからか室内飾りになって、さかずきとか、茶入れとか、香炉などを置くようになったらしい。違い棚の下の袋戸棚は押入れが小っちゃくなったようなものだから、何を入れてもいいんですよ。……入団の報せを聞いてからたったひと月半で、ここまで仕上げるなんてね」
 アイリスと同じように二階から工事中の音が聞こえてくるので、半ばでき上がっているのはここまでだろうと踏んで、引き返そうとすると、文江さんが、
「もう一つのトイレを見てませんよ」
 と引き止めた。菅野が、
「トイレは廊下の右奥です。階段の向こう。本棚がついてる立派な洋式便所でした」
 股引姿のいなせな中年男が二階から下りてきて、
「おや、奥さん、言ってくれれば案内したのに」
「ふらっと見にきただけですから。すばらしいできですね」
「ありがとうございます。音楽部屋の入口は廊下側だけにして、隣の二つの部屋と出入りできないようにしました。壁はすべて防音です。庭側のガラス戸は二重、廊下側は障子ではなく、防音材を挟みこんだ板壁にしました。離れのほうには、来月から本格的に取りかかります。音楽部屋の奥隣は畳敷きの寝室です。離れが寝室と聞いていますので、書院造の八畳にします。窓は障子とガラス窓の二重構造。庇つきの雪見もつけます。離れの横には庭石を置かずに、かなり空地をとるように言われてますが、なんでですかね」
「たぶん、バットを振る空間を考えてくれてるんだと思います」
 男は私を見やり、ハッと息を呑んだ。
「神無月選手! おーい、降りてこい! 神無月選手だ! 家主さんだ」
 ダダダダと階段に足音がして、ジャージを着て鉢巻した若い二人と、ニッカボッカの青年三人が降りてきた。
「おお、神無月!」
 ジャージが指差す。棟梁がその指を叩いて、
「こら、呼び捨てにするな!」
 ニッカボッカの一人が、
「いい風呂を造りますよ。風呂枠は幅三十センチ、厚さ十センチの日光杉です。浴槽床は十和田石、柱と壁材は檜、壁裾は御影石、天井梁に松、造作材に日光杉を使います。湯殿の床下と浴槽の床下はコンクリの土台を敷いてあります。洗面所と脱衣室の壁は日光杉、床はタモ無垢材にウレタンクリアを施してあるので、水の滲みこみはないです。風呂の窓は小さな出窓で直射日光を避けるようにしました。風呂場の隣の部屋は、十六帖の板の間部屋で、バットを振れるようになってます。トレーニングルームにすればいいでしょう。トレーニングルームの二階は、八畳ずつ襖で切った客部屋です。二部屋十人以上のお客さんが泊まれますよ」
 もう一人のニッカボッカが、
「どの部屋の建材も、もともと吸水性も低く腐りにくいものを使ってますが、防腐と防蟻の処理をしっかりしときます。便所見ました? キッチン脇の便所より大きめの五帖の洋式で、洗面台も二台ついてます」
 最後のいちばん年嵩のニッカボッカが、
「風呂は浴槽、湯殿、脱衣場、洗面台、二畳の洗濯場も入れて十帖、注文どおりにこの十畳の和室の真上に十帖の勉強部屋。風呂の上も十畳の畳部屋の寝室で、いずれ桜材の文机を一つ運びこんどきます。勉強部屋と寝室をドアつきの仕切り壁にしていききできるようにし、どちら側の壁も本棚にしました。大から小へと棚を作ってあります。本のスケールを図書館で研究しましたよ。それぞれの棚に二センチずつの余裕を持たせました。廊下側の戸はぜんぶ障子です。どちらの部屋にも電話のコンセントをつけました。二階廊下の奥に洗面台つき便所があります。下の廊下からも階段で便所へいけます」
 棟梁が、
「二階の右奥の和室二つには、大ガラス戸を引いてガレージ裏の庭を見下ろせるベランダをつけます。ベランダには段差のないタイルを敷いて、掃除が利くように水道と排水溝を完備させますからね」
 いつのまにか三人の姿がないのは、風呂でも見にいったのだろう。内気そうなジャージが頭を掻きながら、
「握手してくれませんか」
 私が握手すると、棟梁が、
「よかったな、××。神無月さん、こいつ、うちの草野球チームの四番なんですよ。左バッターでしてね。神無月さんを尊敬してるもんで、掬い上げ打法をマスターしようと必死なんですわ。当たるもんやないですな、掬い上げというのは。すぐフライになっちまう」
「掬い上げるというよりも、バットをボールに向かって投げ出すんです。フォロースルーは自然にまかせる」
「なるほど! ありがとうございます。イメージがつかめました」
 そんなすぐにつかめるものではない。トモヨさんたちががやがや戻ってきた。
「すごいお風呂でしたよ。四人はゆったり入れます。床の十和田石がとってもきれい」
 配下たちが挨拶をして二階へ戻っていくと、棟梁が、
「杉にはきちんと防水加工がしてありますからね。それでも長もちさせるために、入浴後はスポンジで洗ってシャワーで流し、毎回カラ拭きして、自然乾燥させてくれるとありがたい。直射日光を避けるために、窓は小さく切ってありますが、じゅうぶんあかるいですよ。材木は乾きすぎると収縮しますから、長期間使わないときは、水を入れたバケツを置いて風呂の蓋をして置いてください」
 菅野がしきりにメモをとっている。文江が、
「何しとるん、菅野さん」
「いや、このことをお嬢さんに伝えないとね。神無月さんは何も聞いてませんから」
 たしかに私は、棟梁たちの話していることなど、ほとんど耳に入らなかった。
「まだまだ先のことでしょが」
 と文江さんが言うと、棟梁が、
「十一月六日に地祭りをして、十一日に棟上げしましたから、ひと月ちょいですか。一階の基礎工事がようやく終わったところですな。完成は三月半ばと見ておいてください」
 トモヨさんが私に、
「オープン戦が終わるころですね」
「うん、楽しみにしながら野球ができる。ぼくもカズちゃんも、女中さんを入れるつもりだよ。菅野さん、三月の末までに、食事掃除洗濯をまかせると、いくらくらいが相場なのかも調べといてください。相場よりも一万円も余分に出せばきてくれるでしょう。トモヨさんも文江さんも心当たりを探しといてね」
 文江さんが、
「小学校の先生がうちに習いにきとるんやけど、女中の月給は二万五千円くらいで、自分より多いと言うとった」
 トモヨさんが、
「あら、おトキさんのむかしのお友だちが、どこかの社長の女中をしてて、二万七千円もらってるって言ってたわ。先生よりいい給料なのね。三万円も出せば、いくらでもきてくれるんじゃないかしら」
 棟梁が配下といっしょに弁当を使うと言うので、私たちは家をあとにした。
 時分(じぶん)どきだった。昼食に帰ってきた早出の女たちと、これから勤めに出る中出の女たちが食卓について、にぎやかに会話をしている。賄いたちも何人か別テーブルについている。カレーライスのにおいに腹が鳴った。主人夫婦は直人を抱いて、いっしょにスプーンを動かしていた。子供用の甘いカレーなのだとおトキさんが言う。
「カレーライスか焼きめし、豚バラとキャベツの焼きうどんか焼きそば、その組み合わせで選んでください」
「ぼくはカレーライスと焼きそば」
 菅野が、
「私はカレーライスだけで」
 文江さんが、
「きのうカレー食べたで、もうカレーはええわ。焼きうどんをご馳走になります」
 トモヨさんは台所に手伝いにいった。大声で女中を雇う話をしている。おトキさんが、
「それはもったいないです。神無月さんはほとんど家にいないでしょう。お嬢さん一人なら自分で食事はどうにかなりますし、神無月さんとお嬢さんが二人揃って家にいるときだけ雇うというのも、相手にとっては安定した仕事口とは言えなくなりますよ。女中さんなんか雇わないで、お嬢さんが食事を作れないときは、神無月さんはここにくればいいんですよ。掃除洗濯は毎日やるとなるとたいへんです。ユニフォームはクリーニングに出すとして、一日おきのパートさんを雇って、月に一万円でも差し上げればじゅうぶんでしょう」
 賄いの女たちが私にカレーと焼きそば、菅野と文江さんにカレーと焼きうどんを運んできた。女将が、
「掃除洗濯はけっこう時間かかるでェ。月十五日で一万円は安いわ。一万五千円は出さんと。ねえ、耕三さん、新聞広告出したげてな。神無月さん、ここに戻ってくるのはいつ?」
 きのう、全員帰りぎわに、キャンプの練習メニューとオープン戦日程表を本多二軍コーチから渡された。
「ちょっと待って。……ここに書いてあります。三月二十四日大洋戦を終えた翌日の二十五日にここに戻って、二十六、二十七日と中日球場で阪急、近鉄と戦います。それから四月十二日の広島との開幕戦まで、ずっとあの家にいることになります」
 主人が、こくりとうなずき、
「三月二十五日にはもどってきて、それから四月の十一日まではずっとおるゆうことやな。十八日間や。たぶん和子の店は四月一日開店やろう。三月初めには、素子やその受験生たちとここに戻るやろうから、しばらく席ですごして、二十五日から新しい家で神無月さんといっしょに十八日間暮らすやろう。四月の一日から女中が必要やわ。そういう広告を三月の二十五日から打とう。一万五千円という条件でな。神無月さんは有名人やから、そういうことにあこがれてくる女はあかん。ワシら四人で面接や。六十過ぎの婆さんがいちばんええな」
 トモヨさんが、
「最初から六十歳以上とハッキリ書いたほうがいいです。金の卵とか、若いお手伝いさんだと、郷くんをぜったい好きになってしまうので郷くんがたいへんです。スポンジみたいに何でも吸ってあげる人ですから」
「うん、それもあるな。もう神無月さんにはそういうのを相手にしとる暇はないでな。よし、それでいこう」
 午後から、ランニングコースを見つけるために、菅野のクラウンに乗り、あたりを適当に走ってもらった。
「走ることだけは欠かせないから」
「そうですねえ。金田も、走れ走れがモットーですもんね」
「小さいころからぼくの欠点は、瞬発力があっても持久力がないことなんです。マラソンはほとんどドベだった」
「へえ! 信じられませんね」
 椿神社前から左折して商店街に入る。駅西銀座という横断看板。建て替えをしていないあたかも古そうな店が連なっている。背高のビルに挟まって崩れ落ちそうな食堂もある。見覚えがあるようでないような通りだ。むかし浅野と通った道の一部かもしれない。
「こりゃどこまでいっても同じだ。右折して新居の方角へいきましょう」
 背の低いビル街。ポツポツと食堂がある。狭苦しい公園がある。老人が日向ぼっこをしている。何もない。この道なら走れそうだ。大きな道に出たが、細い道を直進する。遊郭のような造りの二階家がつづく。家並はかなり変わっているが、確実にこの道は浅野と歩いたことがある。このままいけば亀島に出る。
「悲しい道だ」
「熱血先生ですね」
「うん」
「むかし、神無月さんを上から眺めて関わった人は、神無月さんの出世を喜ばないものです。……まさか、寄るわけじゃないでしょう?」
「寄らない。西高のころ素子と一度いった。やさしく対応してくれた浅野のお母さんや弟には手紙を出した。もういいです」


         六十五

 ビル、古い民家、ビル、アパート、何のランドマークもない。
「このあたり全体が亀島ですよ」
「浅野の家とそっくりな造りの家ばかりになっちゃった。トタンの壁、二枚の引き戸、手すりの突き出した二階の窓。訪ねるも何も、こんなに似た家が多いんじゃ訪ね当てられない。まだ四年しか経っていないのに。いや、素子といってから二年にもならないのに」
 浅野炭店は結局見つからず、駅のほうへ引き返す。ビルの群居する飲食街。こんな通りはなかった。
「ああ、出た出た。アイリスのビニールシート。適当に走ってれば、いい運動になりそうだ。二、三キロだな。いずれにしても、一月の末からだ」
 菅野はうれしそうに、
「神無月さんの朝のランニングに私も付き合おうかな」
「いいですよ。あごが上がりますよ」
「そのときは仕方ありません。少しでもいっしょの時間をすごせればいいんです。ジャージと運動靴を買わなくちゃ」
 私は菅野の横顔を見ながら言った。
「あらためて訊くけど、菅野さんはどうしてぼくをそんなに好いてくれるのかな」
 菅野は鼻の下をこすり、
「女と同じような気持ちとは言いません。同じはずがないですから。……私は、神無月さんに遇うまでは、たいていのことを信じられませんでした。適当に信じるふりはしてましたけどね。でも、とんでもなく誠実な人間に出会って、こりゃいかん、しっかり頭と心を取り戻さなくちゃいけないとわかったんです。若いころから手荷物預かり所に預けっぱなしにしてた頭と心というやつをね。そしたら、不思議なことに、周りが信じられる人ばかりになりましたよ。そうなった人生が楽しくて仕方がない。何もかも、神無月さんのおかげです」
 私は涙ぐんだ。
「いっしょに走りましょう」
「はい!」
「友情を捧げます。絶えぬ友情を。菅野さんが望めばの話ですが」
「―価値ある友情です。ありがとうございます」
         †
 夜の九時に河合塾裏の『滝澤書道教室』を訪ねた。ビルの谷間の旧式の民家。家の周りにわずかばかり植えられていた庭木が、半年のあいだに混然と繁り、どの窓も枝葉に隠れている。看板を厚手の白木に新調し、〈塾〉が〈教室〉に変わっている。
 道や玄関に生徒の姿はなく、教室用の自転車置き場に自転車は一台も残っていなかった。新しくなった玄関戸を引いて中へ呼びかける。
「こんばんは!」
「あ、神無月さん、ようこそいらっしゃい!」
 青地に牡丹を散らした着物姿の文江さんが、十畳の指導教室から出てきて、標準語で応える。いつもの様子ではない。彼女の背後から、これも着物姿の見知らぬ女が二人、興味津々の表情で覗いた。老けている。四十を越えているだろう。文江さんのほうがずっと年上にちがいないけれども、顔つきやたたずまいから発する輝きがちがう。
「わあ、ほんとに神無月選手!」
 いい年をした女が二人で手を打ち合わせて喜ぶ。
「こちら、うちの書道の先生がたです。火木土の小人部は百人近くもおるもんで、河合塾に五十人教室を二つ借りて、三人で教えてます。月水金の成人部は十五人やから、私一人がここの教室で教えるのがちょうどいいんですよ」
「とんでもなく繁盛してますね。支部を置きかねない勢いだ」
 萌葱(もえぎ)地にカーネーションを淡く染め出した着物を着た面長の女が、
「おかげさまで、五時から八時の三時間のお勤めなのに、過分なお給料をいただいてます」
「教室の繁盛に貢献してもらってるんですから、それなりのことをしてるだけです。きょうは月曜なので一人でもよかったんですけど、ちょっと、いま話題の神無月選手が北村席さんに遊びにきてるって話をしたら、どうしても会いたいゆうて」
 ここは話を合わせて文江さんの面子を立てなければならない。
「ぜひきてくれと言うから、あわててきました」
「すみませんでした。お上がりください。北村さんへは何時にお帰りになれば?」
「三十分ほどで帰ります」
 私は玄関を上がり、促されて居間の炬燵に入った。二人の女も炬燵に入り、テーブルに向かい合った。文江さんが茶をいれる。私をうっとりと見ていた空色地に小薔薇の丸顔が、
「ほんとにすてき! テレビで観るよりずっと美男子。大きいんですね」
「野球選手としてはふつうの体格です。前腕は太いですよ、ほら」
 シャツをまくって右の前腕を差し出す。
「太ォい!」
「商売道具ですからね」
 二人でキャッキャ笑う。思わず早稲田の高畠のふくらはぎ自慢を思い出して、恥ずかしくなった。
「お師匠さんと神無月さんとは、どういう知り合いなんですか」
「滝澤さんはむかしからのファンの一人です。ありがたいと思っています」
 文江さんがあとを継いだ。
「北村席のお嬢さんは、むかしやっとった栄養士のお仕事の関係で、神無月さんのお母さんの古い知り合いなんですよ。そのころ神無月さんはお嬢さんにとてもかわいがってもらったみたいで、そのご恩を忘れずに、年に一度くらい席をお訪ねになるんです。北村席さんとお付き合いさせていただいてる私も、そういう機会にたまに呼ばれるんです」
 この説明どおりなら、私も迂闊な態度をとれない。時おり訪れる遠来の客の姿勢をとらなければいけない。カーネーションが、
「お師匠さんは、北村席の女将さんにも教えてらっしゃるんですよね」
「はい、この秋から」
 女の一人が、
「北村席さんて、このあたりの顔役でしょう?」
「さあ、そういうことはよく存じませんけど、もう一人の娘さんがお子さんを出産なさるとき、うちの娘が勤めていた日赤に入院された関係で、それ以来ご昵懇にさせていただいてます。娘は産科でしたので」
 うまい説明だ。薔薇が私に訊く。
「神無月さんがお嬢さんにかわいがられたというのは、どういうことですか?」
 興味深げな顔で訊く。
「母が西松建設の飯場でめし炊きをしてたころ、大学を出たての北村さんが実地研究のために、調理見習いで五年間そこに勤めたんです。ぼくが小学校から中学校にかけてでした。母が忙しくてぼくに目をかけられないことに同情してか、それはやさしく接してくれました。弁当を作ってくれたり、風邪で寝こんだときに世話をしてくれたり、高価なテープレコーダーを買ってくれたり、いろいろな悩みを聞いてくれたり……。周知のように、素行の悪さがたたって青森へ流されたときも、野球をあきらめてはいけないという手紙を何度もくれました。いまこうして野球ができるのも、彼女の励ましがあったからこそです」
 へたな説明だ。かわいがられたことにはならない。女たちも首をかしげている。文江さんが、
「お嬢さんはご両親に相談して、仕事を辞めて青森まで訪ねていって、そこで暮らしながら、陰に日に励ましつづけたんですよ。高校の野球部に入部したのを見届けてから帰っていらっしゃいました」
 カーネーションが、
「まあ、すごい! わが子のようなかわいがり方ね」
「名古屋市の小中学校で何度もホームラン王を獲った天才ですから、どうしても野球をしてもらいたかったんでしょう」
 薔薇が、
「おいくつのかたですか?」
「三十四、五じゃなかったかしら。神無月さんをわが子のように愛してらっしゃるんだと思います」
 カーネーションがうなずきながら、
「そのお嬢さんはいまどちらに?」
 私が答える。
「東京にいます。神宮球場には毎日応援にきてくれました。ときにはご両親といっしょにね。二月には名古屋に戻ってくると思います」
「一家ぐるみなんですね。神無月さんが北村席をお訪ねする理由がよくわかりました」
 どうにか辻褄を合わせられたようだ。
「あなたがたは滝澤さんに励まされてますか」
 薔薇が、
「毎日! 私たち二人とも中日書道連盟の二段なんですけど、もっと上を目指せ、東京に出品できるようになれって、しょっちゅう叱咤激励されてます」
「口先だけでない激励をしてくれる人はめずらしい存在です。その証拠が給料ですよ」
 カーネーションが、
「じゅうぶんわかってます。期待に添えるようにがんばらないと」
 私は腰を上げ、
「じゃ、ぼくは帰ります。あと三日ぐらいいますんで、滝澤さん、あしたでも北村に顔を出してください」
「はい、伺います。みなさまによろしく」
 女二人も腰を上げ、
「じゃ、私たちも帰ります。途中まで神無月さんとごいっしょさせてください。お師匠さん、またあした」
「はい、またあした」
 玄関まで送って出た文江さんに、私は深く辞儀をした。
 西口の改札まで女たちと同道した。丸顔の薔薇が老け顔を若やがせ、
「スターって、こんなに輝いてるものなんですね。ふつうの人とぜんぜんちがう」
 カーネーションが口辺に皺を寄せて、老け顔をさらに老けさせ、
「お嬢さんは、もと不良だったと聞いてますけど。北村席さんは、トルコをなさってるんですよね」
「ええ、このあたりはむかしは青線と呼ばれた地帯で、北村さんも代々置屋をしてきたと聞いてます。置屋というのは、ヤクザではなくカタギの仕事なんですが、和子さんはその家業に反発して、大学へいき、飯場にまで入って自立しようとしたんです。いまは家業を恥じた自分のいたらなさに気づいて、その家業あったればこそ、不良の時代も奔放にすごせたし、大学へもいけたし、総じて伸びのびと自由に生きられたのだと言ってます。お父さんやお母さんと、いまでは友人のように仲のいい関係を結んでいます。そういう自立的で経験豊かな人は、深い人格の持ち主になります。ぼくにやさしくしてくれたのもその人格ゆえでしょう。感謝しています」
 カーネーションがしつこく、
「でも、私たち女というのは、ああいう仕事にはちょっと共感できないというか、不潔感を覚えるというか……」
「わかりますよ。ぼくたちふつうの人間にとって、肉体を交えることは神聖なことですからね。見も知らない初対面の人と言葉も交わさず次々と交わるというのは、不道徳で不潔この上ないと感じます。しかし、それは心の狭い考え方です。みんな背に腹をかえられない事情があってあの種の仕事に就くんです。日本の農村や漁村には、いまだに子供を身売りしなければならないほど貧しい家庭がわんさとあります。その人たちにまとまったお金を融通し、彼らの子供がコツコツ借金を返していく。考えてみれば、悲惨この上ない慣習ですが、金を貸す側が無理な取立てをせず、完済後のアフタケアもしてやるとなったら、これまたこの上ない救済の慣習になります」
「でも、自分が愉しみたいからああいう仕事に就く人もいるって聞きましたけど」
「そんな気持ちの人は一人もいません。ひたすら借金返済のために、からだを与え、男がからだの上を通りすぎていくのに耐えるんです」
 二人は顔を見合わせて恥ずかしそうに笑い合い、うなずき合った。
「彼女たちはけっしてセックスを愉しみにはしないんです。五人も、六人も、中には十人も客をとる人もいますが、けっして客と懇意にならない。だから肉体の喜びもありません」  
 薔薇が、
「不感症なんですか?」
「そうじゃありません。女は好ましい男と安心してセックスしないと、何百回繰り返しても生理的にからだが反応しないんです。終わると、器具を処理して、素っ気なく部屋から去ります。見ず知らずの男とするなんてのは精神的な苦痛の最たるものでしょうから、とっとと去りたいのは当然ですよ。彼女たちはそういう生活を、借金を完済するまでつづけるわけです。ぼくは彼女たちに、肉体にかまけない精神的な美しさを感じます。彼女たちはぜんぜん不道徳ではない。いまでは彼女たちのことをまるで聖女を見る目で見ています。つまり、自分が愉しみたいからあの仕事に就く女はいないということです」
 顔にシワの多いカーネーションが、最初のような調子でこのまま話をつづけたら自分の不利になるだろうと見て取ったらしく、
「誤解してたみたいですね。よくわかりました。自分の偏見が恥ずかしいです。お師匠さんが北村席さんと親しくお付き合いしている理由がわかりました」
 丸顔の薔薇が、
「すばらしい説明でした」
 二人は名古屋駅のコンコースの前で、
「大ファンになりました。プロ野球にいってからもがんばってくださいね」
「また遊びにいらっしゃったらお会いしたいです」
「もちろん、遊びにきます」
「さようなら」
「さようなら」
 二人は定期を出して、改札に入っていった。


         六十六

 十二月十七日火曜日。一階玄関納戸隣の客部屋で七時起床。晴。ふつうの排便、シャワー、歯磨き。朝早い一家といっしょに、ハムエッグとトーストを食いながら、トモヨさんに、昨夜文江さんのところからすぐに帰ってきた事情を話した。きょうにでもくるようにと言ったことも話した。トモヨさんは直人に乳を含ませながら、
「郷くん、いますぐいってあげてください。文江さん、悲しい思いをしてるでしょう」
 店の女たちが同情の表情を浮かべる。女将が膝に乗せた直人の口にスプーンを運びながら、
「午前中やとかえって気兼ねするんやないの。お師匠さんも仕事の準備があるし」
 おトキさんが電話に立ち、文江さんと話した。すぐに切れた。
「気を使わないように、愛してると伝えてほしいと」
「ちょっと、顔だけ出してきます」
 私は直人にキスをすると、文江さんの家に出かけていった。
「やだ、キョウちゃん、気を使わんようにって言ったのに。きてくれたん。ささ、上がりゃあ」
「仕事は?」
「河合塾で一時から」
 玄関の下駄箱の花瓶に、きょうも花が活けてある。ビオラの真紅とアネモネの瀝青(チャン色の取り合わせが美しい。廊下越しに十畳間を見ると、弟子のいない長机がさびしく並んでいる。
「宴(うたげ)のあと―勉強は宴だね」
「楽しいものやからね。お風呂入ろ。その前にコーヒー」
「うん、きれいで広い風呂だったね」
「杉と檜と松。すぐぬるぬるしだすで、毎日の拭き掃除がたいへんやわ。朝ごはんは北村さんとこですました?」
「うん。文江さんは?」
「お茶漬け食べた」
「また?」
「うん、また」
 あどけない五十歳の顔が見上げる。居間の炬燵に向かい合う。コーヒーが出る。
「美人だね、文江さんは。いつの間にそうなったんだろう」
「―こんなお婆ちゃん」
「きのうの二人なんか、文江さんの前でくすんでた。彼女たちはいくつ?」
「三十七と三十八。何を話したん?」
「売春婦のことを肉体的に不道徳だと思ってたみたいだから、肉体にかまけない売春婦より、肉体にかまける素人のほうが不道徳だというようなことを言った。ん? そんなこと言ってないかな。でもそういう気持ちで言った」
「馬の耳に念仏やわ。お風呂に入ろまい」
「うん」
 二人裸になって風呂場へいく。さっきシャワーを浴びたばかりだが、湯船に浸かるのは億劫ではない。
「からだ、見てほしかったんよ」
「ずんずん白くなっていくね。きれいだ。ぜんぜん小太りでなくなった」
「うんと食べて、スマートになりすぎんようにせんとね。キョウちゃんの好きなふっくらした女でなくなってまう」
 節子とほとんど同じ体形になっている。
「尻が垂れてない。からだに何かが起きたんだね」
「自分でもそんな気がするわ」
 熱い風呂が気持ちいい。文江さんをそっと抱く。
「ふかふかして、おふくろより年上だなんて信じられない」
「不思議やね。こうしてると安らぐわァ。赤ちゃん抱いてるみたい。……ここだけちがう」
 握り締める。
「しっかり色づいとる。ハガネみたいやわ。それなのに入れるとフワッと柔らかくて、芯が固くて、すごく気持ちいいんよ」
「傷跡見せて」
 白い傷跡のある腹が湯船に立つ。文江さんは目を寄せる私の頭をいとおしそうに撫ぜる。「ほんとに目立たなくなったね。手術のとき文江さんが寝巻の前を開けて、このために死ねないって、笑いながらぼくと節ちゃんの前で言ったとき、ああ文江さんは死ぬ気だなって思った。殺してたまるかって思った。思いが通じた。生き延びてくれた。そして書道の達人になった。山口はぼくの首から縄を外すとき、殺してたまるかって叫んだ。……心の中でね。彼の思いは通じた。ぼくは生き延びて、ホームランの達人になった。人は、殺してたまるかって思ってくれる人がいなくなったら、コロリと死ぬ」
「ああ、キョウちゃん!」
 においのしない口にキスをする。
「遠慮しなくていいんだよ」
「ううん、きょうはせん。来年までとっとく。字を書くとこ、見てほしい」
「わかった。一度見てみたいと思ってたんだ」
「先に二階にいっとって」
 風呂を出てからだを拭く。服をつけ、階段を上がる。清楚な部屋に入る。高級な文机の上に、硯と、きちんと並べた筆、一、二、三……七本。和紙。朱墨の壺がないので、独習部屋だろう。壁に和箪笥と鏡台。しばらくして、着物に黒襷をかけた文江さんが上がってきた。ニッコリ笑うと、文机の前に正座し、背筋を伸ばして墨を磨る。背中が話しかける。
「キョウちゃん、葵荘の廊下で待っとったねェ。私が仕事から帰って階段を上ってきたときやよ。最初のときやないよ。二度目のとき。いつも、あのドアに向かって立っとる姿を思い出すんよ。涙が出てくる。私を待っとったって錯覚してまう。中にいる節子でもないように見えたんよ。だれを待っとったんやろうって……涙が出てくる」
 静かに洟をすすり上げながら、
「だれでもないんよ、キョウちゃんが待っとるのは。ただ待っとってほしい人を待っとってあげるんよ。ああやって、さびしそうに立って。ああ、いい人やねえ、悲しい人やねえ」
 私は涙を落とした。
「キョウちゃんがいい人で、悲しい人やから、みんな泣きながら生きていけるんよ。泣くとね、生きていたくなるんよ。北村の旦那さんが、キョウちゃんが神宮球場のバッターボックスに立ったときの姿が、あんまり美しくて悲しいから、涙が出たって言っとった」
 時間をかけて墨を磨り、黒い下敷きの上に半紙を載せ、文鎮を置いて筆を立てる。そばに寄り、その凛々しい姿を飽かず眺めた。
「六段が準師範なら、師範は何段でなれるの?」
「八段を取ればなれます。年に一度しか昇級試験があれせんから、あと二年かかるわ。去年の冬に、飛び級で五段の昇級試験を受けさせてもらい、今年二科賞を獲ってから六段に上がって、準師範になれました。キョウちゃんに遇ってからとんとん拍子やわ。ほんとに感謝しとる」
「自力だよ。すばらしいことだ。教える字もいろいろあるんでしょう?」
 思わず文江さんの言葉遣いがあらたまる。
「楷書、行書、草書、隷(れい)書、篆(てん)書、仮名書、中文字書、小文字書」
「八つも!」
「師範と名がついたら、教えられてあたりまえやが」
「お金、困ってない?」
「困っとらん。少しずつ貯まっとる。出てくのも多いけど……教室をやってると、けっこう経費がかかるんよ。筆、硯、墨、半紙なんかを用意せんといかんし、理事の展覧会の分担チケット買取り、展覧会の出品料、団体登録料、いろいろ。ここまで教室が大きくなると、中日書道会へ暖簾料も払わんとあかん。それでも黒字やよ。生徒が五十人おってくれれば黒字です。先生方の給料も、百人を切らないうちはという約束で、五万円ずつ払っとるんよ」
「それじゃ張り切るはずだ」
「ええ、あの二人は主婦やから、家計が助かるし貯金までできる言って、とても喜んでくれとる」
 手習いを終えると、文江さんは生徒の作品に朱墨を入れはじめた。凛とした横顔の美しさに打たれる。
「なんだか胸がいっぱいになった。そのまま机に向かってて。まんいちトモヨさんから電話が入ったら、散歩して帰るって言っといて」
「はい。愛してます」
「ぼくも」
 文江さんは玄関まで送って出た。
「いつでも待っとるよ。今度逢うまで、あの廊下に立ってたキョウちゃんみたいにずっと待っとる。北村でゆっくりして、無事に東京へ帰って」
「金曜日の昼に帰るから、その前に顔出してね」
「はい。ごはん呼ばれにいく」
         †
 菊ノ尾通りを上更の交差点のほうへ歩く。一本手前の道を曲がり、八坂荘へいく。建設中のマンションがあったりして、亀島町と同様、路の様相が十カ月のあいだにすっかり変わっている。八坂荘はまったく同じたたずまいで残っていた。コンクリートの玄関前に自転車が何台か置かれ、三和土の土間から見慣れた広い階段が昇っていた。
 細道を出て、花屋の通りを見通す。変わらない。ゆっくり歩いていく。マンションやアパートが一つもないまばらな家並。民家のあいだに算盤塾、吉永先生がメンチとポテトサラダを買った精肉店、床屋、礼服店、遊郭ふうの造りの菓子屋、石材店、活花店、駄菓子屋、クリーニング屋、靴屋、飲み屋の廃屋、服装学院、陶器屋、××商店と書いてあるだけの得体の知れない店、掃除機とトランジスタラジオを買った電気屋は、店舗と倉庫に埃まみれのシャッターが降り、二階の窓も締め切ってカーテンを引いてあった。廃屋の民家もポツポツある。やはり西高にかよっていたころとほとんど変わらない。工務店、なつかしい花屋、斜向かいの風呂屋。昼下がりだからだろう、花屋の店内に客の影が少ない。女将と婆さんの姿が見えた。
 榎小学校の通りからもう一度花屋を眺めた。寄ろうかと思ったが、饗応される面倒を考えてやめる。そのまま西高の門まで歩く。トタン壁や板壁の家に混じって、豪壮な邸宅や八階建てマンションが並んでいる。そこへレストラン、鮨屋、焼肉店が雑じる。名古屋西郵便局の大看板。道に沿って幅五十メートルもあるとんでもなく大きな郵便局だ。西高の正門にたたずむ。火曜日の午後一時半、生徒たちは門の外を歩いていない。構内からも声が聞こえない。土橋校長―会いにいけば、また教師たちが集まってくる。記憶の中の土橋校長の尊顔に礼をして、天神山公園のほうへ歩く。
 お好み焼き屋、動物病院、電装店。マンモス天神山中学校に沿って右折する。天神山公園。二面の運動公園の一面は、押切公園という名称に変わって大工事中だった。もう一面はテニスの専用コートになっていた。この道がケヤキの大木の並木道だったことに初めて気づいた。吉永先生の友だちやよしのりが住んでいたアパートは、大きな民家に建て替えられていた。市電通りに出る。電車が天神山の停留場から出ていく。見渡すと家並は低いままだが、ところどころツノのように高層ビルが突き立っている。初めて見る光景だ。
 金原の家のほうから、水仙、花の木のカズちゃんの家へ回っていくことにする。金原の平屋の前に立つ。金原は大学の授業に出ているだろう。母と姉は夜の仕事だと聞いていたから、この時間は家にいるはずだ。素子の職場だった水仙に回る。憶えていた以上に小さな店だ。通り過ぎる。花の木の家。家の前に自家用車が一台。庭の物干し竿に大量の洗濯物が干してある。もとの家主が戻ってきたのかもしれない。
 押切町から市電に乗って名古屋駅へ戻っていく。十三円。一円玉がない。ツリをもらう。横浜のころ、市電は十円、タクシーは八十円だった。オリンピックを境に、タクシーは百円に変わった。菊井通四丁目、菊井町、特徴のない低いビルの街並を進んでいく。この道は延々と長い。那古野町。高層ビルの群れが迫ってくる。名古屋駅前に着く。
 駅のコンコースを通って駅裏へ。この整いはじめた静かな裏町であの憂鬱なときをすごした。牛巻病院、熱田神宮、千年平畑……。どこを歩いてもあのころの想いが戻ってくる。
 北村席にたどり着く。二時。ほぼ二時間の散歩をした。ガレージにクラウンが停めてある。格子戸を開けて庭に入る。寒いので、だれも庭に出ていない。玄関戸を開ける。
「ただいま!」
 奥から直人を抱いた菅野と、新聞を手にした主人が飛び出してくる。
「お帰り。寒かったやろ」
「二時間も歩きましたから、からだが暖まりました。いい運動だった」
「言ってくれれば車でいったのに。水臭いなあ」
「歩きたかったんですよ。道に人がほとんどいませんでした。西高から、素子の水仙、花の木の家と回って、市電で帰ってきました」
 青無地の着物にエプロンをした女将と、スカート姿のトモヨさんと、仕事着のおトキさんが台所から出てきた。トモヨさんが、
「文江さんが電話してきましたよ。キョウちゃんはお昼ごろふらっと散歩に出たって。ちょうど戻るころだと思って、いまてんぷらうどん用意してます。海老天のほかに、野菜は何を載せましょうか」
「ナス」
「はい。じゃ、残りの野菜てんぷらで天丼作りますね」
「ありがとう。きょうの夜はソロで三曲ぐらい歌います。山口のギターがないんでさびしいでしょうけど。おとといの女の人に言っといてください」
「おお、楽しみだな。ワシも一曲リクエストしよう」
 主人が言うと、直人を膝に抱いていた菅野が、
「十時くらいから送りの仕事ですから、その前に歌ってくださいよ」
「はい。何ですか、送りって」
「席にも寮にも入らない自宅がよいの女の子が七、八人いるんですよ。その子たちを二往復で送るんです。迎えはしないんですけどね。日曜はやりません。私の仕事は、基本それだけです。いつでも遠慮なく使ってやってください。トモヨさん、直人が眠そうなのでお願いします」
「あ、はい、すみません、昼寝させてきます」


         六十七

 主人が、
「神無月さん、今年度のセ・パの細かい成績が新聞に載ってますよ。見ますか」
「はい」
 おトキさんが、
「食べ終わってからにしてください」
 主人がスポーツ新聞のその部分が見やすいように折り畳む。てんぷらうどんが出てきた。私は主人に手を差し出し、
「すみません。その新聞こちらへいただきます」
 どんぶりの横に置き、うどんをすすりはじめる。
「ああ、うまい!」
「味見しながら、関東ふうの濃いタレを三人で作ったんよ。私にも素うどんちょうだい」
 女将が言う。おトキさんが台所に指図する。やがて賄いの女がどんぶりを持って戻ってきた。女将は私と向かい合ってうどんをすすった。
「ホホ、うまくできてる。あんたたちもお食べ。てんぷら載せてな」
 賄いの女たちに言う。
「いただきます」
 蓋つきの天丼も出てきた。丼を新聞の前にずらし、天ぷらうどんの海老を噛み、ナスを噛み、うどんをすすりつづける。

    昭和四十三年度セリーグ・チーム成績
    一位 読売ジャイアンツ ・592
    二位 阪神タイガース  ・554
    三位 広島東洋カープ  ・523
    四位 サンケイアトムズ ・492
    五位 大洋ホエールズ  ・454
    六位 中日ドラゴンズ  ・385


 こんな順位も勝率も来年には変わる。パリーグはほとんど同率の一位と二位だけを見る。阪急ブレーブスと南海ホークス。天ぷらうどんをすすり終わり、海老とナスの天丼へ。
「うまい! 絶品だ」
 女将が、
「やっぱりね。おトキにはかなわんわ」
「ほんとに」
 トモヨさんがうなずく。おトキさんが、
「おうどん、おいしい! 合作は最高ですね」
「おトキはすぐテレるから。神無月さんは天丼が絶品やと言っとるんよ」
「ありがとうございます」
 長嶋。打点王・最優秀選手。最優秀選手の判断基準はあいまいだから、長嶋がそんな賞を得ようと得まいと気に留めない。選ぶ側の好感度なのではないかという気もする。打点百二十五。長嶋はチャンスに強い男だ。バットのスィングスピードは球界ナンバーワンと踏んでいる。天才に賞なんか与える必要がない。新人王は巨人の高田繁。去年チラッと彼の名前を耳にしたことがある。
 セリーグの首位打者とホームラン王は王貞治。三割二分六厘、四十九本。長嶋も三十九本、江藤も三十六本打っているから、それほど際立った記録ではない。王のドスドスした走り方を思い出す。盗塁王は広島の古葉竹識(たけし)。知らない。防御率一位広島外木場義郎。知らない。最多勝利最多奪三振ともに阪神江夏豊。二十五勝、四百一個の三振。彼のことは毎日意識している。最高勝率大洋島田源太郎。知らない。
 パリーグの打者は三冠だけを見ていく。ホームラン王南海野村克也三十八本。首位打者東映張本勲三割三分六厘。打点王東京アルトマン百打点。たしか物静かな黒人で、背番号7、右投げ左打ちの二メートル近い大男だったように憶えている。凡ゴロでも全力疾走するのは彼ではなかったか。防御率、勝ち数ともに南海の皆川睦男。サイドスローだったかな。最多奪三振鈴木啓示。知らない。江夏にしても鈴木にしても、三振を取れるということは、百五十キロ前後のストレートを持っているということだ。
「ごちそうさま。ゾクマン!」
 おトキさんが何を誤解したのか顔を赤らめてうつむいた。トモヨさんが、
「おトキさん、へんなこと考えたのね。満足の意味よ。郷くんも、新聞をキョロキョロ見ながら、よくそんなに早く食べられますね。味なんかわからなかったんじゃないの」
「しっかりわかりました。最高です。晩めしもよろしく」
 食うのがノロいと葛西家の人びとに指摘されたことを思い出した。微笑む。賄いがコーヒーを人数分いれて持ってきた。主人が私に訊く。
「何か参考になりますか」
「これから長く戦う強敵は一人。江夏豊だけです。ただ、ここに金田さんは載ってませんね。彼とはどうしても対戦したい。ぼくの目では、彼の全盛時代の球速は百六十キロ近くあったんじゃないかと思います。衰えたりといえども、いまでも百五十キロは投げるでしょう。江夏の球速は百四十七、八キロに見えるけど」
「江夏は球速よりも、配球が抜群にうまいでな」
「はい、だいぶやられそうです。低目の直球に的を絞ろうと思ってます。もう一人、球質を確かめながら、しっかりバットスイングをしたいと思ってる投手がいます。東映の尾崎行雄です。昭和三十六年夏の浪商対法政二高の決勝戦を忘れられません。地を這って浮き上がる剛速球。山内一広にボールが途中で消えると言わせたくらいの高速ボールです。彼のボールは、確実に百六十キロは出ていました。去年から急に勝てなくなったらしいですね。調べたら、今年は十四回しか登板していません。零勝零敗です。三月のオープン戦でも対戦できないかもしれない。百七十六センチ、八十三キロ。小学校五年生のときに、左投げから右投げに変えたそうです。事情は知りませんが、ぼくとそっくりな野球人生をたどってきたような気がします。考える野球なんかつまらない、とインタビューで言っているのも、ぼくと同じ考え方です」
「今年投げさせてもらえんかったのは、指のマメつぶして、肩を痛めたからやね。酷使しすぎたんですよ」
 女将が、
「男って、ほんとに野球の話が好きなんやねェ。ほっとけば一日話しとるんやないの。ホームランだけはすてきやと思うけど」
 菅野が、
「野球は、攻撃と守備がハッキリしてる潔いスポーツですからね。攻撃の主役がバッター、守備の主役がピッチャー。一見集団のスポーツに見えて、実際には一対一でしか戦ってない。一対一と決められてるテニスや卓球は、守備も攻撃もないでしょ。どちらも同時に攻撃と守備をしっぱなし。集団でぶつかり合うスポーツときら、ラグビーにせよサッカーせよ、美しくないボールの奪い合いで攻撃と守備が一瞬のうちに変わる。気持ちがスッキリしないんですよ。野球は美しい。もやもやしたところがない」
 私も主人も拍手した。
「菅ちゃん、うまい! 来年はせっせと中日球場に出かけような。運転頼むで」
「はい! オープン戦からいきましょう。で、神無月さん、同僚のドラゴンズの選手はどうなんですか?」
「まず総大将の水原監督は名将中の名将です。実績のすばらしさもさることながら、人間的な奥行きを感じました。彼に何を言われても、ぼくは従うつもりです。チームメイトのことは、人となりを知るために、カズちゃんの買ってきたドラゴンズ名鑑でかなり調べました。一番バッター背番号3の中(なか)選手、三十二歳。長嶋茂雄と同い年。群馬前橋高校の秀才で、東大にいくかプロにいくか迷った挙句ドラゴンズに入りました。東大で寄り道しなければならなかったぼくよりは恵まれた選択ですが、心情的に理解し合えるところがあります。百六十八センチの俊足巧打。小五のとき初めて飯場の人に中日球場に連れてってもらったとき、彼の三塁打を目撃しました。二塁を回って三塁へ向かうときの浮き上がるような走り方が、いまも目に鮮やかに残っています。去年ついに、王や近藤和彦に競り勝って首位打者を獲りました。セーフティバントを多用して、足の速さで稼いだんです。ホームランを打って二塁を回るとき、ぼくはいつも彼をイメージします」
 主人が、
「なるほど、神無月さんはホームランを打つと三塁打のつもりで走ってるわけだ」
「はい。中選手はその俊足のせいで、センターの守備範囲の広さは球界ナンバーワンです。二番バッター、背番号2の一枝選手。明治大学出身、二十八歳。河合楽器を経てドラゴンズに入団。燻し銀の遊撃手ということになってますが、小さいころ彼を見た記憶はあまりありません。どこにいたんだっけ、という感じです。今年オールスターに出ましたね。江夏に四百一個目の三振を奪われたのは一枝さんです。ある種の名誉ですね。来年は新人の島谷を起用する関係で徳武選手が抜けるので、一枝さんはきっと六番に回り、二番を高木守道さんが打つでしょう」
 別のテーブルの女たちから拍手が上がった。菅野が、
「な、すごいだろ。神無月さんの顕微鏡みたいな記憶力。もうしゃべりだしたら止まらないぞ」
 トモヨさんが私の頬にキスをした。また拍手が上がる。
「三番千原陽三郎、一塁手、背番号43、二十六歳。身長百七十七センチ、体重、七十七キロ。ぼくより少し小柄です。千原さんはあまりホームランが打てません。ぼくが入ったので、気の毒ですが今年は出場チャンスが大幅に減るでしょう。これまではファーストの広野選手が移籍した関係で使われただけという具合でしたから、三番を打たされたのは重荷だったでしょう。今年、監督推薦でオールスターに選ばれてましたけど、一打席も使われませんでした。じつは彼の顔も知らないんです。四番、強肩強打の江藤慎一選手、三十一歳。ぼくの生まれた熊本県出身です。来年から背番号は8から9に替わります。ぼくがレフトに入るので、千原に代わって一塁を守ることになるでしょう。打順はおそらく三番ですね。日鉄時代の友人古葉といっしょに広島に入団する予定だったのに、二倍の契約金を積んだ中日に入った人です。と言うと、お金に敏い人と思われがちですが、おそらく家族孝行のためだったでしょう」
 トモヨさんがもう一度頬にキスをし、
「もっと聞いていたいけど、そろそろ夕食の支度にかからなくちゃ。ね、おトキさん」
「はい、作る物の確認をしましょう」
「じゃ、私もちょっと、帳簿付けしましょうわい」
 女将もヨイショと立ち上がって帳場に入った。代わりに別テーブルの女たちが寄ってきた。厨房に賑やかな音が立つ。主人は賄いの一人にコーヒーを持ってこさせた。私はしゃべりつづける。
「江藤さんはその契約金をすべて貧しい実家に送ったんです。お金が必要だった状況に素直だったと考えれば、ぼくは嫌悪感を持たないんですよ。水原監督から嫌われてるというのはデマだと確信してます。水原監督は彼のような人間が大好きなはずです」
 主人がうなずき、
「人格者だという噂もありますからね」
「昭和三十四年に入団した初年度から、全試合に出場し、打率二割八分、ホームラン十五本、打点八十五。そんなに打ったのに、新人王を大洋の桑田に持っていかれました。桑田はホームラン三十一本で、森徹と並んでホームラン王を獲りましたからね。ホームランは目立ちます。江藤さんは運が悪かった。その後、桑田は打点で長嶋の三冠王を阻止したし、江藤さんは打率で王の三冠王を阻止したというのは、どちらにとっても皮肉な巡り合せですね。ぼく個人の純粋な好みを言わせてもらえば、江藤さんの豪快な構え、豪快なスイングにたまらなく胸躍ります。衣笠祥雄のフルスイングにも同じように胸が躍ります。どちらもぼくにないものですから。江藤と入団が同期なのは板東英二です。ピッチャーのことはいつかゆっくり。六番キャッチャー木俣達彦選手、背番号23、二十四歳。かわいらしい顔をしてます。彼は中商から中京大学へと進み、愛知大学リーグで首位打者を獲って中日から誘われ、二年生で中退してドラゴンズに入団しました。中退のところだけは、ぼくと事情が同じです」
 菅野が、
「中退だけね。基本、障害物のないエリートコースでしょ」
「ドラフトが導入される一年前の自由交渉の時代でしたから、たしかにスムーズなエリートコースです。百七十三センチしかないのに、キャッチャーとしては野村克也に次ぐ長距離打者です。野村も百七十五センチですけどね。江夏は木俣が苦手だと言い、たいていのチームの左翼手が、レフトに飛んでくる木俣の打球の速さはものすごいと言ってます。チャンスに強くなれば、セリーグを代表するスラッガーになると思います。キャッチャーですし、チームの要がスラッガーだと、優勝がグンと近づきます。二番に戻って、セカンド高木守道、背番号1、二十七歳。年間に十数本しかホームランを打たない選手ですが、小六のときたまたまネット裏の席で観て、貴重な一本を目撃しまた。内角低目を払うように打った打球がライナーで左中間の前列に飛びこんだんです。ガシュッという水気を含んだ衝突音で、あれ以来、硬球の発する不思議な音として耳に焼きついてます。中日は中背で細身の人が多いんですが、とにかくみんな長打力がある。高木選手はその典型と言っていい人ですね」
「来年フォックスという外人が入りますよ」
「五番を打つと思います。六番は一枝さん、七番は島谷でしょう。外人がこなければ島谷は五番かも。八番はわかりません。いろんな選手を使い回すんじゃないでしょうか」
 菅野が、
「とにかく、神無月さんと江藤はクリーンアップを打つということですね」
「はい、まちがいなく。あとはキャンプからチームの全員と親交を深めていくだけです」


         六十九

 火水と二日つづけての好天気なのに、ランニングなどいっさいせず、昼は北村夫婦や菅野や店の女たちと長話をしたり、菅野の車でトモヨさん母子といっしょに、直人の服やおもちゃを買いに出かけたりした。
「直ちゃん、あなたに弟か妹ができるのよ。うれしい?」
 直人はわけもわからず、こっくりうなずく。
「おかあちゃんも、どうしようもないくらいうれしいわ。あなたを幸せな子に産んであげられてよかった」
 おちょうちゃん、と私を見上げる。
「ときどき会いにくるからね。おとうちゃんは日本中を飛び回る仕事だから、ときどきしかこれないんだ。辛抱して待っててね。そのうち、うんといっしょにいられるようになるからね」
 菅野が、
「やめてくださいよ、神無月さん。十年、いや、十五年はやってください」
「そのつもりです。三試合に一本もホームランを打てなくなったら、机の人になります」
 ―まだ春のキャンプの練習に参加もしていない新米のくせに、何を大きなことを言っているんだ。
 チームメイトたちが私の練習のリズムを認めているとは思えないが、たとえそれを表立って言われたとしても屈するわけにはいかない。屈しなくても、練習のリズムはおのずと変わっていくだろう。キャンプ初日から腰を抜かすほどプロの実力を見せつけられるに決まっているからだ。独りひそかに居残り練習をしてヘトヘトになることがあるかもしれない。ホームランを打つ余力もないほどに。
 火水の二夜、ステージで三曲ずつ唄って喝采を浴びた。西郷輝彦と橋幸夫を唄った。そのあとで主人と菅野とビールを含みながら野球の話をし、夜も更けると、だれもいなくなった座敷に寝転がってテレビを観た。火曜日に鬼警部アイアンサイドと新日本紀行の再放送、水曜日には鬼刑事バリンジャーの再放送と深夜映画のローマの休日を観た。いまのうちだと思ってやっているが、自分にいちばん合った暮らしぶりとは思われなかった。ただこういう生活の循環にはまった人間は脱出できないだろうと感じた。
 文江さんは水曜の夜に食事にきた。送っていって、玄関で立ち話をした。
「あさっては見送らん。つらいで。……いつも待っとるよ」
 と切ない声で言う。
「ぼくは一月の末に戻ってくるし、三月の初めにはカズちゃんたちが、三月の末には節ちゃんたちが戻ってくる。賑やかになって、さびしさなんか忘れちゃうよ」
「お嬢さんに早く会いたい。書道を習いにきてくれんかな」
「カズちゃんは開店の準備で忙しいからね。あ、そうだ。今度くるまでに、色紙に書くサイン考えておいてくれない? ぼくは楷書体の字しか書けないんだ」
「それでかまわんと思うけどな、味があって。―でも何か考えとく」
「精進して練習してね。机に向かう姿、すばらしかった」
 口づけをし、抱き締め、もう一度口づけをして別れた。
         †
 一日早く帰ることにした。野辺地の伝だ。同じ景色の中に長くいられない。北村席の人たちも、トレーニングのためと察して、快く了解してくれた。木曜日の真昼、私が断るのも聞かず、一家で新幹線のホームまで見送りにきた。細かい雨が降っていた。主人がひかりの切符を手渡しながら、
「今度出てくるのは―」
「一月の二十五日、土曜日です」
「飛行機できたらどうや」
「新幹線できます」
「なら二十日ごろに、ひかりの切符送るわ。一等車にするでな」
「カズちゃんに買ってもらいますから、お気遣いなく」
 菅野とトモヨさんがしっかり私の手を握った。菅野が、
「いっしょに走りますよ。中村区には公園らしい公園はないんですよ。則武のほうじゃなく、中村公園まで走りましょう。豊國神社のある大きな公園なので、毎回いろいろ散策して帰れますよ」
「いいですね。その都度、いろいろなコースを開拓しましょう」
 トモヨさんが、
「キャンプにいくまでのキョウちゃんのお部屋、ちゃんと整えておきます。そのあとでいらっしゃるお嬢さんたちのお部屋も。新居とお店ができるまでの辛抱ですからね。私の離れは一月中に完成します。なんならお嬢さんたちにそこを使っていただいても」
 女将が、
「二階に十部屋くらい余っとるで、そんなことせんでもええわ。トモヨは二人目をしっかり産むことだけを考えとればええの」
「はい」
 結局、五日間のあいだ、飛島寮には寄らなかった。大沼所長、山崎さん、佐伯さん、三木さん、飛島さん……。母に近づきたくないせいで、一人ひとり大切な人びとから心なくも遠ざかっていくのはたまらなくさびしい。
 トモヨさんは人目をはばからず私にキスをした。直人もそうしたがったので、抱き上げてキスをした。菅野が、
「とうとうお父ちゃんに唇を許したか」
 と言って笑った。
         † 
 冷たい雨の中、四時過ぎに吉祥寺の家に着いた。
 すぐに裸になり、風呂を埋めて入った。骨が融けていくようだった。何に疲労しているのかわからないが、疲労が限界にまできているような気がした。猛烈にからだが疲労する生活に入れば、かえって疲労感が消え失せるかもしれない。
 裸のまま音楽部屋で、ひさしぶりに一連の基礎鍛錬をして、もう一度シャワーを浴びてから、ジャージに着替えた。フジに電話する。
「おかえりなさい。疲れたでしょう?」
「ああ、疲れた。どうしてかな」
「エネルギー持て余して、からだが疲れたがってるからよ。エネルギーの余裕がなくなったら、正常に戻るわ」
 私と同じことを考えている。
「いろいろ面倒な頼みごとしちゃったね」
「いいえ。村迫さんへ送るべきものは送り、もともとキョウちゃんのために作ってあった口座の番号と銀行名もお知らせしました。通帳は私が預かっておきます。安心してあとひと月をすごしてね。福田さんには、この先もずっと留守の家の管理をしてもらうようお頼みしました。ひと月一万円で、向こう一年間、管理料十二万円は菊田さんにそのように言って手渡したからだいじょうぶよ。こちらはみんな順調。二月中に、節子さんやキクエさんより一足早く名古屋へいきます。節子さんたちは、三月の上旬、私たちはたぶん二月の下旬。千佳子さんは北村席から受験にいきます。受験会場の送り迎えは、菅野さんがやってくれるそうよ。睦子さんはマイペースでやるから気にしないでって電話してきました」
「これで、しっかりみんな予定が立ったね」
「山口さんは開幕前に名古屋に遊びにくるそうよ。来年の五月三日に武蔵野文化会館のクラシカルギターコンクールにエントリーすることが決まったって。本選の何人かに残って優勝すれば第一の登竜門通過、それで自信をつけたら、九月の下旬にイタリアの国際クラッシックギターコンクールに出るんですって。旅費はだいじょうぶなのって訊いたら、じゅうぶん貯めたからだいじょうぶだって。そのコンクールで三位までに入賞したら、世界的にオファーがきて、カーネギーホールでも演奏会を開けるんですって」
「そりゃすごい。ぼくにもいずれ電話してくるだろう。いや、してこないな。ただ名古屋に遊びにくるだけだな。とっくにカズちゃんから話がいってると思ってね。彼は世界的なギタリストになる。そして、みんなの魂をふるわすような音楽を創りつづける」
「私もそう思う。みんなで応援しましょ。トレーニングの手すきのときに、北村席に持っていく道具類や衣料のたぐいをまとめといてね。東京から持っていくのはそれだけだから。グローブとバットはもう送りました」
「ぼくは久保田バットとトレーナーを持ってくだけ」
「じゃ、さびしくなったら電話ちょうだい。こちらからはしないから。北村にいくのは何日だっけ」
「一月二十五日」
「その前に一度高円寺にきて、三人とお別れしてね。ひと月逢えなくなるから」
「適当に何回かいく。肌を接して寝るだけでも安らぐ。じゃ、みんなによろしく」
「いつでもきて。風邪ひかないように」
 よしのりのことを聞き忘れた。いずれ気持ちが挫けることでも起きたら名古屋に訪ねてくるだろう。ハンク・クロフォードのミスター・ブルースをかけながら、ステレオの前に寝そべる。B面のティアドロップスを繰り返し五回聴く。胸が湿る。暮れかかったガラス戸の外を眺める。珊瑚樹の高い垣根の向こうに薄紫の空がある。 
 福田さんがやってきた。音楽部屋の薄明かりへ入ってきて、肘枕をしている私の脇に膝を折る。
「おかえりなさい。一日早かったですね。少しお顔がぷっくりしました」
「運動しなかったからね。二人目を妊娠してるトモヨさんを一回抱いた」
「そういう実のない言い方をしちゃだめです。お気持ちはわかってますから」
 福田さんに手を差し伸べ、引き寄せる。口づけをする。
「向こうの家はちゃんと女中さんを雇うことになった。六十過ぎの」
「娘が結婚するまであと何年あるかわかりませんけど、それをきちんとしたら、ときどき名古屋に逢いにいくようにします。それまでは、こちらでお留守番がてら、資格試験の勉強をしながら神無月さんをお待ちしてます」
 見交わし合い、微笑み合いながら、夕食をとる。
「二人目のお子さんは、いつ?」
「七月の中旬と聞いた」
「神無月さんの子供のお守をしてみたい」
「子育てはたいへんだよ。寄ってたかって協力し合わないと。まあ、片親の家庭にも国の援助は何かしらあるみたいだから、母子家庭の経済面はだいじょうぶみたいだけど。子供が平凡でないことを祈るだけだね。戸籍の父親の欄が記載なしで、へんな劣等感を感じる子でないことをね。……子供の平凡性を危惧するからじゃなく、子供が自力でどうにもできないことに力を貸してやりたいから、いずれ認知しようと思ってる。差別につながるような芽は摘んどいてあげないとね。記載があろうとなかろうと、本来人間は父も母もいないんだ。自分で生きていくしかない」
 福田さんは手で頬を拭い、
「神無月さんの人生に私もごいっしょさせてください。……あしたは下の娘が訪ねてくることになりましたので、金土とお休みをいただきます。きょうは、お部屋とお風呂をきれいにしておきます。洗濯物は洗濯機に放りこんどいてくださいね」
         †
 十二月二十日金曜日。朝から冷えびえとした快晴。六・四度。
 七時から五百野の原稿を二枚半書いたあと、十時からランニングに出る。ようやく運動と机のリズムが戻ってきた。走りながら思いついて、井之頭公園の裏手の自然文化園の内部をランニングコースにできないかと思いつく。広い自然公園なので、木や花や動物を眺めながら走ることができれば飽きないだろう。九時半開園、入場料百円。年間パスが、どういう計算か、たった四百円だったので買う。少なくとも一カ月は走るから、それだけでもほぼ九割引ということになる。年間だとタダ同然だ。
 だだっ広い土の空地に設けられた四阿の周囲に、枯れた低木がまばらに立ち、遊歩道にアスファルトが敷かれている。新宿御苑に似ているが、常緑樹が少ない。園の周囲を縁取る道なりに走っていく。小動物の獣舎がいくつもあるが、単なる風景と見て、かまわず走っていく。羊や鹿がいたりする。動物の姿が見えない岩だらけの檻もある。走っていく。
 ところどころ休憩用の長いベンチがある。だれも座っていない。熱帯鳥温室というのがある。館の周囲にくすんだヤシの気が寒そうに立っている。走っていく。
 やたらにベンチがある。トイレに突き当たり、塀沿いに左折する。子供用の動物の椅子を四つ置いた空地がある。パンダと象と鴨と、もう一つがわからない。コーヒーカップや木馬や観覧籠といった回転物を並べた空間がある。走っていく。
 立木はすべて枯れている。コンクリートの大きな窪地に猿山らしき人造岩が設けられているが、猿は一匹もいない。走っていく。
 半径十メートルくらいの円柱形の網檻。目を凝らすと何羽かいる。黒いかたまりに過ぎず、目の凝らし甲斐がない。走っていく。野鳥の森。野鳥を見つけられない。走っていく。
 熱田神宮のホンザンの勉強小屋のような建物がある。なぜか石灯籠が立っている。走っていく。
 これはじつにいい運動になる。運送会社のトラックが蝟集している一画がある。大きな観音菩薩が立っている。美術館のような建物の前に、筋肉質な裸婦像が立っている。胸が小さい。左折する。山小屋ふうの大きな三角屋根の建物。近づいて見るが正体不明。引き返す。立て膝の腿に片足を入れた怠けた格好で、人を指差して叱りつけている真鍮の像がある。斜向かいに半跏(はんか)思惟像。道のカーブ地点に、鎧を着、とんがり帽子をかぶった加藤清正ふうの槍持ち姿。ミステリーゾーンに入りこんだようだ。低木の中を走っていく。
 管理区域、立入禁止。二階建てビルの廃屋。資材捨て場。勉強小屋にほしいようなレンガ造りの便所。振り出しの四阿に帰ってきた。塀沿いではなく、真ん中の道へふたたび突入する。資料館という看板があるだけで固有名詞のない漢字三文字の大きな建物。あとはどこを向いても、野鳥の森の看板。ザッツエンド。一人の人間にも出会わなかった。歩いて引き返す。二キロは走った。毎日やる分にはこれでじゅうぶんだ。
 スピードを乗せて自宅に駆け戻り、頭の先から足指の股までシャボンを泡立てる。シャワーで洗い流す。昼に沸かし直すために湯を溜めておく。汗を吸ったジャージを洗濯機に放りこみ、新しい下着とジャージを着て机に向かう。原稿半枚。風呂の湯を止め、食事に出る。上杉で玉子丼ともりそば。家に戻り、歯を磨き、蒲団に入ってキッチリ昼寝。
 昼寝から覚め、溜めていたぬるま湯を沸かしながら、心ゆくまで浸かる。こんなことを初めてやったが、じつに快適だ。新しい下着とジャージを着て机に向かう。



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