四十六

「なあ房ちゃん、手紙に書いたとおり、この坊主は野球の天才なんだ。名古屋市のホームラン記録を何度も塗り替えた。そうは見えないだろ。一見、おとなしい秀才型に見えるよな。馬鹿はミテクレに引きずられちまう。やっかいなことに、キョウはもともと頭のいい子だから、その分の期待は裏切らないときてる。困ったもんだ。このあいだ、中京中学のスカウトがきてさ、あの中京だぜ、キョウのこと褒めちぎって、大学まで学費はいらないからぜひきてくれって頭下げたんだ。けど、こいつのおふくろさんが断っちまった。もと教師か何か知らないが、勉強させるなんて言いやがってさ」
「ほんとに断ったの! もったいない。スカウトに誘われるなんて、勉強で満点とるより何百倍も難しいことよ」
「驚いたよ。世の中にそんな親がいるかな。野球の名門校からわざわざスカウトがきたのに、それを追い返す親がさ」
「何か事情があったのかしら。郷くんのからだが弱いとか」
「へ! ぴんぴんしてら。事情もクソもあるもんか。わが子の才能を信じてないんだよ。新聞にバンバン載ってるのに。東大出の所長も同じだ。横から口を出しやがって。若いうちに才能があるように見えるのは、幻だなんてわけのわからないことを言いやがった。才能というめったにないものが憎いんだな。努力、努力、馬鹿の一つ覚えみたいに唱えやがって。努力すりゃは入れる東大と、才能がなきゃ入れないプロ野球と比べものになるかってんだ。その東大出の所長を、キョウのおふくろさんが尊敬しててさ」
「どうにかならなかったの? 周りの人だって聞いてたんでしょ」
「みんな聞いてたさ。俺と同じ気持ちのやつも何人かいたけど、みんな頭にきながら、おふくろさんの言うことを黙って聞いてたよ。あの女の考え方ってのは、何でも角張ったところは丸くして、アラはなるべく目立たないようにするってやつだ。才能も言ってみりゃアラだからな。とにかく世間はきびしいんだとよ。ちぇ、そのスカウトだって世間だろが」
 クマさんの目が潤んでいる。房ちゃんもつられてまぶたをいじりはじめる。
「そうね、キョウちゃんのお母さんの世間という表現は、その場合、うまく当たってないわね。野球がとても上手なのに、スカウトにきてもらえるところまではいってないというなら、野球の世界はきびしいって言うのもわかるけど。ぜひにと引き立ててもらってるのに、世間はきびしいと言っても説得力がないわね」
「スカウトされた先がきびしいという意味なんだろうよ。どんな世界だって、先にいくほどきびしいんだよ。才能があってもな。やらせてみなけりゃ、わかりゃしないだろう。精いっぱいの女の知恵なんだろうけど、何のための知恵なのか俺には理解できん。とにかく俺たちは、こいつをかばってやれなかった。キョウ、勘弁しろよ」
「ぼく、うれしかったよ。クマさんや荒田さんが一生懸命しゃべってくれて」
 とうとう房ちゃんのほうが先に涙をこぼした。
「私なら、身上つぶしたって野球選手にするんだけどなァ」
 房ちゃんが目を手のひらでこそぎ、私に向かってぱっと笑った。クマさんも大きく笑い、
「キョウ、願いごとはかならず叶うもんだ。おまえの野球は人間ワザじゃないんだからな。目の前に食い物があって、後ろにクソしかないなんてやつとは、根っからデキがちがうんだ。自分を信じろ。あきらめるんじゃない」
「うん。吉冨さんもあきらめるなって言ってた」
「そうか、吉富がな。とっぽい顔してるけど、いいやつなんだ、あれは。ふだんは胸三寸にいろいろ納めてるが、いざとなると、ちゃんとつきつめたことを言う男だ」 
「さあ、ぜんぶ忘れて、もっと食べて」
 私はご飯のおかわりをし、箸を動かしながら、長嶋茂雄や山内一広のバッティングのすばらしさを話した。ときどき立ち上がって、バットを振る真似さえして見せた。クマさんと房ちゃんは明るく笑いながらも、ときどきふっとさびしそうに顔を見合わせた。
「これだ、キョウの頭には野球のことしかないんだ。わが道をいくってやつだ。俺たちにもこういう子が生まれるといいな。俺は好きな道をいかせるぞ」
 房ちゃんはコクンとうなずいて、私に握手を求めた。私は握り返した。柔らかくて大きな手だった。
 夕食のあと、三人いっしょにトランプの七並べをやった。それからクマさんと内風呂に入った。小さな湯船だったので、交代で浸かった。クマさんが開け放った窓の外に紺色の夜が広がっていた。
「あの光、きれいだね」
 私はチラチラ明滅する青白い小さな灯りを指差した。それは田の上を不規則に舞いながら美しく光っていた。
「蛍だ。せっかく川から昇ってきても、除虫灯で焼かれてしまう」
 田んぼの向こうに、山ぎわのシルエットが黒々と見えた。なんだか唄いたくなり、私は思いつくまま『錆びたナイフ』を口ずさんだ。クマさんはじっと耳を傾けていた。
「いい声だ。キョウは何をやらせてもすごいなあ」
 風呂から上がると、房ちゃんとスポンジケーキを食べながら、テレビのバラエティ番組を観た。カックンの由利徹と南利明が出ていた。クマさんはほろ酔いの顔をして、窓辺の柱にもたれていた。二人ともほんとうに幸せそうに見えた。窓から常山木(くさぎ)の花のにおいが流れてきた。汽笛の音がして、田んぼの向こうを明かりが一列になって走っていくのが見えた。明かりは左から右へ平らに流れていき、先頭の煙突から火の粉が上がっていた。蝙蝠が音もなく軒下へ飛びこんできて、ぱたぱたと網戸のそばをかすめた。
 私があくびをこらえきれなくなったころ、ようやく房ちゃんは隣の部屋に一つだけ、私のための蒲団を敷いた。私は強がって渋々のふりをしたけれども、蒲団に潜りこんだとたんに、長旅の疲れと満腹のせいですぐに眠りこんでしまった。
 翌日は朝から目が痛いほどの青空だった。尖った細かいガラスがキラキラ降ってくるようだ。房ちゃんに頼まれて、蒲団を干す手伝いをした。房ちゃんは鼻歌を唄っていたけれども、少しさびしそうだった。
「あれからもあの人、郷くんのことを話して泣いたの。私も。……今度スカウトがきてそんなことになったら、泣いても叫んでも、自分を通さなくちゃだめよ」
「うん」
 トーストを食べ、コーヒーを飲んだあと、野球帽をかぶり、房ちゃんに送られてクマさんとバス停まで歩いた。
「よっぽど疲れたんだな、キョウ。笛みたいないびきかいてたぞ」
「ほんと?」
「おお、可愛らしいやつをな」
 むせるような草いきれが鼻を打った。道沿いの木群れの緑が、強い陽射しの中で揺れている。
「あれ? いま茶色いものがぴょんて跳んだよ」
「野兎だ。二匹いたな。食うとけっこういけるんだ」
 千曲川がきのうよりもいっそう青くきらめいて流れている。
「ぼくたちが帰ると、房ちゃん、かわいそうだね」
「だいじょうぶだよ。とんぼ返りだってわかってるから。どうせ、もうすぐ名古屋に出てくるんだ」
 房ちゃんの横顔に言う。
「そうね。でも、ここを出ていくのは、ちょっと名残惜しいな」
「自然がいいからなあ。小春、風花、山眠る、か。ほんとはこっちで暮らしてもいいんだけど、安月給じゃ、所帯がな」
「それでもいいのに」
「好きな女に、いい思いをさせてやりてえじゃねえか」
 照れたふうに言い、私に向き直ると、ターッと大声をあげた。空手の真似をしてふざけかかる。私も応じる構えをして、こぶしを繰り出した。何かのはずみで私のげんこつがクマさんの股間を打った。
「ててて、こら! 使いものにならなくなっちまうだろ」
 房ちゃんはおかしさに耐え切れないように、からだを折り曲げて笑った。
「使いものって?」
 クマさんは唇の端をむずつかせながら、
「液が出るようになったら、わかる。キョウは、まだ野球のことばっか考えてればいい」
 二、三年前ならクマさんの言っていることが何のことやらわからなかったかもしれないが、いまではハッキリわかった。そして、もうとっくに液が出るようになっていることをなぜだかクマさんに知らせたくなかった。
         †
 食堂で、みんなと秋季六大学野球を観ていた。早稲田大学の四番バッター徳武が打席に立った。ぎこちない振り。打ちそこないの三塁ゴロ。小山田さんが言った。
「あまり活躍しそうもないな。国鉄に入団するらしいぞ。大学野球も、長島以来不作だ」
 荒田さんが鑑定士の試験に合格して、会社を辞めることになったと話し出した。
「よかったな、荒田。〈ケツ判定人〉に受かって」
 小山田さんが肩を叩く。
「初生ひな鑑別士だよ。別名、ひよこ鑑定士。今年が二十五歳の年齢制限ギリギリだったんで、冷や冷やしたわ」
 荒田さんがそんな若いなんて知らなかった。カズちゃんがびっくりして流しから振り向き、
「あら、私より二つも年下だったの。老けてるわねえ」
 たしかにカズちゃんは、異様に若い。ふと横顔のきれいさを目にして、ドキドキすることがある。
「あんたは特別だよ。年上の亭主とやらがうらやましいや」
 この夜も、荒田さん手製の鶏の丸焼きが出た。おいしかったけれど、私は彼と別れるのがつらかったので、食欲が湧かなかった。
「荒田、ひよこのケツ見るのに飽きたら、戻ってこい。いつでもクラウンは返してやる」
 クマさんが言うと、
「戻らないね。これから養成所に入って、卒業したら郷里(くに)へ直行だ。蛙の子は蛙だよ。実家は、田んぼのほかに養鶏所をやってるんだ。いずれにせよ、山出しの俺には都会は性に合わなかったな。田舎が肌に合ってる。田起こし、草取り、土くどの釜で炊くメシ。とくに好きなのは、田んぼに映ってるお月さん」
「お、女っけのない都々逸か。さしずめ俺なら、雪かきする手の痛さ、藁づと納豆、軽トラでくる魚、とくらあ。似たようなもんか」
 クマさんが笑う。吉冨さんがうなずいて、
「田舎の人間には、地元以外はみんな都会に見えるんじゃないんすか。俺も田舎っぺですけど、都会は性に合わないなあ。適当なところで切り上げてクニに帰るつもり。造り酒屋でしてね、帰ったらオヤジ喜ぶぞ」
「こら、吉冨、親の七光りでのんびり暮らすつもりか。許さん。おまえには、肩抜けるまで西松のエースでいてもらう」
 小山田さんが吉冨さんの首に腕を巻きつけた。
「なんで所長はこないんだ。原田もくるって言ってたんだが」
 クマさんが不満声で言うと、荒田さんは、
「いいんだ。こうして集まってもらったのだって、ちょっと考えられないことでね。感謝してる」
 目を潤ませている。
「おまえは感激屋だからな。どんぶりでいけ、どんぶりで」
 小山田さんがどんぶりを差し出した。
「じゃ、一杯だけ」
 なみなみとつがれた酒を、荒田さんは一息に飲み干した。オーッと歓声が上がる。すぐにまたつがれる。私はたまらなくなり、
「手紙くれる? 荒田さん」
 荒田さんは私の顔に向き直り、
「俺、手紙苦手なんだよ、キョウちゃん。ハガキ一枚書くのに徹夜するくらいだからさ。年賀状もやばい。それで義理欠いて、いままで何人友達なくしたかわからん」
 内気な男が、頭を掻いた。
「うん、いいよ。ぼくも手紙は苦手だから」
「握手しよう」
 荒田さんのがっちりした手が、私の手をしっかり握り、
「キョウちゃんのことが心残りだよ。これからどうなるのかなあ。またあのスカウトがきてくれればいいけど。……いつも高校野球見てるからね。それからプロ野球も、ずっと見てるから」
「うん」
 母は気詰まりなふうもなくメザシを焼いている。クマさんがビールの栓を開けて荒田さんについだ。カズちゃんが母の目もかまわずコップを突き出し、
「熊沢さん、私にもついで! 荒田さんみたいないい男、なかなかいないわよ。その気になったら、どんな女だってついてくるから。自信持ってね」
 小山田さんが荒田さんの後頭部を強くさすりながら、
「カズちゃんが、荒田を男にしてやればよかったのにな。こいつ、一生、女ひでりじゃないの」
 カズちゃんは調子に乗り、
「そうねえ、立派なものを持ってるって噂だし、いただいちゃえばよかったかもね」
 荒田さんは八重歯を見せて、声を出さずに笑った。カズちゃんは母にきつい目で睨まれると、舌を出して、クイッとコップをあおった。荒田さんは静かに立ち上がり、みんなの皿に鶏肉を切り分けた。
「俺もいよいよ結婚だ、荒田。おまえのおかげで結婚できる。ありがとう」
 クマさんが荒田さんに頭を下げた。
「所長と喧嘩しないでよ。一に辛抱、二に辛抱、三、四がなくて五に辛抱。結婚するならなおのこと、気を長く持たなくちゃ」
「わかってる。これでもむかしは観光バスの運転手だったんだぞ。ズの高い連中のお相手はお手のもんだ」
「おばさん、長いあいだありがとうございました。ほんとうにお世話になりました。ワイシャツとかズボンとか、そのほか小もの類は置いていきますから、処分するなり、みなさんで分けるなりしてください。……キョウちゃんのことだけど、じっくり時間かけて考えてやってください。才能の評価ってのは、身近な人間がいちばんまちがうものですから。いや、まちがうというか、気づかないというか―」
「はいはい、よく考えておきますよ」
 母は形ばかりに応えた。彼女の圧力のある目配せで勉強小屋に追いやられたあとも、送別会の賑わいは夜遅くまで聞こえていた。


         四十七 

 クマさんが所長つきの黒い自家用車に乗るようになった。登校のとき、事務所の前で几帳面に毛箒木をパタパタさせながらクラウンの埃を払っている姿をよく見かけた。着ている服も、灰色の作業着から紺の背広に変わっていた。
「どうだ、格好いいか?」
「うん、格好いい。でも、クマさんじゃないみたい」
「そう言うな。馬子にも衣装だ。……あんな男の運転手なんかやりたくねえけどよ、生活のためだ」
「結婚式はいつ?」
 クマさんは困ったように苦笑いした。
「式は挙げないんだ。ウェディングケーキに花束か。そんな大げさなもの、俺たちには似合わん。男と女がいっしょになれば、男は子を産ませ、女は子を産んで、ふつうの父親と母親になる。大事なのは、そっからだ。いっしょになりましたと人に報せたり、神仏に誓ったりすることじゃない」
 私はひどく納得のいったような気持ちになった。
 ある日、クマさんはリヤカーを牽いて、ポータブルプレーヤーと小ものを詰めたダンボールを飯場から少し離れた社宅へ運んだ。私は後ろを押していっしょにいった。
「一週間もすれば、房ちゃん到着だからな。蒲団と着るものは残して、細かいものだけは運んでおかないと」
 平畑の三棟つづきの社宅は、杉山薬局のすぐそばだった。店先を覗きこんだけれど、あの外人のような爺さんがぽつんと店番をしているきりだった。飯場から十分も歩かなかった。クマさんは、がらんとした部屋にプレーヤーとダンボールを置くと、ふんふん、と鼻を鳴らしながら、台所の水まわりや間取りを確かめていた。
 それから二、三日して、房ちゃんが社宅に引っ越してきた。私は喜び勇んでクマさんの残りの荷物をリヤカーに積みこみ、彼といっしょに押していった。すでに家具類やダンボールでぎっしりの部屋に上がりこみ、浮き浮きと動き回った。テレビを置く場所を決めたり、流しの水屋にきちんと食器を並べたり、窓ガラスを拭いたり、敷居の目詰まりを釘でほじくったりした。社宅の部屋は、長野のアパートと同じような天井の低い六畳と四畳半で、玄関から上がってすぐの二坪の板の間がキッチンになっていた。同じ造りといっても、窓ガラスも壁紙も畳も新調されて、山奥の古びたアパートよりはずっと立派だった。 
「キョウ、見ろよ、あの天井。あれだけは直してくれなかった」
 クマさんが指差した六畳間の天井に、雨漏りの痕がぼやけた雲形を描いている。房ちゃんが元気な声で言った。
「いいじゃないの、天井のシミくらい。屋根は直してくれたんだから。家賃の要らないわが家が手に入ったんだもの、贅沢は言えないわ」 
「そうだな。これもみんな荒田のおかげだよ。あのカタブツ、童貞のままUターンしちまいやがった」
 四畳半に新品の西洋ベッドが置いてあった。長野のアパートでは見かけなかったものだった。房ちゃんが引っ越し前に注文したものらしく、クマさんも初めて見たようだった。私はベッドに尻を思い切り落としてみた。固く弾み返してきた。クマさんもうれしそうに並びかけてきて、
「このベッドでがんばって、一年後にはかわいい赤ん坊の顔を見せてやる」
 彼は横たわったまま晴れやかな顔で窓を開けた。裏の空地は広々としたネギ畑になっていて、その向こうに熱田高校の正門が見えた。運動部のかけ声が聞こえてきた。ふと私は、もしあのスカウトがもうやってこなかったら、将来熱田高校へいって、ひっそりクラブ活動の野球をやるのかな、とさびしい気持ちになった。
「サボってないで、荷物を開けてちょうだい」
 房ちゃんがクマさんを叱った。二人で飛び起きて、段ボール箱の山に挑んだ。
「お、ブレンダ・リーのLP。房ちゃんのか?」
「そう、プレゼントしてくれたじゃない」
「そうだったかな。キョウにやっていいか」
「いいわよ、もう飽きるほど聴いたから」
「ほれ、キョウ、持ってけ」
「ありがとう。『アイム・ソーリー』とか、『淋しくって』なんか大好きだ」
「いつのまに聴いてるんだ」
「高崎一郎の、ベスト・ヒットパレード。ブレンダ・リーはめったにかからないけど」
「好みが子供の耳じゃないな。泣けてくるよ。おう、これこれ」
 クマさんは箱から出てきた例の額縁を拝んだ。寝室の鴨居に小釘を打ちつけ、大切そうにそれを掛けた。房ちゃんもやってきて眺めた。三人でしばらく見ていた。
「お腹へったでしょ。さっき、そこの蕎麦屋に頼んどいたから」
 引越し蕎麦が届き、新しい蛍光灯のキッチンで食べた。海老が二匹も載った天ぷらそばだった。おいしかった。
「仲人をしてくれたお礼に、日米親善野球に連れてってやる。前売り券を買っとくからな」
「ほんと! 今年はサンフランシスコ・ジャイアンツがきてるんだ。強打者マッコビーとメイズ、それにセペダ。マリシャルが投げたら最高だね」
「そうか。相変わらずキョウは、何でもよく知ってるなあ」
「ぜんぶ、スポーツ新聞に書いてあることだよ」
「書いてあったって、なかなか頭には入らん」
 このごろクマさんは私を褒めるときはかならず、悲しげな顔になる。
「すごい試合になるだろうなあ。日本のオールスター合同軍とやるんだから。ぜったい三塁側の切符にしてね。長嶋を目の前で見たいんだ」
「よし、三塁側だな」
 後楽園の巨人戦を皮切りに、すでにサンフランシスコ・ジャイアンツ(新聞にはジ軍と書いてあった)は各地を転戦しながら圧倒的な強さを見せつけている。ジ軍が羽田に降り立ったとき、ストンハム会長もシーハン監督も、
「日本軍は強いので、苦戦を覚悟している」
 と言った。このあいだテレビのニュースでその場面を見ていた小山田さんが、
「アメリカ人はお世辞がうまいなあ。日本人は信用してうぬぼれちゃうぞ」
 と笑った。
「ほんとは、どれくらいちがうの」
 と私が尋くと、
「そうだな、大リーグが大学生なら、日本のプロ野球は中学生、いや小学生かな」
「そんなに!」
 吉冨さんがうなずき、
「なんせ、あちらさんは日本に観光しにくるんだ。ついでに小中学生と試合をしてあげようって気分だろ。本気でやるわけじゃないから、たとえ勝っても威張れないさ」
「でも、メイズがインタビューで、一生懸命プレーしますって言ってるよ。スポーツは勝ち負けよりも、一生懸命プレーすることが大切ですって」
「うーん、一流は言うことがやっぱりちがうなあ」
 小山田さんと吉冨さんは顔を見合わせてニッコリ笑った。メイズは、注目する日本人選手はと尋かれたとき、
「ナガシマ、オウ、スギウラ、ヤマウチ、カネダ」
 と答えた、とやっぱり新聞に書いてあった。私は待ちきれない気持ちになってきた。
 雨が落ちてきたので、わざわざクマさんと房ちゃんは傘をさして私を飯場まで送ってきた。そのついでに、母やカズちゃんや社員たちに結婚を伝える挨拶をして帰った。房ちゃんは母の顔をチラと見て、あとはずっと視線を逸らしっぱなしだった。
         †
 十一月の最後の日曜日、約束どおりクマさんに連れられて中日球場へいった。房ちゃんは留守番だった。神宮前までバスでいき、名鉄で山王に出た。
 市電通りの先に、いつものようにコンクリートの球場がそびえていた。何度見ても胸が騒ぐ。でもきょうは、近づいてほとんど垂直に見上げたとき、たまらないさびしさが走った。将来こんな堂々とした場所で野球ができるような人間になれるはずがないと、耳もとで囁く声がした。
 三塁側の内野特別席に陣取り、クマさんは房ちゃんの作った玉子焼きを肴にビールを飲み、私はおにぎりを頬張った。
 日本軍の先発は大毎オリオンズの左腕小野、ジ軍はマコーミック。初回、ブラッシングゲームがフォアボールで出ると、二番ダベンポートがヒットエンドランを決めてノーアウト一、三塁。三番のメイズがセンターにホームランを打って、あっという間に三点が入った。大洋の秋山にピッチャー交代。四番セペダが三振、五番マッコビーがライト場外にホームラン、六番カークランドがセーフティバント失敗でツーアウト、七番アルーがレフト最上段へホームラン、八番プレッスーが三振。ようやくチェンジになった。五点! まるでソフトボールのようにボールがポンポン飛んでいく。
「大したもんだ。ホームランか三振かというのがほんとにあるんだな」
 野球に詳しくないクマさんが、少年のようにきらきら目を輝かせた。ホームランはどんな人の目も輝かせる。
 日本軍の守備になるたびに、目の前にいつも長嶋茂雄の姿があった。彼は守備位置の地面をスパイクでならしたり、つばを吐いたり、グローブにこぶしを叩きこんで前のめりに爪先立ったりした。彼の美しい引き締まったからだは、アメリカの選手に一歩もひけをとらなかった。私はその仕草のすべてを目に焼きつけた。まねしようとは思わなかった。まねできるはずがなかった。彼は神だった。
 サンフランシスコ・ジャイアンツの選手の中で驚異的だったのは、五番バッターのマッコビーという左利きの黒人だった。彼はあんまり黒いので、ヘルメットと顔の境目が見分けられなかった。マッコビーは四回打席に立ち、たった四回バットを振った。ほんとうに〈一打席に一度だけ〉バットを振ったのだ! 彼の打った低い打球は、どれも最初はファーストライナーかライトライナーに見えた。ところがそのボールを目で追っていくと、かならずライトスタンドの看板の向こうへ消えた。四打席すべて場外ホームラン!
「すごい野郎だな。キョウと同じ左バッターじゃないか」
「最初から最後まで軸が動かないんだ。……ホームランて、なかなかライナーじゃ打てない」
「だろうな。わかる気がするぞ」
 ライナーだと、このあいだの森徹のホームランみたいに、ボールがお辞儀するようにラインドライブしてしまって、スタンド最前席に飛びこむのが関の山なのだ。マッコビーのホームランは、低いまっすぐな軌道でライトの看板を越えていく。ぜんぜんバッティングの仕組みがちがうようだった。
「世の中にはとんでもないやつがいるもんだ」
「うん、打ったボールが最初は見えないくらいだから、すごい初速だね」
 クマさんが、マッコビーのホームランが消えていったライトスタンドを、まぶしそうに見つめた。
「キョウもあんなふうになれよ」
「……なれるかなあ」
 自信がなかった。あんな一直線に大空に伸びていくホームランが、一生に一度でも打てるだろうか。
「なれるさ。いまでも百メートル近く飛ばすんだから」
「うん、がんばるよ」
「しかし、なんだかなァ。食い物がちがうのかな」
 しきりに首をひねっている。
 七回、二塁打で出た長嶋が、三宅のセンター前ヒットでホームに突入したが、メイズのすごい強肩で刺された。メイズは百二十五メートルも投げられる鉄砲肩なのだそうだ。新聞にレーザービームと書いてあった。あんな矢のようなバックホームを一度も見たことがなかった。
 六回から継投したジ軍のピッチャーは、期待していたマリシャルではなく、若い新人だった。彼は何点でもくれてやるぞというなめた感じで、直球だけをビシビシ真中に投げこんでいた。それでもオールジャパンは打てなかった。三振王の王はもちろん、長嶋も藤本も森も、パリーグの野村も山内も、みんなだめだった。
 杉浦、伊藤、板東とつないだ全日本軍のピッチャーは、まるでフリーバッティングみたいに打たれた。最後に出てきた金田が、メイズを三球三振に切って取ったのがせめてもの慰めだった。十一対一。十一点のうち、九本がソロホームランだった。花火みたいに毎回まんべんなく打ち上げられるホームランの華々しさに、オールジャパンの一点はどうやって取ったのか忘れてしまった。大学生と小学生という小山田さんの喩えは、ちっとも大げさでなかった。
「すごいなあ。やっぱりベーブ・ルースの国だね。小さな選手まで簡単にホームランを打っちゃう」
「野球は身長じゃないってことだろ。がんばれよ、小さな大打者」
 クマさんが私の肩に腕を回してギュッと抱き締めた。


         四十八

 何日か雨がつづいたあと、とつぜん寒くなった。朝起きて玄関に出ると、シロが丸くなって戸口で寝ている。足音を聞きつけてうれしそうに跳ね起き、胸に飛びついてきた。ひんやり湿った空気を吸う。昨夜から降りつづいていた風まじりの細かい雨が、すっかり上がっている。表の水道で歯を磨き、食堂へ向かう。庭の笹の茂みのあいだから薄紫のマツムシ草が頭を覗かせている。
 リサちゃんと分団の先頭に立つころには、深い青空になった。道の上に電信柱や木の影が濃く伸びている。三学期から、学生服の下にユニフォームを着こんで登校することにした。放課後の着替えの面倒をなくすためだ。着ぶくれた格好のまま朝礼の列に並び、授業もそれで一日通している。文句を言う先生はいない。ただ、むくむくとふくらんだ格好を見て忍び笑いをする生徒たちの声がときどき聞こえてくる。桑子も康男もニヤニヤしながら眺めている。
 木田ッサーが近づいてきて言った。
「口惜しいがや。神無月くんが格好悪く見られるの」
 康男がすぐ木田をたしなめた。
「神無月のやることは全部おもしれえで。わからんのか」
 校長先生の朝の挨拶が終わり、指揮棒を持った女の先生が演壇に昇った。生徒会長の井上が高らかに校歌斉唱の掛け声をあげる。スピーカーから伴奏が流れ出た。レコードをかけたのは加藤雅江だろう。

  朝日のひかり 窓にさし
  見かわす顔も はればれと
  今日も学校 千年の子 今日も学校 千年の子
  鶴のつばさに 夢のせて

  南はるかな 伊勢の海
  潮風あびて たくましく
  ともに運動 千年の子 ともに運動 千年の子
  鶴のつばさに 夢のせて

  富士の白雪 けがれなく
  まことの道を ひたすらに
  あすも勉強 千年の子 あすも勉強 千年の子
  鶴のつばさに 夢のせて

 いつものとおり長々しく三番まで唄い終えると、音楽教師と入れ替わりに校長先生が演壇に上がり、地肌の透けた白髪をきらきらさせながら、家庭での手伝いについてひとくさり訓辞を述べた。それから、背中をまっすぐにして言った。
「きょうは特別な発表があります。名古屋市の絵画コンクールで、わが校から金賞、銀賞の受賞者が、そろって出ました」
 ―金賞は横井くんだな。
 千年小学校には横井博文という図画の達人がいて、校内の写生大会でたいてい校内の一等賞になる。横井くんとは四年生のとき同じクラスだった。いまは何組にいるのかわからない。彼は大きな黒縁の眼鏡をかけた気難し屋で、少し角ばった下ぶくれの顔についているトロンとした目が、いつかテレビで見た山下清にそっくりだ。びっくりするくらい血色の悪い顔をしているので、眉と睫毛がいっそう赤茶けて見える。
 おととしの神宮写生大会で、横井くんが日当たりの悪い池のほとりでひとり静かに筆を動かしていたとき、私は後ろからそっと覗きこみ、細工のこまかい暗い色合いに驚いた。枝ぶりのいい樫の古木が池の岸に太い根を張り、幹の空洞や瘤や、梢に繁るたくさんの葉を青黒い水面に映していた。鏡のような水面に朽ち葉が重なり合って浮いている。大きな鯉が描きこまれていて、枯葉の下のよどんだ水の中でぼんやりとした赤い斑点がゆっくりと動いているのがわかる。粘土みたいに冷たそうな池は生い茂る葉の色を深く吸って、まるでみどりの漆で磨きあげたお盆のように見えた。
「すごいね!」
 横井くんはうるさそうに振り返り、茶色い睫毛を神経質にわななかせた。
「すごいよ、横井くん」
 彼は何も言わずに、腫れぼったいまぶたを水面へ戻した。自分だけの世界に戻っていくという感じだった。
「神無月郷くん、横井博文くん、前へ」
 一瞬私は返事ができなかった。自分の名前が呼ばれたことはわかったけれども、呼ばれた意味を理解できなかった。
「神無月郷くん、横井博文くん!」
「はい……」
 横井くんがのろのろ演壇の前に歩み出た。すでに校長先生は賞状を手に、二人を待ちかまえている。私もあわてて列から飛び出した。演壇に向かって小走りに進む。寒雀みたいにふくれた私を見て、校長先生は一瞬ギョッとした顔つきになった。
「金賞、神無月郷くん、前へ!」
 私はおどおど演壇の前まで進み出ると、慣れない感じで一礼した。校長先生が何やら読み上げる。私は夢中で両手を差し出し、賞状を受け取った。後ろから忍び笑いの声が聞こえてくる。
「銀賞、横井博文くん」
 横井くんも同じ作法で賞状を受け取った。
「神無月くんと横井くんの作品は、今月いっぱい栄の松坂屋に展示されます。みんなで見にいってあげてください」
 高橋弓子たちの声が聞こえた。
「なんで神無月くんなの?」
 ほんとに高橋弓子の言うとおりだった。横井くんだって、どんなに口惜しい思いをしているだろう。
 夏休みの課題として九月に私が提出した絵は、じつに不真面目なものだった。
「いい絵は、市のコンクールに出品する」
 夏休み前に桑子が言っていたのは憶えている。
 八月の末にサイドさんのところから戻った私は、あわてて宿題に取りかかった。工作のアイデアがまったく浮かばなかったので、図画に切り換えた。図画ならアイデアなどいらないし、手間がかからない。
 新幹線の高架橋の下へいって、鉄骨をかついだ土方の姿を描いた。最初のうちは真剣に鉛筆で輪郭をとり、きちんと色を塗っていった。そのうちズボンの縁取りをしていた絵具が、手直しのきかないほど輪郭からはみ出し、ニッカボッカの太い脚がジャンプするみたいに大きく一直線に開いて、おまけに絵の具が混ざって小汚く滲んでしまった。
「失敗だ。何時間もかけたのに」
 私はヤケになって、大きく開いた両脚の下に楕円の水溜りらしきものをぐしゃぐしゃと描きこみ、それを土方が跳び越えようとする格好にした。水色を塗ったつもりなのに、その水溜まりはほかの色と混ざり合って、不気味な黄土色になってしまった。いかにも杜撰な感じの絵で、画用紙の裏に『雨上がりの土方』と適当な題名を書きこんだときには、提出をあきらめた工作と合わせて、まちがいなく桑子に叱られるだろうと確信していた。
 列に戻った横井くんの横顔をチラリと見ると、何のこだわりもない、いつものぼんやりした表情で前方を見ていた。まだくすくす笑っている声めがけて、
「てめえら、うるせえんだよ!」
 康男が怒鳴り声が飛んだ。
 その一日、私は教室にいても落ち着かず、罪悪感さえ覚えて、野球部の練習のときも不安な気分でいた。
「金賞なんてふざけてるよ。選ぶ人っていいかげんだね」
 晩飯どきに、食堂でクマさんに報告したら、
「なんだ? 今度は絵か」
 不二家のポコちゃんのように黒目をくるくる回した。母は信じられないような顔つきで社員たちの表情を覗い、
「おまえに、絵心なんかありっこないのにね」
 と、吐き捨てるように言った。
「だめだ、おばさん、そんな意地悪なこと言っちゃ。キョウは何だってできる子なんだ。もういいかげん、トンビが鷹を産んだって認めたほうがいいぜ」
「私は、トンビですか」
「もののたとえだよ。俺はキョウを褒めたいだけだ」
「そうだ、キョウちゃんは文字どおり、掃き溜めにツルだ。今度は絵の具を買ってやらんといかんな」
 小山田さんがクマさんに加勢した。カズちゃんがにっこり笑って、私の手を握った。
「絵の具なんかいらないよ。あんな汚い絵でいいんだったら、ちびたやつでじゅうぶんさ」
 吉冨さんがきつい顔で、
「自分を小さく言わないほうがいい。子供は素直に喜べばいいんだ。どこか見どころがあるから選ばれたわけだからね。その絵は展示されてるの?」
「うん。松坂屋」
 クマさんは、ホウ、と顎を突き出し、
「栄か。所長の用事のないとき、車でいっしょに見にいこう。ついでに、テレビ塔でも見物してくるか」
「この子のこととなると、みなさん、いちいち大騒ぎするんですね」
「大騒ぎしないほうがおかしいでしょ。ホームラン王に金賞。親として、踊りだしたくありませんか。キョウちゃんはあなたのライバルじゃないんだから、嫉妬もいいかげんなところで手を打たないと」
「吉冨、やめとけ。何を言ってもむだだ」
「熊沢さん、私も連れてって」
「よしきた」
「カズちゃん、俺の代わりに見てきてよ。俺はじつは見たくない。野球以外のキョウちゃんの才能には興味ないんだ」
「俺は見てくるよ。キョウちゃんのことは、ぜんぶ見ておきたいからな」
 小山田さんが言った。
 同じ週の日曜日、さっそくクマさんはクラウンに私と小山田さんとカズちゃんを乗せて、はるばる栄町までドライブをした。私は助手席にカズちゃんといっしょに座り、小山田さんは後部座席に一人で座った。車の中には香水のようなにおいがただよっていて、乗り心地もダンプカーやバスよりずっとよかった。
「これ、カズちゃんのにおい?」
「私は香水つけないわ」
「所長のオーデコロンが染みついてるんだ」
「男のくせに、いやな感じ」
 小山田さんが声をあげて笑った。
「自家用車って、ふかふかしてて気持ちいいな」
「それだけじゃないぞ。エンジンのスタミナもある。高速道路を使えば、北海道だって九州だって、どこへでも一日でいっちまう」
「栄までは?」
「四、五十分だな。信号が多いから」
 両手離しこそしなかったけれど、クマさんはダンプカーのときと同じように面白おかしいことを言いながら、片手ハンドルでスイスイ飛ばしていった。でも、市電やほかの自動車が混雑している街中に出ると、おどけた表情をおさめ、しっかりと両手でハンドルを握った。柳橋の信号で止まったとき、ビルの切れ間にテレビ塔が見えた。
「テレビ塔にいくの? クマさん」
 クマさんはなぜか上の空のような返事をした。そしてフロントガラスを見つめながら遠慮がちに言った。
「……おばさんにも困ったもんだな」
 カズちゃんが、
「教育ママでもないし……キョウちゃんに何を望んでるのかわからない」
「そういう型どおりの理屈じゃ考えられない人間だ。吉冨の言ったとおり、嫉妬してるんだよ。とにかくキョウちゃんの行く手をじゃましたいんだな」
「そんな親ってあるかしら」
「あるんだよ、大学時代の心理学でやったことがある。子供が成功しそうになると止めたくなる親ってやつだ」
 クマさんがハンドルをいじりながら、
「俺たちが、その妨害をなんとか食い止めてやる。とにかく、よそ見をしないで一生懸命野球をやれ。嫉妬もあるかもしれんが、たぶん、キョウを別れたオヤジの生まれ変わりだと思ってんだろう。憎いんだな」
「嫉妬と憎しみが雑ざっちゃったら、手がつけられないわね」
「家父長的な統一感というんだ。親の社会的立場が第一、子供はそれを飾る道具だ。息子を社会的に失敗させたくないんだろう。芸能やスポーツは賤民のやることと思ってるから、おばさんの社会には含まれない」
「なんだか怖い。キョウちゃん、どうなっちゃうのかしら」
 クマさんがバンッとハンドルを叩き、
「どうもさせるもんか! そんな勝手は許さねえよ」
「キョウちゃんのオヤジはデキのいい、型破りな野郎で、それが玉にキズで人生をややこしくしちまったんじゃないのか。おばさんはそいつの生活に付き合わされて、口じゃ言えないほど辛い経験をしたんだろう。なんてったって彼女は凡人だからな。キョウちゃんが少しずつオヤジに似てくる、するとおばさんはむかしのことを思い出す。チクショウってわけだ。意地の悪い気持ちにもなるんだろう。しかし、そんなことは彼女の勝手で、子供の幸福を奪っていいって理屈にはならない」
「そりゃそうさ。オヤジだって、ここまでの才能はなかったろう。だいじょうぶだ、俺たちが守ってやる」
 私はみんなの気遣いをうれしく思ったけれど、中日球場を見上げたときと同じようにさびしいきもちになった。野球をやれないかぎり、どんなかばい立ても無力なのだ。

         

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