七十六 

 福田さんが、
「私も本で読んだんですけど、ほとんどの男はカリが張ってなくて、太くて長い棒なんだそうです。それは夫との経験でもわかります」
 トシさんが、
「どんな女も、強くイクのは無理でも、ぼんやり快感を感じられるように膣の全体に神経が張り巡らされていて、クリトリスの裏側に集中している以外は、子宮の周囲にも少し集中しているの。太くて長い棒が役立つわけ。張り形もキョウちゃんのようなカリを立てたものは一つもなくて、太くて長いだけ。クリトリスの裏側に神経が集中してる場所は、入口から九センチか十センチのところで、最近Vスポットと言われるようになったわね。太くて長い棒はそこをボンヤリこするだけ。男は壁全体をこすって女を気持ちよくさせることしかできないうちに射精してしまうの。つまり、膣全体をこすることと奥を突くことでかろうじてオルガスムスを与えられるわけね。もちろんクリトリスの裏側でイクほど強いものじゃない弱いオルガスムス。イクことにはちがいないので、ほとんどの女は奥を突いてとお願いするのね。むかしの私もそうでした」
「私も……。でも、それでもせいぜいクリトリス程度の快感ですよね」
「そう、痙攣らしい痙攣もしないし、連続でイクなんてこともぜったいないわ。大きなカリでこすってもらわないと、爆発しないのよ」
 私はたまらず、ジャージを脱いで、料理中のトシさんを抱き締め、シンクに手を付かせて後ろから挑んだ。
「あ、だめ、ごはんが遅れます」
「そんなの後回し」
 早く昇らせたくなくて、腰を急がせる。
「ううう、気持ちいい、柔らかくて、やさしくて、ああ、だめだめ、イッちゃう、イクイク、イク、イク!」
 陰阜を自動的に激しく前後する。猛烈に締まりはじめる。
「も、もうだめ、何もできなくなっちゃう、福田さん、福田さん!」
 トシさんは途中で音を上げ、福田さんに交代を求めると、そのままキッチンの床に横たわった。福田さんに挿し入れる。
「あああ、好き好き、神無月さん、愛してます、ああん、イク! うん! うん!」
 痙攣をつづけながら振り向いて口を吸う。舌と言わず歯と言わず唇と言わず舐める。突き上げる。
「あ、だめえ!」
「イクよ! 雅子」
「はい! 愛してます、愛してます、離れない、離れるもんですか、あ、だめ、イク、ウウン、イク!」
 福田さんに一度目の射精をした。福田さんはしっかりこそぎ取り、ぐったりとシンクに首を垂れる。トシさんがようやく立ち上がった。
         †
 ぜんぶで九品出た。煮つけた小海老を握りこんだおにぎり、餃子の皮で包んだソーセージのてんぷら、キムチピザ、鶏の唐揚げ、フランスパン、コーンスープ、切り分けたミートローフ、苺のショートケーキ、プリン。すべてトシさんと福田さんの手作りだった。
 私は食事中にも懲りずに発情し、飯台に手を突かせ、膝に座布団を当てて挑む。
「あああ、神無月さあん、愛してます、ああん、イクイクイク、イク!」
「だめだめ、キョウちゃん、死ぬ!」
「もうイケません、神無月さん、うれしい、うれしい、いただきます、ああ、気持ちいい! イキます、神無月さんもすぐイッてください、ああ、イクイク、イク、イックウウ! ごめんなさあい、菊田さん、早く代わって、神無月さん、菊田さんに出してあげて、ううーん、イク!」
 抜いてトシさんに挿入し、射精する。
「あああ、うれしい、愛してます、死ぬほど好き、ああ、熱いィ! イクイクイク、弾ける! うん、うーん、イグ!」
 トシさんに二度目の射精をした。トシさんの後頭部がグンと反り上がった。律動するたびに、バネのように反り上がる。膣のすごい緊縛の中で自分のものが大きくふくらんでいることを感じる。私は痙攣しつづけるトシさんの背中に頬を預ける。
「あ、キョウちゃん、ごめんなさい、またイク! お口を、お口をください」
 顔が振り向き、舌が絡んでくる。
 やがてからだの自由を取り戻した二人は、ティッシューで陰部を拭い、私のぬめりを手分けして舐め取ると、またおさんどんを始めた。
「後楽園の年間パス、二人分買ったんですよ。オープン戦も観られるの。ドラゴンズ戦はかならず観にいくわ。お店を閉めても」
「菊田さんといっしょに、メガホンで応援します。それはそうと、吉祥寺の家、山口さんがギターの練習をしたいときに使ってもらったらどうかと思って」
「そりゃいいね。あした、さっそく連絡してください。たぶん了解すると思う。西荻の実家じゃ思い切り練習できないものね」
 こんなすばらしい人たちのことを、私はどうして忘れることができるだろう。私はカズちゃんを心から愛している。そして愛し合っている。カズちゃんにするのと同じようにマガイモノではない感謝を口にしなければならない。
「どんなに距離が離れていても、ぼくは二人からぜったい離れないからね。遠征のときはかならず会いにくる」
 三人でしっかり抱き合う。この世の摂理が順当なら、二人は確実に私よりも数十年早く融合の悦びを奪われる。だからこそ渾身の誓いをしなければならない。
         †
 蒲団に入り、二人に腕を貸して水曜映画劇場を観た。昭和二十六年の狙われた駅馬車。とっくに死んだタイロン・パワーと、まだ五十歳ぐらいで生きているスーザン・ヘイワード。二人が三十代後半のときの作品だ。どちらも特徴のない顔。むかしの俳優にしてはめずらしい。悪漢役のヒュー・マーロウも記憶できない顔をしていた。目立った主役がいないと、映画のスケールは小さくなる。駅馬車強盗と中継所警備員とのすったもんだ、乗客の若い女との絡み。ワンパターン。初めて観ようと、三度目で観ようと、目と頭を通り過ぎる映画だ。トシさんが、
「きれいな人ねえ。昭和二十六年というと、私は四十五、福田さんが三十五のころの映画ね。同じころに、風と共に去りぬって映画がかかってたけど、その人とどっこいどっこいぐらいきれい」
 福田さんがうなずき、
「ビビアン・リーですね」
 整っていて無難なものは、きれいに見える。原節子しかり、吉永小百合しかり。しかし彼女たちには、妖しいほどの性の蠱惑(こわく)もなければ、内面から発する愛の光もない。トシさん、福田さん、あなたたちのほうがはるかに美しい。言っても信じないので言わない。
「たしか、この人、アカデミー賞を獲ってますよ。十年くらい前」
 私は、
「ああ、昭和三十五年の、私は死にたくない、って映画だね。新宿をうろうろしてたとき、リバイバル館で観た。原題は、私は生きたい、だったかな」
 トシさんが、
「映画なんか観る暇あったんですか」
「暇を作るんだ。散歩好きだから、時間を見つけてはぶらぶら歩きながらオールナイトや何やかや、けっこう観たよ。すぐ東京の街に飽きちゃった」
「ボーッとしてるようで、人一倍活動する人ですからね、キョウちゃんは」
「とにかく怠けないんですよね」
「私は死にたくないの監督は、サウンド・オブ・ミュージックのロバート・ワイズ。サウンド・オブ・ミュージックは心が晴れ上がる映画だけど、私は死にたくないは心が暗くなる救いようのない冤罪実話映画だった。イライラするので、二度と観たくない。偏見と無能が冤罪を作りあげることはわかってるけど、ぼくは事件に巻きこまれるほうも無能だと思っちゃうほうだから、ちっとも同情できない。ぼくがそんな事件に巻きこまれたら、人殺しなんていう馬鹿らしい犯罪には関与していませんが、がんらい犯罪者みたいな人間なんで、ご自由に処分してくださいと言うだろうね」
 二人は映画よりも私の話に聞き入る。トシさんは私の頬にキスをし、
「だめよ、どんなときもヤケを起こしちゃ。キョウちゃんが生きてることだけが、私たちの励みになるんですから」
「そうですよ、それこそ犯罪者のまま生きててくれたほうがマシ。死んだらほんとうの犯罪者ですよ」
 三時過ぎまで三度交わった。射精が近づくとトシさんはかならず福田さんにと言い、福田さんはかならず菊田さんにと言った。
         †
 十二月二十六日木曜日。曇。年末、年始。気持ちを急かせるような言葉が巷をのさばり歩く。
 きょうから一キロのダンベルを持ってのランニングに切り替えた。とたんに挫ける。無理だ。数百メートルで腕をまともに振れなくなる。
 一連のトレーニングを終えたあと、離れで本の整理をする。八木重吉詩集の金刻一巻本や、立原道造の手書き詩集の復刻本や、中也の詩集などを手にとって眺める。書きこみが多い。詩集とは別に、小説本や哲学書や評論書を本棚から引きずり出して積み上げた。それらの本の内容を考え直してみた。そうすると、お気に入りの谷崎潤一郎やショーペンハウエルでさえ、全体がまわりくどい理屈に塗りこめられていたという印象のほかに何も思い出せなかった。かろうじて浮かんだのは、それらの本が、ものごとに対する知的な姿勢というものを情緒よりも尊重しているということだけだった。それに比べて詩集はよいものばかりだった。それは知性よりも、心にずっとよく似ていた。詩集だけを本棚に戻し、ほかの書物は段ボール箱にしまって押入に納めた。
 カズちゃんから電話。
 晦日と大晦日は女全員が高円寺に集まって料理を作ったり、年越し蕎麦を食ったりするとのこと。素子と千佳子と三人でとんでもなくうまい蕎麦タレを作ると言う。節子とキクエがこられるのは晦日と大晦日と元旦だけ。それでも元日はキクエが午後から臨時出勤、二日は節子が午前から出勤。法子の店は二十九日から正月四日までお休み。三日の午後まで高円寺で遊んでいく。年末二日間は、女六人、男一人、総勢七人で大騒ぎになるだろう。
 正月―いつも冬の思い出が始まる場所は、十五歳の野辺地だ。横浜ではなく、野辺地なのだ。昭和三十九年大晦日。浜の坂本の家でばっちゃと観た紅白歌合戦。舟木一夫の剣舞。いい男だニシ、と言った坂本の女房。かんかん燃えるストーブ。あれから五度目の正月になる。まだ五年しか経っていないことに驚く。五十年も過ぎたような気がする。それ以前の思い出は、頻繁に語り草にしながら、記憶の後ろ髪を少しずつ切り落としていこうと思っている。そういう心の仕組みをどう考えたらいいのかわからないし、考える気にもならない。
 昼近く、遅い朝食を福田さんととったあと、郵便受けが気になり、出てみた。母からの手紙がきていた。机の上に放り出し、ガスストーブを点ける。今度は何だ。彼女の言葉にはいつも目と耳が汚される。キッチンテーブルに座って封を切ると、ゆっくり便箋を開いた。崩し字が多く、字体がますますじっちゃに似てきていた。

 前略
 母のことはすっかり忘れて、いい気で羽を伸ばして暮らしていることと思います。母親を捨てた気持ちはどんなものですか。さぞ愉快なことでしょう。いいえ、おまえよりも私のほうがさばさばした気持ちですよ。ようやくしぶとい癌を取り除くことができました。安心してください。二度とおまえのゆく手に現れません。もう二度と癌を患いたくないですからね。
 東大の野球の優勝に貢献したとのこと、その功績で中日ドラゴンズに招かれ入団したとのこと、親としては名誉に思わなければならないところなのでしょう。おまえが世間に騒がれる野球選手だということをちっとも知りませんでした。へたの横好きも、長いこと努力すればものになるものなのですね。諸処の新聞記事や、テレビ放送などを目にするようになって、ようやくそのことがわかりましたよ。おまえが幸運児であったことを喜びます。東大のオープンカーのパレードはテレビ中継で観ました。わが子ながら威風のある堂々とした顔をしておりましたが、どこか自信のなさそうな、地が透けて見えるのを怖がっている気持ちがにじみ出ていました。おまえの父親の顔によく見かけた表情でした。威をてらっている人間を気の毒に思う目で見ましたよ。こんな人間と縁が切れてほんとうによかった。

 心臓が冷水を浴びたように縮み上がった。母のいつものやり口だった。もう私は屈しなかった。

 あのころ、西松建設の岡本所長さんさえ、おまえのことを褒めてくれていたら、私はあれほど依怙地な態度はとらなかったのにとは思います。でも彼の言ったことはまちがってはいません。正体の知れない人間をへたに褒めると将来を誤らせます。頭のいい人は、他人を褒めることを危ぶみます。素朴な飛島の人たちは狂喜乱舞の毎日です。きょうも、大沼所長を中心にしてファンクラブの定例会を企画しようと騒いでおりました。プロ野球選手になってもしばらくは、カンパしたお金を送りつづけるそうです。おまえが彼らの期待を裏切って挫折しないことを祈ります。
 二千百三十万円、たしかに受け取りました。まともな仕事をしていたのでは手に入らない尋常ならざる金額です。おまえがなぜ私にこういうことをしたのかわかりませんが、親孝行のつもりなら、まったくその逆ですよ。息子の稼ぎを搾り取る親という評判が定着したようですからね。こんな金はいらないと、おまえに突き返すのもまた世間の口でわざとらしいと言われそうですので、野辺地の家の改築費として使わせていただきます。そのつもりで合船場に送りました。知り合いの大工に長年のあいだに傷んだところを直してもらうよう、坂本に連絡しました。金の管理はじっちゃに頼みました。

 追而(おって)―という一行に吸いつけられた。すぐに異質な部分が目についた。そこだけ愛想じみた言い回しを削ぎ落とした行間に、何かまがまがしい兆しが感じられた。急いで行を追っていった。


         七十七

 永久に秘密にしておこうと思いましたが、隠しておいてはいけないと思い直し、手紙を一通同封することにました。おまえもいまや時の人となって、一たん過去を葬り、これから世間へ飛躍していく身となったのだし、このあたりで、出世の妨げとなる女とはどういうものかをしっかり知っておいたほうが、これからの世過ぎの参考になると考えたしだいです。同封の手紙はあの当時、滝澤節子さんから私に送られてきた手紙です。いまはどの空の下で暮らしているとも知れない人ですが、よかれあしかれ、おまえの人生の教師になった人です。じっくり読んで、おまえが身を誤らなかったのは、ひとえに私の深慮があったればこそだと思い知ってください。いいかげん、親としての市民権を授けてくれてもバチは当たらないでしょう。
 それでは、せいぜい足もとをすくわれないように、厳しいプロ職人の中で一所懸命努力して、人並に改心して、私を姥捨て山から連れ戻し、ほんとうの親孝行ができる人間に成長してください。最後に、親をおとしめてものごとを乗り越えるのではなく、親の人品を褒め称えて乗り越えるように、と忠告しておきます。親から生まれた以上、どうがんばっても子は親を乗り越えられるものではない、ということも肝に銘じておいてください。
   郷殿                               母より

 また節子だ。別折りで淡いピンクの便箋が二枚、同封されていた。滝澤節子から母に宛てた手紙だった。日付は昭和四十年十一月の初旬になっていた。青森高校一年の晩秋、あの竜飛岬のバス旅行のころだ。

 前略。
 来月、人に勧められた結婚をすることにいたしました。ひところは、とても郷さんとの別れには耐えられないとふさぎこんでおりましたが、どうにか耐え抜きました。苦しい日々でした。
 あのつらい別れの日から一年以上が過ぎました。あのころのことを思い出しながら私はいつも自分に尋ねるのです。あんな日があったのかしらと。そうして、自分に答えます。やっぱりあったのです。それが私のぜんぶだったし、それ以外は必要のないものでした。図々しいことですが、私はいまでも思っています。あの日と同じように、どこかで郷さんが待っていてくれる。願っても叶わないことですね。私はこの世での幸せをあきらめようと心に決めました。
 私も平凡な一人の女にすぎません。郷さんがいなくなってからは、別の人の愛情に縛られて生きてみたいと強く思うようになりました。そうなると、相手の心にも応えなければならないし、都合を考えてあげなければなりません。郷さんには、たくさんこの世で楽しんで、それから私のところへきてくださいとお伝えください。私も自分なりに楽しんで、郷さんをあの世で待つことにいたします。
 御母堂様へ                            滝澤節子

 野辺地に届いた私宛てのものとはまったくちがう、死のにおいまでする手紙だった。その節子が、いまは東京の武蔵野の日赤病院で健気に働いている。私は、この偽りの決意の手紙を書いてから、きょうに至るまでの節子の真情を思い、思わず涙を流した。それからの三年のうちに、彼女は私と奇跡的な再会をし、もう一度渾身の力で私を振り切り、ある種幸運な風の吹き回しから、私に求愛し、ついに心の枷を解いたのだった。もうこんなくだらない中傷からは、はるかに隔たった高みにいるのだった。
 私はこの〈遺書〉を『いのちの記録』に挟んだ。

「雅子、いまから武蔵境の節子のところにいってくる。きょうの夕食には戻る」
「わかりました」
「事情は帰ってきてから話すからね」
「はい。いってらっしゃいませ」
 すぐに身なりを整え、武蔵境の節子を訪ねていった。途中、生花店でアイリスの蕾を三茎買った。早番なら留守だろう。でも五時には帰ってくるし、待つつもりがあれば時間はどうやったって潰せる。でも、いまこの昂ぶった気持ちのときに会わなければ意味がない。留守なら帰ろう。遅番だとすれば、まだ寝ているはずだ。寝入りばなでも起こそう。そうして、大門の辻で巡り会えたことの奇跡を語ろう。
 母や浅野が主張したように、私たちはおたがいに吹っ切らなければならないほど危険な関係にあったのだろうか。野辺地への手紙には、それを裏づけるような、私との別れの解放感がかなり露悪的に書かれていた。私への苦しい愛情を抱きながらも、生木を裂かれるように別れなければならないという葛藤と決意は書かれていなかった。母は奇しくもそのさかしらな意図に反して、節子が高貴な人間であることを暴露したのだった。もう私はあの日の私ではなかった。こだわりという名の情熱は持っていなかったけれども、節子という女を不憫に思う気持ちはいよいよ強くなった。
 私にとって、神と言っても過言でないカズちゃんに巡り会うまでの滝澤節子は、人間の女の基準だった。ふだん道を歩くときにも、ほかの女たちの後姿を節子のそれと比べて見ていた。節子ではない女の特徴―細すぎる首、ずっしり垂れ下がった尻、彎曲して隙間の空いた脚、太くて形の悪いふくらはぎ。私はそういうものを、粗悪な生殖器を内在させる肉体の表出部品だと思い、おぞましいものに感じて、だからこそ彼女たちは滝澤節子ではないのだと気づき、かえって晴ればれとしたさわやかな気分になったものだった。私はたえず滝澤節子を女の理想のいただきに置きながら、校庭や、机の前や、寝床の中で、その顔や全身を追いかけた。
 カズちゃんを知ってからは、節子をどの女とも比較したことはない。カズちゃんを代表とする〈女〉というものを絶対物に感じるようになったからだ。そうなると、ほかの女を好ましいとも好ましくないとも考えなくなり、たがいに比較することもしなくなった。一人ひとりが絶対物に昇格した。
 もどかしい思いで武蔵境からの長い一本道を歩いた。
 節子だけを思い焦がれていた日々のことを思い出した。病院の廊下で初めて口づけをした夜のたぎり立つ思いはどんなだったか。あの大切な夜を、節子と歩いた最初の夜の深さを私は決して忘れない。その夜の中で胸に満たされた悲しいほど雄弁な決意を決して忘れない。そこにいない人たちの思惑など心を掠めさえもしなかった。神宮の森から大瀬子橋へ歩く道の上で、私は康男に、母に、飯場の人たちに、そして世界全体に別れを告げたのだった。地上にいるのは、自分と滝澤節子の二人だけだった。すると思わずいくつかの幼い言葉が組み合わさり、求愛の呟きになって唇から出た。
「節ちゃんが好きです。こんなに人を好きになったことはありません」
 いまこの言葉は言えない。私は多くの女の心を知った。女の心とからだを知って、女に対する自分の思いがどう変わっていくか、まったく予想できなくなった。なかでも性の交歓が大きな要素になった。いつだったか、夜の高架橋の下で康男に釣られて卑猥な単語を口ごもったときの恥ずかしさをかならず思い出したけれども、しかしそれは記憶の抽斗を習慣的に開けて覗いただけのことで、私のからだはもう、人が不道徳なものとしてイメージする感覚を、まさに道徳的な感覚として捉えるようになってしまっていた。経験したあとの女体の印象が淫猥なものではなく、神秘的で奥深いものだったからだ。もはや女体は薄っぺらい好奇心の対象ではなく、深い愛情の対象になった。つまり、肉体を交えないかぎり、肉体を超えた愛情が芽生えなくなった。しかも私は、カズちゃんを最愛の女に思い定めることで、自分なりの愛情の本丸を強化したのだった。
 カズちゃんが私の本丸であることを、女たちはみんな知っている。そしてだれも本丸になろうと思っていない。それを私は不憫に思うけれども、女たちはそう思っていない。自己憐憫の惨めさなど微塵もない。
 私の足はふとゆるやかになった。
 ―カズちゃんでさえ自分を本丸と思っていない。
 肉体の本能にはほとんど生理的な分け隔てがない。だから人は、だれとでも肉体的に結びつくことを厭わないのが道理だ。心は差別する。差別した心で肉体を求める。しかし生理的に分け隔てのない肉体が愛情と同義になった場合は、分け隔てのある愛情が肉体のように平等に分与されることになる。心身ともに最愛も嫌忌(けんき)もなくなる。私も彼女たちも、いき着いた安らぎの正体はそれにちがいない。私は図らずも、心身の平等の幻を強いる城主になってしまったのだった。城攻めに遭わないかぎり、みずから進んで城を焼くわけにいかなくなったのだった。
 ―好きなように生きて。
 と女たちは言う。城主に説く言葉はないから。……私は城主ではない。私にはよくわかっている。いや、彼女たちにもわかっている。独裁的な城主と隷属する臣下という上下の関係ではないとわかっている。彼女たちが維持したいのは、引き寄せ、引き寄せられる対等な関係だけだ。その関係が一対一で維持されることに、彼女たちは価値を置いていない。彼女たちが価値と見なすのは、彼女たちが寄り合って私を取り囲む、堅牢で自然な求心的な関係だ。彼女たち同士の関係など意に介さない。私を廻って囲んでいるたがいの姿を見て、たがいに微笑み合うだけだ。だから、彼女たちの敵は、その引力圏に留まろうとする自分たちを無重力の闇へ引き戻そうとする社会道徳だけなのだ。
 昼下がりの二時に節子のアパートに着いた。
「節ちゃーん!」
「はーい」
 やがてドアが開いて、ネグリジェ姿の節子が寝ぼけ顔を覗かせる。葵荘!
 ―何しにきたの、性欲?
 節子はそんなことはけっして言わずに抱きついてくる。
「年末に会えるのに、どうしたの?」
「大門の曲がり角で偶然遇えたのは奇跡だった。それが言いたくて飛んできた」
「まあ!」
「節ちゃんのことがほんとうに好きだったって言いにきた。きょうは遅番?」
「そう、七時半に上がって、洗濯をして、九時過ぎに寝たから、五時間睡眠ね。よく寝たほうよ。まとめて寝る日もあるからだいじょうぶなの。歯を磨いちゃうわね」
 節子はシンクで歯を磨き、うがいをすると、ネグリジェとパンティを脱ぎ捨て、私の服を脱がせる。そうして起きたばかりの蒲団の上に私を横たわらせる。
「まずご挨拶。完全安全日だから遠慮しないで出してね」
 柔らかい陰茎を深く含む。可能になると、からだをいざらせて尻を向け、顔に跨る。少し乾燥した性器が鼻に当たる。
「ごめんなさい、まだ寝ぼけてるから、時間がかかるかも」
 しばらく舌で愛撫するが愉悦の声が上がらない。やがて潤ってきて、慣れ親しんだ感覚に腹が不規則に呼吸しはじめる。まだいつもの声が出ない。女は声を出さなければ、からだが解放されない。私は尻の穴に一センチほど小指を挿し入れた。
「う、気持ちいい、ああ、キョウちゃん、イク、あああ、イク!」
 ひとしきり痙攣をしてから、節子は向き直って私の腹に掌を突き、尻をゆっくり沈める。
「ああ、いい気持ち! キョウちゃん、そのままでいて、ぜったい動かしちゃだめよ、一秒でイッちゃうから」
「動かす!」
 おどけて言い、連続で突き上げる。
「ああ、ほんとにだめ、キョウちゃん、すぐイッちゃう! うう、イク、キョウちゃん! 愛してる、好きいィ、イク!」
 私は節子の尻を掌で持ち上げ、亀頭だけを咬んでいる節子の性器を見つめる。懸命に達しないように節子の内股がふるえる。トンと下ろし、また持ち上げる。
「クック、もうだめええ、イックウ!」
 節子は蒲団にゴロリと転げた。くの字になって痙攣する。道々頭にあった愛情の抽象物が、神秘的な具象物になる。寄り添って囁きかける。
「節ちゃん、愛してるよ。節ちゃんは最初に遇った大好きな女だ。いまも大好きだ。いつまでも大切にするよ」
「うれしい、いつもキョウちゃんのそばにいさせてね」
 腰を抱き寄せ、乳房にキスをする。
「キョウちゃん、まだイッてないのね。入れて。イキつづけるから出して」
 節子は仰向けになり、大きく脚を開いた。挿入したとたんに膣が脈打ち、うねり、尻が跳ね上がった。尻を気丈に前後させる節子の姿を目にしっかり収め、節子の叫びの中で吐き出した。律動を心ゆくまで伝える。引き抜くと、節子はこらえきれないようにからだを反転させ、うつ伏せになって尻を上下に悶えさせた。私は掛蒲団を彼女の背中まで引き上げた。
「……こんなに愛してくれてるのね」
「節ちゃんがどんなに苦しい思いをして、ぼくと別れたかがわかったんだ。潔く気高い心だった。もう一度巡り会えたことが奇跡だ。ぼくたちはいっしょになる運命だったんだよ。あの世で待ってると書いてあった節ちゃんの手紙、きょうおふくろから届いた。どこかでぼくが待ってる、叶わぬ願いだと書いた、あの潔く気高い遺書をきょう読んだんだ。野辺地にくれた手紙が真っ赤な嘘だったってわかるすばらしい手紙だった。おふくろもバカなことをしたもんだ。節ちゃんを陥れるつもりが、ぼくに感動を与えることになっちゃったんだからね。誠実な言葉を聞き分けるアタマがないんだろう。節ちゃん、ぼくのことを愛してくれて、ほんとうにありがとう。もう、離さないからね」
 節子はしゃくりあげた。
「私には、最初からキョウちゃんしかいないの。いつか会えたら、もうぜったい離れないって思ってた。……でも、せっかく巡り会えたキョウちゃんが、それはきれいで、堂々としていて……私なんか……自分がちっぽけな、キョウちゃんのからだに喰らいつくシラミみたいに感じて、あんなふうに……」
「バカで意地悪な女のふりをしたんだね、ぼくに愛想をつかせるために。どれほどぼくのことを愛してたんだろうね! でもその話は何度もしてきた。謝り合いながら、おたがい遠慮し合いながらね。もう、謝ることも遠慮することもない。ぼくたちは出会って愛し合ったし、いまも愛し合ってる。それだけのことなんだ」
 節子は私にも蒲団を引き上げ、
「遇えなかったら、キョウちゃんを一生傷つけたままだった……神さまが逢わせてくれたんだわ。いいえ、一生懸命勉強して、野球で有名になって、転校までして……キョウちゃんが神さまだったのね」
 愛しくて、せつなくて、唇を吸う。
「ぜんぶ偶然だった。運命が引き寄せたんだ。神さまはカズちゃんだよ。何もかもカズちゃんのおかげだ」
「私、和子さんに命懸けで尽くします。いままでキョウちゃんを守ってくれた人たちにも命を捧げます」


         七十八

 節子は服を着て、シンクの前に立った。
「表に出て食べ物屋を探すのも億劫でしょ。ハンバーグ作るわね。きのう夜に下ごしらえして寝かせてあるの。少し時間がかかるから、横になってて」
 楽しそうに冷蔵庫を覗きこんでいる。
「中日球場には、できるだけたくさん応援にいきます」
「土日に中日球場で試合があるときだけだね。年に何十試合ぐらいあるかな」
「ひと月に一回はいくわ」
「いきたいときは菅野さんに頼んだほうがいい。帰りの人混みがすごいから。大勢でいくと楽しいよ」
「はい」
「キクエは元気にしてる?」
「張り切ってるわ。いまの部署は内科と小児科。きょうは早番だから、いまごろ奮闘中。夜、寄ってってあげる?」
「いや、一時間でも多く勉強してほしい」
「そうね、いくら合格確実でも、念には念を入れないと。二月下旬に試験があって、ひと月後に発表。そして名古屋に引越し。四月一日からいっしょに中村日赤にお勤め」
「正看の発表は二月中じゃないんだね」
「五週間後なの。二月十六日が試験日だから、三月二十三日発表ね。二月の下旬に中村日赤に転勤できるように申請してもいいんだけど、資格をきちんと取ってから転勤願いを提出したほうがスムーズにいくわ。転勤の打診は今月の初めにやって、二人ともちゃんと受理されたから、あとはキクエさんの合格だけ。赤十字は全国系列の大病院だから転勤はラクなの。部署の異動は上からのお達しなので、ちょっときついけど。やっぱり名古屋に引越すのは、三月の下旬ね」
「みんなが忙しくしてるとき、ぼくは能天気にキャンプやオープン戦だ」
「能天気なんて……。そういうキョウちゃんの生活についていくために私たちの人生はあるのよ」
 私も服を着て、節子の机にいき、書棚を見つめる。かなり本が増えている。ほとんど文学書だ。心強い気分になり、いろいろな作家の本を抜き出してぺらぺらやった。すると心の内に奇妙な違和感を覚えた。あらためて何冊かの本を引きずり出し、机に広げて表紙を眺めた。私が買ってやったものを含めて、節子がこつこつ買い貯めていったそれらの書物に、彼女は所有物として根強い愛着を持っているだろう。しかし、たぶんその愛着は書物を蒐集するという所有欲からくるものではなく、すぐれた魂を身近に所有しているという喜びから生まれるものにちがいなかった。
 最初は節子の〈文学〉に対する喜びに嫉妬して違和感を覚えたのだろうと思った。しかし考えているうちに、私自身のひそかな情熱の結晶物を、ここにある書物に対する世間評価に照らしてあきらめようとする自分に違和感を覚えたのだと気づいた。どんな書物とも照らし合わせる必要はないのだ。私はただ書きつづけよう、無目的に書きつづけよう、書きつづけて、一つひとつの過去を忘れていこうと思った。
 節子のいる台所へいく。節子がフライパンを動かしながら笑顔で迎える。
         †
 ハンバーグライス。ケチャップとソースをかけて食べる。しみじみとうまい。
「キョウちゃんのお母さん……私、あの人、怨めないの。キョウちゃんを独占したかったのね。他人なら、キョウちゃんに会ったとたん、ああこの人は独占できない人だなってわかるけど、自分のお腹から産まれた子は、なかなかそんな目では見られないわ。特にお母さんのようにプライドの高い人は、わが子を自分より一段低く見てしまう」
「人をランクづけする前に、まず自分の鍛錬なのにね。出勤は?」
「四時。あと十五分」
「いっしょに出るよ」
 会話の締めくくりは、母親の文江さんのこと。
「まだ油断はできないの。きちんきちんと半年検診を受けないと」
「もうだいじょうぶだよ。文江さんは強運の人だ。むかしより女らしくなった」
「副腎が残ってるからなの。副腎ホルモンのおかげで、閉経後も女らしくいられるの。片方の腎臓だけですんでよかった。妊娠には卵巣が大切だけど、閉経後は副腎が大切なの」
「文江さんの手術が終わったばかりのときもそんなことを言ってたね。副腎ホルモンてどういう働きをするの」
「男にも女にも同じくらい出るホルモンよ。男の場合は、毛を濃くしたり、精子を作ったり、オチンチンを成長させたりするし、女の場合は、卵巣を発達させたり、性器を男の気を引くようなふくよかでいやらしい形に作ったりして、生殖に備えさせるの。これが出なくなると、シワシワ、カラカラの女になるわ」
「ふうん、ぼくの場合は、全身にほとんど毛がないから、副腎ホルモンが少ししか出ていないんだね。だからチンボが小さいんだ」
 節子は手の甲を口に当てて笑いながら、
「キョウちゃんて何でも思いこんでしまうのね。ぜんぜん小さくないわよ。急患部屋でキョウちゃんと初めて結ばれたとき、オチンチンが入ってくる感触がきつくて驚いたわ。びっくりして、感じるのが後回しになっちゃった。キョウちゃんのオチンチンは、ふだんは短いけど、勃起するとふつうの長さになるの。ただ、亀頭の大きさがふつうの人の三倍ぐらいになっちゃうから、医学的に見れば奇形ね。女を悦ばせるように生まれてきたのよ。体毛が薄いのも、手や足の裏に汗をかかないのも奇形。それも女が喜ぶわ。みんな拝むような気持ちでキョウちゃんに抱かれてると思う。私のおかあさんも、和子さんたちも、生まれてきてキョウちゃんと巡り会えたことがいちばんの幸せよ。キョウちゃんのオチンチンは偶然くっついてただけ。……だれも言わないことだと思うから、私が言うわね。キョウちゃんといると、触られなくてもびしょびしょになっちゃうけど、それは性欲からじゃないの。キョウちゃんに性欲が湧く女はいないと思う。見ていたいだけだから。……肉体から遠くにいる人。キョウちゃんにはオーラみたいなものがあって、女の心とからだをいっしょに刺激するの。ものすごくいとしくなって、ものすごく濡れてきちゃう。それはセックスしたいという気持ちとはだいぶちがうものよ。セックスなんかしなくても百パーセント満足なの。でも、抱かれると、その前からびしょびしょになってるし、奇形のオチンチンでこすられるから、爆発するみたいにイッちゃう。キョウちゃんは、女と逢うと、してあげなくちゃって思うでしょ? 女のほうもそう思われてることがわかってるのよ。あそこがむずむずするような純粋な性欲はなくても、たしかにふだんからキョウちゃんに抱かれたいって思ってるから、キョウちゃんにそう思われても仕方がないわね。おまけにキョウちゃんは、女に恥をかかせないように、自分のほうが性欲いっぱいのようなことを言うし、態度にも出すから、女のほうも傷つかずに安心して没頭することができるの。何から何まで理想的にできあがってる男なのね。キョウちゃんがいなくなったら死にたくなる気持ち、わかったでしょ」
「わかった。でもなんで、してあげたいって思うとチンボがギンギンに勃つんだろ。性欲じゃないのかな」
「そこが神さまなの。きっと、自分がイクことより、女の悦ぶ顔や声や反応がまず浮かんでくるのね。そうするとすぐ臨戦態勢が整う。そして、女が悦べば、それがキョウちゃんの幸せになるの。出すことを忘れてることもあるでしょう? イカないですませたりすることもね。神さまだからよ。女は、相手が神さまなら、どんなみっともないことでも許してくれるから恥ずかしくないって思う。神さまをうれしがらせて幸せにするために、みんな思いきり乱れるわ」
 節子の説明のおかげで、快楽の表現は私に対する貢物だとわかった。
「文江さんが二科賞を獲って準師範になったこと知ってる?」
「電話くれた。おかあさん、私が小さいころから書道の先生してたから、テレビ塔の仕事なんかしてほしくなかった」
「……教える場所がなかったからね。三段を持ってたなんて、ひとことも言わなかった」
「そういう人なの。環境が整ってるとき本領を発揮するけど、それ以外のときは構えないで流される人なの。怠けてる私を養うためにテレビ塔でお土産売るなんて……。あの日からずっと、キョウちゃんのことばかり言ってたのよ。すてきだ、いい男だ、目が合うとゾクッとするって。不謹慎でしょう」
「そう言えば、通勤の電車でお尻触られたって話してたね。女の子みたいに伸びのびしてかわいらしかった」
「キョウちゃんに女をアピールしたかったのね。あんなおかあさん見たの、初めて。まさか、キョウちゃんとそんなことになるなんて思ってもみなかった。……ちょっとうれしかったけど」
 法子と同じ気持ちなのだ。
「おかげで、病気を乗り越えられたわ。ありがとう、キョウちゃん」
「長生きしてもらおうね」
「ええ。これからも、親子ともどもよろしくお願いします」
 笑いながら頭を下げ合った。
         †
 二十八日土曜日。早朝、四・一度。冷えこむ。
 文化園を十周、三種の神器を百回、素振りを百八十本。加えて、インコースに食いこむボールを想定した右手の片手振り五十回、外角へ落ちる変化球を想定してわざとつんのめった左手の片手振り五十回。どちらも飛距離をイメージして振る。つんのめらない打法を開発しなければならない。軟便、シャワー、歯磨き、爪切り、耳垢取り。ハムエッグを自分で焼いて、めしを二膳食った。黄身をつぶして焼くとうまい。
 トレーニングジムはきょうから正月休暇に入った。五百野二枚。
         †
 二十九日日曜日。いつもどおり鍛錬を終え、ふつうの排便、シャワー、耳鳴りなし。
 武蔵野でサントス。四時間かけて五百野四枚。夏あたりには書き上がるだろう。
 午後三時半、きょうまで開店しているオリーブの樹でミートソース。
 まだ女たちが全員揃っていない高円寺でいっしょに一杯やるつもりで、山口と御池に電話した。御池は里帰りでもしたのか不在だったので、山口と高円寺駅の改札で待ち合わせた。
「きょうから三日まで仕事休みだ。盆正月以外、休みなしだからな」
「あれ? グリーンハウスもラビエンも週に一回ずつになったんじゃないの?」
「それはそうなんだけどさ、精神的拘束感がな。誘ってくれてサンキュー」
「年賀状代わりのつもりだったんだけどね。あした女たちが全員集まる。六人も女がいると、ゆっくり飲めないと思って。きょうなら女三人だ。吉祥寺だと、つまみを作ってくれる福田さんがいないからね」
「ひさしぶりに和子さんの顔を見るか」
「菊田さんが、二月からあの家で、好きなときにギターの練習をしたらどうかと言ってた」
「連絡がきたよ。ありがたい」
「ぼくは年にふた月も帰ってこないし、ときどき福田さんかトシさんが風を入れるだけの家だし」
「ぜひ使わせてもらう。ステレオもかけていいか」
「どんどんかけてくれ。あの家のものは何でも使ってほしい。蒲団、風呂、洗濯機、冷蔵庫。女を連れこんでもいいぞ。そうしてくれればぼくも安心だ。山口以外の人間に本やステレオを触られたくないと思ってたから」
「いやあ、ほんと、ありがたい。三鷹にスタジオでも借りて練習しようかと思ってたところだったからさ。……東京を去るにあたって、御池くんと親交を暖めたいというおまえの気持ちはよくわかるよ。おまえと心中するつもりのやつだからな。俺が親交を保ってやる。まあ、おまえが御池くんに電話した気持ちを考えると、気心知れた男の員数を揃えて賑やかにしたかったんだろうと思って、横山さんにも声をかけてみたんだが、いまから草津温泉に出かけるんだとさ。女の両親と正月かけて最終的な話し合いだと言ってた。親権を争う、なんて張り切ってたよ」
「別れた女に子供産ませてたのか。よしのりの女関係は締まりがなくて、そのうえ秘密が多いから、何が何だかわけがわからない。いつの間にか妊娠させたり、籍を入れたりしてる」
「何度かカウンターで話してたじゃないか。おまえの馬耳東風は芸だからな」
「温泉宿で離婚届に判捺し?」
「ああ、別れは穏便にというところだろ。暴力亭主でも浮気亭主でもないのに、女のほうが無理やり縁を切りたいわけだから、親も気を使うだろ。横山さんは踏まれて蹴られてばかりだな。結婚生活なんて体のいいものなんかなくて、セックスも数えるほど、挙げ句の果てに妊娠、離婚だ」
「ぼくのラッキーな人生、分けてやりたいな」
「無理だ。日なたの部分を分けてやる具体策がない。人生の華は分けてはやれない。なぜだかわかるか。おまえのラッキーはおまえという人間の徳と才能が呼びこんだものだからだよ。ラッキーな雰囲気を分けてやれるのが限度で、徳と才能は分けてやれないんだ。周囲の人間に対するおまえの務めは傍観だよ。……賄いの福田さん、いい人そうだな」
「うん、律義な人だ。少女のような心持ちの人。……おトキさんから手紙くる?」
「熱いやつがな、と言いたいところだが、俺の家族に気を差して、よこさない。その分、俺がときどき書いてる」


         七十九

 正月休みの貼紙をしている商店街を過ぎる。いつもの半分ぐらいしかシャッターは開いていないのに、人通りが多い。年末の買出しだろう。
「相変わらず女っ気はなしか」
「……風俗に二度ほどな。しかし、一発やるたびに、おトキさんにすまない気がしちゃってさ」
「わかるよ。ぼくも、だれと寝るときも心の隅にカズちゃんがいる。やさしく微笑んでるんだけど、すまないって思う」
「おまえの場合は、そんな単純なものじゃない。和子さん以外の女と寝るときは、どんな分類もできない要素が入り混じってる。いちばん大きいのは、捨身だろうな。しかし、おまえの女たちは、本気でほかの女と一心同体の気でいるから、女同士の人間関係はびくともしない。……離脱者が一人もいないってんだから、目ん玉飛び出るよ」
「山口は人間関係と言うけど、融け合った対等な分子と言い直させてもらう。おたがいに幼いころからの歴史を知っている者同士の集まり。目をつぶるとわかるよね。ぼくや山口はもちろん、カズちゃんから菊田トシさんや福田さんまで、すべて本人か他人の語りでぼくの歴史を知ってる。それ自体異常なことだ。ふとぼくは、じっちゃばっちゃばかりでなく、彼らの周囲の人間について何一つ知らないことに思い当たるんだ。君子叔母さんはどういういきさつでアメリカへいったんだろう、おふくろはどういうきっかけで父と出会ったんだろう、君子叔母さんやおふくろだけじゃない、英夫兄さんも、ぼくに英語を教えてくれたサイドさんも、椙子叔母さんも、善夫も義一も、だれもかれも、具体的にどんな人生を送ってきたのか皆目見当がつかない。なんとか素性をたどることができると思っている人たちにしても、ほんとうはよく知らないのかもしれない。だれも自分のことを語りたがらない。彼ら一人ひとりの歴史は、ほとんど闇の中だ。生まれてから死ぬまでのゆくたてをたどれる人間などいない。そんなあいまいな触れ合いの中で、人びとは語り合い、愛し合い、騙し合い、裏切り合い、そして死んでいく。正常な人たちというのは、そういうものだ。―ぼくたちは異常だ」
 山口が泣いている。
「歴史を知らないやつは、結合分子が死にそうなときにあわてられないし、死んだときに死ねないもんな」
 山口は正常な人たちが行き交う道の上で、泣き笑いをした。
         †
「いらっしゃーい!」
 カズちゃん、素子、千佳子、法子の四人が式台に出迎えた。法子がくる予定だったことを忘れていた。玄関に白鶴の一斗樽が置いてある。
「浅草の康男さんからよ。名古屋のワカさんからは金一封が送られてきたわ。百万円。おとうさんから三十万円。おかあさんから二十万円。こういうお金は、頼母子講みたいにみんなのために貯金しておくわね。康男さんとワカさんには、電話でお礼を言っときました。ペナントレースが始まったら、中日球場でインチキなダフ券を売らせないように取り締まるって」
「ダフ券は五倍ぐらいの値段で売るから、せっかくのファンを怖がらせて追っ払っちゃうことになるんだ。なんとか手に入れても内野の立ち見で、スタンドに入れないこともある。ほんとにインチキのダフ券だ。ぼくも小学校の五年のとき、オールスター戦でやられた」
「それでもファンはおまえの試合は観たいだろうな。インチキでない券もあるんだろ」
「ああ、特別席。四百円を二千円ぐらいで売る」
「うへえ!」
「山口さん、ゆっくりできるのきょうだけ?」
「ああ。でも夜帰る。ギターの練習をしなくちゃ。しかし、年末年始ぐらいは部屋ごもりをやめて、家族にたっぷりこの尊顔を見せておかないとなあ。自慢の息子がいる事を忘れちまう」
「しょってる。イタリアのギターコンクールは八月か九月ね。旅費と滞在費は頼母子講から出しましょ」
「そのくらい貯めてるよ。働いてるんだぜ」
「じゃ、餞別だけ」
「ありがたくいただきます。木谷、どう? はかどってる?」
「はい、勉強が楽しくなってきました」
「そうそう、勉強は楽しいもんだからね。あっちじゃ、北村席に下宿するんだって?」
「はい、お料理を覚えたくて」
「おトキさんは名人だからな」
 カズちゃんが、
「そうなのよ、ちょっと追いつけないレベル。私も北村で、もっともっと腕を磨こうと思ってる。コーヒーはもちろん、お料理でもアイリスを繁盛させなくちゃ」
 法子が、
「酔族館も、厨房は中華と洋食と和食の三人、腕のいい職人さんを雇ってます」
 素子が、
「法ちゃんのお店、名が知れてきたから、いい職人が集まるんよね。酔族館て名前、ポートのお客さんも知っとったわ。アイリスは名古屋一の喫茶店にするで」
「そろそろおやつよ。テーブルについて」
 素子と千佳子が、大型のオーブンから陶器の角皿を二つ取り出す。
「りんご、カボチャ、ポテトのグラタンやよ。食いでがあって、うまいで」
 次の小さめの角皿を三つ、オーブンに入れる。
「きょうの夜は、ローストチキン、茹で豚のサラダ、焼き茄子、トマトとレンコンのカレー。その前にドライブ。運転は山口さん」
「どこへ?」
「旧古河庭園。そこの大谷美術館。素ちゃんがいきたいって言うから」
「庭の本てゆうの買ってきて見とったら、いちばんきれいやったんよ」
「へえ、素子さん、そんな本まで読んでるのか」
「中野の教室で〈食べられる果実〉というのを勉強しとったとき、やっぱりこの庭の写真が出とった」
「ふうん、大谷美術館は上中里だな。一応ぎりぎり都内だ。オッケー、いってみよう。グラタン食ったら出かけるか」
「いったことあるの?」
 私が訊くと、
「小学校のとき一家でな。おふくろが都内中の庭園を見て歩く趣味があってさ、ほかにも何箇所か付き合わされた。小石川後楽園、六(りく)義園、日比谷公園、新宿御苑……。古河庭園はこの時期だと、潅木に網帽子かぶせて冬支度してるな。ちょうどいまごろの季節、京浜東北線に乗っていったんだよ。園内一帯のくすんだ紅葉黄葉と、あのパーッと鮮やかな粒状の赤い実。あれは何だ、ナンテンか? 神無月」
「かもしれない。冬に赤い実をつけるのは、背が高い木ならニワトコかナンテン、低ければマンリョウ。ニワトコはセンリョウとも言うんだ。どの実も食えるけど、うまくない」
「背が低いから、マンリョウだな」
 グラタンは女好みの、甘くてモサモサした食い物だ。私と山口は半分も食えなかった。残したグラタンを女四人で分け合って平らげた。
 ボルボの後部座席に女四人、いちばんからだの大きい私は助手席に乗った。
「そこまでどのくらいかかるんだ?」
「効率よく走って、四十分。一時間見ておけば余る。環七を道なりに北上して、妙正寺川を渡り、野方を通って桜台、常盤台、大和町から中山道に入って西巣鴨へ。そこから明治通りを走って王子の飛鳥山へ。本郷通りをくだれば、西ヶ原の旧古河庭園だ」
「二代目菅野さんだな」
「彼ほどじゃないよ」
 出発。北口へ出て環七に入る。ボルボのエンジン音が快適だ。豊玉南から右へ曲がりこむと平坦な家並がつづく。
「桜台病院、武蔵大。この踏切は西武池袋線。江古田と桜台の中間だ」
「初めて東京を細かく見てる感じだ」
「悪い癖だ。頭の中以外を細かく見るのはやめたほうがいいぞ。領分がちがう。俺たちの領分だ。左が東京武蔵野病院」
 マンションの群れを過ぎる。もう一つ踏切を渡る。
「常盤台の踏切だ」
「東武東上線か。隣の駅が吉永先生の住んでた上板橋だ」
 板橋本町の交差点を南下。大和町から中山道に入る。通りと建物の名前を教えられながら走る。
「板橋第三中、板橋第一小、板橋区役所。古河庭園で一時間から一時間半使うとして、五時半には帰宅できるな」
 カズちゃんが、
「それからお料理にかかりましょう」
「このあたりは滝野川。ブ男近藤勇とヤサ男土方歳三の墓がある。寿徳寺の境外墓地だ」
 新撰組、どちらも剣の達人としか知らない。
「教科書の写真で見たことがあるけど、近藤勇は梶井基次郎、土方歳三は太宰治に瓜二つだね。徳川慶喜は、よしのりそっくり」
 景色が下町らしくなる。西巣鴨の交差点を左折。明治通りに入る。
「このへん一帯は西ヶ原。縄文弥生時代の集落や貝塚の遺跡が多い」
 飛鳥山から本郷通りに入る。
「左の広大な緑が飛鳥山公園だ。五分もしないで庭園に着くぞ」
 公園が途切れ、警視庁滝野川署を過ぎて、閑静な本郷通り沿いに大学の門のような石造りの門柱が現れる。
「到着! 旧古河庭園だ」
 車の置き場所がない。白壁の先に二台駐車できる蕎麦屋があったので、カズちゃんが店主に交渉して、二時間千円で借りた。素子が不満顔で、
「お姉さん、駐車料金て、ふつう一時間百円やよ」
「いいの。もともと店用の駐車場なんだから、お礼をしなくちゃ」
 守衛のいる門を入り、平屋根の煉瓦小屋の窓口で、一人五十円の参観料を払う。鬱蒼とした紅葉が展がる。庭園の由来が書いてある看板を素通りする。概要を知りたければ山口に尋けばいい。
「だれの庭?」
「もともと陸奥宗光の屋敷の庭だった」
「その名前、たしか暗記したぞ。第二次伊藤内閣の外務大臣、日英通商航海条約、治外法権撤廃……以上」
「ハハハハ、さすが英国二科目だけで合格した男だ。そんな知識じゃ何の役にも立たなかったろう」
「もちろん」
「教え甲斐があるでしょ。かわいらしいじゃないの」
 カズちゃんが言うと、受験勉強真っ最中の千佳子が、
「神無月くん、かわいい!」
 山口がつづける。
「陸奥宗光というのは、八代将軍吉宗で有名な紀州藩の藩士だ。明治維新以来、いろいろな制度の改革に陰になり日向になって影響を与えた男でね、通商条約を結んだのも、イギリスと協調しつつ対清強硬路線をとって、最終的に日清戦争を起こしたかったからだ。陸奥外交と言われてる。最大の貢献は、それまで不平等条約を結んでいた十五カ国と交渉して、治外法権を撤廃したことだな。おかげで、日本が外国人の無法地帯でなくなった。カミソリ大臣と呼ばれた」
「そんな政治家、現代にいるかな」
「いない。頭が切れるだけじゃない。人間もいい。二人の芸者を次々に正妻にした。二十六で死んだ一人目の女房に息子二人。子のいない二人目の女房は美貌だった。ワシントン社交界の華と言われた」
「一人目の女を愛してたんだね。二人目は連れ歩く飾り。一人目はおっとり型、二人目は才媛型。むかしは芸者に教養があったからね。二人目には努力しなければ勃たなかった」
「想像力豊かなご意見ありがたく。次男が古河家の養子に入ったので、この屋敷ごと養父の古河市兵衛にくれてやった。第二次大戦後に国のものになり、国から東京都がタダで借りた。洋館と洋庭を造ったのは、鹿鳴館を設計したコンドル、日本庭園を造ったのは、京都の小川治兵衛。陸奥はむかしから結核を患っていて、最後はこの屋敷で死んだ」
「よし、概要説明終了。山口には腰を抜かす」
「ほんと! すてきね、天才同士の掛け合いって」
 法子が言うと、素子が、
「こういうのは知識やろが。天才は野球とギター」
「そりゃそうだけど、ふつうじゃないわよ」
「そりゃ、東大やもん」
 山口が、
「東大じゃない。個人の趣味だ。神無月、この潅木だな、マンリョウは」
「そうそう。ナンテンにそっくりだね」
 勾配を上ると、すぐに大きな芝庭にかこまれた洋館が見えてきた。芝は北村席と同じような冬枯れしにくい種のようで青々している。
「きれいやわあ!」
 山口が説明看板を眺め、
「骨は煉瓦、壁は真鶴産の安山岩、野面(のづら)積み。ん? 入館は二時半から一時間の強制見学ってなってるな。ん? 和子さん、大谷美術館の所有であるこの洋館の内部建築の様式を見て回ることが、一応、美術の鑑賞ということらしいぜ。美術品を見て回ることじゃない」
「なあんだ、ガッカリ。見なくていいわ」
「この洋館、案外小さく見える」
 私が言うと、
「地上二階地下一階だ。関東大震災のときは二千人がすし詰めで避難した」
 味のない幾何学模様の洋庭。五分ほど隘路を歩き回って出る。低地へ降り、公衆便所のような衛所の前を歩いていく。
「熱田神宮の細道みたいだ」
「ほんと。でも手入れが悪いわ」
 カズちゃんが言い、千佳子を除いた女たちがうなずく。


         八十

 千佳子が、
「私、早く熱田神宮を見てみたいです。神無月くんの思い出の場所」
「もうすぐよ。私たちが連れてってあげる」
 池を縁取る日本庭園に入る。池にはけっこうみごとな滝がしつらえられていて、密な樹林の中から落下している。
「あの笠の大きい灯籠は雪見灯籠。笠に雪が積もったのを見物するんだな」
「もう松に雪吊りとコモ巻きがしてある。ソテツは霜囲いに藁が巻かれてる」
 カズちゃんが、
「ほら、あそこの岸の奥に、ただ岩だらけで凹んでるところがあるでしょ。何かしら」
「いいところに目をつけたね。あれは枯山水の道具立ての一つでね、滝が流れ落ちてるつもりになって眺めるための枯滝(かれだき)。御影石、青石、ごろた石を組み立てて造られてる」
 法子が、
「山口さん、かれさんすい、て何ですか」
「水を使わないで、地形と石組みだけで水のある風景をあらわすこと。かれせんずいとも言う。しかし、樹木は野放しだし、むかしきたときより池が汚いな。泥水だ」
「帰ろまい、熱田神宮には敵わんわ。写真に騙された」
 素子が吐き捨てるように言った。
 小腹を満たすために、車を預けた蕎麦屋でもりそばを食った。店主が、
「一時間も駐車してませんでたし、こうして食事をしていただいたので、車のほうは無料でけっこうです。食べていただければもともと無料ですから」
 カズちゃんが、
「そうなの? 自宅用じゃなかったんだ」
「はい。年越しそばの麺とツユをパック詰めで売ってますけど、いかがですか」
「あ、買います。麺だけ十束ちょうだい。おいくら?」
「二千五百円です」
 もりそばのタレはうまくて、私と山口は二枚食った。私が、
「カズちゃん、年越しだけじゃなく、この先のためにタレも買っといたら?」
「それはだいじょうぶ。一升買ったって、いずれ足りなくなっちゃうから」
「なるほど」
「でも今夜の分だけでも買っときましょうか。七人分の袋をください」
「一升持ってってください。五百円でいいです」
「そう? どうもありがとう」
 私が、
「ああ、温かいきしめんが食いたくなった」
「今度名古屋にいったら、ハシゴしましょう。いろいろな種類があるわよ。結局シンプルなのがいちばんおいしいけど」
 法子が、
「うなぎのハシゴは気持ち悪くなっちゃうものね。きしめんならいける」
 帰路につく。素子が、
「みんなごめんね、無駄足させてまって」
「なにごとも冒険よ。とにかく動いてみなくちゃだめ」
 山口がハンドルをいじりながら、
「神無月、いつか一戸のこと言ってたろう」
「ああ、理Ⅰをやめて文Ⅲに入り直したいと言ってたやつ。文学をやるために」
「チンケな野郎だ。でかいこと言いやがって、東大の中をウロウロしてるだけだ。東大を散歩するだけで文学が大成するなら世話ない。受験勉強して東大に入りゃいいだけだろ」
「異論なし。その一戸がどうかしたの」
「グリーンハウスに飲みにきたよ。サギくさい出版社連中といっしょだった。黒服が盗み聞きしたところだと、文学界新人賞の最終選考に残ったけど、受賞を逃がしたって話だったらしい」
「ふうん、口だけじゃなく、着々とやってたんだ」
「着々かどうか知らんが、小説の中身が受験勉強と東大合格だってんだ。まあしょうがないわな。それしか経験がないわけだし、経験を越える想像力に恵まれてるわけでもないだろう。テーマを越えて文体がおもしろかったというわけでもなかったようだしな。で、ここからが問題だ。久米正雄も同じようなテーマで書いてるが、受験勉強に失敗した主人公が自殺する真剣な作品だ。それでも駄作のそしりは免れない。つまり、受験なんてテーマに文学性はないんだよ。文学じゃないものを最終選考に残す。それは一戸が十九歳の東大生だからだ。つまり話題性だよ。入学してすぐ中退したっていうオマケつきのな。俺は神無月郷のことを考えた。十九歳の東大生どころじゃない。六大学の三冠王であり、東大優勝の立役者であり、来年中日ドラゴンズの四番を打つ球界の花形であり、マスコミ嫌いで、母親と角逐があって、義侠の果てに島流しを食らった男である。全身これ話題性じゃないか。おまけにあの天才的な文体ときてる。推敲なんかしなくても、一発で受賞しちまうだろう、とな」
 カズちゃんが、
「しかし、でしょ?」
「ああ―しかし、そうはならないんだよ。テーマが軽くないからだ。特殊すぎる身の上話だからだ。……特殊すぎない世間話、それとも、まったくわけのわからない前衛。それ以外は日本の文壇は受け入れない。現代の文壇は、太宰や梶井や啄木や中也は受け入れない。彼らがもし現代に生きていたら、頭を抱えたろうが、かならずいい風の吹き回しで文学史に残る芸術家になるだろう。神無月、いまおまえは父と母のことを書いてると言ってたな。その推敲が完成したら、気が進まないだろうが、群像という雑誌に投稿してみてくれないか。文学界か新潮でもいいが、百枚以内なので足りない。群像は二百五十枚だ。おまえは文体の才能だけでビックリされて最終選考に残る。残って、テーマの重さで蹴られる。たぶん選考委員に、身の上話とけなされる。文体がすごいので古典的作風という委員もいるだろう。そのことを自分で確認してくれ。確認が終わったら、もう投稿しなくていい。そのまま好きなペースで書いて、机にしまっておけばいい。野球選手だったおまえの机はかならず掻き回される。最終的に後世の有能な人間の手に渡る。……人には喝采されずに遣り残したことと、喝采されてやってしまったことの二つがある。おまえは文学以外ではいっさい苦労しないだろう。それが喝采されてやったことだ。一つぐらい喝采されない苦労を抱えて生きろ。それがやり残したことだ。後の世の人びとがそれを、やり残さなかったことにしてくれる。おまえの詩や小説は、かならずこの国の文章芸術の歴史に刻まれる」
 カズちゃんが運転席の山口の肩に手を置き、
「山口さん、ありがとう。そのとおりね」
 私は助手席から山口の横顔を見つめ、
「わかった。一度だけ投稿してみよう。できあがった原稿はおまえに預ける。誤字脱字を確認したら、勝手に送ってくれ」
「ああ。コピーをとって送る。どうせ次席になる。それからはゆっくり、生涯懸けて好きなことを書けばいい。群像の締め切りは十月だ。発表は五月。おまえはこの先十月までプロ野球のグランドにいるけれど、半年もあれば向こうの家で書きあげるだろう。一つ懸念がある。天下の神無月郷がものを書いていると知れたら、もっと早く何らかのお声がかかって、作品が世に出てしまうことも起こり得る。そのときは、もう投稿しなくていいから作品を出してしまえ―まずまちがいなく何かの賞を受賞する。馬鹿らしいだろうが、それは無理に拒まないで、とぼけて受けろ。おまえの作品の価値を傷つけるものじゃない」
「愉快だなあ、山口。とにかくぼくは書きつづけるよ。いい作品か、つまらない作品かの判断は後世に預ける」
「先の時代の評価など頓着しないで、ひたすら書きつづけろ」
         †
 キッチンテーブルいっぱいに、ローストチキンを切り分けた大皿が載り、茹で豚のサラダを盛ったボウルが載り、焼き茄子を取り分けた皿が載り、最後にトマトとレンコンのカレーを盛った皿が載った。わいわい、ケラケラ、賑やかな夕食になった。山口が、
「この料理のうまさは常識外れだな。法子さんは何を作ったんだ」
「茄子焼いただけ。申しわけない」
「いやいや、皮を剥いたときにグリーンの生地が見えるようなこの焼き具合は、なまなかの腕じゃできないぞ。ペリグッド」
 素子が、
「あたしはカレー。レンコンのしゃきしゃきした歯ざわりを残すのは簡単なんよ。乱切りにするとほくほくしてまうから、輪切りにするの」
 千佳子が、
「チキンはどうですか。オーブンで何度もひっくり返して三十分。塗るタレは和子さんに作ってもらいました」
 私が、
「すごくうまい。あれえ? この味は―」
 思わず首をかしげると、カズちゃんが、
「気づいた? 荒田さんのニンニク胡椒醤油よ。飯場の庭で荒田さんが丸焼きをしてたときに、タレの作り方をしっかり教えてもらったの」
 カズちゃんはその説明をみんなにする。クマさんや小山田さんや吉冨さんの話も出る。
「いつもかわいがられてたんだな、神無月は」
「キョウちゃんはほんとにかわいかったから」
 女たちが私を見つめて目を細める。素子がハッと口を開け、
「わ、もう一つあたしが作った料理忘れとる。きょうもサラダはあたし。豚のロースを茹でるのは簡単やけど、レタスとタマネギに合わせる中華ドレッシングを作るのが難しいんよ。まず、お酢やろ、砂糖、醤油、それにごま油と擂りゴマ、その配分が……」
 山口が、
「うまいよ、素ちゃん、ますます腕を上げたな」
 素子が照れ笑いをする。千佳子が、
「素子さんて、ほんとにかわいい人ですね」
「一月一日に二十九になるわい。三十女をかわいい言うな」
「だってかわいいんだもん」
 私は山口に、
「浜中さんが、一月の中ごろ、一週間ぐらい取材にくるらしい。ときとどきいっしょに歩き回ってくれないか」
「いいぞ。グリーンハウスにも連れていこう。神無月の歌を聴かせたい」
 食事が一段落すると、 
「さ、帰って練習だ」
 山口が腰を上げた。
「山口、ぼく三日まで帰らないから、さっそくあの家使ってくれ。お手伝いさんも四日までこない」
「サンキュー。和子さん、菊田さんと福田さんが、来年の二月からあの家をギターの練習のために使ってくれと言ったらしいんだよ。神無月も家じゅうのものを勝手に使えと言うしな。甘えることにした」
「よかったじゃない! がんばって」
「オッケー」
「菊田さんと福田さんが、ときどき掃除や庭を見にいくぐらいだよ。ぼくは、年にふた月も帰らない」
「となると、ほとんど俺の家だな」
「ぼくがもらった家は、みんなの家だよ」
「離れに机はあるし、本はあるし、音楽部屋まである。偶然もらった家にしても、神無月にぴたりとはまってる。考えると、神無月を養うにはとんでもなく金がかかるとわかるな。プロ野球の給料ぐらいじゃ足りないかもしれんぞ」
 カズちゃんが、
「それが私たちの励みよ。康男さんが小学校四年のときに、キョウちゃんにラーメンをおごった気持ち、金は好きなやつに使ってこそ金だ、あれが原点ね。康男さん、いまだにその気持ちがつづいてる。飛島の社員も、私たちも、家までくれた菊田さんも、史上最高の契約金をくれた中日ドラゴンズも、みんな原点は康男さんのラーメン」
 千佳子が、
「それを神無月くんは、好きなやつどころか、みんなのものだと言って分けてあげちゃうんですね」
 山口が、
「分けてやるんじゃない、くれてやるんだ。だから、また好きなやつ同士で補充することになる。楽しい悪循環だ」
 カズちゃんが、
「山口さん、お風呂に入ったあとで、湯船を洗うぐらいのことはしなさいよ。菊田さんに感謝しながらね」
「縁側拭きや、ガラス拭きもするよ。みんなの家だからな」
「たまには菊田さんや福田さんに、青森高校時代のキョウちゃんのお話をしてあげてね。喜ぶわよ」
「神無月の周りの人間は、みんな神無月の遺産だからな。大事にするさ。北村席の話も、トモヨさんと直人の話も、おトキさんの話もしてやるよ。ときどき茶話会を開かなくちゃ」
 三杯めしを食い終えると、山口は帰っていった。法子が、
「山口さんから社会性の要素を取り除いたら、神無月くんになるかしら」
 素子が、
「ならん、ならん、ふたりとも才能のかたまりやし、ものも知っとるし、男としても完璧やけど、よう観察したら別人や」
 カズちゃんが、
「そうね、ものを知る方向がちがうし、才能の方向がちがうし、男としての完璧さの方向もちがう。別人ね。あとは、二人のフェロモンに寄ってくる女もちがう。私たち、山口さんとセックスをするなんて、考えたこともないでしょ」
「ない、ない」
「フェロモンの種類がちがうから、刺激されないのよ。だから尊敬して、仲良く付き合える。キョウちゃんは、尊敬という感じじゃないでしょ」
「ちがう。自然とくっついてまう。魔法みたいや」
 法子が、
「フェロモンて魔法のことね、きっと」
「さ、素ちゃん、法子さん、千佳子さん、後片づけしたら、お風呂入れましょう。キョウちゃんはテレビ観るなり、本を読むなりしてて。お風呂が立ったら五人で入るわよ」
「わあ、早く入りたーい」
「悪さしちゃだめよ。キョウちゃんを洗うだけ」
「はーい」
 みんなはしゃいでシンクに立った。


         八十一

 居間に寝転がり、『竜馬がゆく』の最終回をぼんやり観る。北大路欣也。健児荘のテレビ部屋で一度だけ、何の折だったか、宮本武蔵というドラマで彼を観て、その異様な眼光に感じ入ったことがある。以来忘れられない名前だ。逃亡者を観るために集まる日曜日ではなかったので、記憶は曖昧だが、学生が出払った週日の夜にユリさんと観たのかもしれない。浅丘ルリ子はミスキャストだ。彼女は日活映画の小林旭の相手役と決まっている。世界を駆ける恋で裕次郎と共演したときも浮いていた。
 しばらく見ていたが、内容がわからない。武市半平太、中岡慎太郎、岡田以蔵、吉田東洋、後藤象二郎、勝海舟、西郷吉之助、高杉晋作、久坂玄瑞……。こういう群像ドラマは人間関係が複雑すぎて、大要すら理解できない。歴史マニア向けのものだ。英夫兄さんやサイドさんがよく観ていた。いまだに彼らが歴史マニアだとは思えない。西松や飛島の食堂ではだれも観ていなかった。NHK大河ドラマと紅白歌合戦は、ある意味、人間の試金石かもしれない。
 進め青春に切り換える。教師が学生と親しすぎる。いやな感じだ。この教師像は新しい典型として定着するかもしれない。キューポラのある街にもチョイ役で出演していた岡田可愛が出ている。私より一歳年上。ここから五分のところにマンションを持っている。二十歳の小娘が、映画のチョイ役とテレビ青春ドラマの生徒役でそんなに稼げるものだろうか。マンションの話はデマかもしれない。カズちゃんの声。
「キョウちゃーん、入ってるわよう」
「オーイ」
 その場で全裸になり、風呂場へいく。素子が、
「わー、かわいいオチンチン」
 カズちゃんが、
「触っちゃだめよ、怪物になるから」
 みんなでワッと笑う。法子が洗い場でからだを流し、四人が湯船に浸かる。素子が抱きついてくる。性器を握る。
「あ、怪物」
「素ちゃんたら、いちばん体力ないくせに、いたずらなんだから」
 洗い場から法子が、
「体力ってつくのかしら。私もぎりぎりまでがまんするけど、抜いてって叫んじゃう。和子さんは?」
「叫びたくなることもあるけど、死ぬつもりでセックスしてるから、キョウちゃんが出して搾り出しが終わるまでイキつづけてる」
「私もです」
 千佳子が言う。素子は法子と顔を見合わせて、
「見習わんと……」
 洗い場に私を上げ、三人で勃起した性器も含めて私の全身を洗う。
「爪が伸びてる。上がったら切らなくちゃ」
「足の爪、少しへんやよ」
「小さめのスパイクのせいだ。大きいスパイクやぴったりのスパイクは動きにくいし靴擦れする。少し小さめのじゃないと自由に走れ回れない。爪はもっと変形していくな」
「いつも忘れず切ってあげるようにしましょう。手もね」
 女四人が浸かっているあいだ、私は頭を洗った。私と法子が浸かっているあいだ、カズちゃんと素子と千佳子が全身を洗った。法子もそっと私を握った。
「きょうは音を上げない。約束する」
 カズちゃんが、
「キョウちゃん、ここんとこ私危ないから、年末は五人とじょうずにしてね」
「うん」
 千佳子が、
「きょう、私でいいですか?」
 法子が、
「夜中は私。夜に強いから」
「あしたは節子さんとキクエさんよ」
 素子が、
「あたし、大晦日にするわ。死ぬ気でする」
 カズちゃんは、
「いつも死ぬ気でしてるでしょう? あとで死ぬほど気持ちいいんだから、がまんしなさい。私は元旦にしてもらう。姫はじめ」
「お姉さんの特権やわ」
「さあ上がって、キョウちゃんの爪を切りましょ」
 五人からだを拭き終わり、全裸でカズちゃんの八畳にいく。ガスストーブをつける。元旦までの蒲団を部屋いっぱいに敷く。居間に戻り、カズちゃんの膝枕で、女たちに手と足の爪を切られる。素子が、
「足の爪が硬くなっとる。かわいそうやわ」
「楽しい野球をたくさんしてる報いだ。カズちゃん、耳もお願い」
「うん。右の耳がほとんど聞こえないのよね」
 千佳子が、え! と驚くと、
「赤ん坊のころの中耳炎が原因なのよ」
 私は笑いながら、
「いつも湿ってて、ネバネバした耳クソがたくさん出る」
 左耳の耳鳴りのことは言わない。女たちに余計な心労が重なるだけだ。カズちゃんは綿棒でごっそりほじくり出し、ティシューに載せて私に見せる。もう一枚のティシューを先の丸いコヨリにして、そっと耳の中で回す。
「きれいになったわ」
 もう片方の耳に移る。法子が、
「中耳炎というのは親の不注意なのよ。そんな小さいころから、キョウちゃんのお母さんて……。ずっと気になってたんだけど、左手に少しケロイドが残ってるでしょ。それは?」
「同じころに、火鉢に手を突っこんだらしい。ぼくは蚊に刺されても膿んでしまう体質だから、やっぱりこの手も膿んじゃって、膿で貼りついた指を爪楊枝で突っつきながら少しずつ剥がしたと言ってた」
 カズちゃんが、
「それはあり得ないわね。黴菌が入って、もっとひどいことになっちゃう。ちゃんとしたお医者さんがやってくれたんでしょう」
「なんやそれ。キョウちゃんの不幸話を聞くと笑えてくるわ。実の親とはいえ、ようキョウちゃんをそんなふうに扱えたもんやね。もの心つかんうちに片耳聞こえなくなって、左手にヤケド?……信じられん」
「おふくろにしてみたら不可抗力だったんだろう。サルにやられたのも、野球に取り憑かれたのも、康男や節子に入れこんだのもね。それがもとで母がぼくにしたことは、生理的な反射かもしれない。そのことには別に怨みを抱いてない。でも、不可抗力でないものもある。サーちゃんのツバと、父を罵りつづけたことと、スカウトを追い返したこと。すべてぼくの言動とは関係なく彼女が自分の意思でやったことだ」
「サーちゃんのツバ?」
 三人が説明を求める視線を向けた。カズちゃんが話した。聞き終わって法子は、
「もう、不幸すぎる。神無月くんは、これからどんなに幸せになってもいいわ」
「うちらが幸せにしたる」
 冷えてきたのでみんなで下着とパジャマをつける。カズちゃんと素子がコーヒーをいれにいく。そのすきに法子は私の唇を求め、千佳子は私の胸に頭を預ける。カズちゃんと素子が盆を持って戻ってきて、炬燵テーブルにコーヒーを置き、ガスストーブを点ける。法子は私のからだの不自由をほじくりはじめる。
「どのくらい聞こえないの」
「右は骨音(こつおん)だけ。左はその分、敏感だ。だからステレオはからだを少し斜めにして聴く」
「目は」
「黒板の字や看板は少し見にくいけど、野球は勘でできる。机に向かうときはたいてい眼鏡をかけてる。鈴下監督がプレゼントしてくれた特殊眼鏡は、来年使う機会が確実に増えそうだ」
「鼻は」
「正常」
「左肘は」
「投げられないだけで、痛むことはなくなった。腕立てもだいじょうぶ。力は右腕のほうがある」
「火鉢に手を突っこんだって言ったけど、どうして手のひらは何ともなくて、手の甲が焼けたの?」
「……わからない」
 千佳子が、
「火鉢じゃなく、お湯がかかったんじゃないかしら。ヤカンか何かの。火鉢なら神無月くんの過失、ヤカンか鍋なら、ほぼお母さんの過失です―」
「言いたいことはわかるよ。もしそうだとしても、やっぱり不可抗力だったろうから責めようがない。もしおふくろに自分の過失を記憶する力があるなら、彼女はもうじゅうぶん後悔という報いを受けてる。でも、彼女には記憶力がない。だから報いは受けない。ぼくが寛容な場合も報いを受けない。どちらにしても彼女は報いを受けないという意味で、報われる。彼女は何をしても最強だ」
 聞き耳を立てていたカズちゃんが、
「寛容であることに、キョウちゃんは全人生を賭けたのね」
 素子が、
「うちはぜったい、キョウちゃんみたいには生きられん」
 ひとしきり、うまいコーヒーをすすりながら、あしたの夜作る予定の〈ソップ炊き〉の話題に花が咲く。法子が、
「ソップて、何ですか」
 カズちゃんが、
「オランダ語でスープの意味。江戸の中ごろからあるお相撲さんの鍋料理よ。北村でおトキさんがときどき作ってくれてたチャンコ」
 サッちゃんのチャンコ鍋。いまごろはおでん屋にでもいって、近所連中と楽しくやっているだろうか。それとも自宅で年末のテレビでも観ているだろうか。いや、南山大学の試験準備の勉強をしているにちがいない。
「筋肉質な痩せ型力士のことをソップ型って言うね。逆はアンコ型。鶏肉は筋肉を作るってよく言うから」
「スープは鶏ガラでダシをとり、いちばん最初に鳥のもも肉五百グラム、沸騰したお湯に入れるの。黄色い油みたいなアクを取る、包丁で切った具は歯応えがいま一つだから、こんにゃくや野菜は手でちぎって入れる、牛蒡や人参はササガキする、タマネギ三個、キャベツ三分の一、人参二本、牛蒡一本、小松菜一束、こんにゃく一丁、油揚げ五枚。ここから味つけ、醤油と日本酒は大胆にドボドボ入れる、砂糖と味醂を入れすぎないように、最後に自分の取り鉢にかける隠し味は鶏油(チーユ)。さっき取ったアクのことよ。かけたくない人はかけなくていいの。〆はうどん。材料はぜんぶ揃えてあるからだいじょうぶよ」
「おいしそう!」
 全員で声を上げる。サッちゃんは鶏団子も作ったが、カズちゃんはもも肉だけ。作り方も緻密だ。素子が、
「法子さん、一千万ぐらいふた月で稼げるって言ったけど、ほんとやの?」
「ほんとよ。このままいけば、私の税込みの年収入は、六千万から八千万よ。北村席は一人ひとりの給料が高いし、税金も厳しいでしょうから、収入の半分ぐらい持っていかれるでしょうけど、純益は億の単位だと思うわ。そうでしょ? 和子さん」
「そうね、きっと。おたがい、ある意味、娯楽産業だから、世間の余り金をかき集めてるようなものね。それは理屈だけど、法子さんもまじめ、うちのおとうさんもまじめな人だから、それこそ当然の報酬だと思ってるわ。いま私たちの給料は七万円そこそこよ。相場より高いけど、まじめな稼ぎよ」
「みんなでキョウちゃんを援助する言うても、プロ野球選手になったら、キョウちゃんのほうが稼ぐようになるやろ」
「はるかにね。でもキョウちゃんは、ある日とつぜんケツをまくってしまうかもしれないわ。そうなったら、貯金がないかぎり、とつぜん世間並みの生活人になることは火を見るより明らかよ。契約金はお母さんとお祖父さんたちにあげちゃったし、お給料だってきっと苦しんでる人たちに還元するでしょう。そうやって人を救ったとしても、ある日ケツをまくるキョウちゃん自身は、確実に社会的に平均値になるの。そこからが私たちの出番よ」
 法子が、
「和子さんて、すごいわ。やっぱり神無月くんの女神ね。そこまで考えて援助するって言ってるのね。私は菊田さんじゃないけど、ぜんぶあげるつもりだから、神無月くんが経済的に路頭に迷うようなことはぜったいさせない。プロ野球をやめたあとも、みなさんといっしょに神無月くんの生活を支えるし、老後の面倒も看るつもりです。もちろん精神的にも支えるわ。神無月くんを長生きさせることは何でもする。……でも、私にしても、和子さんにしても、経済的な方面は、取らぬ狸のなんとやらで、店が傾いたら終わり。商売にぜったいなんてない。神無月くんの気持ちを百パーセント支えてあげて、金銭的なことはみんなで力を合わせてこつこつ援助をする、というのがいちばんまともな考えだわ」
 千佳子が、
「そうです。私だって、たとえ掃除婦をしても神無月くんを支えるつもりですから」
「ほうよ、あたしだってばんばん働いて尽くすで」
 私は感謝の念に頬を熱くしながら、
「精神的援助はありがたく受けるけど、金銭的なものは……。ぼくも働けるということを忘れてる。カズちゃん、プロ野球の給料をできるだけ貯めといてね。プロを引退したら、アイリスのウェイターをしながらそれを切り崩してく」
「気持ちはわかったわ。でもそんなことはさせません。私たちから生甲斐を奪う気? お金は使ってください。もちろん余ったら、きちんと貯めときますけど。もう、援助という言葉も禁句。天邪鬼のキョウちゃんがかえって私たちを援助したくなっちゃう。いまは野球のことだけ考えていて。野球をやめたら、文学だけを。労働なんか散歩だけにしといてね。勝手に神棚から出歩かないで」
 みんなでぱちぱち拍手する。だれかが窓から覗いていたら、怒鳴りこんできそうな気がした。




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