三十四

 最悪の最終回になった。
 コントロールの衰えた岩間のボールは真ん中に集まり、二者連続で二塁打と三塁打を打たれて一点差にされた。さらにフォアボールを出してノーアウト一、三塁。予感が的中した。私は心の中でもうだめだと囁いた。
 と、スクイズに備えて露骨なリードをとっていた三塁走者を、岩間がこの日初めての牽制球でアウトにした。希望が甦った。タッチプレーで舞い上がっているサードを見て、一塁ランナーがセカンドへ走った。高山はびっくりして二塁へ送球したけれど、間に合わなかった。四番打者とは勝負せずに敬遠。これでいい。ワンアウト一塁、二塁。内野ゴロで少なくともアウトを一つ取れる。ひょっとしたらゲッツーでゲームセットかもしれない。
「いくぞー!」
「オー、イグゼー!」
 私の声に呼応して内外野から声が上がった。ベンチもうるさく叫んでいる。
「あと二つ!」
 という木田の声が聞こえる。五番は左バッターで、きょうはいい当たりのライト前ヒットを放って打点をあげていた。岩間が振りかぶり、内野ゴロを打たせようとカーブを投げた。ど真ん中の高目に入った。強烈ライナーがライトに飛んだ。伸びる打球だ。ライトの小平が目測を誤って前進してくる。
「バック! バック!」
 私はレフトから大声で叫んだ。抜かれたら一挙に二人ホームインしてサヨナラになる。センターの友近が懸命にバックアップに走ろうとした瞬間、小平がバンザイエラーをするのが鮮やかに見えた。私は思わず、
「バカ野郎!」
 と叫んで天を仰いだ。私の大きな声は、兵頭の耳にも、岩間にも、関にも、ベンチの補欠連中にも、旗屋の選手にも、ひょっとしたらスタンドで応援している加藤雅江や杉山啓子や、荒田さんにまで届いたかもしれない。二人のランナーが次々とホームベースに駆けこんでいく。アンパイアが集合の手招きをしている。私はホームベース目指してのろのろと走っていった。
 試合終了が宣告されたあと、桑子たちがベンチ前に集まってきた。みんな真っ赤な目をしている。
「おまえら、よくやった。追いつ、追われつ、手に汗握る素晴らしい試合だった。服部さん、たっぷり楽しませてもらいましたよ。おい、みんな、千年を準優勝させてくれてありがとう。よくやったなあ。学校の歴史が刻まれた一日だ。おかげでいい写真が撮れた。握手、握手」
 桑子につられて、どの先生も満面の笑みを浮かべながら、服部先生や選手たちと握手をした。服部先生は何度も、
「ありがとうございます」
 と言いながら頭を下げた。教師連中は服部先生や選手たちに一とおり祝福の言葉をかけると、上機嫌で去っていった。
 とつぜん驟雨がきた。みんな雨を見上げながら、なんだかさばさばした目をしている。私は不満だった。
「神無月!」
 服部先生が大声で私を呼んだ。
「はい」
「なんだ、きょうの態度は。一人で野球やってるわけじゃないぞ。チームプレイだ、チームプレイ。チームが一丸にならなくては、試合には勝てないんだ。それを自分からぶちこわすようなことを言って―」
 ベンチが通夜のように静まり返った。苛立ちが戻ってきた。一丸になっていた和を乱したのは小平のエラーだ。私が罵声を飛ばしたのは勝負が決まったあとだ。私は反抗的な表情で黙りこくった。
 ―選手がみんな有能なら、チームは勝つんだ。へたくそが一人でも多くいればチームは負ける。同情で岩間を投げさせるなんて! あんなヘロヘロ球、木田だって打てる。五年生の速球なら、長打は出なかったかもしれない。……小平が捕ってさえいたら、延長戦でぼくが何とかしてやったのに。クソ、へたくそなやつなんか、丸めてゴミ箱に捨ててしまえ。
 私はおかしくなっていた。
「わかったか、神無月。ここまで勝ってこれたのも、みんなが力を合わせたからだ。一人じゃ野球はできないんだぞ」
 小平はベソをかいていた。涙というのは、なんと見苦しいものか。これほど見苦しいものだとは知らなかった。
「―一人で野球をつぶしちゃうこともあります」
 私は不貞腐れた調子で言って、そっぽを向いた。いまやどんな言葉も、心にあるすべてを吐き出すには不十分だった。県大会に進めなかった悔しさというよりも、勝てる試合をつまらないミスで落としたという怒りで胸がいっぱいの私には、小平を慰める言葉など見つからないのだった。木田ッサーも涙を流しながらうつむいていた。
「おおちゃく言うなよ、金太郎さん。一人だけで試合をつぶすことなんかあるわけがないだろ。つぶすのは全員だ。監督である俺を含めたみんなの作った原因が、結果に結びつくんだ。結果が出るにはかならず原因がある。チャンスでの凡打、意味のない四球、継投策の失敗、エラー、一つ一つが原因になって、結果に結びついてるんだ。きょうの敗けの責任はみんなにある。でも、いちばん大事なことは、仲間のどんな失敗もやさしく受け入れる大きな気持ちがなければ、チームは成り立たないということだ」
 私は退いていく汗を快く感じながら、服部先生の建前論から解放されるときを待った。ハエが一匹、ブンブン飛び回っている。私は服部先生の熱弁をよそに、そのハエの動きを眼で追っていた。服部先生は私のふてぶてしい態度に業を煮やし、
「神無月はそんな男だったか。信じていたのにな。よし、わかった。おまえはキャプテン不適格だ。いまからキャプテンは関にする」
 と怖い眼で言い渡した。木田ッサーがポタポタ涙を落とした。岩間はけろりとした顔をし、小平は相変わらずすすり上げていた。
 しおれて飯場に帰ると、荒田さんが裏庭で鶏の羽根をむしっていた。根笹の上に新しい血が散っている。ひっそり横たわっている鶏の丸々と肥えた白いからだには、首がなかった。そこへ夕日が斜めに射しこんで、グロテスクな感じがする。ふわふわと宙に舞う羽毛を、シロがとび跳ねながら追いかけている。
「キョウちゃんのためじゃないぞ。今晩の酒盛りの肴だ」
「やっぱり」
「―冗談、冗談。もちろん、キョウちゃんのために決まってるだろ」
「ほんと? 試合に負けちゃったのに?」
「キョウちゃんはいつだって、ボールを遠くへ飛ばしたいだけなんだろ? きょうもしっかり飛ばしたんだから、優勝なんかどうだっていいじゃないか」
 荒田さんは手を止め、友情に満ちた目つきで私を眺めた。
「第十四号、おめでとう」
「おめでたくないよ。ギリギリだった」
「小学生であそこまで飛ばすやつはおらん。一本打つたびに新記録になるんだから大したもんだよ。十四本か―この記録はもう当分、いや永遠に破られないだろうなあ。あしたの新聞が楽しみだ。一年ぶりにうまい丸焼きを食わしてやる」
 荒田さんは鶏の腹を大きなナイフで割いて、内臓を取り出した。新聞紙の上にぬらぬらした原色が並ぶ。太い竹筒を鶏の尻の穴から頭のない首に向かってぐいと刺し貫いた。
「うん、まあ、そうだけど……」
 小平の泣き顔が心をよぎった。
「ライトがばんざいエラーをしたとき、ぼく、バカ野郎って怒鳴ってしまって。それで先生に叱られて……。聞こえた?」
「いや、聞こえなかった。しかし、キョウちゃんらしくないな。だれかがらしくないことをすると、かならずまわりがいやな思いをする。その先生はえらい。もしキョウちゃんが叱られなかったら、いやな思いをした連中は、いつまでも救われなかったかもしれないからね」
「うん……」
 荒田さんの言うとおりだと思った。
 ―強い当たりを打たれたのは岩間なのに、小平を怒鳴りつけたのは見当ちがいだったかもしれない。いや、そういうことじゃない。岩間にしたってぼくたちが打てなかったから、一人で大変な思いをしたんだ。
 私は、木田ッサーのバットスィングを罵った自分の冷たい態度を思い出した。
 ―ぼくは、康男が褒めるような男じゃない。キンムクでもなんでもない。ただのわがまま者だ。ほんとうに才能ある人間なら、人にやさしくしてやることができるだろう。すぐれた人間というのは、どんなことをするにせよ、かならずやさしくしてやるということでは、似たり寄ったりなのだ。服部先生に生意気なことを言ってしまった。小平のエラーは、打てなかったぼくたちみんなのせいだ。先生が叱ったのは、そんなこともわからない馬鹿さ加減をぼくに反省させるためで、立派な演説をみんなに聞かせるためじゃなかったんだ。恥ずかしい。あした、小平と服部先生にきちんと謝ろう。
 私は、自分の愚かな言動のせいでキャプテンの地位を取り上げられたことではなく、いい気になってみんなを見くびる態度をとってしまったことが、残念でしかたがなかった。
「こんなに大きいの、食べ切れないね」
「すぐ売り切れるさ。絶品のタレを塗るからな。鶏の丸焼きは高千穂の郷土料理だ」
 よく笑う荒田さんの目尻に深いしわが刻まれている。浅黒い肌は南国生まれのせいだそうだ。なぜか宮崎県の高千穂出身を誇りにしていて、ときどき、ヒュウガのテンソンコウリン、と意味のわからないことを言う。
 新聞紙に拡げた臓物に、ミーが子供を連れて寄ってきた。
「おまえたちには食わせるわけにいかないよ。煮こみにするんだから」
 荒田さんは手の甲でやさしく追い払った。
「煮こみって、おいしいの?」
「酒飲みにはな」
「ぼくも食べたいな」
「ゲテもの食うのは、酒飲みになってからだな。一晩じっくり煮こんで、あしたの酒の肴だ」
「英夫叔父さん家にいたとき、毎晩ビールを飲ませてもらった」
「そうか、キョウちゃんは英さんのところにいたのか。主任はノミ助だからな。飲まされちゃったか。でも、まだアルコールはダメだぞ。頭が悪くなる。……英さんはいま八事(やごと)のほうかしら」
「ダムの仕事で、五年ぐらいどっかへいってる」
「ダムか。危ない仕事だ」
 荒田さんは目玉をクリクリ動かしながら、いつもの内気らしいそぶりをした。彼は持ち前の気のやさしさと、何につけ人に気兼ねする性分から、相手よりもへりくだった態度で熱心に相槌を打ち、驚いてみたり、感じ入ったり、適当に反対したりして、最後には愛想笑いをする。休みの日なんかに、保険の勧誘員につかまって長話をされたりすると、かならずこの愛想笑いが出る。帰ってください、と思い切って言えばいいのに、ホッとため息をつくばかりで、相手が退却しないかぎり根気よく生返事を繰り返しながら、一時間でも二時間でもこらえているというふうなのだ。いつだったかクマさんが言っていた。
「いずれ荒田は、ヒヨコの鑑定士の免許を取って、飯場を出ていくつもりらしい。ヒヨコの尻(けつ)を見て暮らすなんざ、あいつらしい仕事じゃないか。ま、そのあと俺が、所長のクラウンを引き受けることになってるんだがな」
 そんな気弱い荒田さんでも、鶏をシメるのは平気なんだろうか。私は飛び散っている羽毛を集めて、手のひらで丸めてみた。ごわごわと固い。荒田さんはいつも、もっと柔らかい毛ぼうきで、真っ黒いクラウンを撫でている。
「牛にしても豚にしても、ホルモンなんて好んで食うもんじゃない。臓抜きの丸焼きのほうが断然うまいに決まってる」
「ふうん」
「これをな、ゆっくり回転させながら、醤油、胡椒、ミリンの混ぜ汁を刷毛(はけ)でたっぷり塗りこむんだ」
 一年前の香ばしいにおいを思い出して、私は生唾を飲みこんだ。荒田さんは地面に石を並べて浅い炉をこしらえ、刺(さす)股(また)の頭のような二本棒に竹筒を架け渡し、柴の上に小さな板切れを重ねて火を点けた。
「やってみるか」
 私は荒田さんにやり方を教わり、小半時、竹筒を回した。彼はそのあいだつきっきりでタレを塗っていた。


         三十五

 あの四年生の冬に経験した、疼痛に似た不思議な感覚をもう一度確かめてみたくて、みんなの寝静まった深夜に、食堂と事務所とのあいだにある便所に忍びこんだ。便所の壁を接してすぐ裏が寮だった。あれから一年半も経っている。もう一度あの感覚が甦ってくるかどうか不安だった。
 飯場の男たちはよく色めいた話をする。その種の話は、私のその感覚に関係していることはまちがいなかった。学校の廊下で、女の子のスカートが揺れて腿の奥が覗いたりすると、つい知らず眼を惹きつけられることがあるのも、きっとそのせいだった。気持ちの中にも、からだの中にも、ときとして不安な、熱(ねつ)っぽい動揺を感じたけれども、私はこの一年半どうにかそれを抑え、そこから関心を遠ざけてきた。そういうことは野球の敵だ、と心から思いこんでいた。
 板戸の桟(さん)を引くと、コトッと軽い音がした。足音を立てないように入って、そっと内側から鉤(かぎ)を下ろす。鉤の掛かりがゆるく、戸の食い合わせのところにかなりの隙間が空いているので、じっと外の気配を確かめながら、ゆっくりチンボの皮を両掌で撚(よ)るように揉んだ。驚くほど早く高潮のきざしがやってきて、チンボの先から白い液体が噴き出した。チンボを撚っているどの瞬間にも、あの日のするどい痛みは感じられなかった。とにかくそれはたちまち過ぎ去って、私はあたりの暗さと同じようなさびしい感覚の中に取り残された。トロリと粘りのあるものが壁に飛んでいた。私はそれをザラ紙で拭き取った。便所の悪臭に混じって、かすかにむせるようなにおいが狭い空間に充満している。そのにおいは悦びの証しというよりは、腹の沼からさらい出した汚物のにおいのようだった。
 それからもときどき、便所に忍んでいくようになった。最初のうちは、あの疼痛の正体を知りたいという好奇心に支配されていたけれども、何回か繰り返しているうちに、生理的な珍しさは消えて、ただ単純に快い放出だけを求めるようになった。白い液体は壁に散ったり、床に飛んだりした。それを便所のザラ紙で拭き取るとき、ぼんやり見えるその白い影は、だれも教えてくれない秘密を探り当てたという喜びよりは、これまで知っていたのとはちがう種類のさびしさ突きつけてきた。何回試してみても、あの最初の日の目覚ましい疼痛は二度と訪れなかった。それよりはもっと機械的な、内臓を洗い流すような奥深い排泄感があった。それが訪れるたびに、私はうれしいような、それでいてゾッとするようなさびしさを覚えた。
 母や社員たちが目を覚まさないように足音を忍ばせながら便所へ向かうとき、私は自分の抑制の効かない欲望を憎み、あたりの静けさの中にまぎれこむ心臓の音を憎んだ。でも、そうやって恐怖や欲望にふるえながら、短い時間の中で手に入れた快感は、私に人間のからだが持っている底知れない神秘を感じさせ、小さな突起物をつけて生まれてきた貴重な意味を包み隠さずに教えてくれるような気がした。
 やがて私は、自分のチンボを見つめたり、目を閉じたりして、感覚だけの到来を待つことに飽き足らなくなった。休日の昼下がりなど、社員たちが出払っている部屋に入りこんで、彼らが読み捨てた卑猥な本を漁り、グラビアつきの目ぼしい雑誌を見つけ出すと、いそいそと勉強小屋へ持って帰った。そうしてベージュ色の粗悪な紙の活字をなめるように読んだ。何日もしないうちに、言葉がぞろぞろと頭に入った。包皮を撚るのではなく、前後させるのだということも知った。後ろめたい冒険を説明する言葉が、活字で具体化した多くの猥雑な言い回しといっしょに、彩りのない知識としてついてきた。そして、頭にこびりついた常套的な言い回しに刺激されて、字面を追うたびに欲望が高まってくるようになった。深夜を待って便所へいき、言葉を思い出して触媒にし、グラビアに載っている写真を薄暗い光に照らして眺めながら、少しずつ指を動かした。
 寮部屋で気に入ったものが物色できなかったときには、夜もふけてから、わざわざ小学校裏のあの貸本屋まで出かけていき、紐で縛って路に積んである廃棄本の中から『夫婦生活』とか『裏窓』といった妖しげな本を抜き取ってくるということもした。そういう雑誌には、男と女の営みが細かく描写されていて、写真や挿絵もふんだんに載っているので、十二歳の頭をさまざまな妄想で刺激するにはじゅうぶんだった。ついに私は、城内幼稚園のみちこ先生の黒いパンツの奥に何があるかも知った。そのとき私の中で、最も怪しい危険な存在は幼稚園の先生になった。みちこ先生の笑顔がどうしても頭から離れなかった。彼女の下腹にそんなグロテスクなものがしまいこまれていたということだけが、唯一重要な真実であるかのように思えた。
 それなのに、本に書かれている女のからだの構造を実際に見てみたいとか、覚えた知識のとおりに実践してみたいという気持ちには少しもならなかった。目の前のチンボさえいじりはじめれば、単純な快楽の潮がすぐに下腹に満ちてきてあふれ、男女のもっと複雑な交わりの神秘をないがしろにしながら(複雑かどうか、私には本に書いてあるとおりにしか知りようがなかったけれども)、てっとり早い単純な放出が訪れる。そうして、驚くほど素早く退いていく余韻に後ろめたい意識を薄められて、まるで透明な水底を覗きこんでいるようなすがすがしい気分になるのだった。
 やがて、グラビア写真のしどけない官能的な肢体を見るたびに、自分の肉体だけの欲望を満たそうとする衝動とはちがった、感覚の上昇を女のからだの反応に照らし合わせる喜びが習慣のように生まれた。しかしその奇妙な習慣は、活字で覚えた女の激しい反応を想像しながらたどりついた放出を終えたとたん、機械的に励んだ行為への虚しさで締めくくられるようになった。腹から鋭い感覚が抜け出ていったあとの虚しさの中で、あらためてグラビア写真を眺めると、神秘的な女体がこんな即物的な反射で終わるとするなら、男と女の交わりはつまらないもののように感じられた。指を動かす前には、彼女たちのみだらな雰囲気と関係なく、気高い永遠のものに思われていた男女の交わりが、急に白々しいものになった。ひょっとしたら、本に書いてあることとはちがって、女のからだに奥深い秘密などないのかもしれない。貪欲に発見するほどの激しい反応などないのかもしれない。だとしたら、実際の行為など必要がないということになる。
 そんなわけで、読み終わった雑誌はビニールで包み、架空の女体を想像しながら何度でも欲望と清潔なさびしさに浸るための希望の道具として、スチール机の裏側に粘着テープで貼りつけておいた。そうして、ひと月も経たないうちに、その存在を忘れることが多くなった。
         †     
 土曜日の夜、勉強小屋に遊びにきて長っ尻になった康男は、食堂の後始末を終えて戻ってきた母に嫌味を言われた。私はそのとき、帰りがけに小屋に寄ったカズちゃんのリクエストに応えて、次から次へとレコードをかけていた。クマさんの言ったとおり、康男は音楽に興味を示さず、畳に肘枕して目をつぶっていた。
「うるさいね、いつまでも。カズちゃんも早く帰りなさい。ご亭主をほったらかして何してるの」
 カズちゃんは正座の姿勢から立ち上がって、あたふたと帰っていった。康男はむっくり起き上がり、神妙にあぐらをかいた。玄関の敷居に今度は母が根を生やした。
「寺田くん、あんたここに遊びにきても、身になることなんて何もないでしょ」
「アア?」
「あんた、ほんとは郷に会いたくてここにくるんじゃなくて、会社の人を相手にハッタリかました話をするか、マージャンでも見物したいだけなんでしょ。まったく何考えてるんだか」
「アア……」
 康男は母に見当ちがいな意見をされるたびに、気の乗らない返事をするだけで、何も言い返さなかった。私は地団太踏みたい気持ちを抑えながら黙っていた。
「こんなふうに遊び回ってたら、お母さん悲しむんじゃないの。もっと勉強しなさい。どう見たって、あんたと郷じゃ釣り合いがとれてないでしょう」
「アア、神無月は俺よりずっと格が上や。そのまんまで、すげえやつだわ。野球も勉強もおまけやな」
「何、それ」
 外聞の悪さを避けること、常識のある人びとの悪意に曝されないように暮らすこと、母にとってそれがすべてだった。どうしてそう思いこんだのかわからないが、寺田康男という少年は、息子といっしょにいて人目をはばかるような賎しい人間だと彼女の目には映ったのだ。
「康男は、かあちゃんの言うようなハッタリなんかかまさないよ。弱い者がいじめられないように見張ってくれてるんだ」
「ふん、正義の味方かね。どこまでほんとなんだか」
 それから母は、このあいだまで足の指のように自由の利かなかった息子の頭が、うまく働くようになってきたのを話題にした。頭の働かない康男が聞き役なら、心おきなく自慢一点張りになれるのだ。それは母の大いなる誤解だった。母は、顔つきや瞳の輝きで人を判断できない人間だった。
「もともと頭のいい子だったけどね。四歳でひらがなが読めて書けたんだから。とにかく男の価値はアタマで決まるのよ。あんたといつかごはんを食べた社員たちは、気安く口を利ける人たちじゃないんだよ。あんな立派な人たちに、大将、大将っておだてられて、いい気になって」
 康男は憂鬱そうに眉のあたりを引きしめながらじっと押し黙っていた。私のほうをちらりとも見なかった。私には彼の暗い表情の意味がわかっていた。母は康男の沈黙を息子に対する賞賛と受け取ったようだった。彼女の世界はがさつで、恐ろしく狭かった。彼女のような人間にかかったら、どんな応答をしても甲斐がないのだ。康男はそう思っているにちがいなかった。
「まあ、心を入れかえて、しっかり勉強しなさい」
 母の話が一段落すると、康男は首を振りながら、まだるっこそうに呟いた。
「ガキの遊びだがや」 
「なんてことを……」
「そうだよ、勉強なんか子供の遊びさ。ちょっとやったら、だれだってできるようになるよ! ぼくだって、守随くんに教えてもらって―」
 康男は私の勢いこんだ顔に向かって、たしなめるように首を振った。彼にとってそのときの私は、母以上にいやらしい人間に見えたにちがいない。
 ―ちょっとやればできるようになる? 
 康男はガキの遊びだと言ったのだ。ちょっとだろうとたくさんだろうと、勉強なんかやるはずがない。つまらない勉強をしなくたって、康男はじゅうぶん仲間より足りている。だからクマさんや小山田さんは、康男のことを大将と呼ぶのだ。
 私はふと、このことがきっかけで、康男が自分から去っていくかもしれないと思った。
「ごめんね、康男」
 康男の大きな目が私を見た。わだかまりのない、いかにも穏やかな目だった。少し上がった唇が、自信と、静かな気持ちを表していた。彼はまじめな顔で言った。
「おまえも、つくづく人にわかってもらえん男やな。野球も勉強も、おまえにはぜいたくな付け足しやけど、なんも付け足さんでもええってことや。そこがわかってもらえん」
「知ったようなことを! 郷をわかってないのは、あんたのほうでしょ」
 母はぷりぷりと食堂へ戻っていった。康男はその背中をじっと見ながら言った。
「黙っとると、おまえ、そのうち、ちがう人間にされてまうで」

         

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