八十八

 煮物を食い、煎餅を齧り、ミカンを剥き、緑茶やコーヒーをいれ、ときが経っていく。ようやく審査の時間になった。そろそろソバを茹でる時間だ。
「出てきた一人ひとりの歌手について、感想を言っていいかな」
 流行歌の好きな節子が、
「聞かせて聞かせて」
 素子が、
「ぜったいおもしろいこと言いそうやわ」
 話す前からみんな笑い出しそうな表情で私を見つめる。
「三田明は呼吸法が雑だ。都はるみは天才だけど、うなり節が耳に障るし、声の質が好きじゃない。布施明はせっかく思い出という名曲があるのに、こんな歌を歌ってるようじゃもう晩年だ。ペギー葉山と佐良直美はいてもいなくてもいい歌手。小川知子は素人、すぐに消える。西郷輝彦のビブラートは余分。歌のへたさをごまかしてる。中学時代はまねしてよく独りで歌った。キーがほとんどいっしょでね。ピンキーの顔はみんなの系統だよ。性欲を刺激する」
「ほんとだ、一重にしたらキクエさんやないの。節子さんにも似とる」
 キクエが、
「節子さんは浅丘ルリ子よ」
 たしかにそうだ。初めて気づいた。
「伊東ゆかりはまぎれもない天才だ。かわいそうに、つまらない曲を歌わされてる。もったいない。水原弘は黄昏のビギンが飛び抜けた名曲。じつに渋くていい声だ。島倉千代子やフランク永井は初期に名曲が多くて、小学校のいき帰りによく歌った。二人とも天才だ。三波春夫は、小三の夏休みに青梅の英夫叔父さんの家に遊びにいったとき、近所の女の子のポータブル蓄音機で聴いた。船方さんよとチャンチキおけさだった。彼の曲は、名曲じゃないけど、人気が出る。人気をくださいって顔してるから応えてあげたくなるんだろう。園まりはマシュポテト・タイム一曲のみ。演歌を歌ってからおかしくなった。顔が四角くなければ性欲が湧く。目の幅が狭くなければ性欲が湧く。結局湧かない。千昌夫はいないほうがいい人。この先も、名曲は一曲も歌わないと思う。北島三郎は函館の女(ひと)一曲。歌いぶりがオーバーで、じっくり聴けない。岸洋子には夜明けの歌しかない。あの曲だけは気取った歌いぶりが消える。メロディがすばらしいせいだ。磨り減るほどEP盤を聴いた。野辺地でね……。アイ・ジョージ、梓みちよ、美川憲一、中村晃子、村田英雄、なぜいるのかわからない。舟木一夫、ピエロの髪型、偽りの高校生上がりだね。橋幸夫のような天性の喉もないくせに、偽りの人気に冷やひやする。でも、こういうやつは長つづきするんだろうな。橋幸夫は大のつく天才だ。江梨子、あした逢う人、どちらも超名曲。山口と歌うのをいつも楽しみにしてる曲だ。扇ひろ子? 知らないなあ。春日八郎には長崎の女という名曲がある。若いころは天才。あんなふうにはだれも歌えない。バーブ佐竹、女心の唄のみ。野辺地のガマが高級ステレオで聴いていたのには笑った。でも、いい音を出していた。坂本九は見上げてごらん夜の星をという絶佳な曲がある。不安定な感じでいて、じつは安定した歌いぶりだ。森進一はこれからの人だろう。歌も声も好きじゃないけど、いつか名曲を歌いそうな気がする。あの声で名曲を歌われたら、ちょっとスミマセンて感じになる。歌謡史に残るね。越路吹雪と美空ひばりは終わってる。ぼくの中では始まってもいない。つまり、魅力のない歌手だ。ただ美空ひばりは、津軽のふるさとという名曲を持ってる。グループサウンズは好きじゃないので、語るべきことがない」
「おろしろーい!」
「すごーい!」
「立て板に水!」
 みんなで手を叩く。
「とにかく、こうやって聴いてても、いい曲が一つもない。高校や大学の授業を受けてるようだ。眠くなる」
「年越しそばまで眠気をがまんしなさい。キョウちゃんの好きな歌と比べものにならないわ。こういうのって女の娯楽なのよ。許して」
「そうよそうよ」
 と素子は言って、ザ・ピーナッツのガラスの城を思い出して口ずさんでいる。カズちゃんが、
「年越しそばとおせち食べたら、寝てしまいなさい。私たちは除夜の鐘が鳴ったら、お参りにいってくるから」
 それでも、煮物をもりもり食べ、煎餅を齧り、みかんを剥きながら、紋切りの『ゆく年くる年』まで起きていた。どこかの山深い寺の雪景色ばかり映している。
 蕎麦屋よりもうまい天麩羅そばをうとうとしながら食った。女たちがめいめいに、そばの美味に感嘆の声を上げている。千佳子が手帳にレシピのメモを取っていた。法子と節子はお替りまでしている。ものすごい胃袋だ。除夜の鐘が聞こえてきた。
「テレビの音か」
「ううん、堀の内の妙法寺の鐘よ。そちらへ初詣したほうがよさそうね。ボルボでいかずに歩いていきましょ」
 どやどやとみんなが立ち上がる足音を夢うつつに聞いた。腹が極限までくちくなったせいで、どうにもこらえ切れないほど眠くなり、カズちゃんたちが出かけてすぐに、寝室の床に入った。意識もなく寝入った。
         †
 昭和四十四年、西暦一九六九年一月一日水曜日。七時に目覚めた。底冷え。周りにカズちゃん、節子、キクエ、法子が眠っている。素子と千佳子は離れで寝ているのだろう。
 小便をしに廊下へ出ると、寝ぼけまなこで節子が起きてきた。
「キョウちゃん、おはよう」
「おはよう。まだ寝てなよ。夕べは遅かったんだろう?」
「ええ。妙法寺の除夜の鐘衝きと初詣にいってきました。私とキクエさんは、仕事だから早く寝なさいって言われて、一時半くらいに寝ました。和子さんたちは台所で後片づけしてたから、二時過ぎじゃないかしら。初詣客の多いのにはビックリしちゃった。お賽銭が人に当たりそうで、うまく投げられなかった」
 キクエが起きてきた。
「もう少し寝てたら? 六時間も寝てないよ」
「だいじょうぶ、ふだんよりよく寝たわ。またしばらくキョウちゃんに逢えなくなるから、時間がもったいなくて」
「私も。二週間後の東奥日報さんに一日付き合えるくらいかしら。そうだ、ごはん炊いておかなくちゃ。お寺の帰りに、もう一度寿司孝に寄って卵焼きを買ってきたの。また湯呑茶碗七つももらっちゃった。マスターがキョウちゃんによろしくって」
 漢字で魚名をぎっしり書きこんだ大きな湯呑が、テーブルの上にぞろりと並べてある。キクエが声を上げた。
「あら、ごはん炊くだけにしてある。スイッチ入れるわ」
 二人で洗面所へいった。私はキッチンで歯を磨くことにした。シンクにかがんで、康男の格好を思い出しながら磨く。法子がボーッとした顔でやってきた。
「明けましておめでとう、神無月くん」
 ペッと磨き粉を吐き出し、
「おめでとう。寝てなよ。遅かったんだって?」
「平気。節子さんとキクエさんがたいへん。私はあしたまでいられるから平気よ。顔洗って、朝ごはんの用意しないと」
 彼女も洗面所へいった。口を漱いでいると、ゾッとよぎるものがあったので、洗面所へいった。歯を磨いている三人に向かって、
「ぜったい死なないでね」
 と言った。三人ぽかんとして、それからひたすらうなずいた。先生が、
「急に怖くなったのね。だいじょうぶよ、キョウちゃんが生きてるかぎり死なないから」
「ぼくが死んでも、ということなんだ。デッドボールで死ぬかもしれないし、交通事故でいっちゃうかもしれないし、それから、電車のホームから押されて……」
 三人同時に叫んだ。
「いや!」
 カズちゃんがヌッと顔を出し、
「朝から賑やかね。聞こえてたわよ。その言葉は私たちにじゃなく、自分に向かって言ってね。私たちが死んでも死なない、って。あけましておめでとうございます」
「おめでとうございます」
 みんな歯磨きを終えてキッチンテーブルについた。法子がコーヒーをいれる。カズちゃんもテーブルの椅子に座って話しはじめた。
「キョウちゃんは、自分が死んだらだれかが死ぬかもしれないって考えを巡らすんじゃなくて、いつも死にたい人なの。それは不幸だから死にたいんじゃないのよ。本人にも死にたい理由がわからないから、理由がわかるまで死ねないでいるの。いまキクエさんも言ったけど、私たちが死なないかぎりキョウちゃんは死なないからだいじょうぶ。生きたい理由はわかってるから。生きたい理由は、私たち。私たちはキョウちゃんに愛されて奇跡的に結びついた人間同士だから、キョウちゃんの幸福のもとなの。一人でも死んじゃいけないのよ。私たちがキョウちゃんを死なせないようにするだけじゃなくて、私たち同士がおたがいを死なせないようにしなくちゃね。むかしはキョウちゃんのフッと死にたくなる気持ちは、山口さんが言うように病気だと思ってたけど、いまは病気じゃないってわかる。とても人間らしい気持ちよ。自分が他人の幸福のもとだと思えない申しわけなさね。だから、そんな自分を愛してくれる女の気持ちに感動して、自分の魂をこめて愛するわけ。キョウちゃんは魂を血液みたいに感じてるから、血を混ぜ合わせようとするわけ。自分の命の一部にしようとするわけ。魂の確認は、セックスじゃないの。心とからだぜんぶをこめて愛するって気持ち」
 カズちゃんが私を抱き締めると、三人も折り重なるようにして私を抱き締めた。素子と千佳子が寝ぼけまなこで起きてきて、わけもわからずみんなの背中に抱きついた。
「おめでとうの挨拶してたん?」
「そうよ。あら、ごはん炊いてくれてる。ありがとう。さ、お雑煮作るわよ」
「うち顔洗ってくる」
「素子、誕生日おめでとう」
「ありがとう。二十九歳になった。うれしくないから、これで終わり。チャンチャン」
 千佳子が、
「神無月くんと素子さんは、誕生日は一生休日ですね」
「それだけやね、トクするんは」
「和子さん、きょうの予定は?」
「十一時に節子さんとキクエさんを駅に見送ったら、年賀状のお返しを書いて、あとはゴロゴロ寝正月」
「私は二人の見送りまで勉強します」
「気分も新たにね。みんな、お餅はいくつ? 北村で搗(つ)いたお餅だからおいしいわよ。少し大きめ」
 節子が、
「二つ、ください」
 キクエは、
「私も二つ。お雑煮、去年は高知でお姉さんと食べました。高知はカツオのダシ、薄醤油のおすましなんです。お餅は丸餅。蒲鉾と小松菜とニンジン、鶏肉、里芋が入ってます」
「名古屋も似たようなものね。四角い切り餅、カツオでダシをとった醤油味の汁に、小松菜とカツブシを載せるだけ」
 素子が、
「ごはんはベーコンエッグでええ?」
「はーい」
 みんなで答える。
「野辺地で勤めていた旅館でお雑煮食べたんだけど、昆布と煮干でダシをとった赤味噌だったわ。細かく刻んだ具の量がすごいの。大根、ニンジン、ぜんまい、わらび、フキ、凍み豆腐、油揚げ、こんにゃく、金時豆」
「すご!」
「そんなの食ったことないな。合船場で正月料理なんかめったに作らないからね。ぼくがいたときも、ばっちゃはふだんよりちょっと贅沢なおかずを作ってくれただけだった」
 千佳子が、
「私もそんな雑煮知りません。和子さんが食べたのは旅館の特別なご馳走だと思います」
 カズちゃんの雑煮はうまかった。みんなも目を丸くして、ゆっくり味わった。素子がベーコンを焼きながら、
「うち、ポートで東京のお雑煮覚えよっと。来年はお姉さんが名古屋の雑煮を作り、うちが東京の雑煮を作って、松の内にアイリスで出すんよ。ねえ、お姉さん、名古屋にいったら、アイリスの二階に寝泊りなんかせんと、ちゃんとキョウちゃんとお内裏さまみたいに暮らさんとあかんよ。せめていっしょに暮らさんと、キョウちゃんが遠征から帰ってきてホッとする家がなくなるがね。うちらには自分の部屋があるから、これまでどおりキョウちゃんを待てばええだけやし。ときどき北村席に集まるだけで、じゅうぶん楽しいわ」
 千佳子が卵を焼きに立つ。キクエが、
「和子さん、かならずそうしてください。私も節ちゃんも、二間ぐらいの家を借りてキョウちゃんが訪ねてくるのを待ちます。和子さんがキョウちゃんと暮らさないと、プロ野球のお客さんが訪ねてきたときにも対応できません」
「もちろん最初からそのつもりよ。いままで十年間、一度もいっしょに暮らしたことがないんだもの。そうしたほうがキョウちゃんの生活のリズムも安定するわ。一年のうち、少なくとも半年は、キョウちゃんは遠征で家を留守にするし、そういうときはみんなでときどき新居に集まればさびしい思いをしなくてすむわ。どうのこうの言っても、北村席はトモヨさんと直人の家よ。いつもわいわい集まってはいられないわ」
 みんなでうなずく。素子と千佳子がベーコンと目玉焼きの皿を別々にテーブルに並べる。三枚のベーコンの脇に塩胡椒で炒めたホウレンソウが添えてある。節子が、
「私、こうしてキョウちゃんのそばにいられる毎日が幸せすぎて……年に二、三回でもキョウちゃんに逢えればじゅうぶんなんです。和子さんは特殊な人です。私を百人足しても足りないくらい特殊な人です。法子さんや加藤雅江さんのようなキョウちゃんと同い年の女の子が、同い年の男の子に恋心を抱くのはごく自然なことでしょうけど、二十五歳の女が十歳の男の子に恋心を抱いて、身辺整理をしながら五年も辛抱強く待ちつづけ、その子が性に目覚めるのを見定めてから肉体を与えるなんて芸当はまずできません。それだけじゃないわ。すべてをなげうって、キョウちゃんのいちばん危ない時期にそばにいつづけたんです。和子さんがいなければ、キョウちゃんは死んでたでしょうし、私たちもキョウちゃんとこうしていっしょに生きていく幸せは得られなかったと思う。その和子さんが、キョウちゃんと暮らすのは、だれが見てもあたりまえのことです。キョウちゃんはだれのものでもないっていつも和子さんは言いますけど、キョウちゃんのすべてを受け入れる資格を持っている特殊な女は、ただ一人、自分なんだと知っておいてほしいんです。そう思ってくれれば私たちは安心できます」


         八十九 

 法子が湧いてきた涙を拭いながら、
「私、神無月くんが青森へいってしまってから、机の中に雅江さんのくれた神無月くんの写真をいつも入れてたの。いつか会えますようにって祈りながら。栄生のお蕎麦屋さんで神無月くんに偶然再会できたときは、何が何だかわからなくなって、舞い上がっちゃって、思わず他人行儀にしちゃった。連れてきてくれたのが和子さんだってわかったのはそれから何カ月もしてから」
 節子が、
「そういうときなのよ、キョウちゃんと和子さんを同じように大切に思うようになるのは。キョウちゃんだって、私たちがそう思ってることを知ってます。とにかく和子さんはキョウちゃんを死の瀬戸際から救い上げた人。和子さんがいなければ、キョウちゃんはいまここにいないんです。恐ろしいわ。キョウちゃんをぜったい死なせない人は和子さんです。もちろんこれからは私たちも死なせませんけど」
「ありがとう。でも、特殊な女なのはおたがいさまよ。みんなでそう思い合ってればいいの。そういう気持ちこそ、おたがい仲良く、力を合わせて生きていくためにいちばん大切なものなんだから。私はキョウちゃんの愛人で、母親で、妻。みんなもそう。そうあることがキョウちゃんの願いだし、幸せなの。でも、世間に対する私たちの顔は、キョウちゃんの一ファンよ。それを忘れないでね」
 女たちはまた激しくうなずいた。千佳子が、
「私は、そんな事情なんか何も知らないで、ただ神無月くんのことが死ぬほど好きだっただけ。ムッちゃんもそうです。だから、神無月くんと生きていくことがどんな形をとってもぜんぜん気にしません。こうしてときどき顔が見られれば、何の問題もなく生きていけます」
 素子が、
「はいはい、みんなで朝ごはん食べて。お姉さん、ほんとにありがとね。キョウちゃんがおらんかったら、あたしの人生、ゼロやったわ」
 法子が、
「私も同じ。神無月くんのための命、神無月くんのための仕事」
 私は半熟の黄身をつつきながら、
「千佳子、これからはぼくの目玉焼きは、黄身を硬くしてね」
「はーい」
 素子がケラケラ笑った。電話が鳴った。カズちゃんが出る。
「あ、大将さん、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。……え、若頭さんから……直人に……そんなにしていただいて、すみません……はい、ええ、そろそろ、一歳半です……ええ、ええ、病気もせず元気にしております……まあ、トモヨさんが写真を……はい、いまおります、替わります」
 カズちゃんから渡された受話器を耳に当てた。
「神無月か、去年はすごかったやないか。おまえのオープンカーの新聞写真な、拡大して額縁に入れて、名古屋の松葉の壁に飾ったわ。ワカがそうせい言ったもんでよ」
「いま名古屋か」
「おう、この一週間だけな。きのうは遅かったで、下っ端以外はみんなまだ寝とる。おまえの声が聞きたなってな。元気そうで何よりや」
「いつも康男のことを思い出すよ」
「泣かせるな。来年からいよいよ中日ドラゴンズの選手やな。がんばれよ。おまえと千年で喧嘩してからまだ九年しか経っとらん。たった九年でここまできよった。むちゃくちゃ苦労してな。見こんだとおり大した男や。キンピカやで」
「ありがとう」
「まあ、世間でとやかく言われて、すったもんだしたら、ワカが何とかしたる。マスコミツブシなんざ、たやすいもんや。おまえが生まれてきた理由はな、生まれっぱなしのまま生きて、人を救って、死んでくことや。じゃまはさせん」
「厄介な問題は起こらないと思う。ドラゴンズでも契約のときから首脳部の人たちに気に入られて、好きにさせてもらってる。だいじょうぶだよ」
「そうか。とにかくのほほんとして、いまの調子でやっとりゃええ。みんなで見守っとるでな。連絡したり、遊びにきたりするな。とにかく、マスコミに殺されんように見張っといたる」
「訪ねていくのもだめか」
「あかん。電話よこせば、こっちから場所を指定する。浅草も名古屋も会いにきたらあかん。おまえはもう、とんでもない有名人だでな。女は問題ない。だれだってオベンチョするでな。そんなのバレても笑い話ですむ。ヤクザはあかん。だれも付き合わん。笑い話ですまんようになる。じゃ、切るぞ。女どもばかりでなく、ガキも大事にしろよ」
 電話を切った。カズちゃんが、
「若頭さんが、北村宛てに、直人のいろんなおもちゃとお年玉を送ったって」
 素子が、
「お年玉って……宝くじみたいな額やないの」
「直人の袖の下だから、私たちとは縁がないものよ」
「ほやね」
「ぼくの新聞写真を、名古屋の組の壁に掲げたらしい。この先、揉め事が起きたら処理してやるって。正々堂々と生きてれば、何の問題も起こらないよ」
 節子が、
「キョウちゃんは世間の風潮と反対のことをするのを正々堂々って言うから、ふつうの人には通じないでしょうね」
「ドラフト外の入団は世間のしきたりに反したかもしれないけど、違法じゃないよ」
 カズちゃんが、
「わかってる。ドラフト外って、巨人とか権威ある球団に入りたくて直接交渉を望む人がやることでしょ? キョウちゃんの場合、ふつうの選手がいきたがらない弱い中日ドラゴンズに入団したわけだから、その意味でも風潮と逆ね。ドラフトにかかってたら、あと一年も待たなくちゃいけなかったわけだし、無視して正解だったわ。世間の目なんか考えずにキョウちゃんを受け入れた中日ドラゴンズこそ、ほんとに正々堂々としてたわ。キョウちゃんを馬鹿にしたり罵ったりする人間より、キョウちゃんのほうがずっとすばらしいとわかってる人は、かならずキョウちゃんに手を差し伸べる」
 みんなごちそうさまをして、後片づけにかかる。千佳子がカズちゃんにしきりに、康男と松葉会のことを訊いている。カズちゃんは千年小学校の喧嘩からはじめて、一連の事情を話していく。
「いい人たちよ。怖くないわ。うちの商売がうまくやっていけるのも、松葉会さんのおかげ。でも、一般の人たちから蛇かサソリみたいに嫌われてるから、親しいということが知れてしまうと、私たちは世間から締め出しを食っちゃうの。プロ野球だってやめさせられちゃう。康男さんやワカさんは、それをとても心配してるのよ」
 私は千佳子に、
「ヤクザというのは、いろいろな権力者の後ろ盾になってやってるのに、世間の建前で排斥されちゃうんだよ」
 カズちゃんが、
「権力者はヤクザを排斥しないのよ。ヤクザの利用価値を知ってるのは権力者だけだから。彼らのおっかなさを、庶民は利用できないもの。利用する権力がないから。世間で言う正道でない仕事をしてるうちのお父さんも、彼らと仲良くしてるという意味で庶民じゃないし、私たちも同じ意味で庶民じゃないわ。表向きは庶民だけど」
 話しているうちに十時半になった。駅までの見送りなのに、高円寺一家はきっちりと服装を整える。私だけがジャージを着ている。いちばん派手な法子よりも目立つ。正月の閑散とした商店街を歩きながらカズちゃんが、
「キクエさん、試験がんばってね。節子さん、キクエさんの追いこみ、手伝ってあげて」
「はい。手伝わなくてもスイスイ受かるんですけどね」
「油断は禁物よ。どんな試験も一番で受かるつもりじゃなくちゃ」
「そうですね。私も勉強し直すつもりでアドバイスします」
 フジのガラス扉に《誠に勝手ながら十二月三十日(月)~一月三日(金)お休みさせていただきます 喫茶フジ店主》と貼紙がしてある。マスターが着物でも着て、炬燵でのんびり猪口を含んでいる姿が浮かぶ。
「マスターは、奥さんいるの?」
「いるわよ、きれいな奥さんが。女も何人かいるみたい」
「このあたりの地主さんなんやろ?」
「この商店街の半分の土地はそうらしいわね。トリアノンの土地もそうよ」
「キョウちゃんに気前よくスパイクをプレゼントするはずやわ」
「キョウちゃんは磁石みたいな人だから、金持ち貧乏関係なく、持ってるものは手から離れちゃう」
 キクエがカズちゃんに、
「東奥日報の取材のときに、節子さんと休みを合わせて一日だけきます」
「わかった、前もって連絡するわ」
 節子が、
「千佳子さん、勉強しっかりね」
「はい、まかせてください」
 改札で二人に唇だけのキスをする。みんなで手を振る。二人仲良く肩を並べてホームへの階段を昇っていった。
「さ、家に帰って、年賀状」
「うちには一枚もきとらんと思うわ」
「きてるわよ。料理教室仲間から」
「ほやろか」
「一通ぐらい。フフ。やっぱりきてないかも。お返しの面倒がなくていいじゃない。お返し書いたら、投函しがてら、御殿山の年賀状とってきてあげる」
 法子が、
「私は、くるとしたら、名古屋のおかあさんと、酔族館のボーイさんと、ホステスさんが何人か」
「私はわかってるの。野辺地の旅館から一通、青森の幼稚園から一通、あとはトモヨさんと、おトキさんと、おかあさん。でもぜんぶこちらから出してるから、返事の必要はないの。それを確かめるだけ。意外な人からきてたら、ちゃっちゃっと書いてしまわないと」
「康男がさっき、おまえが生まれてきた理由は、生まれっぱなしのまま生きて、人を救って、死んでくことだって言った」
「そこにいるってことね。もう百回も聞いたでしょ?」
 カズちゃんが言った。素子が、
「ほんと、いつもしとる話やが。生きてるだけでええって。寺田さんもそれがわかっとるんやね」
「本物の親友だもの。私たちも、松葉会の人たちも、みんなわかってるわ―。キョウちゃんの生まれてきた理由は、自分だけで命を楽しむためじゃないの。すべてを引き受けるように生まれついたの」
「引き受けるの大好きだ。引き受けられるより荷が軽い。千佳子はとうとうぼくに引き摺られる人生になっちゃったけど、後悔はないの?」
「質問のための質問ですね。もうそういう質問はしないでください。引き摺られたいのは私のほうなんです。引き摺ってもらえるなんて思わなかった。どう言っていいかわからないほど幸せです」
「カズちゃん、こりゃ、ぼくはどうすればいいんだろうね」
「どうもしないで、ニヤニヤしてればいいの」
 法子が、
「そうよ。ふつうの男ならうれしくて狂い死にしちゃうだろうけど、神無月くんはそんな暇もないのよ。ニヤニヤしてるしかないでしょ」
 素子が、
「きょうもいまから走るんやろ。バット振って、腕立てして」
「うん。もうひと月もすればキャンプだし、たぶん紅白戦があるだろうしね。最初に度肝を抜いておきたいな」
「北村席で素振り見たとき、ゾーッとしたもん。あんなんにボールが当たったら、ぜんぶホームランになってまうわ」
「素子は父祖の方言をそのまま語り継いでいて、気分がいいね」
「フソ? なんや、それ」
「先祖。ぼくにはそんな言葉ないよ。熊本で生まれて、東京、青森、横浜、名古屋、また青森、名古屋、そして東京だ。典型的なジプシーだから、言葉が落ち着く暇がない。落ち着かないから標準語を使うしかない。カズちゃんも法子もその言葉に合わせてくれてる」
 法子が、
「私はもともと東京弁よ。フソの言葉」
 カズちゃんは相変わらず笑いながら、
「私は小さいころから気取り屋だったから、意識して〈二カ国語〉をしゃべったわ。家族や地元っ子といっしょのときは名古屋弁、大学の友だちや名古屋出身以外の人といるときは標準語。キョウちゃんとめぐり会って以来、キョウちゃんのことだけを思っている時間が長いから、いまは標準語一本。素ちゃんは父祖の言葉を守るというより、不器用だから標準語をしゃべれないのよ。うちの両親と同じ。でもそれは、キョウちゃんの言うとおり気分のいいことよ」
「ようわからんけど、これでええんやろ、キョウちゃん」
「もちろん、すばらしいことだよ」
 三人の華やいだ美しさに、正月の街を暇そうにいく人たちが振り返る。私は黒衣(くろご)よろしく紺色のジャージだ。
「どんな目抜き通りでも目立つね。みんなこわごわ振り向いてる。思わず見惚れてしまうほどの美貌だからだね」
 カズちゃんが、
「キョウちゃん、うれしい?」
「そりゃそうさ」


         九十 

 道ゆく人たちの重厚な着物姿を見てカズちゃんが、
「みんなで着物作ったことあったわよね」
「あった、あった」
「ぜんぜん着ないから、箪笥の奥にしまいっ放しね。いまから着ましょうか」
 法子が、
「私や千佳子さんの分もあります?」
「あるわよ」
「じゃ、下着なしで着ます?」
「だめだめ、すぐキョウちゃんを刺激的しようとするんだから」
「そんなつもりじゃ……」
「法子さんは着物を着る機会が多いけど、下着は穿いてるんでしょう」
「はい、二枚。神無月くんのための貞操帯です」
「ね。無意識なアピールがあるのよ。キョウちゃんがすぐできるようにって。私もフッとそう思ったもの。やっぱりキョウちゃんを刺激するからやめましょう」
 素子が、
「キョウちゃん、うちらが下着穿いとらんと思うと興奮するん?」
「する。全裸よりも」
「不思議やね。どういう服は興奮せん?」
「ジーパン、スラックス、正式の着物。つまり。脱がせにくいもの。そこにたどり着くまでの手続に時間がかかると、萎んじゃう。すぐ到達すれば、うれしいからいつまでも萎まない。勃ちつづけるのは興奮がつづいているという証拠なんだ」
 四人でうなずく。カズちゃんが、
「キョウちゃんとしたいときは、手間がかからないようにしておかなくちゃ。ジーパンなんか穿いてたら、せっかくの名刀がフニャッとなっちゃう」
 法子が、
「女と見たらすぐ興奮する男が聞いたら、びっくりするわね」
「そういうガードを気取る女が多いからよ。ブラジャーや下着の色や形で釣って、男に手間かけさせて喜んでる。好きな男にあそこを触られもしないで感じるもんですか。キョウちゃんならそんなものぜんぶ引きちぎって、すぐオマンコにキスしちゃう」
 がやがやと家に戻り、みんなで賀状を確かめる。カズちゃんには十二通、意外なことに素子に十通、千佳子に七通きていた。
「信じられんわ。ポートのママさん、中野の教室の同級生、名古屋の千鶴、北村の旦那さん夫婦からもきとる」
「きちんとお返しして、来年からは自分も書くようにするのよ」
「はい」
 それぞれお返しを書き終わると、カズちゃんはみんなの返しの年賀状をまとめて持って、ボルボで吉祥寺へ向かった。素子と千佳子と法子は蒲団干しと、洗濯、掃除。私は庭に出て素振りをする。ブッ、ブッという音が力強く響く。百回。バットをもっと軽く感じるために、腕立てを百回。縁側に坐ってしばらく筋肉を休めてから、さらに素振り百回。腹筋五十回背筋五十回。これからは、十年一日、同じことの繰り返しになるだろう。グランドに出ればこれにランニングとダッシュが加わる。
 縁側に四人坐ってコーヒー。
「持久力をつけるには、どうすればいいかな。相変わらずグランド何周かすると、先頭のやつに遅れるんだ。高校まではビリだったから、長足の進歩とはいえるんだけどね。みんなはご愛嬌だと思ってるけど、本人にとっては重大問題だ」
 縁側でしばらく見守っていた千佳子が、
「弁慶にも泣きどころがあったほうがいいと思いますけど。ベースランニングのスピードはどこに出してもナンバーワンなんですから、持久力なんか気にすることないです。どうしても気になるなら、ジムでベルトの上を走ったり、バーベル上げたりしたらどうですか。 あれは瞬発力より持久力を作るためのものでしょう?」
「ジムはシステマティックすぎて、持久力がついた気がしないんだ。やっぱり自然の中を走るしかないな。距離を延ばしてみるか。アスファルトより球場の塀を眺めながらグランドを走ったほうがファイトが湧くんだけど、キャンプまでは仕方ないな。明石にいったらグランドや道路をひたすら走ってみよう。金田投手もただただ走れと言ってた」
「今月も走るんでしょう?」
「もちろん。四日から福田さんが朝と夜の賄いにくるんだ。生活のリズムは万全だ」
 法子が、
「神無月くんは小学校のころから頻脈だったわよね。身体検査のたびに紫色の判子を捺されたって言ってたじゃない。もうすっかりいいの? スタミナがないのはそのせいだと思うんだけど」
「脈が速いだけで、不整脈じゃなかったようだ。運動するときは特に速くなるようだけど、一過性のものですむ」
 素子が、
「そう言えば、キョウちゃん、終わったあと胸の音を聴いたら、ドクドクいっとったことがあったわ。このごろはあたし、自分のことで精いっぱいやから、そんなん忘れとった」
 千佳子は部屋に戻って、家庭の医学をとってきた。
「頻脈のことが載ってます。鼓動が速く拍ちすぎると空拍ちになることが多くなって、血液の対流効率が悪くなるんですって。これね、持久力不足の原因は。治そうとして走りすぎるのは危険よ。空拍ちは心停止発作を引き起こすことがあるって書いてあるわ」
「やだ! 無理せんといて。セックスもやりすぎるのはあかんがね」
 法子が、
「ほんとだ。もうぜったいやめましょう」
 私は、
「ほんとにオーバーだな。だいじょうぶ。もうすっかりちがうからだになったから。運動量を適度にしてれば問題ない」
 カズちゃんが帰ってきた。
「十通ぐらいきてたわ。返信は要らないひとばかりよ。遅れて出したら失礼になっちゃう。来年からは書いてあげなさい」
 水原監督、村迫代表、小山オーナー、久保田さん、名古屋市長、もろもろの銀行。水原監督はじめ四人の手書きの賀状には、胸底が温まるようなじつがこもっていた。
 ―一日でも長く、一歩でも多くきみと歩みたい。父親であれたらと思う。
 ―いつも見つめています。眼を離すことはありません。どうか静かな心で野球をなさってください。
 ―貴君の栄光に浴する日々が近いと信じている。義侠の徒である貴君を全力でバックアップする。
 ―この一本に大ホームランの願いをこめて。神無月さんの勇姿を思い浮かべながら。
 名古屋市長と銀行の賀状は、一年の抱負を語り時代の風雲を慮るふうの型どおりの印刷物だった。
 思うところもなく、家の物音を聞きながら夕方まで机に向かった。書棚にあるのにカズちゃんが話題にもしなかった本を開く。北原武夫の『告白的女性論』。十年前の本だ。
 体験談。十歳も年上の宇野千代と結婚した男が書いた三十項目の女に対する感想。女がわかっているようでまったくわかっていないニヒリストの虚言。彼は女からモテたことはあっても、命懸けで愛されたことはない。
 いわく―相互に相求め惹かれるような相手に人間が出会うことは、人生では滅多になく、それはまさしく幸運な出会いというほかないが、その相互に相惹かれること自体がすでに相当に怪しげなことであり、人間の心の美しさなどとはかなり遠い現れだということを知らされるにしたがって、ぼくの中ではしだいにその夢が醒めてきた。
 
 さかしらなことを言う。恋愛のすべては偶発だ。偶発は怪しげに決まっている。怪しげなことを信じ、信頼を貫徹するのが強く美しい心というものだ。渾身の努力で、あるいは病的な無意識で相思相愛の夢を覚まさないことこそ、愛情の到達点だ。

  男は女のアクメの激しさを愛の深さと錯覚する。

 とも書いてある。錯覚ではない。この男は愛されていたのだ。深い愛を感じながら激烈なアクメに達する女のからだの真実を知りもしないで、何を悟り澄ましたことを言っているのだ。女の渾身の反応を自分の〈透徹した〉知性よりも一段低く見る凡庸さは、石原慎太郎とまったく同じだ。しかし私は、こういう文章をするどい洞察と観じて、巷間の似非インテリどもは喜ぶだろうと忖度した。カズちゃんが話題にしなかったのは、話題にする価値もない本だったからだ。
 本を閉じ、風呂に入ろうとすると、素子が連れ立った。浴槽でのごく短い時間のセックスで彼女は心ゆくまで満足し、感謝のキスをすると浮きうきと居間に戻った。射精をしなかった。
 和気藹々とカズちゃんと素子が正月の特番を観ているあいだ、法子は私を隣部屋に誘い、私のからだを気遣った二分ほどのセックスをした。好色の心と胸底にある愛情をこき混ぜて、ゆっくりと反応を見つめながら腰を動かした。それがかえって丁寧に扱われていると感じるようで、法子は強く悦びの反応を返してよこした。射精をしなかった。そのすぐあと、カズちゃんと三分ほどの姫初めをした。
「キョウちゃん、もうだめ、限界、イキはじめるわね、たくさんイクわね、あああ、キョウちゃん愛してる、愛してる、死ぬほど好きよ!」
 きちんと射精をした。
 それからは昨日と同じように一日が進行し、四人で楽しく夕食を終えたあと、私は中野駅まで往復四十分余りのランニングに出ることができた。まったく疲労はなかった。
         †
 一月二日火曜日。晴。寒い。一日炬燵に入ってテレビを観る。女たちは火事とゴロゴロ半々。コマーシャルに目と耳を凝らす。
  ・日立キドカラー
  ・ホンダN360
  ・パブロンゴールド顆粒
  ・シャープハイカラー歓(よろこび)
  ・リポビタンD
  ・エメロンシャンプー
  ・洗濯機洗剤ダッシュ
  ・さくらカラー
  ・コニカFTA
  ・スズキスポーツシリーズ
  ・ヤクルト
  ・ハウスバーモントカレー
  ・スペアミントハロー
  ・不二家ルックチョコレート
  ・猛烈ダッシュ
 飽きたので、今年の日本の社会的状況という特番を観る。耳に残った言葉。いざなぎ景気、高速時代、東名高速道路、佐藤栄作、サイケ、カラーテレビの普及は二十パーセント以下、アンアン、日米安保、ベトナム反戦運動、ゴダール、プラハの春。
 飽きたので、中野まで走りに出る。帰って、シャワー。カズちゃんたちが氷川神社に初詣にいくと言うので、下駄を突っかけてついていく。気象の神様を祀ってある神社だ。
 鋼鉄製の黒い鳥居。広くない境内とわずかな緑がすがすがしい。なぜか参拝客は女ばかりだ。本殿で、全員百円投入。気象神社の絵馬はすべて下駄の形。あーした天気になあれか。シャレている。千佳子と法子は氷川神社のほうのふつうの絵馬を買って供えた。名大合格と商売繁盛。手作り版画の御朱印を渡す巫女たちが漫画のように明るくてかわいらしい。思わず見惚れる。カズちゃんは交通安全ステッカーを百円で買う。素子は赤い袋のお守りを買って私に持たせた。気象神社には参らなかった。
         †  
 一月三日金曜日。晴。二日つづけて零下。朝の食卓でカズちゃんが言った。
「グローブとバットは、一月の二十五日までに北村席に送っておきます。私たちはひと月遅れて名古屋にいくけど、心配しないでね。キャンプの無事を祈ってます。名古屋に出発する前の予定は東奥日報さんの取材だけにして、あとは自主トレに打ちこんでね。あわただしい感じがするから。今度逢えるのは、出発直前と、二月の末よ」
「わかった。出発前に電話する」
 夜遅く、法子と同じ電車で吉祥寺に帰った。ビニール袋に中野で買った漫画を入れて持った。
「名古屋にいくのが一年遅れちゃうけど、ごめんね」
「ぼくのことを思ってのことだし、じゅうぶん計画を立てたうえだからね。ただ、店が傾いたりしたら、すぐ帰ってきたほうがいいと思う」
「傾くのは、私が名古屋に戻ったあとよ」
「とすると、来年の一月に名古屋の店で会うときは、二十歳の女帝になってるね」
「八月がこないとまだ十九歳よ。名古屋には、たぶん三月と十一月あたりに逢いにいきます。三月はオープン戦が終わったあと、十一月は公式戦が終わったあと。あとは東京で逢えるチャンスがあったら逢いましょうね。ノラに年に一度でも飲みにいってあげて。おかあさんの顔を見て微笑んであげるだけでいいの」
「わかった。約束する」
 マンションまで送っていき、階段の下で口づけをして別れた。
 家に帰り着くと、二日、三日に届いたのだろう、じっちゃと、加藤雅江と、カズちゃんの両親と、トモヨさんから年賀状がきていた。それぞれ、心を逸らさないひとことが添えてあった。中に水野からのものが混じっていた。年賀の挨拶につづけて、

 ドラゴンズ入団おめでとう。きみが選手をつづけるかぎり応援する。例の検査、協力よろしく。一泊してもらう。
 一月十八日(土)午後五時、中井駅改札で待つ。 (電)×××―××××

 玄関を上がって部屋を見て回ると、きのうまで山口が生活していたはずだが、どこにも痕跡はなかった。きれいに片づいていた。すぐに賀状の返しを書いた。


         九十一

 一月四日土曜日。六時起床。マイナス一・三度。よく寝た。だれも訪ねてこない。ひさしぶりに骨の髄までくつろぐ。耳鳴り極小。ふつうの排便、シャワー、歯磨き。庭で素振り百八十本。
 快晴だがさすがに冷える。自然文化園へランニングに出たついでに、賀状を投函し、駅の売店で平凡パンチなど軽そうな雑誌を何冊か買ってくる。こういうものも一度は読んでおこうという気になる。
 インスタントラーメンを自分で調理し、それを食いながら、ビニール袋から漫画を出してじっくり読む。あらためて読む永島慎二の漫画には、かつて評価したほどの才能が感じられなかった。巨人の星、伊賀の影丸、ゲゲゲの鬼太郎、ハリスの旋風、おそ松くん、火の鳥、ぺらぺらやる。ぜんぶウンコだった。
 駅で買ってきた雑誌をめくって別種のクソ溜めを覗く。平凡パンチのグラビアに載っているカルーセル麻紀とかいう女(?)のインタビュー記事が載っていた。十九歳でタマを取っただの、いずれモロッコで穴を造るだの、石原裕次郎にかわいがられているだのといったゴタクにつづけて、このゲイボーイが世間を席巻していることが華々しい新文化として論評してある。悪臭が激しすぎて、買ってきたほかの雑誌も開かずにすべてゴミ箱に捨てた。
 テレビを観ることにする。短いスカートがまくれ上がって「オー、モーレツ」というコマーシャルがよくわからない。「あっと驚くタメゴロー」というのもよくわからない。わからないと言えば、この数日のうちに観た「アウト、セーフ、ヨヨイノヨイ」というジャンケンゲームもよくわからなかった。わからないということは、わからないものが〈まちがっている〉のではなく、わからない自分の感覚が根っからズレているということだろう。そう考えるしかない。根っから感覚がズレているのだから、感覚の焦点を合わせることは並大抵の努力ではできない。ズレを修正することに価値を見出していない以上、努力する必要もない。
 朝のニュースに切り替える。二日の一般参賀の日に、奥崎謙三という男が、天皇に向けてパチンコ玉を四発撃って逮捕されたと報じている。パチンコ玉はぜんぶ天皇の足もとに当たって外れたということだ。戦争で銃を担った男が、そこまで射的が下手なはずがない。四発目は戦友の名を叫びながら射ったと聞き、わかった。天皇に命中させるつもりなどなかったのだ。マスコミ人たちは、彼の行動を反天皇制という思想の枠にはめたくなるだろうが、思想にこだわる人間は直接行動をとらない。思想を紙に向かって書きつける。特定の対象そのものを害するつもりがないということから考えて、おそらく奥崎という男の心の深部には〈体制〉にたいする悲しい狂気じみた恨みがある。
 福田さんが朝食の支度にやってきた。
「はい、きのうときょうの朝日新聞です」
 キッチンテーブルでコーヒーを飲みながら、きのうの朝刊をめくって奥崎謙三の暴力的な人生歴(軍隊時代からたびたび暴力事件を起こし、昭和三十一年には人を刺し殺している)に目を通していると、ふらりとよしのりがやってきた。
「どうした、こんな早いうちから。また逢う日まで、じゃなかったのか」
「〈また〉の日がなかなかこない永の別れになりそうなんでな。名残を惜しみにきた。木莬から直行だ。女中がいてくれて助かったぜ。腹へった」
 つまみも食わずに酒を飲んできたのだろう。福田さんが目玉焼きを焼いている。
「女中じゃない。福田さんだ」
 福田さんはにこやかに笑い、
「ラビエンではおいしいカクテル、ごちそうさまでした。青森以来のお友だちで、遠いご親戚でしたね。横山さんは美男子ですね」
「あんたもいけてる顔だぜ。ちょっと年食ってるけどな」
「いまお味噌汁作ってます。キャベツとウィンナの炒めものと、目玉焼きと、白菜の浅漬け、納豆、海苔、それにお味噌汁でいいですか」
「じゅうぶんだよ」
「神無月は白菜の浅漬けが好きなんだ。アジの開きとね。味噌汁は、なめこ汁、ワカメと豆腐と油揚げ、それかキャベツのみか、ジャガイモとタマネギ」
「神無月さんのことは、何でもご存知なんですね」
「竹馬の友だよ。と言っても、こいつは俺に気づいてなかったけどね。中三のときに初めて自己紹介されたと思ってるみたいだが、俺は幼稚園のころから知ってたんだ。それから五年間ベッタリだ」
「長い片思いですね」
「片想い……か」
 口をへの字に結ぶ。
「雅子は、正月はどうやってすごしたの?」
「大晦日と元日は、子供たちとのんびりすごしました。子供たちが帰ってからは、ほとんど菊田さんのところに入り浸り。強い人ですね、菊田さんて。神無月さんに逢えなくても、ケロッとして、自分のペースをぜったい崩さない。見習わなくちゃ」
「新米は神無月のじゃまをしないようにしろよ。女が何人もいるんだからな」
「わかってます。菊田さんにも重々言われてます」
「よしのり、なんだかおかしいぞ。言葉にトゲがある。女と別れたことがショックなのか」
「山ちゃんから聞いたんだな。ショックというより、頭にきた。女が言うには、子供はあんたの顔で生まれてきさえすればいい、きちんと教育する、どんないい男も教育がなければ馬鹿に見える、ときやがった。離婚届にサインする場所でだぜ。向こうの両親が同情するみたいな顔してたよ」
「割り切ってる女だな。よしのりは俳優顔負けの美男子だからね」
「ちゃんと俺の話を聞きたくないんだな」
 聞きたくなかった。
「悪かった。ちゃんと聞く」
「七月の末に仕込んだんだよ。生まれるのは今年の五月の末か、遅くても六月のアタマには生まれる予定だ。五月生まれ。神無月の分身かと思って、なんかうれしい気持ちになってさ。実物を見たらもっとうれしい気持ちになるんだろうなって。トモヨさんは四十近かったよな。立派に産んだなあ。年とっててもいいハタケになれるんだよね。俺も年増を探すか。トモヨさんの手に余ったら、俺が育ててもいいなんて思ってたんだが、手に余るどころか金持ちの御曹司になっちまった。しかしたまげたなあ。神無月に子供まで生まれるとはなあ」
 言うことに脈絡がない。私は、
「トモヨさんと直人を見てると、理想の母子に思える。直人と選手交代して、あのままぼくが育っていきたくなる」
 よしのりは大きくうなずきながら、
「じつに何と言うか、大した女だよ。あの境遇から子供を産む決意をして、ラッキーだったとはいえ、有名な夫に迷惑かけないようにしながら、ひっそり身を退いて立派に子育てをしてる。そこらへんの女権論者に、トモヨさんの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいぜ」
「二人目を妊娠した」
「そりゃまた! おまえもよくやるよ。二人目か。……しかし、シングルマザーの細腕じゃ、子供二人はアウトだ」
 よしのりにはトモヨさんの偉大さがわかっていない。
「そうかもしれないね。でも、ぼくなりに思うところはあるんだ。トモヨさん母子が不幸になるので、おふくろに子供のことは決してしゃべらないようにしてる。しゃべる以前におふくろには会いもしないけどね。トモヨさんも子供も、ぼくの親族に会えず、ある種日陰の身で生きていかなくちゃいけないということだ。正式な父親が家庭にいないというのはあまりにも子供が哀れだ。子供も大きくなれば、自分の都合のいいときだけかよってくる父親など、ただの胡散臭い情夫と見なすだろうね」
 よしのりの表情が引きつった。
「―おまえのそんな悩みなんか、俺のに比べたら小さなもんだ。……ちがうか?」
 自分を憐れむ悩みの子に逆戻りしている。私は苛立った。
 ―解決のあてのある悩みじゃなく、解決できない悲しみだ。
 苛立つ自分に幼さを感じた。どんな感情の機微も、説明できないときは、そして、説明できたとしてもそれを進んで理解しようとしない他人の思惑が予想できるときは、感情を掻き立てるのは幼いことだ。私は言うべき言葉がなかった。しかし、悪意もないのに、彼の憂鬱が感染したせいで自分が押し黙っていると取られるのはつらい。
「うん、大した悩みじゃない。ぼくは幸運まみれの人間だから、悩みに襲われるチャンスがないよ」
「何でもありだ、おまえは。しかし、二人目の子か……見たいな」
 雑念と嫉妬の入り混じった声をぼんやり聞いているうちに、よしのりの顔を遠く感じはじめた。話をすることも、表情を作って応えることも難しくなってきた。
「よしのり、ちょっと、バットを振る。これだけはサボれないから」
「なんだ、じゃ俺、帰るわ」
「帰らなくていい。適当にどの部屋でもいいから蒲団出して寝てくれ」
「いや、いい。めし食ったら帰って寝る。もう一つ、話をしてからだ」
「お食事、支度できましたよ。横山さんも食べてください。私もいただきます」
「サンキュー、とにかく腹へった」
 よしのりはみっともない食欲でめしをむしゃむしゃやる。
「何だもう一つの話って」
「おまえのむかしの詩のノート持って、神田の出版社にいってきた」
「またそれか。その話はこのあいだ決着がついたろ。つまらないことを!」
「ああ、つまらないことをしちゃったよ」
 暗い眼を私に向ける。
「だいたい、ぼくの詩のノートなんてまだ持ってたの」
「ああ、いつごろか忘れたが、花の木の家の机にあった一冊をカズちゃんに断って借りていったのがあった。清書が終わってるから持ってっていいと言ったんでな。おまえには黙ってたけど、いままでもいくつか出版社を回って、ぜんぶ門前払いだった」
 私は呆れて笑いながら、
「あたりまえだ。あんなくだらないもの」
「何だって!」
「まがいものだ。あんなもの見たとしても、飛ばし読みして放り出すだけだ。彼らはすでに世間評価を得ている、しかも才能あふれた人間が、傑作を手に儀礼を尽くして三拝九拝したとき、ようやく読んでみる気になるんだ。無能者が駄作を手に闖入(ちんにゅう)して、ほれ読んでくれなんて突き出しても、バカヤロウ、帰れ、と言うだけだ。目に浮かぶようにわかる」
「……ヒゲ生やした中年の男がやってきてさ、椅子にふんぞり返ってぺらぺらめくるのよ。読んでないんだ。書いた本人が顔を出すのは重要な儀式だ、なんて言いやがって、小馬鹿にしたように笑うのよ」
「だから専門家が駄作を見たらそれがあたりまえの態度だ。馬鹿にしたんじゃない。帰ったら本人に伝えときますぐらいで引き揚げればよかったんだ」
「それじゃ口惜しいだろう。一つでも詩を読んでくれと頼んだよ。またぺらぺらめくるんだ。結局読みたくないんだな。鼻の頭をつまんでこう言いやがった。息が詰まる、真剣すぎるね、醇風美俗という感じかな、力まかせで肩が凝っちゃうなあ、奔放というのでもない、この人、言葉の袋小路に入っちゃってんじゃないの、とこうだ」
「才能がないってことを遠回しに言ってくれたんだよ。親切な人だ」
 福田さんが唇をふるわせた。
「で、横山さんは、どうしたんですか」
「こう言ってやったよ。腹をくくってしゃべってるの? 芸術家は真剣に決まってるでしょ、こいつは潜んでるんだよ、才能を抱えてじっとして発掘されるのを待ってるんだ、あんたは残酷で無責任な最低野郎だ、あんたのおかげで神無月の人生は風前の灯だ、くだらない残酷さを楽しむために、水を求めて荒野を旅する高貴な生きものを殺すのか、水のありかぐらい教えてやれ、とね。するとやっこさん、きみはまちがってる、身のほど知らずに荒野に踏みこんだ無能者を殺すのは残虐な行為じゃない、倫理的な善行だ、へたに希望を持って歩かせたらもっと残酷な形で死んでしまうからね、だから何に代えても行ないたい行為だ、わかる? わからないだろうな、友人に芸術家のまねをするのはやめてもとの道に引き返せと言ってやりなさい」
 その男はノートをペラペラとやった以外は理が通っている。いや、ペラペラも速読術を心得ているとしたら、まったく理が通っている。
「勝負あった。彼はまちがってない。たしかに芸術家のまねごとだ。もしぼくがほんものの芸術家なら、芸術家のまねをする必要がないんだ。ほんものなら何をしようと自由だし、何をしても他人には理解できない神聖な行為だと目されると思う。理解できないものは批判されたり、口出しされたりすることはない。まあ、ほんものの芸術家というのがどうやって大勢の人に知られるようになるのか、大勢の人に知られた人間しかほんものの芸術家と呼ばないのか、というのはぼくの頭じゃ難しすぎる問題だ。そんなことを考えるより、ノンビリ思うがままに文章を書いてたほうがいい。それを人に説明するのは、風の香りや心臓の鼓動を説明するようなものだ、懇切丁寧に説明する必要もない。ただぼくは、書くことが好きな素人だ」
「……やつの結論はこうだった。才能のある人間なら、いずれ衆に抜きん出て詩壇に出てくるだろうし、あえてきみが歩き回る必要なんかないんじゃないの―。私たちはいろんな才能を見てきてる、一目でわかるんだよ、だめなものはね」
 よしのりの表情はこれ以上ないくらい暗くなった。
「そ、だめなものはすぐわかる。たった一行から立ち上がる霊気でわかる。ぼくは天才じゃないから、そんな冷気を醸しようがない。何度も言うけど、とにかく書くことが好きな素人なんだよ」
 福田さんが、
「神無月さんに才能がないって言うんですか! そういう言い方は、ちょっと薄汚い感じがします。一目でわかるというのが、詐欺くさいです。じっくり読んでわかると言うのなら、うなずけますけど」
「福田さん、相手は文学の目利きだよ。じっくり読む必要なんかないんだ。名前を見ればぼくがいま売り出し中のプロ野球選手であることぐらいすぐわかる。だから興味を持って二、三行でも読んでみたんだ。親切にね。しかし箸にも棒にもかからない詩だということは、二、三行目を走らせただけで一目瞭然だ。プロの文章人になるのはおやめなさいと言ってくれたんだ。ぼくはプロにならない。いや、なれない。ただ書きつづけるだけだ」


         九十二

 よしのりは腿をこぶしで叩き、
「福田さん、あんたの言うとおり、冷たい水を背中へ滴り落とすようなやつらのやり口は薄汚い感じだ」
「冷たくもなんともないよ。可能性があるかもしれないと思って少しでも時間をとってくれた態度に厚意を感じる」
「本気で言ってるんじゃないだろうな」
「本気だ。よしのりは目利きじゃない」
「たしかに専門家じゃない。しかし、人間の魂には敏感な人間だ。おまえは天才だ、少なくとも俺の魂を揺すぶる天才だ―それはまぎれもない事実だ。もともと才能のない人間は、こんな仕打ちを受ければもちろん尻尾を巻くだろう。ああ、見破られたってな。しかし、才能のある人間の中でも政治性のある人間はあの手この手でやり返す。ところがだ、政治性のない人間は、―だいたいそういうやつは大天才なんだが、まったくやり返さないで、自分はだめだと思いこんで、孤独な創造生活にこもる。マーラーしかり、ラフマニノフしかり。精神病院にまで入っちまうやつもいる。外見は尻尾を巻いた形になる。もともと巻いた尻尾しか持ってない人間も、政治性のなさで才能を宝箱の中にしまいこんでしまう人間も、やつらの眼中にはない。登竜門でも何でも突破してのし上がってくる人間だけが、やつらの眼鏡にかなう。代理人が原稿を持ってくるような人間に才能があるわけがない、儀式を重んじない人間に才能はない、それがやつらの信念だ」
「よしのり、もういいかげんぼくのことは放っておけよ。おまえのほうこそ信念の人だ」
 私は笑いだした。純朴で幼い、そしてすばらしい敗北の議論だ。聞き応えがある。もちろん、私のことを言ってるのだろうが、私は彼らの議論で喋(ちょう)々されるような人間ではない。勝利にも敗北にも関与しない凡夫だ。凡夫も、謬見を正す権利がある。
「プロは、漫画のコマ送りみたいなことをしても、一目でわかるんだよ。目がスローモーションカメラみたいになってるんだ。自分で詩を書けないからこそ、虚心坦懐に、他人の詩の欠陥を言えるのさ。……もともとぼくは野球しか能のない人間だったんだから、詩を書く才能なんかあるはずがない。そこを見抜いたか、いや、まじめなにおいがあったとしても、そのまじめさから大成をにおわせる何かが備わっていない、そこを見抜いたか。まあ、どうでもいいことだけど。見抜かれようと、見抜かれまいと、書きたいから書いているというぼくの日常とは何の関わりもない」
 よしのりは目を充血させた。
「おまえな、冷静そうなことをしゃべってるが、口とは裏腹に、何とも言えない残念そうな顔をしてるぞ。ちがうか? 胸が痛いよ」
「残念じゃないよ。自分の才能はずっと疑ってきたから」
 福田さんは私に静かに訊いた。
「私は神無月さんの詩を読んだことはありませんけど、すごい才能だということは北村さんや山口さんから聞いています。哀しいことですけど、社会というのは、どういう手段でもその道で有名になった人しか相手にしないものです。でも神無月さん、あなたはそんなひどいことを言われて、吹きさらしの野原にいるみたいな気持ちになりませんか」
「ならない。とにかく、どうでもいいんだ。現実にぼくは、自由に詩や小説を書いてるんだから。―書く人がいて、書かれた作品がある、それだけだよ。心に思い定めた真実を語ることは〈芸術家〉でなくてもできる」
 福田さんは焼きつくような目で私を見つめている。よしのりは気まずそうな沈黙と渋面をしばらくつづけた。彼は私の話を無表情に受け流すことができない。そんなことは一度もあったためしがない。
「余計なことをしたと思ってるんだろ。俺はおまえとちがって、忠実な犬の根性で生きてるんでな、毛並のはっきりした飼い主を見ると、うれしくて尻尾を振りたくなるんだ。尻尾を振るだけじゃない。自慢して走り回りたくなる」
「毛並? ぼくの毛並? でたらめを言うなよ。ぼくの氏(うじ)育ちを知ってるだろう。最下等の部類だ。だいたい飼い主なんて役回りをぼくが果たしてるんじゃないことぐらい、おまえだってよくわかってるはずじゃないか。ぼくこそ、人にいろいろなものを恵んでもらってやっと生きてる人間だ。でも、自分の口からは自分を犬とは言わないぞ。自分を犬だなんて言うやつにかぎって、権力がほしくて仕方ないものだ」
 よしのりが目の窪を指先で拭いている。私は彼を傷つけたくない。女の肌に接しているときも、わびしく一人寝をする彼の顔がふとよぎることがある。しかし面と向かっていったんしゃべりだすと、愛情のかけらもない口調になってしまう。
「……もういい、神無月、俺をいじめるな。俺にはおまえしかいないんだから。……なあ神無月、おまえがどうでもいいと言うなら、きっとおまえにとって芸術なんかどうでもいいものなんだろう。しかし、山ちゃんや俺にとってはちがう。芸術というのは学問とはちがって、人間の魂を表現するものなんだ。人間の精髄なんだよ。表現者が天才であるということは証明できないにしても、天才だと感じられたら、もう放っておけないんだ。おまえの言う具体的な日常を、芸術まみれにしてやりたくてヤキモキするんだよ。野球選手かサッカー選手か知らないが、おまえの芸術の才能と何の関係がある。おまえの氏育ちがどうしたって? なるほど、それはおまえの生活が築き上げてきたものをたっぷり内蔵しているだろうさ。しかしそんなものは、芸術的な才能と何の関係もない。重要なのは、おまえのやっていることは芸術であり、おまえは正真正銘の芸術的天才だということだ。おまえの詩を何度も読んで、俺なりの読書範囲の中で相対的に確信したよ。これでも俺は相当な読書家だ。山ちゃんだって同じだ。そこで、おまえの天才性を俺たちだけの宝ものにしないで、広く知らしめたいと思ったんだ。最低限、それだけはわかってくれ」
「わかった。ぼくは友人の行動には口を挟まないよ。でも、だれに知らしめるんだ?」
「俺たちのような人間にだ」
「さっきの人たちの儀式を通してか?」
「そうだ。しかし、もうやつらは通過させない。懲りた。権威的な人間はおまえの詩に感動しない。それどころか無知だとか不教養だとか言って馬鹿にする。いずれまとめて、そうだな、おまえがプロ野球界で名を上げたら、まとめて自費出版する」
 よしのりはふさぎこんでいた。福田さんが、
「神無月さんは権威的な人じゃありませんけど……ただやりたい野球をやってきた結果、思わぬ権威を得ました。文章もそんなふうに自然な成りゆきにまかせればいいんじゃないでしょうか」
 よしのりは首を振りながら、
「福田さん、それだって、最終的に神無月が野球人として権威を得たから、あんたは余裕を持ってしゃべれるんだ。ただ机で書いてるだけじゃ、野球みたいにスカウトはこないんだよ。俺だって権威的な人間じゃないさ。俺にも苦しい事情がある。俺の〈売り〉は、たかがバーテンのくせにものごとに精通しているというところにあるから、少し世情から逸れた知識の収集が欠かせなくなる。仕事を終えて寮部屋に帰ると、何時間も畳に寝転がって、岩波新書やら、ベストセラーやら、週刊誌やら、暗記にかかりきりになる。それが一区切りつくのが、だいたい夜中の三時か四時だ。このあいだは法律記事なんか読んで『家族を形成することは、人間本性の欲求をかなえるためであっても、結局は法律と無関係でありえない』というくだらない言い回しを暗記した。ついこのあいだまでは『大衆は指導者に対して寛容である』なんて科白を得意にしていた。神無月が言うには、俺は常人と比べて驚くほどの暗記力を持っているんだそうだ。そういえば、俺はいままで神無月が書いた詩のほとんどをそっくり暗記している。俺も神無月といっしょに大学にいっていたら、きっと、神無月以上に教養を積めたかもしれない。……俺は馬鹿か……これが神無月の言う、どんな小さな権威でも望んでいるというやつだ。しかし、神無月、才能のない人間にはそういう道がいちばんよく似合ってるんだよ。高慢なおまえには似合わない。おまえのたった一つの悪徳が高慢だとすれば、おまえはそれを立派に隠すことを心得ている。さっきの口惜しそうな顔は何だ。見ているのがつらかったぞ。俺はおまえに対して何も言うことはない。おまえは完全で、すべてのものにまさっている。ただ―いまのままではおまえは文学の歴史に残らないだろう。そのことをおまえは永遠にわからない。やつらの儀式を通過しなければ、そして檜舞台に上がらなければ、やつらが作りあげてきた文学史には残してもらえないんだ。おまえがそのことに気づかないのは不思議だ。ま、それでもいいさ。俺は、もうやつらを通さない。自費出版でおまえを世に残してやる」
 私は笑いながら、
「口惜しそうにした覚えはないんだけどね。気づかないんじゃなくて、気づけないとあきらめてくれ。それから、ぼくは世に残りたくなんかない。現瞬を充実して生きて、そして死にたいんだ。そんなぼくを、よしのりは好きなんだろう?」
「ああそうだ! 福田さん、おかわり!」
 よしのりはそれから一時間ほどかけて、いのちの記録から詩だけを原稿用紙に写し、すっかり機嫌を直して帰っていった。福田さんが、
「うるわしい友情ね」
 と感に堪えたように言った。私はうなずき、
「山口と、もう一人、松葉会組員の寺田康男は特別なんだ。この二人がいなかったら、ぼくは友情というものの存在を知らなかった。よしのりは友情というのとはちがう。腐れ縁だ。言葉は美しいけど、軽い。仲間としては尊重できても、友人としては悩ましい」
「……松葉会って、暴力団ですよね?」
「そう。でもそんなに怖がらなくていいよ。暴力団員にはすぐれた人間が多い。世間から外れていても、人間の真実から外れていない」
「……真実って、何でしょう」
「胸の内に本能的に湧いてくる正義、かな。自分も含めた、人間の泣きどころだね。真実をサディスティックに語ったりすれば、すみやかに排斥されてしまう。それはずっとむかしからのしきたりだ。真実に鞭打たれるマゾ以外の人たちに飽きられちゃうしね。飽きないのは本人だけ。各時代の芸術家のように〈新しさ〉という事実を語るほうが強力で、穏やかだ」
 福田さんは不得要領にうなずいた。
 十一時からジムに出る。一とおり終えてジャグジー風呂。館内の食堂でカレーを食って帰る。
         †
 一月五日日曜日。朝、文化園を三周したあと、吉祥寺通りを二往復のランニング。福田さんがいっしょに朝めしを食って帰ってから、すぐに五百野にとりかかる。川原小学校。ひろゆきちゃんの自転車。
 昼めし、コーヒーのみ。
 夕方、福田さんが食事の支度をしているときに、御池が松尾の件を電話してきた。
「おひさしぶりです。元気にしとりますか」
「いたって元気だ」
「入団契約以来、忙しく暮らしてらっしゃると思って電話しませんでした。来月からキャンプですね。どうかケガばせんように、がんばってください」
「ありがとう。もう東京には、後楽園か神宮か川崎の試合しか戻ってこれなくなる。山口や横山とときどき連絡し合って、噂を聞いといてください」
「新聞読めばわかるとです」
「十八日の土曜日に中井の友人を訪ねるので、そのときにきみのところに寄るかもしれない。たしかきみの家は中井だったよね」
「はい」
「確約はできないけど」
「期待して待っとります。松尾さんのことですが、いまさら禁酒しても間に合わんほど心臓が弱っとります。いずれ熊本の病院で、ペースメーカーば入れるらしかです。今年は半期、休学せんばならんでしょう。親父さんの命令です」
「じゃ、熊本に帰ったの?」
「はい。ところで、十一日の土曜日に、牧舎の隣のちずるという飲み屋の二階で飲み会があるんですが、きませんか。六時です」
「集まるのはあのメンバー?」
「はい。千円の割り勘です。……松尾さんがその日だけ熊本から出てくるとです。プロにいく前の神無月さんに会いたか言うて。ペースメーカーを入れる前の飲み納めだと」
「飲むの?」
「水割り一、二杯でやめる言っとります」
「わかった。かならずいく」
 夕食は中華飯。きわめて美味。福田さんが皿を洗いながら背中で言う。
「小説、根をつめないでくださいね。神無月さんは、ふつうのスポーツ選手の暮らし方をしてないので、心配になります」
「だいじょうぶ。小説で疲れるのは頭だけだから」
 福田さんは台所を清潔にして帰った。
 居間の炬燵で五百野にとりかかる。原初の記憶の項。あまりない。鉛筆がしばらく止まったので、一人で飲みに出た。あのアドロの店へいく。一杯飲んで、歌を聞かせてもらうついでに、雑誌やテレビよりもまともな世間話でも聞きたいと思った。


         九十三

 鈴を鳴らしてドアを入る。客が立てこんでいる。あの女のほかに人手はなく、一人で忙しそうに立ち働いている。
「満員ですね」
「あらァ、ひさしぶり。あけましておめでとうございます。混んでて悪いけど、空いてる席に坐って」
 カウンターの真ん中あたりに肩をすぼめて坐り、ビールと、ニンジンスティックを頼む。カウンターの奥の棚で、めずらしいオープンデッキが回っている。
「あ、ミルドレッド・ベイリーのロッキンチェア・レディ」
「よく知ってるわね。ジャズは好き?」
「女性ボーカルは特に。あのオープンデッキ、高級品ですね」
「そうね、私のたった一つのオーディオ。ゆっくりしてってね」
 私のコップにビールをついで、ほかの客へ回っていった。右隣の客が、
「野生的な美男子だな。ん? 見たことあるぞ」
 左隣が即座に、
「電撃の神無月だよ。ガタイでかいし、まちがいない」
「このあいだ床屋さんにも言われました。人ちがいです」
「御殿山に住んでるってもっぱらの噂だぜ。とぼけなくてもだいじょうぶだよ。騒ぎゃしないから」
 三人でコップを打ち合わせた。
「あの人の歌はすごいんですよ」
「そりゃそうだ、もと少女歌手だからな」
「そうなんですか。芸名は?」
「さあ知らんな。昭和の十年代に菊池章子と同じコロンビアで歌ってたってのは聞いたことがある」
「菊池章子……星の流れに。彼女も少女歌手だったのか」
 アドロが寄ってくる。唇からこぼれる八重歯の愛らしさが、皺の寄った目の難点を打ち消している。そのふくよかなあご先から、ふっくらとしたからだをイメージしたが、食指は動かなかった。芸能人根性の女にリビドーは湧かない。
「セドラってどういう意味ですか」
「さあ、名前といっしょに譲り受けた居抜きの店だから。あんた、有名人でしょ。東大の天馬……新聞で写真見たわよ」
 私は黙って下を向いた。
「オッケー、わかった。静かに飲んでって」
「きょうは歌わないんですか?」
「無理。今度ね」
 アドロは、自分でついだビールグラスを私のグラスに打ち当てた。そして一口飲むとまたほかの客へ移っていった。ここには世間話すらない。私は腰を上げた。カウンターに千円札を一枚置いた。左右に挨拶せずに店を出る。
         † 
 九時ごろ、あの〈日比谷〉の後藤がやってきた。驚いた。親しい付き合いなどいっさいしていないのに、なぜ私を訪ねてくる気になったのだろう。
「華々しい入団騒ぎだったな。世間受け悪いぞ。堤くんからこの家を聞いてきた。いま西馬込の実家を出て女と暮らしてる。井荻だが、ちょっと遊びにこないか。女に会わせたいんだ。まだチームに合流するには間があるんだろう?」
 とつぜん友人口を叩き、玄関から上がろうとしないで誘いかける。
「下旬に出発する。ぼくがきみの女に会ってどうするんだ」
「女に関してはベテランだって聞いてるんでな。品定めをしてほしいんだよ」
「冗談だろ。くだらん。そんなことは自分でしろよ」
「……うまくいってないんだ。何か気の利いたことを言ってくれれば、機嫌を直すんじゃないかと思ってな」
「断る」
「顔出したら、すぐ帰っていい。俺が天下の有名人と知り合いだとわかったら、少しは俺を見る目が変わると思うんだ。ちょっとセコいけどな。……藁にでもすがりたい。切羽詰まってるんだよ」
 ほんとうに困っている顔をする。
「……かえって機嫌悪くすると思うぞ。藁が綱になるならいいけど、コヨリにもならないことは大いに考えられる。見えみえの状況だ。虎の威を借るなんて思われたら逆効果だろ。ぼくは自分を虎だとは思ってないけどね」
「それでもいいんだ。多少は新しい波が立つ」
「ほんとに顔を出しらすぐ帰るぞ」
「もちろんだ。サンキュー」
 吉祥寺から馬場まで東西線でいき、西武新宿線の鈍行所沢行に乗り換える。黄色い電車。
「九個目だ。十五分ちょい」
 下落合。
「すごい家だったな。自宅じゃないだろ」
「うん。ファンの贈り物だ。きみ、早稲田を妥協だと言ったんだって? 松尾が怒ってたよ」
 中井。水野と御池はこの駅か。
「あれは一般の日比谷生の話をしただけで、俺のことじゃないんだ。俺は日比谷の落ちこぼれだよ。現実のところ、早稲田はラッキーだった。中央の法に受かったとき、オヤジが小躍りしたくらいだから。ところで松尾はどうなった」
 新井薬師前。
「ペースメーカーを埋めるらしい。半年休学だって」
「そうか」
 沼袋。
「ソフトボール大会に出てこなかったのに、情報だけは回っていったわけだ」
「大会に出る精神的余裕なんかなかったからな。悪かったと思ってる。……おまえ東大生だったよな」
「ああ」
「野球だけの馬鹿に見えるけどな」
「ありがとう、愛情深い褒め言葉だ」
「なんだ、そりゃ」
 野方。
「新聞に書いてあることは、ほんとうか?」
「どんなこと」
「母親に進路を妨害されたってこと」
「ほとんどウソだね」
「だよな、話が無理やりだもんな」
 都立家政。鷺ノ宮。
「オヤジがああいう人間ならわかるが、母親はまずありえないよな」
「ああ、悪役に甘んじてくれてるよ」
 下井草。
「しかし、スカウトを追い返したって話はほんとうだろ?」
「そんなこともあったね。遠い記憶だ」
 小さな井荻駅に着く。ここには井草湯に入りに自転車できた。南口改札を出る。付設の売店の明かりが心地よい。出入り口は南口一箇所しかなく、北側からの利用客は線路を踏切で南側に越えて改札に入り、新宿方面にいく場合はさらに構内踏切で北側のホームにいかなければならない。たいへんな不便を強いられている。踏切待機小屋まであって、吉祥寺と比べてかなり田舎だ。
「少なくとも親との角逐はあったわけだ」
「世間並にね」
「しかし、東大にいってまで野球をやるというのがしっくりこないな。超スラッガーだったんだからな」
「格好つけたかったんだね」
「……おまえ、けっこう韜晦野郎だな。……苦しく生きてるな。俺もゼイゼイ生きてるからわかるよ」
「わかり合いたくないね」
 駅周辺の道路の舗装が新しい。しばらく前までは砂利と土を固めたみたいな道だったのだろう。サカイヤというケーキ屋を過ぎ、古びた写真屋を過ぎ、左折して空地の混じる住宅街を歩く。しゃべることがないので気詰まりだ。駅から一本道を五、六分歩くと、井草湯の四角い煙突が道を隔てて見えた。
「あそこの銭湯に入りにきたことがあったよ」
「そうか、俺たちはいつもいってる。ここだ」
 二階建てのアパートを指差す。鉄階段を昇る。
 板敷きの部屋は、薄っすらと寒かった。六畳の半分をダブルベッドに取り、狭い床がLの字に覗いている。机の椅子の背がベッドの頭に当たっていた。L字の板の間が移動場所兼生活空間のようだ。健児荘で使ったのと同じような小さい筒型の石油ストーブはあるが焚いていない。
「めしを食う場所もないな」
「いつも外食する」
 トイレからヌッと出てきたジーパン姿の女が、うつむきがちに頭を下げた。好意的でない会釈だった。私も挨拶を返した。細面で、美人ではない。
「チカヨだ。こいつは例の神無月。豪邸に一人で暮らしてる。ファンのプレゼントだってさ。来月からは、中日ドラゴンズの選手だ」
「お腹すいてます?」
 台所もないのに何を訊いているのだ。外から買ってくるという意味か。
「いや、腹はへってません。これじゃ、めしを食う場所を確保するのもたいへんでしょう」
 ちらと微笑んだ面差しはなんとも融通無碍で、自分の思惑しだいで、悲しげな目つきや真剣な表情を決めこむことができるという自信が窺えた。私には彼女のセックスがにおってこなかった。骨ばった痩せ方をしているせいかもしれない。
 女は、ベッドの掛蒲団の上で、編み物を始めた。こんなときに? 蛍光灯の下に派手な蒲団の模様が浮き上がっている。机に法律の専門書が積み上げてある。まだほどかない荷梱が二つばかり部屋の隅に放り出してあり、荷物のあいだに立派な仏壇がでんと置いてあった。机に置かれた二ワットのラジオから、ビートルズのアイ・フィール・ファインが流れている。三、四年前の曲だろうか。健児荘で聞いたことがある。女はベッドからにじり降り、板の間に置いた丸テーブルの脇をすり抜けて、ラジオのスイッチを切った。それから思いついたように、レースのカーテンを引いて窓を開けた。冷気が入ってきた。
「あら!」
 女が窓から身を乗り出した。後藤が近寄っていく。私も彼らの背中から中庭の薄闇を見下ろした。首輪のない黒犬が、一瞬の眼差しに応え、犬にしかできない忠実さでこちらを見上げた。犬は咳をするように鳴くと、追い立てられたと思ったのか、中庭の開いた門扉に向かって尾を巻いてのろのろ走った。それから立ち止まり、またこちらを見上げた。
「どうしてほしいの?」
 女はやさしく話しかけた。何かを望むように犬は鼻面を上に伸ばし、また低く鳴いた。彼女はわざと怒ったような小声で命令した。
「かまってあげられないの、帰りなさい」
 女はそうやって私との会話を拒否していた。この黒犬にしても、きっといつもこのあたりをうろついているやつだろう。きょうあらためて話しかけるまでもない。私は女によい印象を持たなかった。犬が伏せたので、後藤は窓を閉めた。
「野良犬だ、ほっとけ」
 女はまた窓を開け、
「お友だちになれるかもしれないでしょう、挨拶をしておかなきゃ」
 彼女は部屋の隅の小型の冷蔵庫から一本のソーセージを取り出すと、暖かそうなセーターを着こんで廊下へ出ていった。後藤は私の視線を気にしながら窓を見下ろした。女の姿を見て黒犬は狂喜して身をくねらせ、うれしさと甘えで全身をふるわせながら彼女の足もとに摺り寄ってくると、手から与えられたソーセージをがつがつ噛んだ。
「うちの女中をやってた女だ。事情があってな、十六から転々と女中をしてきて、二年前にうちに落ち着いた。一目惚れして、同じようにチカヨに惚れた兄貴と闘って、やっと手に入れた」
 それ以上具体的なことは言わなかった。家が貧しいというだけのことだろう。事情というほどのものではない。
「きみの悩みというのは何? よくわからないな。彼女の不機嫌の理由はぼくには窺い知れないものだよ。とにかく彼女はぼくと口を利きたくないようだから、帰る」


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